第5話 悪意ある存在

 人間には本能的に恐怖に感じる事があり、緋水と鈴の前に現れたその存在は間違いなくその類に該当される。

 明確に伝わる悪意と恐怖に体は震え、本能は警鐘を鳴らし続ける。

 

 ――何? 何なの? 怖い 怖い 怖い 怖い……


 鈴はその細い体を両手で抱きしめ、今にも恐慌状態に陥いってしまいそうなほど取り乱している。

 しかし床に伏せたままの緋水には、それよりも遥かに気にしなくてはいけない事があった。


 ――僕は……おまえの事を知っている?


 記憶よりもさらに奥深い場所。

 緋水のその場所には、確かにこの存在が深く刻みつけられている。

 それはまるで因果の様に、それでいて宿命の様に、深く深く、決して癒える事のない傷の様に刻みつけられた、大切な存在。


『我ヲ滅ボシテミヨ。汝ニトッテソレガ是デアルヨウニ、余ニトッテハソレガ否トナル』


 緋水は痛む体に顔を歪ませながらも、その場で立ち上がるとおもむろに右腕を横に広げる。


「ちょっ、ちょっと!」


 鈴は慌てて緋水の元へと駆け出そうとするが、恐怖に支配された人間がそうそう上手く動けるものではない。

 その間にも緋水の心はどんどん深奥へと潜り込んでいく。



 

 ――僕は、何をしようとしている?(そんな事は分かりきっている)

 

 ――体が、熱い(それは滅びを綻ぶ望まぬ力)

 

 ――色が……消えていく(さあ、滅ぼしてしまおう)


 ――僕は――――この力の使い方を知っている。




 そうして緋水の視界は改変する。

 モノクロの世界はひび割れ、白と黒が剥がれ落ち、そこに有るはずのものが一切の色を失くしていく。


 ==J'ai ete trompe

  〈僕は愚かだ〉


 緋水が小さく口を動かしたその瞬間、先程まで目の前に浮かんでいた悪意ある存在が跡形もなく消し飛ぶ。

 

 ――まだだ。


 本能的に理解していた。本能的にそれを感じ取っていた。

 緋水は家屋の扉を開け放ち、屋外へとその身をさらけ出す。するとそこには先ほどよりも明確に姿を現した『悪意ある存在』の姿が。


『オオ、ソレコソガ真理。ソレコソガ我ガ破滅』 


 ――やっぱりあの程度じゃ傷も与えられないか。


 記憶の奥の本能だけが、緋水の体を支配する。 

 

「おまえに恨みはない。でも、僕はおまえを消さなくちゃいけない」

『心地ヨイ波動ヨノ。ソレデコソ我ガ伴侶ニ相応シイ』   

これ・・を使えばおまえは消えてなくなる」

『ナラバ試シテミルガヨイ。ソレガ驕リデナケレバ、我ハコノ存在ヲ塵芥ニカエスダロウヨ』


 ――そうか、それなら遠慮はいらないな。

 


 ――代償は、僕の視ている全ての世界だ――



 そうして緋水は言葉の群れを、一つ一つ丁寧に縫い合わせていく。



 ==Le garcon etait en amour avec le peintre

  〈その少年は名も知れぬ絵描きに恋をした〉

 ==Il est tout le debut, il est de toutes les erreurs

  〈それが全ての始まりであり、それは全ての過ち〉

 ==Le garcon a ……



「駄目だよ」


 突然聞こえてきたその声に、言の葉の紡ぎが綻びる。

 その声の持ち主はいつのまにか緋水の傍らに立ち、その手をぎゅっと握り締めている。


「それじゃあ、君が救われない」


 そう言った鈴の顔はあまりにも穏やかで、先程までの取り乱した様子は一切伺えない。

 

その力・・・はもう使わないで。これ以上、君が全てを背負う必要なんてない」


 触れられた手の温もりが、緋水の体を縫い付ける。

 零れ落ちた一粒の涙が、緋水の視界にモノクロを取り戻していく。

 

 ――僕は、いったい何を……


 まるで糸が切れた人形の様に、緋水はその場で崩れ落ちる。


「うん。今はゆっくり休んで」


 その寝顔が安らぎに満ちている事を確認すると、鈴は真っ向からその『悪意ある存在』に向き直り、こう宣言する。


「私はあなたが何者なのかも知っているし、どんな理由でここに来たのかも知っている」

『然ラバ、何故我ノ邪魔ヲスル』

「私はもう、この人だけが傷つく世界にはウンザリしているの。だから、――それを邪魔立てするなら、例え相手が何であろうとも恐れはしない」


 その確固たる意思だけが、少女をこの場に踏み止まらせる。

 

 ――私はもう、誰にも彼を譲らない!


『……面白イ。ナラバソノ道、貫キ通シテ見セヨ。所詮、我ト粗奴ハ縛ラレテオル。何処ニ行ッテモ詮無キ事ヨ』

 

 その存在はそれだけを鈴に告げると、その場からあっさりと姿をかき消してしまう。

 

 ――助かった……の?


 鈴はその場で腰が砕けたかの様に腰を下ろし、深い深い安堵の息を漏らす。

 それも無理はない、先の経験は彼女がこれまで生きてきた中でも、もっとも過酷な立会いだったのだから。


「これで、いいんだよね」


 誰にともなく呟いた言葉は風に消え、少女は一人、秘めた思いを確かめる。

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