(6)


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 イタリアンのお店でご飯を食べて、先生の車に戻ると、くしゃっと頭を撫でられた。


「今日はちゃんと食ってたな」


 偉い偉いと小学生にでもするように撫でられて、ちょっと心外で膨れた私の頬を先生はぷにっと摘まむ。


「北川、痩せたろ」


「え」


 なにそれ、そう思った私に先生は口元にちょっと意地悪な笑みを浮かべる。


「高校生の頃の方がほっぺたぷにぷにしてそーだった」


 ぷ……ぷにぷにって! 確かに高校生の頃より体重落ちたけど。確かに顔もちょっと痩せたけど。高校生の頃だってそんなにぷにぷにしてた訳じゃないもん! 不満たっぷりに先生を睨むと、クスクス笑われた。


「さてと、帰るか」


 帰る、その単語に思わずカーナビの画面に表示されている時計を確認してしまった。時間は21時を過ぎたところ。


「明日も仕事だろ?」


「……うん」


 音もなく走り出した車のなかで、何も言えずに俯いていた。夏帆にはちゃんと聞くように言われていたけど、聞けない。結婚してるの? とか、彼女がいるのかとか、聞けない。


 聞いて、結婚してたらどうするの? 彼女が居たらどうするの? 先生、もう結婚してそうな年だよね? あの頃だって彼女いたよね?


 ご飯を一緒に食べられる。二人で話が出来る。やっと会えたのに、また会えなくなってしまうかもしれない不安に、きちんと聞かなきゃいけないと判っていても言葉にする事が出来なかった。


「北川、ちょっと喉渇いたからコンビニ寄るぞ」


 先生の声に顔を上げると、答えるより先に車はコンビニの駐車場に滑り込んでいた。


「車にいるか?」


「ううん、一緒に行く」


 先生と一緒に入ったコンビニの中は、他の車は3台程しか停まってなかったのに、ジャージ姿の大学生が10人くらいわらわらといた。仲良さそうにワイワイと話しているのを聞いた感じ、部活後の様だった。大学生のレジの列がはけるのを待ちながら何となく店内を見て回る。足を停めたのは、スイーツの棚の前だった。そこには会社のコンビニに置いてあるのと同じ、生クリームが乗ったプリンが並んでいた。


 先生、覚えてるかな? 昔、先生が買ってくれたプリンなんだけど…と先生に視線を向けた。


「食いたかったら買ってやるよ」


 先生はいつも私の考えていることをかなり的確に読んでくれるけど、珍しく外れた。それが何となく嬉しくて笑みをこぼすと、先生は私が視線で追っていたクリームプリンを手に取った。


「大学の頃、部活やサークルやってたのか?」


 問われた言葉に、気まずくなって俯いて首を横に振った。


「怖かった……から」


「そっか」


 先生の手が、くしゃっと私の頭を撫でる。


 お会計は私がお財布を出すより先に先生にあっさり一緒に済まされてしまって、結局買ってもらったプリンとお茶が私の持っているレジ袋には入っていた。


「プリン、今食うの?」

 

 クスッと笑って言われると、なんだか食い意地が張ってると言われた気がした。それは無意識に表情に出てたらしい。ククッと喉をならして笑った先生は、後部座席のドアを開けた。


「前で食うと外から丸見えだから後ろで食えば?」


 ドアまで開けてもらったら乗らない訳にもいかないし、ちょっと膨れて車に乗ると、隣に先生が乗ってきた。


 車のなかで隣に座る。運転席と助手席だと間に空間があるのに、後部座席は距離が近くて、ドキドキと鳴る心臓の音が車の中に響く気がした。それを隠したくてカサカサ音をたててプリンをレジ袋から引っ張り出す。


 この生クリームプリンは先生に買ってもらって以来、私にとって少し特別だった。ちょっと元気が無いときや不安な時、見かけるといつも買っていた。


『食って元気出しな』


 そう言ってくれた先生の声を思い出すから。先生は、昔もこれを買ってくれたこと覚えてるかな? 先生と物理実験準備室で過ごしてたのは、もう7年も前なのに、私の記憶は昨日の事のように鮮やかだった。


「ね、昔もこのプリン買ってくれたの覚えてる?」


「んなことあったっけ?」


「あったよ」


そうだっけ? と笑った先生は覚えてないなと言って、続けた。


「お前卒業して、5年もたったんだな」


 そんな気がしないと言うように、先生が小さく笑った。


「ちゃんと話すの…本当に久しぶりだったよね」


 あの頃の話に触れただけであふれそうになる涙をこっそり袖で拭って、元気な声を取り繕った。


「そうだな。3年の時は、お前来なかったしな」


 私は先生から目をそらしてうつむいた。あの頃、先生に会えなかった理由は、先生に言うのが少し辛い。本当に、悲しいくらいに、ため息と後悔と言い訳しか出てこない。


「戻りたいな……」


「戻ってどうすんだよ」


「……先生に、会いに行く。入学式まで戻って、先生に毎日会いに行く」


 私の答えに先生が、小さく笑う。


「俺、絶対追い返すぞ」


 わかってる。あんなこと無かったら先生は私をあの部屋に居させてくれなかった事位、判っていた。


「負けないもん。ホントは優しいの知ってるから負けないもん。毎日行くもん」


 何度追い返されても、負けない。絶対に途中で行くのを辞めたりなんてしない。涙があふれるのを堪えられなくて、唇をかんだ。あんなことがきっかけじゃなく先生に会えたら、どんなに良かっただろう。


