がまがえる 二

 夢は、嫌な奴ことヤキチの上ずった声から始まった。

「その時よぉ……俺は見たのさ」と、ヤキチがカイリの肩に片腕を回しながら、紙に何かを描いて示している。

 その腕の中で「うんうん」と頷くカイリの表情は、それほど嫌がっている風には見えなかったけれど、裾を掴む指先の強張こわばりに、ムカついている本心がにじみ出ていた。

 場所はまた、この前五石をやっていた部屋の中。

「川の中にいたのはな、すげえでっけえ獣だった。見た感じ、太った狐かタヌキっぽい見た目なんだけど、大きさが凄まじくてなぁ……背丈は、四つん這いでもタケマル兄よりでっかくて、太さにいたっちゃ川幅いっぱいあるんじゃねえかってくらいの化け物さ。ありゃあきっと妖怪だね。もしかしたら、あれがクマってやつなのかもしらん」

 なんだそりゃ。

「うわー、こわーい」と、カイリはうなっているが、どう見ても真剣に聞いてる風ではなかった。多分、すっごい馬鹿臭い話だって思ってるんだろう。私も同感である。

「爪は俺の顔ぐらいあるし、開けた口はカイリなんか一呑みってなもんよ」

「ひー」

「さて、そんな化物に襲われちゃあ、どう考えたってひとたまりもねえ。だから俺は、勇気の撤退を決め込むわけだが、すぐには逃げなかった。なんでだと思う?」

「なんで?」

「たとえばな……普通に叫んで走りだしちまったら、化物にバレちまう可能性があるだろ? そうなっても、まあ俺のほうが小さいし足も速いだろうから、森の木を利用すれば逃げきれるかもしれねえ。でも、万が一にも転んじまったらおしまいだろ?だから、俺は息を潜めていることに決めたんだ。観察してやろうとも思ったしな」

「うん、そっかそっか、なるほど」なんて、カイリは素直でわざとらしい態度で聞いている。カイリを知らない人が見たら、彼女をしおらしい性格なのかと勘違いしてしまうかもしれない。

「でもよぉ、もう朝まで時間もないわけ。抜け出しちまった手前、日が昇る前には帰らなきゃならねえ。さあ困ったってなるわけだけど、でも俺、気づいちまったんだよ、なんにだと思う?」

「え、なに?」

「ほら、ここが滝だとするじゃん?」ヤキチは馬鹿話を、得意になってしゃべり続ける。「でもここからまっすぐ戻ると危ないわけよ。バレたら危ないからな。でも、そっちから以外に戻る道知らねえじゃん? さあ、どうするよ」

「どうするの?」

「わかんないか? ほら、ここ見てみろ、な? な?」

 と、紙を指しながら、やけに粘っこい口調でもったいつけるヤキチの顔を、カイリはいかにも何も考える気のなさそうな顔で見返す。「えーなに、わかんない」

「ほら、ここだよ、ここ。こっちに滝があるだろ」ヤキチはなおも得意げに、紙の上で筆を踊らす。

「うん」

「滝から流れた水ってのは、絶対に下流につながってる。だから、川に沿って行けば、必ず帰れるって意味なんだよ」

 プッとカイリは吹き出すが、すぐに「あぁー、そっかぁ!」っと白々しい歓声を上げて笑ってみせた。

「だから俺ぁ、川向いまで行くことなくその化物の視界をすり抜けて、遠回りながらもこの通り生還できたってわけさ」

「ほんとだ、すごーい」

「いやぁ、息詰まる対峙だったぜ、しかし」完全にいきがってるヤキチは、ドンドンと上ずった声を張り上げながら、身振り手振りを交えて語りだす。「向こうはまだ俺には気づいちゃいねえ。気づいちゃいねえが、でも、奴も近くに何かが潜んでいるのがわかったんだろうな。濡れた前足バチャバチャさせてよ、警戒するように唸ってるのよ。あまりでけえもんだから、その一歩一歩で岩は砕けるわ、地面は揺れるわ、鳥は森から逃げていくわで、そりゃあおっかなかったんだぜ」

