番外5:彼女の近況

 七月の空は、他の時期よりも好みな方だ。夏らしい力強さを感じるし、その太陽の熱線に応えるように生える草花の息吹もまた『力強い』。母親が寒い国の出身なためか、自分も比較的『夏』は苦手だが、『四季』の概念のある日本という国では暑さすらもいいモノだと思う。

 彼女――一色若葉は広い講堂の大きな窓から見える七月の空を眺めながら、そんな事を考えていたところだった。傍から見れば、その態度は少なくとも『真面目』とはいえない。しかし『天才』である彼女にとっては、『医学』という学問も拍子抜けするほど単純明快だった。だからよそ見をしていても、講師の少々意地悪な問いにも的確な解を返せるし、それが気に食わないという事で何かにつけて突っかかってくる一応『学友』にも「負け犬の遠吠えほどみっともないものはなくてよ?」と素で返す。

 そんな若葉だからこそなのか、彼女の周りには良くも悪くも寄ってくる人間が絶えなかった。


 ――優れすぎるのも考え物ね。


 若葉が本気でそう悩むのも無理はなかった。もちろんこれは嫌味などではなく、本心からの悩みだ。だが、理解されないのも『天才』ゆえの悩みだ。同じ『天才』と呼ばれる偉人、レオナルド・ダ・ヴィンチもこんな気分だったのだろうか? 彼女からしてみれば『簡単すぎる』授業中に、しばしばそんな事を考えてみるが、彼とは生きる時代も違うし、国籍も違う。同じ要素はただ周囲から『天才』と呼ばれるという点のみ。ただこれだけで『同じ』と見なすのはあまりにも失礼な話だ。だから彼女は別の事を考える。その内容は、今やひとつしかなかった。


 ――パパ。


 進路の事を話しただけで激昂し、容赦なく暴力を加えてきた、『実の父親』。それまでは仲の良い、尊敬していて、目標でもあった、『偉大な父』。その彼とは、今や『信念』の不一致により今や『決別』した、といっても間違いではなかった。義理の姉は最初から父とは敵対する意思を露わにしていたし、そんな彼女を若葉は軽蔑していたし、格下と見ていた。『カリスマ爆弾魔』とまで裏では有名な偉大な父を、なぜ素直に『認めない』のか。……彼女と出会ってからずっと疑問だった。自分よりも優れている人物ならば、それを目標にして、そうなるよう努力すべきだ。それが『向上心』というモノではないのだろうか? 若葉はそう信じて疑わなかった。だから、父の犯罪の手伝いも進んでしていた。

 それが、自分が『幼子』だった事の何よりの証明だった。確かに『父親』を尊敬するのは、目標にするのは『向上心』がある事だと言えるかもしれない。……本当にその父親が『正しい』のならば。

 若葉と義姉の共通の『父親』――大西隆という人間は、今や盲目的に信じてきた若葉でさえも、少なくとも『正しい』と全肯定はできない人間だった。それまで彼を、まるでカルト宗教の信者のように盲信し、全肯定し、『彼のようになりたい』とまで思っていた若葉だったが、『ある出来事』をきっかけに、文字通り『目が覚めた』。

 若葉の中で眠っていた、絶対に目が覚める事などないと思われていた、『欠けていたモノ』の存在に気づかせてくれた『親友』には今でも感謝している。だが、現在彼女は表舞台にはいない。その、『欠けていたモノ』の正体は、今となってははっきりと自覚できる、『良心』『倫理観』『モラル』というような言葉で現れるモノ。ある意味『欠けて言え当たり前』のモノ。なにせ彼女は物心つく前から『カリスマ爆弾魔』である『父親』に愛されてきたのだから。彼の思想に染まっても仕方がない。


