第27話 首相官邸

――成田空港、出発ロビー――


「もう10時を過ぎたぞ」

 ニコラスが声を荒げた。


 ラミーヌとニコラスは成田空港で、モスクワ便の出発を待っていた。


 既に出国手続きを終えて、出発ロビーの中に入っていたが、フライトの予定時刻である9時を既に一時間以上も過ぎているのに、まだ機内への搭乗案内が行われていない。


 先程流れた空港内のアナウンスによると、ハリケーンが朝鮮半島に迫っており、モスクワ便のフライト航路と、ハリケーンの進路が重なる恐れがあるため、目下安全確認をしているとの事だった。


 二人にとって皮肉なことに、ひまわりからの気象情報が途絶えているために、航路の安全を確認するのに、通常の何倍もの時間を要しているのだ。


「このまま欠航になりはしないだろうな?」

 いらついた口調でニコラスが言った。


 ホンファが予定通りに上海に上陸しているのならば、モスクワ便の航路の邪魔になどならないはずだ。


 しかし先程聞いたアナウンスでは、今ホンファは朝鮮半島に向かっているという。


 IMLの所内にいた時までは、計画は滞りなく進んでいたはずだ。自分たちがIMLを出た後で、計画が大きく崩れてしまったとしか思えない。


「落着けニコラス、ここで慌ててもどうにもならない」


 ラミーヌはニコラスを制したが、自分にも状況が把握できていなかった。一体何故ホンファはコントロールを外れたのだろうか?


 その時、ピンポンという電子音がロビー内に響き、女性のアナウンスが流れ始めた。


――アエロフロートSU4679便をお待ちのお客様にお知らせします。当機は対馬海峡を通過中のハリケーンの影響で、航路の安全確認をしておりましたが、ただ今安全が確認されました。

 間もなくお客様を搭乗ゲートにご案内させていただきます――


「ようやく出発だ」

 ラミーヌとニコラスは、搭乗ゲート前の椅子から立ち上がった。


 その動きを見定めたかのように、後方から「ミスター・バトンさん、ミスター・ファランドさん」と二人を呼ぶ声が聞こえた。


 聞きなれぬ声。


 聞き違いかと思いながら、ラミーヌが後を振り返ろうとしたその途端、二人の周囲は、成田空港警察署の警官でとり囲まれた。


「ラミーヌ・バトンさん、ニコラス・ファランドさんに間違いありませんね。お二人に殺人と器物損壊の容疑で逮捕状が出ています」


       ※※※


 吉松は木立を抜けてくる、強い日差しに晒されて目を覚ました。


 どうやら気を失っていたようだ。

 

