Digital Masquerade

OSAMU

第1話 『前奏~仮面舞踏会前夜祭~』 

―僕は背景が存在しない白亜の空間に立ち尽くしている。

 静寂と云う形容をも超越した完全なる無音の世界。足元の高低差も判然とせず、四方を見渡しても方角や面積が推量出来ない程に広大な空間の下。そんな無限大の様な空間の中で僕は独り、何をしようとしているのか?

<何を、しようとしているのか……?>

 何かの映像を観賞する様に、客観を通して僕が僕自身の背後を眺め遣っている、と云う瞬間が厳然と在る。しかしその<僕>はそんな視点や意識の混在に疑問や違和感を呈しない侭で、何気無く歩を進めて続けている様子なのだ。

 此処には時間軸が無い。丸で無重力の小宇宙空間……。余りにも空虚で森閑とした、感触の希薄な夢幻の世界……。

<完結した永遠の中で、当所も無く歩き続けるのは何故だ?>

<君は何処に行こうとしているんだ?>

<否、そもそも君は何者だ? 君は僕なのか? 僕は君なのか?>

 主観と客観の視点が錯綜する中で、僕は歩み続ける自身へと矢継ぎ早に問い掛ける。しかしその<僕>は口を噤んだ様に一向として答えはしない。何処か無感情な様相で、薇を捲かれた陳腐な機械人形の如く愚直な迄の前進をし続けるのだ。

 そしてその中途、<僕>の行進を立ち塞ぐ様に眼前へ忽然と何者かの影が出現した。空白に満ちた世界で突如煙の様に噴出した幻影……。しかし、歩行者である<僕>はその現前の仕方へも眉一つ吊り上げる事は無い。潜在意識下に住まっているらしい僕は、この無限空間で初めて他人と邂逅が果たせた事実こそを最優先に驚喜し、何事か相手に語り掛けようとする。

……しかし、声が出ない。無音の世界での仕組みだからなのか、自身では発音している心算でありながら、咽喉が塞がれたかの様に頑として発声が効かないのだ。一転して惑乱した僕は、口真似や表情、身振り手振りで必死に表現を図ろうと試みる。だが顔面は肉付きの仮面で固着されたかの様で、一筋の変化も不可能で在る事を即座に自覚させられた。

 何故だ?

 話し掛けたい。話し方が解らない。

 微笑み掛けたい。笑い方が解らない。

 更なる困惑が募り不様な程に取乱した僕は、その所作にも全くの無反応を保つ眼前の相手へと縋る様な視線で見遣る。しかし静観する相手はそれでも微動だにしない。それもその筈なのか……、僕は眼を剥いた。

 何と相手には頭部は存在しても、顔が見受けられないのだ……!意思を表す事も、会話も不可能な顔面……。本来所定の位置で個々に収まっている筈の目鼻、口と云った肉体的部位が一切存在していない、完成前の人形の様な無面……。不測の事態に思わず僕は畏怖の悲鳴を挙げてしまった。しかし塞がれた咽喉のせいかその悲鳴は殆ど反響する事も無い。

静謐な空間は残響をしっとりと吸収し、何事も無かったかの様に世界は再度永遠の虚無で満たされる。

 動悸が収まらない僕は、その場で必死に自身の外貌を手指で弄り始めた。僕も彼と同様に、顔無しの無機質な木偶人形に成り変っているのだろうか?

―怖い、怖い、怖い。一体の人形に成り果て、この虚無の世界に取り込まれて仕舞うなんて……。僕は顔が欲しい、声を出したい、無感情な人形には成りたくない。助けて、助けて、助けてくれ……!!



―悪夢はいつもここで醒める。


             *


『入場受付・~仮面舞踏会へようこそ~』


―ようこそ、電脳仕掛けの仮面舞踏会へ!


 若し貴方がこの舞踏会へ参加したければ、事前に入場資格を得る為の原則と知識をお教えしよう。

……古来、仮面舞踏会とは参加者達が寓話的且つ宗教的な仮面と衣裳を装着し、典麗なる行進や舞踏を宮廷内で執り行っていた催しが起源とされる。

―しかしこの一連に於ける舞踏文化が隆盛を極め公的な祭典迄へと認知されるに至った際、時の権勢者達は一抹の畏怖を覚え禁止令をも発布したと言う。

 曰く、『仮面舞踏会は風紀を紊乱させる反道徳的性を秘め、社会的悪影響の元凶に成り得る』と……。その潮流を受け、為政者のみならず各界でも公然たる批難は続出し、各地でも反対運動が散発し衝突が繰り返された……。

―それでは何故、仮面舞踏会は物議を醸し社会全般から危険視されたのか……? その社交舞踏文化の何処に、人心を撹乱してしまう程の蟲惑的な魅力が孕まれているのだろう……?

 身分素性、容姿すら仮面の基では白紙に戻され、会場内の参加者達は誰もが平等に扱われる。愛好者達はきっと自身に於ける出自、家庭環境、社会的立場や役割等、人生に纏わる柵や鬱屈、劣等感から解放される時間を希求していたのではないだろうか?

 仮面はどんな人間も記号化し、個人性を喪失させる。相互の正体を秘匿する事は、過去の隠蔽、捏造をも可能にせしめるのだ。舞踏会への参加者達は、そんな現実逃避がささやかな一時では物足りなくなり、現実へ回帰する事そのものを躊躇し始めた……。

そんな変身願望に囚われた民草が増殖すれば、社会機能全体が麻痺し政治経済が立ち行かなくなる事態すら想像される。時の権力者達はそんな情勢に危惧を感じ、強制的な禁止法すら創案したのではないだろうか……?

―そう、人間は何者かへなりたがる。人間は自分と言う存在や状態から脱却したいと、秘密裏に渇望する。仮面舞踏会の参加者達は何者かを演じられる事での昂揚、何者でも無くなりあらゆる束縛から解放される事への安堵を得て、隠れ家から踏み出る意志を萎えさせられたに違いない。

―そして望むのならば、案内役たる私は飛躍的発展を遂げた未来で開催される、電脳で仕組まれた仮面舞踏会の祭典へ貴方を導こう……! 豪華絢爛たる退廃の宴、享楽と夢幻の一夜へと酔い痴れて頂く為に……!!

―それでは先ず、この仮面舞踏会の起源から解説を始めよう……。


 この社会が構築され始めたのは、悠久の太古である二千年代……。当世、世界全体の経済社会は混迷を極めていたと云う。三流喜劇と揶揄された、傲慢と欺瞞で腐敗された悪政。

メディアに於ける情報操作の潮流を盲信し、主体性も無く資本社会の飼い犬に成り下がった一般市民達……。

 当時は、退廃が悪疫の如く蔓延し人心を変質させていた。そして取分け人間の内奥へと侵食し、どこ迄も反吐の如く癒着している社会問題が存在した。

―それは同じ人間。有態に表現すればコミュニケーションだ。当時、社会全体で対人恐怖症、視線恐怖症等の精神的病理を訴える患者達は爆発的に急増していた。本来、悪因を総括、断定するには複雑過多であるのが生物の精神構造と云うものだろう……。しかしメディア全般は、それ等病弊の主因とは社会の急進的な近代化が人心を圧迫している、と云った見解を実しやかに喧伝し続けた。そして、その論旨は容易く固定観念として世間へも浸透して行く……。

 資本主義社会を引鉄として苛烈な社会競争が発生し、国家単位では地球の存亡が危険視される程の破壊力を搭載した近代兵器が氾濫。散発する戦争、テロ。生き馬の眼を抜く程の経済大戦、物価の高騰、食糧危機、自然破壊、厳罰的且つ画一志向な社会教育、普及したテクノロジーの利便性から希薄に陥り行く人間の生存感覚……。

 識者に依っては、一方論では在るがこんな指摘を為していた。巷で横行する異常犯罪や社会問題は、上述の要因が民衆を刺激しつつ、その苦境からの逃避として向けられた高度なゲームやアニメ、インターネットと言った二次元的文化に責任の所在が有ると。

 過剰な暴力や猟奇的、性的場面が悪影響源と総括され、これ等の娯楽が若者の現実感を空虚にさせ犯罪を助長していると云う。他に電子通信技術が飛躍的進化を遂げ普及するが、匿名的遣り取りもまた人間関係の本質から逸脱しており実際的ではないと危険視した。

 現実逃避の経路を創出している二次元文化。それに依って非現実や妄想を現実世界と混同、又は判別出来ぬ若者達が増加し、問題を群発させる……。確たる根拠も無い抽象論だったが、スケープゴートを渇望している大衆はそんな責任転嫁を図れる対象の出現に喜悦した。或る種のテクノロジー、サブカルチャーは槍玉に挙げられ、規制される方向へと助長して行ったのだ。

勿論、病院等の療養施設では患者に対して心療療法、自己催眠、薬剤投与、整形手術、カウンセリング等の療法を施行してはいた。

―だが。具体的な解決策は発見され得ない侭、精神病患者数は鼠の繁殖を想起させる如く増加の一途を辿り、遂には極点に到達する。一般的に健常者を正常に対人関係を図れる者と定義するならば、精神病患者数がその正常層を超越してしまったのだ……。

 ここで逆転現象が発生する。偏頗で在った筈の精神病患者達だが、民主社会に於いては多数派こそが勝者……。

―つまり、対人恐怖こそがこの世界の常識に変貌してしまったのだ! 社会に於いて『常識』とは『掟』と同義語に成る事が暗黙の了解でもある。こうして、本来正常と云う範疇に安住していた人間達は自然淘汰されて行った。

 当時に於ける人間の交流手段は、極端に限定的なものへ塑性変形される。電話、PC、掲示板、メール、チャット……。オンライン機器の通信等で二次元の画面上でしか意思の疎通を図れない者達が、一時期は偏執と讒謗されるも何時しか市民権を獲得してしまったのだ。

……想像して見て欲しい。

―貴方は不意に外出を試みる。しかし本来ならば膨大な人口、人種が坩堝と化し犇めき合っている筈の市街下で、どれだけ歩を重ね様とも道行く先は全くの無人なのだ。

それは多忙なビジネスマン達で混雑する筈の経済都市だろうと、活力有る若者達が横溢する筈の繁華街だろうと、婦人達が井戸端会議で嬉々としている筈の住宅街だろうと、子供達に取って通学が義務である筈の学校だろうと、世捨て人が掃き溜まっている筈の路地裏で在ろうと……。

……市民総勢で蟄居し、外界との接触を断絶しているのだから。


 引き篭もり症候群の世界。


 無音の世界。


……無論、正常から異常の烙印を捺された層も漫然と時代の潮流に平伏した訳では無かった。生産性が崩壊し緩慢に麻痺して行く社会機能を回復させようと、政府が或る打開策を実施したのだった……。


―さあ、そろそろこの扉を潜る準備は出来たかな?




             *



 ・第一章・『仮面舞踏会開催~招かれざる主賓~』


―【新・改訂六法全書】―

 第1章―国民の権利及び義務―

 第1条〔基本的人権の享有・本質〕

 全て国民は、個人として尊重される。生命、自由、幸福追及に対する国民の権利に付いては公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で最大の尊重をされる。


 第2条〔装着の義務〕

 国民は政府から支給されるヘッドギアを装着し、社会的生活を送る事を義務とする。義務であるヘッドギアの装着を怠った者、素顔を公共の場面で晒した者には、50年以上の禁錮を処する。


 ・〔財産権〕

 ヘッドギアは公営の支給品以外の着用を禁ずる。正規品以外のヘッドギアの装着、又、正規品の構造分析、違法改造を厳重に禁止する。この条例に抵触する者は禁錮30年~50年か、三千万以下の罰金に処する。


 ・刑罰〔個人の尊重〕

 国民は全ての基本的人権の享有を妨げられない。他者のヘッドギアを強奪、損壊と言った個人保護侵害行為を働いた者には、それが故意、事故に関わらず無期懲役か死罪を処する。

 発行所/『マスコリーダ出版』




―…………―。



 徐に手に取った雑誌や書籍も、結局感興が赴かず定位置に戻した。元々立読みだと気が削がれる上に、ディスプレイ画面が透明な壁の様に介在して読書へ没入出来ない錯覚が煩わしいのだ。

 無愛想な店員の、無機質で無感情な「有難う御座いました」と言う儀礼的な挨拶を余所に、どこか心ここに在らずと云った風情で僕は本屋での素見しを終えようと自動扉へ脚を踏み出した。

(口先だけで簡素な空気を吐き出している様なものだ―)

 そんな風に内心で店員の怠惰な気質を誹謗しつつ、寝起きの様に漫然としていた僕の意識は不意に正気へと覚醒される。自動扉が瞬間的に開かれた途端、眼前に広がった雑踏と、耳朶を打つ程の喧騒に思わずたじろいだのだ。黒山の人だかり、と形容すべき膨大な通行人の混雑……。閑散としていた書店と外界は、丸で陰陽の如く真逆の世界を展開していた。


 そう、今日からパレードが始まる。僕、僕の名前は国籍番号742617000027……。だけど、出生時に国から割り振られた名前なんて便宜的記号に過ぎない。だからこんな無機質な記号の羅列は記憶してくれなくても結構だ。 

 明確な動機も展望も持たない侭で入学した中流の大学も休講、手持ち無沙汰で索然とした昼下がり―。休講の為漫然と街頭へと繰り出し、不意に市街全体から揚がる熱気を感じる迄、僕は今日が大規模な祝祭だと言う事にも丸で無関心だった。そう言えば自分の友人やら恋人から、口々に遊覧へ誘われた様な曖昧な記憶は在る。しかし人混みが苦手な自分は、最初から食指が動かなかったのだ。我ながら冷淡な事に、友人達へは未だしも恋人相手の誘い迄も無碍に断ってしまった……。

「私と一緒では気乗りしないの……? 楽しくないの……?」

 彼女が気色ばんだ台詞を、半ば独り言の様に呟いた事は明確に憶えている。因みに、僕は最近毎月の貯金から捻出して、交際一周年を記念する高額な指輪を彼女へと贈ったばかりだった。

 その指輪は虹を想起させる様に淡く儚い七色の光彩を放つ、特殊な性質を帯びた天然鉱石で設えられた逸品……。そう、そんな高額な記念指輪を贈られたばかりの彼女が、急に素気無くなった僕を訝る事も無理は無い。

只、ここ最近の自分自身でも把握し切れない内省的な精神状態を整理したく、一旦孤独な環境に身を投じたいと僕は望み始めていた。

 そして、そのやり取りの前後から両者共無く連絡は皆無。気不味い関係の侭今日に至る……。しかし如何ともし難く、最近の僕は閑談や社交に費やすだけの気力が欠乏している。

それ以上に、外部の生活へ対する現実感すら希薄なのだ。いつから自分がこんな風に無気力な精神状態へ減退して行ったのか、その記憶もまた泡沫の夢の様に朧気なのだが……。

 今の僕には実生活の中で、視界に在る物全てが演劇上の書割りの様に見えて来てしまう。


―例えば<都心>―。

 そこは正しく人間の坩堝だ。栄耀たる都心部に犇く、市民達の殷々とした様相……。最近の僕は、そんな殷盛を極める街中を往来する中で、平静を装いながら不意に狂騒に襲われる時が在る。

……大勢の人間の中で、自分だけが片隅に追い遣られて行く様な孤独感、自分の真の居場所はここでは無い筈だ、と言う違和……。

日増しにそれ等の不一致は肥大して行くのだ、想い想いに行き交う群集と。

 皆、権謀者達に拠って形成された既存の社会に、何の葛藤も無く適応して今この場所を歩いているのか? 彼等は何処から来て何処へ行くのか? 僕の内面等は孤独や無力感以上に、根底に在る生存動機すら危ういと言うのに。その疑念は荒波の渦中で転覆し掛けている小船の様に、不安定に振幅し続けていると言うのに……。易々と社会へ適合している模範市民からすれば、僕の観念等余りにも青臭いと哄笑されるかも知れない。だがそれでも、僕の内心の煩悶は木霊するばかりだ……。

<自分とは何か?>

<自分の生存理由とは?>

<自分の生存価値とは?>


―例えば<学校>―。

 一般的な若者として、ご多分に漏れず僕も学業に不熱心ではある。事務的に教鞭を執る教師達の退屈な講義を日々受講する度、何とまあ通り一遍でティッシュ一枚の様に浅薄な教示だ、と欠伸を噛み殺しているものだ。

 しかし僕に取って、反感の対象は既に枯渇した様な大人達ばかりでは無い……。僕を取り巻く級友達の日常も叉単調極まりないからだ。大抵の生徒は受講だけを反復する変わり映えの無い毎日で人生を浪費し、確固たる夢も持たない。只学校と言う小規模な社会に於いて、規範から逸脱しない様に、周囲の人間から忌避されない様にと細心を砕く。

 僕に取ってはここも所詮上辺だけの馴合いが横行する、実に白々しい学芸会の舞台だ。希望に満ち溢れた青春の謳歌等何処にも無い。保身と引換えに、退屈と言う檻に自ら入獄した惰弱な囚人達の巣窟……。僕には本音迄を曝け出せる友人等一人として居ない。


……教科書には便法ばかりが載るが、夢を持つ事迄を説きはしない。


―例えば<家族>―。

 絵に描いた様に平凡で円満な家族。無知で善良な両親の元で、何の障害も不足も無く、僕は手塩に掛けてここ迄撫養されて来た。家庭内では軋轢等皆無で、思春期の反抗なんて現代では風化した通過儀礼だ。何所の家庭も扶養される者は従順で卒が無い。

 両親は息子である僕がこの侭大学を巣立った先には、順風満帆に平均水準の社会生活を送り、程々の女性と結婚し、自分達の家庭を築き、何れは両親達の老後の世話迄をも甲斐甲斐しく担って行ってくれる……、当然の様にそんな未来予想図を確立させているに違いない。無論僕も両親に対する敬愛や謝意を持ち合わせていない訳では無く、それ程の薄情者でも親不孝者でも無いつもりだ。

 両親が想い描く家族計画は至極真っ当な物だろう。しかし内心を告白してしまうと、僕は両親や世間に浸透した既成概念には馴染めない……。……安定や保証と言った、処世術に終始した一般的価値観にだ。

 眼を背けたくなる様な異物も汚濁も傷跡も無く、丸でテレビCMの様に整合的に配備された、絵空事の様な理想的生活空間。全てが約束事に満ち、快適さや健康を典型として、安息を第一義とする教条的人生。最終的には幸福な結末が用意されている周到な台本……。

 誰もが社会の進行に順応して行かなくてはならないのか? 予め定められた流れに乗れば安楽に生きて行ける。しかし人間として生まれ落ちたならば、只の歯車の一部として日常に埋没するのでは無く、生きる証を立てる様な夢を追い求めてはいけないものなのだろうか……?

 夢と言う概念自体が枯死して幾時代も経過している……。そんな無機質な現代で生育されて来た故か、疑念を抱えながらも確固たる生き甲斐と言うものは、正直僕自身未だ掴め切れてはいない。しかし若しそんな理念が具体的な事柄として浮かび上がった時、僕は安定した将来や家族の期待、信頼に対して違背して仕舞うかも知れない。

 若し僕が社会から頽落した時、両親はどんな反応を見せるだろう? 僕の毎日の行き帰りに向けてくれる愛想も、冷淡な幻滅の横顔に変わるのだろうか……?


―例えば<恋人>―。

 いつから、どんな経緯で交際する事になった? 友達からの紹介だったかも知れない。ともあれ、数年も経たない高校時代すら、脳内の記憶回路に幾重もの靄が掛かったかの様に不鮮明だ。ここ数年、僕はどんな想い出を積み重ねて来たと言うんだろう?

丸で教科書を模写したかの様な、上辺だけの付き合い方しかして来なかった気がする。

 僕は彼女の何処に魅かれたのか? 否、そもそも本当に僕は彼女を愛していただろうか? その逆に、彼女は本当に僕を愛していただろうか? 自分の実在が影の様に薄らいでいる事へばかり気取られている僕が、本当に他人の心情迄気が回るだろうか? 自分自身が自己の希薄さに潜在的恐怖を感じ怯えているのに、彼女が僕のどこに特徴を覚え、理解し、時には魅力を感じてくれたと言うのか?

 そう、今迄の人生を敢えて回顧する時。自分が接点を持った人間達と、果たして心からの交感が一度として在ったのか如何か……?

……解っている。

―僕は空っぽだ。何も無い器だ―。

 そして他人も……。


 生活空間の背景も、周囲の人間関係も、全てが虚構で仕組まれた舞台の様な非現実感。巨大な世界の流動と循環に、一人だけ取り残された様な孤独感。こんな風に意識ばかりが内省へと向かい、実生活では電池の切れ掛かった機械人形の如く無感情なのは何故なのだろう? 叡智と栄華を極めた先進都市で出生した僕達市民は、温室の様な社会教育の中で培養されて行く。

そこで、最近僕の脳裏で矢鱈と反芻される謳い文句が有る。観光客向けの都市刊行物に載る過賞な宣伝文や、街頭のスクリーンで豪奢に映発される案内映像から……。

【―万全たる教育制度、政治制度、社会福祉制度。そして最高水準を更新し続ける就学率、就職率、経済力。犯罪発生率も極少たる治安、最先端を推進する高度科学技術、環境保護も考慮しながら洗練させ利便性に富んだ都市空間……。世界の理想を体現する電脳未来都市、『インダーウェルトセイン』へようこそ!!―】

 現代の社会政治上では、一般学生達は大学を卒業すれば殆ど自動的に就労先が決定される。それは当然の様に、本人の主意に副う訳も無い仕事を永久就職先として宛がわれるのだ。

そして何の展望も持たない僕にも近日中に付与される予定の筈だ、凡庸で陳腐極まりない退屈な仕事が……。

 整合性と言う名目の下、体制の歯車に一個の部品として組み込まれる。消耗した部品は何れ廃棄され、矢継ぎ早に代替品は用意される。何の疑念も葛藤も抱く必要が無い、何かに泥臭く努力する必要が無い。禍福無く安穏と、温室で生育される植物の様に只生き永らえる……。

 平常。平常とは振幅が存在してこその定義だ。歯車の可動に故障や障害すら有り得ないと保証された時、それは平常や維持ですら無い。

 停止だ。

 この社会は停滞し続けているだけでは無いのか? そしてその枠組みで閉塞している僕自身も。……そんな疑念ばかりが澱の様に内心で沈殿する。どんな場所に居るとしても、僕の魂は胡乱に身体から抜け掛けて中空に浮遊して仕舞っている。

全てが空疎だ。

時折僕は内外の現状を、吹き出しに何の台詞も書かれていない未完成の漫画原稿の様だと想起する。

 相容れない、馴染めない何か。僕は制御し切れないそんな情動に、日増しに憑依されている気がするのだ。段々と噴出しそうな叫び。

(全ては虚構だ、嘘っぱちだ、全ては虚構だ、嘘っぱちだ……)

 そんな内心の咆哮に。


……不意に耽っていた物想いから目覚める。立ち止まって傍観していた祝祭の活況へと、次第に視界の焦点が定まって行く。当初丸で無関心だと前述したが、今日のパレードに於ける熱気は不感症気味な僕の精神状態へ、多少なりとも現実感を呼び戻し掛けてくれているかも知れなかった。

 耳を劈く様な雑駁たる大音声。中てられて仕舞いそうな人熱れ。建物は旗や花等で見目も華美に装飾されていて、紙吹雪は粉雪の様に舞い散り、何時しか石畳を極彩色に彩っていた。

晴天の蒼空には、色鮮やかな数多の風船群が植物の綿毛の様に浮遊しながら次々と吸い込まれて行く。行進する楽隊に由って奏でられる心躍る様な賑々しい音楽が、時に音塊と成って腹部へ響き、時に玉を転がす様な心地で耳を快くさせてくれる。そして街区を闊歩するのは、仮面舞踏会と言う祝祭に於ける本日の主役、古式床しい仮面と衣装で盛装した舞踏家達と牽引される馬車の一群……。

微笑ましい家族連れ、愛を誓い合った恋人達、熱に浮かされた様に疾駆する子供達……。

(皆、幸せそうだ―)

その交歓に満ちた情景に紛れながら僕は想う。

(皆、幸せそうだ―)

そう、或る一つの特徴を除けば。

 この世界は或る金科玉条に由って成立し支配されている。それは、僕の頭部を丸々と覆っているヘッドギアの事……。そう、全市民が装着している同一規格の大型ヘッドギアの事だ。

 このヘッドギアを自発的に、特に衆目で着脱する事が禁忌とされ、四六時中の装着が義務付けられたのは古代二千年代初頭と歴史的記述が為されている。

 ―当時の世相は、所謂対人恐怖症、視線恐怖症、醜形恐怖症等の精神的病弊を抱える人間が急増し、人々のコミュニケーション不全が社会問題視すらされる程に民度の衰退が顕著な時代だったと云う。

 各種機関は社会全体を侵蝕し行くコミュニケーション不全の原因を究明しようと試みたものの、具体的な根拠や結論は一向に導出されなかった……。 

 心理学や精神医学は過去を分析、統計する傾向が強い。尚且つ個々の人間に於ける過去、生活環境、人格、因子等から総合的に原因を判断し様とするならば、絶対的且つ普遍的な療法等、基より発見出来る筈も無かったのだ。

 結局は効果的な療法が講じられない侭に社会問題は肥大化し続ける。蟄居を生活基盤とする市民が増発して行く状況に難色を示した各種メディアは、当然の如く否定的見解を強調させ市民の更生を煽ろうとした。

 しかし悪影響を受けた居食い達が増殖されて行く事態に抑制は効かず……、段々と『働かざる者食うべからず』と言った格言が死語と化して行く。本来ならばいつの時代も、社会的価値観とはメディアの論調に拠って自在に左右される誘導的なものだった。

 しかし引篭もりが恥辱とはされず常識的概念として浸透し、情勢はほんの一時代で激変してしまった……。それは、世間がメディアの潮流を一蹴した歴史的転換点となったのだ。

……そして幾許か経ち、社会機能の麻痺を懸念した政府は問題打開の為に自ら神輿を上げた。

 政府側はコミュニケーション不全に対する公的見解と打開法案を、大々的にこう発表したと云う。

<……現在 社会全体を閉塞させているニート/引篭もり問題。我々政府はこの社会現象の解決を国家的命題と厳重に捉え、抜本的な改革案の創出を目下急務として進行させている。

 では先ず治世を司る政府の見地から、社会機能へ支障を齎している根本的病理、人々のコミュニケーション問題に関して考察したい。……対人恐怖症、視線恐怖症、醜形恐怖症の患者達に取って、恐怖の主因とは素顔に於ける人間との対峙である。

 外貌を晒す事が他者に取っての第一情報、接触の始点となり、即ちその第一印象に由って人間関係が左右される。その過程で他者から精神的外傷を負わされる可能性も有り得る、と言う悲観的想像力。これが恐怖心の本質なのだ。

 精神的外傷の程度は個々に由って大同小異在れど、以前の人間関係に於いて発生した心理的な苦痛。それ等の苦痛の記憶を根拠として事前に自己開示へ抑制を掛けて仕舞い、防御反応の過剰が閉鎖的性向を助長する。

 他の要因としては、事故発生率、犯罪率の増加、世界的にもテロや戦争が散発している不穏な世界情勢等が挙げられる。時代の趨勢から来る荒廃に伴い、市井の警戒心が自然と助長されている事は論を待たないだろう。

 そんな情勢下に於いて、市民一人一人の人間関係に対する恐怖心、不全は不可避で在るとも考察される……。

―そこで我が政府は一計を案じた。自己不信、対人不信を解決する方策……。それは他者認識、他者評価の因子を根本から排除すれば良いと云う事。

 ならば、自己存在証明と成る外貌……。そう、全人民の、一人一人の顔を覆い隠して仕舞えば良い!

