(12)


 しょんぼりとしながら階段を上って翠が教室に戻ると、クラスの殆どはもう帰っていた。大輔を、待たせている。その現実がまた胸にのしかかってきた。翠はため息をついて鞄を持って、昇降口とは逆、大輔の教室のあるほうへ足を向けた。


「北川久しぶりじゃん、どしたの?」


 2年7組の教室を覗き込んだ翠に声を掛けてきたのは、バドミントン部で一緒だった矢幡だった。


 「矢幡……久しぶり。あのさ、渡辺君……」


 渡辺君いる?と聞こうとした翠の耳に、明るい大輔の声が届いた。


「翠」


「え?なにお前ら付き合ってんの?」


「え……」


 翠は答えに詰まって矢幡からも大輔からも視線をそらしてしまったけれど、翠の様子を気にせずに大輔はちょっと照れくさそうに答えた。


「へー、意外。まぁ、仲良くやんな。

北川もさ、たまには部活遊びに来なよ。いきなり運動やめっと太るぜ?」


 教室にはもう2人男子生徒が残っていたけれど、大輔を軽く冷やかして、矢幅と一緒にさっさと帰っていった。誰も居なくなった教室の中で、漸く大輔が口を開いた。


「翠、部活辞めてたの?」


「え…ええと…」


 翠はすぐには答えられずに視線を泳がせた。


「昨日…部活って言ってた…よね?」


 大輔は翠から視線をそらさずに告げる。


「嘘、ついてた?」


「嘘じゃない…嘘じゃなくて…」


「嘘じゃなくて?」


 放課後の誰も居ない教室、その状況が翠の精神を追い詰めた。


 じっと真剣に見つめてくる大輔の視線が怖かった。確かに部活を辞めたのを誰にも言ってなかった、だけどそれは嘘をつきたかったわけじゃない。


 その理由はどうしてもまだ口に出来ない。誰にも言いたくない。だから言えなかった。


 無理……やだ……もう無理……


 足がガクガクと震えて、立っているのすらままならなくなりそうだった。


「翠?どうしたの?」


 明らかに様子がおかしい翠の肩に大輔は手をかけた。


「触らないで!!」


 手が肩に触れるなり、ビクッと肩を震わせて叫んだ翠に大輔は驚いた様子で翠の肩から手を離した。


「そんな叫ぶような…」


 叫んだりそんな怖がられたりするような事していない。大輔の言いたい事はわかる、その通りだ。普通なら、普通の女の子なら付き合っている人に触られただけでこんなに取り乱したりしない。


 でも、今の翠は違った。


 ヤダ、ヤダ、ヤダ、触らないで。


 頭の中を締めるのはその感情だけ。


「翠」


 大輔に手を握られて、翠は身震いした。


「…なして…お願い…放して」


 だけど、大輔の手は緩まなかった。


「…翠、去年の冬に彼氏居たの美咲から聞いてた。別れたころから様子がちょっと変だってのも聞いた」


 なんで? あたし、美咲に何も言ってない。美咲、あたしが先輩に無理やりされた事知ってた…? やだ。意味わかんない。


 翠の頭はもはやパニックに陥っていた。


「翠、俺の事…怖がらないで欲しい」


 大輔の手は、翠の手をしっかり握っていて、もう一方の手が翠の腕を掴んでいた。


 話したくなんて無い、思い出したくなんて無い。翠は無意識に首を横に振っていた。


 脚がガタガタ震えて、立っているのも辛い。腕を掴んでいた大輔の手に強く引かれて大輔に抱き締められた。


「俺のこと怖がるな」


 腰に添えられた手に力が篭って、自然と大輔の腰と翠の腰が密着する。


 ヤダ…ヤダ、怖い…


 この後を知ってる。この続きを知ってる。


「翠が怖がる事しないから」


 そんなのもうしてる…。


 放して。


 怖いから、お願いだから放して…。


「お願い…放して…」


頭はとっくにショートして何も考えられなくなっていて、「放して」と何度も繰り返すのが精一杯だった。


だけど、大輔の腕は緩まない。


「好きだ、翠。

放したくない。前のやつのこと忘れて、俺と付き合うって決めてくれたんだろ?」


 そんなの……そんなの、忘れられたら、こんなにならない。誰よりも忘れたいのは翠自身なのに。それでも、道又の事を怖くて忘れられない。


「放して!!」


 思い切り腕を振り払って、大輔を突き飛ばして翠は教室近くの階段を駆け下りた。


「翠!!」


 そのまま、人気の無い一年生の教室の前を駆け抜けようとした翠の腕を大輔が掴んだ。


「何で逃げるんだよ」


 思い切り抱き寄せられて、唇を塞がれた。


「!!」


 一瞬、思考が止まった。


 翠が大人しくなったからか、一度唇を離して、もう一度今度は翠の唇を割って舌が入ってくる。その行為に嫌悪感しか持っていなくて、翠は思い切り大輔の舌を噛んでいた。


「っ…!!」


 痛みに顔をしかめて大輔の腕が緩んだ隙に、大輔を振り切って翠は一年生の教室前を駆け抜けた。


 どこか逃げれる場所。隠れる場所。絶対に……助けてくれる場所。


 そんな場所、学校でひとつしか知らなかった。


 翠は北校舎への渡り廊下を駆け抜けて、オートロックの非常ドアをばたんと閉めた。これで大輔は同じドアからは入って来ることは出来なくなった。


「翠!」


 聞こえてきた声があまりにもクリアで、ドキッとしてみると、生物室の窓が開いていた。


 慌てて理系特殊教室が並ぶの廊下を駆け抜けて、一番奥にある物理実験室の更に奥、物理実験準備室に駆け込んで内鍵をかけた。


 ここの廊下側の入り口は、いつも鍵がかかってる。この部屋の鍵は、新島しかもって無い。


 だから……だからもう大丈夫……


 肩で息をしながら翠はドアに寄りかかった。今まで走ってこられたのが不思議なくらい、足の力が一気に抜けてその場に座り込んでしまう。


「翠…翠!!ごめん。悪かったよ。

翠…もうしないから…もうしないから開けて」


 大輔の声が聞こえても、翠は膝を抱えてたまま、立ち上がることもできなかった。ぼろぼろと涙が零れて止まらなかった。


 新島はまだ来ていないのか、翠が置いた手紙がそのまま机の上に残っていた。

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