第18話 キャッチボール

「ウォオオっ、ウォっ! ウォアアッッ!」

 けたたましい警報音が校舎に轟いている中、俺は必死に降魔から逃げていた。

 降魔ごうま、かつて日本に突如として出現した脅威。

 降魔はその超人的な能力で日本を支配下に置こうと跳梁跋扈していた。

 俺は現在その降魔の“一人”から付け狙われ、三十六計逃げるに如かずを発動中。

 ――死ネ。

 死んで堪るか、俺には、俺には命よりも大切な娘達がいるのだから。


 昨晩、例の高級料亭で舌を肥やしていた俺がどうしてこの様な現状に陥ってしまったのか、簡潔に語るとしよう。


 あの後、エロハゲこと学園長の鹿野マサムネがモモノにセクハラを働くことはなかった。

 それは偏に、あの会食の席に居た小父さんの娘であるカノンの功績だ。


 ――父さんは実の娘と同じくらい、年の離れた女性に手を出すつもりなのか?


 カノンからこう言われたエロハゲは途端に目を泳がせて、動揺を隠せない様子で居た。

 同じ父親の立場にある俺になら分かる、あの時のエロハゲの心中が手に取れる。

「じゃあ死馬教官、東雲教官、今日はご馳走様でした」

「火疋ぃ澪っ、どうだ、もしもこの後で特段用事がなければ私と二人きりで」

 酷い有様だ、と思えたのは死馬教官の隣で泥酔し切った東雲教官を窺っての感想。


 楽しく夢見心地な会席は終幕し、

 死馬教官の運転でホウレン荘まで送ってもらえれば、外はもう真っ暗だ。

 楽しい時間と言うのはあっという間に過ぎることを痛感する今日この頃、


 ――俺は、今年で四十三になる死馬教官から強引に唇を奪われていた。


「んっー! ん! んん……っ!」

「んむぅぁんっ。ではな、おやすみ火疋ぃ澪っ」

 あの人、最後の最後に一体何をしてくれやがりますかっ、うぅぅ。


 今は彼女の紫色の口紅で滅茶苦茶になった唇を、洗面所で洗っている所だ。

 無理やり奪われた口付けというものは、精神的に堪えるものがあるぞ。

「……本当に、シンドイな」

「疲れてるところ申し訳ないんだがな」

 ――っ! な、何だ、例の“あの人”かと思えばモモノじゃないか。

「驚かせるなよ」

 そう言えば、彼女も彼女で今日はエロハゲからくどくされて、俺と同じだな。

 モモノはあからさまなため息を吐き、俺は「お疲れさま」と声を掛けた。


「父さん、例の仕事に少しでも取り組んで欲しい。そうすれば……私は父さんに何と言ったか覚えてるか?」

「あぁ一応、例の仕事をやり遂げれば俺に永久的な富と名誉と、」

 ――娘達との幸福な時間が手に入る。

 まるで夢の様な話しだ、これが娘からの打診でなければ詐欺だと疑うぐらい。


 あの時の小父さんもそうだったけど、父親は娘に弱いからな。


 モモノから託された仕事と言うのは、彼女が地盤を築き、創り上げた『モモノ理論』の開発強化に着手するというものだった。モモノ理論を体得すれば不肖の父こと火疋澪にも、先見の明が持てるようになれる。


 そうすれば、目前に居る優美な白髪の娘、モモノのように俺は莫大な富を築ける。

「十中八九、お前は早々に壁に突き当たるだろう。その時はその時で私の所に来てくれればいい」

「あぁ分かった……と言うよりも、分かりましたモモノ先生」

 俺と『零の令嬢』は都度に父と娘の関係性が破綻する。

 それは主に彼女達の都合によってだ。

 その時の俺は一転して彼女達に敬語を取る羽目になる。

「ではな、まずは今期の中間テストを頑張ってくれ」

「……」

 中間テストとか、どうでもいいや。


 退魔学結界術科では主に暗記科目がテストに出される。

 結界術に使用する詠唱呪文を筆記、リスニング形式で答えないとならない。

 中間テストで出される例題の一つだと、10万字オーバーの超々長詠唱呪文だ。

 クラスのエリート連中は山を張ることはない、何故ならば彼等はエリートだから。

 

 ふと、エリートの一人が妙なことを言っていたのを思い出した。

 ――うん、火疋くんはきっと落第するだろうね。

 その台詞に他のエリートは「そんなことないだろ」とフォローしてくれるのだが。

 ――いや、エリートなお前らなら、彼がどんなエリートか分かるだろ。

 彼は頑なに主張を崩さない、すると。

 