其処には一切の差別が存在し得ない。自己存在、自己証明、人種、美醜……、あらゆる評価の基準が白紙へと戻せるのだから……>


 公式発表後、程無くして政府内で同一規格ヘッドギアが開発され、全人民に対して一斉支給が行われた。そしてこの世界は、政府管理下に置かれた電脳ヘッドギアを四六時中装着する事が義務化されたのだ。この新法成立は歴史的に電脳仮面制度と呼称される。

 若しこの電脳ヘッドギアを他者の面前で着脱し様とすれば、危険信号を受信した警察は直ぐ様現場へ駆け付け当事者を逮捕してしまう。先ずその治安維持の仕組みだが、国民へ支給されたヘッドギア内部には装着者で在る本人の個人情報が詳細に記録されている。そして政府は一手に管掌している電脳ネットワークとヘッドギア内部に於けるGPS機能や映像機能を連動させ、一般市民の行動を常時電子監察しているのだ。

 24時間に及ぶ国家的監視の下ではヘッドギアを公的な場所で着脱する行為は愚か、誰もが軽犯罪すら慎む他は無い。……こうして政府は、人民を画一化させ記号化させる事に成功した。多数派と少数派、その天秤の高さが入れ替わる寸前に全てを綯交ぜにして……。

 無論新法に対して抵抗運動を見せる健常者層は存在したが、その反抗も虚しく運動家達は厳罰の前に敢無く駆逐されて行った。政府への抵抗者は容赦無く投獄される為、従順な一般人達は国家的圧力の前に屈服し新制度を受容する道を選ぶ。

 そして対人恐怖症等の病弊を抱えた幾万の民草は、この特殊な新法の生誕に由って思わぬ社会復帰の光明を得る。彼等は想像だにしなかった一新の機会を得る事で、自ら仮面を装着し進んで外出を始めたのだ……。

 精神病者達が本来的な一般生活に回帰すると、政府の目論見通り社会機能は飛躍的な回復を見せた。そして世界は有史以来前例に無い程の恒久的な安寧秩序を獲得し、中枢たる電脳都市インダーウェルトセインは益々の隆盛を極め現在に至る。

 ……因みに電脳仮面制度の制定から始まった社会性の変遷を指し、こんな都市伝説の様な噂も世間では流布されていた。

『その時代の病理を電脳仮面制度と言う画期的発案から解決した事で、政府は謀らずしも社会機能と人心を完全に掌握したのではないか……?』と。

 現代と成っては、誰もがこの電脳ヘッドギアを当然の如く生活の指針として活用している。最早これは自身の素顔を隠蔽する為だけの仮面では無く、最先端技術の恩恵を浴する全能型生活支援装置……、もう一つの不可欠な頭脳なのだ。

 例えばヘッドギアの電脳を介し、ネット機能を連携させ作成された生活予定表を閲覧し日々の行動を取る。何事かの調べ物を百科事典の要領で情報を引き出す。内部電脳は電子鑑札も兼ねるので、相互の認識番号を赤外線通信で照会する事や身元記録も出来れば、電子マネーでの買い物取引等も可能だ。電話やメール等一連の通信機能としても活用出来る上、他には地図表示、音声や映像の記録、テレビ、ラジオ、音楽、映画等の鑑賞等、放送媒体迄もヘッドギア本体のみで事足りる……。

……この様に、現代では誰もがそんな多機能を持つヘッドギアの恩恵を授かっている。例え素顔を晒す事が合法に成り得たとしても、今更誰もこの快適さから脱却したりはしないだろう。

素顔の隠蔽、電子監察、ヘッドギアテクノロジーの利便性。これ等の相乗効果に由って、この仮面が人民の個人性を剥奪している事は紛れもない事実だった。

―そう。僕は友人や恋人は愚か、実の家族の素顔すら生まれてこの方未見なのだ……。僕が離人症気味なのは、そんな社会機構が一因に成っている、と評しては責任転嫁に過ぎるのだろうか?

 そこで僕はずっと疑念を抱いた侭生きている。他愛も無いと揶揄されるかも知れないが、人間は疑い出せば際限は無い。例えば自分が帰宅した時、出迎えてくれる家族は本当の血族なのか? はた叉、昨日迄同居していた人間と同一人物なのだろうか? 体型が似通っているとしたら、他人が家族に成り済ましていても容易に区別は付かないかも知れない。勿論ヘッドギアを着脱して他人と交換する事等は認証上の問題も在り不可能に近いのだが……。

 只、こうして思考を繋げば全てに妄想の糸が絡んで行く。若し或る時期に、誰かが僕の友人や恋人に成り済ましていたとしたらどうだろう? いつ、誰と誰が入れ替わろうが何等支障無く円滑に生活は進行して行くかも知れない。そして、若しその相手を変装者だと気付かず交際を続けていれば僕は道化染みた間抜けでしかない。本人を見抜く事も出来ない程度の紐帯や愛情しか紡いで来なかった酷薄な人間、と言う結論付けすらされて仕舞う。

 逆も叉然りで、或る日突然僕のヘッドギアを入手した者が居たとする。動機は兎も角、若しその盗人が僕に成り代わり、僕の役割を演じ始めたとしたら、一体どうなるだろう? その侭誰も感知せず、昨日と同様に平穏な日常が続くとしたら……。

 そうなれば今迄築き上げて来た自身の人生や意味は全て崩壊する事になり、僕にはその不在感に耐えられる自信は無い。そもそも本人に本質が無く、生きて来た証が無い、なんて事実には……。

丸で臆病な幼児の妄想と嘲笑されるかも知れない。

『実は居間でテレビを観ながら団欒している家族が、自分の血族ではないのかも知れない』。飛躍して『自分以外の人達は全て宇宙人か何かではないか……』と言った類の、突飛で子供染みた想像に近いのは認める。しかしそんな疑心暗鬼に駆られる程に僕の内心は掻き乱されている。

 寝惚け眼を擦りながらベッドから這い起き、机上のヘッドギアへ手を伸ばす時……、毎朝想う。

『僕は進んで仮面を被ろうとしているのか、進んで仮面に被られようとしているのか?』

『僕が仮面なのか、仮面が僕なのか?』……。

 仮面を得る事で自我を消去する? 自発的に自我を消そうとするなんて、余りにも矛盾した表現じゃないか。

今迄は微塵の疑念も湧かず、仮面を被る事に由って個が消されると一面的に捉えていた。しかし寧ろ仮面へ自我を預けているとすれば、最早仮面を被っていない素顔の僕こそが何者でもない……、無だ。

 今迄の社会生活、人生の全記録はあらゆる媒体でこのヘッドギアの電脳に保存されている。出生から家庭での団欒、学校や教室の気怠い空気、授業の内容、試験の点数や成績、運動会や学園祭での結果、読書した本の内容、鑑賞したテレビや映画、音楽の内容、旅行地での景観、友人との交際、恋人との逢瀬……。

 文章や映像としての詳細な記録情報だけで無く、日記としてもそれこそ追想のアルバムとしても電脳はその目的を果たしてくれる。振り返りたければ、些事に過ぎない生活の一瞬すらも巻き戻し再生を行って鑑賞が可能なのだ。年月日から何時何分何秒迄をも詳細に指定して。

 そんな一連の記録や記憶が体系化されて格納されているとすれば、今となっては物言わず無機質で硬質なこの仮面こそが僕の素顔……。僕自身の存在証明で在り、自我と解釈出来るのではないだろうか……?

自室での時間は、ヘッドギアを着脱出来る唯一独りの空間だ。僕は近頃鏡と対峙する度、対面する相手へ呟く様に問い掛ける。

『……君は何者だ?』

『……君は美しいのか?』と。

 憲法上の経緯からメディアも規制され、人民は悉皆自分以外の外貌を見た経験が無い。故に、顔の造作等への美的感覚も完全に欠如している。

 何が美しく何が醜いか? 古来では、容姿こそが自己証明や他者認識等を図る為に最も生理的且つ簡便で強力な要素だったらしいが……。前時代では第一印象で人間性迄が結論付けられる事も日常で、美貌在る者は優遇される事も当然だった。それこそ羊頭狗肉な人間すら芸能界では持て囃され、それだけで生涯豪奢な生活が享受出来た者達も存在したと言うのだ。

 一種の道徳観に反して、人間は平等に生まれた訳では無いのが世の真実なのか? 万人は平等で在るべきだ、と言う社会的倫理観は偽善的建前に過ぎないのか。

確かに現代では差別等存在しない。しかし現状は、人々が平均化されている以上に画一化されているに過ぎず、人間の差別心の芽そのものが潰えた訳では無い筈だ。

 そう、只区別が困難な程、個々が不透明にされているだけだ。

画一されていると言う事は個々の役割が存在しないと言う事。

誰の生死が在っても頓着せず世界は進行し続ける。


 世界を構築する者は誰でも良く、誰でも有り、誰でも無い。


 僕は只の記号。

 僕は透明な存在。


 他人は只の記号。

 他人は透明な存在。


 他人と比較しなければ、僕は自己確認が出来ない……。そうだ、他人こそは自分の鏡。そして、僕もまた他人の鏡……。

……そう暫く物思いに耽っている時だった。

 混雑の中で立ち尽くす中、不意に或る衝動が僕の胸を強襲した。

ヘッドギアを介した視界に広がる目抜き通りでのパレード。

その光景を傍観している内に、こんな甘美なる囁きが脳裏を去来

したのだ。

『奴等は特例組じゃあないのか?』

 祝祭に於いて、仮装の為にヘッドギアの着脱が特例として政府から容認された劇団……、否、若しかしたらこの劇団の連中も政府から派遣された局員と言う可能性も在るが……。

どちらにせよ、この一群は覆面や仮装で薄皮一枚と言う状態に危機感も抱かず、観衆へ愛嬌を振り撒き街路を行進し続けている。

この事実を察知しただけで、何故か油溜まりの様に粘着質で鈍重な背徳感が内心から湧出して来るのだった。

 そんな惑乱の刹那、楽隊の生楽器に由る原初的な演奏とは似つかわしくない、機械的で軽快な着信音が鼓膜に響いた。ヘッドギア内部のディスプレイに新規メールの通知が丁度二通表示される。文章、音声、通信者側の映像が三分化されつつ、同時に読解と視聴が可能なインターフェイス。誰からの連絡か、視線認識と音声認識機構で差出人や件名を確認する。

「誰からのメールだ?」

 反射的にヘッドギアの内臓音声が作動し、文面と音声で質問に対する開示が為される。

「一件目ノ再生。配信者、インダーウェルトセイン政府カラノ直属メールデス」


『就労先通知』

『拝啓 インダーウェルトセイン政府より、時下益々健勝の事と慶び申し上げる。さて厳正なる選考の結果、貴君の勤務配属先が決定した。

・就労分野……「コンピュータ事務」

・勤務地……「セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー内部」

・勤務時間……始業(8時30分) 終業(19時00分)

・休日……定例日毎週日曜日、祝日

・基本賃金……月給200000ペッソナ

・社会保険加入状況(厚生年金、健康保険、厚生年金基金)


 4月付けから、貴君も誇り高きインダーウェルトセインの忠実にして誠実なる労働市民だ。インダーウェルトセイン市民として勤勉な態度を旨とし従事せよ。模範市民と成る様な貴君の精励、社会的貢献に期待している。 敬具』 


「二件目ノ再生。配信者896501756カラノメールデス」

『久し振り……。今、どこにいるの? あの後から何となく連絡しにくかったけど……。これで終わりって事じゃないよね?

 今日のパレードは一緒に観たかったな……。この前貰った指輪は、何時も大事に着けています。良ければ返事を下さい……』

 ふっと全体の映像が消失し、ディスプレイは受信画面に戻る。

暫しの間、放心状態の自分が居た……。

先ずは一通目のメール。僕の半生は、余りにも安易に巨大な権勢に由って決定付けられた。

現在の政府は整備され、透明な管理社会性を徹底している。決定される配属先の環境や給与条件等も、誰からも不平不満が噴出しない様に平等性を遵守しつつ厚遇を敷いているものだ。実際僕から見ても、決定された業務や提示された労働条件に対して何ら不満を挙げる余地が無い。厚生省の人事部も、当事者の過去の経歴や学業成績、嗜好等も分析し資質判定をしているのだろう。

 そして二通目のメールは、彼女から和解を持ち掛けて来る様な内容だった。ここで僕からも儀礼的な謝罪をし、打ち解けて行けば容易く交際関係は修復する筈だ。時期が過ぎれば、何事も無かったかの様に全てが平穏に収束して行くだろう。

それは人生の美観だけを切り取った、絵空事の映画の様に……。

 政府から提示された配属先に関して、取り立てて不満は浮かばない。だが自身がその業務へ従事して行く人生を想像した時、燃え立つ様な充実感を得て日々へ向かえるか、つい鑑みてしまう。自問自答すれば、傾注する程の情熱は湧かない、と言うのが正直な心境だろうか。

 ともあれ、今の僕に確固たる展望は無い。それならば将来の就労も対人関係も、この侭大勢に押し流されて行けば無難に人生は過ぎるのだろうが……。

<―大勢に押し流されて行けば……?>

<―これからの自身の未来さえも他者に委ねて……?>

 通信画面を透過して、眼界に拡がる様相を一瞥する。街区の熱気は途絶えず、劇団は変わらず祝祭の主役として行進し観衆を盛り立てている。僕はと言えば、その空間へ馴染まずに遠巻きから傍観しているだけだった。そして、何故か先程からの妄想には拍車が掛かるばかりだ。

(……例えば、連中の誰かが道の往来で不意に転倒してしまう。そこで思わず仮装や覆面が肌蹴て、当人は公衆の面前で自分の素顔を曝け出す事態に陥る。当然、観衆は一斉に注視する……。

そして次の瞬間には一大事と為り、現場は大騒動へと発展するのだ。僕は群集の一部に混じりながらも、内心ではそんな混乱にほくそ笑む……)

 そんな悪しき想像の虜に成って呆然と立ち尽くす自分が居る。

(何を考えてるんだ! 止めろ、馬鹿な考えを起こすな!!)

 苛烈に湧き上がる犯罪衝動を抑制しようと、僕は自分自身へ必死に言い聞かせた。

そして意外な事に、道端で俯いた侭の僕を見遣っても誰一人振り返らず通り過ぎて行く。傍目から見れば挙動不審かとも思ったが、群衆は現場の熱気に浮かされ昂揚を隠さない。パレードの享楽に耽っている者達が、一介の通行人の様子に気を留める事も無いのだろう。

―思い詰めた自己との葛藤……。

……どれ程の逡巡の経過が在ったのか、気が遠くなる程に長大な様で、瞬きの様な一瞬にも感じられた。

しかし遂に、僕の甲斐甲斐しい理性と言う抑止力は足蹴にされた。


 僕の名前は今、「衝動」に成り変わる。


 丸で自分以外の何者かに突き動かされている様な狂熱に全身を包まれ、視界が非現実感に満ち始める。眼を逸らした訳でも無く、只定位置で立ち尽くして居ただけなのに、眼前の情景が曖昧にぼやけ様変わりした様な違和感。

 胸奥が不穏にざわついている。しかしそれと同時に、これから起こす大事へ武者震いする様な不敵さも根底では息衝いている……。丸で熱病の中、自身の内部が無数の人格に成って遊離している様な複雑な心境だった。

 僕は管理画面のホスト端末へ、これ迄に取った事が無い程の高圧的な調子で呼掛ける。

「さっきのメールへ返信だ」

「了解致しました、メール画面に移行します」

 言うが速いか、即座にメールの通信画面が眼前に表示される。確固たる文面や口頭での内容等、練られてもいない筈だった。しかし僕は丸で予め台本を用意していたかの様に、思いの丈を流暢に紡いで行く。

「御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。

……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、丁重にお断り致します。

―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。

あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。

僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。

僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。

無色から有色へ僕は変わる。僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。今から始まる情景から目を逸らすな。捕まる事等最早僕は厭わない」


「……896501756―。今迄僕と付き合って来てくれて有難う。やり直そうと言ってくれたメール、君にも勇気が要っただろうし嬉しかったよ。只……。僕はもう頭のネジがぶっ飛んでしまったんだ。社会から食み出る異端者に成ってしまう一歩手前だ。

『自分を出す』とはどう言う事なのか? そもそも自分とは何なのか? 単純な様で堂々巡りを繰り返すこの問いに、僕は独り延々と囚われていた。

今迄何も築き上げて来なかった僕が居る。確かな物が何も無い、無為に流されて生きて来た僕が居る。自分に確固たる足元が無い人間が、自分を好きになれる筈も無い。自分が好きになれない侭では、他人に対して心を開いたり、好きになると言う事も難しかったんだろう。だから僕は、君にさえ胸襟を開いて接して来れなかったんだと想う。否、開くだけの心が元々無かったんだ。

 最後の思いの丈だけは、君に伝えて置きたかった……。今からが人生の真の始まりだと僕は息巻いている最中だ。これから起こす行為は、どうあっても世間からは非難される事だろう。

でも反社会的だろうと、もうこの衝動は止まらないんだ。僕が投獄される前に、君へ迷惑が掛からない今、はっきりと別れを告げて於こう。

 僕の事なんかは忘れて、君は君の人生に踏み出して行って欲しい。―それじゃあ……」


 一気呵成に喋り倒すとその声明は自動的に文章・音声化され、遠方の該当者達へメールとして発信された。発信完了画面を観て、不安の胸騒ぎと戦意の高揚とが入り混じる。役所の人間達はこのメールを受信したら悪戯とでも取るだろうか、それとも憤慨して直ぐ様機動隊でも派遣して来るだろうか?

彼女は別れ話しを持ち掛けられる以上の不穏な声明に、僕の気が触れたとでも思うだろうか。一応也とも付き合って来た男の頭が可笑しくなった、と。それとも不謹慎な冗談だとか、迫真の演技で謀ろうとする僕なりの報復だとでも誤解するか……。

 彼等の解釈がどうあれ、今から件のメールが犯行声明だったと証明する為に僕は歩を進めた。余りに退廃的で甘美な、犯罪の衝動に突き動かされて。

「アアアアアアアアアアアアアッ!!」                                                 

 僕はパレードの喧燥を掻き消す程の咆哮を上げた。観衆の誰もが一斉に振り返り、何事かと唖然としながらも僕と言う一点に視線を集中させる。しかし僕は怪訝の色に満ちた注視等は意にも介さず、並み居る群集を両手で乱雑に掻き分ける。そして遂には熱気に包まれた分厚い人波に穴を開け、道中を行く仮装行列の連中に迄走り寄り……、躊躇無く掴み掛かった。

 呆然とする観衆と仮装者達……。特に標的を定めていた訳では無かったが、偶々自分の眼前に入った道化の仮装者を手始めの獲物として決めた。

 僕は何の逡巡も無く、世界の不文律に、掟に、隠蔽された秘部に、人間の存在証明に手を伸ばす。掴まれた仮装者は一片の抵抗も無い。不測の事態から、反射的に防御する事すらも覚束無かったのだろう。法律制定有史以来、こうして禁忌を犯そうとする者も皆無だったのだ。世界の人民誰もが想像もせず、身構えもして来なかった反社会的行為に……。


 一拍を置いてから事態の深刻さに気付き、打って変わって必死に制止しようと幾人かが現場へ雪崩れ込む。祝祭の主役たる劇団員に突如暴行を加えようとする所か、強引にでも仮装を剥ぎ取って素顔を暴露させ様とする、そんな僕の逸脱した意図を察知した様子で。

 切迫した声調で飛び交う言葉の数々が、僕の脳裏で反響していた。しかしそれは何処か遥か彼方で交わされている会話の様で、丸で僕を論点にしていない錯覚迄起こす様な浮遊感が伴っていた。潜水している中で外界の反響音が脳内に迄到達して来る様な、非現実的な感覚の侭周囲のやり取りは輻輳して行く。

「何をする気だ、止めろ!」 

「皆、早くこいつを取り押さえてくれ!」

「精神異常者だ!!」……。

 一般の通行人達も勃発した騒動に動揺の気色を隠せない。全員がその足を止め、遠巻きに異例な光景を見詰め出した。何事か事態を把握し切れてない者、固唾を呑む者、思わず嬌声を上げる者とが入り混じる。

 しかし緊迫しざわつき出した周囲の様相に反して、僕の心は沈着さすらをも取り戻して行く。

 そう、内奥に住まうもう一人の僕が語り掛けて来る。

<顔を見せ合わない世界のどこに健全さが在ると想う?>

<異常なのはこいつ等の方じゃないのか?>

 ああ、そうさ、その通り。僕は仮面を脱ぎ捨てよう。上辺だけを着飾った、退屈な仮面舞踏会を打ち壊す為に……!

僕が組み敷いた相手は、身体付きや抵抗の膂力から自然に男だと

感じ取れた。彼も自身の人生を固守しようと必死なのだ。そこで僕の深奥からは益々愉悦が溢れ出る。

 そうだ、それで良い、お前も抵抗するんだ……、『自分』自身の為に。

 ふと、僕は我へ返るかの様に諸手の取り合いから戦線放棄し、無言の侭その場で立ち上がった。

 一瞬の静寂。

 異常事態の収束かと感じ誰もが思考停止したのだろう。僕は穏やかに微笑みながら(勿論その微笑は誰にも観えないものだが)、自身のヘッドギアに何の躊躇も無く手を掛けた。

そしてあっさりと頭部から取り外したそれを、人工的な程清潔に舗装された路面へと、全身全霊を籠めて叩き付けた……!!

 次の瞬間、周辺へ盛大に飛散するヘッドギアの機械部品達。同時に衆目から、きゃあっと言う絹を裂く様な金切り声が反響する。そして次の瞬間には民衆の怒号が巨大な音塊と成り、広場全体を震動させるかの如く劈いた。

―大混乱の中、市民の視線が、僕へと一身に注がれる……。

 十数年来僕の顔で有り、人生の指針でも在ったヘッドギア。云わば肉付きの仮面……。僕はたった今、その顔を引き剥がし、棄てた。僕の自己証明で在った筈のそれは、社会から管理される為に必要だった筈のそれは、見るも無残な姿で地面に散乱しているのだった。

 破損部分の所々から露出されたケーブル、機械部品。ヘッドギアはジージーと無機質な音響を延々と奏でていたが、断末魔は遂には果てて途切れた。その光景は何処か昆虫の死に際を彷彿とさせ、言い知れない哀切を漂わせている気がした。

……そして僕は、大衆に素顔を晒した今世紀初の人間に成ったのだ!!

 酒の比では無い、高純度の薬物でも摂取した直後の様な酩酊と覚醒の中で。僕の四肢は風船を括り付けた様に、今にも浮遊しそうな程軽やかだった。狂喜に身体が自然と踊り出し、自身の身体では無いかの様に抑制が効かない。丸で内奥に在った不敵な別人格が引き摺り出されたかの様な心境。

 生まれ変わった……、否、もっと適切に言うならば、『やっと自分自身に成れた』。そう想えた。

眼前に広がる光景すら何故か祝福された様に多幸感で満ち溢れ、宝石の海の如く煌めいている。

全てが台本の様に設定され進行して行く、予定調和の街……。僕はそんな仮面舞踏会を台無しにする招かれざる客となった。

 一体この現場には何百何千の人数が居合わせているのだろうか?広場中を埋め尽くす人間達のヘッドギアから、一斉に機械音声がけたたましく鳴り始める。

「視線交錯率40%」

「……視線交錯率50、60、70……」

 ヘッドギアが、他者の外貌を自動的に感知し警告音を発しているのだ。視線交錯率が100%に達すれば、信号を受信した警察が敏速に現場へと到着する。捕縛されれば、僕は第一級犯罪者として重罪処分を受ける事は言う迄も無い。

 しかし今の僕に取ってはそんな切迫した警告音声すら、自分の為へと吹奏される祝福のファンファーレに感じられる。

「視線交錯率80%。警告シマス! コレ以上ヘッドギアヲ装着シナイデイル事ハ重大犯罪デス。警告シマス! コレ以上素顔ヲ外界に露出スル事ハ……」

 僕は箍が外れ狂った機械人形の様に、哄笑がいつ迄も止められなかった。実際に警察が乗り出すであろう異例の事態へと突入し、現場に居合わせた市民達は申し合わせた様に互いの顔を見合わせる。ヘッドギア越しでも全員の困惑が手に取る様に感じられた。

 自分と言う一点に向けられる、威圧的な警告音と騒乱の叫声で混声された合唱。その歌曲に心躍らせつつ、僕は猫の様に軽やかに踵を返す。最早僕を追走する者は居らず、只誰もが遠巻きに傍観するのみだった。この侭失踪してしまおうか、と算段を付け数歩行った時、僕はふと見慣れない物体が視界の片隅に留まった事で一瞬足を停める。

 それは普段ではお目に掛かる事も無い、今日の祭典の為に用意された馬車だった。……それを暫し見遣り、僕は思わず唇の片端を上げた。街路を行進する仮装行列の一部で在り、有料で市民も乗車可能な都市名物……。この馬車を逃走手段として用いる事を思い付いたのだ。


 僕は充足していた。神に転身したかの様な全能感すら在った。逃げ切れる、と言う根拠の無い自信に満ち満ちていた。本来であれば近代的な都市の景観にはそぐわない、典雅な意匠が施された馬車に跨る。すると、今迄の騒動に丸で無頓着な侭悠然としていた二頭の馬が、怠惰な形相の侭で徐々にその足取りを進め始めた。

段々と歩調が速まり軽快な蹄の足音が大路に響き出した頃、僕は振り返り茫然と眺め続ける観衆へ愛嬌付く様に、大仰に片手を振りながら叫んだ。

「さようなら!」

 馬車は更に加速する。遂には馬達も、風に乗り昂揚し始めたのか戦慄きを挙げる。その速度と戦慄きへ呼応する様に、僕も更なる大声を張り上げた。


「僕は仮面舞踏会から抜け出すのさ!!」





            *



・第ニ章・『離人症の英雄~主賓品評会~』

【―破壊された祝祭―ヒルサイド通り魔事件】―デカート通信―

 未曾有の大事件が発生した。事件発生地は先進都市インダーウェルトセインの繁華街ヒルサイド。同日午後1時40分頃、祭典の熱気に包まれたその街中で、一介の男性が突如通り魔と化したのだ。

 現場は百貨店やブティック、飲食店等が軒を連ねる繁華街。容疑者は同都市名物である祭典『デジタルマスカレード』が盛況の真っ最中に仮装行列の一群を急襲し、劇団員が纏う仮装の一部たる仮面を強奪しようと試みた。

周囲の関係者がその暴行を取り押さえる為に駆け寄ると、乱心を極めた容疑者は制止から逃れようと暴れ廻り、遂には自身のヘッドギアに手を掛けたと言う。

 そう、何とヘッドギアを自ら着脱し、並み居る群集に向けて自身の素顔を露出させたのだ。

 パレードの中、大路は多数の見物客で賑わっていた。素顔を開陳した男性は気の触れた様な哄笑の中、都市名物開催時の一環として公用可能な馬車へ乗車し、単独での逃走を謀ったと言う。

偶然現場に居合わせた目撃者達は『まさかこんな事件が起きるとは…』『眼前の光景が信じられず、動く事も出来なかった』等と地元メディアの取材へ対し口々に受け答えている。

 容疑者が現場から逃走した後も遭遇した見物客達は衝撃の余り立ち尽くし、後から騒乱を見聞きした野次馬達も詰め寄る等して人だかりは増大する一方だった。現場へ続々と警備員や警察が駆け付けるものの、容疑者は既に消息を絶っていた模様。豪奢にして壮麗な都市を挙げての祝祭が一人の男性の発作的犯行に由って打ち壊され、騒然とした雰囲気は暫くの間余韻を残していたと言う。

 カーマ警察等から公開された情報に拠ると、男性は犯行を決行する直前に、警察機関へ犯行声明らしきメールを送信していた事が記録から判明。その他に、ほぼ同時刻に交際関係を築いていた女性へも犯行への決意を仄めかす伝言を送り届けていた事が調査済みだ。

 容疑者への批判は当然だが、事件を予見し未然に防止出来なかった警察機関及び事件に関連した主催団体、民間警備会社の不備にも非難の矛先は向いている。関係各機関は、『想定外の事態だった』『対応が後手に遅れた』『デジタルマスカレードを楽しみに参加した大多数のお客様方に申し訳無く想う』……等と、遺憾の意を表した。容疑者捜索を開始した警察からは、目下犯人の目撃情報等を積極的に募集している。


―…………―。


 国籍番号以外に役職の便宜上から仮称を付けられた者の一人、警察庁長官『ロイトフ』は嘆息交じりにディスプレイ画面を眺めた。

(正に青天の霹靂だ……!!)

