第3章 拉致

第7話 イグニッション

「悔しい、死にたくない……」

 執務室に戻った萩生田は、張の最後の言葉が頭から離れなかった。


 萩生田は張との出会いを思い出した。


 あれは萩生田がIML所長に着任した際、記念式典と共に催された、東大、安田講堂での公開講義の場だった。


 萩生田のスピーチが終わってからの質疑応答で、真っ先に挙手をしたのが張。

 当時彼は、国費留学で中国から来たばかり大学院生だった。


        ※※※


 あの日、張は少しも臆すること無く、真っ直ぐに萩生田の目を見た。


「私は中国からの留学生で、張といいます」

 それが張の第一声だった。


「まず初めに、先生の気象予測理論は大変に素晴らしいと、私の心からの賛辞をお伝えします。私は気象の分野で、先生のように明快な方向性を示された方を他に知りません」


 いささか芝居がかった物言いに、萩生田は内心苦笑した。

 中国人の研究者とは、過去に何人も付き合ったことがある。

 大仰な表現は、あの国の国民に共通したものだ。


 しかしながら、張はその後一転して、冷徹な研究者の口調に変わった。

 

「私は敢えて先生に一言申し上げたい。それは先生が気象予測のために用いられている、エルニーニョや北極振動などのデータの信憑性に関しての懸念です。

 大規模な海洋変動や大気変動は、いまだにその発生原因が明らかになっていません。理由の明らかでない現象を元に未来を予測しても、それは正確さを欠くと思います」


 萩生田は、張という青年に興味を覚えた。

 自分が彼と同じ年代の頃なら、こんなに率直な物言いなど絶対にできなかったはずだ。


「君の言うことには一理ある。では聞こう。君ならどうする?」


 記念講演という、一種のセレモニーの場で、萩生田が自分から質問者に問いかけることなど、これまでに一度もなかったことだ。

 しかし萩生田はその時、何故か目の前にいる張という青年を、試してみたいという欲求に駆られた。


「現象から未来を予測するよりも、まずは原因となる現象の物理的実態や、力学的要因を追求すべきだと思います」

 張は萩生田の投げたボールを、さも当然というように受け止めた。


「どうやったら、君の言う追究というやつができるんだ?」

「簡単です。先生が作り上げられた数学シミュレータ上で、過去の事象を発現させるパラメータを、総当り的に抽出すれば良いのです」


 一見不可能と思われる、莫大な計算量を要するその手法を、張はこともなげに提案した。そしてそればかりでなく、空間分割法を応用すれば、それが実現可能であることまでをその場で示して見せた。


 萩生田は息子程に歳の離れた張の、物怖じしない態度に一目で惚れ込んだ。張は確固たる自信に満ち溢れて見えた。


 それは彼の内に秘められた、確かな才能が醸し出すものだった。


 萩生田は張の発言に回答をする代わりに、一つの提案をした。

「僕はこの場で、君の案に100%賛同しましょう。しかしその研究は、僕がやるものではなさそうだ。発案者である君がやってみたらどうですか? 僕がそれを手助けしましょう」


 萩生田は公開講義に訪れていた多くの聴講者の前で、張の研究への全面的な協力を約束したのだった。そしてそれは、張の博士論文のテーマになった。


 張はその後、博士号を取得すると同時に、萩生田の誘いに応じて、IMLの研究員に加わった。


        ※※※


 萩生田は張の顔を思い浮かべた。あの爽やかで屈託のない笑顔そのままに、彼には気象学者としての明るい未来が開けていたはずだった。


 自分がパラセル諸島に張を行かせさえしなければ……。

 萩生田の目には涙がこみ上げた。


 部屋の壁に据え付けられた大型モニターは、ずっとホンファの軌跡を追っていた。


 大陸側の長江気団と、太平洋側の小笠原気団がぶつかる気圧の谷が、日本の南側にゆるいカーブを描いており、中緯度を流れる偏西風が、赤道寄りに蛇行しながらも東に向かって流れている。


