act.8『三房の下がり藤』

「やっと抜けたな」

 朔也子さくやこひいらぎを乗せた車は、ようやくのことで連絡橋を渡り終えると共に大渋滞を抜け、空いた島内を、どんどんスピードを上げて滑らかに走る。島の南北に掛けられた2人の連絡橋をつなぐ、桜花中央道路である。

「どうするかはサクヤ君の自由だけど、行動を起こす前に一言欲しいな。俺からのリクエストはそれだけ。今の俺の立場じゃ、なんでもかんでも協力出来るわけじゃないし」

「自治会執行部役員という柊のお立場は、わたくしなりに理解しているつもりです」

 だが自治会執行部役員がどれほどの制約を受けるかは、実際のこところはまだわからない。こればかりは桜花で生活してみなければ、その1つ1つはわからないに違いない。

「それと1つ」

 柊はいたずらっぽい笑みを浮かべながら1本指を立ててみせる。

「これからちょっと騒がしくなるけど、気にしないように」

 車が向かっているのは桜花島内に数ある学生寮の1つで、学園都市桜花付属第6丹英たんえい女子寮である。

 柊の言葉の意味も、これから自分が生活することになる学生寮がどこにあるかも知らない朔也子は、車の向かう先に見えてきた人だかりに気づく。不思議に思って首を傾げる間もなく、車はその人だかりの傍で停車した。

 自動車より自転車や歩行者のほうが圧倒的に多い桜花の道は、歩道が広い。幅3~5mはありそうな歩道を埋め尽くすのは様々な学校の制服を着た生徒たちで、男女問わず。皆、袖には所属地区を表す色に自校の校章が描かれた腕章を付け、ある生徒は肩にテレビ用の大型カメラを担いでいたり、マイクや照明を頭上に掲げていたり。もちろんレコーダーにハンドマイク、デジカメを構えている生徒もいる。そう、持っているというより構えていると表現した方がしっくりくるその様子は、まさに臨戦態勢。皆、少しでも前に出ようと 「どけよ」 「邪魔」 などと牽制しあいながらひしめき合っている。

 2人を乗せた車が止まった寮の門前は道が空いているのだが、もちろん偶然空いているわけでもなければ、ひしめき合う彼ら彼女らが寮生たちに配慮して自主的に空けているわけでもない。

 交通整理よろしく、ほんのりと緑かかった灰色の詰め襟学生服を着た男子生徒たちが、押し寄せる群衆を抑えているのである。ともすれば寮に押し入ろうとしたり、車道に飛び出してでもよい位置を確保しようとする生徒たちに、付ける隙を寸分たりと与えぬ鉄壁の守り、ならぬ鉄壁の警備である。

 すぐさま朔也子も、つい今し方柊が言った 「騒がしくなる」 がこれであることを察し、彼ら彼女らが何者かも察する。

「報道関係の方々ですか?」

 車窓の様子を眺めながら尋ねる朔也子に、メール打っていた柊は 「そ」 と完結に答える。メールも簡潔に終えたのか、手にしていた携帯電話をジャケットの内ポケットにしまう。

「サクヤ君、そこらの芸能人顔負けの注目度だな」

 柊の言葉通り、話題の芸能人に群がる報道陣さながらの騒ぎを、朔也子はやや不安げな表情で眺める。

 だがその横顔を眺める柊は平然としている。事前に知っていたのだから当然と言えば当然だが、ざっとその騒ぎを見回して 「予想より多いかな?」 などと呟く。余裕を感じさせるその呟きに、朔也子は一層表情を曇らせ、さも不思議そうに尋ねる。

「この方々は柊にご用があって集まられているのでは?」

「俺だったら寮が違うでしょ? ここは女子寮で、俺は入れても玄関まで」

 柊が生活するのはここ、第6丹英女子寮ではなく第5卯木男子寮である。当然柊に用があるのなら、ここではなく第五卯木男子寮前か自治会本部がある桜花大講堂で待ち伏せするべきだろう。

「ではなぜこのような場所に? こちらの寮にはどなたか有名な方が居られるのですか?」

 だとしたら会うのが楽しみだと呑気なことを言う朔也子に、柊はにっこりと笑って答える。

「もちろんみんな、サクヤ君を見たくて集まってるに決まってるじゃないか。今の桜花で、サクヤ君以上に話題のある奴なんていないよ」

「なぜわたくしが?」

 可愛らしい顔を強ばらせる朔也子に、柊は優しく笑ってみせる。

「さて、なぜでしょう?」

「柊、意地悪をなさらないで下さい!」

 声高に抗議する朔也子だが、柊は群がる報道関係の中に松藤学園の制服を見つけてぼやく。

「あいつらアホか。他の連中と一緒になって、なにしてやがる」

「柊、わたくしの話を聞いて下さいまし!

 それに、あれは英華高校の方々でしょう? 何故あのように大変のお役目をなさっているのでしょう?」

「今は春休みで、色々人手不足だからです」

 桜花は新入生の入都が最盛期ピークを迎えている。入都式の準備など、本部実行委員だけでは足りない人手を、様々な規則違反による罰則ペナルティとして一般生徒を徴用してもまだ足りないのが実情である。

 だがあらかじめ予定を知っていた本部実行委員会や違反者たちならともかく、一般生徒たちが桜花に戻ってくるのは始業式数日前。まだ1週間近くあり、戻ってきている生徒はそれほど多くはない。そんな中でも英華高校はほぼ年中無休で部活動が行われており、自治会から英華高生徒会に依頼して人員を確保したのである。

 しかも1人として文句1つ言うことなく指示通りに動く。その見事な統制は執行部にとっても便利だが、簡単に動員出来ない理由が本部実行委員会警備部の存在である。

「サクヤ君、大評議会で高子たかいことやりあっただろう? あれが話題になって」

 あの大評議会が行われてすでに1ヶ月が過ぎようとしているが、未だその話題は消えることなく続いている。しかもその興味は、朔也子の入都が近づくにつれ加熱していったという。

 報道関係を締め出して行われた大評議会だったため朔也子の写真はなく、桜花内にいる藤林院一門からの提供を受けることも出来なかったらしく、入寮の瞬間を狙うべくここに集まり始めたのが数日前。もちろん受け取り方はそれぞれである。

 前総代・高子の暴走を諫めた大型新人ならぬ、大型新入生と報道するつもりなのか?