 個室である長官室の中、ロイトフは自身の胸中で澱の様に沈殿して行く粘着質な憂悶を御し切れずにいた。光源を点ける気力も無い侭で、憂鬱の原因たる事件に付いての記事をディスプレイ上から眺め遣る……。

 ロイトフは先程から同様の文面を延々と読み返していた。本来、彼は行政機関の重役として事件の概要は寧ろ報道機関の人間以上に内見し、把握もしている。更に政府は公式広報サイト以外にも、機密事項の通信を目的とした関係者だけが知り得るコミュニティサイトを管理してもいるのだ。

 しかしそれでも市井の反応が懸念なのか現実の事態を客観的に受け入れられないのか、彼の無意味な再読は止め処無く続いた。無味乾燥な低質の菓子でも、眼前に在れば空腹で無くとも攣られて食指を伸ばしてしまい、惰性で延々と貪り続ける……。そんな自律の無い怠惰にも似ていた。

 一通りネット上の記事を読み漁ったが、数多の通信社は基より個人サイトに於ける話題の主軸も今回の通り魔事件に付いての言及ばかり……。そう、現在、時代を席捲する社会現象と迄加速し始めているのがヒルサイドでの発生事件……。

世間で最近浸透し始めた通俗的な表現で敢えて呼称するなら、この『デジタルマスカレード通り魔事件』なのだ。

 横手の長机を見遣れば、机上には各種新聞、雑誌媒体が散乱しているが……。一度見遣ってしまえば氾濫する文字群は踊りながらロイトフの視覚に飛び込み、彼の胸奥へ更なる鈍重な追撃を与える。数十誌有るとしても、各誌の表紙や見出しはどれも申し合わせた様に『デジタルマスカレード通り魔事件』の特集ばかりなのだ。テレビ画面上でも同様で、娯楽番組や報道番組と云った分野の境目も無く、どの時間帯にどのチャンネルを廻しても確実に通り魔事件に関する話題へ突き当たる……。

 電網が過密に張り巡らされた近代社会の情報の洪水の中、時代の本流を独走し注目を一身に集める存在。それがたった一人の、何処にでも居る平凡な学生だった筈の若者なのだ……。そして各種メディアは今回の事件に付け込み、容赦無く警察を糾弾する論調を展開している。民間、関連運動団体、企業、法的機関と、ありとあらゆる層からロイトフは槍玉に挙げられ弾劾され始めていた。四方八方からの苦情処理に追われ役職としての責任問題に迄発展している今、

彼は心身ともに疲弊し切っている。

(誤算だった。まさかこの私が世間から非難される立場に陥るとは……。当初は、誰もが今年の祭典も恙無く終了すると完全に思い込んでいた筈だ。確かに一時的にヘッドギア着脱を認可された劇団員の仮装姿は、全員が薄皮一枚と言う状態では在った。しかし外貌を晒す危険性が皆無とは言えなかったかもしれないが、よもや本当に危害を加える異常者が出現するとは誰も夢にも想うまい……。それは自殺志願と同義なのだから……。

 そうだ、本来は私が悪い訳では無い……。警察上層部の長だからと言って、現場監督でも無かった私が八方から責められる等、余りにも理不尽では無いか! 古今から鑑みても、こんな精神異常者が現れたのは史上例に無い。悪いのは犯人自身に決まっているではないか、何故この私が、私が、私が……)

 ロイトフは頭を抱え慨嘆する。

(何より犯人を逮捕出来た所で、問題は山積みだ……)

 そう、通り魔の出現を予想するだけの先見力は発揮出来無かったものの、曲がり形にもロイトフは警察機関の頭目を張っていた。彼の慧眼ならば、既に次の局面は想定出来ているのだ。

―今回の事件を発端として、更なる問題が遺伝子形態の如く連鎖して行くと云う事は―。

(社会現象と認知される程の大事件が勃発すれば、当然法的機関の管理体制や防犯意識の是非が問われる。しかし何よりも懸念なのは、警察を糾弾する世論では無い……。

 重大犯罪者を唾棄するのではなく、寧ろ大胆な行為者と看做し英雄視する、そんな影響者達こそが最も潜在的脅威なのだ……!

 逃走中である犯人の追跡こそ目下の重大事項だが、水面下で潜行している社会的危険性は、寧ろ連鎖的二次犯罪を起こす『模倣犯』に在る……)




              *




(こんな奴が現れてくれるとは……!)

 PC画面上で再現される犯行映像を、飽く事無く反復させ観賞し続ける一人の青年―。『シド』と仇名されるその男は眼前の映像に息を呑んだ。

―ここは電脳都市インダーウェルトセインでも最大の集客数と規模を有するディスコクラブ『サイバーベルファーレ』。

 今宵も盛況を観せるダンスホールの一角で、シドは饗宴に参加し踊り明かす事も無く、叉、訳知り顔を保った侭で遠巻きに光景を眺め遣る様な冷笑主義の手合いへ陥る事も無かった。

 大音響のダンスミュージックが地下を震動させ人々の鼓膜を劈き、煌びやかな照明が身を包む中で……。人工的且つ無機質な音楽の奔流に原初的本能を刺激され、人々は内面の衝動を吐き出す様に踊り明かし、酒を酌み交わし、恋を囁き合う。

 しかし今のシドには大音響の演奏やダンスの喧騒、見目麗しい美女達の存在、酒や電脳薬物等、危険や誘惑を匂わせる筈の全てが陳腐に想え微塵にも意識下には無かった。

(―地下世界が底無しの闇では無いと気付いたのはいつからだったろうか?)

 シドと言う青年も日常や社会に対して順応し切れず、不満を募らせ不良と化した様な一介の若者に過ぎなかった。しかし彼は自分自身でもその憤懣の本質が見抜けず、何処か鬱屈とした日々を過ごしていた。

自分が何に苛立っているのか、自分が将来何を手掛かりに生きたいか、何を人生の使命の様に成すべきかが測れず、内面の指針は常時不安定に振幅し続けていたのだった。

 いや、一つだけ語弊は有るかも知れない。……見抜けずにいたのか……? 『憤懣の本質が見抜けず』にいた侭だったのだろうか?本人も何処か心の片隅では薄々自覚していた、そんな側面も有るかも知れない。 

 意図的に眼を逸らそうとし続けていたのかも知れない自身の内心。自己の生存動機や存在証明を模索する労苦へと、対峙する勇気が湧かない……。そしてそんな自己欺瞞に耐え兼ねて鬱屈としていた、と云う方が適切なのかも知れない。

 各所のライブハウスやダンスクラブには連日連夜若者が押し寄せる様に大挙し、日常の憂さを晴らそうと発散に励む。しかしその饗宴の後に、一体何が残ると云うのだろう……? 一時的な享楽の果てにも無関係に、毎日太陽は昇る。

その注がれる朝日を、自分は一身に浴びられるだろうか?『眠らない街』『終わらない夜』……。人々は何時の間にか、こんな言い回しの意味を巧妙に摩り替えて真実と対峙する事を忌避しているのかも知れない。

 例えば弱味を曝け出さない、虚勢を崩さない『友人』達との馴合い。自身も乗り遅れない様に話題を合わせ、時には本意でも無く必要性も乏しい様な、電子監察から見逃して貰える程度の下らない軽犯罪に身を染める。また一夜の情事の為に、女の歓心を買おうと巧言令色を弄し行き摺りのセックスに耽る。そして痛飲し泥酔した後や、電脳薬物に依存し地下クラブから外出する事も億劫な侭で朝を迎える度に、シドは冷厳な現実を突き付けられるのだ。

(……地下世界は底無しの闇ではない……。此処が底辺だったと云うだけの話だ。

 終わらない夜等は存在しない。今日と言う扉を叩こうとしない者に、明日と言う扉等は永遠に開かれはしない。少なくとも、今日の自分は真の意味でこの朝日を浴びる事は出来ない……!)

 一夜の現実逃避。非現実から帰還した時には、逃避した分だけ現実が遠のく。結局の所真実から眼を逸らす事が更に自身の首を絞めていると、シドも薄々自覚はしていた筈なのだ。

(地下世界の闇に永住する事は出来ない……。パーティーにも終焉は有る。現実に立ち戻った時、俺を何を為したい? 何を成せる? 泡沫の夢の終わりには、繁華街の宵闇を潜り抜けて独りで歩き出さなければ……) 

―そんな苦悩に明け暮れていた矢先の事だった。突如として、自分自身の代弁者の様な存在が颯爽と出現し世間を騒擾とさせ始めたのは……。

 その男は、行き場の無い自分の焦燥や葛藤を引き受ける様に、社会へと独力でアジテーションしてくれた。自身の安否すら金繰り捨て、敢えて犯罪者に身を窶しさえして……!

 シドはネット上で公開されている通り魔の犯行声明や犯行映像を隈無く収集し、じっくりと飴玉を嘗める様に、幾度と無くその一連の内容を堪能していた。そして犯行直前に通り魔が警察へ送り付けた声明を、又も再生して観ようとする。


『御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。

……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、丁重にお断り致します。

―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。

あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。

僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。

僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。

無色から有色へ僕は変わる。僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。今から始まる情景から目を逸らすな。捕まる事等最早僕は厭わない』


<僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい>

<ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ>

……これだ! 正にこれこそ自分が捜し求めていた、魂を撃ち抜き真実へ目覚めさせてくれる様な至言の弾丸に違いない!!

 そしてシドは更に通り魔事件の犯人に付いての情報収集を重ねる。矢張り電脳掲示板でも、事件に関する論議は活発に行われている様子だった……。


●「デジタルマスカレード通り魔事件」について語ろう ●

1 :Nanashi_et_al.

未曾有の大事件が起こりました。


2 :Nanashi_et_al.

散々他でもやってるだろ?わざわざ新しくスレッドを立てなくても……。


3 :Nanashi_et_al.

いや、語り尽くしても足りない。


4 :Persona:

私は偶然事件現場に居合わせた目撃者の一人です。

例の犯行映像は、当然現場に居た大勢の見物客のヘッドギア電脳へ保存されていました。


犯人がどこかへ逃走し周囲の混乱が落ち着き始めた後、目撃者は一人一人警察に事情聴取され、犯行映像部分だけ証拠映像として没収される運びになったのです。


警察側がこれ以上の事件の拡大を恐れ犯行映像を抹消したかったのは間違いないでしょう。


しかしその一場面の記録を警察が削除して行ったと言っても、あれだけ大勢の見物客の中から一本も映像が流出しないと言う事は現代の電網社会では有り得ません。

まだ今なら規制が入る前に、事件映像がネット上で入手出来る筈です。


しかし私は実際に現場を目撃しておきながら、未だにあの日の光景が非現実みたいで信じられません……。


5 :Nanashi_et_al.

すげー、生で観たんだ。

でもその映像って、一応観るだけでも違法になるのかな?


6 :Nanashi_et_al.

データを流出させた側が罰則対象になるのであって、

享受する側の責任性は問われないんじゃないっけ?


7 :Nanashi_et_al.

事件映像、他のサイトで発見したよ!!

その辺の映画観るよりずっと生々しくて

興奮した!!(^^)


8 :Nanashi_et_al.

俺も映像は手に入った。

他人の素顔をこうして観るのも初めてなので、

良く判らない不思議な感慨みたいなのがある……。


9 :Nanashi_et_al.

僕に取ってあの人は神だ。


10 :Nanashi_et_al.

>僕に取ってあの人は神だ。


やっぱりこうして神格化する奴が出て来たか……。

あんなの只の犯罪者で精神異常者、狂人だよ。

憧れてどうする?


11 :Nanashi_et_al.

>>10

まあまあ。多分>>9は思春期の少年なんだろ。

青臭い主張や身勝手な行動に共感して、重大犯罪者を

英雄視する奴等って必ず一定数出てくるんだよね。

所詮麻疹の終わってないガキ。


偶に出てくる異常者を社会が祭り上げると、

当人は勿論として影響された奴等も妙な思い上がりを持ち始める。

結局の所は只の異常者なのにな。


12 :Nanashi_et_al.

犯罪かどうかは兎も角、

お前は犯人と同じ位大胆な行動を取れるのかよ?

社会全体を揺さぶる様なさ。


所詮匿名って言う安全な立場からの批判しか出来ない癖に。


13 :Nanashi_et_al.

>>12

匿名と言う安全圏で批判しているのは今のお前も

同じじゃないか?


14 :Nanashi_et_al.

おいおい、皆落ち着けw

事件の性質や犯人像に付いて語るべきだし、

この儘だと話しが逸れて行っちゃうよ。


15 :Nanashi_et_al.

よし、仕切り直そう。

「この事件が発生させるに至った通り魔の

犯行動機、社会背景とは如何なるものか?」


16 :Nanashi_et_al.

犯人の犯行声明が全てを物語ってると思うけどな。

実際そのまんまだよ。

彼は社会の中で埋没した存在である自分に我慢出来ず、

自我や個性が欲しかった。


犯行声明文だって、上の事件映像の件みたいに

ネット上でならどうにか入手出来るでしょ。

今後警察側から公開されるかも知れないけど。


17 :Nanashi_et_al.

『御日柄も良く、崇敬なる糞っ垂れのインダーウェルトセイン政府様。

私は国籍番号742617000027番。本日『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』に永久就労が決定した一介の男性です。さて、不躾ですが早速本題へと入りましょう。


……私は貴兄等の崇高な理念と治世に拠り決定された強制労働を、

丁重にお断り致します。


―想えばいつからか、僕は僕の存在の実証性の無さが怖くて堪らなかった……。先進的で在るとされるこの社会の一視同仁な平等性が、

いつしか個を排除する悪平等だと感じ始めた。

あんた等のやり方が悪政なのか、僕が異常なのか、それは未だ解らない……。

只、僕はたった独りの、個人に由る独立宣言を此処で宣誓する。

僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。

僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。


ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、

この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。

己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ。


僕は僕が何者なのか自分でも解らなくなってしまっていた。

否、その不在を自覚し、意志を持とうとする時からが

真の人生の始まりで在るのかも知れないがね……。


無色から有色へ僕は変わる。

僕だけの色で、この世界を塗り替えて見せる。

今から始まる情景から目を逸らすな。

捕まる事等最早僕は厭わない』


18 :Nanashi_et_al.

犯人は気が狂ってるみたいに言われるけど、

この文面を読む限りではしっかり物は考えてるんじゃないか?


19 :Nanashi_et_al.

>>18

まあ青臭いと言うか、旧時代的だとは思うけどな。

現代の若者なら到底湧いても来ない心理の筈なのに。

この犯人だって元々は普通の大学生だったんだろ?


20 :Nanashi_et_al.

そう、何て言うか、別に犯人が言ってる様な事は考えた事も無いし、

犯罪に駆り立てられる程葛藤する事も無いと言うか……。

文章は理解出来るけど、心情はとんと共感出来ない。


21 :shadow:

>>20

犯人を青臭いとか言う奴は多いけど、

あの文面の心情が丸で理解出来ないって奴はもっとお子様なんだよ。

犯人の思索に対する肯定否定は兎も角ね。

例え否定側に廻るとしても、俺は彼の心情は推し量れるね。


22 :Nanashi_et_al.

>>21

それはつまりどう言う事ですか?


23 :shadow:

精神分析的に言えば『自我の目覚め』。

要はあの事件の張本人は、生きる意味や個性に付いて模索し始める段階に到達したから犯行に及んだと言う事。


赤子だと、精神が未発達なので自我や自意識と言うものは

希薄だろう?だが幼児年齢から段々と、自分の持ち物や

遊びに拘りを持ち始める様な行動が顕著になって来る。


そうして段々と人格形成がされて行く訳だ。

そんな『自己』と言う存在の確固たる認識が

欲しくなったりと、アイデンティティクライシスに陥いり易いのが

多感な思春期、と言うものだ。


そしてその実証を掴む為に努力するのが青年期と言えるだろう。

犯人は、少年とも大人とも言えなかった思春期から、青年期へと突入し始めていた。

端境期に於ける葛藤を解消する為の行動。

それが一連の事件の本質じゃあないかな?


24 :shadow:

今回の事件で、犯人の精神性に共感出来る奴は

上述した様な自己存在、自己証明に対する観念へ

何らかの形で鋭敏な部類。精神年齢的にも犯人に近い。


根本的に意味が判らないと言ってる奴は、

つまり『自分とは何か』『生きる意味とは何か』

と言った人類の永遠たる命題に考えが及ばない、

未だ自我や自意識が未発達な受身の子供と言う事。


若しくは、逆にそう言った葛藤を超越したか、

思索する事自体を辞めたと言う意味での『大人』。


25 :Nanashi_et_al.

良く判った。

犯人の動機に共感出来ない奴は、

つまり『自分は生きる意味に付いて考えた事も無い』と

言ってるに等しいと。


26 :Nanashi_et_al.

いや、でも生きる意味とかに付いて

悩んだ事が有るなら偉い訳?

別に俺達一般市民であって、宗教者や哲学者じゃないし。

考えなくても、例えそれが子供っぽい侭だとしても

社会に何ら迷惑は掛けてない訳で。


犯人が自分なりに思い詰めていたにしろ、

結局は身勝手な行為であって犯罪は犯罪じゃないか。


27 :Nanashi_et_al.

まあ確かに……。


28 :Nanashi_et_al.

善悪は兎も角、犯人が狂人とは言い切れないかもね。

前時代に、対人恐怖、視線恐怖の蔓延を抑止する為に

政府からヘッドギアの装着が義務付けられた。

そして大方の市民がそれを喜んで受け入れたと言う。


時代の変遷に由って、価値観とか常識が変質してしまっている。

まあ時代や社会の価値観ってのはボールの様に

転がる不規則で流動的なものだ。


自分達が生まれる前の古い時代だったら、犯人の言ってる事は

至極真っ当な意見なのかも知れない。


29 :Nanashi_et_al.

俺は断然支持するけどね。

今ネット上で探せば、映像だけじゃなくて写真として

犯人の御尊顔も拝めるよ!(^^)


30 :Nanashi_et_al.

犯人犯人、と言うのも何だし、

彼に名前を付けないか?

国民番号も判ってるけどそれだと長いし。


31 :Nanashi_et_al.

さっき精神分析が持ち出されていたよな。

基本的自己認識の「自我」から、高次元の

『超自我』を求めているので「スーパーエゴイスト」ってのは?


32 :Nanashi_et_al.

『スーパーエゴイスト』ってw


33 :shadow:

高次元の心理層だと道徳心や良心の制御と表出が主眼になって来る。

寧ろ自己解放を求める原始的欲望、犯罪衝動って方向じゃないかな?

だから『自我』より最下層に在る『原我』……。

エスやイドって言い方の方が適切な気がする。


34 :Nanashi_et_al.

エス……。

覚え易くて一番良いんじゃない?


35 :Nanashi_et_al.

エスで決定。


36 :Nanashi_et_al.

しかしエスって、逃走中だと言うけど

今どこで何してるのかな?


37 :Nanashi_et_al.

確かに。ヘッドギアのGPS機能から逃れられているから

警察も簡単に現在地は割り出せないだろうけど。


でもふらふらと街で食事をしたりホテルに泊まったり

する訳にも行かないし。


38 :Nanashi_et_al.

繁華街で生活するのは無理だよな。

となると、裏ぶれた掃き溜めみたいな

場所に逃げ込むしかない訳だ。


しかし近代に誇る先進都市インダーウェルトセインで、

整備や管理が行き届いていない区画なんてまず無いぞ?

だとすると犯人の潜伏先は自然と限定されて来る。


支持派は残念だな。

エスは近日中に呆気無く捕まると思うよ。


そうでなくても餓えや深夜の冷え込みって言う宿無しの生活に耐えられず、自首して保護を求めて来る様な情けないオチが付くかもね。


39 :Nanashi_et_al.

確かに有り得る……。

仲間なんて居る筈も無いし、こうなった以上

誰にも頼れないもんなあ。


でも逆に各地で強盗なんかを繰り返すって線も想定出来るから、

近隣住民は多少警戒した方が良いかもね。


40 :742617000027

俺は絶対に捕まらない。


41 :Nanashi_et_al.

>>40

えっ、この国民番号って……!

本人が御降臨!?


42 :Nanashi_et_al.

>>41

んな訳ないだろw

本人が書き込める状況に在る訳が無い。


43 :Nanashi_et_al.

まあ今の奴は冗談めいた騙りだろうけどな。

でもエスが逮捕されたとしても問題は収束しないかも知れないぜ?

ヘッドギアって言う主観映像のサブリミナル的危険性も在るから。


ヘッドギアを装着した侭で例の犯行映像を見続けている奴等って、

刷り込みが行われている様で怖いんだよな。

TVゲームが現実と非現実の境目を曖昧にする

有害性、みたいなのが社会的に問われていた時代も在った位だし。


単純に犯人の行動や思索に影響されるだけじゃなくて、

映像を観賞し続ける内に一種の催眠、洗脳状態に陥って

同じ様な事件を起こす奴って出てくるんじゃないかな?と

危惧したりして。


44 :copy.

……俺、今その状態に在る!

実は、事件現場に偶々居合わせた目撃者達の映像だけじゃなくて、

エス自身が装着していたヘッドギアの電脳記録が奇跡的に存命していたらしいんだ。

その映像は既にネット上の某所から流出して、段々話題に成りつつある。


その気になれば、エス自身の主観映像が拾って観れるんだよ……。


彼本人の視点から犯行声明や実際の犯行を見聞きしていると、

いつしか自分自身がエス本人なんじゃないかって錯覚が強まって来る様な……。


45 :Nanashi_et_al.

追体験して犯人と同一化し始めたのか……。

回線切れ。


暫くネットに繋ぐな。

それと映像は消去して一旦普通の生活に戻って忘れろ。


46 :copy-2.

自分も44と同様。

只、まだ自分がエスだと混同する様な

錯乱状態へ至らない段階で、ここを読んではっと平静を取り戻せた。


何回も観ていると、映画にのめり込む様な感覚以上に

それが現実の様な錯覚すら出て来ると言うか……。

マジで危ない精神状態に迄行き掛けていたかも。


47 :E`s.

テレビやネットで騒がれているのは偽者だよ……。

だって俺が真犯人だし……。


48 :Nanashi_et_al.

さて、この人の発言は本気なのか冗談なのか?


49 :ID.

違う。犯人は俺だ。

他の奴は自分が犯人だと思い込んでいる偽者なんだ。


50 :Nanashi_et_al.

今お前等だってヘッドギアは装着してるし

自宅かどこかで書き込んでるんだろ?

事件の張本人な訳ないじゃん。

それともやっぱり釣ろうとして愉しんでる?


51 :Nanashi_et_al.

まあこの文面だけじゃ本気とも冗談とも付かないけど、

エスをカリスマ扱いする奴や、それこそ自分自身がエスだと

思い込み始めた奴が模倣犯として出現し始める

頃合いに成って来たのかもな。


52 :Nanashi_et_al.

二次犯罪が続出したら、警察でも手に負えないんじゃないか?

一斉に皆ヘッドギアを脱ぎ捨て始める訳でしょ?


53 :Nanashi_et_al.

確かに凄い光景になるな。

でも所詮追従者は追従者……。

元祖の価値には勝てない。




……。シドはここ迄読み進め、或る決心を固め始めていた。

(エスだのイドだの、世論上の呼称等はどうでも良いが……。

―彼を助けたい。今の頽落した自分に決別を付けるには、彼と邂逅する事以外に考えられない。彼が警察に逮捕され最悪の場合死刑に処せられたとしたら、永遠に自分自身の転機の鍵をも失ってしまう。そんな強迫観念すら押し寄せて来る……。それにしても一市民の犯行が模倣者達を生み出し、遂には国政の安危すら脅かす程の影響力を持ってしまう事態になろうとはな……!)