 右足には相変わらず激痛が走るが、それ以外は痛む場所は無い。

 運よく、アサルトライフルの掃射からは逃れたということだ。


 吉松は胸のポケットからスマートフォンと取り出した。

 着信履歴を見ると、あの電話は三田村からだった。あれから更に5度着信していた。


 吉松は三田村の着信履歴をタップした。


「おう、吉松心配したぞ」

「三田村さん、シャレにならんです。さっきの電話で死にそうになりました」


「何が起きたか知らんが、死にかけたってことは、死ななかったってことだ。よかったなお前」

「良かったって、三田村さん……」


「大杉が死んだ」

 吉松の言葉を遮るように三田村は言った。


「どうしたんですか?」

「一緒に北朝鮮のやつらのアジトを貼りこんでいて、俺だけ小便しに離れた隙にやられた。

 何の抵抗の跡もなかった。一緒にいたら俺も死んでいただろう」


「それじゃ僕からの電話の時は……」

「丁度、大杉を病院に運んでいた時だ。電話を取れなかった」


「これからどうなるんですか? なんだか得体の知れない事件ですよ」


「ああ、政治も絡んでいるからな。俺たちが関われるようなもんじゃない。しかし大杉の件で、やっと公安も重い腰を上げた」


「少しは報われたってことですか……」

「ほんの少しだけだ。間尺に合わんよ」


「刑事の殉職は、いつもいつもそうですね」

 吉松は、つい先ほど自分が殺されかけたことを思い出していた。


「それはそうと、お前どこにいるんだ。心配したぞ」

「IMLのゲート下の斜面で、たった今まで伸びてました。右足をどうにかしたみたいで、動けません」


「そうか、今すぐに助けを呼んでやるから、そこにじっとしていろ。丁度IMLでは3人殺されて、外ではパトカーが爆破だ。

 埼玉県警が面子を掛けて、総出でそこらをあたっているはずだ」


「了解、三田村さん。

 実は右足がえらく痛いんですよ。埼玉県警には、僕を見つけたら優しく扱うように念をおしておいてくださいね」

「おう、まかしとけ」


 吉松は電話を切って、仰向けに寝転んだ。


       ※※※


 萩生田はスマートフォンの着信音で目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。


「昨日から、大変な一日だったようだな」

 電話の主は、首相の小橋だった。


「小橋、昨日はすまなかった」

「約束をすっぽかされた理由はもう報告を受けている、気にするな。それにしても、ハリケーンが操作されていたとは驚きだ。

 気象兵器なんて、子供向けの漫画にしか登場しないと思っていたよ」


「同感だ。専門家として気象を知れば知るほど、そんなものは荒唐無稽で、有り得ないと思い込んでいた」


「今回は何とか難を逃れたようだが、これからが大変だな。萩生田、今から官邸に来られるか?」


「何のためだ?」

「緊急閣議を招集した。お前の口から気象衛星の重要性を説明して欲しい」


「ひまわりを打ち上げてくれるという事か?」


「そう結論を急ぐな。まだ確約はできない。補正予算を組むための根回しの段階だ」


「ありがとう、小橋。何時に行けば良い?」

「12時ちょうど。どうだ?」

「行くよ、必ず」


       ※※※


 萩生田が腕時計を見ると。もう10時を回っていた。


 ホンファを解放した安堵感から、椅子に座ったままで、2時間程も眠ってしまったようだ。


 萩生田はまだ少しぼうっとしている頭を整理するために、眠りに落ちる直前の出来事を順番に思い出してみた。


 ホンファが東へと進路を変えた後、マイヤーズとは作戦の成功を祝福し合った。


 ほんの何時間か前に、初めて話をしたばかりなのに、今や彼は自分にとって最も信頼できる戦友の一人だ。


 マイヤーズからは、ディープスロートがIML内部の人間らしいとの報告を受けていた。


 今はそれが誰なのか見当もつかないが、IMLに戻り次第、それが何者か突き止めなければならない。

 当面の間は、萩生田にとって最も重要な仕事になりそうだ。


 その後、アニルからの電話で、サーバーをハッキングした犯人が、ラミーヌとニコラスらしい事を知った。


 またIML所内では、カミノを含む3人の殺人事件も発生しているという。犯人はだれだか分からないが、ラミーヌとニコラスが殺人にも関与している可能性がある。


 二人とも所内から姿を消したようだが、もしも本当に所内にいないのであれば、当面彼らの捜索は、警察に任せるしかない。


 下村からは、ホンファが勢力を落としながら、対馬海峡に向かっているとの報告があった。


 その一報を聞いた後、ほっとして自分は眠ってしまったのだ。


       ※※※


 アイリーンが部屋に入ってきた。


「お目覚めですか?」

「起こしてくれれば良かったのに」


「お疲れのようなので、そのままにしました。もう少しお休みになってください。ソファーに移られた方が楽だと思います」


「いや、大丈夫だ。それよりもアイリーン、これから首相官邸まで運転してくれるか?」

「もちろん大丈夫ですが、何かあったのですか?」


「首相から電話をもらった。ひまわりに補正予算が付きそうだ。これからその説明に行く」


       ※※※


 アイリーンの運転する車で、萩生田は統合災害対策センターを出た。


 清瀬市から首相官邸までは一時間ちょっとだ。指定された時間には丁度間に合いそうだ。


 車の中にいる最中も、萩生田の元には続々と報告が届いた。


 ホンファは朝鮮半島の先端をかすめて日本海に入り、以後急速に勢力を縮小していた。

 このまま夕方頃には温帯低気圧となり、夜にはオホーツク海から北極海に抜けて消滅するだろう。


 成田ではラミーヌとニコラスが逮捕された。今後は殺人と器物損壊容疑での取り調べが始まるだろう。

 警察はそれを突破口として、事件の全貌にまで捜査の網を広げるはずだ。