 あるいは前総代と同じ 「藤家とうけ」であることを危惧してのことなのか?

 朔也子はもちろんだが、柊たち自治会執行部にもわからない。彼ら彼女らが創り出す報道を視てみないことには、誰にもわからないのである。

 少し開いた扇子の蔭に小さく息を落とした朔也子は。一際大きく音を立てて閉じると少し強ばる顔を上げる。

如月きさらぎ、参ります」

 少し震える主人の声に、助手席にすわっていた如月はるかはすでにシートベルトを外してスタンバイ。彼女が助手席の扉を開けた瞬間、外の喧噪が一際大きくなる。だがもう後戻りは出来ない。外から如月が後部席の扉を開くと、まずは柊が降り、朔也子もそれに続く。

 門前を挟んで左右に群がる報道関係と、それを無言の圧力で押し留める英華高生たち。差し出された柊の手を取って車を降りた朔也子はその様子を直に見、気迫のようなものに呑まれそうになる。

「朔也子」

 頭上から掛けられる柊の声に、朔也子も強ばる顔を上げる。

「英華高校の責任者はどなたでしょう?」

 もちろん本来の責任者は生徒会会長代行だが、朔也子が言っているのはこの現場責任者である。彼女がなにを思ってそんなことを尋ねたのか、柊にはわかったのだろう。少し笑みを浮かべ、手で1人の男子生徒を示すと、腕組みしたままその場で朔也子を待つことにする。

 一方の朔也子は警備をする英華高生の1人、門近くに立つ柊が示した男子生徒に近づく。

「お役目中、失礼いたします」

 背を向けて立っていた男子生徒は掛けられる声に何気なく振り返り、そこに立つ朔也子を見て一瞬驚いたように表情を強ばらせる。朔也子の少し後ろで見ていた柊はその様子を面白がって笑うけれど、朔也子は少し不思議そうに小首を傾げてみせる。

「なにか?」

「わたくし、藤林院寺朔也子と申します」

「お名前は存じ上げております。遠路、桜花へようこそ」

「このたびは不本意ながらこのような騒ぎを起こしてしまい、申し訳なく思っております。どうぞ皆様にも、お怪我などございませんように」

「これは我々の役目です。お気遣い無用です」

 こういった挨拶には不慣れなのだろう。自ら名乗ることも忘れ、精一杯丁寧に答えるがどうにも言葉がぎこちない。

「皆様のお手を煩わせてしまいましたこと、わたくしが御校まで足を運び直接お詫び申し上げねばならぬところではございますが、このような有様では却ってご迷惑をお掛けいたしかねませぬ。

 後日、落ち着きましたらご挨拶に伺いたいと存じます」

「お言葉、確かに花園会長代行にお伝えいたします」

「どうぞ、よしなに。

 御前、失礼をばいたします」

 そう言って朔也子が丁寧に頭を下げると、向かい合う男子生徒もぎこちなく頭を下げる。道場で、対する相手と礼を交わすようには出来ないらしい。

 続いて朔也子は、彼の向こうに群がる報道関係に向かって軽く会釈をする。

「皆様、ご機嫌よう」

 その刹那、目を開けていられないほどフラッシュが焚かれる。朔也子は眩む目に足下が危うくなるが、いつの間にかすぐ後ろに立っていた柊の手が軽く背に添えられる。

「柊、参りましょう」

 チラリと柊を見た朔也子はすぐさま気を取り直し、先に立って歩き出す。

 5つに分けられた地区の1つ、桜花中央区のほぼ中央にあり、桜花付属学生寮の中では比較的規模の小さい第6丹英たんえい女子寮。扉のない門を柊と共に入った朔也子だが、無機質なコンクリートブロック塀に囲まれた、猫の額ほどの庭を持つその建物の玄関前まで来てピタリと足を止める。

「どうかした?」

 その様子に気づいた柊が尋ねる。だが案じるというより、当然の反応だと言わんばかりの口調である。

「……あれはなんですか?」

 朔也子の眼前に立つ桜花付属第6丹英女子寮、その建物の一角を凝視したまま、固い声で尋ねる。

「なぜ三房の下がり藤みつふさのさがりふじが、このようなところにあるのですかっ?」

 中央に短いふさ、その房を囲むように左右の房が輪をなす三房の下がり藤は、藤林院寺宗家の家紋である。その家紋が、なぜか第6丹英女子寮の正面玄関に掲げられているのである。

「なぜだと思う?」

 少し皮肉げに笑う柊。その表情に朔也子も悟る。

「……高子たかいこの仕業ですね」

 柊は、言葉ではなく笑みで応える。

「如月をこれへ」

 朔也子の言葉に、柊は先程しまったばかりの携帯電話を取り出し、短くメール打つ。送信してほどなく、門前に停まった車の助手席から降りた如月が、早足に2人に向かってくる。