「うんうん」と、目をそらしながらカイリは頷く。

「その時だぁ」どの時だ。「グララララーっと、雷みたいな音があたりに響いた。俺は慌てて顔を伏せたね。だが、奴は動いていない。そうさ、あれは腹の音だったんだ。奴は腹を空かせていたんだな。飢えた獣の目ほど、恐ろしいものもねえ。だが俺はそこから生きて帰ってきた。それも、抜け出したのがバレねえ時間までにな!」

 と、満足げにニヤつきながら太い手でバシバシとカイリの背中を叩くヤキチの後ろに、またヨシの影。

「抜け出したって、それいつのこと?」

 ヤキチは振り向かずに、盛大に顔をしかめて舌打ちをする。

「ヤキチ、あんたまさか……」

「なんだよ、俺の勝手だろうが」ヨシの言葉をさえぎるように、めんどくさそうにヤキチは答える。

 悪びれないヤキチを見て、ヨシは両手を腰に当てて説教を始める。「あんたねえ、そういうことするとイチロウたちが……」

「うるせえ!」バッと、ヤキチは上ずった声を上げて、立ち上がる。「ヨシはいつもいつもうるせえんだよ!」

 ビックリして肩が縮こまったカイリとは対照的に、ヨシは一切ひるむことなく、より一層呆れた顔でヤキチを睨む。二人の間では、まだヨシの方が背が高いようだ。

「……はぁ?」

「てめえがエラそうにあっちには行くなって言うから俺だってあんな時間にコソコソしなきゃいけねえんじゃねえか!」話は読めないが、おそらく筋違いなことを、ヤキチは叫ぶ。「あんなとこ危険でもなんでもねえよ!」

 ……危険じゃない? たった今、危険だったって話をしてたくせに。

「あんたが危険がどうかじゃなくて、ゼンタとかがマネすると危ないって言ってんの!」と、ヨシ。「そんな年になってなんでそういうこともわかんないのよ!」

「……だからこっそり行ったんじゃねえか」

「そう、それでこっそりカイリに教えたわけね?」

「…………」

「あのね、滝の上の方はなんで行っちゃダメって言われてると思うの?」ヨシは目をそらすヤキチにまくし立てる。「ダメだって言われてるからどうとかじゃなくて、なんでダメって言われてるか考えないとダメでしょ、わかる?」

「……それぐらい、わかってら」ぼそっと、ヤキチはつぶやく。

「それに……本当にこっそりできるならまだしも、ヤキチ、すぐ人に言っちゃうじゃないの」今度は少しだけ優しい口調で、ヨシは諭す。「ゼンタが火傷やけどしたのもあんなが変な自慢したからでしょ? もう子どもじゃないんだから、そういうの本当に……」

「……うっせえよ!! んなもんカイリが面倒見てなかったからじゃねえか!」

 そう言われたときに、気まずそうに肩をすくめていたカイリの目が一瞬、信じられないと言いたげにヤキチに向けられた。

「カイリの負担増やしといて何言ってんのよ!」すかさずヨシは怒鳴る。「ちょっとヤキチ、自分が何言ってるかわかってるの?」

「知るか! ああもううるせえな!」ヤキチもムキになって怒鳴り返しながら、さっさと背を向けて軒先から飛び降りる。

「ちょっと、どこ行く気……」

「厠じゃボケェ!」振り返らず、ヤキチは吐き捨てる。「叱りたいならソウヘイでも捕まえてろバカ!」

 そう言ってズンズン駆けていく背中を冷たい目で見送りながら、ヨシはハァっとため息をついて、腰を下ろす。「もう、なんであんなに子どもなのかしら……」

「……あぁ、助かった」と、しかしヨシとは対照的にざまあみろとでも言いたげな顔で、カイリは笑う。「ヨシ姉聞いてよ、ヤキチってば川沿いに行けば帰れるなんて、誰でもわかること思いついたってじまんしてくるのよ? ほんっっとバカみたい!」

