第二章 おもたせ探して三千里

1 母来襲


「困ったことになった」


 さして困った風でもないシャルアンがそんなことを言い始めたので、ケリファは手を止めることなく半眼で彼の方を見やった。のみならずこの一時の主のために言葉を添えてやる。


「そうか」

「こーれは困ったぞー」

「そーかー」


 気のない声と反比例するように小気味良い音を立てて剣が空を切る。黙々と作業を続けるケリファを舞台から見下ろしてアウダが欠伸をした。

 ケリファは練兵場として使用されているという舞台前の広場でここしばらくの日課である素振りをこなしていた。勿論手にしているのは与えられた剣だ。

 人間の体というものは厄介なもので、少しでも鍛練を怠ればそれが如実に表れる。微かな剣先のぶれやわずかな体捌きの乱れといったように。そして、そんな些細なことが戦場では死の影を踏む運命を招き寄せてしまうのだ。


(まあ、あちらにいた頃とやることはそう変わらないし。いつも通りやればいいや)


 大きく振りかぶって体の正面――眉間から縦に真っ直ぐ通り、剣の重心近くを軸にして剣先を振り下ろす。自然体で余計な力は込めない。変に力むと自在な動きの妨げとなる。


(……変わらないといえば、これもか)


 第四王子は驚くほど熱心に練兵場を訪れていた。ここと鍛冶場にいる時は日頃のものぐさ度合いを微塵も感じさせない。領地管理や他の執務もこれくらいの熱心さで行ってくれればと、不憫な乳母子ダナイェンの大層な嘆きを誘うほどに。


『武人愛(性別不問)』


 すべてはこの一念。それが彼を突き動かしている。優秀な武人が欲しい――最早一目惚れにも近い熱烈さである。件の禿頭筋肉野郎どもはシャルアンの『一目惚れ』によって集められたのだという。

 武人にとって武技を見初められ召し抱えられるというのは、名誉なことであるはずだったが、何故に彼らは新入りの加入を泣いて喜んでいたのか。下世話な話、功を競い合う相手は少ない方がよいのではないか。それとも女など相手にならぬと侮っているのか。だが、それにしてはあの喜びようはただ事ではない。

 いろいろと疑問に思ったケリファがライナーマに尋ねたところ、あの忠実な乳母子は例によって例の如く遠い目でこう答えたのだった。


『パヴァルナにはこのような諺がございます。嫁立てれば姑立たず、姑立てれば嫁立たず、両方立てれば身がもたぬ』


 ようするに微妙な問題なのだ。

 うっかり王子相手に怪我でもさせようものなら重罪、いや、死罪になりかねない。かといって適当に手を抜けば王子本人の怒りを買う。しかも困ったことに王子は相当の手練れだ。うかうかしていれば自分の身が危ない。

 筋肉集団の大半の頭から髪がおさらばしている理由は、ここにあるのだろう。そして、彼らの異様な歓喜の発露も。


(やんごとないややこしいお役目から解放された彼らの頭……いや、笑顔の眩しかったこと)


 彼らが栄えある御相手役とやらをケリファに譲った時の清々しいまでの晴れやかな顔を思い出すと妙な脱力感が襲ってくる。

 脱力感に負けないよう努めて集中し、ケリファは素振りから型の確認へと切り替えた。淀みない剣捌きは余り心得のない者が見ても惚れ惚れするほどだ。

 ――そこへ無粋な声がかかる。


「胸だけでなく可愛げもない奴だ」

「い、いちいちわたしの胸について触れるな!」

「触ってなどいない。触ったところで胸だと分かりもしないだろう」

「そういう意味ではない! って、分かって言っているな!」


 シャルアンの些細な復讐によって清らかな流水の如き太刀筋が乱れ、あっという間に泥沼と化した。


「主君の困難に心を砕くのが臣下の務めだろう?」

「面倒くさい男だな、ホントに!」


 何があったと聞いてほしければ、そう言えばいいだろうに――ケリファは、相当難易度の高いことを要求しながらとうとう手を止めて剣を肩に担いだ。


「それで? 何があったのだ?」

「困ったことに風流なる時間の浪費だそうだ」

「はぁ? ……なんなのだそれは?」

「うん?」


 ケリファが胡乱げに問えば、第四王子が視線を彷徨わせた。

 短いつきあいながら彼の人となりが多少分かってきたケリファが珍しいこともあるものだと興味深げに見つめていると、シャルアンは眉宇の辺りにわずかな憂いとも諦めともつかぬ何かを刻んだ。


