(5)

 仕事中、画面の右下でぴこんっと社内メールのポップアップが跳ねる。表示されている差出人は夏帆だった。


『昨夜どうだったの?』


 どうだった? そう聞かれると、私自身もなんだかよくわからない。昔と場所が変わっただけで、私と先生の関係は何ら変わらないような気もする。


『普通にご飯食べて、ちょっと飲んで家まで送ってもらった』


 当たり障りのない事実だけを返信をして暫くすると、メールが返ってくる。


『それだけ?』


 それだけ? と問われると、ますますよく判らない。昨夜は高校生の頃よりもずっと距離が近い気がした。一度も言ってもらったことのなかった言葉ももらった。だけど、だからと言って先生との関係が何か変わったのかと言われるとそれも違う気がする。


『よくわかんない』


『ランチ行こうか』

  

 すぐに返ってきたメールに、短く返事をしてフロアの向こうにいる夏帆を見ると、遠目に目があった。


------


「なにそれ、じゃあ今日も会うの?」


「わかんない。連絡寄越せって言われたけど、会う……のかな?」


 昨夜のことをざっくりと話したけれど、夏帆はちょっと流れをつかめていない表情をした。昨夜先生が言ったのは、仕事終わったら連絡寄越せってだけで、連絡したらどうするかなんて話はしていない。


「えー、でもその流れは…連絡したら会うんじゃないの?」


「そう…かなぁ?」


「私なら2日連続デートを期待ちゃう。てか、結婚したかは聞いたの?」


「……ううん、聞けなかった」


「えぇ、そこ絶対聞かなきゃダメじゃん。じゃあ好かれてるかな?って感触は?」


「……わかんない」


 夏帆はますます微妙そうに首をかしげる。


「判んないって……。ご飯食べて何話したのよ」


 何と言われても、何って言うほどたいした話はしていない……と思う。元々、私と先生の会話は当たり障りのない事がほとんどで、色っぽい会話とは程遠いものだったし。先生は昔からちょっと期待しちゃうけど、イマイチ掴めない人だった。


「だって結婚した?とかどんな顔で聞いたら良いのかわかんないし……。全然、そういう雰囲気の会話にもならないし」


 煮え切らない私の答えを、夏帆が「ねぇ」と遮った。


「翠はさ、そもそもその人の事、好きなの?」


 先生の事を好きかどうか。その問いは高校生の頃に何度も何度も自問自答した。その答えは今も、変わっていない。


「うん、好き」


 私の答えに夏帆は納得したように微笑んだ。


「昔は男の人、平気だったの?」


「うん。男の人ダメになったの高1の終わり頃からかな。その前は、一応付き合っていた人が居たこともあったんだけど……」


 本当に短い間だったけれど、確かに私は道又先輩と付き合っていた。幸せとかそう言うのとは全く無縁だったけれど。


「そっか。その人と何かあった? 翠の男嫌いって、女子校育ちで男慣れしてないとかそういうのとかと全く別物っぽいから気になってたんだけど」


「……うん、まぁ、いろいろと」


 先輩との交際について夏帆に話す事は出来なくて、言葉を濁してしまった私に夏帆は複雑そうな表情をしたもののそれ以上問い詰めては来なかった。



-----



 仕事を終えて、会社を出てから先生にメールを送る。夏帆には、結婚してるかはきちんと確認するように言われていた。間違っても何も確認しないまま浮気相手みたいなものになっちゃだめだよ、ときっちり念を押された。


 私の記憶の中の先生は、浮気とかしそうにない。だけど、先生の歳や夏帆に言われたことを考えるとどうしても不安に駆られてしまう。浮気しそうにないと思うのだって、私の勝手なイメージに過ぎないわけだし。


 先生はどうして5年も経った今、連絡をくれたんだろう。今、私は先生にとってなんなんだろう。教え子とは……そもそも違うよね。ちょっと思い出しただけ?


 学校の近くの駅の西口にあるバスプールと一般乗り降り用のロータリーに向かう階段を降りる足取りは、どうしても重くなってしまっていた。


 私が6年前に、先生の車から降りた場所。その日以来先生と会わなくなった、高校時代に最後に先生と話した場所。


 それが、ここ。


 あの時、また明日って言って先生の車を降りたんだっけ……。会いに行けなくなるなんて、自分でも思ってなかった。昨日は昔のことを私も先生も何も話さなかったけど、先生はあの時どう思ってたんだろう……。


 階段を降りきってぼんやりとロータリーに停まっている車を見つめるけれど、先生の車はまだ見当たらない。もしかして車変わってるかな? 最後に先生の車に乗ったのは、6年前。車を乗り替えていてもおかしくは無い。そう思いながらキョロキョロしながら歩く。


「北川、こっち」


 先生の声がして顔を向けると、近くの黒い車に先生が乗っていた。何気なく、昔していたように歩み寄った先生の車の後部座席のドアを開ける。


「なんでそっちなんだよ。前乗れよ」


 飛んできた先生の声に、一瞬思考が停止した。昔は前に乗るなって、言われたからずっと後ろに乗っていた。前に座っていいという事の意味を図りかねて手を止めてしまった私に先生が呆れたような口調で言う。


「別にもう生徒じゃないんだから普通に乗れよ。飯、なにか食いたものある?」


 生徒じゃないんだから。その言葉に、じゃあ先生と私は、どんな関係…? と湧いた疑問は口に出せなかった。それを口に出して会えなくなるのが怖かったから。


「なんでも、良いです」


 一番無難なようで一番微妙な返事だとは判っていたけれど、でも何を食べたいとかそんなことまで頭が回らなかった。私がシートベルトをはめるカチンと小さな音が車内に響くのを待って、車が走り出した。


「なんでもいいってなぁ…… 腹は? 減ってる?」


「そこそこ…です」


 そう答えはしたけれど、本当は緊張しててすいてるのかすいていないのかよくわからない。昨日もだけど、先生とご飯というシチュエーションは食欲なんて感じなくなる程に私の神経を昂らせる。


「お前、普段ちゃんと食ってんの? 昨日もろくに食ってなかったけど」


「食べてる、と思う」


 普段はともかく、昨夜は全然食べれなかった自覚はある。むしろ、先生がちゃんと私が食べているかどうかを見ていることの方に少し驚いていた。私は、先生がどのくらい食べてたかとか覚えてないのに。昨日の記憶は、電車の中で抱き止めて貰った時にリセットされてしまったように、電車に乗る前の事が曖昧になってしまっていた。


「そ? ならいいけど」


 それだけ言って、会話が途切れる。訪れた無言の時間に落ち着かなくて、私は口をひらいた。


「先生、車替えたんだね」


「あぁ、去年替えた」


 先生の車は、私が知っていた黒のコンパクトカーから黒のハイブリッドカーに変わっていた。


「静かだね」


 こうして乗ってみて気が付いたけれど、普通の車と違って、エンジンの音が殆どしなかった。


「ん、燃費すげーいい。お前免許もってんの?」


「持ってるけど、全然運転してないからペーパー」


 私の答えに先生はクスリと笑う。


「だよな。お前の運転下手そうだし」


「そこまで酷くないもん」


 膨れて言うとチラリと先生が視線だけ寄越す。


「んじゃ、今度運転してみ?」


「……え?」


「夜は怖いだろうから昼間かな」


 それは、お父さんの車を運転してみろってこと? それとも、昼間に会うって事? 車を運転している先生の横顔をチラリと見たけれど、先生が考えていることは伺い知ることは出来なかった。

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