第8話

 誰も三雲女史をシャルローズとは呼ばなくなった。

 と言うより呼べなくなった。そんな命を捨てるような真似のできる猛者がいたら、その猛者は命を落とすだけである。

 私は同級生に猛者と見なされていたが、か弱い子羊に過ぎなかった。

 私を犠牲の子羊に仕立て上げたブッチョに、私は流しそうめん壮行会のあと、猛烈に抗議した。もちろん世襲だか襲名だかについてである。

 しかしブッチョは何食わぬ顔で、「なに、ジマーは追いつめられたほうが力を発揮する!」とワケのわからない十亀理論を炸裂させ、なおかつ私の肩で握力測定を試みた。

 私の抗議は強引に丸め込まれてしまった。

 私は失意と絶望を胸の奥に仕舞いこみ、新人公演の稽古を事務的機械的に続けるしかなかった。

 公演まで残り一週間となったところで、全体の通し稽古が行われた。

 細かいミスはあったがまともな出来であった。

 ブッチョが「形になっていて面白味に欠ける。去年の一年はもっと壊滅的に出来なくて面白かったぞ」なんぞとのたまっていた。

 さて、人はシャルローズこと三雲女史と私の関係がどうなったのか、と気にされていることと思う。

 簡潔に言おう。

 シャルローズのネチネチ報復は格段にエスカレートした。

 筆舌に尽くしがたい仕打ちの数々が私に襲い掛かった。

 周囲には「新人公演を成功させるために相方を鍛える看板女優」を擬態しているので、私が死の淵に瀕しているとは誰も見抜けなかった。

 錆びた釘やらガラス片が仕込んであるシャルローズの愛のムチで打たれるたびに、私の精神は血を流した。

 演技にまだ照れや恥ずかしさが残っているのが課題ね、などと尤もらしい難癖をつけられ、その課題克服のために直腸触診の一人芝居をやらされたときなど、この世の神という神を呪った。

 限界であった。

 このままだと私は真性倒錯者に昇格してしまう。

 なにか!

 なにか手を打たねば!!

 そんな危機感に追い立てられているときだった。

 耳慣れないその言葉に出会ったのは。

「ゲネプロ?」

「ドレスリハーサルのこと」

「?」

「あー、えーっとね、公演の前日に本番と同じ衣装と同じメイクと同じ照明と同じ音響でやるリハーサルのこと。本番と同じだから間違えても止めないし止まらないの」

「そんな予行演習があるんですか」

「他人事みたいに……」

 私の中で一つの考えが急速に芽生え、枝を広げてゆく。

「? どうした? ジマー」

「先輩! つまりゲネプロは失敗しても許されるってことですね?」

「失敗するの前提で聞かれても……」

「本番さえ失敗せずにやり遂げたらいいんでしょ?」

「そ、そうだけど……?」

 ニヤリと笑う私から先輩は目を逸らすのだった。







 新人公演前日。

 ゲネプロ当日。

 二ヶ月など過ぎ去ってしまえば、ないのと同じであった。当たり前ではあるが。

 大学の構内にある小ホール。普段はオーケストラの定期演奏会や学部の発表会などで使われるそこが新人公演の会場であった。

 明日の本番を待つばかりの完成した舞台装置の袖で、我々一年生たちは白い貫頭衣に帯代わりの麻縄で腰を締めた本番の衣装を着ていた。

 先輩方がゲネプロの準備に追われている。照明係の先輩はQシートに書き込みをしながら調整室へと向かう。オロチ役の先輩たちはハリボテの動きを確認している。ブッチョは次々に各員に指示を出している。

 ピリピリとした空気が漂う。普段おちゃらけているブッチョ以下先輩方の真剣な表情とテキパキと作業をする光景は初心者集団を萎縮させるのに充分な効果があった。

 本番の衣装を着たことによって高まった緊張感を誤魔化そうとして、

「なんか、いよいよって感じだね」

 と斉藤くんが誰にともなく言った。

「まったくだ。なのでハトマメくん、舞台上でミスをしないように」

「ジマー、そんなこと言わないでよ! 変な暗示にかかってセリフ忘れたらどうするんだよ!」

「この程度で暗示にかかるなら、失敗しない暗示をかけて差し上げるが?」

「そんな暗示いらな……やっぱりお願いします。失敗しない暗示かけてください」

 私は苦笑し、

「ちちんぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷいぷい……」

「長いよッ!」

「ぷいっ! 斉藤くんはセリフを忘れない~。でも少し噛む~」

「……ッ!」

 ハトマメをからかうと緊張した面持ちであった同級生たちの表情が少しだけ和んだ。私は視線を主演に向けた。我らから少し離れたところでシャルローズは精神統一していた。流石と言うか当然というか、目を閉じて涼しい顔をしている。