 ――じゃあ、火疋くん死ぬしかないじゃん。


「っ、夢か」

 はは、あのエリート達曰く俺は、義士類エリート。『義士』という言葉は『擬死』と掛けられており、死んだ振りでもしていろと、この役立たずと言った意味で使う皮肉だった。

 悪夢から醒めた今日、ホウレン荘の家事を全般的に受け持っている俺は律動的に朝食の準備を済ませる。

「マッズ」

「かっちーん、でも分かってた、そう言われるのは分かり切ってた」

 それでも失言には変わらず、キッパリとした物言いのチルル様には痺れる憧れる。

 無論、皮肉ですよと降魔スマイル。


「ふぅ」

 その後教室に向かって、エリート達から離れ独りテスト勉強をしている。

 思わず嘆息が出てしまうじゃないか、こんなのエリートのすることじゃない。

「……おっす」

 担任の東雲教官がやって来た、が明らかに具合が悪そうだ。

「すまん、昨夜は飲み過ぎてしまって、な……日直、後のことは任せた」

 そう言うと東雲教官は卒倒するようにして横たわった。

 擬音で表すと、日直、後のことは任せたズターン、みたいな。

 しかし担任が一身上の都合により倒れようとも、エリート達は動揺しない。

「では、エリートな日直である俺が今日は指揮を執るとしよう……火疋くん、君は東雲教官を介抱してやってくれ、くれぐれもエリートするんじゃないぞ」

「うぃーす」


 日直の指示に素直に従うしか、俺に出来ることはなさそうだ。

 それは何て惨めな状況なんだろうな。

 自分の無力さを嘆いても、現状が変わることないのは知っている。

「……」

「にしても、東雲教官は何でいつも妙なサングラス付けてるんですか」

 などと語り掛けても返事はない、どうやらただの屍のようだ。

 立端たっぱが取り柄の俺でも、東雲教官を担いで医務室に向かうのは何と言うか。


 何と言うか、ご褒美ですトゥフフ。

 だからなのか、教官に下心を出したがために罰でも当たったんじゃないか。

 その時はいきなり訪れた――ッ、っ、ッッッ。

 背負っていた東雲教官の体が突如として暴れはじめたのだ。

「……まずい、逃げろお前」

「教官、何がまずくて、どうして教官は」

 どうして、あくまで冷静なのだろうか?

 教官の落ち着きを払った声音に俺は何ら危機感を抱かず、

 言っても吐瀉ぐらいの「まずい」だと思っていた。


 暴れている影響によって教官のサングラスは外れ、

 東雲教官の素顔を見た俺は固唾を呑み込む。

「……――ク」

 教官は頭と右目を押えて微かに苦鳴を出していた。

「……火疋澪、お前は先祖返りというものを知っている、のか」

「……」

 先祖返り? そりゃえっと、えー……何となく知ってるけど、詳しくは知らない。

「何簡単な話しだ、先祖返りと呼ばれるものは」

 ――ワタシみたいな奴を指すのだが。


「稀にな、あるんだ。降魔の血を引き継いでいる東日本の人間は裡に眠る奴らを表に出してしまう……零の令嬢は降魔に対する最大の切り札だった、もとい、降魔に対する最高の生贄だったのだ」

「最高の生贄?」

 それに、“降魔の血を引き継いでいる東日本の人間は”、って言ったな、確かに。

「降魔に取って零の令嬢の血肉は持て余すことなく美味しいものだ、その逆に人間に取って零の令嬢の存在は何ら繋がりのない、言わば生贄として差し出すに何の怨恨も生じない有意義な者達だった」

 この言葉を以て、目前に居た東雲教官は彼女の姿を失った。


 そして校舎に聞いたことのない警報音が鳴り響いたかと思ったら。

 東雲教官が立っていた場所には黄金色の毛髪を携えた少女が佇んでいた。

「降魔の勇である私ことイザナミのご登場というわけ」

 彼女は自身を、降魔の勇、イザナミと呼び。

『厳戒態勢、厳戒態勢、現在校舎にて降魔の出現を確認。生徒各人は教師の指示に従い迅速な行動を取るように』

「……警報が鳴っているな、学園は私の来訪を歓迎してくれている」

 イザナミは禍々しい気配を発しながら、柔和的に語り掛けて来る。

 

 と言うことで、俺は本能的に彼女から逃げ出した訳だ。

 別に問題ないだろ? 無力な俺にはこうするしか活路がなかったんだから。

 逃げ惑う父親の背中を見て育て、娘達よ。

「ウォオオっ、ウォっ! ウォアアッッ!」

 目にも止まらない彼女の攻撃の手が、俺の後方の校舎を圧壊している。

 イザナミの狙いは明らかに俺だった、だが何故?

