19 唯識詩織


 桜は右手を挙げ、頭上にえんかいを展開する。

 みなみさんどうおおはしで戦った赤いきょじゅうが放ったものとほぼ同じ大きさ。

 小さな太陽は星空を喰らうようにめらめらと燃え輝く。


 炎塊を詩織に向けて射出。

 射出してすぐさま桜はれいげきの弾を百以上周囲に展開。空間に青い光球を満遍なく広げながら、右手を後ろに引き、手元に一際大きな霊撃を溜め込んでいく。


 炎塊が二十メートルほど離れた地点で目に見えない何かにぶつかった。炎塊はみしみしとそのまま押し進み、真っ赤な炎の爆発を起こす。

 その瞬間、桜は周囲に浮かばせていたれいげきの弾を詩織の逃げ場を塞ぐようにレーザー状にして飛ばした。続けて霊撃を溜め込んだ右手を詩織に向けて真っ直ぐに突き出す。視界一面が深い青に染まる極大の霊撃が放出される。

 幾数もの青の閃光が爆炎の中を駆け抜けていき、防壁の割れる音が鳴り響く。


 桜は気を抜かずに構えを取る。

 えんかいの爆発により広がった炎が水面を焼いて大量の水蒸気を発生させている。

 そして、すさぶ炎と蒸気の中に詩織の姿を捉える。

 桜は静かに息を呑んだ。

 詩織は最初の位置から一歩も動いておらず、構えもそのまま、真っ直ぐに桜を見据えている。

 傷一つなく、炎塊の後に放った極大の霊撃も詩織に届かなかったようだ。


 えんかいは桜から二十メートルほど離れた地点で見えない何かにぶつかった。

 おそらくそれは詩織の透明な霊力による天然の見えないぼうへき


 注目すべきは術者の詩織から約三十メートルも離れた位置に炎塊を相殺できる強度の防壁を展開したということ。

 基本的に術者と術の展開する距離が離れれば離れるほどに術の精度は落ちていく。特に防壁等の創造系霊術はそれが顕著だ。

 どうやら詩織は精度の高いじゅつしきてんかいりょういきを広げているようだ。


 また、炎塊で防壁を突き破った後に放った桜の霊撃は全て防壁を貫く性質を持っていた。

 あれを全て防ぎきったということは、詩織はほんのわずか数秒で超硬度の防壁を複数展開していたということ。

 とてつもなく術の展開速度が速い。


 そして最も驚異に思うのが、それほどまでの霊術が展開されていたにも関わらず、何も感知することができなかったということ。


(ただののうりょくしゃじゃないって訳ね)


 遠距離から仕留められる相手ではない。

 桜は感知領域を広げながら接近戦へと思考を切り変えていく。


 まず、接近戦へと持ち込むために乗り越えなければならないのが、詩織の展開している防壁。

 目で捉えることはできないが、広げた感知領域により防壁のおおよそを把握。

 詩織は自身を中心に半径三十メートルほどの巨大な球形の防壁を展開していた。

 おそらくその球の内部にも複数の防壁が展開されていると思われるが、巨大でありながらも防壁の密度は高く、この地点から把握できるのは外側の防壁一枚のみ。

 防壁は水面下にも及んでいて、躱して進むことはできない。


 桜は詩織の防壁を一気に無効化する手段を持っている。

 桜の固有霊術、〈えん〉。

 消費する霊力量は多いが、桜の〈花炎〉は詩織の防壁を全て無効化し、かつ決定打を与えることができる。


(でも……)