「ははは、なにそれ」ヨシは笑う。

「そうそう、しかも、それ言うためにわざわざスミ探してくるんだよ? ほら」カイリが持ち上げた紙には、モジャモジャと黒い線がいくつか引かれている。真ん中には、なるほど大きな獣みたいにも見えるデブが描かれていた。「これぐらい描かなくても説明できるでしょーに」

「あらら、もったいないなぁ……」そう言いながらヨシは、近くにあったすずりを持ち上げる。「これも洗わないで行っちゃうし。で、何よこれ?」

「いつもの作り話よ。今日はでっかいタヌキを見たんだってさ」

「ふーん」

「お腹の音が雷みたいなんだって。ヤキチって、なんであんな話ばっかり思いつくのかしら」

「好きだよね、話作るの」と、ヨシ。「ちっちゃい頃からお化けとか、そういうの見たって話ばっかりするのよね、あいつ。それは別にいいんだけど、バレバレなこと言っておいて突っ込んだら怒るのはどうなのさってね」

「ホンっっトにそう! 頭悪すぎよ! それに何さ、あの態度! なんっっでゼンタのバカまで私のせいなのよ、信じらんない!」先ほどまでの大人しそうな態度とは打って変わって、この前の夜のようにカイリはまくし立てる。「そりゃあ……私がゼンタから目をはなしたのも悪かったけど、だってあの時はリンがおもらししちゃってて大変だったのよ」

「最近とくにあんな感じだよね、ヤキチ。ずっと怒ってる感じ」と言いながら、ヨシは高く縛っている髪を解いて、長い髪を肩に下ろす。そうすると雰囲気がぐっと女の子らしくなって、実はイナミと顔が似ているというのがよくわかる。二人の違いは、年齢以外は目元のキツさくらいしかないのかもしれない。

「……ヨシ姉がいるとイライラするのよ、ヤキチ」ゴロリと寝転がったカイリは、口元にかぶさった髪の毛をフッと息で払いのける。「あぁもう、叩かれて背中痛いし、さいあく」

「カイリもそんなにいやならそう言えばいいのに」

 ヨシのその言葉に、カイリは少しだけ複雑な表情で目を伏せた。「そりゃあそうだけど……」

「そうだけど?」四つん這いでカイリの方へ近づいたヨシが、その顔を覗き込む。

「だって、ヤキチが私とか以外と話してるのあんま見ないし……」目をそらすように、カイリは体を横に倒す。「私まで無視したら、なんかかわいそうじゃない……私が悪いみたいになっちゃうし」

「あぁ……わかってるんだ、やっぱり」と、ヨシもカイリの横に、仰向けに倒れながらため息をつく。「そうなのよね……だから怒んないで、ちゃんと私の話聞いて欲しいんだけどなぁ」

 ふーん、と思った。カイリはなんだろう……口調の割には優しいのだろうか。私ならあんな奴、さっさと「面白くない」って突っぱねそうなものだけど。なんだかんだヤキチって体大きいし、それがちょっと怖いのかな……その気持ちは少しわかるような気がした。

「それにしても、ヨシ姉いいところにきてくれたなぁ」カイリが、にっこり笑う。

「んー……かーさんのところの掃除を手伝ってたんだけど、もう大丈夫って言われてさ」と、ヨシ。「イチロウたち探しに行こうかと思ったけど、ここからヤキチの声聞こえてきたから、ちょっと様子見に来たの」

「あーやっぱり。そーだよね、ヤキチってうるさいもんね」

 カイリだって言えたものじゃないと思うけど……。

 ヨシも私と同じことを思ったのか、ちょっと皮肉っぽくニヤッと笑ってから、頭の後ろで腕を組む。「うーん、今日はわざわざイチロウたちのところ行かなくていいか。ジロウもついて行ってくれたみたいだし」

