5 むんむん


「………………」


 眼前の光景を眺めてケリファはただ黙っていた。

 別段怒りに打ち震えているというわけではない。もちろん絶望に打ちひしがれているというわけでもなかった。

 ただ単にどうしてよいか分からなかったのだ。


万歳ズィンバーダ! 万歳ズィンバーダ! 万歳ズィンバーダ!」

「生きとし生ける全てのものと偉大なる神々に感謝します!」

「この素晴らしき日を祝日としましょう!」


 すこぶるつきの屈強な男たちが歓喜の涙だか汗だかなんだかよく分からないものを垂れ流しながら口々に叫びケリファを伏し拝んでいる。


「……………………」


 異常事態だ。とんでもない異常事態だ。

 筋骨隆々とした男たちに周囲を囲まれ、すっかり頭が真っ白なところへ人熱れならぬ男熱れである。ケリファが生ける屍みたいになってしまっても仕方のないことであった。

 どうしてこうなった。ケリファはむんむんたる男熱れから逃避を始めた。




「まっ、待てっ!!」


 貸し与えられた一室を出ると角を曲がる王子の姿が見える。急いで追いかけながら回廊の壁面を見ると壮大な物語の浮き彫りが目に飛び込んできた。どうも歴代のパヴァルナ王に関するものらしい。

 見晴らしの良い丘に立つ威風堂々たる王と傍らに従う美しい獣――その壮麗さに目を奪われたのは一瞬のことですぐにシャルアンの後ろ姿に意識を戻す。それどころではない。こちとら必死なのだ。


(何としても取り戻す! わたしの身の安全のために!!)


 それにしても動きにくい衣だとケリファは領巾ウルマをかけ直す。そもそも全力疾走することなど想定していないのだろう。


(と、飛びたい! 飛び跳ねるんじゃなくて空中を!)


 元の身であればと、もどかしい気持ちでいっぱいになりながらシャルアンの背を追う内、複雑に入り組んだ宮の一画にある広場に張り出して作られた舞台へとたどり着いた。

 石を敷きつめた舞台はちょうどケリファ二人分ほどの高さの基壇に作られており、擁壁には神話と思われる浮き彫りが施されている。広場へは両端に作られた階段から下りられるようになっているらしい。


「それを返すのだ、シャルアン王子!」


 快晴というには少し違うほどほどの晴天の下、自分の発した声が思った以上に響き、ケリファは少し目を丸くした。


(これは、どうなっているのだろう?)

「ここは、謁見に使われる場所だ。ゆえに声がよく通るような設計になっている」

「な、なるほど。技術ってすごいなぁ。ええい、それは、今はどうでもいい! 大人しくそれを渡すのだ!」

「……嫌だと言ったら?」

「力ずくでも……奪い取る!」


 そう言った瞬間にシャルアンがひどく嬉しそうな顔をしたのでまんまと術中に陥った気がしないでもない。


(そ、そんなに手合せがしたいのだろうか、わたしと)


 ならば、お望み通り受けて立とうではないか。さっさと額飾りを取り戻してあの愚か者を捕えるべく旅立とう。


 ケリファは領巾ウルマを体から払い落とした。女官のカニタからは、高貴な女性は領巾ウルマを手離してはいけませんと教わったが、そんなことは知らない。脚衣クリャンも自身にできる範囲で端折った。

 足を適度に開いて全身の力は抜く。無駄な力は戦いの妨げだ。しかし、力を抜きすぎてもいけない。単純すぎて馬鹿らしいことだが、必要な時に必要なだけの力を瞬時に引き出す。それが重要なのだ。


「行くぞ」


 ケリファは軽やかに地を蹴るとあっという間にシャルアンに迫り、右の拳を放つ。かわされた。なればと蹴りを放つ。これもかわされた。


「しぶとい!」


 叫びながら回転して手刀を放つがこれもひょいとかわされる。再度回転しての裏拳、息つく間もなく連続する打撃、高さの違う蹴り、貫き手と以降も放つ攻撃のことごとくをかわされてケリファは目を疑った。


「わざと手を抜いているのか?」


 飛び退って互いに間合いを取った拍子にシャルアンが小首を傾げる。まだ愛用の剣も抜いていない。


(馬鹿にして!)