「媛様、柊様、如何なさいましたか?」

 2人のすぐ後ろに立った如月は不思議そうに尋ねるが、主人の視線の先にある物に気づいた瞬間、表情を強ばらせる。

「すぐに撤去しなさい!」

 いつになく強い口調で命じる朔也子は、激しい目で掲げられた家紋を睨んでいる。

「おそれながら、それは出来かねます」

「如月っ? わたくしのめいが聞けぬと申すかっ?」

「申し訳ございませぬ。ここは学都桜花付属寮でございますれば、寮長の許可が必要かと存じます」

 そう言われて朔也子も少し冷静さを取り戻したらしい。

「……付属寮は全て、寮内自治が行われていると入寮案内にありましたね」

 チラリと横に立つ柊を見れば、彼も方朔也子を見、いつものように薄い笑みを浮かべている。

「仰るとおりにございます」

 如月が慇懃に答える。

「つまりこの第6丹英女子寮の寮長は、高子の支持者ということですか?」

「それはわかりかねます」

 言って如月は、観察するように改めて家紋を見上げる。

「拝見いたしましたところ、この春、新たに掲げられた物ではないようです」

「どういう意味でしょう?」

 朔也子は眉を顰めて如月を見る。

「まだ新年度は発足前でございますが、寮長はすでに交代しております。

 御紋は風雨でやや痛みが見られますので、おそらく以前から掲げられていたものと思われます。ですから先代の寮長がそうであったのではないかと考えられます」

「その跡を継いだわけですから、新寮長も高子の支持者である可能性はなきにしもあらず。少し用心する必要がありそうですね」

 家紋の撤去は新寮長次第。入寮して、じっくりとその人となりを観察するしかないだろう。高子との戦いを前に……いや、これも高子との戦いの一端かもしれない。

 桜花付属女子寮は全て男子禁制である。もちろん男子寮は女子禁制。だが玄関までなら入ることが出来るため、柊はそこまで朔也子を送るつもりだったが、念のためと言って如月も同行しようとする。

「心配は無用です。如月は車で控えておいでなさい。

 あとで柊を寮までお送りするように」

 そのあとは京都に戻らず、桜花島内にある藤林院寺宗家別邸にて朔也子から呼ばれるのを待つ日々を送ることになる。

「それとこの三房の下がり藤、いつでも撤去出来るよう手はずを整えておくように」

「御意」

 答えた如月が深々と頭を下げると、朔也子は柊をともなって正面玄関を入る。さて鬼が出るか、蛇が出るか……。

 幾つもある桜花付属学生寮は、外観や内装に統一性はない。第6丹英女子寮は数年前に内装を改めたばかりで、白い壁はまだ変色していないが、毎日大勢の寮生が行き来する床板には痛みが見える。今日も新入生の入寮で在寮生は忙しく、寮内はひどくざわついていた。

 次々に到着する新入生が保護者同伴でやってくるのは珍しくはない。中には寮内の見学を希望する保護者もいるくらいだから、新たに到着した新入生が1人でなかったことには誰も驚かない。

 そう、新入生が1人でなかったことには誰も驚かなかったのだが、なぜかそこここから悲鳴が上がる。

「な? な……あ……」

 おそらく 「何事でしょう?」 と言いたいのだろう。けれど驚きのあまり顔が強ばり、声も言葉も上手く出てこない朔也子は無意識のうちに柊の後ろに隠れてしまう。

「大丈夫、食われないから」

 冗談で朔也子を安心させようとした柊だが、全く効果なし。朔也子は呆然と立ち尽くし、手にしていた扇子を落としたことにも気づかない。

 柊は仕方なさそうにその扇子を拾い上げると、軽く朔也子の頭を小突くが、やはり効果はない。

「誰、あの子?」

「知らない」

「新入生でしょ?」

「なんで新入生が天宮君と一緒にいるのよ?」

 悲鳴で玄関周辺が騒然となったのは数秒のこと。すぐさま潮が引くようにざわめきが消えると、今度は不気味な静寂が訪れる。その静寂の中でひそひそと交わされる言葉が朔也子の耳にも入ってくる。

「……柊はとても女の子に人気があるのですね」

 ようやくのことで状況を理解するものの、まだまだ顔は強ばったまま。差し出された扇子を受け取り、少しばかり開いた蔭に小さく息を落とす。

「そのうちサクヤ君の人気に負けるから大丈夫」

「勝ちとうございません」

 短く返した朔也子は柊に促されるまま受付と書かれた長机に近づくが、担当者が不在らしく、誰も向こう側にすわっていない。

「受付担当はいないのか?」

 掛けられる柊の声に、周囲にたむろしたいた寮生たちは再びざわめく。

「ちょっと、大庭、どこ行ったの?」

「さっき凄い勢いで階段上っていったわよ」

「また誰か何かしたんじゃないの?」

「誰か呼んできなさいよ」

 ひそひそと囁き会う声が朔也子と柊の耳を掠める。皆、呼びに行きたがらないのは、少しでも長く、近くで柊を見ていたいかららしい。困ったように2人が顔を見合わせると、玄関脇にある階段を降りてきた立原順子が声を上げる。

「ああ、新入生? ……と、執行部の天宮だっけ?」

 なにか奇妙なものでも見るように並んで立つ柊と朔也子を見比べる順子だったが、すぐに受付へと足を向けつつ周囲に声を掛ける。

「ちょっとあんたたち、遊んでるんだったら受付くらいやりなさいよ!」

 それこそ学都桜花有数の有名人と話をする機会チャンスだったのにと茶化す順子は、受付にすわると、改めて朔也子と柊を見る。

「なんで執行部がいるわけ? まさか天宮の妹とか?」

 物怖じすることなく尋ねる順子に、柊は苦笑いをしつつ肩をすくめてみせる。

「今は私人だから執行部って言うの、やめてもらえます? 保護者代理みたいなもんだから」

 その証拠に、公務は制服の着用が原則だが、今の柊は私服である。

「お父様もお母様も忙しくしてらっしゃるので、わざわざ柊に来ていただきましたの」

「どこのお嬢様?」

 朔也子の言葉に違和感を覚える順子は苦笑を浮かべつつ、持っていた名簿を長机の上に広げる。

「名前と学校名を言ってくれる? あと入寮許可証。入学許可証と一緒に送られてきたと思うけど、持ってきてる? 生徒手帳も」

「はい、こちらに」

 ここに来てようやく鞄を車に置き忘れたことに気づいた朔也子は慌てるが、代わりに持ってきた柊は勝手知ったる調子で鞄を開き書類を取り出す。

「松藤学園って、頭いいねぇ……え?」

 新入生名簿と、出された入寮許可証に書かれた名前を付き合わせようとした順子だったが、漢字の並んだ長い名前に自分の目を疑う。

「藤林院寺って……」

「藤林院寺朔也子と申します。宜しくお願いいたします」

 ちなみに今年度の学園都市桜花内で一番名前の字が多いのは 「藤林院寺朔也子」 と総長の 「藤林院寺善三郎」 で、読みの数で善三郎が勝っている。

藤家とうけのお嬢さんがなんで天宮と?」

 ますます訳がわからないと言わんばかりに2人を見比べる順子だが、朔也子はそんな彼女の反応が理解出来ず戸惑うばかり。唯一理解している柊だったが、笑みをもって順子の問い掛けへの返答を拒否する。

