18 上等


 もう残された時間を気にする必要はない。

 桜は飛行術を使い神都市上空、無数に広がるオレンジ灯の中を一気に駆け抜けていく。


〈あなたがいなければ私は生きてはいけない そこにはとても美しいものが見えるでしょう〉


 ひなが桜に残した二文。

 この暗号を解き明かせば隠された本殿の入り口に辿り着けると思っていた。

 だがそれは勘違いだった。

 そう。思い返せば雛は暗号などと一言も言っていない。

 雛はヒントと言っていたのだった。

 意味ありげな二文を見て桜が暗号だと勘違いしただけだ。


 二文が暗号ではなくヒントであることを意識して桜は最初から考え直した。

 暗号ではなくヒント。

 設問ではなく、あくまで解に辿り着くための情報の一つにすぎない。この二文だけに目を取られてはならない。


 桜は雛の言葉を一つ一つ思い返した。

 雛は言った。

 桜がしんに訪れるその時でしか入り口を見つけられないと。

 雛は時期を強調した。

 その時。三年後でなければ見つけられないと。

 なぜ三年後でしか見つけられないのか?

 これこそが入り口の在りかを特定する鍵ではないかと桜は考えた。


『桜、おそらく三年後、あなたは神都を訪れることになるはずです』


 あの時、雛が何を考えていたかは分からない。

 だが雛の中では三年後に桜が神都を訪れるということは大方決まっていたようだ。


 訪れる。

 その言い方はただ神都に遊びで訪れるというようなことを意味しているとは思えない。

 三年後。

 雛と約束をした時の三年後であれば、丁度中学を卒業する時期になる。

 桜がはくえんに呑まれてしまい、雛が想定していた未来から大きく外れている。

 だがもしも桜が白炎に呑まれることなく時間が流れたとしたら。

 桜は東京のれいお抱えの教育施設卒業後、東京から神都に移ることが決まっていたのだとしたら。


 東京から神都へ。新しい生活。新しい住居。


 新しい住居と考えてすぐに桜はあのマンションの部屋を思い浮かべた。

 生活感の欠片もない空っぽの部屋。

 三年間眠り続けていた桜が目を覚ました場所。

 もしもあの部屋が、三年後に桜が生活するために用意されたものだとしたら。

 そして、雛が残したヒントでそれが答えだと強く確信する。

 神都の街を探し回れと言っておいて、隠された入り口の在りかが神都府にあるマンション、スタート地点にあるという解答は雛の性格からしても大いにあり得る。

 揺さぶりをかけた時の詩織の反応からしてもう間違いない。


 神都市に来た時とは逆に、南参道通りから真っ直ぐに街へ向かって飛んでいけば例のマンションがある地帯に辿り着くはずだ。

 マンションの外観は覚えていない。だがバルコニーから飛びだした時、マンションの周囲に建物はなく、木々に囲まれていたことは覚えている。

 この方面で孤立したマンションとなれば見つけられるはずだ。


 それからほどなくして山中にぽつんと一つ建ったマンションを見つけた。

 おそらくこれが例のマンションだ。

 桜は上空から最上階のバルコニーに向かって降下していく。

 

