第14話 気象庁

「この車はどこに向かっているんだ、アイリーン?」

 白山通りを南に走る車の中で、萩生田はアイリーンに訊ねた。


「アメリカ大使館です。そこで、ある会議に参加していただきたいのです」

 運転席の、アイリーンが答えた。


「会議とは?」

「NSA長官と、TV会議の回線で直接話をしていただきます」

「NSAというのは、アメリカの国家安全保障局の事か?」

「その通りです」


「先程から訊こうと思っていたのだが、君は一体何者なんだ?」

「隠していて申し訳ありません。

 実は私の本当の姿は、NSAに所属している諜報員です」

「諜報員? どういうことだ?」

「私は萩生田所長警護の任を負って、秘書としてお側に仕えてきたのです」


「君の言っている事が、全く理解できないんだが……」


 それは萩生田の本音だった。

 アイリーンが発する言葉の全てが、萩生田にとっては初耳だった。


「手短にご説明します。実はNSAは、21世紀初頭以降のハリケーンの幾つかは、何者かに操作されているとの疑いを持って調査を行ってきました」

「ハリケーンの挙動に疑問を持っていたのは、私だけでは無かったという訳だな」


「そうです。所長がオクラホマ大時代、最初に気象予測理論を発表されたのが2035年。

 その2年後の2037年以降から、ハリケーンの挙動は以前に増して、おかしくなり始めました。


「確かに、ある時を境に、予測精度は急に落ち始めた」

「単純に落ちたのではなく、高い精度で進路予測が的中するハリケーンと、逆に思ってもみない挙動をするものに、性格が分かれ始めたはずでです」


「君の言う通りだ。予測精度という言葉で一括りにすれば、今でも全体では80%程の予測精度だが、個別に見ると100%に近いものと、50%を切るもので2極化している」


「遡って検証してみると、所長が新しい論文や研究成果を発表されるタイミングに添って、その傾向は顕著になっています」


「それは本当か?」

「もちろん本当です。しかもこれまで、予測外の動きをしたハリケーンの9割は油田地帯を直撃し、後の1割も大都市に上陸しています。

 明らかに意図的に、そこを狙い撃ちしていると思われます」


「驚いたよ、それ以外に言葉は無い」

 萩生田は唖然とした顔をアイリーンに向けた。


 たった今アイリーンに聞かされた話は、先程あのゲルマン人の男が語った内容と合致していた。


 やはり自分の研究成果が、何者かによって、ハリケーンの操作に利用されていたというのは事実であるようだった。


「NSAはかなり早い時期から、ハリケーンを操っている見えざる敵が、所長の理論を利用していると断定していました。

 そして同時にNSAが警戒していたのは、もしも相手が今まで以上に成果を上げようとするなら、いつか必ず所長自身に接触してくるだろうという事です」


「それで君が、私の護衛役を命ぜられたと?」

「そういう事です」


「君がオクラホマ大で私のところにいたのが3年間だ。IMLに移籍するときにも、君は私に付いてくると言った。それから既に3年経つ。

 初めから合計するともう6年。私を守るためだけに6年も側にいてくれたというのか?」


「それが任務でしたからね。しかしそれだけではなかったようにも思います」

「と言うと?」

「所長の研究にはとても興味がありました。

 私自身は研究に関われませんが、その代わりに秘書としてお手伝いする事で、世界に貢献できます。

 上手く言えませんが、私の誇りのようなものです」


 それはアイリーンの本心なのだろうと、萩生田には思えた。


「そういえば私は、君自身の事はほとんど知らない。秘書としてオクラホマ大学に来た際に、履歴書を見た程度だ。

 今まで個人的な事は全く尋ねた事がなかったな」


「私は特に人と違った人生を歩んでいるとは思っていません。中流の一般家庭に生まれ育った、ごく普通のアメリカ人です。

 ただ一つだけ自慢できるものがあるとすれば、子供の頃から勉強だけは良くできた方で、21才でカリフォルニア工科大学の大学院を卒業することができました」


「何を専攻していたんだ?」

「元々はエンジニア志望で、電子工学と情報工学、通信工学の3つの学位を持っています」


「そんな君が何故NSAに?」

「在学中からNSAからリクルートを受けていて、そのまま何の迷いもなく入省しました」


「兵士としてか?」

「いえ、当初は私自身、技官か研究員になるものとばかり思っていました。アリゾナのキャンプでの研修中に、兵士としての特性を見抜かれたのでしょう」


「その後は?」

「そのままそこで2年間の軍事訓練を受け、諜報員としてエジプトに3年間赴任しました。