 答えるのも癪だったのでケリファは常人には捉えられない速度で王子に飛びかかった。

 しかし――


「くっ!」

「もう終わりか、他愛のない」


 あっさりと、それはもう驚くほどあっさりと簡単に避けられてしまい、あまつさえ腕を取られてしまった。


(お、おかしい。なぜだ。なぜ、わたしがただびと相手に?)


 ケリファは腕を振り払うのもそこそこに考え込む。いくら第三の目を封じられてしまったとはいえ、身は未だより神に近い半神半人である。普通の人間相手に後れを取ることなどあり得ない。


(いやいや、まてまて。よく考えろ、わたし)


 攻撃の際、シャルアンの手前でほんの少しの空気の抵抗のようなものを感じなかったか。一撃一撃を押し戻す反発力と言い換えてもいいかもしれない。この動き辛い衣のせいかと思っていたが、どうも違う。あたかも危害を加えまいとしているようだ。


(危害を加えまいと?)


 そういえば最近似たようなことをどこかで自分は耳にしたような――ケリファが記憶を探る。そうしてはたと気づいた。耳にしたのではない。言ったのだ。


『誓って! 誓ってこれからは何があろうとも主の君――大主宰神マヘーシュヴァラの、偉大なる神マハーデーヴァの、支配する者イシャナの、恩恵与えし者シャンカラの、破壊者ハラの、数多の貴き御名を持ちし御方に、決して無体は働きませんから!』


 あの時の言葉だ。第三の目を封じられた時の――光輝ける大神の前で発したあの言葉、あれが誓言サマヤとなってしまったのだろう。


(ちょ、あれ数の内に入るの! ひどくないですか!?)


 困ったことに神々の誓言サマヤは取り消すことができない。それが意味することは、シャルアンから腕っぷしで額飾りを取り戻すことができないということだ。

 諦めきれないケリファは、ちょいちょいとシャルアンの衣を引っ張った。


「あ、あのぅ、つかぬことをお伺いしますが、もしかして他に名前を持っていたりする?」

「名前だと? 何をいきなり……『畏怖せしダエ・バルーヴァ』、もしくは『戦場を支配する者ナーラ・ヒシャーニ』という尊称があるが、それがどうかしたのか?」

「いや、うん、ちょっちょね」


 動揺のあまりに噛んでしまったが、気にしてはいられない。


(これ多分そうだ。パヴァルナ化してるけど、我が君の御名だ。しかも2つとも)


 残念ながら確定されてしまった。これで王子に手出しはできない。顔を両手で覆ってケリファはその場にしゃがみ込んだ。


「うう、こんなんばっかり」

「だから、何のことだ。……本気でやれ。この額飾り、返してほしくはないのか?」

「本気は出している! ただ本気を出せていないだけで……」

「何をわけの分からんことを」

「汝にだけは言われたくない! というか、汝がさっさと返せば済む話だろう!」


 真剣な話をしているはずなのだが、どうも子どもの争いじみているのは否めない。

 ケリファが駄目元でもう一度やってみるかと再度臨戦態勢に入りかけた時――


「シャルアン様! 何事ですか!? お部屋に参上しましたらお姿が見えないので探しましたよ!」

「うるさいのが来たか……よきところだったというのに」


 ちっと舌打ちしてシャルアンが舞台へと駆け上がってくる男たちを睨み、地を揺らすような彼らの姿を目にしたケリファが我知らず後ずさる。


「な、ななななな、なんなのだ、彼らは」

「俺のものだ」

「は、はいぃ?」


 唐突な告白に声が裏返った。禁断の関係というやつなのだろうか。それにしては数が多すぎやしないだろうか。


(……ひ、人の好みにとやかく言うつもりはないが)


 先頭の一人を除き男たちが揃いも揃って筋骨隆々の大男で、大抵の者が禿頭なのはなぜなのだろう。


(あ! あれか、好みが一貫しているというやつか?)

