ファントム・ブレイク

黒崎ハルナ

序章

プロローグ

「待てぇこらあぁぁ!」


 腹の底から絞り出した怒声にも似た叫び声が、夕暮れ時の校舎に反響する。

 広大な敷地と校舎を有する巨大校『風花ふうか学院』。

 その端に位置する初等部校舎の一角、東棟を二つの影が走っていた。

 先を走る影の片方は。全長は百九十にも迫る大きさで、そこだけを見れば人間と変わらないだろう。

 しかし、それ以外の部分が人間とは大きく異なっていた。猫背の背中から生えた蝙蝠こうもりのような羽と細長い尻尾。悪魔を彷彿とさせる尖った耳と赤い瞳。そして、頭上から伸びた二本の角。特徴と呼べるもの全てが、影の正体が人間でないことを言葉以上に物語っていた。

 ――《ファントム》。

 この現代を生きる人々に仇なす異形の怪物たちの総称。人ならざる魔物たち。

 それを全速力で赤いパーカーを着た少年が追いかけている。

 年齢は十五、六というところ。目つきの悪さを除けば、年齢的に高校生にも見える。事実、彼は高校生だった。

 怪物と男子高校生の追いかけっこという奇妙な出来事が始まって、既に一時間以上が経過しようとしている。

 距離に換算すれば、実に十五キロを超えていた。小さな町なら端から端まで走破できそうな距離を短距離走の陸上選手顔負けのスピードで走り続けている少年の足と体力は限界に近い。

 肺はとっくに悲鳴を上げているし、足だって鉛のように重かった。

 それでも、赤いパーカーの少年――黒乃春市くろのはるいちは諦めない。

 あのファントムを逃すわけにはいかない、と限界に近い自らの足に喝を入れて、走るスピードを上げる。

 悲しいことにそれは決して正義感からくるような、それこそ人様に胸を張れるような動機ではない。命令されたのだ。ある女性に。

 その女性は春市の恩人であり、師匠であり、教師だった。そんな彼女は、放課後になって自由の身となった春市を捕まえて、唐突にこう言ったのだ。


「おまえ、今から私の代わりにファントムを一匹討伐してこい」

「…………はい?」


 今になって冷静に考えれば、それがどれだけ無茶な話かよくわかる。しかし、その時の春市は不承不承ながらもその話を受けてしまったのだ。


「やっぱり、安請け合いするんじゃなかったなぁ……」


 愚痴を溢しながらも、ぐんぐんとファントムとの距離を春市は縮めていく。

 追いかけられると本能的に逃げたくなるのは、人もファントムも変わらないらしい。

 やがて、ファントムと春市は広い場所に出る。

 東棟校舎裏に位置するこの場所は、小さな飼育小屋を除けば何もない質素な場所だった。


「もう……いい加減に……観念しろや」


 ぜー、ぜー、と荒い呼吸を繰り返しながら、春市はようやくファントムに追いつく。

 コンクリートで固められた校舎の壁と高い塀が、ファントムの行く手を遮っていた。


「もう逃がさねぇぞ」


 羽を使い、塀を飛び越えるよりも春市が飛びかかる方が早いと判断したのか、黒いファントムはゆっくりと振り返る。

 血のように赤い瞳が春市を映していた。


「Dランクファントム・『インプ』を確認っと……さあ、貴重な放課後を潰された恨みを晴らさせてもらうぜ」


 ポキポキと指を鳴らして凄む春市。

 逆恨みに近い感情ではあるが、放課後という学生の貴重な時間を潰されたのもまた事実。


「おら、来いよ」


 そう春市がファントムを挑発したほんの一瞬の間の後、弾丸のようなスピードでファントム――インプが春市に飛びかかった。

 長い指から生えた鋭利な爪が障害を排除するために降り下ろされる。コンクリートすら切り裂くと言われているインプの爪。普通なら真面まともに受けることは許されない。

 ――筈だった。


あめえよ!」


 甲高い金属音が響き、そこでインプがようやく異変に気づく。

 いつの間にか、春市の両腕が鋼鉄の腕へと変わっていた。春市は左腕を盾にして、鋭い鉤爪による攻撃を防いでいたのだ。

 言葉を喋ることができないインプの顔が驚愕に変わる。それを間近で確認した春市の口元がにやりと上がった。


「ぶっ……」


 盾にしていた左腕を力任せに振り上げ、インプの右腕をかち上げる。弾かれた右腕に引かれるようにして、インプのガードが開く。

 それに合わせるように、春市は前に突き出していた左足の指で大地を強く噛んだ。

 左足と腰を軸に、大きく唸る右腕。それが自らを仕留める必殺の一撃だとインプが理解するよりも早く、その拳が放たれた。


「……飛べええぇぇぇぇ!」


 砲弾にも似た強烈な拳がインプの腹部に突き刺さる。

 九の字に体を曲げたままインプは勢いよく吹き飛び、やがてなにかに打つかることでようやくその動きが止まる。

 クレーターのように深々と凹んだ腹部がその威力を言葉以上に語っていた。

 ピクピクと痙攣した蛙のように数回動いた後、インプの体が霧状になっていく。やがて、ゆっくりと灰が空気に溶けるようにインプの存在そのものが消えていった。


「ふう……」


 それがファントムの消滅だと確認した春市の口から、張り詰めていた空気を吐き出す声がれる。無事に目的を果たせた事による安堵の息だ。自然と春市の頬を緩ませる。

 巻き込まれた怪我人の類いもはいないし、上々の結果だろう。そう春市は自分で自分を褒める。


「さて、と。後は麻耶まや先生に報告して……って、げぇ⁉︎」


 しかし、そんな喜びも一瞬のうちだった。

 もくもくと、未だ煙を上げ続けている先。ファントムがいた場所に視線を向けた春市を待っていたのは、ひび割れたコンクリートの壁と、全壊に近い状態の飼育小屋だった。おそらくは先ほどの春市が放った攻撃の余波によるものだろう。飼育小屋内に生き物がいなかったことが唯一の救いと言っていい。


 ――マズい。これは色々な意味でマズい。


 直視できない現実を前にした春市の頭の中で、絶対零度の笑みを浮かべる教師の顔が連想される。

 彼女の前であらゆる言い訳は通用しない。そのことを春市はこの学院に来てからの四年間で嫌というほど理解している。間違いなく、何かしらのペナルティという名の拷問が待っているに違いない。


「……勘弁してくれ」


 遠くから騒ぎを訊きつけてきた人集ひとだかりの声を確認しながら、春市は誰に言うわけでもなく、ため息混じりに呟いたのだった。

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