第22話 誘惑

 アニルは萩生田との電話が終わるや否や、すぐにアウトラインプロセッサーを開いて、プログラムの骨格を記述していった。


 まずは長江気団の気圧配置と偏西風の流れを参照し、進路操作されていない状態のホンファの移動予測を行う。

 それとは別に、これまでのホンファの移動履歴を参考に、進路操作された状態の移動予測を行う。


 両方の予測データと、やや遅れて起きる実際のホンファの移動実績を比較して、3者の特徴点と相関関係を抽出する。


 この作業を逐次行っていく一方で、同じ計算処理を、時間軸を遡って行うことで、進路予測と補正情報のデータベースが構成される。

 元の仕組みはいたって単純だ。


 次に、出来上がったデータベースに、複数の揺らぎ情報を加えてデータを多元化する。

 そして統計解析の分散分析の手法で、膨大な量に膨れ上がったデータベースの中から、未来の予想の為に、優位なパラメーターを動的に選び直していく。


 プログラムの仕様が固まり、コーディング作業に取り掛かろうとしたその瞬間だった。


「あっ!」

 アニルは悲鳴にも似た声を上げた。


 アニルの目の前にあるモニター画面から、ホンファの白い渦が突然消えた。


 地図データや地形データベースは画面に表示されたままだ。

 気圧や風速、風向など、モニタリングポストからの観測データも正常に表示できている。


 ひまわりからの衛星画像のレイヤーだけが、表示から失われているようだ。


 モニター画面の上方には、ひまわりとのデータ接続が途切れている事を示す“No Connection”という赤い文字が点滅していた。


 アニルはすぐに受話器を取り、ひまわりの管制セクションの内線番号を押した。


「ひまわりの画像が表示されないが、どうかしたのか?」

「たった今突然、衛星からのデータが途切れました。原因は不明です」


「ひまわりの故障か?」


「まだ詳しい事は分かりません。先程から、ひまわりに動作確認用のテスト信号を送っていますが、サーバーがコマンドを受け付けません。

 恐らくひまわり側ではなく、制御システムかサーバー本体の問題だと思われます」


「復旧に掛かる時間は?」


「これから原因を探るところなので、全く読めません」

「とにかく急いでくれ!」


 こんな時に限って、なんという事だ。


 アニルには突然のトラブルが、まるでホンファの進路を誘導する高気圧のごとく、自分たちの行く手を遮っているかのように感じられた。


 とにかく、あれこれ考えている余裕はない。


 アニルはすぐに萩生田に電話を掛けた。


       ※※※


 IMLに向かう車中で、萩生田のスマートフォンが鳴った。アニルからの電話だった。


「所長、大変です。ひまわりからの画像が突然途切れました」

 スピーカーの先で、アニルが切迫した声を上げた。


「何だと、どういう事だ?」

「原因はまだ不明です。管制セクションがたった今、調査をはじめたところなので、復旧の見通しも立たない状態です」


「まずいな、ホンファの移動予測が出来なくなる」

「レーダーの情報と、モニタリングポストの観測データから、ホンファのいる大体の位置は推測できますが、目の正確な位置はやはり衛星画像がないと掴めません」


「アニル、トラブルの解決は管制部に任せて、君は予測プログラムの開発をこのまま続けてくれ。ひまわりの復旧に賭けるしかない」


 萩生田は電話を切ると、深く息を吐いた。


        ※


「どうしました?」

 運転席のアイリーンが訊ねた。


「ひまわりからの画像が途絶えたらしい。このままだと、ホンファの移動予想が出来なくなる」


「ミサイルの着弾点が、計算できないということですね」

「そうだ」


「こんな重要な時期にそのようなトラブルとは、タイミングが良すぎます。システムの故障や事故などではなく、意図的な妨害工作のように思います」


「私もその可能性が強いと思う。しかし、もしもそうであるとすれば、簡単にシステムが復旧できるは考えられない」


「万事休すという事ですか?」


