第6章 ディープスロート

第16話 エモーション・アンプ

 アイリーンはアメリカ大使館に突き当たるT字路を右折して、すぐに車を左に寄せた。そこが大使館の入口だ。


 前方は油圧式の車止めが進路を遮り、さらにその前方には分厚いゲートが横たわっている。

 道路の右手には、警備のための機動隊車両とパトカーが停まっており、左手には赤坂警察署の派出所があった。


「物々しい警備だな」

 窓の外を見ながら萩生田が言った。


 アイリーンが護衛の警官にNSAの身分証を見せると、車止めがゆっくりと道路の下に沈み込み、次いでその先の分厚いゲートが横開きした。


 アイリーンは地下の駐車場には入らずに、来客用の車寄せに車を停めた。


        ※


 車を降りた2人が大使館の自動ドアをくぐると、そこには一人の将校が待ち受けていた。


「お待ちしていました。ご案内します」

 将校はアイリーンと萩生田の二人を先導して、複雑に曲がる廊下を早足で歩いて行った。


 やがて立ち止ったのは、頑丈そうな金属の扉の前だった。


 将校が正面の壁に埋め込まれたテンキーのボタンを押すと、30㎝ほどの厚みの、まるで銀行の金庫のようなその扉は内側から開いた。


 奥にあるのは一機の大型エレベーターだ。


 三人がそれに乗り込むと、将校は扉を閉めて、操作パネルの上にたった一つしかない、地下階へのボタンを押した。


 エレベーターは萩生田に微かな眩暈のような感触を残して、降りていった。


「随分と深く潜るんだな」

 萩生田は言った。


「地下の作戦室に行きます。核兵器の直撃にも耐えられるシェルターなので、厚さ80mのコンクリートの下です」


 途中階の階数表示が無い分、余計に長く感じるのだろうが、萩生田には1分以上にも思える時間の後、やっと足元に減速感が広がり、チンというベルの音と共にエレベーターの扉が開いた。


       ※※※


 地下のフロアは薄暗い廊下を挟んで、いくつもの部屋が左右に並んでおり、将校は一番手前の扉を開けると、萩生田とアイリーンを室内に招き入れた。


 テレプレゼンスルームと名付けられたその部屋は、最新のテレビ会議システムが備わっていた。


 部屋の奥に向かって半円状にカーブした壁面には、高解像度の裸眼立体モニターが8枚埋め込まれ、その前面には壁面とは逆に、手前方向に向かって会議テーブルが、半円状に配置されていた。


 天井から見下ろすと、壁面とテーブルで丁度円を描くような構造だ。壁面の各モニターの中央には、アメリカ合衆国の国章である鷲の紋章が表示されている。


 将校に促されて萩生田とアイリーンが着席すると、それを待っていたかのように、左右のモニターから順に、数秒おきに鷲の紋章は映像表示に切り替わっていった。


 画面の向こうには、萩生田がいる部屋と同じ配置で、奥行き方向に向かって会議テーブルが映っていいる。視覚的に、まるで一つの大きなドーナツ状のテーブルを囲んで、会議をしてかのように臨場感が得られる仕組みだ。


 最後に一番中央のモニターが映像表示に切り替わると、そこには一人の軍服姿の男が映った。


 同時にスピーカーからは、ポーンという電子音が鳴った。

 それが、TV会議の準備完了を知らせる音のようだった。


        ※


「ミスター萩生田ですね。初めまして、私はレイバン・マイヤーズと申します。NSAの長官を務めています」

 画面の中の男が、先に口を開いた。


「初めまして長官。今着ていらっしゃる軍服から察すると、陸軍の中将とお見受けします。

 長官と言うよりも、ジェネラルとお呼びした方が相応しいかもしれませんね……」

 萩生田は初めて接する相手を、まるで品定めでもするかのように観察した。


「よくアメリカ軍の事をご存知ですね。NSAの長官は伝統的に、軍の中将が兼務することになっています。

 今、たまたま私は軍服を着てはいますが、今日は軍ではなくNSAの人間としてお話をしたく思っています。私を呼ぶときは、“長官”でお願いします」


「分かりました。それではマイヤーズ長官、私はNSAが国家安全保障局の略称だという事くらいは存じていますが、組織の内容や目的を詳しく知りません。

 一般にそれは公表されていませんし、かつては存在自体も秘匿されていたと聞いています」

「おっしゃる通りです」


「それでは大変失礼ながら、まずはNSAが何をやっている組織なのか、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


「ご質問にお答えしましょう。NSAは国防総省に属する諜報機関で、国家の安全保障に関わる事案について、情報を入手するのがその役割です」


「CIAとは違うのですか?」

「国防という目的に於いては同じですが、諜報活動における手法が異ります。アメリカにはCIAを始めとして、幾つかの諜報機関がありますが、特に我々は、先端の電子機器やコンピュータ技術を駆使した諜報活動を得意としています」


