エピローグ
第28話 3か月後
季節は秋になっていた。
萩生田がその日の朝、読んだ新聞の社会欄には、なぜか唐突に、3か月前に起きた霞が関の高級官僚2人と、日銀職員の謎の薬物殺人事件の記事が大きく載っていた。
犯人はいまだ不明であるが、使われた薬剤や犯行の手口からして、北朝鮮の関与が疑われると言う、暗に半島の国を非難した論調の記事であった。
なぜかこの日の国際欄には、北朝鮮から中東への武器輸出を問題視する記事も、相当な紙面を割いて掲載されていた。
そこで扱われていたものは、もう5年も前に発覚した、北朝鮮からイエメンへのミサイル供与の実態だった。
3か月前と5年前の事件……
何れももう旬の時期を過ぎた事件が、何故今更報道されるのかと、萩生田は訝った。
そういえば最近では、北朝鮮問題に関する6か国協議が再開されるとの観測記事もよく目にする。
恐らく、北朝鮮を擁護し続ける中国を、日本政府が牽制する目的でリークした、政策的な反朝キャンペーンなのだろう。
そう考えた途端、萩生田の脳裏には白髪交じりになった小橋首相の顔が浮かんだ。一緒にラグビーボールを追っていた頃と打って変わり、政治家としての狡猾な側面を併せ持つようになった小橋。
しかし――、と萩生田は心で呟いた。
時を経れば人は変わっていくものだ。変化は悪い事ばかりじゃない。
萩生田はそう思い返した
萩生田が新聞の、『高級官僚連続殺人事件』の記事に目を止めたのには特別な理由があった。その事件の日付が忘れもしないホンファの一件の、僅か2日前だったからだ。
考えてみれば、あれからもう3か月も過ぎたのだ。改めて時が経つのは早いと萩生田は思った。
ホンファの記憶は、皆の心にまだ鮮烈に残っている。
国内世論では、気象観測に関する理解が急速に高まり、日本政府は、長年凍結していたひまわりの計画を、今年から再開すると発表していた。
ひまわり16号、17号、18号は、衛星本体はすでに完成しているため、後はH3ロケットの組み立てを待つだけだ。
多分、来年の夏には打ち上げができるだろう。
そう言えば、もう張が退院するころだなと萩生田は思った。
あのホンファの悲劇の3日後、水没していたパラセル諸島の観測所では、張を含めて5人のスタッフが奇跡的に救出された。
ホンファがルソン海峡方面に移動したと同時に、急速に周辺の水位が低下し、浸水の圧力が弱まった事で、張は九死に一生を得たのだ。
張たちは地下シェルターの天井付近に僅かに残った空間で、救出までの3日間を耐え抜いたのだった。
IMLの所内は、ホンファが残した傷跡をまだ引きずっている。
氷村、ラミーヌ、ニコラスの3名の裏切りは、組織にとって、とてつもなく大きなダメージであった。
目下萩生田は、研究そっちのけで、所内の管理体制の立て直しに忙殺される毎日だ。
成田空港で逮捕されたラミーヌとニコラスは、黙秘したままで、未だ何も語っていない。
しかし事件は多国間を跨ぎ、その解決のために核兵器まで使用された、大規模なテロリズムである。
二人の罪状が内乱罪に切り替わり、現在は公安による取り調べが行われている。
ヘス社は事件との関与を公式に否定した。
氷村とヘルムートが、同社の奨学生であった事実は認めるが、両名とも大学院の修了と共に連絡は絶たれているとの説明だった。
WMOでは本件を契機に厳密な内部監査が行われたが、ヘス社との不適切な癒着は一切認められず、またヘス社からの人事への介入も確認されなかった。
ヘス社はその後、更なる世界貢献のため、WMOへの支援を倍増すると共に、自然災害地域の復興を支援する目的で、10億ドルの基金を設立すると声明を出した。
萩生田はあの日、ヘルムートから聞かされた、『複数の政治家や有力な官僚が協力を約束した』という言葉が気になり、小橋にもそれを伝えていた。
しかし、該当者を炙りだす調査は結局行われなかった。
否、調査のしようが無かったと言い直すべきだろう。
その者達は今も、日本政府や官僚機構の中に潜み機会を伺っているはずだ。
いつか牙をむく日のために。
氷村とヘルムートは、国際警察機構インターポールに捜査依頼が出され、国際指名手配されているが、動向は何もつかめていない。
恐らく彼らの事だ、これから先も尻尾はつかませないだろうと萩生田は思っている。
ファゼンタの場所は相変わらず判明しておらず、エモーションアンプに関する新しい情報も無い。
IMLから盗み出されたソフトウェアは、既にどこかで稼働している模様で、世界中に敷設されたセンサー網にアクセスの痕跡が見つかっている。
目下NSAが、ルーティングの経路解析を行っている最中だ。
