第二章 始まりは突然に

変わる日常

 なんとなしに空を見れば、小鳥が群れをなして羽ばたいていくのが見えた。

 広大な敷地を有する風花学院の学生寮。その一つ、男子学生寮の正面玄関前に立つジャージ姿の春市は、眠気で瞼が重くなるのを堪えながら、大きな欠伸を一つ落とした。


「……おまえ、毎日こんなのやってたのかよ。マジで尊敬するわ」


 そう言った春市の隣には、ルームメイトの一成が居る。春市同様にジャージ姿で、こちらは浅く肩を上下させていた。


「慣れるとそうでもないがな」


 一成は水筒に詰めたスポーツドリンクを春市に差し出し、飲むように進める。

 断る理由もなかったので、ありがたく受け取り、水筒のコップに注がれたスポーツドリンクを飲み干し、浅く息を吐き出した。


「しかし驚いたぞ」

「なにが?」

「黒乃が俺と鍛錬をしたいなどと言ったことだ。どういう風の吹き回しだ?」


 そのことに春市は一言、ああ、と呟く。

 幻想を砕く者ブレイカーず第一に体力が基本とされている。

 どんなに優れた特異能力者でも魔力と体力には限界があるからだ。

 そのため、幻想を砕く者ブレイカーを目指す者にとって体力維持は欠かせない修練となっている。

 ルームメイトの一成も、体力維持の一環として毎朝二十キロのランニングを自らに課していた。

 そしてその日課に春市とフィアは二日前からついてきている。


 きっかけはフィアの一言だった。

 ――模擬戦で体力の無さを突かれて自分は負けた。

 実際その通りだった。フィアは膨大な魔力を保有し、それに見合う天賦の才能がある反面で、能力の覚醒から日が浅いこともあってか、基礎体力がとても低い。

 そのことを春市との模擬戦で痛感したフィアは、自主練で体力向上を図り、その協力を春市の紹介を挟んで一成に頼んだのだった。

 だが、一成は自他共に認める修行オタクである。このランニングにしても、わざと走りにくいコースを選び、全力疾走とジョギングを繰り返すことで心肺機能に過負荷をかけるドM使用のランニングだ。当然そんなハードなトレーニングにフィアがついていけるわけがない。


「まだ来ないな、彼女」

「来ないな」


 初日となる昨日、フィアは開始から十キロのところで意識を失い倒れた。

 なんとかその後に意識を取り戻して、へろへろになって完走はしたが、ゴールした直後に胃の中のものを吐き出した。

 そんなわけで、二日目になる今日は彼女のペースに合わせようと春市が提案したのだが、


『大丈夫です。火野さんに無理を言ってお願いしたんですから、私のことは気を遣わないでください』


 と言われて、春市たちはコースもペースも変わることなく二日目も走った。


「また倒れたかな」


 一成と春市がゴールして二十分。あまりに暇で一成はその後に追加で筋肉トレーニングを行っていたが、それもついさっき終了している。


「ちょっと見てくるか。一成は先に戻ってくれ」

「いいのか? なんなら俺も付き合うが」

「それで学級委員が遅刻したら示しがつかないだろ。俺もハーネットを拾ったらすぐに行くさ」


 昨日は日曜日で学校が休みだったから時間に余裕もあったのだが、今日は違う。月曜日は学校がある日だ。

 さすがに転校して来て一週間も経たずに遅刻させるわけにもいかない、と春市は自分たちが走っていたコースを逆走し始める。

 平坦な道を走り、上下の落差がある道を走り、コンクリート舗装されていない道を走った先に目当ての人物がいた。


「あ、いた」


 案の定、ゴールから五キロほど離れた場所で仰向けに倒れ込む金髪の少女。フィア・ハーネットその人だ。

 走り寄り声をかける。


「おーい。生きてるかー?」


 返事がない。ただの死体のようだ。


「……だ……だい……じょうぶ……です……」


 ゾンビの呻き声の方がまだマシかもしれないと思ってしまうくらいに弱々しい声でフィアが返事をした。

 ぶっ倒れて、指一本すらも動かせないのに大した根性である。


(さて、どうするか)