「……盛大に何か勘違いしているようだから教えてやろう。あれらは俺の配下の戦士たちだ。戦時に徴収される無辜の民ではなく、常に鍛えられ戦を生業とする戦闘集団――俺がこの目で腕を確かめた生粋の戦人たちだ」


 王子は名だたる匠の手によって彫られた神像の如く口の端だけにほのかな笑みを刻み、駆け寄ってきた穏やかそうな男に何でもないと手を振った。


「持ってきたか?」

「はい、確かにお持ちしました」


 頭上で交わされる会話にケリファが怪訝そうな顔をすると、男はシャルアンの乳母ダーナの子ライナーマだと名乗り携えていたものを差し出してきた。


「……これは?」

「お前にやろう」


 ライナーマの手から受け取ったのは、一振りの剣だった。

 その剣は、優美な反り、薄く繊細でありながら強靭な刃先、細身の刀身に浮かぶ花弁のような紋様、十字状の鍔、円盤状の柄頭――シャルアンの佩びる剣と長さ以外は寸分違わぬものだ。


「……ありがとう? いや、あの、これじゃなくて額飾りを」


 何故こんなものをと首をひねりながら受け取り、ケリファは手にした剣の見事さに内心感嘆する。


(なんと美しい剣だ。しかもただ美しいだけではなく剣としての機能にも優れているとは、素晴らしい。さぞ名のある鍛冶の仕事に違いない)


 決して軽くはないが手に馴染む剣は通常よりも刀身が少し短いので小柄なケリファにとっても扱いやすく、また小回りが利くことから屋内など狭い場所での戦いや白兵戦を意識して作られたようだった。


「受け取ったな」

「へ?」

「……受け取られてしまいましたね」

(渡したのは汝では!?)


 思わず極限まで目を見開き、嬉々とした様子のシャルアンとは対照的に沈鬱そうなライナーマを凝視するケリファ。主君の命令には逆らえないのであろうが、それを考慮するつもりは当然なかった。


「……どういうことだ?」


 かなりの労力をもってライナーマから視線を外し、ケリファはシャルアンを睨みすえる。

 呪いでもかけるのかというほどの、ケリファの凶悪な眼差しに縫いとめられていたライナーマがこれ幸いとばかりに隅っこの方に消えていく。

 ……主がやたらと大盤振る舞いする厄介事に関わりたくないのかもしれなかった。


「王族がクハンを授けるということは、その者を召し抱えようということだ。本来ならば、しち面倒くさい儀式を執り行うのだが、しち面倒くさいので簡略化した」

「はぁっ!? な、ならば、返す!」

「一度受け取ったら返品不可」

「い、一定期間内であれば説明不要かつ無条件で一方的に返却できる制度は!?」

「そのような制度はない」

「わ、わたしにはあの不届き者を探すという使命があるのだ! こんなところで油を売っている暇はない!」

「こんなところとは失礼な。バッターラにいう神々の宮殿と比べれば、我がラハットなど陋屋やもしれんが」

「い、いや、そういう意味ではなく」


 いけない。このままではあの禿頭筋肉集団の仲間入りをさせられてしまう! いずれはきっと自分もああなってしまうのだ!

 恐ろしい事態に慄きながらもケリファは必死で食い下がった。


「そ、それに、自分でいうのもあれだが、わたしのような得体の知れない者を主君の側に置いて平然としていられる臣下などいないだろう!」

「問題ない。毎度のことだ、あれらも気にはすまい。俺の乳母子ダナイェンなど手慣れたものよ」

「毎回こんなことをやっているのかっ? し、信じらんない!」

「見ろ、あれが証拠だ」


 シャルアンがその長い指で指し示す先には――




「………………」


 眼前に広がる光景にケリファはただ黙っていた。

 別段怒りに打ち震えているというわけではない。もちろん絶望に打ちひしがれているというわけでもなかった。

 単純にどうしてよいか分からなかったのだ。


万歳ズィンバーダ! 万歳ズィンバーダ! 万歳ズィンバーダ!」 「生きとし生ける全てのものと偉大なる神々に感謝します!」

「この素晴らしき日を祝日としましょう!」


 すこぶるつきの屈強な男たちが歓喜の涙だか汗だかなんだかよく分からないものを垂れ流しながら口々に叫びケリファを伏し拝んでいる。


「……………………」


 異常事態だ。とんでもない異常事態だ。

 筋骨隆々とした男たちに周囲を囲まれ、すっかり頭が真っ白なところへ人熱れならぬむんむんたる男熱れである。ケリファが生ける屍みたいになってしまっても仕方のないことであった。