「あの、わたくしと柊が一緒にいてはおかしいのでしょうか?」

「前総代と天宮って、仲悪そうだったから。妹、だよね」

 それこそ柊と仲良くして 「姉」 に怒られないかと不思議がる順子だが、朔也子は苦笑を浮かべて返す。

「いえ、高子は従姉妹です。わたくしは一人っ子ですから」

「そうなんだ!

 あ、あたしは星風せいふう学院一高2年の立原順子。確か隣の隣の住人ね」

「そうでしたか。宜しくお願いいたします」

 言って朔也子は立ち上がり、両手を揃えて頭を下げる。

「これはご丁寧に」

 などと挨拶を交わしているところに、先程順子が降りてきた階段をずいぶん荒々しい足取りで降りてくる寮生がある。あまり長くない髪を無理矢理1つに束ね、Gパンにトレーナー、素足にスリッパというラフな格好の大庭理美である。

「お、新入生? タッチ-、頼むわ」

「だれがタッチ-よ? 頼むわ、じゃないでしょ!」

 即座に言い返した順子は、朔也子に 「あれが寮長の大庭よ」 と紹介する。一方の理美も他の寮生に耳打ちされて朔也子の素性を知り、順子以上に素っ頓狂な声を上げる。

「藤家のお嬢様っ?」

 大股に近づいてきた理美は、パイプ椅子にすわる順子の少し後ろに立ち、改めて朔也子を見る。

「女王も見た目だけは美人だったけど、これまた人形みたいに可愛いじゃないか」

 まさにお嬢様だと感嘆する理美の、不躾な視線や物言いに朔也子は呆気にとられる。

「藤家ってのは美人の家系なわけ?」

「さ、さぁ、どうなのでしょう?」

「気にしなくていいわよ、大庭はこういう奴だから」

 横から出される順子の助け船に、やや気を取り直した朔也子は先程と同じように、今度は理美に挨拶をする。

「藤林院寺朔也子と申します。宜しくお願いいたします」

「こりゃご丁寧に、どうも」

「大庭、そうじゃないでしょ」

「あ、ああ、こりゃ失礼。あたしは山家やまが2年の大庭理美。

 いやぁ、本当に可愛いねぇ」

「ちょっと、いい加減にしなさいよ」

「だってさぁ」

 順子と理美、2人は学年こそ同じだが通う学校は違う。しかも星風一高は北区で山家高校は南区と、ここ中央区から正反対方向に通学しているが、それでも1年同じ寮で生活しているとやはり仲良くなるらしい。いつもの調子で話す2人の上級生に、朔也子は遠慮がちに声を掛ける。

「お話し中に大変申し訳ございませんが、少し伺いたいことがございます」

 精一杯愛想よく切り出す朔也子だったが、どこか顔が強ばっているのは、こみ上げてくる怒りを抑えきられないから。

 だが幸いにして理美は呑気な性格なのか、気づいていないらしい。力の抜けた顔で 「なに?」 と問い返してくる。

「こちらの玄関に掲げられた三房の下がり藤みつふさのさがりふじ、なぜあのような物がここにあるのでしょう?」

 すると急に理美の表情が不機嫌に変わる。

「ああ、あれね」

 だが話が本題に入るより早く、別の声が割り込みを掛けてくる。

「大庭さん、これはなんの騒ぎかしら?」

 いつの間にか玄関周辺には寮生が人だかりを作っていたのだが、その人垣を割って、大人びた私服姿の女子寮生が現れる。彼女は3人の寮生を従え、芝居じみた足取りでその中を真っ直ぐに進んでくる。

「あんたが来たから騒がしくなったんだよ」

 ぞんざいな物言いで返す理美はひどく苦々しげで、その寮生を不快に思っているのがわかる。しかもそれは理美だけでなく、順子を含む寮生のほとんどが同じようにその寮生を見ている。

「力量のない人の言い訳ね。毎日毎日飽きもせず、よく騒げること」

「こんだけの人数が生活してるんだ、騒がしくて当たり前だろ」

「おかげでレッスンに身が入らなくて困っているのよ」

「ピアノの練習なら学校でやれよ。集中力がないのは自分が未熟だからだろ」

「寮長のあなたがしっかりしていないから、寮生が規律を守らないんじゃなくて?」

「どの面下げて言ってんだ?」

「あたくし、入都式で学都歌伴奏というとても大切なお役目がありますの。このままでは十分なレッスンも出来ませんわ。どう責任をとるおつもりかしら?」

「そんなこと、知ったことか」

「器じゃないなら、潔く寮長を辞任なさることをお勧めするわ」

「損であんたの取り巻きを寮長にするんだろ? 魂胆丸見えなんだよ、冗談じゃない」

 そうさせないため、不本意ながらも理美は寮長になったのである。そうでなければこんな面倒な役目、引き受けるはずもない。

「上級生の忠告は有り難く頂戴するものよ」

 理美が2年生だから、その寮生は3年生ということになる。

「そんなもん、いるか。犬にでも食わせてしまえ」

 噛み合っているようで噛み合っていない奇妙な2人の会話。一応理美は相手の言い分を聞いているのだが、相手は全く聞いておらず好き勝手言いたい放題。

 もちろん理美もそのことに気づいているのだが、指摘するのも馬鹿らしいと思えるほど呆れている。そこに、まるでタイミングを見計らっていたように少し小柄な寮生が1人、帰ってくる。彼女は勢いよく玄関扉を開けて入ってくると、朔也子や柊を押しのけるように前に出て、理美と言い合う寮生に、指を突き立てるように言い放つ。

「あんた、まだそんなふざけたこと言ってるわけ? ばっかじゃない!