 振り返って私はと言うと――

 不思議なほど緊張していなかった。それはもう、見事なほど。

 それと言うのも、私は今日なにがなんでも一矢報い……違う、稽古で可愛がってくれた三雲女史に恩返しをするつもりであったからだ。

 かつて彼女は言った。「行動で示して見せて」「ぶつかって、舞台の出来を一段引き上げる」と。ならばそれに応えてこその恩返しではないか!

 その結果がゲネプロ崩壊であっても私は後悔しない!

 なぜなら私はA型を装おうとも紛れもないB型! 協調性も突拍子もなく自分勝手で組織のルールに囚われないからだ!!

 なんと晴れやかな気持ちだろう。

 長い長い時を経て、私はついに私自身に邂逅したのだった。

 照明が落ち、騒がしかった舞台上が急に静まる。

「1ベルを鳴らせ!」

 ブッチョの強い声が静寂の中をしみていき、ブザー音がホールの内外に響いた。




   ◇




『ヤマトイ国のヒメコ』




第一幕


 ムラ、オロチが暴れる。逃げ惑う村人たち。

 昭和のストリップショーを髣髴とさせる毒々しい赤い照明の中、ヒメコの父と母がオロチに飲み込まれる。

 オロチは一旦去るが、ムラは壊滅的な打撃を受けて人々は呆然とする。

 そんな中、一人の老人が嘆く。


老人 「あぁ、西のクニにおられるという、巫女様ならこんなオロチなど、あっさりと退けてしまわれるのじゃろうに……」

ヒメコ「クニ……巫女様?」

老人 「……ここから遥か西に、太陽の沈む方角に進むと、このムラの百倍も大きなムラ――クニがあるのじゃ。巫女様はそこを治める長で、ありとあらゆる病を癒し、ありとあらゆる怪物を退けるそうじゃ」

ヒメコ「その人に頼めばオロチを退治してくれるのね?」

老人 「……その巫女様はクニからは出てこられないそうじゃ、頼んだところで、相手にはされまい」

ヒメコ「……クニ、……巫女、……お父さん、……お母さん」

 両親を奪われた憤りと悲しみを紛らわせるには、とにかく行動するしかなく、ヒメコは老人の言葉に耳も貸さず、西のクニへと発つ。




第二幕


 西のクニへ向かう道中、自分のムラと同様にオロチに破壊されたムラを通りかかる。そこの村人はみな、死んでいる。しかしヒメコと同年くらいの少女が一人、呆然と立ち尽くしている。