 俺が、零の令嬢の父親をやっているからに決まっている。


 ――火疋澪、お前は何のために奴らの父親で在り続ける?

  

 イザナミの声が頭に浸透する、視界に彼女の姿はない。

 察するに精神感応って奴か。

 せめて彼女の死角に入ろうと教室に身を隠した。

 ――死ネ。

「はぁ、はぁ……っ!」

 死んで堪るか、俺には、俺には命よりも大切な娘達がいるのだから。

「命、よりも、大切ってアレ……いやいや、死ねん、死ねないよでも、命よりも大切なんだから」

 絶体絶命の危機的な状況に、思考は混乱している。

 窮鼠猫を噛む、とは言うが、言うけどさ……!

(ヒイロ、マリー、チルル、モモノ)

 俺は身体を震わせながら、娘達を思い、希望を見出していた。


 思うとは、ある種の希望だ。

 思うとは、せめてもの救いだ。

 人を思いやることとは、人を愛することだ。

 これで、娘達を思いながら死ねる。

 俺は何て幸せ者だったんだろう。

 

 ――まったく羨ましい限りだ、私もお前を父親に持ちたかったと……思う。

 イザナミは尚も俺に精神感応を使って語り掛けて来る。

「いいだろう、俺がお前の親に立候補してやるよ」

 駆け引きの一環で、彼女にそう打診してみた。するとイザナミは嬌声交じりに、


 ――それも悪くない、なら、お前の娘達を贄として私に差し出せ。

「冗談言うな」

 本当に、冗談だろ。

(ヒイロを、マリーを、チルルを)

 そして、モモノを……娘を生贄として差し出すか。

 それにどれ程の思いが込められている。

「……どうして降魔は特に零の令嬢を欲するんだ?」

 そう言えば、先程から彼女の攻撃の手が止んでいた。


 この沈黙の間は、強烈なまでに、俺に凶兆を示している。

 こう、次の瞬間、振り向いたらそこには、

「火疋」

 イザナミが居て、一巻の終わりだった、みたいな。


「っ……! ってこの声はモモノ先生」

「降魔だと思ったのか? まったく、父さんはチルルに似て阿呆だな」

「いや、まぁそれは置いといて」

「案ずるな、降魔『イザナミ』だったら私の秘蔵子、トールハンマーをお見舞いしている所だ」

 モモノは焦る俺の双眸を覗き込みながら右手で窓の向こうを指していた。


 案ずるな、と言う彼女の力強い言葉に促されて、指差す方を凝視すれば。

(何だアレは、隕石?)

 其れは灼熱の茜を纏い、東の空から一つの筋道を辿って地上に降り注ぐ。

「アレの名はトールハンマー、上空三万五千キロの静止軌道上にある特殊衛星から射出される私専用の『大砲』だ。発射から着弾までに要する時間は凡そ二十四時間。だからな、トールハンマーは私が創造した『モモノ理論』を以て射弾観測を可能とし、ようやく完成と言えるんだ」

 モモノが言い淀むことなくトールハンマーの概要を説明すると、――――。

 校舎に衝撃波が押し寄せ、窓ガラスが扇がれていた。 


「では、着弾ポイントに向かうぞ火疋」

「え?」

「早く、あの一撃だけでイザナミは朽ちたりしないとモモノ理論で導き出された」

「え、いや、それは、うん」

 モモノ理論――俺の娘、モモノ先生がその昔創造した未来予測を可能にする一つのプログラムコードのことだ。俺は未来予測なる先見の明など持っていないから、モモノの言葉の真偽が判断出来ない。


 ってか、状況把握が追い付かない。

 確かイザナミは俺を付け狙い、攻撃を加えていたはずなのだが。

 トールハンマーの着弾ポイントは学校から随分と離れた所にある。

 何故? Why? どうして? Why? 

 俺の頭には沢山の疑問、ハテナマークが浮かんでいた。  

「自分を狙っていたはずのイザナミがどうしてあらぬ方向に居たか、不思議でしょうがないって顔だな」

 首肯首肯、俺はモモノの言葉に二度頷いた。 

 今はモモノが運転する車の助手席に座り、トールハンマーが落ちた場所へと向かっている。

「降魔イザナミの狙いは、っ初めから父さんじゃあなかった、ただそれだけのことだ」

 じゃあ。


「じゃあイザナミの狙いは一体」

「――天子『天照大御神あまてらすおおみかみ』様、この人のことは分かるか? イザナミの狙いは天子様だ」

 天子様……?