 大庭も大庭よ! とっくにあんたが寮長なんだから、びしっと言ってやりなさいよ!」

 それこそ寮から追い出してしまえと言わんばかりのこの寮生は、理美が通う山家高校と同じ桜花南区にある私立松藤学園涉成しょうせい高等学校新弐年生の国兼李緒くにかねりお。身長160㎝に少し足りない小柄さに可愛い顔をしているが、声ばかりでなく態度もひどく大きい。腰に当てたもう一方の手に下がるコンビニの袋を見て、これまた理美は呆れる。

「あんたこそ、どこで油売ってるのかと思ったら……」

 迷子になった新入生を送り届けに行って、そのままこれ幸いとばかりに行方をくらましていた手伝いの1人、それが李緒である。

「こいつらはね、はっきり言ってやらなきゃわからないんだから!」

 李緒に 「こいつら」 呼ばわりされて面白くない上級生は、負けじと言い返す。

「あら国兼さん、お帰りなさい。皆さんとっても忙しいのに、どこで遊んでらしたの? いくら背が低くても小学生じゃないんだから、ちゃんと割り当てられたお仕事はしてもらわないと」

「もうあんたは寮長じゃないんだから、偉そうなこと言わないでくれる? そういうあんたこそ、ピアノ弾くしか能がないくせに!」

 どうやらこの上級生が前寮長らしい。つまり藤林院寺宗家の家紋である三房の下がり藤が、この第6丹英たんえい女子寮の玄関に掲げられることになった理由を作った人物である。

 彼女はすぐさま感情的に 「なんですって?」 と声を上擦らせるが、すぐさま周囲の視線に気づいて咳払いを一つ。

「……あなたみたいながさつな人に芸術を理解しろというのは所詮無理な話ですけれど、あたくしのピアノは高子たかいこ様が認めて下さるほど芸術性が高いんですの。そこらの素人と一緒にしないでいただきたい」

 しかし李緒は鼻でせせら笑う。

「なにが高子様よ? あんな高慢ちきな馬鹿に褒められて喜ぶなんて、あんた、頭がどうかしてるんじゃない? なにがそこらの素人よ? あんたもそこらの素人の1人でしょうが」

「高子様を馬鹿にするなんて、どんな目に遭っても知らないわよ」

「そんな脅しにあたしが屈するとでも思ってるわけ?

 残念でした! 高子が高子なら、あたしは李緒様よ!」

「なんですって?」

「知ってるんだから、あんたたち黒薔薇派の中で高子の後釜争いしてるって。

 でもね、あんたなんてどう足掻いたって高子の代わりになんてなれやしないんだから! 所詮似非えせは似非。ちっとも怖くないわよ!」

「李緒が高子を恐れるなど、天地がひっくり返っても有り得ぬことです」

 久しぶりに会う親族の、その見事な啖呵に朔也子は拍手を贈る。すると李緒は弾けるように朔也子を振り返り、ばつが悪そうに顔を強ばらせる。

「……朔也子、いたの……?」

「あなたより先におりました。相変わらずそそっかしい」

「あら、そこにいたのね。小さくて気づかなかったわ、御免遊ばせ」

 前寮長までが朔也子を見て言い出す。どうやら高子から話を聞いて知っているらしい。いや、知っていたからこそ待ち受けていたのかもしれない。

「自己紹介が遅れたけれど、あたくしは榎木戸えのきど学院3年お白﨑洋子しらさきようこ。この第6丹英寮の前寮長よ」

 桜花中央区にある私立榎木戸学院高等学校新3年生の白﨑洋子は身長165㎝くらいで、どこか演技じみた立ち居振る舞いは嫌味度満点。見る人を不快にさせること請け合いである。

 そんな彼女に従うのは尾瀬清美おぜきよみ湖水芙美こすいふみ菅沼美子すがぬまよしこといい、同高の新2年生で、いかにもお嬢様の取り巻き然としている。

「初めまして。本日この第6丹英女子寮に入寮いたします藤林院寺朔也子と申します」

 朔也子が名乗ると、集まった寮生のあいだに再びどよめきが起こる。強まる反感と困惑に、朔也子自身も歓迎されていないことを察するが、それを受けて白﨑がしたり顔をするのは明らかに勘違いである。

 決して寮生たちは白﨑の味方ではない。それは彼女が現れた時、その姿を見た寮生の反応を見ればわかる。そして今のどよめきも困惑も、朔也子の 「藤林院寺」 という前総代と同じ苗字に反応しただけ。少なくとも朔也子にとって寮生は味方ではないが、現時点では敵とも言えない。

「挨拶に来る手間を省いてあげるわ。

 いいこと? あたくしは高子たかいこ様からあなたの監視を命じられているの。今後、あたくしの許可なく勝手な行動は許さなくてよ」

 どうやらその気取った話し方は高子を意識してのものらしい。

 だが高子のような威圧感は微塵も感じられず、あまりの安っぽさに李緒の 「似非」 という表現がピタリと当てはまる。

「生憎とわたくしには高子の意に従う理由がありませぬ。よってあなたの監視など受けませぬ」

「新入生の分際で、いい度胸じゃない。二度とその生意気な口をきけなくして欲しいのかしら?」

「あなたにお出来になるならば」

 手にした扇子を口元に当ててにっこりと笑ってみせる朔也子に、白﨑は 「いい度胸ね」 と凄んでみせるが、やはり高子のような凄みは感じられない。

「あなた方が高子を慕うのは自由ですが、これ以上の愚行はご自身の品位を貶めるだけ。そろそろそのことに気づかれては如何ですか?」

「愚行ですって?」

 声と共に、白﨑の目が少しばかりつり上がる。

「自らの品位を貶める行為を、愚行と言わずなんと言いましょう?