 不用心なことにベランダの窓は開きっぱなし。部屋の明かりも点いたままだった。

 履いていた下駄は先ほどの戦闘中に両方とも壊してしまったため現在桜は裸足。

 桜はそのまま部屋に上がり込んでフローリングの床を歩いていく。


 場所を特定した。

 ここで今、雛が残したヒントを使う。

 だが全くと言っていいほど物が置かれていないこの部屋ではもう答えは明白だった。

 リビングの空間、その中央には、床に広がり落ちる黒布のシート。

 そして、縦長の鏡。

 桜は鏡の前に立つ。桜の全身が鏡面に映し出される。


〈あなたがいなければ私は生きてはいけない〉


 この文が指し示しているものは鏡。〈あなた〉は鏡の前に立つ者のことで、〈私〉は鏡に映し出される像。人が鏡に映る自分の姿を見ている状況を示している。

 そして、その後に続く一文。


〈そこにはとても美しいものが見えるでしょう〉


 鏡に見える美しいもの。おそらく、その意味は――。


 とても自然な状態で顔に張り付いているせんの仮面に右手を当てる。

 術を解除。

 仮面をはずし、鏡に映る自分に向かって桜は言う。


「ねぇーよ」


 いかにも雛が言いそうなことでイラっときた。


 床に広がるシートの上にせんの仮面をそっと置く。

 さすがに死に場所へ持っていくわけにはいかない。ここでお別れだ。

 あの仮面屋には悪いことをしてしまった。

 余命数時間という人間がこんな想いの込められた仮面、受け取るべきではなかった。

 それでもあの時、そういった考えは一切浮かばなくて。もしかするとこの仮面に惹かれていたのかもしれない。

 いずれこの仮面の対となる仮面の持ち主がここに来る。きっと大事にしてくれるはずだ。


 立ち上がり、再び鏡と向かい合う。


 右手を伸ばして鏡に触れる。霊力を流し込む。

 すると、水面が波立つように鏡が揺らぎ始めた。

 やはり当たりだ。

 この鏡がしんひらじんぐう、隠された本殿への入り口だ。


 桜は揺らぐ鏡の向こう側へ右足を突き入れた。

 鏡の向こう側に消えた右足が何もない空間を感じ取る。ゆっくりと足を下ろしていき地面の有無を確かめる。

 右足が桜の立つ床と同じ位置で何かを踏みしめた。

 足裏から伝わる柔らかすぎず硬すぎもしない、しなやかなとても馴染み深い感触。

 この感触は、畳だ。


 鏡の中に入る。

 そこには真新しい藺草の匂いが香る畳の空間が広がっていた。

 背後にはマンションにあったものと同じ形状の鏡。

 左右と前方に壁がなく、大きく開いた空間からは白い光を滲ませた夜空が覗いている。

 すっと外から温かい新鮮な風が吹き抜け、そして、ひらひらとそれは桜の視界をよぎった。

 ドクンと桜の心臓が強く拍動する。


(まさかっ……)


 桜は引き寄せられるような足取りで畳の上を歩いていく。

 左足が何か段差のようなものに引っかかり、体が前に大きくよろめいた。片足で数歩たたらを踏み、体勢を立て直す。

 気付くと桜は白い光を放つ石畳の上に立っていた。 

 小さく振り向く。

 眼前には柔らかな白い光に包まれた、屋根も柱も白い壮麗荘厳な建物。これが、しんひらじんぐうの隠された本殿。

 だが、感動に浸る余裕はなかった。


 桜は空から舞い降り続けるそれを一片掴み取る。

 たちまちにそれは桜の手の中で溶けるようにして消えていった。


 見上げた夜空には星が降りだしそうなほどに澄み渡っていて、真円から少し欠けた月が浮かんでいる。

 そして、その空からはひらひらと絶え間なく、桜色に光る花びらが降り続けているのだった。


 立ち眩みのような感覚を覚えながら、本殿前に広がる光景に目を向ける。

 夢でも見ているのだろうか。


 朝と夜とで景色が大きく変化している。

 だが、その景色はすでに一度見たことがあるものだった。


 混濁する思考の中、桜はどうにか一歩を踏み出し、白光石の石畳を蹴って大きく前に跳んだ。

 本殿はかなり高所にあったらしく、落下中下へ大きく伸びた階段が確認できた。その階段も石畳と同じく全て白光石でできているようで、柔らかな白い光を放っている。


 星空と光る花びらを映し込む漆黒の鏡面に水しぶきを大きく立てて着水する。

 水面に立ち、そこから広がる世界を見て、桜はただ立ち尽くすしかなかった。


「なによ、これ……」


 どこまでも続く黒の水平線。

 水面は透き通った鏡となり、星空と空から舞い降る花びらを満遍なく写し込み、世界をどこまでも広げている。

 その光る花びらを降らしているのは遠近感が狂うほどに巨大な白いようじゅ

 朝の時とは違い、花だけでなく妖樹そのものも白く発光している。

 そしてその光る桜色の花を咲かせる妖樹は空を支える柱のように左右両端に並び、水平線に向かってどこまでも続く巨大な並木道を作り出していた。


 しんひらじんぐう本殿、その正面に広がっていたのは、桜にとってつい数時間前、伊佐奈いさなと約束を交わし別れた場所――――てんきの通り道そのものだった。


 前方から吹き流れるたおやかな風が空中で漂う花びらをそよがせる。

 しばしの間、呆然と水面の上で立ちすくんでいた桜はここへ来た目的を思い出す。

 すっと息を吸い込み、声を張り上げた。


「雛! ……雛ァ! 言われた通り来てやったわよ! 私に何か話すことがあるんでしょ!? 早く出てきなさいよ!」


 だが返ってくる言葉はなく、桜の声は虚しく空に響くだけだった。


「雛、私はくにがみになんてならない! 私はもう、このまま……! だから……だから最後に、雛に伝えておきたいことがあるの! だから、私はここに来た! あの時、雛に言えなかったことをちゃんと、伝えておきたいから……! …………だから雛……出てきてよ……っ」


 どれだけ待っても雛は現れない。

 佇む桜の頬をふわりと何かが撫でた。

 それは桜色に光る霊力で出来た花びらだった。桜に触れた花びらは光を散らし、すっと空中に溶けて消えていく。


(……ん)


