第23話 下村

 萩生田を乗せた車は首都高を高島平で下り、国道254号線で新座市方面に向かっていた。


 目的地の清瀬市は新座市のすぐ隣だ。


 萩生田はスマートフォンを手に取り、下村の番号を選択した。


「どうした萩生田?」

 下村はすぐに電話に出た。

「下村、状況が変わった。先程頼んだ話だが、これからすぐに実行したい」


「無茶を言うな。こっちは会議中だ」

「どうせ避難勧告に関する会議だろう? 

 それなら大丈夫だ。

 もうホンファは日本には上陸しない。行先は上海だ」


「ちょっと待て、そんなに決めつけるな。確かに動きは北に向かっているが、まだ九州の北部や本州の日本海側には上陸する恐れがあるだろう」


「よく聞いてくれ下村、ホンファは誰かに誘導されて上海に向かっているんだ。

 もう日本に上陸することは無い」


「誘導だと?」

「そうだ、詳しい事は改めて話す。上海への上陸を食い止めるためには、衛星からの気象画像が必要だ」


「どういう事だ?」

「今、ひまわり14号は何者かの妨害工作を受けて、IMLからは全く制御が出来ない状態だ。急いで手を打たないと、取り返しのつかない事になる」


「すぐにこちらに来られるのか?」

「今、向かっているところだ。あと30分もすれば着ける」

「わかった、今すぐに準備を整える。急いで来いよ」

 下村は電話を切った。


「所長、下村部長に会われて、一体何をなさるのですか?」

 ハンドルを握るアイリーンが、萩生田に話しかけた。


「ICBMの着弾地点を特定するためには、ひまわりの画像が不可欠だ。それが得られないとすると、代わりのデータを用意するしかない」

「代わりのデータ?」


「そうだ、ひまわりの代わりは、ひまわりにしか果たせない」

「統合災害対策センターに、それがあると言うことですね」

 萩生田は黙ってその問いに頷いた。


       ※※※


 萩生田の車は国道を新座市内で左折し、志木街道に入った。


 もう1㎞も走らない内にすぐに清瀬市に入る。

 周囲は田園が広がっており、未明の時間という事もあって、辺りには全く人影はない。


 県道を左折すると、何の変哲もない住宅地。対向車とやっとすれ違える程の道幅を数分走ると、右手に低いフェンスと植込みが現れ、その先には広い門があった。


 壁には2つのプレートが埋め込まれていた。

『気象庁清瀬庁舎

『統合災害対策センター』

 2つの名称が浮彫されている。


 アイリーンが車を門の中に入れると、ヘッドライトの照らす先には、一人の男が立っていた。

 アイリーンはそこで車を止めた。


 萩生田がサイドウィンドゥを下ろすと、男は萩生田に向かって「そろそろ着くころだと思ったよ」と声を掛けた。


「待たせたな、行こうか」

 萩生田の言葉で、アイリーンはこの男が先程の電話の相手、下村である事を察した。


 車を降りたアイリーンの目の前には、低層の建物が数棟建ち並んでおり、奥の方には上部に白いドームを乗せた塔が見えた。

 多分アンテナかレーダーだろう。


 目の前にある二棟の建屋が一番大きく、3階建ての二階部分が連絡通路で繋がれていた。

 下村は萩生田とアイリーンを先導し、その二棟の内の左手の建物の通用口から中に入っていった。


 建物の外観は古ぼけていたが、内装はリフォームされて間もないらしく、まるで新築のように綺麗で、まだうっすらとモルタルの匂いがしていた。


 下村は広めの階段を、早足で三階まで上がっていった。そして廊下の一番手前にある大き目なドアを開けると、中のスイッチで室内灯を点けた。


 そこは200平米ほどのフロアで、正面の壁に4枚の大型ディスプレイが据え付けられ、2列のデスクが部屋の後方まで並べられていた。


 部屋の器材には下村が予め電源を入れていたらしく、各画面には起動準備中の画面が表示され、システムのセルフチェック中のプログレスバーと無数の数字が目まぐるしく動いていた。