 シドは、あくまで理知は保っていた。当時の犯行映像を観賞し続け、一種の追体験から自身がエスだと錯覚する様な影響者には陥っていない。エスに対する畏敬の念は有るが、盲目的信者では無いのだ。

(あくまで個人対個人として彼に出逢いたい……。寄り掛かり合うのではなく、自分自身の立脚で彼と同じ地平に立ちたい……)


54 :SID:

俺はエスを助けに行く。

自己を救いにも行く。


共犯者を求む。



 掲示板へそう簡潔に書き込むと、シドは立ち上がり音と光の洪水の中を決然と歩き始めた。そしてその様子を見て取り、同席していた仲間達が訝しげに問い掛ける。大音響のダンスミュージックや喧騒に掻き消されない様にと、張り上げられた大声。

「シド、どこへ行くんだっ!?」

 シドは背中を向けた侭、振り返る事も無く淡々と呟いた。その呟きは返答とも独り言とも付かない声音で、仲間達の耳元迄届いたかどうか定かでは無い。



「……救いに行くのさ、エスと、自分の心をな……」





              *




 国籍番号896501756と呼称される女性は、鎮座するしか他に無い自室の中でげんなりと溜息を搗いた。室内や玄関先、自宅周辺に頑強な刑事達が常時警戒態勢を敷き、張り込む様になってから数日……。

 本来見知らぬ男性達が、事件解決の為とは云え強面を崩さぬ侭で玄関先では凝立し、叉数人は室内で居座り続けると言う緊張状態では彼女も安堵する暇が無い。

 そう、一時期ぎこちない不仲に陥りつつも、彼氏に和解を持ち掛けた祝祭当日。祭典を一緒に観回る事も一つの和解の切っ掛け、と想いを募らせていたあの日。彼氏は突如として豹変し、街中で時の喊声を挙げ一躍重大犯罪者となってしまったらしい。

 返信の文面は彼女に対する別離の挨拶であり、社会全般に対する異心の告白であり、そして今正に決行する寸前の犯行予告だった。そこで事件報道が沸騰する頃合いと相前後する様に、彼女は世間を収攬させている通り魔が自分の恋人だったと理解した……。

 理解は出来てもその現実を受容出来ず呆然自失としている渦中に、門扉を物々しく叩く音が耳朶を打つ。扉を開けた瞬間、数人の精悍な男性達は儀礼的に警察手帳を彼女の眼前へ突き付けて来た。

……こうして数日間に渡り、警察からの執拗な事情聴取は行われたのだった。その上、犯人が彼女の自宅へ逃げ込んで来る可能性も想定される為に、警察は延々と居座り続ける姿勢を崩さない。彼女は一時も息吐く間が無かったのだ。

 そもそも警察から入念に事情聴取された所で、彼女が提供出来る有益な情報等一片も有りはしないのだが。一時期疎遠になりかけていた上に、恋人である筈の自分自身へも一度として打ち明けられた事の無い彼の内心。犯罪へ踏み切る前に長広舌を振るった彼の犯行声明……。

 彼がそんな風に煩悶を募らせていた事自体、彼女には全く察知出来無かった。今にして振り返れば、時折心ここに在らずと云った風情で物想いへ耽っている時も見受けられたかも知れないが……。

 ふとした一瞬、置物の様に微動だにせず職務を真っ当している刑事達の仏頂面が、彼女には異様に疎ましく想えた。しかしそんな閉塞した状況での鬱憤も、彼女は直ぐに自制しようと視線を逸らす。見方を変えれば、現在彼女は警察から24時間体制の保護に遇されていると云っても良い。

 彼氏……、現在では精神医学用語から准えて『エス』と俗称される彼氏は、素顔も身元証明も全てを包み隠さず世間へと開陳した。現在彼の実家へマスコミやパパラッチが連日大挙し、両親達がその対応に逼迫している事は想像に難くない。そして、更には大学関係者、同級生、友人、隣人へとメディアの質問攻勢は波及するだろう……。そこ迄食指が伸びれば、当然最後に記者達が嗅ぎ付ける格好の獲物は通り魔と交際していたとされる恋人の存在だ。

 加えてマスコミだけに限らず、当事者や関係者の自宅を突き止めた市井の行動は予想の範疇に収まらない。現在世論は激震している。エスの意想や行動を民草の代弁者として礼賛する信者層と、一種の国粋主義者達に由る讒謗とで、真っ向から対立を見せているのだ。時代を席捲するだけの影響力を放ち、毀誉褒貶を受けるエスとその関係者達を、過激団体がこの侭看過するものだろうか? 一種の政治思想者達の暴力的威圧を危惧すれば、身辺を常に警護してくれる存在は有難いものとも云えた。


……そして数刻が経つと刑事達の様相が変わり、俄かに忙しなくなり始めた。自宅での待機が長引き彼女にも疲弊の色が翳り始めていたのだが、突如周囲の空気が張り詰められ思わず神妙に背筋が伸びる。

「あの……、何かあったのでしょうか?」

 刑事の一人が、礼儀は弁えつつも憮然とした調子で答える。

「マスコミやネット上で、貴女の存在が明るみに出始めているんです……。こう言った事は、必ずいつかはどこからか情報が漏洩するものなので余り動揺して欲しくはないのですがね。兎も角近い内に、貴女の存在を嗅ぎ付けた記者や興味本位の野次馬達がここへ一斉に押し寄せる、と言う事態が考えられます。他には、不安にさせたくはないですが過激派の襲撃、と言う線も……。

 ですから、今の内にひっそりと貴女の寝泊りする場所を移したいのです。今、グランドフィアット『シュガーポッド』ホテルでの宿泊を手配している所です。なーに、我々は貴女に事件そのものの関連性は無いと判断していますし、寧ろ現在は警護する事が仕事の主体になりつつあります。宿泊もあくまで事件解決迄の一時的な間です。警察が威信を賭けて貴女を護りますので、ご安心下さい……」



             *



……そうして警察が配備した覆面自動車で秘密裏に護送される中、彼女は夜道の車窓からエスの面影を捜し続けていた。

 輻輳する喧騒。煌びやかな照明に色付いた街頭。行き交う膨大な通行人達……。無論、街中で逃亡犯の後姿等が見付かる筈も無いのだが、彼女の心中は全てエスへの懸想で満たされていたのだ。

 彼が意を決して吐き出した、胸中の告白を反芻する。

『自分を出すとは如何言う事なのか?』

『そもそも自分とは何なのか?』

『僕は、君にさえ胸襟を開いて接して来れなかったんだと想う。いや、開くだけの心がそもそも無かったんだ』

『僕の事なんかは忘れて、君は君の人生に踏み出して行って欲しい』

(……この社会の成り立ちに付いて、今迄思い巡らせた事も無かった。子供の頃から存在する環境を、通念を、疑う事も無く当然として受け入れて私も生きて来た。大半の人間なら常識として捉え、寧ろ享受すらしているヘッドギア。それが自己や個性を覆い隠す仮面だ等と、不満に感じた事も無かった……。

 でも、今迄の私の人生は全てが仮初めだったと言うの? 貴方と一緒に過ごして来た日々の全てすら、お互い内実の無い演技の遣り取りだったと言うの? そう突き付けられると自身の過去の全てが余りにも無意味で空虚な、吹けば飛ぶ様な幻想に想えて来て耐え切れなくなる……!)


(只、私自身が不穏な状況に巻き込まれてはいるけれど、彼に対する怨嗟等は一欠片も無い……。

 寧ろ、初めて彼を『知った』気がして来たのだ。視界に入る物全てが書き割りの様な非現実感の中で、一つ一つの物体や事象が有り有りと鮮明に浮かび上がって来る様な、そんな実在感がひしひしと湧き上がって来る……。この社会の機構が虚構だと提議された今。自身が危険に晒されている今。想い人の行方や安否を気遣い焦慮に駆られている今。危険や死が接近する事で、私は初めて『生』を実感している……。

 742617000027番。エス。ねえエス。貴方は心も身体も、本当の意味で素顔を世界に向かって曝け出した。自分に成った気持ちはどんなものですか? 今の私は危険が迫る事で初めて自身の実在を実感している、『生』と言う昂揚を生々しく体感している……! そう、そして貴方の行方を心底から案じる今、『他人』を想う事で初めて『自分』を獲得してもいる気がするの。

 ねえエス。私は今、身も焦がれる程に貴方を愛している。今なら貴方と、上辺では無い真の睦み合いが出来る。そして貴方と再会を果たせた時、その時は……。貴方に付き添い、私自身もこの顔を……)

 彼女の白魚の様に透き通った左手の薬指には、犯行以前のエスから贈られた指輪が嵌められている。真新しく擦り傷一つ見当たらないその虹色の指輪は、段々と早春を想わせる様な仄かな桜色を帯び始めていた。



          *



 742617000027番。現在、世情ではエスと俗称される重犯罪者を産んだ肉親達は思い掛けない事態を前に憔悴し切っていた。連日大挙する野次馬やマスコミ連中の監視を前に、彼等も叉自宅で蟄居せざるを得ない鬱屈とした状況下で過ごしている。

 妻方は精神的動揺から容態が急変し、数日間一切の飲食も会話も無くベッドルームで寝込んでいた。そして父親方は現在たった一人、消灯させた薄暗い台所の中で暗鬱と立ち尽くしている。その虚無的な様相は、幽霊と見紛う程に生命感が希薄だった。

 床に臥せる妻を甲斐甲斐しく世話し続ける中、連日押し寄せては尋問や情報収集を求める警察やマスコミへの一連の対応にと切迫し……。父親としての責務を意識し続けて来たが、彼自身も既に精神は疲弊し限界へと近付いている事を自覚していた。

 警察関係者ならば真っ当に相対せざるを得ないが、連日雲霞の如く押し寄せるマスコミや近隣住民、運動団体から成る野次馬連中を追い払う事は不可能に近かったのだ。

 ヘッドギアに由る監視機構がある為に、自宅へ下世話で侮辱的な落書きを書き殴る、窓ガラスへ石を投げ込まれると言った類の軽犯罪被害はまだ蒙っていない。しかしだからこそ過熱する暴動の熱量は捌け口を知らず、24時間絶えず何者かが自宅付近を徘徊し自分達を苛み続けて来ると言う、衆人環視の冷徹な蔑視として攻撃手段が取って代わっていた。

 自宅設備のシャッターやカーテンは全て閉め切っているが、今も四方の窓外から第三者達がうろつく気配があからさまな程に感じ取れる。父親は魂をも吐き出すかの様に深く慨嘆した。

(家庭の範疇に限らず近隣や学内でも品行方正と言う評判で通っていた息子が、パレードの最中に進行を妨害し、あろう事か社会に於ける最大の禁忌迄を冒したと言うのか……! そして更に犯跡を眩ませ、逃亡生活を続けていると迄……!!

警察からの急報を聴き付けた時は、誰かから祝祭に託けた冗談を受けているのでは、と訝ったものだが。まだ、今でも息子が突如発狂し、その様な犯行に走ったとは信じられない……!

 しかしあの犯行声明を手掛かりとすれば、息子は以前から強烈な犯罪願望を鬱積させていた様だ。これ迄生活を共にしていて、情けない事に息子の胸中や変化の仕方等、何一つ読み取る事は出来なかった……)


<……何故、エスと言う怪物は現代社会から産み落とされたのか……? 今迄何不自由無く円満な家庭で成育され、近隣や学校でも真面目で温厚な青年と評判の立つ彼が犯行に及んだ、その精神的病理とは一体何なのだろうか?>


 その様な一連の考察や議論は各種メディアで挙って展開され、警察からの事情聴取でも特に綿密に訊かれる事柄だった。

(原因の所在は家庭に潜んでいると言うのか? 教育者としての私達に責任が在ると言うのか?)

 しかし混乱する脳内で思索を幾等巡らせても、思い当たる節は何一つ浮かばない……。父親からすれば正に寝耳に水、と言った心境だった。

(確かに、あの子は幼時からどこか感受性が鋭敏な所はあったかも知れないが……。しかし思慮深く温和な性格だった為、時折物思いに耽る合間は見受けられたとしても、何かへ反抗を示す事は無かったと想えるのだが……)


 ふと、現状からの逃避や懐古の情も伴って、息子へ最大限の情愛を注いでいた極く幼い頃の日々が回想された。



…………。



(―「……お父さん、僕はこっちの道へ行きたいよ」


 自宅への帰路の中。藹藹と茜雲が棚引くの空の下、夕陽に照り映えるその子供は屈託無く反対方向を指差した。未だ年端の行かない幼児の他愛も無い気紛れ。こんな些細な我儘は、初めて我が子を得た父親としては寧ろ微笑ましい対話だった。

 男は、思い遣りを十二分に含ませ、子供でも理解出来る様にと一語一語を噛み砕く様に教え諭そうとする。

「まだヘッドギアの操作が解っていないのかい?幼児用と表示された項目に目線を合わせてオートモードにしなさい。

 良いかい?お前が今頭に被っているヘッドギアは生活の全てを支えてくれる素晴らしい機械なんだ。今、私達がお家に帰ってお母さんが料理を作って待っていてくれていると言う情報はヘッドギアに入力されている。私達の現在地や目的地を、機械が政府のデータベースと通信して距離や時間、道路状況等を計算する事で最適な経路を検出し教えてくれるんだ。

 ちょっと難しかったかな?つまりね、簡単に言えば画面に表示されている地図、矢印、音声に従って歩いて行けば、一切迷う事も無く目的地に着けるんだよ。ヘッドギアはこちら側の道路へ行く様に指し示しているだろう?」

 息子は暫く呆然と黙りこくって立ち尽くしていた。私は解り易く説明しようと心掛けたつもりだったが、これでも未だ年端の行かない子供には理解の及ばない範疇だったのだろうか?

 しかし、私が感じた若干の反省や解釈とは裏腹に、息子は子供特有の突拍子も無い奇妙な放言をし始めたのだ。

「……機械でも解らない近道は無いの?」

 今度は私が呆気に取られる番だった。子供の意を汲む対話とは容易なものではないのかも知れない。

「機械に解らない事は無いし、間違い等は決して起こさないよ。ヘッドギアは最も正しい答えを教えてくれるんだ」

「でも、あの庭の茂みを突き抜ければもっと早いんだよ」

 息子は誰も知り得ない秘密を明かすかの様に、得意気にその庭先を指し示した。私は反射的に声を荒げて説き伏せ様とすらし始める。

「お前は今迄人様の庭を勝手に横切っていたのか? そんな事は許されないし、機械の情報には無い、絶対に指示されない間違ったやり方だ!」

 私は父親として、社会人の教育的責務として若干威圧的に断じた。矢張り子供へ言い聞かせるには、多少の権威を滲ませなければならない場合も有り得る。しかし、それでも息子は承服し兼ねる態度を崩さず、他愛の無い質問を止め処無く語り続ける。

「もし、裏道で見た事の無い綺麗な景色があったらどうするの?」

「いいかい、素直に言う事を聴きなさい。目的地に着く事が大事なのであって、途中の道のりや景色等は関係無い、どうでも良い事なんだ。気紛れなんて何も齎さない。ヘッドギアの指示には従わなくてはならないし、その通りに従っていればヘッドギアは万能で間違い等無いんだから……」―)


……そうだ、あの子は指示に無い道へ行きたがる事が間々見受けられた。それは幼児特有の無邪気な好奇心や他愛無い気紛れと看過して来たが……。

 ヘッドギアが文章や音声映像を同期させ低度の警告を発する。

『ヘッドギアの指示に従って下さい。進行方向と目的地が違います』

『ヘッドギアの指示に従って下さい。現在時間から到着予定時間を修正する必要性が生じます』

『ヘッドギアの指示に従って下さい。ヘッドギアの指示に……、ヘッドギアの指示に……』

 思えば現代社会の人間は誰一人として道に迷った経験が無い。息子は、敢えて見知らぬ道へも踏み出したい、迷う事で得られる何かも有り得るのではないか、と子供ながらに精一杯訴えていたのではないか。


 ここ暫く本格的な調理作業がされた形跡の無い整然とした厨房は、住人達が存在していると言う生活感の様なものを日に日に希薄にせしめていた。

(……もう、私自身も疲れ果ててしまった……。責任を取ってこの人生を終わらせたい……)

 普段料理は妻に任せ切りで、道具の配置一つ覚えていないものだが……。そんな小道具一つ取っても、ヘッドギア電脳は画像記憶、映像記録から物品の情報も詳細に提示してくれる。

 画像や名前を検索すると、個人の記録映像からどこにその品物を置いていたのか、個人の使用回数から頻度迄も時間を巻き戻して精査する事が可能なのだ。また逆に何等かの道具を視認した際、対象に於ける名称、使用方法等も逐一百科事典を紐解く要領で調べられる。

 父親は、台所の戸棚に仕舞われていた包丁をヘッドギア情報から見付け出すと、その刃物の放つ光沢にじっと魅入られていた。

―そして次には、無造作にその鋭利な切っ先を自分自身の首へと向ける。しかし刃物を実際に首へ宛がおうとした矢先、ヘッドギアは周辺へも轟くかの様に突如大音声の警告を発し始めた。

『警告します。現在、包丁に於ける持ち方が一般的な使用方法から逸脱している可能性が感知されました。使用者本人に重篤な危険が及ぶと判断された場合、速やかに中止を促す様に政府管理下の基、ヘッドギアは設定されています。

若し使用者に由る意図的な自殺、と映像記録から判断された場合、その後の国民保険は遺族へ適用されません……。

 繰り返します……。若し使用者に由る意図的な自殺、と映像記録から判断された場合……』

 父親は悄然と包丁を振り下ろした。例えば台所から火事を発生させる、高所から飛び降りる等と試みても、ヘッドギアは事前に防御機能を働かせ周囲へ大音声での警告音を発する。それと同期し、異変時の急報は身内の者や近隣住人達へと瞬間的に伝達され、事故の防止や応急処置の指示をも的確に図る事だろう。そして政府直属の救助隊は事故現場へ迅速に到着し、その高度な医療技術を以って簡単には自殺志願者を彼岸へと向かわせてはくれまい……。

(……私には、ヘッドギアの警告を無視して迄自殺し切るだけの度胸等、最初から持ち合わせてはいなかったのだ……。

 息子よ、私は生活も生死も自我さえも、全てをこの電脳へ委ねていたのだと、漸くお前から気付かされた……。

 私の足元には何も無い。

 本来生き続ける中で、自分自身で築き上げるべきだった、揺らぐ事の無い確固たる地盤と言うものが……)


 片手に携えられていた包丁は、力無く開かれた掌から滑り落ちる。そして、カタッ、と空虚な音を立てて、その身を静かに床面へ横たえた。




             *




・第三章・『交錯の舞踏~誰と踊りますか?~』


 暗然とした空間の中を一心不乱に歩き続けている……、出口を見晴るかす事も出来ない程、延々と伸び往く通路を。横目には鈍色をした水流が続き、せせらぎが耳を擽る。

 ここはマンホール下の暗渠。僕が下水処理場に潜伏してから多分数日が経つ。

 発作的に市街で犯行を起こし逃走中の今、思い出すに付け我ながら大胆不敵な行動に及んだものだ、と驚嘆する。きっと地上は物情騒然としている筈なのだが、警察が僕の居場所を嗅ぎ付ける迄、後どの位の時間が掛かるのだろうか?

 本来僕が突発的に犯行を起こす前から、逃走経路が皆無と言う事は暗黙の周知だったのだ。区画整理と警備網が徹底され、尚且つヘッドギア自体が自己認証となる近代都市インダーウェルトセインに抜け穴等は有り得ない。犯罪発生率自体が僅少なこの世界に、犯罪者達が密集する魔窟等も殆ど存在し得ないのだ。政府の方針の下、前時代からとっくに浮浪者やその住処等も一掃されている。

 現代には路地裏が無い……。訳有りの人間が追い遣られる掃き溜めの果てが。当然都市の公的交通機関は多岐に発達しているが、目下追跡中であろう僕が利用出来る筈も無い。そこで僕は先ず中心地から離れ隣町を目指そうとし、徒歩で大衆の目を掻い潜る為にと一計を案じマンホールの蓋を開け地下へ潜入した。

 それに、地下道へ潜伏するならば深夜から早朝に掛けての冷え込みや天候不順もある程度は防御出来る上、他者の気配を懸念せず睡眠にも入れると踏んだのだ。時折空腹を覚えた時は、深夜を見計らって地上へと浮上する。そこで夜陰に乗じて人目を盗み、レストランや食品店の残飯を漁り出しては叉翻る様に地下下水道へ逃げ込む……。ここ数日はそんな未体験の潜伏生活を繰り返していた。現代は治安が良く、浮浪者や何某かの犯罪に免疫の無い市民ばかりだ。食品店の人間も何者かに残飯を探られる様な経験は皆無に等しいのだろう、これ迄誰かに気取られる事は一切無く、首尾良く食物を失敬している。

 摩天楼の地下世界に潜む魔人―。時折自分がそんなミステリーホラーに登場する怪人の様に想える。

……そして今では、僕の目的と進路は徐々に変移し始めていた。都市中枢部から隣街迄逃げ果せたとしても、それは束の間の存命に過ぎない。ヘッドギアを自ら脱ぎ捨てた以上、一般人を装う様な擬態は不可能だ。最早僕の逃げ場は世界の何処にも無いのだ、世界の何処にも……!

 最果てにすら居場所が無いとすれば、取るべき手段は一つ。そう、社会へのテロしかない……! 胸中は我ながら澄み切った蒼空の如く静穏としていた。正直に告白すれば、先日の大罪にも良心の呵責と言った殊勝な感情は一抹として無い。これから攻勢を仕掛けようと変心し始めた事にも、何の臆気も湧かないのだ。


 僕は『自己』を欲し犯行に及んだ。


 仮面を脱ぎ捨てると言う行為は、自己存在を獲得する為にはどうしても必要な通過過程だったのだ。無色透明な存在から脱却し唯一と成る為にこそ不文律から違犯したのであれば、いつ迄もこうして

溝鼠の様に地下を徘徊している訳には行かない。それも叉無色透明の一形態と堕してしまうからだ。

 有色で在りたいのならば、隠逸は不可。それは誰にでも無い、自分が自身へと架した誓約の様なもの……。例えどこかに世間の目や警察の追手から遁れられる隠れ処が存在したとしても、そこへ安住する事は許されない。

自身の理念と覚悟を立証し続けるには前進以外は無いのだ。統一記号で構成された社会へ、唯一の記号を背負い身を投じる。

―つまりは素顔の侭社会へと対峙する。それだけだ。それ以外には道は残されてはいないのだ……。




              *




 都市全体を眺望出来る、高層ビルの一角インダーウェルトセイン・シティビュー。その市街の景観に魅入る事も無く、寧ろ睥睨しながら忙しなく足踏みを続けている恰幅の良い男が一人。

―警官達を大量動員し、市街全体に警備網を敷いてから数日が経つ。しかし一向に目撃情報が収集されない事等から、ロイトフは更に焦慮を募らせていた。世論から自然と呼称が定着して行った通り魔『エス』……。大規模な捜索の中でも奴の足取りが依然として捕捉出来ない。

 奴の所在はどこだと言うのか? たった一人の逃亡犯も捕獲出来ない様では警察機関の信用問題に関わり、引いては国家全体の威信と安危にも関わる重大問題にも成り得る。犯人捜索の成果が振るわなければその日数に比例し警察機関への重圧は増大する一方で、反面、権威は失墜して行く……。

 自身の地位が根底から脅かされている現在、ロイトフは見るに耐えない程焦燥し切っていた。

(―唯一の救いは、捜査を撹乱する様な偽情報や誤報が通報されない事だが……)

 そう、現代ではヘッドギアに由る個々の存在認証が徹底されている。ネット上の掲示板程度ならば匿名同士でのやり取りも容認されているが、当然個人情報は全て記録されているのだ。確実に身元を特定出来るが故に、警察へ通報する場合匿名を押し通す事は不可能。前時代ならば、大事件が発生する度に悪質な悪戯としての偽証迄もが爆発的に警察元へ舞い込んで来ていた筈だ。現代では通報者の身元を割り出せる以上、こう言った怪情報に惑わされる心配は無い。

その情報の正確性だけが今では唯一の生命線だった。

 しかしロイトフが釈然としないのは、犯人の足取りが一切掴めない事だ。突発的に発生した事件とは言え、現在では都市全体を包囲する様に厳戒な警備体制が敷かれている。エスが逃亡を謀るなら、

どうあっても交通機関の要衝に突き当たる筈だ。例え人目に付く街区を避けて歩いたとしても、いずれはどこか、街と街との橋渡しで何等かの関門を通過する必要に迫られる。

 陸路、空路、海路、地下……。想定出来得る交通手段の中、エスは何を逃走手段に用いたのか? 公園や路地裏に生息していた所謂ホームレス等は、美的景観や社会福祉の名目から前時代に一掃されている。難民にもヘッドギアと就労先が付与された為、現代では道端に棲む人間達も存在しない。犯罪者や難民が密集する様なスラム街が存在しない以上、エスが一定の場所に潜伏し続けている事はまず考えられない。否、潜伏にしろ逃亡にしろ、最早エスには世界のどこにも行く充ては無い筈だ。

(だとすれば、奴の現在の所在は……?)


 陸路。奴は一先ず馬車へ無断乗車したとは言え、現在も使用している筈は無い。徒歩ならどうしてもどこかで人目に付くが、バスやタクシー、乗用車の線も有り得ないだろう。

海路。船上で追手と対峙する場合、海上では逃走手段が余りにも限定され過ぎる。

 空路。空港へ潜入する? 確かに、前時代では偽造パスポートの使用や整形による成り済ましでの密入国等、潜入方法は幾通りも実在した様だ。不法入国者を介助する為に、仲介者が人間を鞄に詰め込んで税関を通過していた様な前例すら多々見受けられたと言う。検閲の目をあっさりと欺き、隠し通した武器を持ち出して空港や飛行機の内部で犯行を決起したテロリスト達の事例も寡聞では無い。

―エスは何等かの偽装工作を謀って飛行機の内部へ潜入し、それこそ今では海外へでも高飛びしているのか?

 否、前時代ならいざ知らず、管理体制が向上した現代で完全な潜入工作等可能なものだろうか? 人間を鞄に詰め込んで荷物に見せ掛けて移送する事も、協力者無くしては不可能な犯行計画だ。 

……矢張り明確な選択肢が浮上して来ない。本来防犯体制が磐石である筈の近代都市インダーウェルトセインで、監視網に掛からず犯罪を遂行する事等は……。

 尚且つ市民一人一人に装着が義務付けられたヘッドギアは、一種昆虫が持つ複眼の如き構造を持った視覚網でも在る。ヘッドギアは装着者本人の内外両面で、自然と監視カメラの役割をも果たしているのだ。何気ない日常生活も個人の動向は主観映像として記録される上、視界に入る外界の事象もその侭全て自動保存が為されて行く。故に現代に於ける電脳社会の機構には、個々が相互に監視し合っている様な側面も自然と備わっていた。

 最後に想定される線は地下……。地下鉄は路線が多岐に渡り発達しているが、地上から降りる事はそれ以上逃げ場の無い閉塞を意味する。論を待つ迄も無く地下鉄は最も可能性の希薄な逃走手段だ……。


…………。


(否、待て。確かに公的交通機関を利用する事は、現在のエスに取っては不可能に近い。中でも地下鉄は逃走手段として最も不都合だ―。が、しかし、元々奴が公的な交通機関や公的な行路を選択するだろうか? そもそも公的機関に警備の要点を置いたとしても、発見出来る筈が無かったのでは……?

 監視や捜索の目が行き届かない場所はまだ幾つか数え上げられる。地下鉄は最も低次の警戒区域と関係者達は断じているが、例えば『地下下水処理場』ならどうだろうか……!?)

 ロイトフはヘッドギア画面上からネット接続を図り、政府要人だけが集結する極秘サイトへとアクセスする。

 トップページは極秘サイトで在る性質上か、一面黒塗りで主張の無い、地味で簡潔なデザインだ。訪問者を出迎える看板には、重厚なロゴデザインで<クラブ・ユング>とだけ記されていた。

ロイトフは勝手知ったる様子で手際良くページ内のコンテンツを操作し、早急に各様の要人へ伝令を掛ける。

「至急捜索隊を召集し、本部指定区域から機動開始せよ。具体的現場は……」



             *



 警察官のヘッドギアには、仕様として数種類以上の特殊機能が内臓されている。防犯機能として『集音』、『遠隔視』、『赤外線透視』、『異臭探知』等の能力が付与されているのだが、特殊機関仕様のヘッドギアは目下捜索中のエスへ対して徐々にその効果を発揮し始めていた……。

 冷然とした地下下水処理場の中、ロイトフに由る厳命の下でマンホールから地下世界へ潜入した捜索隊は、既にエスの足跡を掴み掛けている―。当初、地下への調査命令が下りた際は誰もが首を傾げたものだが、今では捜索に従事する者達全員が長官の推測に信服の念すら覚え高揚していた。

 エスが地下へ潜伏していると言う仮定から事件現場の区画内で捜査を開始した所、まず一箇所のマンホール蓋が強引に抉じ開けられたかの様な形跡が発見されたのだ。これは周辺の指紋採取を図れば更に正確性が増す為、ネット通信を介し早速鑑識へ検索依頼が掛けられている。

 そして肝心の地下世界の様相だが……。ヘッドギアの内部気圧計や温度計から、従来の地下下水処理場とは異なる微妙な変化が計測された。つまり、何者かの侵入に由って地下の気圧や温度が変移した、と言う可能性が浮上して来たのだ。葉脈の様に地下世界を網羅する下水道内だけに、一人の人間の所在を突き止めるのは砂漠で砂粒を選り分ける程に困難な作業ではある。しかし、少なくとも犯人の逃走手段迄は看破した。後はエスの逃走経路と現在地を読み解く迄に捜索活動は進展しているのだ……!