ホンファの一件の直後、アニルはIMLを去った。“一身上の理由”という以外には退職の理由は語らず、萩生田も敢えて尋ねなかった。その後のアニルの行方は、誰も知らない。
あの日アクセス不能となっていたひまわり14号は、事件の3日後に復旧した。
ひまわり側に掛けられていたロックは強固であったが、下村が、設計段階で埋め込まれた保守コマンドを使って、機能を回復させてくれた。
今も毎日ひまわりは、地球の写真を撮り、IMLに送信してくれている。
※※※
「萩生田所長、お話したいことがあります」
アイリーンが萩生田の執務室を訪れた。
「どうした、アイリーン」
「長らくお世話になりましたが、お別れの時が来ました」
「一体どうしたと言うんだ?」
萩生田は驚いて、目を丸くした。
「今日、マイヤーズ長官に辞表を出しました。NSAを辞めれば自動的に所長警護の任を解かれます。即ち、秘書としてはIMLを退職するという事です」
「どうしたんだ、突然に?」
「極めて私的な理由です。所長を救出するための突入作戦で、自分自身が初めて気が付いたことです。
私は個人的な感情に流されて、冷静な判断を怠りました。その事により3名の兵士が命を落とし、所長の生命までも危うくしてしまったんです」
「アイリーン、何の事だかさっぱりわからないよ」
「あの日、私たちの部隊は6名が1階に突入し、すぐにその場を制圧しました。所長が拘束されていのはビルの5階。残る犯人は3人。
本来であれば、チーム全体で2階から順番に、各階の安全を確認しながら上階に上がって行くべきところでした」
「君はそうしなかったのか?」
「私はいてもたってもいられず、一人だけで真っ直ぐに5階に駆け上がりました」
「それでどうなったんだ?」
「犯人に背後を取られてしまいました。幸い所長は無事に救出できましたが、あれはたまたま運が良かっただけです」
「兵士としては失格という訳か?」
「申し訳ありません」
「一つ訊いて良いか?」
「何でしょうか」
「君がいてもたってもいられなかった理由は何だ?」
「それは……、所長の身の安全が……」
「そのためだけに、大切な自分の命を張ったのか?」
「……」
「アイリーン、君は仕事では恐ろしく頭が切れるが、私生活はからっきし駄目だな。まるで自分を見ているみたいだよ」
「……」
「私も君がNSAを辞めるのに賛成するよ。危険な仕事は君には向いていない。
これからは普通の女性に戻って、恋愛をして結婚し、平穏で幸福な人生を送れ。
その方がずっと君には似合っている。
ただし、君が命を張っても良いと思える男がいたらの話だ」
「所長、それって……、どういう意味……」
「頭が良いんだから、自分で考えて見ろ。
君の後任の美人秘書が着任するまでに答えを見つけろ」
アイリーンが何かを言おうとした瞬間、萩生田のスマートフォンが着信した。見慣れない電話番号。
頭に+49と付いていることからすると、ドイツからか?
「萩生田だ」
「ミスター萩生田、私の声を覚えていますか?」
「お前はあの時の……」
「良かった、覚えていて下さった。
あの時は準備不足できちんとしたおもてなしもできず、大変に心苦しく思っていたのです」
「何が言いたいんだ?」
「あの日の話の続きですよ。我々は世界平和のために活動を続けています。ミスター萩生田には、ぜひそれに協力していただきたい。用件はそれだけです」
「テロリストの言葉に耳を貸すつもりはない。あの日もはっきりと伝えたはずだ」
「そう言われると思っていました。相変わらずご意志が固い。
そう言えば、日本政府は新しい気象衛星を打ち上げるそうですね。
しかも3機も。
厳しい財政状況の中で、世界貢献をされる日本政府には心から敬意を表します」
「それは本心か?」
「もちろん、本心ですよ。
ロケットの発射は3機とも種子島からですね。
丁度ハリケーンシーズンと重なりますが、良い打ち上げ日和になる事を心からお祈りしています」
「脅迫のつもりか?」
「解釈はお任せします。
今日はご挨拶だけのつもりでしたので、これで失礼しますが、ミスター萩生田には時々コンタクトさせていただきたいと思っています。
これからもよろしくお願いいたします」
電話が切れた。
「アイリーン!」
萩生田は声を上げた。
「さっき私が君に言った言葉は、当分の間保留にする。君は今すぐにNSAへの辞表を撤回するか、プログラマーとしてIMLに入るか、どちらかを選べ。
これは命令だ。種子島を守る!」
了
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