 しんひらじんぐうさいじょうで〈花炎〉を詩織に見られた可能性が高い。

 もし〈花炎〉の性質を見抜かれ、それを逆手に取られれば大きな隙を見せてしまうことになる。

 加えて詩織が展開している防壁の異様さも気がかりだ。

 ひとまず様子を見よう。


 そして、接近時に警戒しなければならないのが詩織ののうりょくゆいしきの力。

 詩織との行動の中で観察できた現象から、その力についてだいたいの推測はできている。


 詩織が習得している唯識の力は二つ。

 〈げんしき〉と〈しき〉。

 〈げんしき〉はおおまかに言えば姿を消す力。自分以外のものも触れれば見えなくすることができる。

 〈しき〉は触れた相手の意識を奪い取る力。さらに意識を失っている相手を呼び起こすこともできる。


 まず〈げんしき〉。姿を消す力。

 この力に関してはそこまで強く警戒する必要はないだろう。

 おそらく戦いのどこかで詩織は姿を消してくる。だが姿を消しても存在そのものが消える訳ではない。

 動けば空気が、水面が揺らぐ。

 しっかりと感知領域を広げて索敵を行えば対処できるはずだ。


 しかし、〈意識〉。意識を奪う力。

 これはとてつもなく厄介だ。

 リリスは言った。唯識の力は唯識の力でしか対応できないと。これが本当なら桜が取れる対処法はないと言っていい。

 意識を奪い取るまで数秒の猶予はあるかもしれない。だが、触れられればその時点で終わりと考えるべきだ。

 さらにこの〈意識〉という力は、くにがみの祠への侵入を防ぐために張られた厳戒な結界けつかいをすり抜けた力でもあったはず。

 ならば詩織相手に防壁を使っての防御は意味をなさないだろう。

 そして意識を奪う力がこちらから触れても発動する可能性がある以上、詩織に直接攻撃をすることも躊躇われる。


(だったら……)


 桜は両拳に青い炎のれいげきを纏わせ、そして神経を加速させる。

 グン、と桜の中で時間が圧縮されていき、空から舞い降る桜色に光る花びらがぴたりと停止した。


 水面を蹴り、炎の推進力を得て桜は静止した空間の中を動き出す。

 感知領域で捉えた透明な防壁目がけて拳を振るう。防壁を部分的に破壊。破砕音と同時に防壁を潜り抜け、詩織の領域内に入り込む。

 次の防壁を感知し隙間なく水面を、空を蹴って加速。青い閃光は次々と防壁を砕き貫いていく。


 詩織が展開している防壁は霊撃を纏った拳で直接殴ってようやく部分破壊ができる硬度を持っている。

 それほどの硬度を持っているのであれば、多量の霊力が使用されているはずなのだが、広げた感知領域から防壁の霊気を全く感じ取ることができないでいた。

 霊力が一切使われていないのではないかと疑うほどに。

 感じ取れるのは接近し直接殴りつける時にだけ。とはいえその霊気もわずかなもので、防壁にどれだけの霊力が注がれているのか掴むことはできない。

 広域に高密度の防壁を多重展開していながらこの霊気の希薄さ。これはおそらく詩織の特殊な霊力によるものと考えていいはずだ。


 九個目の防壁を貫く。

 連続する超硬度の防壁により速度は大きく削がれてしまったが、詩織まであと一メートルという距離に来た。

 詩織の眼前に十個目の防壁を感知。中空を蹴って左拳を打ち込む。そしてその拳が詩織の前で完全に停止した。

 ヒビ一つ入らないぼうへき

 おそらくこれが詩織の本命の防壁。

 これを壊せばあとは詩織自身が纏う防壁だけだろう。


(この距離からなら)


 桜は右拳に纏うれいげきの性質を変えた。

 瞬間的に、爆発的に、桜の右拳が青い輝きを放つ。

 対防壁用の貫通霊撃。最初の炎塊の後に放った極大の霊撃、それを最大限に凝縮して威力を高めたものだ。

 水面を蹴って左側に転回。

 詩織目がけて防壁に右拳を打ち込む。拳の纏った深い青の霊撃が一点へと集束。衝撃と共に針となって詩織の防壁を貫いた。

 しかし、


(――っ!?)


 桜は防壁に打ち込んだ腕を即座に引っ込めて、斜め後ろへと跳んだ。

 ジュンッと桜の右脇腹を極細のレーザーが通過する。

 それは今ほど桜が放った霊撃だ。

 詩織は直前で桜の霊撃を反射したのだった。


(こいつッ、こんなものまで……!)


 そして後ろへ跳んだ桜はいつの間にか背後に展開されていた防壁とぶつかり大きく体勢を崩した。

 加速させた神経に乱れが生じ、桜の中で静止していた時間が流れだす。

 さらに前方から透明な防壁が飛んできて、桜は前後両側から見えない防壁に動きを止められる。

 ここでようやく詩織が動いた。

 水面を一つ蹴り、こちらに迫る。

 詩織は左手を前に出す。

 スローモーションで流れる世界の中、詩織の手は目の前にあるはずの透明な防壁をすり抜けて、ゆっくりと桜へ向かってくる。


(やばいッ!)


