(13)


 暫くたっても大輔の影はドアの曇りガラスから消えずにそこにあった。翠が出て行くまで待っているつもりなのだろう。気持ちはどんどん追い込まれて焦るばかりで、頭は全然働かなくて、どうしたら良いのかは何も思いつかなかった。


 扉の向こうから話し声が聞えて、翠は耳をそばだてた。一つは大輔の声。そしてもう一つは、新島の声だった。


 新島先生はこの部屋の鍵を持っている。大輔から事情を聞けば、新島が鍵を開けざるを得ないのは判りきっていた。


 先生お願い。お願いだから助けて…… 渡辺君の事、この部屋に入れないで……


 言葉に出来ない願いを心の中で唱えながら、翠はぎゅっと目をきつく瞑った。案の定、ガチャガチャという鍵の音がして、すぐに準備室のドアが開いた。


「ほら、誰もいないぞ」


 最初に響いたのは新島の冷めた声。


「そ、そんなはず……」


 新島の声が聞こえて、鍵を開けられると思ってとっさに隠れたのは、いつも使っている実験台の下だった。入り口の反対側だから奥まで入ってきたり、屈んで覗いたりしない限り見えないはずだ。


 部屋の中に入ってきて近づいてくる足音は、一つ。大輔なのか新島なのか判らないその足音を、翠は息を殺して聞いていた。そして、翠のいる実験台の前で見慣れたスニーカーが立ち止まる。


 翠は零れそうになった安堵の吐息を必死に殺して、スニーカーを見つめていた。


「向こうから出たんじゃないか? 廊下の非常口開けたら外だぞ」


「あぁ……」


 新島はもう一つある廊下に面したドアを指して言った様だった。


「事情は知らんがここには居ないし、電話ででも話すんだな。もう下校時刻は過ぎてるんだ、さっさと帰れ」


 何か応えたらしい大輔の声はよく聞き取ることが出来なかったけれど、恐らく帰ったのだろう。それでも翠は実験台の下にうずくまったまま動けなかった。


「ほんと馬鹿だな、お前。無理なら無理って最初から言えって何度も言っただろ?」


 いつもと変わらない新島の声がして、ティッシュが箱ごと降って来た。声を上げて泣き出した翠に、新島はそれ以上何も言わなかった。


 何度も何度も翠の足元にある鞄の中で携帯が鳴っていた。見なくても誰からの着信か想像がついて、翠はずっと携帯に手を触れようともしていなかった。


 見るの……怖い。


 翠が漸く実験台の下から這い出した時には新島の姿は物理実験準備室に無かった。だけど、翠が机の上に置いておいた手紙は無くなっていた。何一つ会話をしていないのが寂しかった。何度目か判らないけど鼻をかんで、すでに腫れぼったくなっている目を擦る。


 散々走って、更に泣いたせいか喉がカラカラで、何か飲もうと猫型冷温庫を開けると中には水とコーヒーと紙パックのジュースが入っていた。いつもならジュースを選ぶところだけど今はジュースなんて気分ではなくて、翠は水を取り出して冷温庫を閉めて、撫で撫でと猫型冷温庫の頭を撫でた。


「せんせ、どこいっちゃったんだろうねー。猫ちゃん」


 翠がぼんやりしながら水を飲んでいると、新島が戻って来た。


「せんせ、おかえり」


「やっと出てきたか」


 泣きはらした顔の翠に新島は苦笑して、翠の目の前にぽんっとコンビニの袋を放ってきた。


「好きなの食いな」


 袋の中を覗き込むと、パンがいくつか入っていた。そう言えば、午前で終わりだったからお昼ご飯を食べていない。あまりお腹は空いていない気もするけど、でもなんとなく空いているような気もする。