「熟女の暇つぶ」

「シャルアン」


 王子の些かうんざりしたような声に、さぞや昔は瓏たけた声音だったろうと想像させるまろやかな声がかぶさってきたのでケリファは心底驚いた。


(害意を感じられなかったとはいえ、全然気づかなかった! この御婦人方はいったい?)


「……母上」

「何を言いかけたのかしらこの子は。いやぁねぇ」


 舞台から広場に下りる階段に人影があった。女官たちが幾重にも差しかける豪奢な天蓋フィダンの下、澄んだ琥珀色の目を細めて軽やかに笑うのは、たおやかな女性だ。

 息子に受け継がれた銀髪は細やかに編み込まれ、頭上には簡略化された宝冠トゥクタが輝いている。柔和な曲線を描く肢体にまとった淡い色の衣には精緻な刺繍が施されており、使われている数珠玉も一級品だ。


「いえ、淑女の暇つぶし、と」

「ほほほ。つかなくてよいところに濁点がついていたような気がしたのだけれど?わたくしの気のせい?」

「気のせいでしょう、美しきルナーヤ王妃サラティー・シュリー・ルナーヤ美の女神ルナエの生ける似姿たる御身に誰が無礼なことを申せましょうや」


 芝居がかった仕草でシャルアンは優雅に礼をとり、王国一の貴婦人たる母を迎えるために手を差し伸べる。


「まったく、その口の上手さは誰に似たのやら」

「それは無論父上でしょうね。麗しき母上の愛を得るため、日毎咲き誇る花々と共に何篇もの恋歌を送られたと聞き及んでおります」

「あの方の情熱的なことといったら、かの名高い神聖なる雪の住処デヴァウィラマータの氷河すら溶け出すでしょう。それはもう甘く切ない歌でしたよ」


 親子の語らいにしてはうそ寒いような気がしてケリファはこっそりと身を震わせた。すっかり存在を忘れられているのをいいことに未だ肩に担いだままであった剣をそろそろと鞘に戻す。

 いつの間にやらアウダがケリファの足元に寄ってきていて構ってというように一声鳴いた。そんなアウダの喉をかいてやれば、ごろごろと喉を鳴らして喜んでいる。


(……母君は、やはり熟女呼ばわりに怒っていらっしゃるのだろうな)

「そこの貴女はどなた?」

「はぃぃっ!」


 思いもかけず話しかけられて声が裏返った。アウダが不思議な生き物を見る目で見つめてくる。

 なんと心臓に悪い女性だ――うるさい鼓動を隠すようにさすりながら、ケリファは婉然たる微笑みを湛える麗人におずおずと向き直る。


「お、お初にお目にかかります。ケリファと申します」

「わたしが新たに召し抱えた者ですよ。こう見えて腕の立つ武人です」

「まあ、そうなの。今度はこんなほっそりとした可愛らしいお嬢さんが……貴方の毒牙にかかったというわけね」

「母上、それではわたしがまるでいたいけな乙女をかどわかす悪漢のようではないですか」

「違わないの? 女性を見初めたのは初めてだけれど、貴方の『一目惚れ』ときたら強引で有無を言わさぬひどいものではないの。悪しき官吏の税の取り立てと比しても遜色ありませんよ。それにしても美しい黒髪と漆黒の目によく似合った名前だこと」