 ホンファはその気流に乗るように、速度を70㎞に上げていた。


 ホンファを誘導していた局所的な高気圧の赤いポイントは、現在は現れていない。もうホンファは操作されていないという事なのだろうか。

 もしそうであれば、このまま勢力を下げながら、太平洋に抜けて行き、やがて自然に消滅するだろう。


「お前の目的は一体何だ? 張を奪い、仲間を奪い、これからどこに行くのだ?」


 萩生田は画面の中のホンファに向かって語りかけた。ホンファがこれまでに辿った不可思議な軌跡を考えると、萩生田にはこのまま事態が終息するとはとても思えなかった。


 萩生田の思考を遮るように、コンコンというノックの音がして、アイリーンが執務室に入ってきた。


「所長、17時になりました。小橋首相とのご面会まであと2時間ですので、そろそろ出発されるお時間です」

「わかった、すぐに準備する」


 世界的な燃料不足が定常化して以降、道路渋滞は皆無に近い。首相官邸には一時間半まで掛かるまい。


「所長はこのところ、ずっと執務室に籠って仕事をなさっており、かなりお疲れのはずです。しかも張さんの不幸が重なり、ご心労もさぞかしと思います。

 ご自身での運転は避けられた方が賢明ではないでしょうか」

「大丈夫だ。自分で運転した方が息抜きになるよ」


 本来、国際機関では、萩生田のような地位の高い人物には、専任の運転手が付くのが普通である。しかし車好きな萩生田はそれを断り、いつも自分で運転するのが常だった。


 ハンドルを握っていると、研究に没頭している時でも、すっと緊張感がほぐれていくように感じられたからだ。


「官邸に向かわれる時はまだ良いとしても、お帰りの際が心配です。念のため交代の運転手として、私も同行します」

「気遣ってくれてありがとう、アイリーン。しかし今日は公務と言いながらも、半分はプライベートで旧交を温めにいくようなものだ。

 私一人で行った方が、小橋首相の本音も聞けると思う」


「わかりました。そこまで言われるならしょうがありません」

 アイリーンは萩生田の言葉に、渋々引き下がった。


「君には一つお願いがある。実はまだホンファの動きが気になっている。

 一見ホンファはこのままフィリピン沖から太平洋に抜けて行きそうに思えるのだが、何だか胸騒ぎがする。もうひと波乱ありそうな気がするんだ」


「もうひと波乱と言いますと?」

「今、具体的に何か懸念がある訳では無い。私の勘だ。君はこのままこの部屋にいて、ホンファの動きを見張っていて欲しい。

 何か目立った変化が有ったら、すぐに連絡をしてくれ」


「わかりました」


        ※※※


 萩生田は地下二階の駐車場に向かった。


 エレベーターの扉が開くと、目の前の車寄せのすぐ向かい側には、来客用の駐車スペースと並んで、所長専用車であるシルバーのテスラLSが駐まっていた。


 車好きの萩生田が指定して購入させた、米国製の電気自動車だ。


 最新モデルのLSは発売されたばかりで、日本にはまだ数台しか走っておらず、しかもナンバープレートが特殊なので、萩生田がそれを街中で走らせると誰もが振り返った。


 IMLの車両は国連の保有物であるため、外交官車両に準じる青地に白抜き文字のナンバープレートが付与されている。

 ハイフン無しの4桁の数字の頭には、国連を示すUNの文字が記されていた。


 駐車場内を見渡すと、まだ勤務時間中という事もあり、周囲には所員たちの車が所狭しと並んでいた。


 一般の官庁では職員の自動車通勤は禁止されていたが、IMLでは帰宅時間が不定期となりがちな研究員に限り、車の使用が許可されていた。


 衛星との電波通信を良好に行う必要上、IMLの施設は電波障害の無い山奥にあったからだ。


 公共の交通機関が通っていないため、残業などで送迎バスを逃すと、職員は帰宅出来なくなってしまうのだ。


 燃料不足の時勢に配慮して、IMLの所内に入る車は全て電気自動車であることが義務化されていた。


 駐車場の床面に埋め込まれたテレチャージャーが、コイルの誘導電流を使って、非接触で電力をバッテリーに供給する仕組みなので、ここには旧式な充電用ケーブルは無い。


 萩生田は車に乗り込み、スタータースイッチを押したが、ピピッという電子音が鳴るだけで、操作パネルに明かりが灯らなかった。もう一度同じ操作を繰り返すが結果は同じだ。


 不審に思い、バッテリー残量を表示させる、非常用のインジケーターボタンを押してみると、エンプティを意味するEのマークが赤く光った。


「おかしいな」

 萩生田はこの三日間ほどは執務室に籠りっきりで、帰宅しておらず、当然ながら車も使っていない。


 フル充電が何回もできるほどの時間、車はここに駐まってので、バッテリー切れのはずはない。とすれば考えられるのは、充電池の不調だろう。


 小橋首相との面会時間は限られているので、ここで原因をあれこれ考えている余裕はない。


 事務局に別の公用車を用意させるために、萩生田は一旦車を降りて、胸元からスマートフォンを取り出した。


 丁度その時であった。黒いワンボックスカーが萩生田の前に止まった。