 萩生田はアイリーンの言葉に返事をせず、深く目を瞑った。


 それは萩生田の癖だった。


 いつでも、どこにいても、周囲の情報をシャットアウトして、自分の思考に集中できるのだ。


 やがて萩生田は、何かを決意したかのように目を見開いた。


「アイリーン、行先を変更する。首都高を下りて和光方面に向かってくれ」

「どちらに向かわれるんですか?」

「清瀬市にある統合災害対策センターだ」


「そこで何を?」

「もう一度、下村に会う」


       ※※※


 IMLに向かっていた萩生田の車は、首都高5号線を高島平で下り、新大宮バイパスを通って笹目通りに抜けた。


 萩生田のスマートフォンに着信が入った。

 またアニルからだ。


「所長、ひまわりのトラブルですが、原因が分かりました。何者かがひまわりの制御系に手を加えており、コマンド系もデータ系もアクセスがロックアウトされています」


「誰がやったんだ?」

「分かりません。外部からの侵入では無く、所内の誰かです。今は犯人の追及よりも先に、システムの復旧に全力を挙げているところです」


「すぐに復旧できそうか?」

「厳重にロックが掛かっているようで難航しています。先程、システム管理課のスタッフも集まってくれました。

 時間は何とも言えませんが、全力を尽くします」


 やはり誰かが意図的に関与したトラブルだった。

 ある程度は覚悟をしていたが、現実を突きつけられると、胸が締め付けられる思いがした。


 犯人が誰なのかは不明だが、それを行ったのは確実に、つい先ほどまで自分が全幅の信頼を置いていたスタッフの誰かなのだ。


「アニル、ホンファの予測プログラムの進捗はどうだ?」

「もう少しで完成します。コーディング自体は終わって、今はデバックを行っている最中です。

 過去の移動履歴をデータベースから入力して動作テストしていますが、かなり計算精度は高いと思います」


「具体的な精度は?」

「30分後の予測をするのであれば、連続してデータを入力し続けなくても、最新の位置データさえあれば、充分に有効な予測が可能です」


「5時の時点での位置データが、一つだけ有ればなんとかなるわけだな?」

「そういう事です」


「わかった、プログラムの完成を急いでくれ」


――大丈夫、持ちこたえている――

 萩生田は薄氷を踏みつつも、希望がまだ失われていなことに感謝していた。


       ※※※


 アニルがIMLの自室で、萩生田との電話を切ったちょうどその途端だった。

「コン、コン」とドアをノックする音が聞こえた。


「鍵は掛かっていない、どうぞ」

 アニルが返事をすると、部屋に現れたのは氷村だった。


「氷村事務局長、所内にいらっしゃったのですね」

「もう帰るところだ。君の部屋の灯りが見えたので、この前の返事を聞こうと思って寄ったんだ」


 アニルは一週間前にも、氷村の訪問を受けていた。


「IMLを上回る規模の、気象研究所が新しく発足するというお話でしたね。気象衛星も打ち上げるとか……」

 アニルは氷村からの話を思いだした。


「その通りだ。アニル、君にそこの所長を務めて欲しい」

「何故私にそんなお話を?」


「私は君の能力を高く評価している。それが理由だ。君はここに居続ける限り、ずっと萩生田所長の右腕に過ぎない。それで満足なのか?」


「正直言って、リアリティを感じない話です。自分なりに調べて見ましたが、WMOにはそのような、新しい研究所の設立計画はありませんでした」

「今回の研究所は、WMOとは無関係だ。心配しなくていい」


「しかし、このような世界情勢の中では、どんな国も気象研究のために、巨額の予算を捻出したりしないでしょう?」


「それは見当違いだよ、アニル。気象の中でもとりわけハリケーンには、経済的な価値がある。それを皆が理解していないだけだ」


「価値とは何ですか?」

「例えば今、IMLがやっている事と言えば、ハリケーンの上陸地点を予測してそこに警報を発するだけ。

 それが経済に、何かメリットをもたらしていると思うか?」


「それで十分ではないのですか?