 どこに潜伏しているか計り知れぬエスの急襲を警戒しながら、捜索隊は慎重にその歩を進める。何者かの足跡を発見出来れば、靴の型や進行方向、泥や埃の堆積、鮮度等の要素から科学的に精査して行く事も可能なのだが……。 

……そして暫くして不意に、一人の隊員が大仰な声を張り上げ上司格の男へと誰何した。

「隊長、見て下さい、これ……!」

 一人の部下が指し示すその先を、反射的に一同が振り向き一斉に凝視する。示されるその先には、薄闇の下に翳りながらも目に付く異状が横たわっていた。

 通路の片隅に打ち棄てられた残飯……。これはつまり、下水処理場の通路で何者かが食事を済ませた、と言う物的証拠だった。この形跡を見て取った瞬間に、捜索隊は一様に騒然とした声を挙げどよめき立つ。犯人の特定に緊張を感じ萎縮する者、既に犯人を逮捕したかの様に愉悦を感じ浮き足立つ者と、各人の反応は千差万別だった。

 そんな各様の反応を窘める様に、上司格の男は一喝する。

「気を引き締めろ! 犯人が近いと言う事はこちらにも危険が及ぶかも知れないと言う事だ。自暴自棄になった相手は何をしでかすか判らんぞ。

 そして、万一にも奴を取り逃がす訳には行かない。捕獲出来るなら今この時、この場所しかないのだ!!」

 鶴の一声に、一同は一瞬にして襟元を正す。勿論恫喝しながらも、上司格の男にも興奮や恐怖心は内心で脈打っていた。しかし隊を指揮する役割上、部下から気取られない様に平静を保つ事は義務に近いのだ。


―そして全員が神妙になったその刹那、ヘッドギアの集音機能から一定の規則を伴う音が鼓膜を掠めた。

 一同はダイヤルを最大限に上げ耳を欹てる。


……カツ、カツ、カツ……。


 コンクリートの床を反響させているその物音が、人間の足音だと判断する迄に数瞬も必要は無かった。

「奴だ! そう遠くないぞ!!」

 部下達へ一斉に動揺が走る。しかし言うが早いか、部下達の反応を確認する前に隊長格は疾駆し始めた。聴取される足音、歩調の質や音量をヘッドギア電脳に計測させ、犯人の大よその現在地と方向性を探る。

(自分とエスとの距離間は凡そ数百メートル、北西の方角と言った所か……!)

 息が乱れる程に疾走する最中、隊長格の男はヘッドギアの視界を夜間用暗視スコープへ切り替える。

 真暗闇でさえも視認可能とさせる赤外線照射機能を付加させ、視界可能距離は150メートル、最長認識距離を100メートルに迄引き上げさせた。その上で高感度な温度検知能力に由る体温自動追尾機能を同時展開させる。ヘッドギア内部の視界には、熱画面と可視画像の同時表示が瞬時に成された。これに由り、高温点の対象が移動し続けても捕捉が消失する事は無い。

 何より現在、地下下水処理場に存在する人間の体数等は極く限られている。温度検知能力は、捜査する熱源を人間の基本体温一点のみに設定して置くだけで良いのだ。

(地下世界ならば、追い詰めた先はどこにも逃げ場の無い閉塞……。それ以外は無い。ここ迄来れば奴の捕獲は目前だ……!)

 微かに響く声音や足音から、部下達も懸命に自分を追走している事が背後からも感じ取れる。しかし彼は仲間の追随を心強く思うよりも、本心では疎ましいので振り切りたい、と拒絶すら覚え必死に

脚力を上げて行った。

 それは社会的注目を浴びる犯人へ接近している事を生々しく肌で実感し、急激に本人の胸中で下賎な欲目が擡げ出した故の心境だった……。


(―手柄は俺の物だ、俺の功績だ……! エスを捕らえ、世間を席捲する英雄はこの俺と成るのだ……!!)



             *



―水路から足早な歩調が反響し始めた事に気付いた。

 不意に僕の鼓動は加速し始める!

 地下の構造上、壁に反射した音が茫洋となり多方面から反響音が耳を覆う様で、当初はそれがどの方向から響いて来るのか判断が付き兼ねた。只、現状に於いて言える事は一つ。

―地下下水処理場に自分以外の他者が潜入した、と言う抜き差しならない事実だ。

 何者が下降して来たのか? 下水処理場の作業員か、それとも矢張り警察の捜索隊か……? どちらにせよ長居は禁物だ。仮にその何者かが警察だとすれば、正直想像以上とも言える捜査の進度だ。

 まず僕が懸念と後悔に囚われるのは、ここ迄の道程で食後の痕跡を残して来てしまった事だった。若し警察が地下へ潜入し僕を追跡し始めているとしたら、これ程明白な追尾の筋道はあるまい。それは丸で道中にパン屑を点々と撒いて行ったヘンゼルの様なものなのかも知れない……。童話との相違はそれが家へと引き返す道筋にもならず、追跡の手掛かりにしかならないと言う事なのだが。

 ともあれ僕は気を取り直し、現状から逃げ切る為に足音を反響させない方法を即興で考案した。

 靴を脱ぎ捨てれば又それも逃走時に於ける痕跡の一つになってしまう為、敢えて靴の上から靴下を覆う様に履いたのだ。これならば、足音の反響は軽減出来る上に足跡も残らない。

 六角形状になった蜂の巣の如き迷宮を、足音を殺す様に自重しながら速足で歩を進める。何者かが追手だとしても、これだけ複雑に入り組んだ下水道では簡単に僕の所在は掴めない筈だ。外部者の存在を事前に察知出来た事は幸運だった。


―未だ捕まる訳には行かない……! そして今なら僕は逃げ切れる、逃げ切って見せる……!!




            *



 可笑しい。僕は足音や足跡が気取られない様な工作を施し、慎重さを失しない侭俊敏に逃走を謀っている筈なのだ。地下道は眼前がやっと視認出来る程度の薄闇に包まれているし、方向感覚を失ってしまう程に複雑な通路構造となっている。僕はこの迷宮を、時には敢えて遠回りすらする様に方向転換しつつ進行していた……。

 しかし、それでも背後から接近して来る影を振り切れている気がしない。拡散していた外部者の足音も、今では一方向から鳴り響くものだと断定出来た。その歩調には惰性や逡巡が欠片も無い。或る強靭な意志や目的を、確信を持って踏み締めている―、そんな一本気な行進の足音なのだ。

 背後から迫り来る人間は僕と言う存在を感知している。断じて地下下水処理場の作業員等では無い、明らかに僕の捕獲を目的とした警察からの追跡者だ! しかしGPS機能を打ち捨てた人間を、こう迄精密に追尾出来るものなのか? 警察官等には、一般市民が装着するヘッドギアの基本機能に加え特殊防犯機能が複数内蔵されていると聞き齧った覚えは有るが……。

 この正確な追跡もそのヘッドギア機能の賜物とすれば、分岐路をわざと迷走して見せた所で何の撹乱にもならないと言う事か……。


―不味い。徐々に追跡者との距離が縮まって来ている。奴等は確実にヘッドギアの特殊機能を駆使して僕を追尾している、と実感させられた。その上、仕事柄彼等は相当に訓練された精鋭の筈だ。何の武器も無く丸裸同然の上、数日の逃亡劇で疲弊している僕はあらゆる条件で不利だった。

 段々と奥まった場所以外の選択肢が無くなって行き、言い様の無い焦燥感が全身を貫き始める。

 行き止まりだと一巻の終わりだ……!

 異臭は満ち、その不快さに鼻を顰めつつ足だけは停めない様にと前進し続ける。しかし閉塞する空間のせいか焦燥感は益々と煽られ、胸の鼓動が再度加速し始めた。心臓が際限無く膨張し、脳裏で冷や汗を掻き、手足の末端迄が恐怖心で震え始めるこの感覚。

 不味い、不味い、不味い……!! この侭では呆気無く捕まってしまう。僕は傍目からしても不様な程に惑乱していた筈だ。

―そして、薄闇の中で、更に愕然とする絶望的な事実が立ち塞がった……。

 暫く思考停止して、僕は呆然と立ち尽くす。何かの要衝か警備システムなのか、眼前には行く手を遮る様に鉄の扉で厳重に封鎖されていた……。横手にはカード認証装置やコントロールパネルらしき物が設置されている様だが、素人の僕が操作等知悉している筈も無い。仮に操作方法が解った所で、作業員でも無くヘッドギアすら装着していない僕が、認証識別を無事に通過する事等土台不可能だ……。

 背後から迫り来る足音の音量が段々と高まり、明確に聞き分けられる程接近して来ている事が感じ取れた。

 その追跡者からは、犯人と思わしき僕に対して一言の誰何も無い。声を掛ける事で僕が反射的に逃走するか、反撃して来るかを危惧しての事だろう。そして、僕に投降を勧告する様な説得の必要性を彼等は根本的に有していない、と言う一面もある。

 それも至極当然だろう。更正の余地が見受けられる軽犯罪者なら兎も角、僕は既に長期間の懲役どころか死刑すら有り得る身の上だ。そんな重大犯罪者と一先ず平和的に論議しよう、等と言う程に警察が寛大な訳も無い。彼等は既に、武力行使してでも僕を捕獲し様と思い詰めている筈だ。

 無意味な行為だと解り切ってはいるものの、僕は眼前に立ち塞ぐ鉄扉を何度も叩き続けた。手先に走る苦痛も介さず、骨へと直に衝撃が響く程鉄扉を殴打し続ける……。

 駄目か、もう駄目なのか……。僕は志半ばで、こんな辺鄙な所で捕まってしまうのか……。

 諦念に囚われ、冷え切った地面へと力無く頽れそうになる。

……しかし何とか重厚な鉄扉へと寄り掛かり、僕は倒れ切る前に自分を支えた。明瞭な思索が紡げず、恐怖心や絶望感の闇が脳裏を覆い、呼吸迄も塞がれる様だ……。吐き気すら催され呻く中で、僕は懸命に自分へ言い聞かせ、なけなしの勇気を振り絞ろうと必死だった。

―そうだ、どうせ捕まるのなら、やるだけの事はやって散ろうじゃないか……。

 不様でも最後迄悪足掻きは通す。そんな気概を遵守しなければ、僕の犯行声明や行為は虚偽のものと堕してしまう。……それだけは許されない! 絶対に!! そんな妥協や諦念こそ、僕が最も唾棄していた大人や社会の姿勢と言うものだったじゃないか!!

捜索隊は武術訓練を施されている上に、各種武器も所持している事だろう。そんな精鋭達を相手取り勝算は無いが……。だが、少なくとも一人か二人は道連れにして死んで見せる……!

 そう覚悟を想い定めた、その時だった。

…………。足元から地響きが、身体全体を劈く程に伝導し始めた……。一瞬地震かとも錯覚したが、丸で眼前へ光明が差す様に、足元から天井へと鉄扉が上昇して行く……!


 そんな馬鹿な。僕には鉄扉を開門させる事は不可能だ……。あちらから道が開かれる事等有り得ない……。


 しかし充満した異臭を風圧で吐き散らし、仄暗い地底へ曙光が照らされるかの様に、先への扉は開け放たれたのだ。次の瞬間、僕は更に驚愕する事となった。

 開かれた鉄扉の向こうでは叉も何者かが立ち尽くしている!

 僕は一瞬、行く手を塞ぐ扉が開門された事で一縷の希望を感じた。しかし眼前の人間が視界に飛び込んだ瞬間、捜索隊から挟撃の構図で追い詰められていたのか、と叉も絶望の疑獄へ精神が堕ちて行く……。

 もう、駄目なのか……?

そうして事態を受容し切れず呆然としている刹那、眼前の相手は僕へと躊躇無く歩み寄る。反射的に身をたじろがせるが、相手は意に介さず僕の頭部へと手を伸ばし抱き込んで来た。

不意の行動に、矢張り捜索隊の人間が繰り出して来た逮捕術なのか、と気が動転する。しかし、相手の懐から解放され視界が開けた瞬間、奴は僕を平然と押し退けた。

 危うく地面へ倒れ込みそうになり膝を着く。……そして束の間の解放から、僕は単純な事実を察知する。今、僕の頭部を抱き込んで来た相手は、背丈や体格、服装からして青年……。それも警察や軍事機関とは凡そ無関係な一般市民と見受けられた。 

 ヘッドギアの下から全身は、無数の安全ピンと刺々しい鋲で留められた鉤裂きの服、タータンチェックのボンテージパンツと言った風体だ。その極彩色で一種生々しくささくれた意匠は、旧時代から連綿と続く音楽、服飾文化に於いて代表的な型だった。察するに、パンクスと呼称される様な人種だろうか? 政府へ反体制を表明する様な、あの……。そして察知した事柄の二つ目は、僕が彼に頭部を抱き込まれた理由だ。僕の聴覚は今や封鎖され、逆に内耳では身体の律動が雑音の様に輻輳している。

 ヘッドホンだ。僕は彼から、防音を目的とする様なヘッドホンを無理矢理装着させられたのだと気付く。無音の状態の中、振り向くとこちらへ向かい疾駆して来る一隊が視界に飛び込んで来た。僕を追跡して来た捜索隊だ! とうとう警察はここ迄追跡を果たし、僕の発見に成功したのだ。彼等の鬼気迫る様相を見れば、僕を断固として捕獲しようと言う気迫は一目瞭然だった。

 もう走る事で振り切れる距離では無い……!! こちらへ目掛け走り寄って来る警官達を前に、僕は暴力を行使してでも抵抗しようと覚悟を決めて拳を堅く握り込んだ。屈強な集団を相手取り、果たしてどこ迄闘えるかは量れなかったが……。対して、僕を押し退けて警察へと立ち塞がったパンクスは一向に動じていない。毅然さを固持した侭奴等へと対峙する、彼は何者なのか? 一体何の目的でこの地下下水処理場へ下降して来たのか? そして何故、警察と僕が衝突する危機的状況へ即妙に到着出来たのか?

 そんな疑問が泉の如く次々と湧き上がる中、ふと気付くと彼の片手には何等かのコントローラーが携えられていた。彼が徐にその装置へ手を掛ける。

……するとその一瞬の後には、こちらへと息巻いて突進して来る隊員達の歩が明らかに鈍った。

 突如その場で静止し始める面々に、僕は怪訝な顔を浮かべる。接近して来る一隊は、どうした事か大仰に頭を抱え込み、次々に地面へ倒れ臥して行ったのだ……!! 彼等はきっと苦悶の悲鳴を挙げているに違いないが、防音ヘッドホンを装着した僕に取っては、無音の侭一人一人が崩れ落ちて行く一種異様な光景にしか映らなかった……。

 僕が事態を呑み込めず呆気に取られていると、パンクスは僕の手を引き、開かれた扉の先へと先導し始めた。

 信じられない。彼が何をしたのか……!? 逮捕される寸前の窮地に迄追い込まれたが、若しや僕はこうして逃げ切れてしまうのだろうか!? 並走する中、青年は手振りで僕の頭部に装着されたヘッドホンを着脱して良いと指し示す。そこで僕は素直に彼の指示へ従い、耳を覆っていたヘッドホンを取り外した。

 その直後、初めて青年は僕に向けて声を発する。

「前を向いた侭で居ろ」

 それが第一声だった。渋味の利いた低音の声……。だがその声質や話し方から、矢張り彼は僕と同世代程度の若者であると直感的に推し量れた。僕は彼から出された指示の真意が理解出来ず、横目で状況を一瞬だけ盗み見る。

 すると倒れ臥していた隊員達の一群から、息も絶え絶えながら這い上がろうとする一人が見て取れた。流石に国家機関の組織だけあり、相手も一筋縄では行かない。立ち位置や雰囲気からして、その唯一再起しようとしている男は一隊の指揮権を持ったリーダー格なのだろう。

「良いか!? 絶対に後ろを振り向くなよ!!」

 真意は計り兼ねたが、僕は彼の指示に従い更なる全力を両脚へ込めて地を蹴立てる。風は切り裂かれ、視界が更に狭まって行く。丸で自我と肉体が別物として分離したかの様な自意識の消去……―。

 そして数瞬の後、大音響と共に、仄暗い地底を真昼の様に照らす閃光が背後から瞬いた!

 丸で僕等の逃走を後押しし、道筋を照らし指し示してくれるかの様な聖火……。僕にはそんな祝福と気勢の火花が散ったかの様に感じられた。と同時に、リーダー格と思わしき男が挙げる苦渋に満ちた声が微かに漏れ聴こえて来る……。明滅する空間の中で好奇心を堪え切れず再度横目で後方を見遣ると、リーダー格の男はヘッドギア越しに両目を押さえ込み蹲っていた。正体不明のパンクスに由る、何らかの妨害工作が奏功したと言う事なのだろう。

 パンクスは僕と並走しながら、息を弾ませ快哉を叫ぶ。

「ざまあ見やがれっ!! クソッタレの政府の犬共めっ!!」

 程無くして分岐路に突き当たった。しかし、そのパンクスは本来辿って来た道順なのもあってか、勝手を知った様に逡巡無く僕を先導し始める。そして辿り着いたその先には壁に打ち付けられた錆付いた梯子が在り、天井からは微かに開いたマンホール蓋が見て取れた。


 出口だ……!


 僕は逃げ延びる事が出来るのか……、謎の青年に由る助力の甲斐もあって……。

彼は手際良く梯子を昇り切り、僕を出迎える様に頂上で待機した。後へ続く様に、僕自身もいそいそと梯子に手を掛け出口へと昇り始める。そして程無くして昇降口付近に到達し始めると、僕はふっと一瞬顔を顰め眼を眩ませた。しかしそれは不快だからでは無い。


―マンホール蓋の隙間からは、外界から一筋の光が射し込まれていたのだ……。





            *





・第四章・『中庭での社交~初めまして~』



 まだ動悸が早鐘の様に、胸奥で反響し続けている……。枝葉の隙間から、そっと周囲の気配を窺う。

 無人だ。この路地に通行人の気配は無い。

 その静寂は僕の興奮と対極をなす様でもあり、周囲が閑静だからこそその興奮を逆撫でされる様な矛盾した心持ちでもある。

……警察からの追跡を振り払った僕達は、下水処理場から外界へと脱出を果たす事が出来た。

 今では追跡網を逃れる様に、一時的な休息も兼ねて路地裏の鬱蒼とした茂みで身を潜めている。但し僕は依然として、状況を完全には把握出来ていない。寸前でどうにか警察を撒く事は出来たが、危機一髪の瞬間に颯爽と現われ、救いの手を差し伸べて来た彼は何者なのか?

 横手で息を潜め僕と同様に周囲の動向を観察していた彼も、まじまじとした僕の疑問視に気付いたのか漸くその重い口を開いた。

「自己紹介が遅れたな……。俺の名前はシド。仇名だ。国籍番号は長ったらしくて忘れちまった。俺はエスの共感者だ」

「エス?」

「そうか、あんたはまだ知らなくて当然か。今、あんたは一躍時の人に成ってるのさ。エスってのはネット上で広まったあんたの仇名だ。心理学用語の原我、から来ているらしいぜ。小洒落てるよなっ!ハハッ!!

……兎に角、今や世界ではあんたの話題で持ち切りだ。当然、お堅い保守主義者みたいな奴等からはあんたは批判されてるし、近所にエスが徘徊していたら、なんて想像をして戸に鍵を掛けて怖がっている奴等も多い。そしてこれこそ当然で、さっき振り払った様に

あんたは警察からも追い回され始めている訳だが……」

 シドは一呼吸置いて言った。どこか照れ臭そうな面持ちだが、彼は僕を確りと見据え直す。

「だが少なからずあんたに共感した奴等もいるんだぜ。こうしてどうにかあんたを助けられないか、と馳せ参じた俺はその第一人者って訳だ」

 僕、僕の支持者……? 俄かには信じ難かった。僕はここ数日間であっと言う間に社会全体を敵に廻し一身に憎悪を浴びる様な、そんな四面楚歌の状態を覚悟していたからだ。本来、実際には一度も対面した事の無かった僕なんかの為に、こうして自身の危険も顧みず助力を尽くしてくれる様な仲間が現われてくれるとは……。ここ迄来たら、彼も逃亡者幇助の罪責は免れない筈だ。

 一面識も無かった僕の為に、自らの人生を擲って逸早く共犯者に迄なった彼の勇気、献身に身が打ち震えるのを感じた。

 只、矢張り一連の疑問や困惑は堰を切った様に口を衝いて出る。

「実際に会った事も無かった僕の為に、何故そこ迄出来る!? さっきは警察から逃げられたかも知れないけれど、もう君迄が協力者として警察の手配に回ってしまったんじゃないか!?

これから先、いつ迄も逃げ果せるかは僕自身が判らない……。犯罪の経験や逃亡の手立てなんて、今の時代じゃ誰も持ってやしないんだぞ?

 そうだ、そもそも僕に取って避難出来る場所はもうこの世界のどこにも無い……」

 僕に取って避難出来る場所はもうこの世界のどこにも無い……。自身では既に覚悟し切っている事実だが、こうして言の葉に乗せると、改めてその深刻さが実感として跳ね返って来る。周囲の空気迄もがその重圧に包まれた気がした。

 僕はシドの救助には心底から感銘を受けているし感謝の念も感じている。しかし、だからこそこれ以上彼を巻き込みたくはなかったのだ……。

……そこでシドは半ば興奮し詰問する様な僕の口調に、寧ろ訝しげな調子すら呈し始めた。彼は肩を大仰に竦めながら応える。

「<僕は僕の生まれた意味を、価値を掴みたい。僕は僕の生存理由や生き甲斐を、自分自身の手に由ってこそ創り上げたい。ベルトコンベアの工程に載るのでは無く、この眼で物を視て、この両足で道無き道を拓きたい。己だけの生きる証、生きた証を手に入れたいのだ……>

 これはあんた自身の言葉じゃないか。俺はあんたが警察へ送り付けたこの犯行声明に、物凄い衝撃を受けたんだぜ。俺も叉、鬱屈とした日々の中で出口も無く、只々無為に生きていた。夢も目的も無く、流される侭に生きてたんだよ……。

そしてこの侭歳を重ねて行く自分を想像する度に、堪らない程の怖さがあった。もし、この侭何も無い空っぽの大人になって行ってしまったらどうしようか、と……。しかしそんな不安へ目を逸らし真正面から対峙せず、心の片隅に追い遣って誤魔化そうともしていたんだ。

 腐っちまってた俺の生活に、洗い流す様な風を吹かせてくれたのがあんたの犯行だ。それは何よりも生々しく、何よりも刺激的な事件だった。誰もが生温い生活に甘んじ、大半の人間は今の社会に疑問を感じる事も無い。いや、感じたとしても抗う意志を持ち、本当に実行する様な奴はまず居ないだろう。喧嘩を売るには余りにも世界は巨大過ぎる……、と、少なくとも俺達はそう思っていた。素直に社会へ与する事が出来ず、かと言って確固たる抵抗や克己が無い、そんな半端さの侭ずるずると飼い犬としての鎖を引き摺られる。犬小屋で吠え立てながら、その犬小屋の秩序と安寧に庇護され今日も眠りへ就く……。そんな矛盾や無力さに、自己嫌悪や劣等感は日増しに募る……!

 何かを掴みたくて探し続けている様で、未だそれが何なのか自分でも判らずさ迷っていた俺達の様な人間に取って、あんたの言葉や行動は喝を与え、曖昧な暗幕を剥ぎ取る答え、啓示だったんだ……!

だからこそ俺も立ち上がろうと想った。危険を敢えて背負って、変わりたいって意志を口先だけじゃなく実証しようと想った。

 そうして自分が何者か、何者に成りたいかを、掴もうとしているんじゃないか。己の生きる意味や理由を……。己で形作る道を……。夢や生きる証を……。その為には、まずはあんたと何が何でも逢わなければいけない、と想ったんだ。一種の義務や使命、強迫観念すらあった。

 俺も自分だけの生まれた意味や価値が欲しい。その為に、まずあんたが捕まっちまう事だけは絶対に阻止して、共闘して掴み取って行きたいと想ったんだ……。それが理由じゃいけないかい?」



            *



 もう僕は何も言えなかった。思い掛けない邂逅の末、唐突に手に入れた盟友……。ここ迄一途な男を、信じない訳にも行かなかった。そしてどこか誇らし気なシドは、警察を妨害する迄の経緯を朗々と説明し始める……。

「まず、あの時はあんたの現在地や動向を掴みたかった。しかし、ヘッドギアを捨てたあんたには当然GPS機能は使えない……。そこで視点を切り替え、警察は一体どこ迄詳細を把握しているのか、と言う事に着目したんだ。具体的にどう調べたかと言うと……。

―そう、警察へのハッキングだよ。そこで、警察の捜査は予想以上に核心へ接近していると知り驚愕した。俺は一刻も速くあんたに出会うべきだと焦り、どうすれば警察を妨害出来るかも必死で考えたんだ。そして、警察がマンホール蓋を開封し地下下水処理場に潜行した情報を得て、あんたの逃亡手段や現在地は大体予想が付いて来た……。市街の厳重な包囲網に引っ掛からず、数日間逃げ延びられている理由がな。

あんたは上手く皆の心理の盲点を突いていたな。そこで奴等が、

防犯機能を複数内蔵した特殊機関仕様ヘッドギアを積極的に用い、あんたを追尾するだろうって事も事前に判明した。丸腰のあんたと鬼に金棒の警察じゃ話しにならない。だったらどうやって撃退を図るか……。

 すると、奴等の恵まれた特殊機能を逆手に取ってやれ、と閃いた訳さ。現場へ介入した時、まずあんたにヘッドホンを被せたろう?

―あれは防音用のヘッドホンだったんだ。奴等は高性能の集音機能を使ってあんたの足取りを追っていたんだよ。俺は奴等の高機能を逆利用し、準備して来た高周波アラームを最大限迄引き上げて聴かせたんだ。あいつ等の鼓膜を突き破るフルオケーストラを奏でてやったって訳だが、それでも執念深く追い掛け様と這い上がって来た奴がいたな? あいつは作戦部隊の隊長格だった男だ。流石に根性は坐ってた訳だな。奴は奴で、ヘッドギアの視界を夜間用の暗視スコープに切り替えていた。地下道ではどうしても薄暗いので、その機能に頼ったんだろう。あの暗視スコープは、真暗闇でさえも視認を可能とさせる赤外線照射機能付きだったからな。

だが、それも叉逆手に取り、俺は調達した閃光弾で奴の目を眩ませてやったって訳さ。真昼以上に輝く光を直に浴びせられて、奴も吸血鬼みたいにぶっ倒れる事になった。だからあの時、あんたに後ろを振り向くな、と警告したのさ。

……事前に警察の情報を探知出来たお蔭で、妨害工作は想像以上に上手く行った。まあ奴等からしても、部外者の登場なんて予想外だったろうしな……」

……僕は既にシドへ魅かれていた。危険を省みない、蛮勇と言える様な衝動的行動に出たかと思えば、警察の先鋭的な技術力や防衛力を出し抜く程の知力や機転も併せ持つ。そんな二面性は危うさを孕んではいるが、その危うさこそが何よりも耐え難い磁力を放っている気がするのだ。彼も叉、初期衝動の塊そのものの様な人間なのか。

 本来一時も気を緩められない窮地に居ながら、僕は彼との時間の共有に平安すら覚えた……。しかしこの安らぎは、今はまだあやす様に眠りへ就かせなければならない……。

「シド。怒ったり勘繰ったりするなよ。僕は何もお前を疑ったりしている訳じゃない。だけど……。今は一旦散開するべきだ。理由は解るか?」

 シドは暫し無言を保ち、不承不承に頷いた。

「なあ、俺自身はもうこんなクソッタレの仮面を剥ぎ捨てるなんて怖くも何とも無いんだぜ、本当に。だが今はあんたを支えて行く方が先決だから、未だ脱げない。本当にそれだけなんだ」

「ああ、解ってるよ。只、今は……」

「そうさ、仕方ない。俺自身のヘッドギアは今後の行動の為にどうしても必要になる。しかし逆にそれが足枷にもなって、あんたと一緒に居られなくもなる……」

 そう、シドの機智ならば、ヘッドギアの全機能を駆使して僕を支援してくれる事は最早間違いない。しかし逆にそのヘッドギアの音声、映像記録機能やGPSは僕達の居場所や動向を特定する重要な糸口にも成り得てしまう。警察の一隊と対峙した一連の場面も、当然その侭奴等のヘッドギアには重大な証拠映像として保存されているだろう。僕に助力し公務執行妨害を犯したシドの正体は、間も無く警察の情報解析に由って判明してしまう筈だ。先刻は有耶無耶の内に警察の追跡を煙に巻けたとは言え、そろそろシドの個人情報、一連の動機や現在地迄もが特定されてしまう頃合いではないか? だとすれば、それこそ現在の会話すらも傍受され兼ねない筈だ。今のやり取りすら情報としてシドのヘッドギアには蓄積されている以上、今後電脳網上から警察に精査されたら……。

 そう冷静に分析すると、名残惜しいが一旦はシドと別離するしかない。シドは収まりが付かないのか延々と僕へ言い聞かせようと気を吐き続けていた。

「俺だってとっととこんな仮面は脱ぎ捨てたいんだ。その上で初めて自分に成れる、とも想ってる。そして、そうして初めてあんたと顔を合わせ、やっと対等の仲間に成れる。本気でそう想ってるし、そうしたいんだぜ……!」

 ああ、解ってるさ……。誰もお前を見縊ったりなんかしない、するものか……!!