 桜は周囲全体に向けて灼熱の炎を爆発させた。

 動きを止めていた防壁をまとめて破壊。桜が貫き砕いた防壁の風穴を爆炎の流れに乗って突き抜け詩織から距離を取る。


 水面に着き、桜はひとまず霊力消費の多いしんけいそくを解いた。

 光の花びらがひらひらと動きだし、水面が大きく揺れ動く。

 紅蓮の炎幕が晴れていく。

 詩織は変わらず静かに水面の上に立っていた。

 またしてもダメージは見られない。


 荒くなった息を整えながら桜は詩織を見やる。

 触れることさえできれば確実に相手を仕留められる凄まじい力。何より脅威と感じるのは、それだけの力を持ちながら詩織から一切脅威を感じとれないということだ。

 限りなく静かで虚空の如き透明な力を持つ少女――――唯識詩織。


(私を守る、か……)


 決闘が始まって約二十秒が経過。

 詩織の実力は理解した。詩織は桜が想像していた以上に強い。

 だが桜には切り札がある。

 〈えん〉だ。

 詩織が〈花炎〉の性質に気付いているか気がかりだったが、それも今ほどの接近で薄いと考えられた。

 詩織は桜の接近をきっちりと捉え、その上で霊撃を反射させてきた。

 もしも詩織が〈花炎〉の性質を理解していれば、まず一番に距離を取るはずなのだ。

 詩織は桜が〈花炎〉を使ったあの瞬間を見ていなかった。

 そう考えるのが妥当だろう。


 ただし、そうと分かってもチャンスは一度。

 霊力消費の高いあれをそう何度も使えない。それに一度〈えん〉を使い、力が発揮されれば確実にその性質は見抜かれる。

 使い時を見極めなければならない。

 

(そのためには――)


 考えが纏まるよりも先に、今まで定位置に立って防戦一方だった詩織が動きだした。

 宙へと浮き上がった詩織が左手を桜に向ける。

 空間を揺るがせる何かが桜に向かって迫り来る。

 察知した桜はすぐさま深い青の光壁を展開。

 桜が展開した防壁よりも迫って来たそれは大きかったようで、防壁の外側にある水面を爆発させた。

 これは霊撃だ。詩織が展開していた防壁と同じく目に見えない、かつ限りなく霊気の薄い霊撃。

 だが防壁とは違ってその見えない霊撃にたいした威力はない。


 詩織は高度を上げながらもこちらへと距離を詰めつつ、見えない霊撃を撃ち続ける。

 牽制のためか、見えない霊撃は桜にだけでなくあらゆる場所に向かって撃たれ、あちこちで水面が爆発し大きな波を立てていく。


(なんだ、この違和感……)


 豪雨の如く降りかかる見えない霊撃を防ぎながら桜は考える。

 何かを仕掛けようとしているのは明白だが、それよりも桜は詩織に強い違和感を感じていた。


 何かが違う。

 先ほど防壁に挟まれ、詩織の手がこちらに伸びてくる光景が目に焼きついている。

 その時の詩織と今の詩織とでは何かが違う。


 詩織は見えない霊撃を無作為に乱射しながら、なおも上昇し続けている。その詩織の目は翡翠色に光り、真っ直ぐに桜を捉えている。

 詩織の目。翡翠色に光る、目。


(そうか、目だ)


 詩織の目。詩織の目は今、翡翠色の光を放っている。

 詩織の霊力は無色。本来なら光を持たない。

 瞳を光らせているのは、霊力が無色であることを隠すためにわざとしている、詩織の癖のようなものだと思われる。

 しかし先ほど詩織が意識を奪おうと桜に接近してきたその時、詩織の目に霊力の光が灯っていなかったのだった。

 つまり、あの時の詩織は瞳力の強化を解いていたことになる。

 どうしてそんなことを。


 あの時、いくら桜に隙ができていたとはいえ油断はできない状況のはず。それを詩織は何故わざわざ瞳力の強化を解いて接近してきたというのか。

 桜の中で一つの推測が浮かび上がる。


(もしかして、あいつ……。いや、〈ゆいしき〉という異能力は、力を使用している間、霊術が使えなくなるんじゃ……)


 リリスは言っていた。唯識の力はあまり戦闘向きの力ではないと。

 そして真明の森で襲撃を受け、桜に対して唯識の力を使っていたあの時、詩織は今は戦うことができないと悔しげに言っていた。

 能力発動時、霊術が使えなくなるというのであれば説明はつくが。


 次の瞬間、視界が翡翠色の光に遮断された。

 桜は半径三メートルほどの光る球体の中に閉じ込められていた。

 透明ではなく、周囲の景色を完全に遮断した翡翠色のぼうへき


(やられた……!)