「ハッキングなどですか?」

「まあ、それも任務の一つではありますね。他にも暗号の解読などは我々の重要な任務の一つになっています」


「IMLのように、コンピュータ技術を核に持つ組織は、NSAの管轄だという訳ですね」

「その通りです」

 マイヤーズは深く頷いた。


「単刀直入にお聞きしますが、なぜ今日は私との会議を望まれたのでしょうか? しかも長官自らが」


 萩生田は率直に疑問をぶつけた。


「本日の議題は極めて守秘性が高く、しかも一刻を争う政治判断を必要としています。

 よって本件の最高責任者である私が、直接ミスター萩生田にご説明をするのが最適と判断したのです」


「極秘、かつ緊急ですか……」

「単刀直入に申しましょう。我々はミスター萩生田に、現在遂行中の作戦行動に協力していただきたいと考えています」


「作戦行動ですって?」

 思わず萩生田は、訊きかえした。


「そうです。順を追ってご説明します。まず我々は、毎年発生するハリケーンの何割かは、何者かによって進路が操作されており、今回のホンファもその一つであると考えています。

 これには同意していただけますね?」


「全く同じ意見です」

 萩生田は頷いた。


「NSAの得た情報では、ハリケーンは“ある装置”によって操作されています。今回の作戦はその装置の在処を突き止めて破壊する事が目的です」


「“ある装置”……?」

 萩生田はマイヤーズの言う“装置”という言葉に、軽い違和感を覚えた。


 ハリケーンは、気象の中でも最も壮大な大自然の振る舞いである。

 それに比べて、“装置”という言葉には、たかが人間が作り出した、矮小な道具という印象しか湧いてこない。


 巨大なハリケーンが、たかが装置一つで操れるものだろうか?

 それが萩生田の感じた違和感の正体であった。


「一体、誰がその“装置”を開発し、ハリケーンを操っているのですか?」

「それはまだ分かっていません。実は我々は相手の組織について、まだ何も知らないに等しいのです」


「何も知らないって、どういう事でか?」

「相手はこれまで、ハリケーンで世界中に被害を与えているにも関わらず、どこにも何も要求をしてきていないんです」


「本当に何も?」

「はい、どこかの国を脅迫するようなことでもあれば、そこから接点が生まれるのですがね……」

 マイヤーズの表情は曇った。


「だとすれば、たった今言われた“装置”の情報は、どのように入手されたのですか?」


「お話しましょう。あれは6か月前の事です。

 私に“ディープスロート”と名乗る男から、一本の電話がありました。それが全ての始まりでした」


 マイヤーズは当時を思い出すように言った。


        ※


――ディープスロート――


 1970年代のアメリカで発覚した政治スキャンダル、ウォータゲート事件で、大統領の不正を内部告発した謎の人物のコードネームだ。


 萩生田はその名前を聞いてすぐに、マイヤーズへの電話も同じように、相手の組織を内部告発したものに違いないと直感した。


「ディープスロートはお察しの通り、相手の組織内にいる人物です。彼はハリケーンを使った破壊活動を私に告発し、そして“その装置”の存在を明かしました」


「一体どういう内容だったのですか?」


「ハリケーンをコントロールしているのは“エモーションアンプ”と呼ばれる巨大な装置だという事。

 そしてそれは、ブラジル中部の、ファゼンタと呼ばれる大規模農園内に建設されている事。大まかにはこの2つです」


「エモーションアンプ?」

「どうやら気圧の制御を行う装置のようです。ディープスロートもその動作原理は知らないと言っていました」


「なぜブラジルなのでしょう?」

「その理由をお話するには、時代を第二次大戦にまで遡らなければなりません。

 ミスター萩生田はアーネンエルベの事はご存知ですか?」


「アーネンエルベ?」

「正式にはドイツ古代遺産協会という、ナチスの科学アカデミーです。

 終戦時に重要書類が破棄されてしまったため、その実態は今も正確には分かっていませんが、50以上もの部局を持ち、歴史や地政学、医学、科学の研究を行っていたそうです」


「そのアーネンエルベと、ブラジルにどんな関係があるのです?」


「大戦末期、敗色が濃厚になったナチスドイツでは、多くの国家機関が、戦線の維持に必要な様々な資産を、アルゼンチンを中心に、南米に全域に移しました。

 アーネンエルベも例外ではありません」


「エモーションアンプは、ナチスの気象兵器という事ですか?」

「元々はそうではなく、アーネンエルベが研究テーマとしていた“何か”を発現させる装置だったようです」


「“何か”?」

「はい、詳しくはわからないんです。ディープスロートによれば、それは関係者の間で極秘裏に、V5と呼ばれていたもので、重力場に関係した実験装置らしいとの事でした」


「重力……、ですか……」

「飽くまで伝聞ですがね。我々が追っている組織は、ナチスドイツの敗戦で未完成のままで廃棄されたその実験装置を、戦後何十年もかけてブラジルで見つけ出したようなのです。