 春市は頭を悩ました。

 フィアが動けるようになるまで回復するのを待つという案は当然却下。そんなのを待っていたら遅刻が確定する。

 とすれば、何らかの方法でこの死体もどきとなったフィアを女子寮まで運ぶ必要があるのだが、上手い方法が思い浮かばない。


「し、心配はいらないですよ ……直ぐに追いつきますから……私に構わず先に行ってください……」

「それ絶対だめなやつだよな!」


 死亡フラグなんてどこで覚えたのかは知らないが、震える手でサムズアップなどしているフィアの目は焦点が合っていなかった。


「……しゃーない」


 諦めにも似た言葉を漏らし、春市は倒れているフィアの首と膝裏に手を滑らす。


「ひゃあ!」


 上がる悲鳴。

 しかしそれを春市は無視し、立ち上がる。所謂お姫様抱っこというやつだ。


「あ……あの、黒乃さん……」

「文句なら後で聞いてやるから、今は大人しくしてくれ。このままだと本当に遅刻する」

「は……はい」


 振り落とされないようにフィアが春市の首に手を回す。自然、二人の体が密着する。それが不味かった。


(つッーーーーーー‼︎)


 鼻に香る女子特有の匂いと体の柔らかさが春市を襲う。バレないように必死に顔を横に逸らす春市を見たフィアが、


「その……すみません。やっぱり汗臭いですよね……」


 いや、違います。むしろ良い匂いがしてドギマギしているんです。そう声を大にして叫びたくても叫べない春市は、誰にも見られないことを祈りながら寮へと戻っていった。













『ハーネットさん! 是非我がチームに!』

『フィアちゃん! 今ならお菓子、ジュース付きの特別待遇で招待するわ!』

『いや、俺たちのチームに!』


 登校時間。高等部校舎に着いた春市とフィアを待っていたのは、真剣な表情でフィアに駆け寄る上級生の群れだった。

 フィアが登校して来たのを見つけるやいなや、全員が一斉に彼女へと詰め寄って来る。


「え……あ、あの。って! 黒乃さーーーーん!」


 悲痛な助けを呼ぶ声も虚しく、フィアは上級生の群れに呑まれ、連れられていった。無情にも伸ばした手が空を切る。

 その光景に唖然とする春市は、


「……行くか」


 色々と考えて、思考の放棄を選択した。遅刻はいけないよな、と模範的な言い訳をして昇降口に行くと、ちょうどそこには先約がいた。春市のクラスの下駄箱の前で、友人の凪沙が靴を履き替えている。