「部活の先輩なんて好きにならないで……卒業するまで毎日、毎日…… 3年間、ずっと、夏休みも冬休みも、毎日先生のとこ行くもん」


 涙が止まらなくて、うずくまった私の頭を先生が撫でてくれた。


「……何で来なくなったんだ?」


 この質問をされるのが、ずっと怖かった筈なのに、静かな先生の声には咎める響きが無くて、余計に胸が痛くなる。


「……怖く……なっちゃったの…… 私、先生だけは平気だったのに。ずっと平気だったのに。なのに、急に怖くなっちゃって…… 会いに、行けなく……なっちゃった……」


 あの日先生に彼女が居るんだと判ったら、先生が男の人なんだと変に意識してしまって。男の人だと意識したら、先生の事が好きという漠然とした気持ちと生々しい記憶が重なって……それであんな夢を見たんだと思う。


「今でも、怖いか?」


 私はぶんぶんと首を横に振った。先生の手が、涙が止まらなくなってた私の頭を抱き寄せてくれる。


「ごめんな」


 耳元で聞こえた先生の優しい声に、心臓がドキンと跳ねる。


「あの時、散々悩んで、踏ん切りがつかなかった。あれ以上お前と二人で過ごして、教師と生徒で居られる自信がなかった。かといって、俺ならお前の事何とかしてやれるなんて調子いいことも、思えなかった。お前が来なくなったのは、まぁ寂しかったけど、どこかで丁度よかったと思ったのも嘘じゃない。俺のとこに来なくてもやっていけるなら、それに越したことないって…思おうとしたんだよ」


 先生の大きな手が、髪を撫でてくれて、吐息が耳にかかるくらい近くで先生の声がした。


「夜に雨降ってると、どうしてもお前の事思い出して駄目だった。独りで泣いてないか、ずっと心配だった」


 じゃぁ、私が先生の事思い出してた雨の日は、先生も私のこと思い出してくれてたの? 一昨日電話をくれたのは、雨が降っていたから?


「お前、こんなにキャラ変わるほど無理するなよ。なんかあったら連絡しろって言っただろ?」


「……て……だって」


 ずっと泣きっぱなしで、言葉が上手く出てこない。


「……が……ばったんだも……ん」


 残りの言葉は、全部嗚咽に飲み込まれた。


 頑張ったの。


 この5年間『何も』無い様に必死で頑張ったの。大学で会う男の人はとにかく怖くて。全てを打ち明けられる様な、信頼できる友達なんて出来なかった。美咲と圭ちゃんにも、道又先輩の事を話せないままどんどん疎遠になった。誰にも助けてなんていえなかった。


 あの頃どうして先生に会いに行かなかったのか、どれだけ後悔したかわからない。だけど、あの頃の私は……怖くて会いにいけなかった。もしも先生と会って、他のの人と同じように『怖い』と思ったらどうしよう、そう思うと足がすくんで会いにいけなかった。


 先生に会いたいと素直に思えるようになったのは、高校を卒業して2年も経ってからだった。それから何度も、電話を掛けようとしたけれど…掛けられなかった。あの頃のことを謝って、言い訳をしたって何も意味がないと言うことだけは判っていたから。


 2年も経ったら先生ももう私のことなんて忘れてるんじゃないかとか、私が知っている番号もアドレスも繋がらないかもしれないとか、私の知らない先生の時間を考えたら、電話をかけるのは怖かった。私の好きの気持ちの行き場がなくなってしまうのが怖かった。行き場を失くしてしまうなら高校の頃の優しい先生のまま、記憶の中の先生に側に居てもらったほうがいいんじゃないかって。


 そんな事を思ってしまうとますます電話なんて掛けられなくなって、時間ばかりが過ぎていった。先生を思い出すたびに沸き起こる会いたい気持ちと恋しさは、いつも不安と臆病な心に押しつぶされた。


 一度決壊した涙は止め処なく溢れてしまって、頬を伝って落ちては抱きしめてくれている先生のスーツとワイシャツに染み込んでいく。呼吸すらままならない程に泣きじゃくる私の背中を、先生の手が優しく撫でてくれていた。


 先生は、私が泣いた時はもいつも急かしたりしないで泣き止むまで待っててくれる。


 どんなに、時間がかかっても。

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