 高子が桜花総代の地位を利用し、ずいぶん皆様にご迷惑をお掛けしたことはわたくしも存じておりますが、寮長とのやり取りを拝見しておりますと、あなたもその威を借りてずいぶんと勝手をなさっているようですね。

 ですが新年度が始まれば新たな総代が就任遊ばされ、高子は過去の人となります。その威光も過去のものとなるのです。そうなる前に目を覚まされては如何ですか?」

 前総代といわれている時点で高子はすでに過去の人となっているのだが、その強烈な印象を払拭するにはまだ時間が掛かるだろう。新総代の就任が必須だが、それすらきっかけにしかならないに違いない。

「甘いわね。なにも知らないようだから教えてあげるけど、次の総代はすでに決まっているのよ。高子様の意を受け継ぐ後継者がね。

 あんたこそ、今のうちに荷物をまとめる準備をしておくことね。

 あら、まだ荷ほどきもしてないからその必要もなかったかしら」

 口元に手を当てて高らかに笑う白﨑だが、どうにも演技臭さが鼻につく。まさに素人役者の大根演技である。

「果たして目論見通りに運びましょうか?」

「なるわよ。あの方は完璧だもの。高子様は総代となるべくして就任なさったのよ。あの方以上に相応しい総代なんていて? この学都桜花の後継者として、ひいては藤家の後継者として」

 自分の言葉に酔いしれる白﨑だが、藤林院寺家の家督にまで話が及んだことに朔也子も不快感を隠せない。さらには柊にまでその矛先を向けてくる。

「あら、執行部の天宮君じゃない。高子様にはずいぶんと不快な思いをさせたくせに、その子にはかしずくのかしら?

 あなた馬鹿よね。今からでも高子様に乗り換えてはどう? あたくし、取りなしてあげてもよろしくてよ」

「お断りします。なにが楽しくてあんな馬鹿に」

「相変わらずですこと」

「あなた方こそ……」

 言い掛ける柊の言葉を、朔也子がパチンと扇を鳴らして止める。

「この場はわたくしに」

 一瞬何かを言い掛けた柊だったが、すぐに笑顔を浮かべながら手振りで 「どうぞ」 と示す。

「ごめんなさい」

「いや、ここはサクヤ君の場だ。俺は出喋るべきじゃない」

 申し訳なさそうな笑みを浮かべて柊を見上げていた朔也子だったが、白﨑を向き直った時にはやや険しい表情をしていた。

「戯れもたいがいになさいませ。学都桜花の後継は、我ら藤林院が決めること。高子は無論、あなたにはなんら関わりなきこと。無用の干渉は我が身を滅ぼしかねぬこと、忠告申し上げましょうぞ」

 真っ直ぐ白﨑を見る朔也子は、凜とした声で告げる。

 だが上級生の意地なのか、白﨑も負けじと声を張り上げる。

「それをやってのけるのが高子様よ!」

「生憎と高子にその権はありませぬ。二千年栄華を誇りし我ら藤林院、連ねし歴史に構築されし序列は、高子1人足掻いたところで小揺るぎ1ついたしはせぬ。

 如何に高子が優秀でも、その序列を変えることは出来ぬのです。よって高子に藤林院に掛かる事柄を変える権は一切ありぬ。

 当主たるお父様やご意見番たる大叔父様方も、確かに高子を持て余してはおりますが、高子自身、決められし事柄には従わねばならぬ身。

 ましてその序列あっての今の高子です。自ら序列を崩すことは、現在の立場を失うこと。あなたと違い、その程度のこともわからぬほど愚かではありませぬ」

「あんたは高子様を過小評価してるのよ!」

「あなたこそ、我らが藤林院を甘く見ておいでのようです。

 せっかくですからもう1つ、申し上げておきましょうぞ。高子はどう足掻いても、この朔也子より上には立てませぬ」

「高子様を馬鹿にすることは許さないわよ!」

「あなたと話していると、珍しく李緒に同意したくなってきました。

 所詮似非えせ似非えせ

 見事に的を射た言葉です。

 腹立たしいことではありますが、高子があれほどに優秀で、自分をしかと持っている理由をわたしは存じています。

 如何にあなたが高子を模そうとも、あなたに高子ほどの器はありませぬ。うわべだけを真似た、足下にも及ばぬまがい物です」

「なんですって?」

 だめ押しとばかりに挑発する朔也子に、白﨑の怒りが爆発。ついに癇癪を起こして声を荒らげる姿に、李緒が追い打ちを掛ける。

「ほうら、ご覧。感情的になるとすぐに化けの皮が剥がれる。だから似非って言うのよ!」

 勝ち誇るように高らかに笑う李緒に、朔也子は少し開いた扇子の蔭に呟きを落とす。

「本当に、李緒にしては珍しく相手をよく見ています」

「あんたは一言多いのよ!

 天宮も、さっさと帰らせなさい!」

「せっかくの褒め言葉ですのに。

 柊にまで当たらないで下さい」

 チラリと柊を見る朔也子だが、柊は、気にしていないとばかりに小さく笑みを浮かべて首をすくめてみせる。

「あたくし、これ以上下品な方や無能な方とは一緒にいたくありませんわ! 失礼!」

 所詮似非は似非、まさに的を射た言葉である。どんなに高子を尊敬し、その尊大さを真似たところで白﨑は高子にはなれない。その理由に彼女自身が気づかない限り、まがい物を演じ続けることになるだろう。ヒステリックに声を上げると、取り巻きを連れて早足に立ち去る。

