わかがえる 四

「……スミレさん!」

 パチっと、目が開く。

 地響とも怒鳴り声とも、あるいはドッとわいた何者かの大笑いともつかぬような騒音が、頭の中でぐあーんぐあーんと渦巻いては、やがてゲコゲコと飽きもせず鳴き続けるカエルの声に呑み込まれていく……。

 横を向いている私の目線の真っ直ぐに見えるのは、床に落とされた、高いところから差し込む縦縞の光。

 ぼーっと、それを眺める。

 なんとなく喉に引っ掛かりを感じながら、ゆっくりと深呼吸。

 頬に誰かの冷たい手のひらが触れた。それが私の顔を、無理矢理に上へと向けさせる。

 ぼんやりとした輪郭が、女の人の顔が、影法師が、私を見ている。なにやら大変に焦っているか、驚いているかしているようである。

「あ……あなた……まさか……」

 と、呼ばわる声。

 ここは……。

 ハッとする。また記憶を失ってしまったかと思ったから。

 そして、それが心配になった時点でそれはありえないのだと気がついて、安堵。

 ここはオオヌマの村の神社で、であれば、今私を抱き抱えているのは……。

「シズ……さん?」カッスカスな、私の声。

 あれ?

 なんだろう、頭が重い。

 なんで私、こんなところで寝ていたのだったか……。

 シズさんの表情は暗くてよく見えない。

「一度……戻りましょう。やはりまだお体の具合がよろしくないのだと思います」

 体?

 えぇっと……あぁ、ダメだ。なんだか頭が回らない。何か大切なことを思い出しそこねているとは感じるのだけれども……。

 シズさんに支えられる形で、私はそろそろと体を起こした。

 突如足元がグラッとして、ようやく今、私は倒れていたのだということを理解する。先程も聞こえた幻聴が、またもぐあーんと腹を抱えて笑い始めた。

 あぁ、これは寝たほうがいい。

 鼻が詰まったみたいな息苦しさに喘ぎつつ、シズさんの肩に体を預けながら、ヨチヨチと進んでいく。と言っても、私自身に確たる自覚を持って進んでいたわけではない。なにやら非常に焦っているらしきシズさんに導かれるまま、引きずられていくように歩いていた、それだけである。ただただゲコゲコという鳴き声だけがずっと頭の内側でがなり立てているような、その声から逃げているような、不愉快に重たい気分のままで……。

 なんだか吐き気も感じ始める。

 ふわっと視界が明るくなった。外に出たようだ。

 ここに来た時は暗く見えていた森の中だけれど、中に比べれば随分と明るい。ここには怖い人形もないし……。

 ……人形……。

「ひぇ……」と、微かな悲鳴が耳に飛び込む。その音の方へと自然に目が向いた。

 そこにいたのは、二人の男の人。

 二人ともやせ細っていて、ヒゲも汚い大人の人……だったと思う。二人揃って正座しているあたり、どうやら神社の中に入る気であったようだ。

 その二人が、私を指さしながら、叫ぶ。「あ、お、お前は……」

「ケイゴ……! いけません!」シズさんが、今まで見たこともないような表情でその人……ケイゴと呼ばれた男の人を睨む。

 もうひとりの男は、こちらに背を向けて、アッという間もなしにドタドタと走り去っていく。

 このあたりでやっと、逃げていく男を眺めながら、この人たちはいったい何に驚いているのかと疑問に感じられるくらいに意識がはっきりとしてきた。

 ケイゴさん? もまた、背を向けて走っていこうとする。

「お、お待ちくださいっ……!」今まで聞いた中では一番の大声でシズさんは叫んだのだが、それが良くなかったのか、シズさんは体勢を崩しかけて、苦しそうにゼヒゼヒと咳き込んだ。

「あ、だ、大丈夫ですか?」今度は逆に私がシズさんを支える。当然力不足な私ではその重さに耐え切れず、つい踏ん張ったはずみで頭にジンジンと痛みが巡る。

「行くのなら……ギンジさんを……呼んできて下さいな……」息も絶え絶えに、シズさんはケイゴさんの方を見つめる。「よろしく……お願いします」

 何やら私とシズさんを交互に見比べながら、脂汗を額にびっしりにじませたその人は、顎を震わせながら小刻みに頷いたかと思うと、また妖怪から逃げ出すみたいに駆け出していった。

 その姿を見ながら、私は少し怒っていた。

 だってここに二人、明らかに辛そうに体を支えあっている私たちがいるのに、彼らはそれを見捨てて逃げてしまったのだ。細いとは言え、ちゃんと力のある大人の男ならば、二人を背負って帰るくらいの気概があったってもよいじゃないか。私がそんなこと言える立場ではないことくらいわかるけれど、だけどシズさんのためにも、あの人はそうするべきだっただろうに。少なくともヨシやカヤなら……。