「そうだ、あんたの為にちょっとしたアジトの用意はしていたのさ。これを上手く使ってくれ……」

 シドは口惜しそうにしながら、懐から瀟洒な装丁のカードを差し出して来る。その紙片には、<クラブ『サイバーベルファーレ』/VIP会員証>と明記されていた。

「この磁気カードの会員証を使えば、クラブの地下室へ自由に出入り出来る。話しはマスターと付けているから、俺のカードさえ裏口で使えばボディチェックや個人認証、監視カメラなんかの措置は全部不問だ。暫くの間はそこでやり過ごす事も出来るだろう。まあ、あんたの事だからずっと逃げ込んでるって事は無いんだろうけどな」

 僕は胸中を見透かされている様で、多少の戸惑いを覚えた。

「……解るのか? 僕の、これからの目的、みたいなものが……」

「解ってるつもりだぜ。ずばり、あんたは警察を中心に社会へとテロを仕掛ける。俺が用意したクラブの地下なら、上手く細工して行けば当分の間警察の目を掻い潜って隠棲する事も不可能では無いが……。だがそれはあんたの本望じゃない、だろ? 地下に潜伏した侭なら、あんたの最初の犯行声明や素顔迄を晒した意味に反するからな」

 正鵠を射ていた。自己を渇望し社会に一石を投じた僕が、蟄居し続ける事は許されない。それはシドと逢う直前にも自身へ課した誓約なのだ。

 自己を欲した者が志半ばで雲隠れしてどうする? 叉無色透明に陥る訳には行かない。この侭例え地下世界へ潜伏し安全を保証された侭生き永らえたとしても、それは自身の行為と誓約への抵触で有り敗北……!!

 僕は後には退けない。何が何でも外に出る、前に出る。現状はその為の戦略的一時撤退に過ぎなかった。


―そして僕は肝を据えた面持ちを見せる。その僕の決然とした表情を読み取ったのか、シドは先程のやり切れない様子から一転し、我が意を得たりと云った調子で僕の肩を威勢良く叩き始めた。

「だから解るんだよ、あんたの気持ちはさ……。それでな、クラブの裏口への入り方は……」





              *




・第五章・『舞台裏を覗く者達』


―平生ならば静寂を旨とするべき警察庁内の空気だが、現状では棟全体が異様な緊迫感に満ち満ちている。

 エスを発見しながらも寸前で検挙失敗、再度逃亡を許す結果になったと云う第一報を聞き及び、ロイトフは愕然としていた。

(エスの逃走手段や行方は自身の端倪通りだったと言うのに……!)

 一旦は接触しながら取り逃した以上、捜索は益々困難の一途を辿るだろう。それだけの修羅場を体験し潜り抜けた者ならば更なる危機意識と敵愾心を併せ持ち、今も逃亡先のどこかで自らの牙を研ぎ澄ましている筈だ。退路を断たれた獣が完全に覚悟を定めた……。失敗は紙一重の惜敗だったとしても、寧ろ犯人を強かに成長させる裏目へ出たのだ。

(しかし寸前の所で介入した第三者とは何者だったのか? エスは計画的犯行に及んだ訳では無く、発作的、衝動的な通り魔だ。その第三者が、エスと以前から何等かの関係性を持っていたと言う線は希薄なのだが……。

 そして不意打ちの様な形とは言え、警察の機動に妨害工作を仕掛けるだけのその機知と胆力……。これは、逃亡幇助者の正体や動機も究明せねばなるまい) 

 現在迄の捜査方針……。それは無論逃走犯エスの捜索が主体ではあったのだが、時機が経過した事でその性質は徐々に変質化し始めていた。当初は凶悪事件勃発に由って世間から警察への指弾が集中したものの、張本人たる犯人の捕獲は数日間で完遂される容易な捜査だと想定されてもいたのだ。GPSでの捕捉は当然不可能なものの、四面楚歌の状況下で丸裸同然のエスを焙り出す事等は造作も無い、素顔がその侭目印へと転化し社会から浮き上がる異物等、否が応でも発見出来る……、と誰もが楽観視した。寧ろ当て所の無い閉塞に耐え兼ねて犯人が自首して来る、と言った可能性を視野に入れる者達が散見される程だったのだ。

……しかし、状況は不穏に変移している。個人の特定と市街全体の包囲に由る二段構えで捜査は進行していたものの、大方の予想を裏切りエスの影は一向に掴めなかった。エスが固定観念の裏を掻き地下世界へ潜伏していたと判明するも、追い詰めた矢先では部外者からの妨害も受け、再度の逃亡を許す……。この一件を受け、捜査方針は一旦白紙に戻らされた―。

 ロイトフは、エスの家庭環境や学生時代の過去、知人友人の証言等を調査し件の犯行声明を読み解くに連れ、彼が一般市民に危害を加える可能性は希薄だと内心では捉えていた。衝動的な通り魔ではあるものの、彼は本来では寧ろ温厚で理知的な若者だったのではないか……。内面に混沌とした悪心を煮立たせた邪悪では無く、聡明で多感であるが故の希求に由る犯行……。そんな気がしてならなかった。

―彼は自己存在の不透明さに耐える事が出来なかった。

 彼が疑問視し、敵対意識を感じたのはあくまでも世界の仕組みや成り立ちだ。革命へ打って出るとすれば、その攻撃対象は世界の構造を掌握する政府の様な国家権力に対してのみ……。彼の精神性を分析すれば自然とそう帰着する筈だ。

 彼は彼なりに、警醒の意味も込めて行為へ及んだに違いない。故にロイトフ自身は、正味の所エスが一般市民に迄攻撃対象を拡大させる危険は無いと踏んでいたのだが……。

しかし正体不明の助力者も出現し、捜索隊を撃退する様な暴力性も確認された以上、警察としてはあらゆる可能性を考慮し検討せねばならない。事件周辺地域の住民からは不安の声も募っている。こうして事態が変移しているからには、周辺地域の警戒も更に強化するべきだろう。

……そして捜査要素が増加する事で、機動の比重が攻性から防性へと推移し始めた事にロイトフは懸念を感じていた。エス個人への追尾や包囲と言う攻性の捜査から、エスからの襲撃を危惧する事での防備へと……。


―世界が個人を追い詰めて行く筈が、個人が世界を突き詰めて行く……。


 そんな形勢の逆転すら覚えて目眩を感じてしまう。『もしエスが政府へと反旗を翻した所で、たった一人の力ではたかが知れている……』。当初ならば、それが論議を待つ迄も無い全員一致の感想だったに違いないが……。しかし助力者迄が出現したらしい状勢から鑑みると、今後は大規模なテロへの対応も念頭に入れて置くべきかとロイトフは予見し始めた。

 何由り、目下人員が割かれ捜査力が低下する要因は他にも顕在化して来たのだ……。『それ』はロイトフの慧眼から既に予測していた案件ではあったのだが。そして『それ』は捜査の散漫にも撹乱にも繋がる上に、第二、第三と言えるエスの出現や、エス本人への助勢となる危険性も憂慮される。


 足音が硬質に反響するリノリウムの通路を闊歩するロイトフ。その足音の中で、無数の嗚咽や気勢が漏れ聴こえて来る……。事情聴取室へ赴くと仕事中の部下一同が一斉に振り返り、その頭を垂れて彼を出迎えた。防音壁の硝子越しに取り調べの光景を一瞥すると、机を差し挟み対峙する刑事と容疑者が見て取れた。時に恫喝し、時に懐柔する様に質疑を進行させて行く刑事と、時に居直り、時にさめざめと告解する容疑者と……。古株のロイトフに取って本来は然程感興も湧かない日常的風景に過ぎない筈なのだが、現状でのその光景は丸で未体験の如き異質の様相を呈していた。ロイトフは振り返ると、皮肉る様に側近の部下へ言い放つ。

「……いつからここは精神病院になったんだ?」

 はっと恐縮し肩を竦めるも、結局部下は終始無言で平身低頭した侭だった。自然、澱の様な暗鬱とした沈黙が一同へと垂れ込める。刑事と対峙した容疑者は、真摯な調子でこう主張し続けていた。

「……だから何度も言ってる様にね、刑事さん。僕が犯人なんですよ。僕が世間を騒がせているエスなんです……」

 そして事情聴取室の前で順番待ちをする人間達は、長蛇の列をなして通路を満杯にしていた。最早椅子の個数が間に合わず立錐の余地も無い中、床で立ち尽くす者を始め扉から溢れ階段で後尾に加わる者達迄が見受けられる。その行列をなす一人一人が、各様の態度を呈しながらも一貫して同様の台詞を反復しているのだ。

 或る者は警備する者へ訴え掛けるように哀求し、或る者は誰にも聞き取れない程の囁きで自身へと言い聞かせる様に繰言を呟き、叉或る者は棟内全体へ誇示する様に、半ば狂乱し喚き散らす。

 その台詞は混沌の渦となって、永遠に終止符の無い呪詛の様な歌に聴こえた。

『自分がやりました。自分がやってしまったんです、自分のやった事なんです……』

『僕が、僕がエスなんです、御免なさい、御免なさい……!!』

『俺だ、俺がやったんだ、やってやったんだ、クフフフフ……、ハハハハハ……!!』

『本当のエスは私です。皆は何か集団催眠の様な暗示に掛かってるんです。私こそが本当のエスなんです……』

『違う、皆嘘を付いてるの、エスって本当はアタシ、アタシなのよ……?』

『何で信じてくれないんだ、エスはこの儂、儂なんじゃあ……』

『僕です、僕が犯人なんです……!』

『僕です、僕がエスなんです……!』


『僕です、僕が犯人なんです……!』


『僕です、僕がエスなんです……!』



『僕です、僕が犯人なんです……!』


『僕です、僕がエスなんです……!』





             *




 浅い浴槽の中で眼が覚めた。僕は入浴中、束の間の仮寝に浸っていたらしい。


……適度な温度の浴槽で揺蕩う。


 眩い照明とシャワーの水流と、床を撥ねる微細な水滴の水音と……。時間の感覚が曖昧な夢見心地のまどろみの中で、意識は段々と覚醒する。起き掛けで鈍重になった体躯を追い立てる様に這い上がり、朦々と湯気が立ち込める浴室からよろよろと這い出た。

 そして薄闇に包まれた一室の中で、浴室と隣接した脱衣所の鏡台へ徐に自身の顔を覗かせてみる。鏡と真正面から対峙させた、自身の素顔……。顔色も日々の調子に由って左右されるものなのだろうが、人相迄がここ数日で変化したと想うのは自分だけだろうか? 以前はどこか虚ろだった表情が、心無しか引き締まった気がする。尤も、自分の顔を指し示して誰かの同意を仰ぐ事が出来る状況でも社会でも無いのだが……。

 風化されて久しい言い回しだが、人生経験が人相へと反映し段々と自分の外貌を形作る為に、『大人は自分の顔に責任を持たなければならない』と云った格言も過去には存在していたらしい。

―鏡の自分へ問い掛ける。

<僕は僕の顔を形作る事が出来ているだろうか……?>

<僕は僕と言う実証を掴もうとしているだろうか……?>

<僕は僕と言う存在を世界へ証明出来るだろうか……?>

……兎も角僕は現在、シドから手渡されたVIP会員証を用いてクラブ『サイバー・ベルファーレ』の地下室で潜伏していた。本来なら、地下はヘッドギア内の個人情報データとVIP会員証に記録されたIDデータを照合させられた者のみ入室可能らしい。シドは事前に機転を利かせ、関連するVIP用ゲート機構をフリーパス仕様に変造させてくれていたのだった。

 そして僕は、ここ数日間の逃亡生活から来る疲労を泥や垢と共に湯船で落とし、鋭気を養いつつ今後の戦略を練ろうとしていた。このクラブの地下階層では、一部電波遮断加工の認可された防壁区域が存在する。電波の混線から雑音が混入し業務上の演奏や音響が妨害されてしまう、と云った事態の予防を名目に政府から許可を受けているのだ。

 その防音防壁処理が施され、最低限生活可能な様に流用された暗室で僕は過ごしていた。特別会員専用の地下室なので、何者かの不用意な侵入も心配無い。本来は音響設備室として設計された一室の為に聊か殺風景ではあるが、当分の間隠棲するには充分な環境だった。

 勿論、安全圏だとしてもいずれは警察の手入れがここへも及ぶかも知れない……。しかし実際の所、僕はどちらでも構なかった。以前自身へ賭した誓いに懸けて、例え安住の地が存在した所でそこへ永遠の逃避を図る事は無いのだ。この潜伏先で構想と下準備が完了すれば長居する事も無い。近日中にでも、僕は外界へ何等かのテロを決行するだろう。


―ここ数日、手狭な一室で僕は独り忙しなく動き回っている。居ても立ってもいられない意馬心猿の心境で、四六時中逸る鼓動に突き動かされているのだ。クラブ側も体面上では禁止しているのだが、ここには合法非合法を問わずドラッグの在庫が山積している。警察の視察から逃れられる格好の場所だからなのだろう、僕自身も手を伸ばそうと思えば、台所の蛇口を捻って湯水を飲む様な気軽さで嗜む事は出来た。しかし深遠な快楽の世界で耽溺する事にすら、今の僕には眼中に入らない。

……煙草も酒も、ドラッグも何一つ必要としない。薬物に依存せずとも、今の僕の脳内麻薬の分泌量は常軌を逸している。反社会分子として世界へと蜂起する日が差し迫るに連れ、好戦的血気は滾り沸点の上限が無い。時折衝動的に、手狭な室内で不慣れな腕立て伏せ等を反復する事もある。元来は文弱な学生だった僕の事だ、極く短期間しか猶予が無い状況で体力や腕力を増強させられる筈も無い事は重々承知していた。しかしどうしても有り余った熱量に身体が突き動かされ、何かしらの行動をせずには居られないのだ。決戦を目前にしたこの昂揚は燃え盛る業火の様だった。

 そんな興奮状態に捉われている要因は幾つも挙げられる。まずは、シドと言う盟友との邂逅。絶対的窮地の中で救助に駆け付け、尚且つ一時的な塒迄も用意してくれた、そんな彼の一連の助力に。

……そして、何より強硬手段を取ってでも社会への革命を為そうとする自身の決意に、身震いを感じている……。

……僕はヒロイズムと言う悪酒に陶酔しているのだろうか? いや、だとしても構わない。僕に取っての初犯は、自己存在の獲得と社会への抗議行為と言う意味合いを内包していた。そしてその声明と行為は萌芽から野太い幹が育まれる様に、今後の蜂起決行に由って更なる価値の形成を強化する事だろう。

 社会への非難は自身が社会から乖離する事で完了するのではなく、参画する事でこそ意義を持つ。諸々の危険を代償として覚悟し、提唱する理念を実践で提示してこそ初めて真の説得力は発現して行くのだ。自己存在の獲得には、自己表現的手段が必要な場合も在る。そしてその自己表現を徹底しようとする程に、犠牲や危険は表裏一体となって付随する。

 僕は今迄、これ程単純な真理にも無自覚だった。即ち、生きる事とは戦いなのだ……。悪平等な馴合いの中で不可視になっていた、幕間の裏側を見た思いだった。しかし幸いにも僕は既に強力な自己表現手段の一つを我が物としている。その事実を、宝物の様にひしひしと抱き続けよう……。


……。間借りした部屋には、シド専用のPCが鎮座していた。

 初対面の際から既に聞き齧っていた事だが、彼は突出した能力を持つハッカーらしい。例えば何重もの防壁が張り巡らされた政府の管理システムすら偽造IDで侵入し、機密情報を入手する事もお手の物としている様なのだ。

僕は室内運動の傍らでシドが収集した政府の極秘事項等を綿密に精読し、あらゆる角度からの計略も練り続けていた。

―そして現在、飴玉を嘗め回す様に熟読玩味しているファイルが有る。シドが収集した膨大な情報の中でも秘中の秘と迄云える枢密事項の一つ、規制された世界中の画像だ―。その画像内容の大半は、処分された顔……。そう、前時代に抹消された人間達の顔写真だった。

人間の顔面と認識される画像や情報は、政策化の一環で全て回収され処分されている。市販書籍、映像、写真、絵画等から個人記録迄、ありと有らゆる情報や文化が厳重規制され、一枚の顔写真を入手する事すら困難を極めている程だ。現代に於いて素顔を対象とした画像や情報は、死体画像や殺人動画の様な違法性の高いアングラ情報と同列視すらされる。関連画像を所持しているだけでも逮捕の対象と見做され厳罰が科せられる為、他者の顔写真一枚すら拝めた者は居なかった。

 例えば名画を取り揃えたと謳う有名美術館と云えど、その大半は風景画ばかりだ。唯一罰則が適用されない抜け道があるとすれば、精々医療従事者になるのみではないだろうか? 医学書の中では無修正の局部写真等も掲載されており閲覧が許可されているらしいが、世間の医学生や医者達もこんな特権の愉悦に感じ入っていたのだろうか……。

―そんな素朴な疑問や想像の間隙を突き刺す様に、突如眼前の画面が展開し始めた。何気無く一個のアイコンをクリックした際、次のメニューが開いたのだ。

 視覚に突き刺さる、物々しい調子のトップサイト。一見した時点で、一般的分野を取り扱うページで無い事は明白だ。中央のタイトルロゴは、重厚なデザインで『クラブ・ユング』と設えてある。

 展開されたページは、自動更新機能に由って表示された最新情報通知だった。簡便には取得出来ない裏情報ばかりを凝縮してくれたシドのデータベースだが、その中でも一般人では先ず御目に掛かれないシークレットサイトが現前している……。

 シドの偽造IDと暗号認証は、会員制サイトを運営するホストコンピュータや管理者達迄をも完全に欺いているらしかった。ここは恐らく、政府関係者達のみがアクセス許可されている極秘サイトなのだろう……。シドはここの情報を読み解き、警察に追跡されていた僕の居場所を突き止め救助へ懸け付けてくれたに違いない。

 そんな雑感が脳裏を掠めていた瞬間、画面上の中央に更なるユーザー認証画面が表示された。この認証を通過せずとも、現在表示されている内容は全般的に閲覧可能な様だが……? 一瞬気色ばんだが、僕はふと思い当る。

 これは、会員制サイトの中でもより重要機密を扱う者達だけがアクセス許可された、限定的な裏サイトへの入り口ではないだろうか……? 極秘サイトに辿り着いただけでも情報価値は充分な物だったが、この裏サイトへ侵入出来るとすれば今後の計略に於いて更なる有益な情報を取得出来るかも知れない……。

 表サイトと言えど、ここは本来一般人に対して存在を秘匿されたアクセス不可能なコミュニティだ。政府関係者以外には訪問経路が無いと言う性質上、この裏サイトへの入口が攻撃者やワーム等を誘引し、侵入後にどんな行動を取るか監視、観察する為のハニーポットで在る可能性は希薄だろう。但しハニーポット環境で無くとも、当然侵入した際の足跡から個人情報や現在地迄を特定される危険性は十分想定出来る……。僕自身は何れこの地下室から外界へ浮上しテロを決行するのみなので、身元の判明等に不都合は無いのだが……。しかし警察に現在地を探知されれば、アジトを提供し匿ってくれているシド及びクラブ関係者に嫌疑の手は波及して行くだろう。彼等に迄火の粉を降らせるのは本意では無い。

―危ない橋を渡るべきか? 試して見るだけの価値は有るが……。そんな逡巡の中、誘惑に駆られたのかパスワード解析を試行しようと両指だけが別の生物の様に鍵盤を這い始めた。


 不正アクセスを働く際、基本的な手口は『識別符号窃用型』だとシドのデータベースでは解説されている。俗に言うパスワード破りだ。僕は湧き上がって来る好奇心の熱味に浮かされ、裏サイトへの工作を謀ろうと衝き動かされていた。

 法的機関の中でも高位に立つ者達でしかこのサイトへの通過は承認されないのだろうが、どんな情報を流用し侵入を試みるか? 別ブラウザから、迅速に法的機関の重役名簿を検索して見る……。通常では一般市民に姓名は与えられず、国籍番号を自身の名前代わりとさせられる事が慣例だった。但し要人へは役職上、政府から便宜的に付与される仮称も存在するのだ。

 その制度に着目し調査して見ると、案の定データベースからは錚々たる面子が検出された。政治に無関心な若者達でもテレビ等で見知った名前ばかりが列挙されているその名簿の中、不意に一人の名前が視界の片隅に留まる。

『カーマ警察庁長官ロイトフ』……。

 警察庁長官か……。僕はこんな些細な発見に、段々と思索の糸口を紡ぎ出していた。社会へ蜂起しようと画策している現状、法政の象徴たる警察内部の人間、特にその機関内で頭目を張る男は最も相応しい標的と言えるかも知れない。

 『ロイトフ』。ふと、手始めに彼の個人情報を流用して見てはどうかと思い立つ……。彼の個人記録に基づいた情報から、認証時のパスワードを推測しアクセスを試みるのだ。

 カーマ警察庁長官の通名は、『ジギムスント・ロシュー・ロイトフ』。

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 彼の生年月日。5月6日。

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 彼の国籍番号。1939923。

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

……矢張りここ迄安易な設定ではないか? 一旦思案しPC内のフォルダを参照し直すと、シド特製のハックツールが即座に見当たった。

 彼の裏情報網や解説を基に、次は辞書攻撃で試みる事にする。パスワード入力時に於ける使用頻度の高い文字列を収めた、パスワード破り専用辞書を適用してみるのだ。この辞書には、一般名詞の他に人名や地名等の固有名詞も含まれている。この膨大な語彙を文字列へと引用させ、機械的に総当りで入力して行く様に仕組んでみた。

 彼の個人辞書には、5500種類のアカウントと1万4000種類のパスワードと言う大量の単語数が登録されているのみならず、ランダムな数字入力にも対応している様だが……。何とかこのツールで認証を突破出来ないものだろうか? 手汗が自覚出来る程に増す中で、僕は指を震わせながら決定ボタンを押した。

 瞬間、膨大な単語の羅列が呪文の様に画面上を自動展開し始める……。高性能の機械端末が、寧ろどこか魔術的な様相で生命感を孕み駆動し続ける様を僕は固唾を呑んで見守っていた。

 I、my、me、myself、who……

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 11235 78741165 48478 4561 84564 54k@dg o-t5^2pk gkbn^238 

7756^ulcb].;lmbo 246jo47j@okb; lmnl;/¥]s[

qpr5 787^¥1¥4 0-5390yobm df,g^ot0i5 7po4-678 89¥^1¥k p@nbl[

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 Psychopath

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 copy 

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 Persona

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 ego

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 Es

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 ID

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 Personality 

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 narcissism

「error。ユーザー名及びパスワードが違います」

 ハックツールは延々と暗号入力を繰り返す。

……………………………………。


…………………………。


………………。


 complex / faith

『認証されました。次の画面が表示される迄暫くお待ち下さい』

 やった! 遂に正解の暗号へ突き当たった! これで仮面の様な二重構造のサイトを見破ったぞ!! ―そんな快哉を挙げた次の瞬間だった。僕は政府の要人だけへ向けられた電文に、思わず息を呑みその目を見張った……!! その機密情報の一部を一見した時点で、脳裏に火花が散った様な衝撃を受け暫し呆然とする……。口渇が強まるものの、咽喉の渇きを潤す水を用意する動作の手間さえ惜しい。そして食い入る様に読み解く内、更にその衝撃的な内容の把握は進んで行く。

―そうか、そう言う事だったのか……! 何某かの噂や都市伝説は流布されていたが、実際に政府の目論見はここ迄波及し始めていたのか……!! だとしたら、僕の決起は最早個人的事情の範疇で収まるものではない。

 当初、僕は自身の葛藤や模索から通り魔を敢行しただけだった。しかし、もし事前にこの一連の枢密へ触れていたとしたら、動機に義憤も入り混じるとは云え起こす行動と結果は現在と同様だったかも知れない。僕はどちらにせよ、いつかは重大犯罪者として世界と対峙せざるを得なかったのか……?

 僕は背凭れに身を預け、暫しの間放心していた。最早、無骨な椅子の堅い感触すら気取られる事は無い。重厚で閉塞感漂うそんな防音防壁の地下室にも、時折大音響の余韻として微細な震動が降りて来た。真夜中のダンスホールで踊り明かす若者達の狂騒や笑い声も、さざめきとなって微かに耳朶を打つ……。


 眠らない電脳都市の終わらない夜。地上に座する不夜城が夢幻の夜の中で最高潮を迎える頃合い。地下に潜伏する僕は只一人、仮面舞踏会の舞台裏を覗き見る様に、世界の真実へ触れてしまっていた……。


              *





・第六章・『仮面剥奪~アノミーの舞踏~』


 都心に位置し、線路交通の要衝でも在るメトロコミューンは今日も活況を呈していた。硝子張りの硬質な建造の内部には百貨店、カフェ、本屋、土産物屋等が混在し、電脳未来都市に於ける玄関としての責務を果たすだけの利便性、洗練された瀟洒な空間を提供している。

 そして種々雑多な人間達が行き交う雑踏の中、通学中である一介の大学生が、自動改札や切符自動販売機に隣接される無料充電装置コーナーへと何の気無しに赴いた。

 ヘッドギア端末は内蔵電池の独力でも悠に一ヶ月間は電力耐久を維持する。しかし政府機関が人民への事故防止や福祉性を徹底して追求した結果、政策の一環として交通機関の要衝へは無料充電装置コーナーが義務的に設置される事となったのだ。前時代で例えるなら路傍に点在する公衆電話や、要所で設置されている携帯電話の無料充電コーナーの様な物だろうか。

 青年は電車の到着時刻を見計らい、ヘッドギア端末の電池残量を満了にして置こうと充電端末の液晶操作パネルへ指を伸ばした。画面上では、公的機関の仕様らしく安心感を全面に押し出す様にと、制服姿で清潔感溢れるCGキャラクターの女性が登場する。

 架空の受付嬢は、懇切丁寧な説明と指示を恭しくも柔和な声音で流暢に紡いだ。

『ようこそいらっしゃいませ。インダーウェルトセイン無料充電端末装置を御利用頂き誠に有難う御座います……。充電方法の詳しい説明が必要な方はパネルの操作説明と言う項目を指でタッチして下さい……、その他説明が不要な方は、プラグを御自分のヘッドギア端末に接続して頂き、個人情報認証の間暫し御待ち下さい……』

 普段なら何事も無い日常の些末な所作に過ぎない筈なのだが、今日に限って青年は一種の違和感を覚えた。

(既に自分のヘッドギア端末と充電装置の端末は接続されている筈なのに、一向に認証作業も充電も開始されない様だが……? 本来なら物の数分と掛からない筈なのに、何故……)

 自身のヘッドギアの不具合か、それとも充電端末の故障か何かなのか? 画面上の受付嬢は姿勢を硬直させた侭、同内容の事務的な台詞をプログラム通り何度と無く反復している。その反復は、言葉の意味を理解せず人間の台詞だけを無感情に物真似する鸚鵡を彷彿とさせ、どこか滑稽なせいか益々青年の苛立ちを募らせた。

 所詮はデジタルの幻影か。青年は不測の事態に惑乱し、無闇矢鱈にパネル上へ表示されているボタン類を押し続けて見る。しかし、案の定端末は一向に無反応な侭だった。

「なあ、どうかしたのか?」

「まだ終わらないのか?」

 背後から誰何され焦燥感を募らせた侭振り向くと、後方では既に想像以上の人数が立ち並び長蛇の列を成していた。青年は困惑を隠さず、助け舟を求めようと後方の列に陳情する。

「す、すいません。でもこれ、幾等押しても動かなくて……。全然使えないんですよ」

 するとその返事を皮切りに、青年の両隣からも同様のやり取りが起き始めた。現在先頭として端末を使用している筈の者達が機械の不調を前に動揺し、痺れを切らした後続の者達から訝しんだ声を掛けられている。

「何をもたもたしているんだ?」

「後ろが痞えてんるだけどねえ、君」

 青年の横目に位置する先頭のビジネスマンも矢張り同様で、縋る様に後列の者達へと申し開きを繰り返していた。

「私が悪いんじゃない。明らかに今、この機械がおかしいんだ。嘘だと思うなら先にやってみてくれ」

 その言を釈明と取ったのか、確認の為にと後続の大柄な男性が先頭のビジネスマンを押し退け、憮然とした態度の侭で機械に接触を試みる。そしてその一瞬の後、後方の人間達も全体の異状を察知しその場でざわめき立つ……。高度な科学技術力を誇る電脳未来都市インダーウェルトセインの公衆端末が、一斉に接触障害を発生させる等前代未聞の事態だ。

 この侭一般市民が機械を前に試行錯誤しても、一向に事態は収拾しまい。右往左往する後列者達を他所に、青年は駅員へ報告しようとメトロプラザを小走りに行き始める。

青年は駆け行き現場から遠退きながらも、混雑と騒乱の声は募る一方だと背後から感じ取っていた。彼は段々と、丸で全ての異変が自分自身の過失かの様な錯覚を覚え、灰を嘗めた様な後味の悪い原罪意識すら抱き始めるのだった……。

―しかしその刹那、彼は不意に一つの憶測が火花の様に脳裏で着火された事を感じ、思わず立ち止まる。そして自身のその想像に衝撃を受け、反射的に現場へと頭を振り返った。

呆然自失と立ち尽くす中で、騒動の渦中にある現場の怒号も、どこか空々しい調子で青年の耳を通り過ぎて行く……。青年はあくまで、偶然異常事態の現場へ居合わせたに過ぎない一介の大学生だった。しかし彼の胸中で蟠る想像と疑念は、警察機関や各種メディアでさえ未だ察知していない事実と、次なる予兆の核心を捉えていた。



(最近のデジタルマスカレード通り魔事件……。例の事件とこの騒ぎにも、もしや何か関係が有るのでは……!?)