「ありがと……先生は?」


「もう食った」


 さらっと言われて翠はコンビニの袋の中を改めて見た。中には調理パンとチョコレートデニッシュやメロンパンが入っていた。


「……せんせ、チョコとか食べるの?」


 普段甘いものを食べているところを殆ど見かけない新島が、わざわざチョコデニッシュを買って食べるのは想像がつかなかった。


「たまにはな。別に食って良いぞ」


「ふぅん……」


 翠は少し残念な気分でチョコデニッシュの袋を開けた。翠の為に買ってきてくれたのかと思ったのに。新島はジュースだってミルクティーだってカフェオレだって飲まない。翠の為に買って置いてくれていると思っていたのに。


 そんな翠の思考を携帯電話の振動音が遮った。


 翠は漸く鞄の中から携帯を引っ張り出して、はぁ…とため息をつく。判りきっていたけれど携帯電話には大輔からの着信がズラリと並んでいた。


「一言位は返してやれ」


 翠は新島を見上げた。


「なんも応答が無いと、余計にムキになるし、頭も冷えない。明日にでも連絡するとか言っときゃとりあえず治まるさ」


「そういうもの?」


 新島は翠を見てニヤリと笑った。


「渡辺が大人ならな」


 新島に言われた通り、明日連絡するからとメールをしたら、大輔からのメールと着信は止んだ。その後、夜まで何をするわけでなくただぼんやりと物理実験準備室にいて、久しぶりに新島に家の近くまで送って貰った。


 そして、夕御飯も食べずに、家に帰るなり一番風呂を堪能している翠だった。ペットボトルの水をゴクゴク飲んで、少しでも腫れぼったい瞼が目立たなくなるように顔をマッサージして、手が止まるたびにため息をついた。


 明日渡辺君になんて事情を説明したらいいのか、そればかりが頭の中を駆け巡っていた。


「っていうか…、いい加減部活辞めたってお母さんに言わないと」


 辞めたって言ったら、なんか聞かれるかな……? 中学からずっと大好きで続けていた部活だ。あんなことが無かったら絶対にやめなかったと思うから尚更、急に辞めて怪しまれないわけがないような気がした。どうしてこんなにも考えないといけない事ばかりなんだろう。


 何十回目かわからない溜め息をつきながら翠が部屋に戻ると、新着メールの存在を主張した携帯が迎えてくれた。


 一抹の期待と不安を胸に携帯を開けて、翠は残念そうに息をついた。メールは美咲からだった。


『渡辺から翠の様子が変ってメールきたけど、どうかした? 大丈夫?』


 大丈夫? と聞かれても翠はどう返信したものか考えあぐねていた。大丈夫じゃない。だからと言って大丈夫じゃない理由も言えない。


 なんか……、なんか考えるのめんどくさくなってきちゃった……


 先生が手紙見てくれたかもわかんないし。


 翠は携帯を枕元にポイッと放ってベッドに転がった。


 翠がHR直後に置いていった手紙は無くなっていたけれど、それを新島がちゃんと見たのか、それにどんな対応をするつもりなのか、判らなかった。別れ際に聞こうと思っていたのに、いざ車に乗ったら大輔にどう話そうかという事が頭をぐるぐると巡って、すっかり聞きそびれてしまったのだ。 


「お姉ー、プリン食べるー?」


 階下からのんきな藍の声が響いてきて、プリンの言葉にちょっと心が浮かれた。


 おなか、少しすいてきたかも。


 藍に返事をする元気はまだなかったけれど、ベッドから重たい身体を起こす。鏡を見るとお風呂でのマッサージが効いたのか、目の腫れはかなり引いていた。これなら母親にも妹にも怪しまれないだろう。とりあえず、考えたくないことは今は考えない事にしよう。翠はそう思いながら部屋を出た。


 プリンを食べて部屋に戻ってきた翠は届いていたメールに思わず笑みを溢して携帯を抱き締めた。


『用があるなら電話にしろ。新島』


 声が聞こえてきそうなほど新島らしくて素っ気ないメールなのに、なぜか凄く嬉しくて携帯を抱き締めたまま翠はベッドにダイブした。

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