亀裂


 テュランの資料は何度も読み返した。それなのに、どうしてそのことを失念してしまっていたのか。


「こ、こら! 大人しくしろ!!」

「コイツ……なんて力だ!」

「駄目だ、誰か! 誰か応援を呼んできてくれ!!」


 薄暗い廊下を駆け、騒ぎの中心へと向かう。場所はわかっている。昨日、自分で彼をこの施設へと連れて来たのだから。


「トラちゃん!」


 テュランが居る部屋へ飛び込んだ瞬間、凄まじい量の鮮血が部屋中に飛び散った。刹那、心の奥底に押し込めていた記憶が無理矢理に掘り起こされる。


「落ち着け、これはただの鎮静剤だ! 実験なんかではない!!」

「イヤだ、イヤだイヤだ! もう……もう、実験はイヤだ……おねがい、します……はやく、早く俺を殺してくれ!!」


 中年の兵士は壁に叩きつけられ、初老の研究員はサヤの足元まで突き飛ばされる。心を抉られるような悲鳴じみた声が、鼓膜を殴り付ける。

 それは人間への罵声ではなく、痛々しいまでの拒絶であった。


「やめて、ヤメテクダサイ……イタ、い……手が痛い、痛い痛い痛い! もう嫌だ、痛い嫌だイヤだ痛いイタい!!」


 まるで、壊れたレコードのように繰り返すテュラン。彼の腕には、目盛のように紅い傷が数え切れない程刻まれている。幾重にも繰り返された、自傷行為の痕。その幾つかの傷から、おびただしい量の血が溢れ出してしまっている。

 先程の男が言っていたように、テュランが自分で腕を掻き毟り、傷が開いてしまったのだ。それでも、痛みすら感じない程に我を失っているのか、彼は己の手首にがりがりと爪を立てることを止めようとはしない。

 このままでは、テュランは出血多量でショック死してしまう!


「やめてっ、トラちゃん!」


 サヤが躊躇無く、テュランを止めようと駆け寄る。だが、その血塗れの手に指先が触れた瞬間、今まで押し込めていた記憶が閃光のように弾けた。

 窓の無い部屋。簡易なベッドしかない、質素な景色。繰り返される、実験という名の残虐な仕打ち。噎せ返るような血の臭い。徐々に失せていく感覚。色褪せる視界。

 思考が、停止する。そう感じた。だが、聞き慣れた声にはっと我に返ることが出来た。


「サヤ! 大丈夫か!?」

「わ、私は平気……アーサー、トラちゃんを」

「ああ、わかっている!」


 アーサーが駆け付けるや否や、錯乱するテュランを取り押さえる。テュランを組み敷き、両手首を掴み血濡れのシーツに縫い付ける。体格で勝るアーサーに体重をかけられれば、テュランが苦しそうに呻いた。


「今だ、早く鎮静剤を!」

「は、はい!」


 アーサーと共に駆け付けてくれたのだろう、先程の若い研究員の男がテュランに走り寄り手早く鎮静剤を打った。

 がくりと、テュランの身体から力が抜ける。


「う、あ……たすけ……おね、ちゃん」

「ッ……!」

『アーサー、大丈夫か。何があったんだ?』


 天井に埋め込まれたスピーカーから、ローランの声が落ちてくる。この部屋には監視カメラが設置されており、別室から監視出来るようになっている。ローランは執務室から近いそちらへ移動したのだろう。

 室内の音声もかなりの精度で拾っている筈だが、テュランのか細い声は聞こえなかったらしい。


「自分達には大事はありません。原因は不明ですが、テュランは酷く混乱しているらしく……自らの手首を何度も引っ掻いてしまったようです。彼の腕には以前からの自傷行為による古傷がいくつもあるため、それらが開き大量に出血しました。早急に処置を施す必要があると思われます。また、数名の研究員が軽傷を負ったようなので、合わせて治療が必要かと」


 冷静に状況を説明するアーサー。だが、ローランの声からは隠しきれない焦燥と失望が滲んでいた。


『くそっ! これでは終末作戦の詳細を聞き出すどころか、テュランを交渉の手段に使うことも出来んではないか!!』


 テュランが自暴自棄になり、死を選ぶことくらいは想定していた。それゆえに、この状況にも迅速に対応出来たのだ。だが、テュランが正気を失っているとなれば話が違う。

 ローランの言う通り、このままでは終末作戦に対して何の手を打つことも出来ない。


「……閣下。一日だけ、一日だけで良いので私に時間をください!」


 自分でも驚くことに、気がついた時には既にそう叫んでしまっていた。無礼ではあったが、ローランが咎めることはなかった。


『どうするつもりだ、サヤ』

「私が、テュランから終末作戦の詳細を聞き出して見せます」

『それが出来なかったらどうするんだ?』

「どんな処分でも、謹んでお受け致します」

「閣下、自分も彼女に賛成です。彼女なら必ず、テュランを説得することが出来ると俺は信じています」


 サヤの申し出に、アーサーも続く。驚いた。正直、彼がテュランを庇うような意見をしてくれるとは思わなかったからだ。

 永遠にも感じられる、沈黙。やがて、ローランが観念したかのように言った。


『……わかった。今から二十四時間、お前達の好きにすると良い。以降のテュランに関する権限は全て、アーサーとサヤに任せる。皆、今後は二人の指示に従うように』

「……閣下!! ありがとうございます!」


 ローランの許しに、思わず深々と頭を下げる。ここでテュランを殺してしまえと言われれば、もうサヤには打つ手立てが無かっただろう。


「ありがとう、アーサー」

「だが、俺に出来るのはこのくらいだ。あとはサヤ、きみがテュランを説得出来るかどうかでアルジェントの命運は決まってしまう」

「ええ。でも私……トラちゃんを、信じているから。きっと、彼ならわかってくれる」


 再び眠り込んでしまったテュランを振り向く。かつて裏切ってしまった彼を、今度こそ助ける。


「信じて……トラちゃん。何があっても、もう二度と裏切らないから」


 幾分幼く見える寝顔。その頬を指先でそっと撫でてやりながら、サヤはそう改めて心に誓った。

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