               *




 外界の漫然とした小春日和を他所に、政府中枢機関の一翼を担う都庁内部は未曾有の恐慌状態へ陥っていた。


・障害発生のお知らせ・

 平素依りインダーウェルトセイン無料充電端末装置を御利用頂き、誠に有難う御座います。

本日、都心部メトロコミューン内にて提供中の充電端末機全体に接触障害が発生しており、ヘッドギア端末の充電処置が不可能な状態に陥っております……。原因に付きましては現在早急な調査を行っております。御利用中のお客様には大変ご迷惑をお掛けした事を、深く御詫び申し上げます。本障害の詳細に関しましては、以下の頁を御確認下さい。

※ 現在、複数の方法にて正常な状態へ復旧出来る様作業を続行中です。

※ 作業の状況に由り、復旧迄の予測等が変わる事があります。状況に付いては随時、当障害情報にてお知らせ致します。


<記>

・発生日時 : ****年**月**日08時30分頃 ~ (継続中)

・影響範囲 : 都心メトロコミューンを中心とし、都市全体に波及。

・作業内容 : 緊急メンテナンスの際に動作不具合が確認された為、現在復旧作業中です。

・補足事項 :外出時に於ける当機での充電処置は当分の間見込めない為、現状はお客様各自、政府から配布された自宅用充電装置の使用、携帯性簡易充電装置(別売り)の購買、御利用を計画的にお願い致します。


・ 追記・

11:20

原因に付きましては現在調査を行っております。復旧の目処が立ちましたら、追って御報告致します。

13:15

ドメイン設定の[設定変更]に付いて、修正を行いました。設定変更時のエラーに付いては解消されております。

16:20

現在復旧に向けて作業を行っております。

20:00

復旧作業の目処が立たない為、代替機の準備を行っております。

00:00

障害はディスクに起因する物で、現在データ及びシステムの復旧作業を試みております。

08:55

障害のあったハードウェアからのデータ読み出し及び再構築に時間が掛かっております。この為当初、正午復旧としていましたが予定を大きく 過ぎる事態となりました。作業完了には現時点の進捗状況から20時間程度掛かると予測しており、明朝に復旧可能な様に努めています。

20:40

引き続き作業を行っております。長時間に渡り、ご迷惑をお掛けしています。

※現在、複数の方法にて元の状態へ復旧出来る様作業を続けております。

 ※作業の状況に由り、復旧迄の予測等が変わる事があります。

 ※状況に付いては、随時当障害情報にてお知らせ致します。

                             以上



 所謂『デジタルマスカレード通り魔事件』が社会現象化した近頃では市井の防犯意識が鋭敏になり、事件責任の矛先として政府への指弾は例年に無い程の集中傾向を提示している。そんな苦難の渦中、都心部の交通機関を端緒に連鎖した、原因不明の大規模な公共装置の切断状態……。類例を見ない不具合を発生させ、尚且つ政府は又しても対応処理が遅延してしまっている。復旧作業の目処が立っていない現状を前に、市民は政府へ懐疑的な視線を向け始めていた。

『インダーウェルトセインは世界を牽引する最先端の電脳都市と謳われているのではなかったのか? 最高水準の政治制度、社会福祉制度、高度経済、高度科学技術、犯罪発生率も極少たる治安性等……。何もかもが人民統制を目的とした、政府の甘言に過ぎなかったのか?』

 最近の失態の連続から、万人に取っての理想郷が砂上の楼閣として崩落し始めている……。この侭では国民の政府支持率は低下する一方の筈だ。都庁内部の防災センターは現在一連の対応に追われ、庁員達は一同息急き切って職場の内外を駆けずり回っていた。市民から殺到する苦情処理、各所への陳謝、端末の復旧作業と……。嘗て経験の無い修羅場に直面し、誰もが動揺と疲弊の気色を隠せなかった。

―そんな紛糾している防災センターの手広な一室で、殊更に沈痛な面持ちで鎮座する上役が一人。この防災センター部を取り仕切る室長その人だった。防災センター室長も執務上、本来は泰然とした姿勢を崩す訳には行かない。しかし事件の連続から度重なる叱責に、彼は最早耐え兼ねている様子だった。警察庁長官ロイトフにも防衛意識や対策の欠如へ批判は集中しているが、当然防災管理を旨とするこの部庁にも矛先は向けられる。各所からの指弾及び下位からの突き上げ、ロイトフの様な重鎮からの批難と完全な板挟みの状態にあり、室長は窒息寸前だった。

 そして降格や左遷、最悪の場合は解雇と云う未来予想図に気落ちし嘆息している最中、若輩の庁員が切羽詰った声を掛けて来た。

「室長、幾つかお話しが……! 整備管理部の調査から、今回のシステムダウンの原因は外部からの妨害工作にある様だとの報告が……!!」

 室長は目を剥く。

「機械上の不具合では無かったと? 具体的には何があったんだ?」 

「何者かのデータベース侵入、ウィルスの発信に由る物です。現在はウィルス解析とワクチンの作成を、全体を挙げての急務としています。犯人の正体も調査中ですが、個人情報の痕跡は未だ特定出来ていません……。しかし……」

 そう言い掛けると、利発そうな部下は次の言葉を濁した。言い淀む彼を前に、室長は二の句を継ぐ様に促す。

「他に何かあるのか?」

「―いえ、ここからは個人的憶測の範囲なのですが……。例の収束していない通り魔事件と、今回の障害には関連性が有るとしか思えないのです……。このインダーウェルトセインでは事件らしい事件等滅多に発生しません。ヘッドギアが全ての証拠記録になる事もあり、犯罪を行い難い社会なのは言う迄も無い。しかしここ最近通り魔事件発生以降から、不明瞭な異変が散発し始めている……。

 これは通り魔事件の主犯であるエス本人の仕業か、その関係者か、影響を受けた何者かの手に由るものか……。兎も角例の通り魔事件が全ての発端になっている、そんな気がしてならないのです……」




            *




 報告を終えた部下が戦場の如き現場へと舞い戻って行った後、室長は独り思索に耽っていた。

(―確かに部下の私見通り、ここ最近の情勢を鑑みると各個が無関係の事件とは思えない。今回の端末接触障害の一件にしてもそうだ。現代に於いてはヘッドギアの映像記録がその侭証拠として転化される為に、犯罪の発生自体が皆無に近い……。単なる愉快犯が突如出現する可能性は極めて低いのだ。犯行に及ぶなら、誰しも相当の覚悟が必要な筈だ。何か信念めいた強固な動機が無い限り、まず事は起こせまい……。

 時期からして、一連の事件は何かしらの因果関係に有ると言って良いだろう。これ等全てが逃亡中であるエス本人の仕業か、共謀者が存在するのか、エスに影響された信者の犯行なのか……。

兎も角少なくとも、件のエス本人を捕縛する事が出来れば実情の把握が可能な上、ここ最近の社会全体に満ちた不穏な空気感や波状的な犯罪は抑止出来るのではないか?)

―そしていつの間にか陽が傾き始めた頃、物思いに耽る室長を現実へ引き戻すかの様にヘッドギア内部へと電文が着信される。

 差出人や文面を見る迄も無く、緊急事態を告げる一報である事は瞬時に察知出来た。一般のメールとは異なる別件用の赤々しい装丁で、政府要人達へ一括配信された直属メールである事は明白なのだ。

「差出人:インダーウェルトセイン政府事務局

件名:各庁通達~緊急招集案内~


関係者各位


 インダーウェルトセイン政府由り緊急速報です。近頃の『デジタルマスカレード通り魔事件』から端を発し頻発する犯罪事件ですが、その被害の拡大は止まる事を知らず、更なる重大な不祥事が発生致しました。

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 重篤な事態を前に、政府は各庁上役に限定した緊急招集を決定致しました。付きましては添付された資料、地図、ガイドナビゲーションを基に指定の場所へ速やかに御越し下さい。


場所:------------------------------------

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………………………………………………」


 室長は事件の詳細や指定された場所を読み進める内に、驚愕し声を失った。

(もう事件はここ迄加速し広範に波及し始めているのか……! 今直ぐ現場へ駆け付けなければならない……!! これは喫緊の事態だ……!!)




             *




 政府機関御用達である黒塗りされた高級車の一群が、『シュガーポッドシティセンター』の一角で鳴りを潜める様に停車している。昼下がり、食事時の為にビル内から吐き出された会社員達で街区は色めき立ち、俄かに雑踏の様相を呈し始めた。

 黒服で全身を固めた精悍な警護者達は、高級車の内外で寡黙に待機している。彼等は人出の増加に警戒心を一層研ぎ澄まし、周囲の動向を終始窺っている様子だった。

―この一帯は、硬質な外観が特徴的なオフィスと商業施設の複合ビルで形成されている都市の経済中心地だ。競合する様々な会社で犇いてはいるがそのどれもが一流企業の水準を誇るだけ有り、街区全体の雰囲気は歓楽街の様な猥雑とした熱気を孕む事は無い。寧ろ人工的に整備された故の冷感や、新緑に葺かれた様な涼感さえ漂っている。

 そしてそんな第一等の商業地区で、ロイトフを筆頭とする各界要人達は指定されたセンター内の工場区域へ既に集結を果たしていた。


 件の工場内―。要人達は全員が眼前の光景に呆気を取られ、延々と立ち尽くす侭だった。それは事前に緊急通達が為され、全員が到着する以前から想定されていた状況にせよだ。

 誰もが茫然自失とする中、やっとの事で一人が沈黙を破る様に恐る恐る口を開く。しかしそれは独白なのか、場に語り掛けているのか、誰へとも付かない自他の曖昧な調子だった。

「これは……、酷い有様ですな……」

 その当惑した台詞も、空虚な雰囲気の現場では空々しく響くのみ。各人は思い思いに視線を逸らし、聴くとも無しで終始無言を湛えていた。誰もが申し合わせた様に素気無い態度である事は無理もない。

―何しろ現在、彼等を取り巻く広大な工場施設の一面が、焼け散った無数の精密機械部品やヘッドギアの残骸で埋め尽くされているのだから……。

 社会基盤を担う為に日夜稼動していたヘッドギア生産工場内部は天災が襲撃して来た直後の如く無残に破壊し尽くされ、尚且つ大火事で炎上した様な生々しい焦げ痕をも見せていた……。本来24時間体制で一寸の誤差も無く自動的に製造、供給されて行くベルトコンベアの工程は全てが停止され、役割を喪失した機器類も物々しく半壊している。焼失前後の火煙は空気清浄装置等でとうに除去された様なので、有毒ガスに由る被害を蒙った者達は居ない様だが……。

 ヘッドギア生産工場内が壊滅状態に追いやられ機能を停止させられた現在では、周囲の虚無的な雰囲気が拭えない。それは、夜更けに閉店を迎える大規模な百貨店の様にどこか物悲しさをも漂わせている。日々栄華を誇るからこそ、閉鎖する時分には一層悲哀が増すかの様な心寂しさ、それに似ていた……。新品の製造機能を麻痺させられ頼みの綱で有る完成品の在庫迄が全壊された現状に、各界要人達は漸く我へ返り始めた。

「一体どうしてここ迄の犯行を許したんだっ!!」

「これもやはり、エスやその影響者達の仕業なのか……!? 工場内の機械の誤作動や不具合からの発火事故ではないのかね?」

 誰もが口々に怒号を発し息巻く中で、ロイトフは冷静に否定的見解を述べ彼等を神妙にさせた。

「……いや、不審火だ。工場内の全自動防災システムならば、発火監視カメラが設置されている筈だ。カメラは発火初期段階以前の高温熱ですら、火災発生位置と見做し検出出来る。そして位置情報を特定し、自動放水銃が照準を合わせ消火を開始するからな。

 つまり機械の不調から火災事故が発生したとしても、大事へ至る前に自動的に鎮火される筈なんだ。……ヘッドギアを破壊する理由を持つ者は誰か、議論する迄もあるまい。それも工場ごと焼き払おうとする様な大胆不敵な者等はな」

 ロイトフが淡々と述べた考察に、一同は息を呑んで絶句した。

「それでは、やはり……!!」

「―そう、この一件も、エスやその狂信者達の犯行と見てまず間違いなかろう」

 その冷厳な返答を受け、彼等は顔を見合わせ再度騒然とし始めた。ロイトフは周囲の動揺を他所に、首を向き直し今回の担当官に問う。

「しかし、検品する為の作業員位は駐在していなかったのか?」

 当該事件の青年担当官は、四方から刺す様な非難の視線が一身に集中した事を感じ、萎縮しながら返答した。

「はっ、全自動の生産工場である為に、就労者は少人数でして……。いつ、如何にしてここへ入り込み爆破工作を講じたのか等は、今以って捜査中の段階です……」

 青年担当官は見る影も無く憔悴し言いあぐねる。しかし明晰なロイトフはその言及を緩めない。

「各所に監視カメラや防災システムは設置されているだろう? 人的な警護体制も当然敷かれている筈だが……?」

 ロイトフは冷徹に適切な指摘を為して行く。彼は何も青年役人一人に対し全ての罪責を圧し付けるつもりも無く、相手をやり込めて憂さを晴らしたい訳でも無い。只鋭敏なロイトフは青年の態度を見て取り、彼の胸中に未だ何等かの秘匿がある事を嗅ぎ取ったからこそ、容赦無く鋭利な質問のメスを切り込んで行くのだった。

しかしロイトフからすれば詰問と云った意図では無いものの、矢継ぎ早な質問の逐一は青年に取って後ろ暗さを抉ってしまう的確な指摘の様だった。彼は殊更に恐縮し言い淀む。

 そして無益な沈黙が場を支配して数瞬。出口の無い無言にも業を煮やさず、敢えて無感情を崩さぬ侭対峙し続けるロイトフに観念したのか、青年は遂に閉ざしていた重い口を開いた。

「……実は、当方としましても不可解な事態が起きてまして……」

 漸く吐き出された告白の一節に、全員の注目がより一層青年へと集中する。

「現場で無人の時間帯が全体を占めるにしても、勿論監視カメラシステムは24時間体制で稼動しています。更に、棟内を定期巡回する警備員達も一定数の雇用はされている。

 しかし……。検問所に常駐する者や施設内を巡回する者達にも、誰一人として侵入者を目にした記憶が無いと言うんです。誰にも気配を悟られずどうやって犯人が侵入したのか、爆発発生迄、何故誰も非常時だと気付く事も無かったのか……!? スプリンクラー等の自動消炎装置が作動しなければ、それこそ施設全体が炎上してしまっていたと思うのですが……。

 そして最も不可解なのが、各人の記憶に無いだけに留まらず、デジタルな外部記録にも一切痕跡が残っていない事なんです……!!人間が侵入者に気付かなかった、と言うのならまだしも、各所監視カメラの映像記録からすら何も発見されない……。カメラは最大350℃の全方位型で、死角は有りません。当日の記録を幾ら巻き戻し精査しても、犯行映像が微塵も検出されず、普段の日常的な作業風景が淡々と流されるばかりで……。じゃあいつ襲撃されたのか?丸で犯行現場の時間や場所だけを切り取られたみたいで、我々も何かの手品を見せられている様な気分でして……」

 青年の狐に抓まれた様だと云う告白に、周囲の要人達も動揺の気色を隠せない。中には、『透明人間でも出現したと言うのかね』等と精一杯の揶揄を振り絞る者も見受けられたが、その当人も事態を把握出来ず虚勢を張っているに過ぎない事は一目瞭然だった。そして暫くの間、現場はざわめき立ち収拾の付かない状態へと陥る……。取り留めの無い雑談が場を流れ始めたが、各人の反応を半ば無視するかの様に、ロイトフだけは只一人沈黙を保っていた。

(記憶にも記録にも残ってない……?)

(現場の時間や場所だけを切り取られた様に……?)

(だとすると若しや……!)

 ロイトフは自問自答から得心を得たと云った風情で沈思を解き、周囲の中心に居直った。青年役人へ対峙すると、ロイトフは謎を仄めかす様な調子でこう語り掛ける。そしてそれは同時に、自身だけが真相を掴んだかの様な確信に満ちた口調でもあった。

「……君は、何かの手品を見せられている様だと言ったな? しかし手品はどんなに不思議でも魔法では無い、確実に種は隠されている物だ。今回の一件も不可解な様でいて、巧妙な仕掛けがトリックとして用いられている筈だ。私の思い違いでなければな……!」




            *




「ショーハンペウアーズ病院へ急行しろだって?」

 現代の乗り物は、本人がハンドルを握らずとも完全自動運転が可能となっている。一切の操作を全自動モードに切り替え高速道路を走行する車中、『ヘッドギア生産工場爆破事件』担当官である青年役人は思わぬ指示に訝しげな声を上げた。彼は今回の事件の重責から降格や解雇すら覚悟し恐々としていたものだが、幸運な事にそれ以上のお咎めは無い様子だった。しかし首の皮一枚繋がったと安堵していたのも束の間、一見脈絡の無い仕事が上層部から申し付けられた様だ。

 彼は自身のヘッドギア中継通信画面に映る相手を仰々しく見据える。相手の肥満体型な男は絶えず菓子やジャンクフードの類をヘッドギア越しから頬張っているらしい。漏れ聞こえる舌鼓や嚥下音が直接的に鼓膜へ響き、不快さから思わず顔を顰めたくなる。通信画面上から察するに、相手の座する場所はカーマ警察内部の一角、『電脳犯罪課特別対策室』の一部屋だろう。自動走行される車中からも今日は心地良い日和と感じられ、相手の居場所である警察庁も左程遠距離と言う事は無い。天候や気温に大差は無い筈なのだが……。

 それにも関わらず相手の部屋のブラインドは全面的に垂れ下げられ、陽射しを遮断している様子が画面越しからも見受けられる。蛍光灯一つ点けられず薄暗い室内は、手広な部屋ではあるものの無造作に放置された専門雑誌書籍類、ジャンクフードの食べ欠片、趣味性に富んだフィギュア等が山積し雑然とした様相を呈していた。明光を発する様な光源は、無数に点在する機械類のディスプレイ画面からのみ。触手の如く複雑に絡み合うケーブル、コード類はそれ等部屋の調度品や床迄を侵食し、足の踏み場も無い有様だ。

 相手の専門家、通称『サニー』は、青年の焦燥に満ちた態度を嘗め回す様に見遣り、敢えて一拍置いて思わせ振りに説明を始める。青年は毒吐きたくなる衝動を、胸中で必死に抑制していた。

(何て陰気な部屋、何て陰険な男なんだ……。自分が電脳犯罪対策の専門家だからと、頭脳労働担当では無い職員はそれだけで見下し優越感に浸ってやがる……! しかも俺や関係者達が、事件の収拾を付けられず叱責されている事態も高見の見物で嘲笑っている。そして今もこうして、わざと話しを謎めかせ俺を翻弄させる事で悦に入ってるんだ、畜生め……!!)

 長年換気や掃除が施されてないと見て取れる淀んだ空気のその部屋だが、青年に取ってはその主こそが一番の汚物にすら感じられた。相手の専門家が偏屈で社交性が欠落している男だとは、庁内でも既に浸透した常識だった。故にこうして通信連絡を受信した瞬間から一種予想はしていたが、彼の醜悪振りは目に余るものだった。

(元々の彼の出自はハッカー犯罪者だったと言うのだから、仕方ないのか……?)

―そう、犯罪発生率が僅少なこの社会でも、更に稀有な電脳犯罪者として摘発された過去が彼には有る。様々なネットワークを経由させた政府機構への無断侵入、機密情報の取得と、彼の犯行は重篤を極めていた。しかし一旦検挙されたものの、そのハッカーとしての卓抜した有能性を買われ、警察業務へ協力する事を交換条件として秘密裏に免罪されたと言う。透明性在る治世を徹底している政府からすると、極めて異例な措置だった。

 そして現在では鳴りを潜め表面上は警察内部で従事しているが、彼が改心し心根迄入れ替わったとは到底思えない。優秀な能力者である一点以外は、いつ飼い主の手を噛み、後ろ足で砂を掛けて来るかも判らない人材だ。飼い慣らせるか如何か、味方とも断言し切れない相手の尊大な態度に青年は益々怒気を発散し始めるが、相手は一向に意に介さず朗々と説明を紡ぐ。

「まず、学の無い君達みたいなのにも解かる様に、『ヘッドギア生産工場爆破事件』の犯行手口を説明しなくてはねえー。まあ面倒だし時間が無いから手短に……。一回しか言わないからちゃんと聴いててよ? この画面を観て……」

 ディスプレイ画面には、複数の現場映像が同時に拡大して映写される。青年に取っては目を皿にして何度となく見返した映像資料だ。どれだけ巻き戻し再生した所で、何ら変哲も無い当時の仕事風景しか確認出来なかった。何の手掛かりも発見されなかった資料価値の低い物を、今更提示して来てどうするつもりなのか?