「所長、どうなさったんですか?」

 運転席側のウィンドゥが下り、車中から氷村が声を掛けてきた。


「車のバッテリーが故障したらしい。事務局に言って、別の車のキーを持ってきてもらうところだ」


「どちらまで行かれるんですか?」

 氷村が訊ねた。


「――ああ、気象庁の関係者と会う約束が有って、溜池山王のキャピトル東急ホテルに行くところだ」

 萩生田は咄嗟に嘘をついた。


 首相への面会は氷村に隠すような話ではないのだが、とは言え、わざわざ細かい理由を説明するのも面倒だ。


「この車で良かったらお乗りになりませんか。私は青山の国連ビルに向かうところです。所長が行かれるホテルは途中なので、お送りしますよ」

 氷村は後部のスライドドアを開けた。


 萩生田は一瞬躊躇したものの、別の車のキーを受け取るのにも時間が掛かりそうだし、ややもすると約束の時間に遅れ兼ねない。


「それでは、お願いしようか」

 萩生田はそのまま氷村の車に乗り込んで、スライドドアを閉めた。


 キャピトル東急ホテルは首相官邸のすぐ隣だ。一旦ホテルで車を降りてから、歩いて移動すれば良い。萩生田はそう考えた。


         ※


 IMLの地下駐車場のスロープを上ると、もう夕方だというのに、車内には真夏の直射日光が差し込んできた。


「外はまだこんなに明るいんだな」

 萩生田はつぶやいた。


 一日中執務室や計算機センターに籠っていると、時間の感覚が麻痺してしまいそうだ。


 車は突き当りのT字路を一旦右折して、施設を回り込むようにして山道を下った。時計回りで言うと9時方向から出て、12時の位置に警備員のいるゲートがあり、そこから先はIMLの敷地外だ。


 先程のT字路を反対方向の左に行けば、緩やかな登り坂の先で道はどん詰まりとなる。そこには2基の大型パラボラアンテナが上空を向いている。衛星との通信はそこで行われていた。


 警備員は既に氷村とは顔なじみだ。スピードを落として、運転席のウィンドゥ越しに形式的にIDカードを見せるだけで、特に何のチェックを受ける事もなく、車はそこを通り抜けた。


 ゲートの外はすぐに一般道に合流するが、IMLの敷地周囲には他に何の施設も無いために、対向車とは一台もすれ違わない。


 2キロ程走って、やっと小さな町工場や民家がぽつりぽつりと見え始めた。


        ※※※


 昼も近い、御茶ノ水駅――


 午前中の捜査会議が終わり、吉松と三田村は駅周辺の聞き込み調査に出ていた。


 普段の捜査であれば、2人ともそれぞれの部下とペアを組んでいるが、特別捜査本部が設けられると、本庁の刑事と所轄の刑事がペアを組むことになる。

 吉松と三田村は、部下を本庁の刑事の案内役に差しだし、二人でペアを組んだ。


「三田村さんと一緒に聞き込みなんて、何年ぶりでしょね?」

「さあな、もう10年にもなるんじゃないか。お前が最初に神田署に来たとき以来だからな」


「僕の今があるのは、あの時三田村さんに鍛えていただいたからです。感謝しています」

「馬鹿言うな、たまたま新米刑事の教育係に当っただけだ。お前あれから八王子署に転勤になって、それから本庁に栄転の話があったっていうじゃないか。

 どうして断った? それによりによって、何で大した事件もない神田署に転属願いを出した?」


「今度話が合ったら、文句なく本庁に行きますよ。そして出世街道をまっしぐらに駆け上がるつもりです。

 でもね、三田村さん、僕はその前にもう一度、三田村さんと同じ職場で汗をかきたかったんです」

 吉松は、いつもとは違う神妙な顔で答えた。

「馬鹿かお前? 刑事に出世のチャンスは何度も来ないぞ。出世できる時にしておかなくて、後で後悔するのがオチだ」


「その言葉、まんま三田村さんにお返しします。三田村さんなんて、上からの推薦もあったし、きちんと昇進試験を受けていたら、今頃は警部どころか、その上だってあったでしょう。

 僕は三田村さんならば、都内の署の副署長の目もあったし、郊外の署だったら署長にだってなれた器と思っていますよ」

「馬鹿言うな、俺はそんな柄じゃない。現場で刑事人生を終えるのが一番性に合ってるよ。それが俺の器だ」


「またそんなカッコいい事言っちゃって。だから僕が神田署に戻って来ちゃうわけですよ。

 三田村さんさえちゃんと出世してくれていたら、僕だって今頃は本庁の捜査一課で、ギラギラした目でエースの座を狙ってますって」


「まあ、馬鹿はどこにでもいるってことだな。今日の捜査会議で質問していた大杉って捜査員がいたろう? 覚えているか?」

「覚えてるどころじゃない。麹町署の名物刑事じゃないですか」


「あいつ、俺と同期なんだ。あいつも昇進試験を拒否し続けている大馬鹿だ。今度紹介してやるよ。

 でもな、俺たちの真似なんかしたって、一つも良いことないからな。お前はきちんと出世するんだぞ、吉松」


 三田村はそう言って、吉松の肩を強くたたいた。

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