 そしてそれを、ハリケーンのコントローラーとして完成させた。

 それがディープスロートが言うところの、エモーションアンプと言う訳です」


「確かに、特定の場所の重力を操れるのだとしたら、ハリケーンは操作できるかもしれません。重力の増加は空気の密度の増加を意味します。

 即ちそれは高気圧と等価であると言って良いでしょう。高気圧はハリケーンの進路を決める重要なファクターです」

「なるほど、それが装置の原理だということですね」


「マイヤーズ長官、今のお話で全体像は分かりました。それで肝心のファゼンタの場所は、聞き出せたのですか?」


「駄目でした。ディープスロートはとても用心深く、僅かなヒントを寄越しただけです。

 我々は彼の情報を元に、幾つかの地域に的を絞り込みましたが、まだ決定的ではありません」

 マイヤーズは困ったというように、首を横に振った。


「ディープスロートからは、それ以降も連絡が?」

「何度かありました。ハリケーンが重要な油田や都市を襲う際には、必ずその上陸地点を予告してくるのです」


「その予告は的中したのですか?」

「はい、彼が予告したものは全て的中しています」


「予告の目的は、何だったでしょう?」

「恐らく、自分の情報が正しい事を示して、我々の信用を得ようとしたのだと思います。

 彼はエモーションアンプの存在を危険視していました。そして我々にそれを破壊させるように促していたのです」


「ディープスロートからの、一番最近の電話はいつですか?」

「今日電話を受けたばかりです。着信履歴で言うと日本時間の15時18分。

 彼はその時に一言、『ホンファは太平洋には抜けない。夕方以降にルソン海峡から台湾沖に北上する』と言いました」


「15時台と言えば、まだホンファが南シナ海の中にいた頃ですね」

「その通りです」


「その時間には、我々はまだ、ホンファが北向きの進路をとる事など、全く予測していませんでした。

 またディープスロートの予告通りに、ホンファが台湾沖まで到達したのは、ほんの一時間程前のことです」


 ディープスロートは8時間前に現在のホンファの挙動を予言し、確かにそれを言い当てている。


 萩生田は、彼が属する組織が、ホンファを操っているのは多分間違いないだろうと直感した。


「ディープスロートは他に何か言いましたか? 例えばホンファの上陸地点とか……」

 萩生田は最も気に掛かっていた事を訊いた。


「上陸地点は次の電話で教えると言いました。彼が上陸地点を告げるのは、これまでいつも上陸時間の12時間前でした。今回もそれに倣ったのだと思います」


「会話はそれだけですか?」

「それだけです。ただ、今日の電話はいつもと明らかに違っていました」


「どういう事ですか?」

「彼は何かを言いたげでした。私に何か重大な事実を告げるべきかどうかを迷っていたように思います。

 それと彼の声には、いつもと違う切迫感が漂っていました」


「その何かは、聞き出せなかったのですか?」

「はい、話そうとした矢先に、慌てた様子で向こうが電話を切ったのです。

 通話が切れる間際、電話の先では小さく、別の男の声が聞こえました」


「それ以降、ディープスロートからの電話は?」

「ありません。いつもならば、もう上陸地点の予告をしてきている時間なのですが」


「ディープスロートの身に、何かがあったとしか思えませんね」

「私もそう考えています。それと……」

「他にも何か気に掛かる事が?」

「今日、よほど彼は気持ちが動転していたのでしょう。これまででは考えられない、決定的なミスを犯しました」


「ミス?」

「電話のルーティングに関する事です。これまでディープスロートは、IP電話を幾つものルートで迂回させながら、決して発信元を悟らせないようにして連絡してきました。

 それが今回に限っては、ルートの迂回が甘かった」


「発信元が分かったのですか?」

「現在、NSAでルートの解析を進めています。まだ時間は掛かりますが、必ず突き止められるはずです」


 マイヤーズは自信に満ちた口調で答えた。


       ※※※


 靖国神社の境内脇には、早足で動く影が有った。


 動物的で無駄の無い動き。

 その影は気配を完全に消して、赤い煉瓦張りの『東京政策銀行独身寮』の敷地にするりと身を滑り込ませる。


 目前には無防備な背中。


 影は右手に持ったバッフル式サイレンサー付の拳銃を、腰だめにする。


 引き金をその刹那、高まった殺気が男を振り向かせる。

 大きく見開いたその両目。


「裏口も見張っておくんだったな」


 影が発した声と同時に、カチリと言う金属音とプスッという空気音が同時に起こり、やや遅れてコンクリート貼りの地面に落下したチリンという音。


 影は続けざまにその音を、3回発生させてその場を去った。

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