 それから先は、たった今お話したように、萩生田所長の警護担当として着任したというわけです」


「アイリーン、そんな経歴があったとは驚いたよ。君のこれまでの献身は、とてもありがたく思っている。

 そして今日、私を命懸けで救いに来てくれたことには、感謝の言葉も無い」


「任務ですから」

 アイリーンは淡々と答えた。


「正直に言うが、さっき君の顔を見たとき、私は天使に会ったと思ったくらいだ。本当にありがとう」


 萩生田は感謝をアイリーンに伝えた。

 それは嘘偽りのない、萩生田の心からの謝意だった。


 アイリーンは微かな笑顔だけを萩生田に返した。


        ※


 萩生田の乗る車は、白山通りを皇居方面に向かっていた。


「アイリーン、アメリカ大使館に行く前に、少しだけ寄りたいところがある。時間は取らせない」


 萩生田スマートフォンを取り出し、メモリーされた電話番号の一つを選んだ。


 呼び出し音が鳴り相手が出た。

「下村か?」

「どうした萩生田。こんな夜遅くに」


「挨拶は抜きだ、下村。緊急事態なんだ。今は大手町にいるのか?」

「当然いるよ。お前たちIMLが日本政府に警報を出したからな。

 警報が解けるまで、24時間体制を敷くのが気象庁予報部の務めだ。今夜は徹夜だよ」


「今からそっちに行く。15分だけ時間をくれ」

「突然無理を言うな。こっちはこれから統合災害対策センターに移動するところだ。悠長に会っている暇なんかあるもんか」


「少しだけでいいんだ」

「いい加減にしろ、萩生田。

 今は沖縄や宮古島、石垣島がホンファで大被害を受けている最中だし、このままだと九州や四国に上陸する可能性も高い。

 現地に避難勧告をだすかどうかの瀬戸際なんだぞ」


「本当に緊急事態なんだ。下村、お前にしか頼めない事が有る。すぐに行くので必ずいてくれ」

 萩生田は電話を切った。


「所長、今のお電話は?」

 アイリーンが訊ねた。

「気象庁の下村部長だ」


「すると、これから立ち寄る先というのは?」

「気象庁だ。首都高には乗らず、このまま真っすぐ一ツ橋の入口を通過してくれ。 皇居まで出て、平川門の交差点を左折したら、すぐ目の前が気象庁だ」


       ※※※


 アイリーンは気象庁の敷地に車を入れたが、正面玄関には既にシャッターが下りていた。


 萩生田の指示に従って、アイリーンは車を庁舎裏手の通用口脇に移動させて停車した。


「アイリーン、ここで待っていてくれ。すぐに戻ってくる」


 萩生田はそう言い残して車を降り、警備員がいる詰所に歩み寄っていった。


 詰所には下村から、何らかの指示が来ていたのだろう、すぐに扉は開き、萩生田は薄暗い庁舎の中に消えて行った。


       ※※※


 IMLに戻った氷村は、駐車場に車を入れるとすぐに理事の一人ラミーヌ・バトンの部屋に向かった。


 ドアを開けると、そこにはラミーヌの他にもう一人の男がおり、応接テーブルにノートPCを開いて、一心にキーボードを叩いていた。


 その男の名はニコラス・ファランド。

 IMLのプログラマーである。


 スペインの投資銀行で、デリバティブ取引の分析システムを開発していたところを、氷村が2年前にスカウトしてきた。

 IMLでは複雑系のビッグデータ処理を専門にしている。


「ニコラス、作業は完了したんだろうな?」

 氷村はニコラスに声を掛けた。


「プログラムのコピーは9割以上済ませたが、アクセスが難しい箇所が僅かに残っている。

 IMLのシステムは巨大だし、セキュリティも強固だ。盗み出すのはそんなに簡単じゃない」

 ニコラスは不機嫌そうに氷村を睨んだ。


「何だと、まだ終わってないのか。夜までには出来ると言っていたはずだ」

 氷村の口調は強まった。


「勝手な事ばかり言うな。そもそも、監視カメラの映像を偽造するなんて余分な作業を詰め込まれなければ、とっくに終わっているんだ。

 俺の腕を疑うなら、いつだって手を引いて構わないんだぞ」


 ニコラスは椅子を蹴って立ち上がった。


「落着け、ニコラス!」

 ラミーヌが、慌ててニコラスと氷村の間に割って入った。


「誰もお前の能力を疑ってなんかいない。今が最も大事な局面なので、氷村事務局長もナーバスになっているだけだ」


 ラミーヌはそう言いながら、ニコラスの肩に手を当てて彼の興奮をなだめた。


「悪かったニコラス。君は良くやってくれているよ。機嫌を直してくれ」


 氷村はニコラスに詫びた。そして「ハリケーンの自動誘導プログラムの方はどうなっている?」と、話の矛先を変えた。


「そっちも今やっているところだ。ハリケーンの誘導路算出に使うアルゴリズムは既に出来ている。後はIMLの気象予測データと結合するだけだ。