 防壁の意図はすぐに理解したものの、おそらくもう遅い。

 すでに詩織は唯識の力を使って姿を消しているはず。


 桜は防壁を拳で破壊すると同時にしんけいそくを行った。

 緩やかに強く、全身を脈打つ鼓動と共に、時間が圧縮されていく。崩れ去る翡翠の光壁、荒れる水面の波がぴたりと停止する。

 一秒が百に分断された静寂の世界で桜は感知領域を広げていく。


 身体強化を使用している桜は、しんけいそくで時間が停止したかのように流れる空間を自在に動くことができる。

 桜は詩織が先ほどまで居た上空に顔を向けた。

 上空に詩織の姿はない。

 それでも桜は落ち着いている。


 先ほどまで周囲を舞っていた霊力の花びらが姿を消していることに気付く。

 おそらく先ほど詩織が連続で撃ち続けた霊撃で消えてしまったのだろう。

 なるほどと桜は納得する。

 この空間に舞い降る花びらは少しでも触れれば消える。

 姿を消した状態で花びらに触れれば位置を知らせてしまうことになる。だから先ほど花びらを取り除くために詩織は広範囲に霊撃を乱射していたのだろう。


 神経加速を使用してから二秒経過。

 感知領域を広げながら索敵を行っているが、詩織を捕らえられずにいる。


 領域内に桜以外の熱源はない。霊力の気配もなく、匂い、不自然な音、空気の揺らぎもない。

 先ほどまで詩織が展開していた馬鹿でかい防壁も空間内から綺麗さっぱり消え去っていた。


 さらに一秒が経過したところで、詩織の匂いを見つける。

 上空百五十メートル付近、桜の丁度頭上に位置する方角。

 詩織が姿を消す直前に居た辺り。だがそれは匂いが残っているというだけで匂いの持ち主である詩織は感じ取れない。

 その付近に絞って感覚を集中。

 すると新たに異物を一つ感知する。

 異物は薄くて小さい板一枚ほどの大きさ。詩織の匂いを捉えた場所近くにあった。


 捉えた異物に目を向けるも桜の目に映らない。霊力、霊気も感じ取れない。

 おそらく詩織の見えない防壁だろう。


 領域は十分に広げ終えた。その中で捉えたのは詩織の匂いと小さな防壁一つ。

 わずかに心の波が揺らぐも桜はまだ冷静だ。


(……さっきの推測は間違いだったか)


 唯識の力を使う間、霊術が使えない。

 もしこの推測が正しければ今の索敵で確実に引っかかっているはずだ。

 つまり詩織は今、唯識の力を使って姿を消し、さらに霊術を使ってあらゆる気配を極限まで絶っている。もしくは唯識の力を使っておらず、霊術だけで姿、気配を完全に消している。詩織特有の霊力がここまで完璧なステルスを可能にしているのだろう。


(何にせよ、やることは変わらない)


 桜は念のため水面下にも感知領域を広げる。そして360度全体に空中、水中を伝播する青い霊力の波を放った。

 姿が消えていようと存在そのものが消えるわけではない。

 これで確実に詩織を捉えられる。

 だが、


(……!?)


 桜が捉えた領域内の異物は変わらず一つ。

 薄く小さい板のような防壁、それだけだった。


(どうして……!?)


 いよいよ桜は焦り出す。

 まさか詩織は広げた感知領域の外側にいるというのか。

 いやそれは考えられない。

 消える寸前、上空に居た詩織と水面に居た桜との距離は約百五十メートル。

 桜が広げている感知領域は約三百メートル。十分すぎるほどに範囲内だ。

 ならどうして。

 まさか完全に世界から消えたとでも言うのか。


 神経加速を使用して四秒が経過。

 桜は再度霊力波を放つが、今度は何も捉えるものがなかった。

 時間経過により、あの見えない防壁も消えてなくなってしまったようだ。


 どうであれ詩織を捉えられない状況が続く。

 焦燥する思考の中、桜ははっと見逃し続けていた詩織の能力に気付く。


(そうだ。結界抜け)


 もしもゆいしきの〈意識〉という力が結界・防壁をすり抜けるだけのものではなく、霊力で構成されたものをすり抜けられるというものなら、霊力波は意味をなさない。


(だとしたら……そう、音波だ)


 手元から打ち鳴らした音を霊力で引き上げて領域内に放つ。それなら霊力のすり抜けは関係ない。

 おんじょう系の霊術は桜の霊力の質からして苦手な分野ではあるが、感知領域を広げ、神経加速を使用した状態ならば反響定位、コウモリの真似事ぐらいはできる。


 桜は姿勢を正し、両手を強く打ち合わせた。

 手元に現れた音を瞬時に霊力で増幅。全身に纏わせ超音波として感知領域全域に放つ。

 だがしかし、


(……っ!)