 だが騒ぎはまだ終わらなかった……。

「あんたなんか、始めっからお呼びじゃないっての!」

 立ち去る白﨑の背中に罵声を浴びせるのは、もちろん李緒である。

「人の話に耳を貸さないところは李緒も同じです」

 扇子の蔭に溜息を落とす朔也子に、李緒はその耳元で怒鳴り返す。

「あんたなんてね、ちょっと可愛いからって、綺麗だからって、お金持ちだからって、頭いいからって、いい気になるんじゃないわよ!」

「それは松藤に落ちた僻みですか?」

 李緒が通うのは、同じ松藤学園でも姉妹校の涉成高校。ある場所が中央区と南区というだけでなく、偏差値などにも大きく差がある。

 そんな大きな声を出さなくても聞こえるとぼやく朔也子だが、指摘が図星だったらしく、李緒は顔を真っ赤にして一層声を張り上げる。

「うるさい! このチビ!」

「久しぶりに顔を見ましたが、高校生になっても、言っていることが子供の頃と変わりませぬ」

「あんたこそ、歳下って自覚を持ちなさいよ!」

「身長、わたくしとあまり変わりませんわよね?」

 にっこりと笑って返す朔也子に、李緒は猛然と反論する。

「すっごい違うわよ!」

 身長148㎝の朔也子と、159㎝の李緒。一緒にするなと喚き散らす李緒は、その赤くなった顔を隠すように、体当たりで人垣をかき分けて階段を駆け上がる。その地団駄を踏むような足音が、2階廊下から響いてくる。

 本当は朔也子も背が低いことを気にしている。その特徴的な髪型は、そんなコンプレックスと低さを少しでも誤魔化そうとしての努力なのだが、不思議と李緒が相手だと、自分の背の低さは気にならないのである。

「本当に変わっていませんね、子供の頃と。

 それにしても……」

 言葉半ば、ふと視線に気づいて理美を見る。

「……失礼いたしました。寮長とお話し中でございました」

「いや、まぁそうなんだけど……国兼くにかねと知り合い? ひょっとして、あいつも藤家なわけ?」

「李緒は藤林院と申しましても外戚ですし、すでに藤林院を名乗れる立場にはございません」

「それが序列ってやつかい? なんだかややこしいね」

「古い家にありがちな決まり事のようなものです。どうぞ、お気になさいませんように」

 それより……と話を続けようとした朔也子だったが、不意に鳴り出した軽い電子音に阻まれる。少し前、車中で聞いた音である。

「ちょっと失礼」

 言って柊は、上着の内ポケットから携帯電話を取り出し、長い指で軽く画面にタッチする。どうやらメールだったらしい。開いた受信メールを一読した彼は吹き出すように笑う。

「柊、如何なさいました?」

「ごめんごめん、柴から」

「執行部の?」

 横手から理美が問う。

「そ、執行部の柴周介しばしゅうすけ。竹田さんが愚痴りだして鬱陶しいから早く戻れってさ」

 寮の門前に停めた車から降りる直前、メールを送った相手が柴だったらしい。内容はおそらく桜花に到着した報告。それを柴が自治会本部の執務室で他の役員に話したため、竹田が短気を起こしたのだろう。

 そう話す柊の切れ長の目は、なぜか理美の隣にいる順子を見ていた。

「明日の入都式予行演習リハーサルの準備とかで忙しいんだろ? そりゃ戻るべきだろう」

 至極普通に常識を説く理美に、柊も 「わかってる」 と軽く応える。違う高校に通う2人は、寮長会議などですでに面識程度はあるとはいえ、この気安さはやはり同級生だからだろう。

「もう行かれるのですか?」

「御免、サクヤ君。夜にメールか電話する」

「お役目では仕方のうございます」

 残念そうな笑みを浮かべる朔也子の髪に触れた柊は、少し腰を屈め、耳元で何事か囁きクスリと笑う。打って変わって朔也子は怒ったように顔を赤らめると、手にしていた閉じた扇子で柊の額を打つ。

「もう!」

「似合ってるし、嫌いじゃないけどね。

 車、借りるよ」

「いつなりと、ご自由にお使い下さい。如月と菜摘なつみには申しつけてありますから」

「そういうわけにはいかないんだけど。

 じゃあ、またあとで」

 柊なりにけじめを付けているのだが、今日は急ぐからと、門前で待つ朔也子の車で自分の寮へと戻ることに。それを見送った朔也子は、まだほんのりと赤い顔のまま、少しばかり開いた扇子の蔭に小さく息を落とすが、すぐさまパチンと音を立てて閉じ、気を取り直したように理美を向き直る。

「お話が途中になってしまい、申し訳ございません。

 実は寮長に折り入ってお話ししたいことと申しますのは、藤の紋のことです」

「玄関の上のだろ?」

 言って理美は、玄関扉の上あたりを見る。内側からは見えないが、おそらくその当たりにあの家紋が掲げられているのだろう。

「はい、あれを掲げたのは高子たかいことお見受けいたします」

「そ。全寮長の功績を称えるとか、わけわかんない理由でね」

 つまり玄関に掲げられた藤林院寺家の家紋、三房の下がり藤みつふさのさがりふじが、高子が自分の支持者である白﨑に授けた 「虎の威」 のようなものらしい。

「もし不要であれば撤去させていただきたいと存じます」

「あれを外すってのかい?」

 朔也子の申し出は理美にとって意外だったらしい。何度か目を瞬かせる。

「はい、左様でございます。あれではまるで、藤林院が桜花に干渉しているように見えてなりませぬ」

 それが不快でならないと朔也子は言う。

 桜花島内で藤林院がその家紋を掲げるのは、別邸など所有するいくつかの場所でのみ。それも権力を誇示するのが目的ではなく、桜花自治会の自治に対し、その場所が藤林院の支配する治外法権であることを知らしめるため。