「おはよ、春市ハル。珍しく今日はギリギリじゃないんだ」


 男友達のような気安さを感じさせる口調で、凪沙が声をかけた。


「人を遅刻の常習犯みたいに言うな。ところで、あれなんだ?」


 目の前で起きた集団での幼女誘拐現場を見た春市が凪沙に説明を求めると、凪沙の表情がなんともいえない微妙なものに変わる。


舞闘会コンクールのスカウトだって。この前アリーナが壊れたのがあの子が原因ってわかってから、上級生がずっとあんな感じなのよ」

「プライドないのかよ、上級生」

「あんたにそんなこと言われたらお終いね」

「うるせ」


 教室に向かう階段を上りながら、凪沙がニヤニヤとからかうような笑みを浮かべた。


「んで、なんでその噂の転校生と春市ハルは仲良く登校して来たわけ? まさか本当に幼女趣味に目覚めちゃったとか」

「勘ぐるなよ。日曜日に特異能力について色々教えてくれって頼まれたから面倒を見てるだけで、おまえが考えてるような関係じゃないって」

「どーだか。ロリコンの疑いがあるようなやつだしねぇ」

「誰がロリコンだ。てか、大声で人様のことロリコンとか言うなよな。いらん誤解が生まれたらどーすんだよ」


 いつもと変わらない軽口をお互いに叩き合いながら階段を上りきり、教室の扉を開ける。


「お、間に合ったか黒乃。心配したぞ」


 偶然教壇近くにいた一成が声をかけてきた。自分だけ先に戻ったことを気にしていたらしい。

 状況を唯一飲み込めない凪沙が眉を寄せていた。


「間に合った?」

「うむ。聞け神城。あの黒乃が朝の鍛錬に付き合うと言ってきたのだ」

「………………えっ? なに、悪いものでも食べたの?」


 たっぷり間を空けて、ようやく口を開いた凪沙は、驚きに顔を歪める。


「その反応はよくわかるぞ。俺も初めに聞いたときは我が耳を疑ったものだ」

「じゃあなに、マジ? 本当に?」

「おまえら……」


 好き勝手に言う二人を春市は不機嫌そうに睨み、


「ハーネットの訓練に付き合っただけだ」


 投げやり気味にそう答えた。

 正直この手の問答にちょっと面倒くさく感じていたのだ。


「付き合うって……そこまでしてるの」

「ま、まあ。乗り掛かった船だし」

「ふーん……」


 それから暫し思考する凪沙だったが、突然顔を上げると、


「なら、あたしもその訓練に付き合う」

「は? なんで凪沙まで」

「うっさい! あんたみたいなロリコンに任せられないからよ! 文句ある!」


 ものすごい勢いで凪沙が食いついてきたことに驚いた春市は、黙って首を縦に降ることしかできなかった。


「お、おはようございます……」


 そこに新たな生徒が教室に入ってくる。

 金色の髪の、幼い顔つきの少女。一番小さいサイズの制服なのにまだ大きいようで、袖口が手を隠してしまっている。


「よう。なんか大変だな、おまえも」

「う〜、酷いですよ見捨てるなんて」


 涙目で春市を睨む。しかし、その容姿もあってか、非常に可愛らしいものであった。


「おはよう、ハーネット」

「あ、おはようございます。火野さん、神城さん」

「おはよ」


 何処か不貞腐れた態度の凪沙に、先の状況をしらないフィアが首を傾げる。


「今朝はすまなかった。ハーネットのペースも考えないで、無茶な走りを強要させてしまったな」

「い、いえ! 私の方こそ、火野さんのご迷惑になってしまって……」

「迷惑などではないさ。俺も初めからあんな風にできたわけではない。人には必ず初めて、というものがある。大事なのは次に生かすことだ。……っと、朝から説教くさくなってしまったな」


 一成の言葉をフィアは嚙み締めるように聞いていた。

 人を説くことがあいかわらず上手いなと、春市はその様子を見て一人感心する。


「あっ、そう言えば」


 そう呟いたのは凪沙だ。


「火野は勧誘しないの? ハーネットさんのこと」

「勧誘? ああ、一部の先輩方が行っているアレか」

「そうそれ。火野は舞闘会コンクールに参加するんだし、駄目もとで今訊いてみたら?」


 凪沙の言葉にフィアが反射的に一成から距離を置いた。どれだけ熱心な勧誘をされたのだろうか。

 しかし一成は肩をすくめて、


「俺はやらんよ。なにより本人が希望するならともかく、望まない人間に無理強いは感心せんしな」


 一成にも上級生たちの行動は目に余るらしく、珍しく渋い顔になる。


「まあ、珍しいものではあるし、気持ちはわからないでもないが」

「そうなんですか?」


 きょとんとした表情でフィアの声音が上がる。


「うん。ハーネットさんは知らないと思うけど、上級生たちはあなたの噂で持ちきりよ」

「将来有望って点なら間違いなくトップクラスだしな」


 教師たちは当然アリーナでの一件を知っているから、おそらくは別の教師が自分の担任する生徒たちに話したのだろう。

 凪沙と春市の話が終わったあとも、いまいちフィアは理解していない様子だった。


「くあぁ……」


 眠気から欠伸を一つ。


(慣れないことはするもんじゃないな)


 早起きとランニングの疲れから、気怠そうに春市が自分の席に座ると、狙い澄ましたようなタイミングでホームルームを告げる予鈴が鳴った。

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