 それでも新たに捉えるものは何もなかった。


 このまま詩織を捉えられず接近を許せば意識を奪われることになる。

 ひとまず先ほどのように周囲全体に爆炎を放って仕切り直すか。

 だが仕切り直したとしても詩織を捉えられない原因を掴めなければ状況は変わらない。むしろ場合によっては今よりも悪化する可能性がある。

 無策で動くべきではない。まだ考える時間はある。


(考えろ。考えろ)


 引っかかっているのは上空百五十メートル、詩織が消えた付近に展開されていた、小さく薄い目には見えない防壁ぼうへき

 戦闘が始まってすぐに詩織が展開した無駄に大きな防壁は全て消え去っていた。

 なのに何故あの小さな防壁一つだけ取り残されていた?


(それは消える直前まであいつが必要としたものだから。じゃあ何に使う? どう必要とする? あんな小さな防壁、足場くらいにしか使えない…………足場?)


 闇雲の中、わずかに光が見えた気がした。

 桜は高速で思考を巡らせる。


 あの小さな防壁が足場だったと仮定する。

 ならば詩織は何故上空に足場なんてものを用意したのか。

 考えられる用途は一つ。空を飛べなくなったため空中で足場が必要となったからだ。


 唯識を使用している間、霊術は使えない。

 一度捨てた推測。

 だがもしこの推測が正しいとするのなら、あの小さな防壁に説明がつく。

 そしてこの推測が正しければ詩織が今居る位置は分からないが、向かって来る方角は分かる。

 飛行術、霊術を使えない以上、空中で大きく移動することはできない。

 ならば詩織は桜のほぼ真上からしか来ない。


 だがしかし、それだと矛盾が生じる。

 唯識の力を使用している間、霊術が使えない。

 ともなれば最初の索敵で引っかかったはずだ。

 あの時詩織の匂いを、音を、空気の揺らぎを、熱をどうして感じ取ることができなかった。


(……いや、違う。匂いは感じ取れた)


 見えない防壁、そのすぐ近くに詩織の匂いが残っていた。

 詩織が姿を消す前に残した匂い。

 詩織は姿を消すその寸前までその場所に居て、そこから姿を消した。

 だが匂いの持ち主である詩織が今どこにいるのかを捉えることはできていない。


(あれ? たしかこれって……)


 桜は既視感を、続けて悪寒を覚えた。


(そうだ、あの時も……)


 三年の眠りから目覚めたあの時、誰かに名前を呼ばれたような気がして室内を探るも見つけることはできなかった。

 だが突然詩織は桜の隣に現れ、声をかけてきた。

 唯識の力を知った今なら分かる。

 理由は不明だが、あの時詩織は唯識の力を使って姿を消していたのだ。

 そして桜はすぐ隣で詩織が姿を消していたあの時にも、嗅覚を強めて部屋中の匂いを探った。

 匂いは残っていた。

 しかし匂いの持ち主である詩織をあの時も一切感知することができなかった。


 詩織の霊気はとてつもなく薄い。だが全く感じ取れないわけではない。

 詩織に支えられ空を移動していた時も、今この戦いの中で展開された透明な防壁も、霊気は限りなく薄いが距離が近ければ霊気を感じ取ることはできた。

 そして桜が寝ていた布団、そのすぐ隣に現れた詩織。

 あの距離で霊術を使われていたのなら、まず間違いなく霊気を感じ取れる。

 つまりあの時の詩織は霊術を使っていなかった。そして桜はすぐ側に居た匂いの持ち主である詩織を感知することができなかった。

 これらが意味するところは――――。


(まさか……! まさかあいつ……!)