 我々は災害被害を最小限に止めることで、人類に貢献していると思います」


「いや違う。新しい価値を何も生み出さない研究には、予算が付かないのは当然だよ。

 しかし、視点を変えてもっと違うやり方をすれば、新しい道が開けてくる」


「仰っている意味がわかりません」

「仮にハリケーンの研究が、何らかの新しい価値を創造するものなのだとしたらどうなると思う、アニル?」


「新しい価値ですか……」

「そうだ。価値のあるものには、必ずそこに経済活動が発生する。予算とはそういう前向きな場所に集中するものだよ」


「もっと具体的に話していただけませんか?」

「単純な話だ。例えば、ハリケーンの上陸地点を自由に操作できるとしたらどうなる?」


「どこにでも、望む場所に被害を与える事ができる。早い話が、気象兵器という事になりますね」


「その通りだアニル。ハリケーンを核兵器に換算すれば、数十万個分のエネルギー量。

 言い換えれば、核兵器を遥かに上回る経済価値を持っている事になる。

 上陸地点を予測しているだけなら無価値なものでも、移動させることができれば経済活動になる」


「その新しい研究所は、ハリケーンを操作するための原理を研究するという事ですか? そんな事、できる訳がない」


「ついさっきまで、君のモニター画面に映っていたのは、操作されて移動しているホンファの姿だったのではないかね?」


 アニルは氷村の一言に、返す言葉を失った。


「最早ハリケーンの操作は、実現性や可能性を云々する段階ではなく、現実に行われているんだ。

 君にやってもらいたいのは、操作原理の研究ではなく、正確でしかも効率的なハリケーンの誘導手法の確立だ。操作原理の研究はもう間に合っている」


 アニルは氷村の言葉に驚き、目を見開いた。


「私の解釈が間違っていなければ、それはあなたが、既にハリケーンを操つる技術を持っているという意味になります」


「そう思ってもらって構わない。正確に言うと、私の属している組織がそれを握っているという事だがね」


「信じられません。目的は何ですか?」

「今はまだ話せる段階では無い。ただ一つだけ、世界の平和のためとだけ言っておこう。

 君が私のオファーを受けてくれるのであれば、その時には時間を惜しまずに詳しく説明するよ」


 アニルは氷村の目をじっと見つめた。

 嘘をついている目では無い。

 しかしあまりにも荒唐無稽で、にわかには信じがたい話だ。


 アニルは氷村に返す言葉もなく、黙り込むしかなかった。


「アニル、迷うのは当たり前だ。君のいる世界とは全く違う次元の異なる話をしているのだからな。

 一人でしばらく考えて見ると良い。君が気象学者して最も輝きを放つ場所は、ここではないという事にすぐに気が付くだろう」


「私にそんな話をして大丈夫なのですか? 私はあなたを告発するかもしれないのですよ」


「ご心配有難う、アニル。しかし私は今日このままIMLを去り、もう二度とここに戻る事はない」


 アニルは氷村の言葉に、目の前で既に事が動いていることを、実感せざるを得なかった。


 氷村は、じっとアニルの目を見た。


「君は今日、萩生田所長が小橋首相に会いにいくことを、私に耳打ちしてくれた。あれは何故だ?」

「……」


「君はもう、萩生田所長を裏切っているんだ。元には戻れない。分かるだろう?」

「……」


「しばらくしたら連絡する。良い返事がもらえる事を祈っているよ」


 氷村は最後の言葉を残し、アニルの部屋を後にした。


       ※※※


 IMLの警備詰所では、行方を追っていた殺人犯と不意に対峙したことで、吉松は内心うろたえていた。


 しかしそれを相手に悟らせてはならない。


 吉松は可能な限りの自然さを装いながら、詰所の中に視線を移した。


 詰所の中にいるもう一人は、帽子を目深にかぶっているが、神保町の交差点で見張ったあの女だろう。


――まずいな、計算外だ――


 このまま押し問答をしたとしても、こいつらは絶対にパトカーを中には入れないだろう。


 恐らく正規の警備員は、こいつらに監禁されたか、最悪の場合は殺されているかもしれない……


――一どうしたらいい?――一

――一押すか?、それとも引くか?――一


 吉松は瞬時に判断を下した。

 一旦引き上げて、埼玉県警に応援を頼み、数で押し切る他ない。


「規則であれば仕方ありません。我々はここで引き揚げます。くれぐれもハリケーンにはお気をつけください」


 吉松はそう言い残して、パトカーの側に踵を返した。

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