 背後から気配が一つ近づいて来た。

 桜の後ろに来るとそれは止まり、ゆっくりと水面に着水する。

 心が解き梳かされるようなその清らかな匂いは、すぐにその人物が誰かを教えてくれた。


「あんたも、しつこいわね」


 振り返る。

 ゆいしきおりがそこにいた。

 詩織もまた胡蝶の仮面をはずしていて、その顔を見た桜は小さく笑う。


「なに泣きそうな顔してんのよ、あんたは」

「桜様は……っ! ……桜様は、ここでっ……! ……このまま、本当に…………死ぬ、おつもりですか……」

「そうね。そうなるわ」

「……桜様……私はっ」


 詩織はぐっと一度それを耐えようとした。

 しかし結局詩織は耐えきれず、ぽろぽろと涙を零しはじめた。


「嫌ですっ、そんなの嫌です……っ。桜様は、私のっ……神様で……桜様はっ、私と、約束をして……」

「私はあんたと約束なんかしてないし、私はあんたの神様でもない」


 そう言い切ってから一つ息をつき、そして桜は微笑んだ。


「だけど、困っちゃうな。あんたの中じゃ私は本当に神様のような――――大切な、存在なんだ」


 桜は右手を伸ばし詩織の頭を撫でた。

 滑らかな髪が気持ちいいほどに桜の手の内で流れていく。


「あんたには感謝してる。あんたのおかげでリリスを助けることができた。だけど、私はもうここで死ぬって決めてるのよ。ごめんね」


 詩織は涙を拭い、真っ直ぐにこちらを見つめる。

 そこには覚悟を決めた瞳があった。


「桜様。私は桜様に決闘を申し込みます」

「……どういうこと?」


 撫でる手を止めて桜は訊く。


「桜様に私の強さを認めていただきたいのです。私に桜様を守るだけの強さがある。それを決闘の中で証明してみせます。ですから、私が桜様に勝てば桜様は生きることを……国神になる覚悟を決めてください」


 詩織の言い分は無茶苦茶だった。

 これから死にゆく桜に何のメリットもない。仮に詩織が勝ったとしても、それが詩織の言う証明とやらになるとは思えない。

 だが、桜は答えた。


「分かった。受けよう、その決闘」


 詩織がどうしてここまで自分に執着するのか桜には分からない。

 それでも、せめて自分を想う彼女に悔いが残らないようにと桜は詩織の決闘を受け入れた。


「じゃあ、私がその決闘に勝ったら……あんたには私が死んだ後の処理をしてもらう」


 詩織ははっと息を呑んだ。

 遠くで聳え立つ巨大な白光樹を見回しながら桜は言う。


「そうね。ここにある樹の下に埋めてもらおうかしら」


 妖樹の根本は水面下にあるようだが、霊術を使えばそれ程難しくない作業のはずだ。

 詩織は表情を張り詰めたままで、何も言葉を返さない。


「ほら、よくあるあれよ。桜の樹の下には死体が埋められているってやつ。その死体の名前が桜ってのは――まあ別に何もおもしろくないわね。そもそもここにある樹、桜の樹じゃないし」

「ふざけないでください!」

「ふざけてないわ。私が勝てば、あんたは私が死んだ後、私を葬るの。……お願いしていい?」

「…………分かりました。ですが、それはあくまで桜様が私に勝った時の話です」

「へぇ。決闘ってさ、何でもありの殴り合いでいいのよね?」

「はい」

「それで勝つ気なんだ、私に」

「はい。勝たせていただきます」


 詩織ははっきりと言い切った。

 面白いと桜は笑う。

 詩織は先ほどさいじょうでの戦いを見ていたはずだ。それでも詩織は勝つ気でいると言う。


「桜様、決闘の前に封印を強めることはできますか?」

「ええ。丁度あと一回ってところよ」

「……っ」


 桜は胸に手をかざし内にある封印を強めていく。

 はくえんの覚醒は近い。やはり封印を強められるのはこれで最後だ。


「それで、桜様が戦える時間はどれくらいですか」

「最低でも三分は持つわ」

「……分かりました。桜様、その時までにはどちらかが決着をつけましょう。それと、もう一つ。桜様、どうか最初から全力で私と戦ってください。手加減は無用です。私を殺すつもりで来ていただいて構いません。本気の桜様に勝たなければ意味がありませんから」

「……上等」


 本当に面白い。

 久しぶりに胸の奥底から純粋な闘志がふつふつと沸き上がってくるのを感じた。


 水面に立つ二人は互いに目線を合わせながら距離を取っていく。

 詩織の瞳に翡翠色の光が灯る。

 身体強化の一種、瞳力の強化。全体的な身体強化も使用しているはずだが、瞳以外に変化は見られない。

 そもそも詩織の霊力に色はなかった。おそらくこうして瞳に色を持たせて光らせているのはわざとやっていることなのだろう。

 桜もまた身体強化を使う。ぼっと炎が燃えるようにして桜の瞳に深い青の光が灯り、続けて同色の光が桜の全身から溢れ出る。

 五十メートルほど離れたところで二人は自然と止まる。

 光る花びらが舞い降る中、二人は静かに向かい合う。


「これで最後になるから今謝っとく。……色々と悪かったわね。あんたにはけっこうキツイこと言ってたかもしれない。私は、ずっとあんたの後ろに居るあいつを……あやさきあまねを見ていたから」


 大きく風が吹き流れ、足下の水面が揺らぎ、波紋が広がっていく。


「あんたには悪いけど、私はここで私を終わらせる。ここを、私の終わりの場所にする」

「終わりではありません。終わりになんてさせません。ここは、私達の始まりの場所です」


 風が止む。

 互いの瞳でそれが戦いの合図となった。

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