 桜の中で確信に近い一つの推測が導き出された。

 おそらく、それでこの状況の全てを説明できる。


 神経加速を使用しておよそ五秒が経過。

 詩織はもう桜のすぐ近くまで迫って来ているはずだ。

 迷っている暇はない。攻撃か回避か。早く行動に移らなければ。


(だけど……)


 攻撃をするにしてもどうすればいい。

 詩織は音波をもすり抜けた。

 詩織は今、実体を持たない幽霊のような、限りなく透明に近い状態にあるのかもしれない。


 詩織が隠していた秘密に辿り着いたものの、桜は唯識に関する知識がほとんどない。詩織が持つそれらがどのような力を発するものなのか、桜には分からない。


 だから分かることを一つずつ確認していく。

 一つ。詩織の唯識の力は万能ではない。あらゆるものをすり抜ける力ではないということだ。


 詩織は空中で姿を消す直前にわざわざ足場を用意した。

 もしも唯識の力があらゆるものをすり抜けるものなら、そんなものを用意する必要がない。重力をすり抜けて宙に浮けばいいだけなのだから。

 唯識の能力を使用しても詩織は変わらず重力に縛られている。

 つけいる隙があるのは確かだ。


 二つ。唯識の〈意識〉の力には霊力で構成されたものをすり抜けられる力があるということ。

 これはもう確定だろう。霊撃を放ってもすり抜けられる。

 霊力の属性変化による炎もまたその可能性が高い。

 なら霊力を使って引き起こした炎ならどうだろう。

 しかし霊力で構成されていない音波をすり抜けたのであれば、同様にすり抜けられるのか。


 そういえば不可解な点が一つある。

 詩織は何故宙に舞う花びらを除去したのだろうか。

 あの花びらは霊力でできている。霊力で構成されたものをすり抜けられるなら、取り除く必要はなかったはずだ。

 すり抜けられるものの数に制限があるのか。それともあの見えない霊撃の連射は単なる牽制だったのか。


 三つ。詩織はまだ奥の手を隠している。

 桜はしんひらじんぐうさいじょうで戦う中、いつでも詩織の応援に行けるように注意を向けていた。

 その中で詩織が〈ゆいしきむきょう〉という言葉と共に白い円を広げ、周囲の半分魔物と化した者達を一気に薙ぎ倒したことを桜は知っている。


 術名に唯識という単語がある以上、唯識の異能力を使用した攻撃技だろう。

 異能力は霊力を使用せずに力を発揮する。霊力が使われないのなら桜の〈えん〉も無意味なものになる。


 四つ。唯識の力には弱点があるということ。

 唯識の力を使っている間、霊術が使えない。唯識の力を使い続けている間、詩織は空中での移動も防壁での防御もできない。

 しかし霊術が使えなくとも、どのような攻撃が詩織に通るのか見当がつかない今の状況ではあまり弱点とは言えない。


 唯識の力によるすり抜けが万能のものではないとはいえ、それでも多くのものをすり抜けられると思われる。

 やはり音波をすり抜けたという事実はでかい。

 詩織は能力を発動させている間はほぼ実体を持たない状態。唯識の力を使っている詩織に攻撃を行うのはただ隙を作るだけだ。

 回避をしたとして、落下する詩織がそのまま水面をもすり抜ければ今以上に詩織の位置が掴めなくなる。

 詩織を完全に見失い、隙を見せればいずれ〈ゆいしきむきょう〉の餌食となるだろう。


 〈ゆいしきむきょう〉は白色の空間攻撃。その初動も目に見えるものだった。

 姿を完全に消している今、むざむざ自分の居場所を知らせる攻撃はしてこないはず。

 ならあえてこのまま何も行動を取らなければ、詩織は〈ゆいしきむきょう〉を使わず桜に近づき意識を奪おうとしてくるのではないか。

 だからといってこのまま接近を許せば意識を奪われる。

 堂々巡り。何の解決にもなっていない。


(無茶苦茶でもいい。とにかく考えろ。何か他に見落としている点はないか。考えられる可能性を全て考えろ)


 限りなく透明に近い詩織。

 その詩織に攻撃をあたえるには、詩織に一度唯識の力を解かせる。すり抜けられない攻撃を放つ。もしくは唯識の力を使わせたまま、攻撃がすり抜けられない状態にさせる。


(そんなことできるはずが…………いや、そうだ……!)