ヒメコ「あなた、このムラの人?」

少女 「…………………………」

ヒメコ「オロチにやられたの?」

少女 「…………(ただ頷く)」

ヒメコ「わたしはヒメコ。あなた、名前は?」

少女 「…………………………」

 少女は必死に喋ろうとするのだが、言葉が出てこない。ショックのあまり失語症に陥っていたのだ。

ヒメコ「どうしたの? 喋られないの?」

少女 「…………………………」

 少女はヒメコに縋りつき泣き出す。

ヒメコ「いいわ、一緒に行きましょう。西のクニへ。あなたも巫女様にお願いするの。大事な人を奪ったオロチを退治してくださいって」




第三幕


 西のクニ。ヒメコと少女は早速、巫女に会おうとするが、衛兵に追い返されてしまう。


ヒメコ「巫女様に会わせて」

衛兵 「貴様、何者だ? 他国の使者ではなかろう!」

ヒメコ「タコクってなによ! わたしはヒメコよ! オロチを退治してもらいたくて巫女様に会いにきたのよ! さっさとここを通しなさい」

衛兵 「愚か者! どこの誰とも分からぬ貴様のような小娘に巫女様がお会いになるわけがなかろう! さっさと立ち去れ!」

 衛兵は手に持つ槍で威嚇して二人の少女を追い払う。



 その場から逃げ出して、水汲み場までやってきたヒメコと少女。

 どうすることもできず悔しいが、それ以上にこれからどうすればいいのか途方に暮れるヒメコ。

 心配そうにヒメコを見上げる少女。

 水汲みに来た老女が二人の少女に話しかける。


老女 「どうしのかえ? 娘さんたちや」

ヒメコ「……どうしたらいいの……?」

 泣き出すヒメコ。両親を失ってから初めて流した涙であった。

 ヒメコは泣きながらその老女に事のあらましを語った。

老女 「なるほど、なるほど、そういうことかえ。でもね、娘さん、巫女様はこのクニからは出られないんだよ。だから会えたとしても、あんたの願いは聞けなかっただろうね」

ヒメコ「……出られない?」

老女 「巫女様がこのクニを出てしまうと、このクニを奪おうとするオロチより恐ろしい連中が群がってくるからさ。だから巫女様は決してあの城から出てこられないのさ」

ヒメコ「じゃあ、どうすればいいの? わたしはどうすればいいの? お父さんもお母さんもオロチに食べられただけ? これからもみんなはオロチに食べられ続けなくてはいけないの?」

老女 「んー、そうは言ってもね……そうだ!」

ヒメコ「……………………?」

老女 「お前様がオロチを退治すればいいんじゃよ」

ヒメコ「でも、わたしそんなことどうやってやれば良いのか分からないわ」

老女 「ほっほっほっほっ、なに、それはこれから学ぶんじゃよ」

ヒメコ「?」

老女 「実は今、巫女様に仕える若い娘たちを集めておっての」

ヒメコ「巫女様に仕える?」

老女 「そうじゃ。巫女様のお側で働きながら、巫女様の鬼道の業を学んでいく。巫女様もだいぶお歳を召してしもうての、巫女様の跡を継げる娘を探しておるのよ」

 ヒメコと少女は顔を見合わせる。

老女 「おいで、この婆が連れて行ってやろう」

 ヒメコと少女は老女に連れられて巫女の元へと、兎に角辿り着く。




第四幕


 オロチがクニへ襲い掛かる。側近があたふたと防戦の指揮をとるがオロチはそこを突破。巫女が出陣し、オロチを退けてしまう。

 それを間近で見て、ヒメコはなにが何でも巫女になろうと決意する。




第五幕


 ヒメコの巫女修行。

 大事な大事な銅鏡を割ってしまったり、巫女の鬼道の儀式の真っ最中に居眠りしたりと中々の落第生ぶりを発揮するが、トヨ――失語症の少女は巫女によりそう名づけられていた――と共に修行に励み、少しずつ鬼道を身につける。




第六幕


 身につけた鬼道を試してみたくなり、クニの外へ出て手ごろな魔物を探しているうちに、オロチと戦っている青年と出会う。

 巻き込み、巻き込まれて、ヒメコとトヨは鬼道の業で青年に協力してそのオロチを退ける。


ヒコミコ「助かったよ、えーと……」

ヒメコ 「わたしはヒメコ、この子はトヨ」

ヒコミコ「とにかくありがとう、ヒメコ、トヨ。ぼくはヒコミコ」

ヒメコ 「どういたしまして、ヒコミコ」

ヒコミコ「すごいね、二人とも。鬼道が使えるんだ?」

ヒメコ 「ええ、そうよ!」

ヒコミコ「ひょっとして巫女様を知ってる?」

ヒメコ 「もちろん!」

ヒコミコ「……お願いがある」

ヒメコ 「?」

ヒコミコ「巫女様に会わせて欲しいんだ。実はぼくのムラでオロチが暴れまわっていて、ムラが滅ぶ寸前なんだ。ぼくはムラを代表して、巫女様にオロチの退治をお願いしに来たんだ」

ヒメコ 「……ヒコミコ、巫女様はクニを出られないの」

ヒコミコ「なん……だって?」

ヒメコ 「巫女様はクニは護るけど、ムラは守れない。どこへも行けないの」

ヒコミコ「……じゃあ、ぼくたちは、ぼくのムラは滅びるしかないのか?」

ヒメコ 「……気持ちは分かるわ」

ヒコミコ「…………………………」

ヒメコ 「わたしも父さんと母さんをオロチに奪われた」

ヒコミコ「――分かるなら、なんとか巫女様を説得してくれ!」

ヒメコ 「ダメなの、出来ないのよ!」





 滞りなく進行していた。ここまで一つのミスもない。

 私は三雲女史の見目麗しい顔を見つめた。ヒメコは顔を背け、私から距離を取る。客席に向かって私は叫ぶ。

「頼む! ヒメコ!」

 客席は暗く、舞台からははっきり見えないが、ブッチョの厳しい表情が微塵も変化していないのは雰囲気で分かった。我々の演技をつぶさに評価しているはずだ。

 舞台では、ヒコミコの懇願に折れてヒメコが私を城内にこっそりと導き入れて場面転換する。

 ヒコミコは場内で衛兵に見つかったり、側近に見つかったりしながらもヒメコに導かれ、巫女の下へ辿り着く。そしてムラを救ってくれと懇願するが一蹴される。

 そこへオロチが再び襲来する。

 巫女は自ら先頭に立とうと歩みだすが、高齢と過労により倒れてしまう。

 慌てふためく側近ハトマメ、駆け寄るヒメコとトヨ。

 外からはオロチに追われて逃げ惑う人々の悲鳴が聞こえる。

 ヒメコが立ち上がるクライマックスの場面。

 クライマックス!

