第28話 愛娘は何処かへ消えました

 妻のお腹に宿った命が、娘であるのはエコーで判っていた。

 そしたら俺は心の底から歓喜し、声を上げて笑ったよ。

 彼女が出来るまで久しく笑っていなかったな。

「お世話になりました」

 お産を無事に終え、今までお世話になった人達に拙い挨拶を残して、家内共々病院を後にした。


 けど隣に居るのは家内の皮を被っているイザナミ、降魔ごうまの彼女だった。 

 以前も遭ったことだ。

 目の前に居た東雲教官が突如としてイザナミに体を乗っ取られたことが遭った。

「……そんなに娘が大事か? お前の奥さんが可哀想だな」

 イザナミに娘を拐されないように細心の注意を払い、俺は娘を篤く抱いている。

「君はこの子に乳をあげられるのか?」

「あぁ」

 やけに、優しい声音で応えるものだ。

 これがイザナミの慈愛なのか。


 帰路の道中はそんなことを考えながらこめかみを指で突き、愛娘を見やり気持ちを整理していた。

「お帰りミオ、これがお前の娘か」

「カノン、俺の家に無断で上がるなよ」

 家に着くと、幼馴染のカノンが仕事をさぼって待機しているし。

 察するに、俺の娘をダシに使ってまで仕事を休む口実が欲しかったんだろ。

「……可愛いな」

「それ以外に感想がないのか?」

「早速親バカ発言頂きました。何だよ、したらお前に似なくて良かったなとかか?」

「……確かに、俺に似なくて良かったよ」

 娘の髪の毛は黄金に発色して、瞳はイザナミのように深い藍色をしている。


「で、名前は何て言うんだ」


 カノンの野暮ったい台詞を受けて、俺は再度こめかみを指で突いた。

 この子の出生届はまだ猶予があるし、

 名前はこの子の顔貌を見てから決めようと思っていたんだけど。

 カノンは家内の身に起こった異変に気が付いてない様子だ。

「イザナミ」

 俺はカノンの目の前でわざと彼女の名を呼んでみた。 

 

「何か? 言っとくが、この子の名前はもう既に私が決めてあるんだからな」

 ――名は体を表す。

 ――名は命運を担う。

 ――名は子に託す祈り。

「それが私の持論だからな、命名権だけは譲れないよ」

「……何て名前にするんだ?」

「お前には教えたくない」

 ふざ、ける――いかん、娘の前で怒ってはいけない。

 幸いにもイザナミは娘に慈母のように優しく接している。


 何を思ってか、その光景を窺っていたカノンが唐突に涙を流し始めた。

 どうして泣いてるんだよと尋ねれば。

「いや、この子もいずれ俺みたいな悪い男に引っかかるのかと思うと、過去の俺の失態やら失言に、後悔しようにも臍を噛めないんだよな。だから俺は泣いてるんだ」

 カノンは慙愧の念に堪え切れず泣く。

 俺が対峙している問題と比べれば、随分「くだらねー」かったです。


「――すまない靖田、モリさん、カスガさん」

「こんな記念日に懺悔みたく元カノの名前を他人様の家で呟かないでくれるかっ」

 カノンの馬鹿野郎が。

 もしも娘が最初に発した言葉がお前の元カノの名前だったらどうしてくれようか。

 カノンは俺の言葉を聞いてない様子で、独りでトリップしてやがった。

「……ぅわ、くだらない妄想のせいで俺の家が全焼した時のこと思い出しちまった」

「お前は帰れ」

「ミオも気を付けろよ、SMプレイを舐めてたら俺が一喝してやるよ」

 いいから帰れ、そして二度と来るな。


「鹿野カノンとは生来からの腐れ縁なんだろ?」

「だから?」

「早々に関係を断ち切ってしまえ、腐れ縁なぞ何の役にも立たない」

 そう言うイザナミは口をへの字に曲げていた。

 彼女が日本神話に登場する彼の『伊邪那美』なら、頷ける回答だ。

 その時娘が泣き声を上げた。

「……お乳の時間なのか、いいさ、今お前にお乳をあげるからな」


 彼女が娘に乳を与える姿は恍惚的な光景だと思う。

 乳を飲む娘の表情は安堵し切って、心和らいでいる様子だ。

「火疋、もしかしなくても撮ってるのか?」

「娘の成長を記録したいからな」

「……どうして泣いている?」

 まだ名も無い娘が授乳している姿を見ていると、彼女達を思い出すから。

 ヒイロ、マリー、チルル、モモノ――俺が愛した娘達。


「……つくづくお前の妻だった女が、可哀想だ」

 これは確証のない俺の憶測だけど、妻はきっと。

「妻はきっとお前の中で眠りに就いているだけだ、そうだろ、イザナミ」

「だいせいかい」

 イザナミの声色は飄々としていたが、一先ず胸を撫で下ろした。

 単なる憶測で妻の件を片付けてしまうなんて、俺は最低だな。


「所でだな火疋、お前の娘は私が頂いても構わないか?」

「駄目に決まってるだろ、無駄なこと訊かないでくれ」

「…………」

 その後イザナミは娘に乳を与えたまま、しばらく押し黙った。

 この沈黙の間を愛しいと感じる俺は変なのだろうか。

 視界に居るのはお乳を飲んでいる俺の愛娘なんだから、別におかしくはない。

 イザナミの無意味な要求に自然と益体も無いことを思い付いてしまうようだ。

「私が頂くと言ったものは必ず」

 ――頂くぞ?

 何のために、イザナミは俺の娘を欲する。

 

 イザナミは今、俺の娘を胸に抱いている。

 彼女の腕に抱かれている娘は子守唄と共に安らかな眠りへと誘われていた。

 愛くるしい娘の寝顔を間近で覗いたくて、一歩二歩と彼女達に近寄る。

 だが次の瞬間、娘はイザナミと共に虚空へと消え去った。

「……」

 余りの出来事に、手に持っていたハンディカムは音を立てて地面に落ち、俺の意識は失われ、その場にくずおれた。


 いつからあの女が安全だと誤解していた。

 娘が生まれたことが余りにも嬉しくて、俺の気は緩んでしまったと言うのか。

 ……っ、いや。

 俺は彼女が娘にお乳を与えている姿に見惚れていただけだ。

 ずっと追い求めていた光景をイザナミは体現してくれたから、俺はッ……!

「アっ……アっアッ、アァッ……ッッ!」

 呆然としたまま、俺はその場で酷く泣き腫らした。


「ヒイロやマリーと過ごした時間はたかが4ヶ月だぞ、そんな風に接点の少ない彼女達がどれ程大事だと言うんだ……どんな理由で?」

「そもそも、俺がこれ程娘に依存するようになったのは、全てはヒイロ達の存在があったからじゃないか」

 娘が大事な理由を訊かれれば俺は、

「俺がずっと追い求めていた娘だ」

 体を強張らせ、悲嘆ですぼまった喉元から必死で声を出していた。

「俺の質問には素直に答えろ、別に強制はしない」

 そいつは矛盾したことを平然と言う奴だった。


 視力が悪いのか、瓶ぞこ眼鏡を着用して頭髪は不精の俺よりも短くまとめられている。背丈は平均よりもやや高い177センチの俺と遜色なく、そいつが帯状している雰囲気は少し、おかしかった。


「どんな理由で、娘が大切だと言うんだ」

「お前は、誰なんだ」

「お前の名前は火疋澪って言うんだろ? 俺は、――お前だ」



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