「寮には寮の自治があると伺いました。許可をいただけるのならば、費用の負担はもちろん、業者の手配など全て藤林院でさせていただきます」

「いや、あたしは別に構わないけど……」

 軽く応える理美だが、言葉半ばで順子に 「ちょっと大庭」 と止められる。

「ちゃんと寮生みんなの意見を聞いてからにしないと、またつけ込まれるわよ」

 どうせ賛成多数で可決されるだろうけれど……とも順子は笑いながら付け足す。だが手順を踏まなければ、白﨑に付ける隙を与えることは間違いない。それが面倒なのである。

「では許可が出次第、全ての手配をさせていただきます。

 撤去作業はなるべく皆様にご迷惑をお掛けしない時間を考えておりますので、改めてご相談申し上げたいと思います」

「元々問答無用で勝手に付けたんだ。問答無用で壊してしまえ」

 そう言って会話に割り込んでくるのは身長165㎝くらい。ジーパンがよく似合うスラリとしたなかなかの美人である。その顔を見た理美は 「新宮にいみや?」 と怪訝な顔をするが、すぐ間違いに気づいて訂正する。

「……の妹か」

 よく似ているから間違えると理美が言うのは彼女の同居人、新宮左近にいみやさこんの妹で、朔也子と同居することになる新宮右近にいみやうこん。この4月から朔也子と同じ私立松藤学園高等学校に入学する。

 1歳違いとはいえ、よく似た姉の左近は朝から制服を着て出掛けたきりで、昼も戻ってきていない。

「右近、お久しぶりです」

 親しげな笑みを浮かべて挨拶をする朔也子は、右近のすぐ後ろを急ぎ足で追いかけて来るもう1人の寮生にも声を掛ける。

詩子うたこ、もう着いておられたんですね」

「あたしも新宮さんも昨日。

 それよりサクヤちゃん、あの蒲団!」

 もちろんその言葉は朔也子に掛けられたのだが、脇で聞いていた理美も 「あ」 と声を漏らす。

「なに?」

 小声で尋ねる順子に、理美は 「ほら」 と記憶を手繰るように促す。

「届いたじゃん、大量に蒲団ばっかり段ボールが」

「ああ、あの高そうな羽毛蒲団」

 宅配便などで先に送られてくる新入生の荷物は、初めのうちは在寮生がそれぞれの部屋に運び入れておくのだが、そのうちに追いつかなくなり、今では玄関脇にあるロビーに積み上げられている。到着した本人にその山から探し出させ、上級生は運ぶのを手伝うだけにしたのである。

 本来、桜花学生寮は全て自室以外に私物を置くことを禁じているのだが、この方法は新入生が入寮するこの時季だけに認められた緊急措置で、どこの寮でも行われている。

 そんな中で異彩を放ったのが高級羽毛蒲団の段ボールである。それも1組ではなく何組も。ほとんどの寮生は、帰省のたびに寮から自宅に、自宅から寮に送るのが面倒なため、3年間しか使わない蒲団はレンタルしている。

 だがその段ボールにはレンタル業者ではなく、大手蒲団メーカーの社名が書かれていたからおそらく購入したものだろう。誰がそんな高い蒲団を大量に使うのかと思ったら……。

「ちゃんと届きましたでしょう?」

 キョトンとする朔也子に、詩子は 「そうじゃなくて」 ともどかしそう。右近や朔也子と同じく、この春から私立松藤学園に入学する彼女のフルネームは東海林詩子しょうじうたこ東海林要しょうじかなめの妹である。兄、要は高校生男子としては平均的な身長だが、妹の詩子は、朔也子ほどではないにしてもそれほど高くはない。先程逃げていった李緒と同じくらいだから、160㎝に少し足りていないはず。

「届いたけど、あんな高い蒲団」

 おそらく両親からも聞いていなかったのだろう。突然自分宛に届いた高級羽毛蒲団に驚きと困惑を隠せない詩子だが、朔也子には上手く伝わらないらしい。彼女は詩子の様子を勘違いする。

「お気に召しませんでしたか?」

「あれ、お兄ちゃんにも届いてるって……」

 突然届いた高級羽毛蒲団に困惑した東海林要は、同室者に申し訳なく思いつつも梱包を解いていない蒲団を部屋の隅に置いているという。

「要はすでにレンタルしているお蒲団がございますね。柊も左近もそうでしたけれど、解約出来るのだそうです。手続きも返送の手配も、全て如月にさせますのでご心配には及びません。すぐにでも要と如月に連絡いたします」

「サクヤちゃん、あのお蒲団、天宮あまみやさんや新宮さんのお姉さんにも?」

「もちろん、貴勇たかいさおにも送りました。とても心地がよくて気に入りましたから、皆でお揃いにしようと思いまして」

 みんなでお揃いの蒲団を使いたいと無邪気に話す朔也子に、理美も順子も、困惑顔の詩子に同情しつつも無害な金持ちの道楽に呆れる。

「ま、いいわよね、この程度なら」

「身内でやってくれる分には全然問題ないだろ?」

 驚かせはしたものの誰かに迷惑を掛けるわけでもなく、近しい友人や親戚に寝心地のいい蒲団で安眠を提供したいだけ。悪意の片鱗もない行為である。知らなかった詩子が困惑するのはもっともな話だが、おそらく兄妹の両親は知っていたはず。もし知らなければすぐにでも返送するよう、要から妹に連絡があったはずだ。

 藤林院寺の名を使い桜花総代の地位を手に入れた高子たかいこが、その権力を思いのままに振るい多くの生徒を傷つけたことを思えば、朔也子のしていることなど可愛いものである。

「どっちかっていうとさ、こっちの方が正しい金持ちっぽいじゃん」

「言いたいことはわかるけど、その表現、何か変じゃない?」

「新宮の蒲団、本当に軽くて寝心地いいんだよね」

 これから朔也子と右近が共同生活を送る部屋の隣で、理美が左近と共同生活を送っている。

「あんた、人のベッドで勝手に寝るの止めなさいよ」

「新宮がそんな細かいこと、気にするわけないだろ」

「するしないの問題じゃないでしょ」

 咎める順子を、理美は面倒臭そうに 「まぁまぁ」 となだめる。

 右近に促されて階段を上りかける朔也子だったが、ふと思い出したように足を止めると、そんな理美に声を掛ける。

「寮長、もう少しお伺いしたいことがありますので、後ほどお部屋に伺ってもよろしいでしょうか?」

「訊きたいこと?」

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