 俺はこの世界のこととなると、本当に無知蒙昧が露呈されるもんなんだな。

 東日本には国民が天子と称える『天照大御神』が存命し、治安している。

 イザナミは何のために天子様を狙うのかとモモノに訊けば、

「さぁな、そこら辺に付いては私にも分からない。ある程度の想像は付くが」

 その言い様なら、俺にも予測付く。


 イザナミが天子様を狙う理由は――私怨、なんだろうな。

 

 それから四十分後、トールハンマーが着弾したポイントに辿り着いた。

 そこは常士学園より北西に約四十キロ離れた公園だ。

 トールハンマーの砲弾は全長十メートルはあろうか。

 焼け焦げた滑り台、ひしゃげたブランコに鉄棒、破損したアスレチック。

 巨躯の砲弾が平和の象徴とも呼べる場所を、破壊し尽くしていた。

「ふぅ、この落とし前をどう付けてくれるんだろな」

「さぁ」

 ――居た。

 砲弾の周辺を窺うと、イザナミは焼け焦げた遊具の傍らで伏していた。


「どうすればいいんだモモノ?」

「私の与り知る所じゃないな、だが、火疋はイザナミの父親になると宣言していた」

 言うなり、モモノは上着の内ポケットからあるカプセルケースを取り出した。

「もしも彼女を葬りたいのなら、これを投与すればいい」

 イザナミの息の根を止めるなら毒殺しろ、ってことか……。

 彼女の母体はきっと東雲教官だ、降魔を処分すると言ってもこれは、

 これは紛れもない殺人になるだろうな。


「導き出された未来を変えるか、それともお前は零の令嬢の許から姿を消すかだ」

「……この選択に、その二つの未来が懸かってるんですね」

 ――俺は、思う愛そう

 ヒイロを、マリーを、チルルを、モモノを思う。

 降魔イザナミを生かしておけばこの先、どんな災禍が起こるか分からない。

 俺は英雄になるつもりはないけれど、彼女達を思えば。


 きっと、イザナミを殺す勇気が持てるだろう。

 俺の思いで、貴方を殺す――。


「……イザナミ、貴方の心中を私に忖度すること、許してくれるのなら、貴方は酷く傲慢なまま最期を迎えたんだな。しかし傲慢と言えど一概に蔑むものではない。この世の中、貴方みたいに不運に遭い、そして人生が狂う人間は存外多いものだ。貴方は愛する人が創ったこの国を怨み、その後何とするか自分自身すら決めかねているんじゃないか?」

 俺はモモノから託された薬を口に含み、――彼女に移す前に飲み込んでしまった。

「……――」

 今は死の前兆から、焦燥感に駆られ喉に手を突っ込み、必死に薬を吐き出そうと試みている馬鹿な俺、ハハ。

 俺の胃がっ、この薬を消化する前にっ、何とかっ、何とか吐き出せぇぇぇ~!


「何を、っしている火疋澪」

 俺が自身の不手際から死亡フラグを立たせていた時、イザナミは目を覚まし、俺の腹部にワンパン入れれば。

「ウボアァ」

 毒薬は胃液と共に吐き出され、俺は九死に一生を得ました、びくんびくん。


「さすがは降魔、トールハンマーの一撃を喰らっても生き延びる生命力だけは特筆に値するな」

 イザナミはモモノの言葉を聞いていないのか、

 俺の胃液を嗅いで「くさい」と言い残すだけで、その場から動こうとしなかった。

「だがイザナミと言えど力を使い果たしたみたいだな」

「……極限状態に陥り、思わぬ副産物を拾ったものの、体は倦怠感に押し潰されて言うことを利いてくれそうにない」

「副産物とは?」

 苦痛から悶絶している俺の横で、二人は勝手に話しを進めている。

 もう、好きにしてちょ。


 * * *


 シュールな絵面だ……今俺は娘、モモノの運転で学園に帰還している。のだが、

 俺の格好は諸事情からパンツ一丁だった。

「……なぁ」

 では、俺の意識と健康状態が回復して来たことだし、話しを元に戻すとしよう。

 俺は結局、

「結局、俺は彼女を殺せなかったけど、その場合どうなるんだ?」

「問題ない――なるようになるだろ」

「そっか」

 モモノの声音に覇気は籠ってなかった。


 察するに、今回の件で進んだ展開は『モモノ理論』を以ても予測出来なかったのだろう。なら彼女が結論付けた『火疋澪はいずれ零の令嬢の許から消え去る』、と言う未来は破綻したはずだから、俺としては胸を撫で下ろしている。