 ――ヒメコ! 君が巫女様の跡を継ぐんだ!

 という私のセリフを待つ面々を見渡した。

 私が台本通り演技すると信じて疑っていない目、目、目。

 裏切りという名の果実がいかに甘美であるかが分かる気がした。

 私は青い照明を一身に浴び、目を瞑った。

「………………」

「……………………」

「…………………………」

 私がセリフを失念していると皆が勘違いし始めてようやく振り返った。

「ヒメコ!」

 しんと静まる場内。

 私は一世一代の大芝居を打った。

「オロチがなぜ人を襲うのか、知っているかい?」

「……………………………………ヒコミコ、今はそんなこと言ってる場合じゃないの」

 ブッチョの顔が視界の端をかすめた。

 先程までの厳しい表情でなく、困惑でも怒りでもなく、意外そうな楽しそうな顔をしているように思えた。

「以前、ムラの婆様に聞いたことがある。オロチは人の血を好むのだと!」

「そうだったのね! ヒコミコ! でも巫女様が倒れたの! 早く――」

「そして、人の血には幾通りか型があるそうだ。すなわち――生まれながらに王たる『王』型の血! 叡智ある者の『叡』型の血! 美貌の『美』型の血! 叡智と美貌を備える『叡美』型の血!」

「……ヒコミコ、血の型の話はいいわ、今はオロチを退ける――」

「だからこそ、だ! オロチは『美』の血をより好むと聞く! 『美』の血でオロチを罠に誘い込むんだ。だから『美』の血がいる! ヒメコ、君は? 君は自分の血がどれだと思う?」

「……………………………………………………………………………………………………」

 私のアドリブにアドリブで返して別の結末へ持っていくべきか、どうにかして私を本筋に引き戻すかの決断が迫られている主演女優の表情には10%の怒りと30%の戸惑い、そして90%の憤り浮かんでいた。それは演技のヒメコではなく、三雲女史本人の表情であった。

 嘘偽りなく、三雲女史には感謝を捧げたい。

 貴女のおかげで、私は忌むべき呪縛から解き放たれたのだから。

 私は「B」であることを決して後ろめたく感じなくなれたのだから!

 だからこその恩返しでもある。

 限りなく「B」と思しき三雲女史にも私が達した境地へ到達してもらいたいのである。

 ここで立ち上がらなくてなにが「B」だ!

 協調性がなく奇天烈で突拍子なく自分勝手で社会のルールに囚われず気分屋でお天気屋で信念がなく計画性がなく一貫性がないからこそ「B」なのだ!!

 私は誇ろう。この特性を。この特長を。

 私のためだけでなく、この世の全ての「B」たちのために!

 そして今、気付く。

 BとはブラザーのBでもあったのだ!

 世の兄弟たちよ、我に力を! この悪逆鬼道の巫女に己が血を肯定する力を!

「――君は美しい。だからきっと『美』型に違いない!」

 私は高らかに断定した。

 怒りと戸惑いと憤りを呑みこみ、三雲女史は微笑んだ。

「ありがとう、ヒコミコ。美しいだなんて!」

 しっかり間を取る。

「でも違うの。私は『美』ではない! だから役に立てないわ。他の人を探しましょう……そうだ! あなたは? あなたは『美』型ではないの?」

 そう来たか……

「どうなの? ヒコミコ!」

 私は己の身体を流れる赤血球の一粒一粒に刻印された「B」に、この上ない誇りを持つに至ったのだ。隠蔽や否定などできるワケがない!