 アイリーンは室内を一目見るなり、明らかに何かの管制設備のようだと感じた。


 IMLのオペレーションルームとは違い、機材は随分と旧式で質素に見える。


「ここは一体何ですか?」

 アイリーンが尋ねた。


「ひまわりの管制室だ。ただし3年前までだがな」

 萩生田が、アイリーンの疑問に答えた。


「そこから先は私が説明しよう」

 下村が脇から話に加わった。


「ようこそ、お嬢さん。今日は随分と物騒な服装をされていますね」


 下村はアーリーンが着ている黒いコンバットスーツと、肩から掛かったホルスター、そしてそこから突き出している拳銃のグリップに順に目をやった。


 アイリーンは反射的に、右手で拳銃を覆い隠した。下村はその仕草を見て、今更隠しても無駄だとでも言うように、微かに笑った。


「私は萩生田の昔からの友人で、下村と言います」

 改めて下村は、アイリーンに話しかけた。


「初めまして、萩生田所長の秘書でアイリーンと申します。こんな恰好で驚かせて申し訳ありません」


「まずはこの施設についてお話しましょう。IMLが設立されたのが2050年。今から3年前です。

 それまでここは『気象衛星センター』という施設名で、文字通りひまわりの管制業務を行っていました。

 因みに、今のIMLの施設もその当時は気象庁の管轄下で、『気象衛星通信所』という名称で、ひまわりとのデータ通信の実務を担う一部門だったのです」


「今もここの施設は使われているのですか?」

「ひまわり自体がIMLに移管されましたから、もうここでは管制業務は行っていません。『統合災害対策センター』と名前を変えて、今では自然災害から国土を守る前線基地になっています」


「現在この部屋は、どういう目的に使われているのですか?」

「目的と言う程の大げさな使い方はしていません。今では近隣の子供たちの科学の授業で、見学に使われるだけですよ」

 下村は爽やかな笑顔で答えた。


「本当にそれだけなのですか?」

 アイリーンは更に訊いた。


「設備自体はまだ生きているので、もしもIMLのシステムに何か障害が起きた場合のバックアップシステムとして待機している状態です」


「すると、ここに来た理由は……」

「そう、あなたが今考えている通り、ここからひまわりを制御するのです」


 アイリーンは、先ほどの車の中での萩生田の言葉を思い出した。


「あの時、所長が言われた、『ひまわりの代わりは、ひまわり』とはこの事だったんですね」

 アイリーンの言葉に、萩生田が頷いた。


       ※※※


 氷村の車がIMLの敷地を出ようとした時、目の前のゲートに2人の人影が見えた。


 氷村は一瞬、萩生田がIMLに戻ってきたところを、統一戦線の2人が確保したのかと思ったが、どうやら違うようだ。


 1人はあの男。守衛から奪った制服を着ている。

 もう一人は見慣れぬ顔で、スーツを着ている。


 ゲートの外にパトカーが停まっていることからして、警察官だろう。

 IML内のごたごたが、こんなに早く外に知られたとは考えられない。

 こんな時間に、なぜ?