「ジロウ? ジロウが一緒だから、なに?」

「んー? あぁ、ジロウはねぇ……ジロウって、ちゃんとゼンタが無茶するの止めてくれるのよ」眠たそうに、ヨシはあくびをする。

「あれ、じゃあアマコも一緒に行ったのかなぁ」と言いながら、カイリもつられてあくびをする。

「いや、アマコは……」

 ヨシの返事をさえぎる、タッタッタっと、木の床を駆けてくる細い音。クイッと顔を上げて、ヤキチが出て行った軒先とは逆の、障子戸の張られた廊下の方を見たヨシの目線の先に現れたのは、何やら小さな袋を抱えたアマコだった。

 その目は真っ赤に腫れていて、涙が枯れることなくボロボロとこぼれ出している。

 慌ててヨシは起き上がった。「わ、アマコ、大丈夫!?」

「え? うわ、ちょっとどうしたの!?」と、カイリもびっくりして座り直す。

 アマコはヨシの顔を見ると、安心したのかそれともより焦ったのか、ぶるっと身を震わせたかと思うと、すぐに、立ち上がろうとしていたヨシの膝もとへとまっすぐ突っ込んできた。

 ヨシもそれを受け止めて、膝にすがりつくように泣くアマコの頭を撫でる。「あらら、こんなに泣いちゃって……よしよし、どうしたの?」

 泣いてるアマコはうわ言のように、「どうしよう……どうしよう……」と繰り返している。顔は見えないけれど、そのさまはどうにも深刻に思えた。

「ちょ、ちょっとアマコ落ち着きなさいよ……どうしたのよいったい?」カイリも、アマコの背中を撫でる。「なに、どっか痛いの? ちがうしょ?」

「うぅ……うえぇ……」アマコは、泣き続ける。

 カイリとヨシ、二人で眉をひそめて目を見合わせて、二人ともとりあえずはアマコを撫でる手は休めないまま黙って見守る。

 ヨシの困ったような顔、少し印象的だった。ヨシって人を叱るのは得意だけど、こういう時に上手く相手をなぐさめるのはカヤの方が似合ってる気がする。だから思うに、アマコもヨシではなくて、カヤを探して走っていたんじゃないだろうか。でもその前にヨシを見つけて、たまらなくなってしまったみたいな……でも、なんでアマコ、こんなに泣いてるのだろうか? 抱えている小さな袋の中身はここからじゃ見えない。

 しばらく嗚咽を漏らし続けていたアマコは、だけどいくぶん落ち着きを取り戻してきたのか、しゃくり上げは止まらないまま、少しだけ体を起こして目をこする。

 ヨシがアマコの肩に手を置く。「……大丈夫? アマコ、話せる?」

「わ……私……」身も声も震わせて、アマコはたどたどしく口を開いた。「どうしよう……とんでもないこと……しちゃった……」

「な、なに……?」正座したまま、カイリが聞く。

「げ……ゲン兄ちゃん……の……う、ぐえ……」

 ヨシの顔が曇る。「げ、ゲン? ゲンがどうかしたの?」

 またも泣きじゃくり始めたアマコは、自分の抱えていた藍色の小袋を、震える手でヨシに差し出した。

 なんだかその、泣き方が普通じゃなかった。いくら悪いことしちゃったからって、こんなにブルブル震えるだろうか。なんだか人でも殺しちゃったみたいに怯えているけど……。

 それと……なんて言うのか……確証はないけれど、アマコが泣いている姿自体、ちょっと見慣れない感じがした。ヨシやカイリの焦り方を見ても、今のアマコの状態が普通じゃないのは明らかだ。普通、人は泣くと顔が赤くなる。なのに今のアマコの顔は蒼白で、普段から白い肌がいっそう病的に思えた。

 アマコの手から小袋を、恐る恐るに受け取ったヨシは、泣いてるアマコと、首を伸ばすカイリを確認するように一瞥いちべつしてから、小口を広げて中を覗き込む。

「……あ」ポロっと、ヨシは呟く。

「え、なになに、なんなのよ?」カイリも首を伸ばして、それを見ようとする。「どうしちゃったの?」

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