5-3

 レイと過ごした一週間は、時間が経つにつれてなんだかなかったことのように思えた。結局、レイが私の部屋を不法占拠したことについては警察には話さなかった。レイは言葉どおり、私の部屋にいただけだ。話すほどのことなど何もないように思えた。

 そして、あの事件のことなどすっかり遠い昔のことのようになっていた三月の終わり。

 ハウスの掲示板に、オーナーさんからのお知らせが貼ってあった。新しい住人が越してくるらしい。引っ越し予定日は明後日だ。これまたずいぶん、急だこと。

 歓迎会やらなきゃ、とマスミンとイズミンがダイニングで相談しているのを脇目に、悟くんがなんだか渋い顔をして私を手招いた。

「これ、どう思う?」

 悟くんはお知らせの貼り紙を指さす。その文字をまじまじと見て、うわー、とつい声が漏れた。

「イヤな予感しかしない」

「だよね」

 そう嘆息した悟くんを、なんだかまじまじと見てしまった。メガネの奥の瞳とかち合う。

「どうかした?」

「いや、あの日のこと思い出してて」

 レイが万国旗の拳銃をぶっ放したあのとき。

「悟くん、とっさにイズミンのことかばってたよね」

 悟くんの目が泳いで、面白いくらいにその表情から落ち着きがなくなる。中学生ですかあなたは。

 レイに関するもろもろのごたごたがあってから二週間ほどが経ったある日の朝。唐突にいつもの朝食の席で、悟くんとイズミンは交際宣言をしたのだった。

 ――ほら一応、同じハウスに住んでるわけだし、断っておこうってだけだから、別に今までどおりでいいし、変な気遣いはいらないから。

 まくしたてるみたいにそう話したイズミンの笑顔はなんだかキラキラしてて、恋する女の子のかわいいオーラで全身を包んでるみたいだった。一方の悟くんは「そういうことなので」とひと言添えただけで、あくまでいつもどおり、みたいな感じだったけど、隠し切れてないふわふわした気持ちはにじみ出てた。それを見て、あ、これ冗談じゃないんだって理解した。

 ちなみにマスミンはあんぐりと口を開けたまま固まってて、しばらくしてから、なんじゃそりゃーって吠えた。

 ――ズルいし! 何その幸せ全開モード! ズルいし! おめでとうだし! ズルいし! いろはちゃん付き合って!

 以来、マスミンが何かにつけて私に「付き合って」って言ってくるようになったけど、冗談だかなんだかよくわからないので放置している。まぁ、それどころじゃないし。

 悟くんとタイミングを合わせたみたいに、チラシに視線を戻した。新しい住人の名前は書いていなかったが、『二十九歳、男』の文字。

「僕はもう、拳銃向けられるのはごめんだぞ」

 私もまったくもって同意。

 イズミンとマスミンを呼んで、私と悟くんはまじめくさって提案した。

「歓迎会じゃなくて、どうやって仕返しするかを考えた方がいいかもしれない」



 その日、いつもどおり、イズミンとマスミン、悟くんの三人を見送ってから、私はハウスを出た。新しい住人の歓迎会をどうするか、計画は着々と練られている。今度こそ、私たちがやり返すターンにしてやろう。

 空は澄んでいて高く、宇宙を薄めて明るくしたような色だった。この数日で、少しずつ気温が上がってきた。多摩川の日差しも、春を迎える準備は万端とでも言いたげだ。色味の乏しかった世界はもうすぐ彩り豊かな春を迎え、草木が一斉に芽吹くだろう。

 よっと勢いよく土手に座って、持ってきたバッグから、真新しいスケッチブックを取りだした。

 私はあいかわらずスケッチを続けている。

 最近は、色鉛筆も持参するようになった。モノクロの世界も悪くないけど、私を取り巻く世界に溢れる色を、少しでもスケッチブックに落とせたら、それはすごく素敵なことなんじゃないか。なぁんて、思うようになった。

 目の前の景色を見つめて、黒い鉛筆でその枠を四角い枠の中に落として。そしたらもう、それは私だけのものになる。

 視線を変えれば景色は変わる。色も変わる。私の目は二つしかないので、私が目にすることができるものは、どうやったって局所的で一方的なものでしかないかもしれない。でもだからこそ、私は、私が見たものを、感じたものを紙の上に残してみたいと強く願う。そして私の絵を通して、私がようやく気づいたものを、掴んだものを、誰かに伝えられたらもっと嬉しい。

 世界はこんなにも明るく、色鮮やかなんだと。

 おうい。いつものおっちゃんの声が土手の上から降ってきた。潰した空き缶でぱんぱんになった袋を自転車にくくりつけたおっちゃんは、ぐるぐる回すようにその手を振った。

「調子はどうだー、画家さんよぉー」

 その大きな声は辺りに思いっきり響きわたり、無駄に周囲の注目を集めてしまう。この未熟者を画家さんだなんて、まったくもって恥ずかしい。

 でも、私はぐっと親指を立てた。恥ずかしい自分をたくさんたくさん乗り越えて、恥ずかしくない自分になっていきたい。

「悪くない、かな」


〈了〉

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クロスオーバー×モラトリアム ~シェアハウスの彼ら~ 晴海まどか @harumima

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