「あ、ありがとうございます」


 この母にしてこの子あり。ケリファは、脳裏にすかさず浮かんだ言葉をしみじみと噛み締めた。


「……母上は何用でわたしの宮までお越しになられたのです?」

「勿論、わたくしのの件よ」


 柔らかく笑んだまま厭味ったらしく言い、王妃は手にした扇でびしりとシャルアンを指し示す。


「ついこの間のこと、忘れたとは言わせませんよ」

「忘れてなどおりません」

「では、一切何の反省もなく、あわよくば母の心ばかりの宴をなかったことにしてしまおうという魂胆ね」

「そういうわけでは」


 心なしかシャルアンが後退りしたような気がしてケリファは先程の考えを改めることにした。

 ――母は強し。


「宴へのお誘いを頂いておきながら、参上できなかったことは申し訳なく思っております。生憎と急に体調を崩し伏せっておりましたもので」

「嘘を吐くのならもう少しましな嘘を吐きなさい。セイダンならば、もっと洗練された言い訳を考えつくはずよ。すっかりわたくしも騙されるような」

「それはそれで問題があるのでは?」


 母子の応酬にケリファは何とも言えない顔で天を振り仰いだ。


(セイダンって誰だろ……あー、いい天気だな)


 ケリファは見上げた空の抜けるような青さに目を細める。ここ数日、曇天続きだったので久しぶりに顔を出した太陽が心地よい。


(いい天気が続きすぎても困るみたいだけど)


 分厚い雲が垂れ込めた空では気分まで曇ってくるとはいえ、あまりにも雨が降らなければ何もかも干上がってしまう。しかし、雨量の少なさによって人々の生活に影響が出るという事態は、灌漑施設の整ったパヴァルナでは滅多にないらしい。


(あの濠、コンレといったか、あんなに大きな人工物を作れるようになったとは、人間偉いぞ! ちょっと前は小さな土の器を作るのに四苦八苦していたというのに)


 ちょっと前――人間にとっては結構な大昔かと思いつつも、彼らの目覚ましい進歩にケリファは少し誇らしくなった。


(さて、鍛練の後は何をしよう。城下へは昨日行ったし、近くの灌漑用水路ヤハンダールを見に行ってみようか。それとも中央大寺院パクト・アノール聖塔の寺院パクト・シャイユオンへ? だ、断じて観光気分というわけじゃない。見聞を広めるのはいいことだと姉上が言っていたから。その道すがらあの愚か者の気配を探ってみよう)


 ちなみに意図的に耳から閉め出しているために詳しい内容はよく聞こえないが、依然として親子は不毛な応酬を続けている。

 見る限りどうもシャルアンは分が悪そうだ。何とかしろというような視線を向けられたが、ケリファはしれっと無視する。


(それともお茶でも頂こうかな。宮廷雀たちの噂話は愚にもつかないものが大半だが、そこから思いもよらぬ情報が得られるかも。ここで出されるお菓子は美味しいからついつい食べ過ぎちゃうのが難点だな。け、けっしてお茶とお菓子の方が目当てではないです)


 何だかんだ言いながらもケリファはすっかりパヴァルナ生活を満喫している。こっそりと光輝ける大神が見ていた時のために弁解も織り交ぜるところは小心者丸出しだ。


「――では、次の望月の夜に待っているわね」

「お心づくしありがとうございます。楽しみにしております」

「その彼方を彷徨う眼差しを何とかしてからおっしゃい。お嬢さんも是非いらっしゃいな」

「は、はい! 是非とも!」


 急に話を向けられたケリファは何のことか分からず、しかし、あまり深く考えずに宮廷儀礼に則って恭しく礼をとった。これは、さすがにシャルアンの母相手にいつもの調子ではまずかろうと思ってのことである。


(……いったいどこに誘われたのだろう。あ、あれ? シャルアンがため息ついてる)


 軽やかに去っていった王妃らを見送り、ケリファは背後に佇むシャルアンの方へぎこちなく振り返った。


「わ、わたし、今何かやらかした?」

「ああ、自ら進んで蜘蛛の巣に飛び込んだな」


 白皙に疲労をにじませてシャルアンが頷いた。

 ケリファが先ほどとは違った心持ちで天を振り仰ぐその横で、アウダの尾が頑張れよとでもいう風に揺れていた。


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