わかがえる 二

「わ……」驚いて、人形から手を離した。

 尻餅をつきかけて、片手が床につく。

 ギイっと、床が軋む。

 キィー……イィ……ーンと、耳の中に、細く甲高い音が残響する。

 鼓動が激しく胸を打っていた。

 じわっと、汗がにじむ。

 ……え?

 ゼンタ?

 誰?

 わからない。

 だけど……。

 ゼンタ。

 ゼンタだ。

 一人の、人間。

 人の記憶。

 そしてこの人形は……ゼンタ。

 人形に見下ろされるような姿勢で、ジワジワとこみ上げてくる戦慄を腹一杯に感じる。

 ゲココココ……と、カエルの声。

 訳のわからぬまま、私は本能的に後ろを見た。左右を見た。今私の身に起きたことの、どこかに有りうるはずもない理由を探すように、上も見た。カエルの鳴き声が薄暗闇に溶け込んで、どこまでも深閑としていく神社の中を見回した。

 そしてまた、この人形……ゼンタの人形をかえりみる。

 その姿が記憶に焼き付いている今、この人形はもはやゼンタを模したものであることは疑いようがなかった。木彫りゆえの無機質な目や艶のありすぎる唇に違和感を感じられるほど……すなわち、との比較が可能なほどに、私の頭の中に、ゼンタという人間の印象は深く刻み込まれていた。

 これはいったい……。

 引き残された余韻にめまいを覚えながらも、流されるようにその左の人形に目を向ける。ちょっと太った、男の子……さっきの……ゼンタよりも、少し年上に見えるけど……。

 恐る恐るに、指を触れた。

 またフワッと、顔が浮かぶ。

 ……ジロウ。

 大人しくて、自信が無さそうに揺れる目線。どこから見ても丸く見える、そんな体型……。

 フーっと息を吐く。

 間違いない。気のせいなんかじゃない。気のせいであるものか。

 シズさんを呼ぼうかと思った。

 だけど、何かが私を押し止めた。

 切ったはずの後ろ髪を引っ張る、かすかに嫌な予感みたいなもの。

 まるで悪いことでもしている気になって、もう一度あたりを見渡す。札を貼られた人形たちが、私の悪行を逐一暴き立ててやろうと監視しているような恐怖を覚えて、思わず両手で頭を抱えてうずくまる。

 煙たい、甘い匂いが肌を舐める。

 シズさんが布幕の裏で立てているコトコトという小さな音が、神社の中に響いている。

 冷や汗が首筋を伝った。

 深呼吸。

 私は決心して、ジロウの隣の人形にも指を触れた。

 イチロウ。

 ジロウの兄……か?

 ジロウを少し痩せさせて、ちょっぴり大人にした顔。それでもまだ、私よりも少しか幼いだろう。だけど性格はジロウとは全然似てない、明るくて、快活で、生意気な子……。

 なんだろう。

 なんだろう、この感じ?

 これは、記憶?

 思い出している?

 いや……だけど……。

 急かされるようにイチロウのすぐ右の、一番作りがよくないかっちりとした人形へ。

 これは、ソウヘイ……イチロウと同じような年だけど、イチロウより少しだけシュッとしていて、年上に見える。男の子らしい顔、と言えばいいのか。ソウヘイもイチロウのように元気だ。

 その二人が取っ組み合う、そんな景色が目に浮かぶ。

 ……なんだ、この感覚?

 私は、彼らを知っている?

 でも、これは人形……。

 じわじわと早くなる、胸の鼓動に急かされるように、次の人形にも指を這わす。

 これは、ヤキチ。イチロウとソウヘイよりも少しだけ年上で、骨ばった顔といやらしく唇が釣り上がる笑顔が、性格の悪そうな雰囲気をたたえている。それに細長い目もまた、こずるくてイジイジした内面を表しているかのようだ。

 なぜだ……なぜ、性格まで見えてくるのだ?

 顔、背丈、年から、性格、声……そんなもの全てが人形に触れることで、一度に頭に入ってくる。

 曖昧な印象そのものが、鮮烈に脳裏に叩きつけられる。

 ひとりの人間の情報が、刻まれる。

 あまりに不思議な体験だった。

 これは……なんなんだ?

 思い出しているのか? 失われた記憶の一部を?

 それとも、何か別の……。

 わからない。

 だけど……。

 頭は冴えていた。

 冴えながらも、次へ次へと、触れることは止められなかった。止めようとも思わなかった。これが今、私のするべきことなのだと疑いもしなかった。

 男児人形の、最後の二つ……年の若い方へと、手を伸ばす。

 細く、鋭い顔が、記憶の中に飛び込んできた。今まで見てきた……否、浮かんできた男の子たちとは全然違う、あやしくて陰りのある雰囲気。ともすれば女の子に見えそうな、そんな顔……。

 名前は、ゲン。

 この時の気持ちを正直に言うならば、私は多少なりとも心を乱されていたように思う。今までの子たちと比べて、とても素敵な顔立ちだったから……。だけど、目つきは悪いように感じる。この村の人たちにそっくりだ。でも、なんだろう……その顔は、ほかの誰よりもちょっと暗くて見にくい感じがした。

 そして最後の一つが……タケマル。

 見た感じでは、マキさんとそんなに変わらない年に思える。片方の眉だけ釣り上げて笑う独特の表情が、何度も何度も私に笑いかけてくるかのような……年長らしく、いつも余裕のある頼れる存在……そんな気がした。