 唯識の能力は相手に触れることで力を発揮する。

 詩織が桜の意識を奪うには、桜に触れなければならない。

 実体のない状態では桜に触れられない。

 なら、桜に触れたその瞬間、詩織には実体があり、攻撃が通るということではないか。


 〈ゆいしきむきょう〉を使われず、かつ攻撃が通る。

 

 どうにも詩織に勝つには、詩織が意識を奪おうと触れてきたその瞬間にしかないようだ。


 詩織が触れてきたその瞬間、詩織に意識を奪われるよりも先に至近距離で攻撃を叩き込む。

 詩織に触れられて意識を奪われるまで数秒の猶予はあるはず。

 神経加速をさらに強めれば自身に起こる何らかの異変を感じ取れるはずだ。


 詩織はとても冷静に、桜の力を強く警戒しながら戦っている。

 そのような行動に出ることもまた詩織には予測の内かもしれない。

 おそらく攻撃は防がれるだろう。

 だが攻撃を防げば姿を現す。その姿を現した瞬間なら詩織の防壁は身体に纏うものだけのはずだ。

 唯識の力を使用している間は霊術が使えない。それは言い換えれば霊術を使い続けている間は唯識の力が使えない状態にあるということ。

 防壁一枚だけになった詩織。

 そこから一切の隙を与えず、一気に勝負を仕掛ければ。


 桜は覚悟を決めた。

 詩織が向かってくる上空に目を向けながら、極限までしんけいそくを強める。

 視覚意外の感覚を全て閉じ、意識を自身の内側へと集中させる。

 長い長い一秒を刻み、そして、


(――――――来た)


 内側の歪みを感じ取ったその瞬間、桜は全方位に向けて爆炎を広げた。


 そして、世界が消えていた。


 そこには何もなかった。

 天もない。地もない。

 黒でもない。白でもない。

 何も見えない。

 何も、ない。


 熱も、感触も、音も、匂いも、味も、何も感じられない。

 体が無い。

 世界が無い。

 ただそこには自分という意識があるだけ。

 遙かなる透明、虚無の世界に桜はいた。


 そして桜はだんだんと、感じられないということすら分からなくなっていった。

 世界に溶けていく。

 混ざっていく。

 広がって、縮んで、自分であるはずの何かと自分ではない何か、その境界が混ざっていく。

 だが突然、その虚無の彼方に痺れが帯びた。

 それが自分の命なのだと桜は思い出した。

 世界はぐるりと渦を巻いて一つの白い点へと収束する。

 その白い点から蕾が花開くように、世界を温かな闇が包み込んだ。


 ――――とくん、とくん。

 心地の良い音が桜の中に響く。


(これは、お母さんの、音……)


 桜は母の胎内にいた時の記憶を持っていた。

 とてもとても長い時間、桜は母と共に居たのを覚えている。

 温かくて優しい場所。ずっとこの場所にいたい。

 そう思っていた。

 桜にとって母は幸福そのものだった。


 しばらくすると暗い世界に眩い光が射し込み、桜はぎゅっと柔らかな感触に包まれた。


(……お母さん……)


 これはお腹から外に出て母に優しく抱きしめてもらった時の記憶。

 母はあまりにも優しく温かかった。お腹の中に居た時と変わらない安堵感に包まれていた。とても幸せだった。

 だから桜は生まれた時でも泣くことはなかった。

 赤ん坊の桜は母に抱かれながら胸の中で安心して眠りにつく。

 そして、桜が次に目を覚ましたその時には、母は桜の側から居なくなっていた。母は桜を産んですぐに桜を捨てたのだった。

 それでも、桜は母を恨んだことは一度もなかった。


(……だけど……)