 コピーの作業と合わせて、あと3時間もあれば終わるよ。これ以上余分な作業を積み増しされなければの話だがな」


 ニコラスは元の椅子に腰を下ろし、ノートPCを前に作業を再開した。


「完了は未明の2時というところだな」

 氷村は腕時計を確認しながら、ニコラスを一瞥した。


「彼の作業さえ終われば、後は目的地をセットするだけでIMLのコンピュータが自動的に気象予想データを逆算して、誘導データを導いてくれます。そして……」


「そして、どうするんだ?」

「後はそのデータをモバイル回線で、“ファゼンタ”に送ってやるだけです」


 ラミーヌは机の引き出しを開いて、中に隠した発信機を氷村に見せた。


「IMLの連中は、自分たちのコンピュータが、ホンファを操るためのパラメーターを計算しているとは思いもしないだろう」

「まったくです」


「ニコラスが目的地をセットした後は、タイミングを見てひまわりのデータ系、制御系を全てロックアウトしよう。

 最終段階でのホンファの動きは、なるべくIML側に知られたくない」

 氷村は決然と言った。


「心配が過ぎませんか? もしもホンファの挙動を知られたからと言って、もう誰もそれを止めようがありませんよ」


「普通だったら、そう考えるところだが……」


「L&Wビルから連れ去られてしまった、萩生田所長の動きを警戒しているのですね」

「そうだ。きっと彼はここに戻ってこようとするだろう。何事も最後まで諦めない性分だからな」


「誰も思いもつかないような発想をする男ですからね。あの萩生田所長が絡んでくるとなると、確かにまだ要注意かもしれません」

「ミッションが完了するまでは、手は緩めない方が良い」


 氷村の言葉は、半ば確信を持っているかのような語気であった。


「しかし、ひまわりをロックアウトすると、我々まで正確な気象情報を得られなくなりますよ」

「問題ない。ホンファはこれから、半径300㎞ほどに成長させる予定だ。それだけ巨大ならば、ピンポイントで目的地に上陸させる必要など無い」


「予定の場所の周辺部にさえ届けば、十分な被害を与える事が出来るという訳ですね?」

「そういうことだ。それならばひまわりの正確な情報が無くても、充分誘導はできるだろう」


 氷村の表情は、それでもまだ安心できないと言いたげだった。


「ところで、我々はここにいても大丈夫なのでしょうか? 

 L&Wビルに突入したアメリカの特殊部隊が、こちらにも現れるのではありませんか?」


「大丈夫だ。外国の特殊部隊が日本で活動する事自体、本来はあってはならない違法行為だ。もしも表ざたになれば、国際問題になり兼ねない。

 今日の突入は、目的が萩生田所長救出という一点に絞られていたからこそ、敢えて強行できたんだ。

 やつらは我々の状況については、まだ何も把握できていない」


「なるほど、曖昧な目的のために、続けてもう一度リスクを冒すとは思えないと言われるのですね」

「その通りだ」


「何れにせよ、あと3時間程で、私たちはこの重責から解放される訳です」

「どこ後はどうするつもりだ?」


「ホンファの目的地設定が済めば、私とニコラスは直接、成田空港に向かいます。まずはモスクワに飛び、しばらくはソチのリゾートにでも行って、ほとぼりを冷ますつもりです。

 あなたはどうなさるんですか?」


「私はブラジルに行くことになっている。先程君がデータを送ると言っていた“ファゼンタ”だよ」


「いよいよ“あの装置”の本格稼働ですか?」


 氷村はラミーヌの最後の問いには答えず、ただゆっくりと首を縦に動かしただけだった。


       ※※※


 靖国神社から道路を一本隔てた場所には、低層の建物が立ち並んでいた。


 その内の1棟、赤いレンガ張りで『東京政策銀行独身寮』と表札の掛かった、いささか古びた造りのビルの物陰に、三田村が潜んでいた。


 低い植込みと自転車置き場は、三田村が身を隠すには丁度良く、そしてあの男の逃げ込んだ建物を20m程先に見張ることができた。


 ハリケーン・ホンファの影響を受けているのか、この日は分厚い雲が月の光を遮ってくれることも、三田村には好都合だった。


 空気は乾いていた。

 雨は降りそうになかったが、路地を吹き抜ける風は少しずつ強さを増しており、しばしば三田村の集中力を奪いそうなほどになっていた。

 

 一陣の風が砂埃を舞い上げ、三田村がまぶたを強く閉じた瞬間だった。三田村の肩を何者かが叩いた。


 ぎょっとして振り向いた三田村の目の前にいたのは、麹町署の名物刑事であり、三田村と同期で警視庁に任官した大杉だった。

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