「申し訳ありません……ここでギンジを待ちましょう」シズさんはそう言って、その場の壁に背を預ける。「体が弱いもので……まことに……」

 またゲホゲホと咳き込むシズさんを見て、なんとなく申し訳ない気持ちになる。やっぱり体悪かったんだ……。今度からどこかに行きたいっていう時は、ギンジさんを頼ろう。

 二人で並んで座りながら、かた無くくうを見上げる。屋根の裏側の黒く朽ちた支え木を見ながら、また眠くなりかけていたとき、シズさんが随分と霞んだ声で私にこう呟いた。

「スミレさんが目を覚まされたとき……何か思い出されたのかと……」

 思い出す……。

 ズキっと、胸が痛んだ。

 鮮明に記憶に刻まれている、森の広場の風景……戦慄が、一瞬の間に頭皮からつま先までを駆け巡る。

 あれはいったい……。

「え……な、なぜですか?」

「急に意識を失われたのだとしたら、そういうことなのかもしれないと……思いましたから」

「は、はぁ」

 内心かなりドキドキしながらも、顔だけ必死に平静を取り繕う。

 あれは……。

 夢……だったのだろうか。

 リンも、ゼンタも、ジロウも、アマコも、カイリも、イナミも、イチロウも、ソウヘイも、ヤキチも、ヨシも、カヤも、タケマルも……それに、あそこにいなかったゲンも……そういう、夢だったのか。

 それとも、やはり彼らは私の知る人たちなのか。失われている記憶の、私の生きてきたどこかの、思い出の一部なのか……。

 わからない。

 いや、だけど……。

 そうだ、人形。

 もし私が見たのが夢であるならば、きっと人形に触ったところから夢であるはずだ……。

 それを聞くのは、大変に勇気のいることだと薄々気が付いていた私は、深く考えて恐怖をあおるよりも先に口を開いた。

「シズさん、えっと、あの人形は……祭壇の横の……」

「はい」平然と頷いた彼女を見て、夢ではなかったのだとうかがい知る。

「なぜ……あそこに置いてあるのでしょうか?」

「……習わしです」

 続きを待ったけれど、シズさんはその先を言う気はないようで、呼吸を落ち着けながら目を閉じてしまった。私も、苦しそうな彼女に対して更に説明を求める気もしなかったので、また沈黙。

 ……シズさんを真似るように目を閉じれば、やはり浮かんでくる、彼らの顔。

 記憶が戻ったのであろうか?

 ……バカな。もし仮に彼らが私の知り合いや友人であるならば、なぜこの村にその人形なんかが置いてあるというのか。私はつい先日に、この村に流れ着いただけのものであるのだから。

 ……?

 ん?

 私は……この村に流れ着いた……のか?

 私は何も覚えていない。

 それってつまり……。

 いやいや、そんなバカな……。

 薄ら寒い予感から逃げるように、もう一度みんなの、特に、かっこいいヨシや優しいカヤ、幼いリンと可愛いイナミに、大人しいアマコ……女の子たちの顔を思い浮かべる。やっぱり男の子たちよりも、彼女たちの方が親近感が沸くような気がするのだ。男の子たちはなんだか、言ってしまえばバカっぽい感じがする。とくにヤキチは最悪だ。変に皮肉っぽく振舞っているけど、全然空回り。それにともかく、言っちゃ悪いけれどもあの顔が、カエルほどでなくともどこか受け付けなかった。うーん、あそこにいた中では、ジロウっていうあの太い子だけ、ちょっと雰囲気違ったかな。兄よりもなんとなく賢そうだ。

 ……あの光景はなんだったのか。

 みんなでかくれっこをしていた、平和な情景。私がそれを知るに至った状況の不可解さを度外視すれば、思わずニッコリしたくなるような素敵な風景。まるで今見てきたかのように思い出せるけれど……。

 そこに私はいただろうか。

 いたような気がする。

 いなかったような気もする。

 わからない。

 あれが私がどこかで見た記憶なのであれば、特に怪しむべきことなどない。失われた記憶が少し回復しただけの、喜ばしいことだ。だがその場合、なぜ彼らの人形がこの村にあるのかというのが問題になる。その人形に触れることで、記憶が戻ったことへの違和感だってぬぐえない。

 あれが私の記憶でないならば、もっと異常だ。実に怪しむべき、妖魔の術だ。

 あるいはただただ私が白昼に見たというだけの、いわれも拍子もない夢の類か……。

 どう考えるのが自然だろうか。

 喉にいやな圧迫感を感じる。

 どちらでも、おかしいのだ。

 ……ただひとつ、手掛かりがあるとするならだ。私はあの情景を見ている間、倒れていたということだろうか。彼らの姿をもっとよく思い出そうとしているうちに、意識が飛んでしまったのだ。それも十分、異常なことだ。

 あるいは本当に、呪術にでもかけられたのかもしれない。

 おばあさんに相談するべきだろうか。

 落ち着かない気分を沈めようと、腰を上げて立ち上がろうとしたのだが、その瞬間に視界が霞まんばかりに揺らぎ出して、あえなく倒れるように壁にもたれ落ちた。

 なにかしら、変な予感みたものを感じていた。

 先ほど私の見た情景のような、記憶……きっと、あれだけでは終わるまい。

 今だって意識さえすれば、もっとあの続きを見られるのではないだろうか。あの子たちが、私の記憶の何かなら、私はもっと覚えているはず。彼らとの思い出や、面白い出来事を、知っているはずだ。

 おそらく私はこの時もう、半分は眠りに落ちていたのだろう。

 彼らを知りたいと思った私の目に、夢うつつに映りだす、思い出すように自然な後ろ姿。イチロウ、ソウヘイの似た者同士に、まばゆいイナミの三人組。

 雨の中、三人並んで座っていて……。

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