 氷村の脳裏には様々な考えが過ったが、ここで立ち止まるわけにはいかない。もう事は動き始めているのだ。


 氷村はちらと視線を北朝鮮の男に送っただけで、そのまま車をゲート外に進めた。


 警察官らしき男の横をすり抜ける際、チラリと一瞥すると、その男の顔にはうっすらと汗が浮かんでいた。


 時計の針は2時半を回っていた。

 もうすぐ、あの男女に指示した、撤退時間の3時が来る。


 結局、萩生田はIMLには戻ってこなかったようだが、仕方がない。

 それも想定の範囲内だ。


 車が緩い右カーブを曲がりはじめると、ルームミラーに映っていた入口ゲートの常夜灯が視界から消えた。


 もうここに戻る事はないだろう。感傷的な思いなどは全く湧かないが、一つの任務が終わったという小さな達成感だけはあった。


 氷村が事務局長の立場でIMLにいたのは3年間。その間に萩生田の研究はずいぶんと進んだ。もうハリケーンの移動予測は、十分な精度になっていると言って良い。


「これからはその研究成果を、どう運用するかだな……」

 氷村は一人つぶやいた。


        ※


 長い直線道路に入ったところで、氷村はヘルムートに電話を掛けた。


「氷村か?」

「はい、IMLのプログラムデータは、全て盗み出すことに成功しましたが、萩生田所長の再度の確保は行えませんでした」


「そうか、仕方が無いな。君の読みは外れたようだが、彼の事だ、こちらの計画を阻止しようと、今も必ずどこかで動いているはずだ」

「私もそう思います」


「ナンバー2の男はどうだった? 上手く取り込めそうか?」

「アニルは野心家です。恐らく落ちるでしょう。私からの誘いには、大いに心が揺れたように見えました」


「それは何よりだ。ミスター萩生田とナンバー2のアニル、二人とも取り込めれば理想的だが、アニルだけでも目的は果たせるだろう。

 これから君は、彼にターゲットを絞って誘いを掛けてくれ」

「分かりました」


「今日、ミスター萩生田は、私からの誘いには耳を貸さなかったよ。もちろん、予想していたことだから驚きはしないがね。

 しかし私は絶対に諦めはしない。これからも時間を掛けて、彼にアプローチすることになるだろう」

「そういう人間ですよ、萩生田所長は」


 そのとき氷村は自分の心に、何故か安堵に似た気持ち広がるのを感じた。

 3年間、氷村は萩生田と同じ場所で過ごし、萩生田の考え方に触れてきた。

 萩生田は自分の流儀を決して曲げない信念の男だった。


 氷村が初めて出会った頃の萩生田は、氷村にとって都合よく利用する工作対象の一つに過ぎなかった。

 しかしいつの頃からか氷村は、萩生田に憧憬に似た感情を抱くようになっていった。


 本心を言えば氷村は、萩生田には、ヘルムートが用意した生ぬるい甘言程度で、安易に転んで欲しくはなかった。


 簡単に仲間に取り込むくらいなら、強い敵でいてくれた方が良い。それが氷村の偽らざる思いだった。


        ※


「ところで氷村」

 ヘルムートは話題を変えた。


「君とはヘス・ユーゲントの頃からの長い付き合いになるが、同じ作戦に関わったのは初めてだったな」


「光栄に思います。私は子供の頃から天才児だと特別視され、友人がいなかった。しかしヘス・ユーゲントには、自分と同じような子供ばかりいたのでとても安心しましたよ。

 とりわけあなたは、私が生まれて初めて、自分より優れていると実感した人でした。

 あなたがいたからこそ、私は心のバランスを失わずに済んだのです」


 氷村とヘルムートは共に、10歳という最年少でヘスの奨学生試験をパスした俊才。

 しかもWISC-ⅣのIQテストで測定限界の160をマークし、ヘス・ユーゲントの中でも別格の扱いを受けていた。


 二人共兄弟がいない一人っ子で、ヘルムートは氷村より2歳年上だった。

 ヘルムートは毎年夏に氷村と再会すると、彼を弟のように可愛がり、氷村もヘルムートを慕って、毎年のヘス・ユーゲントを心待ちにしたものだった。


「君は日本を離れたら、ファゼンタに行くのだったな。そして次のミッションは、エモーションアンプの制御システムを仕上げる事」


「萩生田所長の気象予測システムはもう完璧です。後はハリケーンのコントロール用に最適化させ、運用面で梃入れをするだけ。

 アニルにやらせれば、恐らくそう時間は掛からないでしょう」


 氷村は左手をポケットに入れ、IMLから持ち出してきた唯一であり、最大の収穫物であるメモリーカードに触れ、表面のざらざらとした硬い感触を指先で確かめた。


       ※※※


 IMLのゲートを背にし、パトカーに歩を進める吉松の額には、冷たい汗が浮かんでいた。


 先ほど、吉松の横をすり抜けていった車があったが、あれは今回の事件に関係のある車だろうか?

 緊張のあまりに、ナンバープレートを見落としてしまったが、車種は吉松が尾行してきた、あのワンボックスと同じだった。


――IMLでは何が起きているんだ?――


 一昨日の殺人事件と、気象予測に何の関連があるのか見当もつかない。

 しかし確かなのは、それが重大犯罪であるということだ。


 既に3人の人間を殺し、IMLの警備員まで手に掛けたかもしれない男女がここにいる。

 早く手を打たなければ、これから先も人が死ぬかもしれない。


 怪しまれないように、ゆっくりと歩を進める吉松は、気ばかりが焦った。


――あと30m――


 パトカーに乗り込んだら、すぐに無線で応援を要請しなければならない。


 しかし、自分自身の歩みがまるでスローモーションのように感じられ、わずかの距離がなかなか狭まらない。


 いっそ走り出したい衝動を、吉松は必死に抑えていた。


「お巡りさん」

 不意に背後から声が聞こえた。

 吉松が振り返ると、あの男が帽子を外して自分を見ていた。


「あんた、神保町の交差点で俺たちを見張っていた刑事だろ?」


――見破られていた!――


 吉松がそう思った瞬間、男の隣には、あの女がグレネードランチャーの装備されたアサルトライフルを構えていた。


 ボウッという発射音が響く。


 吉松は反射的に、パトカーと反対側の道路の端に身を投げ出した。


 火炎を引いた塊はパトカーを直撃し、爆発音が響いた。


 吉松は僅かな一瞬茫然としたものの、すぐさま気を取り直して、ガードレールを飛び越えて斜面を滑り降りた。


 背後では、機銃掃射がガードレールを舐める、カン、カン、カン、カン……という着弾の金属音と共に、小さな火花が散っていた。

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