 汗がまた一滴、脇を流れる。

 この男の子たちは、なんなのだろう……この世の誰かなのだろうか、それとも私の何かなのか……あるいは……。

 見た感じ、ゲンが一人だけ美男という感じで、他はみんな、いい意味で親近感が持てる顔だった。ヤキチだけちょっと嫌な感じかな……。

 さて……。

 本命を前に、気を落ち着ける。

 では女の子たちは、どうだろう。

 そろそろと、右の棚へ這って進んで、そこに並んだ女児人形もまた、幼い方から順々に触れていく。

 最初の一つは、とても幼く小さな人形。ポカーンとした顔に、喜びにあふれた幼気いたいけな笑顔。リンって名前だ……。

 ゼンタの妹……かな?

 その次が、物静かな雰囲気のアマコって子。顔は全然違うけど、ジロウとちょっと感じが似ている、そんな気立て。人を見るときはいつも上目遣いな、二重ふたえまぶたの無口の子。こちらはあの素敵な顔の、ゲンの妹か。

 その右のキツそうな顔をした子が、カイリ。ゼンタとリンの姉らしい。きゅっと結んだ唇が短気な性格の表れだろう。キーキーという怒鳴り声が、頭の中に響き渡ったような感じさえした。

 ……一度、胸に手を当てる。

 落ち着いて、落ち着いて……。

 その隣に座る、綺麗な顔の人形に手を触れた。

 そして浮かんできた顔に、私は思わずため息を漏らしてしまった。

 なんて可愛いんだろう……。鏡で見た自分の顔に多少でも嬉しくなっていたのが少し恥ずかしくなってしまうくらいに、愛らしい面立おもだちの美少女だ。それに私よりもずっと明るそうで、気立てもいくらかは穏やかに見える。名前はイナミか。イチロウやソウヘイと同い年、かな。

 その次がヨシ。たった今見た、可愛いイナミの姉。顔の感じ……目の作りとかはなんとなく似ている感じがするが、妹のような愛くるしさはない。だけどそれが悪いとかもったいないとか、妹のほうが魅力的だとは全然思わなかった。強そうだけどキツすぎない目つきと、年の割に高い身長。多分私とそんなに変わらないくらいの年だと思うのだけれど……なんだろう、マキさんよりもずっと頼れそうな雰囲気を持っているというか……かっこいいなって、美しいなって、そんな感じ。綺麗な顔の血筋なのかな。

 残るは、一つ。おっとりとした目つきの、優しそうな人形。

 指先で、その額に触れた。

 ……カヤ。

 顔のまんまに、優しい人……控えめで、いつも両手を合わせて笑っている、たおやかな彼女。泣いてるリンをギュッと抱きしめている姿が、まぶたに浮かんだ。

 ぐっと胸が苦しくなった。

 なぜかはわからないけど……寂しさを覚えた。

 これで全部である。

 改めて全体に目をやれば、それらが今、私の目に浮かんだ子供たちの人形であることは疑いようがなかった。神社の前にあったカエルの石像が、ヌメリや色が無くともカエルであるとわかるように、彼らの人形もまた、明らかに彼らの模造品であった。

 ……なんて奇怪な状況だろう。

 私は確かに、彼らの顔を見たのだ。

 だが……。

 それなのに。

 寒気を感じて、自分を両腕で抱きしめる。

 その彼らがなんなのか、いったいどこの誰なのかが、わからない。

 私は彼らを知っている。しかし、いつ知ったのかはわからない。

 果たして人形を見た一刹那に知ったのか、それとも未だ存在さえ疑わしいほどに霞みがかった私の記憶から、何がしかの刺激を受けて掘り起こされた私の知人たちの姿であるのかさえ、わからない。

 私は必死で頭を動かした。目を閉じて、彼らの姿に集中した。が、無意味だった。つい先日、目覚めたばかりの私が記憶を思い出そうとした時と同じような、伽藍の洞が続くばかりであった。

 今一度目を見開いてみれば、最初は愛らしくさえ思えた人形たちが、今や得体の知れないながらも、なにかしら重大な意味を隠している疑惑の塊にしか思えないのだった。

 静かな恐怖が、徐々に頭を満たしていく。

 これが……あるいは村の人たちが私に対して感じている薄気味悪さなのか。

 札の貼られた人形たちへ抱いたおどろおどろしさとは全く異なる、冷たく、不可解な違和感。暗闇への恐れに近い、形のない不安。記憶に残る人間としての彼らの姿と、目の前の人形たちの無機質な質感……。

 これは、なんだ?

 誰だ? 誰なんだ?

 痛み出した頭へと、自然に手をやる。

 今見たみんなの顔が、チカチカと脳裏で瞬いている。その姿を、もっとよく見たいと思った。知りたいと思った。

 目を閉じると、世界がスーっと遠くなっていくような気がする……。

 頭の中に残る、人形の残像が、輪郭が、一つずつ姿を実物へと変えていく様が、ありありと目に浮かび始めた。

 カエルの鳴き声が、やけに大きく聞こえてくる。

 いつしかそれに混じって、人の声が聞こえ始める。

 あの一番幼い、リンの泣き声が、うえーん、うえーんと……。

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