 光が閉じていく。

 世界は深く冷たい闇に包まれた。

 少しして、ぽつりと空に白い光が現れた。奥に向かって次々と光は浮かび上がっていく。闇に浮かぶその白い光は、天井に吊された鉄灯籠。

 これは、桜が五歳になった日の記憶だ。


 その日、やけに口数の少ない、表情を硬くした雛にいつもより一層丁寧な朝の手入れを受け、やたらと豪華な衣装を着せられた。

 そして桜は絶対に中に入ってはならないと言われていた離れの建物へと連れて行かれる。

 古びてはいるが威厳を感じさせる入母屋造りの建物。いつもその建物には結界が張られているのだが、その日はなくなっていた。


 雛が扉を開く。

 中は深淵のような暗闇が広がっていた。

 扉の近くからぽつりと白い光が灯った。それは天井に吊された鉄灯籠だった。奥に吊された灯籠が段階的に光を浮かび上がらせていく。

 雛に手を引かれて桜は床板の上を歩いて進む。


 一番奥には、燃えるように赤い大輪の花があふれるほどに飾られていた。

 その中央には太く白い切り株のようなものが置かれている。

 突然、金色の炎が目の前に広がり、大きく燃え上がった。

 炎は花のように散り、その中から女が現れる。

 女は尊大に切り株の上に腰かけていた。

 地に着きそうなほどに長い金色の髪。顔には奇妙な白い仮面。白い肌。胸元から上を大きくはだけさせた赤い和服を着ている。その和服の袖と裾は異様に長く、艶やかな色を地面に広げている。 

 そして、目標であり憧れであった雛は、その女の前にひれ伏した。


 女の名前はあやさきあまね

 五歳になったこの日、桜は初めて絢咲周と対面した。

 あまねが手振りで何かを示すと雛は桜を置いて部屋から立ち去った。

 そして、雛が居なくなった途端、室内の空気が一変する。

 呼吸をするのさえ苦しくなるほどの重圧。白い仮面の奥から強烈な何かが自分へと向けられている。


「あなたは桜の樹の下に捨てられていたの」


 長い沈黙を破って絢咲周は言った。


「だからあなたの名前は桜。ひねりがないかしら」


 閉じた扇をもてあそびながら周は続ける。


「生まれてすぐに捨てられちゃうなんて可哀想。よっぽど不細工だったのね。ふふふ」


 艶めいた笑い声が灯籠の光が照らす暗闇に響き渡る。


「あら、今のは笑うところじゃないかしら?」


 全身を刺すような重圧に耐えながら、桜は周がつける仮面を睨み続けた。


「冗談よ。つまらない子」


 あまねは大儀そうに足を組み直す。

 長く伸びた周の金髪が揺らぐ。

 どうということのない動作一つ一つに、名状しがたい薄気味悪さと優雅さが同居していた。


「それにしてもお雛ったら、最初はあんなにあなたを育てること嫌がってたくせに。今じゃすっかり入れ込んじゃって。嫉妬しちゃうわ」


 あまねは戯言を続けていく。

 絢咲周は母親に捨てられた桜を拾い、産まれたばかりの桜を絢咲に入れた。

 その時の桜には周が何故そのようなことをしたのか全く分からなかった。

 だけど、一つだけはっきりと分かることがあった。

 この女は自分の敵であるのだと。

 だから五歳の桜は周に向けて強く宣言した。


「私は、あんたの思い通りになんかなってやらない」

「……そう。ならせいぜいあがきなさいな」


 パッと扇を開き、遍く全てを見通すかのような声で周は言う。


「私はあなたに全てを与えるわ。あなたは全て受け取りなさい。あなたが思うままに、望むままに生きなさい。あなたの意志で、あなたが思う、あなたの道を歩みなさい。それでもあなたはいずれ――――ふふっ」


 あやさきあまねの笑い声と共に、世界は再び闇に閉ざされた。

 闇の中、桜はまた一人になる。


(……私は……)


 小さな光が射し込む。

 眩い光。

 じんわりと温もりを持ってその光は広がり世界を照らす。

 すっと駆け抜けるように闇は消え去り、視界にはどこまでも広く透き通るような青。


(…………これは)


 水面は燦々と眩しい陽射しを受けて煌めき、空からは桜色に光る花びらがひらひらと降り注ぐ、巨大白樹の並木道。

 そこはしんひらじんぐうの隠された本殿――――伊佐奈と約束を交わした、天花咲てんかざきの通り道だった。

 桜は道の真ん中に立ち、そのどこまでも続く道を眺めていた。


「桜様」


 後ろから声がかかる。

 桜は振り向く。

 そこには詩織が立っていた。

 詩織の左目から、すっと一筋の涙が流れる。


「詩織は……詩織は、約束通り桜様に逢いに来ましたよ」


 詩織は柔らかな微笑みを浮かべる。

 そして、そのあやさきさくらは答えた。


「うんっ……待ってた。ずっと待ってた……」


 それは、本当にずっと待ち望んでいたかのような、儚げな声で。


「さあ、桜様」


 詩織は桜の前に手を差し出す。


「世界にそっと恋をいたしましょう」


 桜は手をのばす。

 詩織が差し出すその手に向けて。


 そして、世界に暖かな光が満ちた。

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