「そうだ……ぼくは『B』だッ!」

 力の限り叫んだ。ヒメコは満足気に頷く。

「じゃあ、囮になって!」

「はっ?」

 私は一瞬、素になっていた。

 城内まで侵入したオロチ相手に皆が力を合わせて戦う。尻込みするヒメコを守るため、ヒコミコがオロチに斬りかかる。しかしヒコミコは力及ばずオロチに大怪我をさせられる。それを見たヒメコは、迷いを吹っ切って鬼道の業を使いオロチを滅ぼしてしまう。

 というのが本来の筋書きなのだ。

 気付けばオロチがすぐそばでスタンバイしていた。

 私はヒメコに力一杯突き飛ばされ、オロチと衝突しそうになった。本番前にオロチのハリボテを破損させるわけにはいかない。私は全力で衝突を回避した。

 結果、舞台上でド派手にすっ転んだ。

「ああ! ヒコミコが!」

 言うや否や、ヒメコは銅鏡を手に取り、オロチを滅する鬼道を執り行う。

 オロチがうねうねと動き、その場に倒れこんでしまう。

 オロチを倒したことによりトヨが言葉を取り戻し、ヒメコが卑弥呼になったように取れるラストこそがブッチョの描いた『ヤマトイ国のヒメコ』である。

 しかしそこへ収束するのはもはや不可能であった。

 オロチを脇目にヒメコがしずしずと倒れている私の元へ歩み寄ってくる。

 ここまで来れば怖いものなどあろう筈がない。

 私は心静かに、このあと待ち受ける三雲女史の断罪と懲罰を思った。

 ヒメコが私の側に膝をついた。そしておもむろに瑞々しく張りのある手で私の手を握るではないか。のみならず私の顔を覗き込んでくる。

「ヒコミコ――」

 私は生まれてこの方、これほど間近に女性の顔を見たことがなかった。

 スポットライトに照らされる見目麗しい顔。

 危うく見惚れてしまうところだった。すんでのところで踏みとどまった。私は恩返しをしなくてはならないのだ。自分にそう言い聞かせる。

 私にはまだやるべきことがある――

 私にはまだできることがある――

「……ヒメコ」

 私は真に迫る視線と表情で三雲女史の目を見つめた。そして、

「愛してる」

「私も愛してるわ」

 サラッと斬り返された。

 それは見事を通り越し、そういう台本だったのだと思わせるほどだった。

 私はあえなく斬り殺された。

 気を利かせた調整室のスタッフにより、幕がゆっくりと降りようとしていた。







 控え室で我々一年生は円陣を組んでいた。

 気合を入れるためだ。

 客席の埋まり具合を見に行った斉藤くんの言に寄れば、百人以上いたそうである。昨日の緊張の比ではないらしく、暗示を三回も頼まれる始末であった。

「さて、いよいよ本番です」

 シャルローズの澄んだ声が耳に心地好かった。

 七人が右手を突き出して重ね、互いの顔を見やった。

 皆が私を見てニヤッと笑うのは昨日のゲネプロを思い出してのことだろう。

 あの後、私はありとあらゆる非難に曝される覚悟であった。

 特に台本を無茶苦茶にされたブッチョには憤怒の形相で叱責されるだろうと考えていた。

 しかししかし、なぜだか分からないがブッチョはいつものように「HAHAHAHAHAHA!」と高笑いするだけであった。私がお咎めはないのですかと問うと、私の肩をバシバシバシバシ、バシバシバシバシと叩いて「期待以上だった!」と言って再びHAHAHAHAHAHA! と笑うだけであった。

 勝手をやらかしてゲネプロを台無しにしたのだ、非難の集中砲火を浴びても文句は言えない立場である。私はサークルを去る覚悟すらしていたのだが、他の先輩方は面白かったと言い、同級生たちも本番では勘弁してねと言うだけ。

 三雲女史は私を完全無視した。

 つまり敢えて罰を与えようとする者はいなかった。

 幸いなのか災いなのか分からないが、私の首はつながったのだった。

「ここまで来たら、やることやるだけ。みんな! 失敗を怖れちゃダメよ!」

 三雲女史は全員を一通り見渡し、

「今日はアドリブなんていらないから。分かってる? ジマー」

「無論だ。私はあなたを愛しているのだから!」

 私はサラッと言ってやった。

「な、なっ、なに言ってるの!」

 ひとつ分かった。

 演技中の三雲女史は無敵であるが、プライベートのシャルローズは意外とかわいいところがあるのだ。

「ははははは! ヒコミコはヒメコを愛している、違うかな?」

「……勝ったと思わないでよね」

 唇を尖らせそう言うと一転、三雲女史は涼やかに笑った。

「じゃ、行くよ!」

「「「「「「おおーっ!!!」」」」」」

 気勢を上げた。

 大丈夫だ。私は内心つぶやく。

 誰も何の心配もしていなかった。



〈了〉

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