0日目 15時35分

 

 退屈だった。ひどくひどく、退屈だった。


 枕元で鳴り響く電子音にせっつかれては目を覚まし、小煩い両親にせっつかれては朝食を掻き込む。黒板をこすりあげるチョークの音にせっつかれてはノートにペンを走らせ、耳をつんざくような大音量のチャイムにせっつかれては鞄を背負って帰路に就く。


 退屈で退屈で、身が捩きれてしまいそうな、日々はいつだってそんな感覚に満ちていた。

 だからこそ、思いもしなかった。考えもしなかった。退屈な日々がどれだけ貴重で、退屈な日々がどれだけありがたいもので、そして退屈な日々がどれだけ、儚いものであるのかなんて。


 1月の半ばのことだった。学校指定の制服を安物のコートで乱雑に包み、僕は国道沿いを歩いていた。

 西日の差し込む見慣れた道は人気ひとけに満ち、その光景が胸に満ちる厭世観えんせいかんに一層拍車を掛けていた。新宿方面から南へと続く車道の端の端。都心に割拠するコンクリートの校舎を飛び出し20分。ゆっくりと両足を交差させながら、僕は気怠げに家路を歩んでいた。


 十数分前、コンクリートに砂粒をばら撒いたような校庭を、必死に走って駆け抜けた。退屈な日々の象徴とも言える学舎まなびやに身を置いていることに、何だか耐えようもない嫌悪感を感じたためだった。

 だけどその行為は、結局のところ悪あがきに過ぎなかった。見慣れた帰路も住み慣れた自宅も退屈であることに変わりはなく、だからこそ学校を出たところで心は少しも晴れなかった。

 退屈な場所から、別の退屈な場所へと身を移しただけ。巨大な檻の中にある、小さな檻から這い出ただけ。進む先にはまた別の、小さな檻が待ち構えている。


 退屈。退屈。退屈退屈退屈退屈。

 視界を埋め尽くす退屈の2文字を掻き分けながら街道を往く。指先に触れるその文字の角は尖っていて、爪と皮膚との間に入り込もうとしては、時折小さな痛みをもたらす。落とした視線の先にはネイビーのスニーカー。一歩を踏み出すたびに揺れる靴紐に、何故だか胸がざわめく。


「靴紐......」


 呟き、鞄を背負い直して脇道に入る。年季の入った汚らしい建物と、くすんだ看板を掲げたコンビにと間にある暗い脇道。人通りが減じ、耳朶を打ち続けていた車両の走行音が遠ざかる。ぴしりぴしりとスニーカーの布地を叩く汚れた靴紐が、思考のその背をくすぐり続ける。記憶のその背をくすぐり続ける。


「ああ……。凍子とうこさんか」


 脳の奥からじわりと染み出すように浮かび上がった面影。思わず唇が動く。

 紐の通し方がおかしかったせいで、馬鹿みたいに余っていた彼女の靴紐。長すぎて鬱陶しいと、自分の間違いに気付かずメーカーへの愚痴を零していたのを覚えている。


幸也ゆきや君はさ、もっと自信持った方がいいよ。いつも俯いてるせいで、すごく損してる気がする」


 1年と少し前のこと。寂れた校舎の寂れた下駄箱から不格好な靴を取り出しながら、鶇屋つぐみや凍子はそんな風に言った。端整な顔には期待感のような或いは諦観のような、不思議な表情が浮かんでいた気がする。


「昔からそうだった? 実は小さい頃は、元気一杯の自信家だったり」


 出会ってまだ1週間。真っ黒な瞳を上へ下へと動かしながら、真っ黒な髪を右へ左へと揺らしながら、決して愉快ではない質問を投げ掛けてきた美しい人。僕より1学年上の、当時高校3年生。優しくて健やかで、だけど少し遠慮の足りない、彼女はそんな女性だった。


 頭脳明晰。明眸皓歯めいぼうこうし。何の取り得もない僕のような男と、どうして彼女が親しくなったのか。桜舞い散る3月の終わり。卒業証書の差し込まれた筒を小脇に抱え、明るく笑った彼女が手を振って僕の前を去ったその瞬間まで、とうとう分かりやしなかった。

 下駄箱で突然話し掛けられ、廊下で顔を合わせれば挨拶を交わすようになった。たった一度だけ昼食を共にし、それから少しして、数日置きに下校をともにするようになった。そうしてほんの少しだけ彼女のことが理解できたと感じたとき、もう卒業の日は目の前に迫っていた。


 たった2ヵ月。友人と呼べたかどうかすら怪しい、ひどく浅い付き合い。それでも時折こうして思い出してしまうのは、彼女とともに過ごす時間が、退屈とは無縁の奇異なものだったから。彼女の言葉を耳にしている時間が、不思議に落ち着ける穏やかなものだったから。理由も仕組みも何一つ分からない、それでも僕にとって何よりの、それは楽しい時間だったから。


 だけどそんな時間はもう戻らない。掌から零れ落ちたささやかな幸福は、もう戻ってなんかこない。彼女は今頃どこかの大学で、有り触れたキャンパスライフを満喫しているはず。気まぐれにからかってみただけの影の薄い下級生のことなんて、きっと記憶の隅にも残しちゃいない。

 そんなものだ。いつだって誰だってそんなもの。期待はできないし、しようとも思わない。1年以上も何の連絡もないのがその証拠。1ヵ月前勇気を振り絞って掛けた電話に、無機質な機械音声が応じたのがその証拠。だから期待しない。僕は、自分の分ってやつを弁えている。


 揺れる靴紐から視線を外し、ため息と共に顔を上げる。美しい彼女の笑顔を頭の中から押し出して、馬鹿みたいな敗北感と共に顔を上げる。


「ああ……」


 吐息混じりの声を漏らし、僕は嗤う。どうしようもない目の前の光景。記憶の中の彼女と言葉を交わしていたせいで気が付かなかった現実。視界に迫る鉄塊。彼女の瞳のように髪のように、真っ黒な巨大な長方形。唸り声に似た走行音を周囲に撒き散らしながら僕へと突っ込んでくる暴力の形。大型のトラック。


 良くもこんな狭い脇道へと入り込んできたもんだ。


 最期に脳裏に浮かんだのは、そんなくだらない言葉だった。

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