「などと、父さんが思ってなければ是幸いなんだがな」

「お願いします、頼みます、以後俺の心を読まないでください」

 トールハンマーの直撃を受けても生き延びた降魔、イザナミは駆けつけた軍人達に連れて行かれた。その際、東雲教官と体を共有していたイザナミは生死の臨界点で死力を尽くした所、彼女と肉体が剥離した。

 イザナミが口にした「副産物」とはこのことだった。

 俺がパンツ一丁なのは気が付いた東雲教官に衣服を鹵獲されたためだ。

 東雲教官は「責任を取れ、脱げ……よし」と言っていたな。


「やはり、他よりも幾分か精神が老成した父さんでも、女体には靡くものか」

「俺はどうすればいい、モモノ先生だったら今後の指針ぐらい提案出来るでしょ」

「お前には元居た世界、帰るべき場所がある。なら」

 なら?

「この世界に嫌気が差し、懲りるまで居続けたらいいんじゃないか」

「……」

 娘のモモノが運転する車は一度縦に揺れる。何かを踏みつけたんだろう。

 娘は「この世界に嫌気が差すまで居続ければいい」と言ってくれた。

 きっと、恐らくそんな日はやって来ないだろうなと、俺は嘯く。


「帰ったら、俺と少し遊ばないか」

「別に構わない、締め切りには無事間に合ったしな」

 これは俺が自発的に張った伏線、いや予防線なんじゃないかな。

 俺は娘達を愛しているから、どこにも行きやしない、この思いが。

 この思いが、この先何が遭っても揺るがないように――


「確かにあの時はあぁ言ったが、よりにもよってキャッチボールなんて原始的な」

 モモノは現在、新たな締め切りに追われている最中だった。

 人気作家ともなると人生を忙殺されるもんなんだな。

 今俺は彼女をちょっと憐れんでいる、当然羨ましい気持ちも無きにしも非ずだ。

 俺はそんな多忙な彼女と、ホウレン荘の通りに出て、キャッチボールを始めた。

「で、父さんに託したモモノ理論の開発は順調なのか?」

「――ナイスピー」

 俺の目から見て、モモノは明らかに運動不足だと思う。

 なのにモモノの投げ込みは強烈な球威で、左手は痛みから少し麻痺している。

 ――1回、――2回、――3回、っだから左手痛いんだってばよ!


「頼む、ちょっと浮き球にしてくれ、でないと手がもたない」

「……モモノ理論の開発は順調か?」

「いいや」

 モモノは捕球すると、幽邃な碧空を見詰め。

「思えば、モモノ理論の着想は今と同じくキャッチボールから得たものだった」

「ふーん」

「私の幼い頃は、一人キャッチボールをずっとしている内向的な子供だったからな」

 幼少の一頃を馳せ、彼女は感傷的な眼差しを白雲に向けていた。

 彼女が語る当時の映像が、俺に伝わって来る。

 モモノが友達を作れず、輪から外れる状況が何となく分かってしまうと言うか。

 悪い子ではないと思うんだけどな。


「夢、とか、その時持ってなかったのか?」

「夢か……」

 彼女に当時の夢を問うと、モモノは俺を一瞥してボールを空高く抛った。

「存外くだらないものだったんじゃないかな、空に投げたボールがどこまで飛んでいくかとか、私の父さんや母さんはいつになったら迎えに来てくれるんだろう、とかな」

「……ならっ」

 当時の彼女が投げた夢を、父親である俺はちゃんと受け取ったわけだ。

「だろ」

「父親だからと言って、良い顔し過ぎなんじゃないか。お前は娘以外には性格が悪すぎると職員室で持ち切りだぞ。そのせいで死馬先生は私の前で年甲斐もなく泣き、東雲先生はヤな無言を保ちながら私の席に居るし、そして覚えているかドゥエス先生のことを、彼女は火疋澪の悪評を耳にして今一度しごくつもりでいると真剣な顔をして私に文句を付けて来たぞ」

「折角良い雰囲気だったのにっ、そんなん聞いたらテンション下がるわッ!」


 それとも、彼女は俺の台詞にこそばゆい気持ちになって、茶化しているのか?

 俺は娘と、空に上がったボールを目で追って、互いにその頃を思い描いていた。

 考えるに、『思う』とは、子の夢だ。


「……ふーむ」

 イザナミを退しりぞけた後、俺は自室に戻り、パソコンに『モモノ理論』をインストしたのだが。モモノ理論が弾き出した未来は以上のような微笑ましいキャッチボールの様子だった。

「いぃじゃない、これは……俺の理想の未来だ」

 何て、俺はこの先待ち受けている展開を軽視して。

 今はただ、娘とのキャッチボールを楽しみにし、心を躍らせて、

 未来を、思っていた。


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