 萩生田を拉致した男たちは、超法規措置で通常の司法手続きは経ずに、アメリカ軍の横田基地から直接アメリカ本土に移送されることになったようだ。

 今後はNSAの管理下で尋問が行われるだろう。


 氷村とヘルムートは緊急指名手配され、空港や港には非常線が張られているが、まだ網に掛かってはいない。

 頭脳明晰な彼らの事だ、恐らく巧妙に国外に脱出するに違いない。


 下村はひまわり16号からの計画推進に、全面的に協力すると言ってくれた。強力な援軍だ。

 昨夜、下村と会えていなければ、一体どうなっていたのだろうかと萩生田は考えた。


 あの時萩生田は下村に、ひまわり14号の連写モードを使いたいと依頼しに行ったのだった。

 ホンファの異常行動を解析するためには、連続写真が不可欠と萩生田は考えていた。


 ひまわりシリーズには、試作段階で組み込まれていたものの、実運用では公開されなかった機能が幾つもある。14号の連写モードもその一つだ。

 下村はひまわりの設計者の一人でもあり、未公開仕様まで全てを知り尽くしていた。


 今回はその機能を活かす事が出来なかったが、ひまわり16号にはぜひとも、それを標準機能として搭載しなければならない。


 昨日から起きた事件の数々は収束に向かっていたが、萩生田の心には、まだ一つだけひっかかる事があった。

 昨日、小橋首相に会う予定とその用件を、なぜ相手が知り得たのかという点だ。


 IMLの警備課に調べさせたが、会議室には盗聴器は見当たらなかった。

 アニルかダグラスの何れかが、情報を外部に漏らしたのではないかという疑いはまだ晴れないままだ。


 小橋首相が自分の側近に萩生田の来訪予定を話し、その情報が外部に漏れたという可能性も無くはない。

 それはこれから小橋に会って確認すればすぐ分かることだ。


       ※※※


「所長、一つお聞きして良いですか?」

 ハンドルを握りながら、アイリーンは萩生田に訊ねた。


「何だ?」

「昨夜アメリカ大使館に向かう際、所長はパラセル諸島で開発したプログラムが、『全ての勝負をひっくり返す切り札』だと仰いました。

 その意味を教えてください」


「覚えていたのか。さすがにポイントを外さないな、君は」


 何気なく口を突いて出た自分の一言を、アイリーンは聞き逃していなかった。

 

 萩生田はアイリーンの如才のなさに驚くと同時に、信頼できる味方として、頼もしささえ感じ取っていた。


「君にだけは話しておこう。何故パラセル諸島のプログラムが戦いの切り札になり得るのか。それはあのプログラムがまだ、未完成な状態にあることに由来する」


「未完成? それに何か意味があるのですか?」


「張のチームが開発したプログラムは、完成の一歩手前の段階に来てはいるが、まだ正式なリリースバージョンになっていない。

 つまりセキュリティが掛かっていない状態という事だ」


「セキュリティ?」

「IMLの気象予測システムは、見方を変えれば、外部のセンサー群と頻繁に接続を繰り返す巨大なネットワークシステムとも言える。

 その中に、パラセル諸島の、セキュリティの掛かっていないプログラムモジュールが組み込まれているというのが、今の状態だ」


「つまり、その部分がセキュリティホールであると言うことですか?」


「その通りだ。

 我々の開発してきたシステムは巨大だし、学術的にも非常に高度だ。

 盗み出した奴らは、それを理解するよりも、まずはそのまま運用しようとするだろう。

 とすれば、脆弱性もそのままそこに残るという事だ」


「こちらの立場からすると、アタックすべき場所も、その方法も予め分かっているという事ですね」

「察しが良いな、アイリーン」


「相手が、外部のネットワークには、接続しないという事はありませんか?」


「気象予測システムはその性格上、データ収集のために、必ず外部のセンサーやデータベースにアクセスしなければならない。

 網を張っていれば必ず尻尾はつかまえられるし、そこを辿れば相手のシステムにたどり着ける」


「なるほど、相手がシステムの運用をし始めさえすれば、我々はそこにハッキングを仕掛ける事ができるという訳ですね」

「そういう事だ」


「相手のサーバーに侵入できるようになれば何でもできます。

 ウィルスを送り込んで、システム全体を内部崩壊させることもできますし、こちらのプログラムを常駐させて、相手の情報を盗み出す事も可能です」


「私は気象が専門なので、正直言ってセキュリティやネットワークの技術は良く知らない。君はその分野にも詳しそうだな」


「大学で専攻した分野の一つですから」


「君は秘書にしておくのはもったいないな。マイヤーズ長官に頼んで、IMLに転籍させたいくらいだよ」


 萩生田は冗談めかして笑った。


       ※※※


 霞が関で首都高を下りた萩生田のテスラLSは、内閣府下の交差点を右折した。


 同じ交差点で左折すれば、すぐ目と鼻の先はアメリカ大使館だ。

 つい数時間前までそこにいたのに、随分と昔のことのように萩生田には感じられた。


 目前の危機は去った。しかし萩生田には、戦いに勝利したという実感も安堵感も全く湧いてはこなかった。


 闘うべき敵の正体は、萩生田には今も分からないままだ。しかしそれでも自分は闘い続けなければならないのだと、萩生田は固く心に誓っていた。


 相手がハリケーンを操る者であるならば、最前線でそれを迎え撃つのは、気象に関わる者の務めだからだ。


「もうすぐ首相官邸です」


 アイリーンの声で腕時計に目を落とすと、11時50分。小橋と約束した時間には間に合ったようだ。


 思い返してみると、今回の一連の出来事は、昨日の正午に掛かってきた氷村の内線電話から、全てが始まっていた。


「生涯で一番長い24時間だったな」

 萩生田はつぶやいた。


 車は護衛の警官が立つゲートから、首相官邸の敷地に吸い込まれていった。

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