「………………………………」

「そもそも、ここを飛び出していったところで行く当てはあるのか? 土地勘もないし、こちらに知り合いもいないのだろう? ひとえにパヴァルナといっても広いぞ。自慢するつもりはないが、半島ヴァールヤのほぼ全域が我が国の版図といっても過言ではない」


 古典的微笑を湛えたシャルアンは、固まったままのケリファから目を逸らすと、腕を組みどこか遠くを見るような目になった。


「脅すわけではないが言っておく。都市部ではそうでもないが、パヴァルナには戦火が燻ぶるきな臭い地域もあれば、異邦人には危険な地域もあるぞ。うっかり迷いこんだなら最後だと思え。そこでは、投石の類ならまだましな方だ。もっと悲惨な目に遭うかもしれないな。そもそも女の一人旅などパヴァルナでは珍事に等しい。さぞや目立つだろう。どうぞ襲って下さいと言っているようなものだ。いくらお前が並みの少女ではないといっても、息つく間もなく降りかかる火の粉を撥ね退け続けるのは骨が折れるのではないか?」

「ぐぬぬ!」


 何を考えているのか計り知れないこの男は、案外何も考えていないのかもしれなかったし、その実何がしかの思案を抱えているようでもあった。

 だが、今この時は、はっきりと断言できる。十中八九間違いない。ものぐさを根本精神とする王子が昨日からこれだけ生き生きと動き回り、言葉を尽くしているのだ。間違えようがなかった。


「……どうあってもわたしで遊ぶ気だな」


 色々なものを諦めたような顔でケリファは肩を落とした。


「何、『第四王子の私兵俺のもの』が一人増えるだけだ」

「誤解を招く言い方はやめてぇぇぇぇ!」

「安心しろ。ただでとは言わん。大人しく俺のクハンを受ければ、人探しに何なりと協力してやろう。一国の王子の諜報力を侮るなよ」

「うぅっ? ほ、本当だろうな!? う、嘘だったらひどいぞ!」


 ぴょいんぴょいん。シャルアンの提案にケリファは見事な連続蚤飛びを披露する。


「二言はない」


 王子は素晴らしく晴れやかな笑みを見せた。この男の屈託のない笑みは、見慣れぬせいか、とても心臓に悪かった。


「言ったろう。お前は逃がさぬと」

「き、聞いた覚えはないぞっ!?」

「そうか。まあ、気にするな」

「気にするわ!!」

「ならば言っておこう。――逃げるなよ?」

「ぐっ! よいか? 厄介になるのはあの不届き者が見つかるまでだぞ? 分かったな!」


 ……厄介になるというのにこんな偉そうに言っていていいのだろうか。そんなことが頭の片隅に浮かぶが、常識を吹き飛ばすほどに王子は我が道をまっしぐらに往いっていた。


(にしても……彼らはいったい?)


 ケリファは未だに喜びを爆発させている男たちを見て不安を募らせる。

 ――彼らは何をそんなに喜んでいるのだろう。まるで生贄の身から解放されでもしたかのような喜びようだ。


「な、汝は彼らに何をしてきたのだ。そして、わたしに何をさせる気だ」

「人を魔王マリシャか何かのように言うな。人聞きの悪い奴だ」

「まだ魔王の方がマシじゃ?……大人しく倒されるだけ」

「この額飾り、返そうかと思ったがやめておくか」

「あ! 額飾り返せ!」


 こりもせず額飾りを挟んで女神もどきと人との攻防が始まった。おろおろと見守る乳母子、喜び乱舞する大量の禿頭筋肉野郎ども――傍目に見ると何の集団か分かったものではなかったが、今日もパヴァルナは平和なのだった。

 例えそれが仮初めのものだとしても。



 ――一般に知られてはいないが、パヴァルナの今は亡き神王デヴァラージャの四番目の王子は、ものぐさな上に大の刀剣愛好家(実践型・制作から使用まで)であり、筋金入りの武人収集家という危険人物であった。それでいて動物好きという一面もある。

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