 ――まだ、治らなくてもいいわ。


 三月のある日。卒業式の後で、その『父親』に『医学』の道、つまりは『医者』になりたいと告げた時の彼の怒りはすさまじかった。それまで若葉に対しては一度も見せた事のない、『義姉』に対するような表情をしていた。その事にショックを受けたし、彼が『愛娘』である自分に対してこれだけの事をするという事は、それだけ大事な『何か』に関する事だろうと思った。暴力も振るわれたし、今でも肋骨の痛みは残っている。しかし、早くよくなればいいとは思わないし、むしろ痛みが長引くことを望んでいる。……それは若葉の中に残る、未だに捨てきれない、父への『思慕の念』だった。こんな時は全く父に顧みられなかった義姉が羨ましくもなる。彼女のような生活をしたいとは微塵も思わないが。



「それでは、ここまでです」



 退屈だった授業もようやく終わり、若葉は機械的に教科書を鞄に仕舞う。偶然隣に座っていた名も知らぬ同級生にサインを求められ、溜め息を押さえつつ自分の名前である『一色若葉』という文字を何の捻りもなく書く。それだけで相手は舞い上がるほど喜び、サインをした教科書を『友達』と見える同世代の女性に見せびらかしている。

 なぜ『女性』という呼び方をするのかといえば、若葉はまだ十四歳だから。あくまでも彼女は『少女』と呼ばれる年齢なのだ。先月の誕生日には、母親が故国の料理をテーブル一面に敷き詰めるほど用意した。その量には流石に驚いたのだが、最愛といってもいい父との別れの後だったので、ありがたく頂戴した。『仕事』ももうやめた事だし、体型にこだわる必要もない。……母がどこまで娘の事を考えているのかは全く読めないのだけれど。

 そして、なぜ若葉がサインを求められたのかといえば、この明倫館に入学する前、『高校生』という身分の時にはティーン雑誌の読者モデルを務めていたからだ。学業に専念したいという尤もな言い分には、出版社としても何も文句が言えなかったし、今までの『お礼』だと言って、若葉好みの高級イタリアンにモデル仲間と共に連れて行ってくれた。仕事仲間とはいえ、若葉に比べて年相応の彼女たちは別れが悲しいと言って皆一様に泣いていた。

 残念ながら若葉はその『年相応』ではなかったので、涙など一滴も出なかった。……そんな訳で、長年続けていた『読者モデル』という肩書も、今はもうない。



「……」

 現在では『大学生』という肩書の『天才美少女』は、一抹の虚しさを感じる。最愛の『父』から自分から別れを告げてまで選んだ、『自分の道』は、思っていたよりも『簡単』だった。もっと困難で、厳しモノだとばかり思っていた。それなのに、周りの年上が頭を抱える問題も容易く解けてしまう自分の優秀さが、たまに嫌になる。


 ――わたくしは、本当に『恵まれ過ぎ』だったのね。


 その事を教えてくれたのは、皮肉にも自分を殺そうとした『親友』だった。彼女は確かに『殺人』という罪を犯して、現在は……少なくとも『表舞台』にはいない、だろう。彼女のしたことをはっきりと『悪い』ことだと判断した自分自身には、今でも驚きを隠せない。『どうして?』、そんな言葉とは自分は無縁だと思っていた。しかし、それはただ単に幼く、未熟だっただけのこと。そのことを身を持って教えてくれた『親友』を、とてもではないが『憎む』ことなどどうしてもできなかった。……自分が殺されそうになったというのに。

「……どうして?」

 彼女が指摘した事だった、『恵まれ過ぎよ』と。確かに、今ではそう思うし、それゆえに今は悩んでいるし、苦しんでいる。無縁だった言葉、『どうして?』も頻繁に口をついて出てくる。……これは明らかに『親友』のおかげだ。だから、彼女が早く戻ってきてくれないかと期待せざるを得ない。


 ――あなたは何を考えて、パパと『敵対』しているの?


 義姉に対するそんな疑問もまた、『どうして?』だ。入学祝いとして母が買ってくれた、名も知らぬ有名ブランドの腕時計を見ると、まだ午前中だ。

「……」

 若葉はそれまで座っていたベンチから立ち上がると、極力人目を避けて『ある場所』へと向かうことにした。

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