 サニーはこちらの疑心暗鬼な面持ちこそ待ち望んでいたかの様に、嬉々として語り始めた。

「―全ては映像の上書きだったんだ―。

 説明せずとも、全人民に支給されているヘッドギア端末には、装着者本人の主観視点の光景がリアルタイムに記録、保存されて行く機能性が備わっている。その映像記録は事件の際、証拠として転化も可能となる訳だ。このヘッドギアの映像機能こそが、犯罪発生への絶対的抑止力として働いているってのは子供でも理解出来る事だけど……。犯人は、その不文律の盲点を突き逆利用したんだ。不文律だからこそ誰も疑心を抱かない、誰も手を出さないと言う普遍的心理を突いてね。

 犯人はまず一部のサーバーへ無断侵入し、現場の作業員や警備員達の主観視点映像を取得した。工場は、生産効率性を重視する為に殆ど全てが機械で稼動し、自動的に運営されている。作業員や警備員なんてのは、有事以外は建前として用いられる書き割りみたいな存在なんだよ。只事務的に、定型となった退屈な業務を日夜こなすだけなんだ。例えば昨夜の食事を思い出せ、と言われても案外記憶に残ってないのと同様で、彼等も毎日の決まり切った反復作業なんてのを逐一憶えてはいない。作業員は細々とした雑務を黙々とこなす、警備員は施設内を定時に定例の進路で淡々と巡回する……。そんな平凡な毎日だとすると、本人達ですら、昨日と今日の映像を観せられてもその区別を付け難いかも知れない……。

―そう、これが普遍的心理の盲点だったんだ。誰もが暇を飽かし、問題が発生するなんて露程にも想像してはいない。『デジタルマスカレード通り魔事件』は世間に取って衝撃的だったが、その影響から他の事件が連鎖している事もまだ通達されていなかったらしい。誰も、遂には工場迄が標的にされるとは夢にも思ってなかったんだろうな。―犯人は犯行当日の、施設内へ侵入する瞬間や工作処理し逃走する極く短時間の間、ダミー映像を労働者達のヘッドギア内部の視界に被せたんだ。彼等のここ最近の仕事風景の主観映像。それを編集した物を当日、彼等のヘッドギア内部で映写し、現実の視界を上書きする様にね。映像は使い易い普遍的な場面を継ぎ接ぎし、過去の会話部分や物音の様な音声は削除して、<今日>と言う日の状況を上手く演出したんだろう。

 工場は自動的に運営され、基本的に無人に近い時間帯が一日の大半を占める。犯人は当然その時間帯を狙い、なるべく短時間で工作処理を完了させた事だろう。労働者達は合成された擬似映像を見せ付けられているとは頭にも無いし、錯視は極く短時間の話しに過ぎない。日々変化の乏しい作業風景な為に、油断し切っている少人数の労働者達から違和感を訴える者は皆無だった。視覚を奪われ一種偽物の映像を上塗りする様に見せ付けられているが、本人達はそれが現在の、現実の自分の視界だと信じて疑わない。

 労働者達は今日と言う日に存在しながら、過去の映像をなぞる様にして行動し日常生活を送った。―現在に生きながら、過去の場へ住まわされたんだ。……そして問題無く一日の業務は終了した、事になった。果たして犯人は政府関連の施設でもある生産工場へ堂々と入門し、妨害工作を図った後には、また悠々と正面から立ち去って行った……。

 監視カメラも同様の手口だ。24時間体制で稼動する監視カメラだが、実際に監視者が気付かなければ殆どその意味は無い。映像記録は外部端末装置に日々蓄積されて行く訳だが、彼等はご丁寧にも、サーバーごともう一体のコピーを製造した様なんだよ。そこから無人の内部風景や労働者達の所作に合わせた編集映像を用意して置き、犯行当日に遠隔地コピーサーバーを本体サーバーと挿げ替えデータベースに繋げる。そして矢張り、<今日>と言うリアルタイムの物に見せ掛けて編集映像を同時的に流す……。この両面からの工作で、人間の記憶にもデジタルの記録にも犯罪映像は残らない。

 こうして、丸で透明人間が現場に侵入したか、一部の時間や場所だけ別次元に切り取られたのか、と錯覚させられる様な手品は成功した訳だ。巧妙な手口だったよ。データベース上では、個人情報の足跡なんかは一切発見出来なかった。映像を途中で差し替える行為の瞬間も絶妙で、微細にでも間断や継ぎ接ぎは垣間見えない。丸で旧来の、映画フィルムを繋ぎ合わせる熟練した職人の様に……。工場内の大半の時間帯が無人で占められると言う特徴は、実際の犯行へ及び易く、尚且つ編集映像が疑惑を持たれない事にも一役買っていたのだろう。無人の風景が多ければ、変化も無く只機械が反復作業をしているのみだしね。

 しかし、僕は不審に思った。機械の誤作動や不調から火事が発生した訳ではない。確実に、人為的に爆弾を設置された形跡があると鑑識から報告されたんだ。爆破跡には、工場の製品開発とは無関係な燃料成分や乾電池の破片等が発見されたからね。そこで矢張り、人為的な、故意に因る時限爆破の疑いが濃厚になった。透明人間や幽霊等存在しないし、超常現象世界の住人ならば犯行理由を持たない。結局、どう考えても犯行動機を抱く者はエス本人やその共感者達しか有り得ないんだからね。必ず何かの種は有る筈だ……、と見据え直した。そしてロイトフ長官からの依頼もあり別角度から調査した所、案の定様々な齟齬が生じた。映像は上手く編集されてはいるが、解析後の蓋然性の低い結果から、矢張り改竄映像だと確信出来たんだ……。

―うちの研究開発室では、『人物追跡システム』と言う技術が開発されていてね……。

 そのシステムは簡単に説明すれば、一場面の映像からでも複数人それぞれの移動情報を自動抽出する事が可能な技術なんだ。まず追跡対象とする人物だけでなく、背景迄も含めた画像全体の領域を抽出する。そしてこの領域の形状や位置の時間的な変化を解析する事に由って、自動的に人物追跡が開始される。従来の様な人物の数理的モデルが不要な上、遮蔽物のせいで人物の形状が変化して見えた場合でも、問題なく追跡出来る……。本来の開発目的は、大型店舗なんかの大勢の人間でごった返す場所で、通行の流れを自動的に検知し集計する機構の構築にあったんだ。今回は、空間利用の安全性と効率を向上させる為のこのソフトが、思わぬ所で役に立ったって訳だね」

 そうして自分の弁舌に酩酊した調子で、サニーはディスプレイ画面の結果を再拡大し表示して来る。無機質なインターフェイス画面には、複雑多岐に渡る項目と数理結果が表示されていた。専門的なグラフ結果が膨大な情報量で全体像を占める中、片隅には当時の現場映像と過去の内部映像の一群が列をなして再生されている。

 その分割された画面群では、一見どれも同様の内容が映写され続けている様に見受けられた。しかし専門家たる彼の説明通り、個々の映像に由って時間の経過や人間の動きには微妙な不一致が出始めている様子だった。何よりその項目の下には、赤字で煌々と輝く文字列が厳然たる異状を主張しているのだ。

―それは基になる映像素材と各自の素材を照合させた場合の、不適合を示す誤差数値表示だった……。

(確かに一つ一つの映像は日常的な作業風景として酷似してはいるが、全く同じ映像を並べて流している訳ではない……。こんな風に仕組まれていたのか……!!)。

「ねっ? 各種監視カメラの場所、時間帯を総合的に分析すると、今日と言う一日なのに形状や領域変化が微妙にずれたりしてるでしょ? 人間が進行すると思われる自然な軌跡を動線と称するんだけど、この映像の場合、位置検出システムからすると滞留比率や位置行動把握に不可解な解析結果が算出される。動線距離や指定した移動体の経路、到達時刻表示を視覚化すると更に解かり易い。警備員の時間滞在や歩行経路を確認すると、始点から終点の追尾に齟齬が生じる箇所も有る……。画像は処理し切れず、従来の数理モデルを導入して見ても明らかに可笑しい物理演算結果が出てるんだ。

 どれだけ上手く継ぎ接ぎしたりしても、空間運用の結果迄は誤魔化せないと言う事さ。犯人が、うちのソフトはほんの些細な身動ぎでも検出出来る程に高精度だって事を証明してくれた様な物だがね。

……<今日>は今日で別の日、新しい一日だから、どんなに作業的で反復に満ちた毎日でも昨日と全く同じ一日にはならない。まあ、全く同一な昨日の映像を流せば逆に感付かれ易い可能性も考えられるからこそ、犯人は<新しい今日>を演出する為にこうした編集が必要だった訳なんだろう。犯人がうちに有る様な予測技術迄も応用して映像を加工していたとしたら、真相の究明は更に遅れたかも知れないけどね……」

 青年は固唾を呑んでサニーの説明に聴き入っていたが、不意に我へと返った。

(究明は更に遅れたかも、だと……? 少し違うな。確かにこれ等の新技術は電脳犯罪課特別対策室の技術班が開発したんだろうし、今回の調査に貢献したかも知れない。しかし、まず犯行現場から犯人達の工作手法を推理し、大部分を的中させ、調査を迅速且つ適切に指示したのは誰だと思ってる? ロイトフ長官の洞察があればこそだったろうが……。あくまでも下請けに過ぎない元電脳犯罪者が、全てを自分の手柄の様に思い上がりやがって……)

 青年は、口幅ったい彼の器の底を見透かした心持ちになり、急速に相手への怒気や嫌悪感が冷めて行く事を実感した。彼は一線を引き、理性的に質問を乞う。

「ここ迄の理屈は良く解かったよ……。犯人は一時的に施設内の人間と監視カメラの視覚を奪い、仮想現実を視せている隙を狙って犯行を完遂したと。人間の目からすると一見では自然な映像も、解析して見れば理論に合ってないと言う事だろう?

 しかし、人物追跡システムと言ってもGPSでは無いんだ。あくまでも一部の空間に限定した移動情報予測技術の筈じゃないか? 何も地球の裏側に迄飛び立った相手の動向や、相手の今後の人生迄延々と予想出来る物ではないだろう?

 犯人の所在は特定出来たのか、何故今、例の病院に直行するべきなのか? 勿体付けないで説明してくれないか?」

 サニーは一瞬意外そうな反応を浮かべるも、余裕綽々と軽口を叩き続ける。

「おや、思ったより理解は早いね。そう、これだけでは犯人の正体や所在の特定迄は不可能だ。実は、ここからは並行していた別作業の成果なんだ。

―ネット上の犯罪予告検知ソフトウェアのね。

 このソフトは事件予防の為に、ネット上の不穏当な言語や議論を分析し情報を認知出来る。これは直接的な単語で無くとも、高精度の検索エンジンと検索結果の自動分類、関連キーワードの可視化機能を統合した検索システムに由って有害情報の検出が可能なんだ。

エスはヘッドギアを捨てた為に、GPSやネット上の情報と言う枷から放たれた。だから本人への電子的な追跡は難しいが……、実は氾濫しているエス関連の文書群から、彼へ協力したい意志を示唆する様な書き込みが発見されたんだ。情報規制され始めたと言っても今だエスに関する話題は溢れ返っているし、彼への賛同を表明する様な信者の書き込みは後を絶たない。

 ―そして、その中でもどこか異質で、その他大勢と違い真摯さが伝わる様な毅然とした調子で『俺はエスを助けに行く』と言う一文を書き残して行った者が居る。

 解析して行った結果、そいつは過去の僕の様に珍しいハッカーなのではないか、と推測されて来たんだ。一連のテロ染みた事件を含め、その男が実際にエスへ接触を図り既に協力している可能性は高い。

 機動隊がエスを一旦捕獲寸前迄追い詰めた一件は知ってるよね?しかしその寸前の所で、丁度出現した何者かが妨害工作を謀り逃走の幇助をしたと言う。エスの逃走経路は地下下水処理場だった。偶然第三者が遭遇する様な場所じゃあないよね。そして男は、下水処理場の機械扉を開いたり、機動隊の特殊装備を逆手に取る様な武器を駆使して来たと言う……。

 これは、どう考えても事前の下調べが無ければ起こせない行動だろう。それも、そいつは警察や行政機関の機密情報迄も取得したと見える。その気になれば僕に取っては簡単な作業だけど、まあ僕から見てもそいつは中々のタマじゃないかな。

―そして男の個人情報、過去の主観映像記録等は警察権限で照合する事が出来たが、それがどうにも怪しいんだ。

 特に最近の事件前後の生活は、矢張り擬似映像で上書きされていると思う。自分の過去の生活映像は勿論、親しい人間の視覚や有り触れた既存の映像を素材として、様々な合成と編集を加えているのではないかと僕達は推測している。

……しかしその男はヘッドギアを脱ぎ捨てる度胸迄は無いのか、GPS情報だけは取得出来たんだよ。

 情報からすると、彼の現在地は病院……。相手の目的は現地へ到着してみないと当然解からないが……。何かで病気や怪我を負ったか、病院で潜伏し何か事を起こそうとしているか。エス本人ではないが確実に重要人物と目される男なので、君に直行して欲しい、と言う事なんだ。既に近隣の警察隊もパトカーで出向している。出来ればここで手柄を立てて、名誉挽回すると良い。相手は一筋縄で行く相手ではないから、君ではどこ迄やれるか分からんがな」

 相手は逐一棘のある一言を付け加えないと気が済まない様な、口さがない性分らしい。しかし青年の胸中はそんな非礼な揶揄も取るに足らない雑音として聞き流す様な、丸で別次元を向いた毅然さに溢れ始めていた。

 それは或る一つの確信……。延々と弁舌を拝聴する内に、奴の内奥を見透かしたからだった。

 青年はあくまでも理性的に、訥々と反駁し始めた。

「……ご説明、ご忠告と御膳立て、感謝痛み入るね。しかしね……。今の話しの中で一つ訂正させておきたい事がある。エスやその助力者が、あんたと同類だと?

 冗談じゃないぜ。確かに能力からすればあんたは奴等の犯行と同等か、それ以上の芸当も可能かも知れん。あんたの知力や技能は大いに認めよう。

 しかし、あんたとエス達じゃ丸で人種が違うんだよ。エスは自己を獲得し存在証明を果たしたいが為に、素顔を曝け出して迄世界へと対峙した。たった独りでね……。それは一見すれば無謀で青臭い、自己陶酔にも陥り得る蛮勇だったかも知れない……。しかしその犯行に打算は無く、真摯で純真で、自己の人生に誠実な姿勢が根底に在るからこそ共感者達迄が出現し始めた……。今、危険を背負い街中を戦場に変え奮闘している彼等と、庇護された密室で安穏と生活するあんたと、一体どこが同じだと言うんだ? 同じ様な犯罪でも、あんたはあくまで電脳世界の中でしか遊泳する事が無かっただろう。

 奴等は違う。現実世界の中で現実を感じようと、痛みを感じようと、感じさせようと叫び、本当の意味で生きようとしている。所があんたはどうだ? いつも机上で知謀を廻らすだけだ。そしていつしか、嘲笑っていた筈の支配者の下でぬくぬくと暮らしている。皆はいつあんたが反旗を翻すか分からない、と爆弾を扱う様に慎重に怖れているが、俺は確信したぜ。

 あんたにはもう事を起こす意志や度胸は無い。檻の中で飼われる事に居心地の良さを見出したのさ。どうだ、図星だろう? 俺からみればあんたは観念の飼い犬に過ぎない。動物園の中の動物が、檻の中から外の人間へ向かい威嚇する事を、芸として仕込まれている様なものさ。牙を剥いて相手を威す様に見せ掛けているが、本心には無い闘争心。全て約束された決め事の芝居……。あんたが仄めかしている背信の実体なんてそんなものさ。吼え声だけは威勢が良いいが、実際は虚勢に過ぎず、噛み付く牙なんて既に折られ持ち合わせて等いやしない。

 狡知に長けた手練手管よりも、稚拙な行動を持って示した者の方が余程説得力が有る。百の言葉よりも、一の行為こそが雄弁なんだ……! エスは、あんたの様に相互で暗黙の了解がされた予定調和の反抗を続け、示威を見せているのとは丸で違うぜ。奴等は後ろ盾も無く全ての代償を背負い、素顔を晒して戦おうとしているんだからな」

 画面の向こう側で対峙するサニーは、青年から繰り出される突然の舌鋒に絶句した。進退窮まり追い込まれている筈だった青年の急激な変貌振りに驚愕し、そしてその論旨が彼に取っては正鵠を射る苦言でもあった為に返す言葉も失ってしまう。

―そう、それは内心ではどこかで自覚しつつも、真実から目を逸らす自己欺瞞的な姿勢。

 彼自身も潜在的には既に気が萎え、権力の軍門に下っていた。しかし自尊心からその敗北感を隠蔽する為に、既に折られた牙を周囲へちらつかせる素振りを見せ続ける。そんな姿勢を一貫すれば敵に与せず逆利用しているだけ、いつかは叉離反し反撃するかも知れない、と言う面目が立つ。全ての態度は、自己弁護する為の虚勢に過ぎなかったのだ……。

「解かったらその下らんゴミ箱みたいな口を閉じるんだな。エスは飼い犬でも批評家でもない、行為者なんだからな」

 青年は最後にそう吐き捨てると、相手の反応も待たず不躾に通信を切断した。

(一体、俺の中でも何があったんだ……?)

 彼自身が、自身の心境の変化に戸惑っていた。先刻迄は、エスの犯行に由って自分の立つ瀬が奪われ掛けたと言うのに……。何故か、他者にエスやその共感者達を中傷される事には不快感が募った。

(何故、俺は敵方を庇う様な発言をしたんだ……? 自分がやり込められそうだったから、反論の材料にしたいが為に敵を引き合いに出した、と言うのとは違う。純粋に自分の思いの丈をぶち撒けたくなった、心底からそうだ―)

 青年は根底に在るその感情へ自制を掛けなければ、と動揺する。しかし必死に抑制しようとすればする程、込み上げて来る内奥からの声は止め処なく溢れ出るばかりだった。


(……俺は自分の立場を失調され、社会的にも悪と見做されるエスに対して、羨望や憧憬すら抱き始めている……)




             *



 青年役人は言い知れない複雑な胸中の侭、『ショーハンペウアーズ病院』の門前に到着した。警醒の士として世界中から注目を一身に浴びるテロリスト達が、この院内に潜伏している可能性があると指示されたのだ。

 門外の敷地全体には、既に周囲を数十台のパトカーが取り囲み包囲網を完成させていた。

 青年役人が開放された自動扉から一歩足を踏み入れると、大規模な病院内も既に避難誘導がなされたのか閑散としている。冷徹な質感のリノリウムの床、反響する無味乾燥な足音、鼻腔を擽り脳裏を刺す消毒臭……。清潔で清浄に整備された空間の中、待合室では茫然と中空に視線を彷徨わせる者、人目を憚らず項垂れ寝入る者達等、疲弊した患者達はまだ散見される。しかしこれ等は重篤な病者達の輸送が遅延しているのであり、院内全体の人間達は矢張り撤収が完了している様子だった。秩序立てられながらも払拭し難い陰鬱な空気に満ちた建物内で、青年役人は丸で自分が場違いな迷子の様な錯覚を覚えた。尤も、本来の不法侵入者を索敵する為にこそ彼はここへ赴いたのだが……。

 既に数人の警官隊は、正門口で主導役たる彼の到着の為に待機していた。彼の姿を見て取ると、誰もが真摯な面持ちを崩さない侭口々に挨拶を交わす。他の患者達へ気取られず混乱を避ける様に私服スーツ姿で統一された彼等だが、懐には物々しい装備を携行しているらしい。

 病院内へ潜伏するシドを追及する為に集結した彼等の中から、青年役人へと状況説明の第一声が挙がる。

「一般患者達の避難誘導は大部分終了しました。既に包囲網は整備されたので、後は不審箇所を探索し相手を追い詰めるだけです……! 現在では、エスはシドと称される共犯者と行動を共にしていると思われます。今回この病院内で、そのシドのGPS番号が確認された事で追跡捜査の陣が敷かれました。彼等が何故突如病院に侵入したか目的迄は量り兼ねますが、潜伏している最中を叩く絶好の機会です……!」

 青年役人は外面的に彼等の状況報告へ調子を合わせるが、どこか余所余所しさが見え隠れする。しかしそれは現在エスを索敵すると言う緊張下の為と解釈されたのか、誰一人青年役人の内省的態度を怪訝に思う者は居ない。

 彼の伏目を他所に、捜索作業は円滑に進行して行く……。実害を被った点としても、本来青年役人は大罪人エスへ並々ならぬ怨嗟で猛り狂っている状態が当然の筈だ。しかし青年役人自身は、そんな仇敵へ断定し切れない交々に至る万感を覚えていた。

……エスの理念に対する共感や、テロを決行した勇断さに対する畏敬の念、若しくは潜在的な羨望や嫉妬……。エスの背中に英雄としての尤態すら感じ、翻弄されている。

 そして事件現場へ到着し警戒心を高めながら建物内を慎重に密行する中で、彼の加速する鼓動は全身に行き渡り緊張は極限へ達して行った。

 全身が強張り手足は震え、重厚な迫力を湛える拳銃もいつにも増して重量を感じ、改めて日頃携えている兇器の禍々しさを実感する。日常風景の中で書き割りの様に風化して行った道具や事物が、丸で息を吹き返したかの様に改めて意味や生命を獲得し存在感を放つ。日頃の生活の中で『当然』に馴染み過ぎ一種失念していた事物が、今では影から這い上がる様に具現化され深々と息衝いている……。

 彼は脈動し汗ばむ掌中で再度拳銃を握り直す。そして奄々たる気息をどうにか抑え付ける様にと一旦呼吸を停め、腹部から一斉に二酸化炭素を吐き出す。しかし深呼吸を反復する中で、彼は緊迫する事態へ一種の高揚感に衝き動かされている己をも自覚していた。

 卑近な日常を送る事で、人間は生の中で生を忘却し怠惰に堕する。そして生命の危機に瀕する様な異常状況下に於いて、感性が研ぎ澄まされ初めて生の中で生に目覚める。恐々としながらも、青年役人は胸中で千々に乱れるそんな雑感を御し切れないでいるのだ。幾重にも織り成す不条理な感情……。

(敵意に囚われても当然な程の相手に、接近している最中の筈だ―)

 しかし青年役人は、今正に対峙しようとしている標的へ、友情にも似た奇妙な親近感すら同時に覚えている事で戸惑う。

(―恐怖……。いや、歩を鈍らせる理由はそれだけでは無い。奴へ銃口を向ける事に躊躇うのは……。

 俺はエスに様々な面影を見ている。まだ対面した事も無い犯人へ、旧知の間柄の様な親近感も、英雄に憧憬を持つ様な畏敬の念も……。

 俺は、邂逅の瞬間を待ち望んでいるのかも知れない……。もし戦闘態勢へ入り引鉄に指を掛けるとしたら、一瞬の逡巡が致命的な遅れに成り得るかも知れないのだが……)

 彼の自問自答は深淵に達し、他者の存在を失念する程に内省へと向かっていた。

(―今の俺にエスが撃てるだろうか? 何か、他に投げ掛けたい台詞すら溢れ出しそうな気さえする。言葉の糸口を必死で探すが、適切な語彙が見付からない。いや、見付けたくないのかも知れないし、言葉にすれば寧ろ途端に陳腐と化してしまう懸念さえ感じる。

 今の俺の心身を貫く、奴へ駆け寄って抱擁を交わしたい様な愛しさは……。

 聖職者としての立場から、良心の呵責を覚えない訳では無い。しかし、最早抑制の効く気がしないのだ……)

 そんな思案も、生真面目な一警官の事務的な案内に因って漸く遮られた。

「シドのGPS番号が測位された場所はこの病室です……!」

 青年役人の案内役と追従者達はどこか機械的な程に杓子定規で、寧ろ滑稽ですらある。ともあれ、遂に件の張本人の潜伏場所へと辿り着いたのだ……。この扉の向こう側には、矛盾した愛憎で想い焦がれる相手が息を潜めている……。

 青年役人は邂逅を目前に控え怖々と身構えたが、全身は内部からどうしても脱力し、萎え掛けた戦意を駆り立てられない気がしてしまう。

 彼等がここに潜伏した動機とは何か? 医薬品や食料の調達か、不法占拠しての拉致脅迫か……。永遠にも感じられる様な緊迫に満ちた待機の中、重厚な病室の扉前で全員が定位置に配する。捕獲態勢を整え固唾を呑みつつ相互に目配せした、数瞬の後―。

 時機を見計らい、意を決した様に吶喊の合図が為された。一隊が病室の扉を突貫する。各人が訓練の施された熟練した動作で対陣を敷き、射撃体勢を固め一旦の硬直を迎えた。性急に人員が雪崩れ込んだ病室だが、室内はまだ何者かの動揺や臨戦の反応は無く、静寂に包まれている。

 勿論油断はならない。座標として、エス一味のGPS番号はここだと確実に測位されているのだ。室内に潜伏し、逃走か反撃を目論んでいる事は相違ない筈だった。死角を生じさせない為に、各人が相互を補完し合う様な立ち位置で捕獲態勢を維持する。


……しかし、気配や動向を窺いつつも数瞬が経過する。膠着状態が余りにも長引き、誰もが怪訝な様相を露にし始めた。

 慎重に包囲を進行している筈だが、無音の室内には人気自体が丸で感じられない。

(まさか……)

 青年役人は肩透かしを喰った様に呆然と立ち尽くし、遂には警戒を解き無防備にすらなってしまった。逆に部下の一隊は、その青年役人のあっけらかんとした態度に益々動揺の気色を募らせる。

 一介の隊員は、逡巡した後に怖々と小声で具申した。

「衛星での捕捉に無謬はありません……。時間差や距離等の差異なんてある筈が……」

 そして特に青年役人の身を案じ、語調を強め注意を喚起した。

「きっとこの部屋のどこかにまだ隠れている筈です! 気を付けないと!!」

 しかし青年役人は警告を意に介さず、聞き流すかの様に鷹揚な足取りで室内の中心へ躍り出た。先程とは掌を返した様に打って変わって、緊張感等微塵にも無い様に……。

 隊員達は事態を理解し切れず一様に疑念を呈するばかりだが、反して青年役人の足取りには好奇心や一種の根拠を得た様な自信迄が窺われた。

 彼が歩み寄る室内の片隅には、仰々しい機械装置が備え付けられている。その装置が視界に入ったものの、隊員達の困惑は悪戯に煽られるばかりだった。

―眼前に鎮座する物は、閉鎖循環式の保育器なのだ。本来の保育器とは、新生児が寝具へ顔を埋めた際の窒息を予防する等、不測の事態を逸早く発見する為に全体の囲いは透明な仕様となっている物だ。しかし現代では個人情報保護の為に、頭部のみが不透明なモザイク状のプラスチック板で隠蔽されている……。人工呼吸器や点滴用のチューブ類が触手の如く複雑に絡み合い接続されている中で、モニター類はあくまでも淡々と平常時の動作を続けていた……。

 頭部は透過されないが、寝台に乗る余りにも小柄なその体躯は明らかに新生児と見て取れる。青年役人は既に一人では得心していながらも、一応の形式的な質問を空疎な声音で背後の隊員へ投げ掛ける。

「現在の犯人のGPS捕捉位置は?」

 ヘッドギア内部のデータ画面を一目し、部下は悄然と返答した。

「……め、目の前、です……」

 その言葉を吐き終わるが早いか、突如室内に大音量の金切り声が響き渡った。隊員達は咄嗟に身構えるが反射的な防御の後にはその警戒も不要と悟り、各様が呆然自失と立ち尽くす……。


 突然の大音量は犯人達の急襲に由る騒音ではなく、寝覚めの悲鳴を挙げた赤ん坊の泣き声だった。


                        

              *



「本日はウィングフィールズ空港をご利用頂き誠に有難う御座います……。現在の発着状況は……」

 透明感溢れる近未来的な建築物内で、喧騒を貫く様に清廉なアナウンスが鳴り響く。

『ウィングフィールズ空港』。国際拠点としての役割を果たし、緻密な航空網を連携させる世界でも有数の空港だ。

 毎日800便もの飛行機が離着陸する施設内では、種々雑多な利用客達で今日も相当な混雑を呈していた。

先鋭性溢れる人工的で大規模な空港内。チェックインカウンターの従事に追われる一介の係官は、怒涛の様に押し寄せる仕事の波が落ち着き漸く休憩所で一息を吐いた所だった。

最近では巷を騒然とさせている通り魔の累犯を受け、空港内でも通常以上の入念なセキュリティー対策が厳命されている。エスやその信奉者達に由る空港内占拠や航空機ジャックを想定する事で、緊急的に基本業務以上の厳重な警備、監視、検査が課せられたのだ。急速な連日の激務に、従業員達の大勢は疲弊や重圧を抱え鬱屈としていた。

 確かに旧時代では不法な密輸や、テロリスト達が航空警備を突破しハイジャックを決行する事例は散見された。例えば搭乗前に幾度と無く金属探知機の前を通過しながらも、靴底に仕込んだ爆発物で機内へ乗り込み航空機を爆破させようと試みた犯罪者。また、持参したコーヒーに液体爆弾を混入させたり、オーディオへ少量のプラスチック爆弾を詰めて置く、厚手の冬物ジャケットや書類鞄の裏にシート状の爆弾を隠蔽させて置く、と言った手法で犯行を目論んでいた者達等……。犯罪者達の偽装工作は多岐へ及び、運輸保安局の眼を欺く実に狡知に長けたものだった。

 しかし現代では、旧来の様に空港内や航空機内を容易に支配出来るものではない……。インダーウェルトセイン政府が直々に製造し設置している検査装置は画像解析アルゴリズムを使用しており、爆発危険物と非爆発物とを判別可能にしている。

 検知機器は中性子を荷物へ照射し、内容物から発生するガンマ線によって爆発物を発見する仕組みなのだ。放射されるガンマ線の波長は元素によって全て差異があり、疑わしい物体に中性子を照射すればその物質の化学成分、手荷物の内部や裏側に爆発物が秘匿されていないか迄も精査出来る。また荷物の外側に微量の成分が付着する事へも着目し、残留物を検査する機器も複合的に組み込んだ事で爆発物の痕跡を検知する事も可能としているのだ。

 それ等一連の警備機構の他、税関局が導入した自動出入国管理システムは円滑に機能している。出入国する旅行者に対して人間の係官が通常施行している入国審査と税関業務を自動化する、安全且つ簡便な仕組みは既に常識として定着していた。

 特にウィングフィールズ空港ではチェックゲート内の個室で顔認識システムを用い、政府管理データベースに在る国民の顔画像情報と一致するか照合作業を実施している。

 これは撮影した顔の画像を数値コードに変換し、検索可能なデータとして保存する人相認識技術だ。人相認識ソフトウェアは瞳孔の中心、眼窩の距離、鼻筋の傾斜具合、唇の厚さ、頬骨、額の生え際、皮膚の詳細な質感等、人相を構成する特徴点80件以上を測定し、テンプレートを作成してデータベースに保存する。尚且つ2次元顔認識の他、3次元モデル画像照合を機能的に組み合わせる事でより一層精度を向上させてもいるのだ。

 3次元顔認識アルゴリズムは照度や角度、表情や加齢、頭部の向き等の不確定要素にも対応しており、ホログラムの概念に近似した3Dの精密な顔画像を造り出す。2次元顔認識の様な正面方向だけではない立体認識を行う為、2D画像よりも包括的な情報が取得出来る機構だ。加えて骨格等の硬組織へも焦点が当てられる様に調整されており、認識用カメラから凡そ2メートルの範囲内に接近すれば一卵性双生児を判別する程の精密さで本人を識別する。

 この自動人相照合システムは現在の高性能なボディーチェック・スキャナー体制と複合され、通常の入国審査と税関検査は相当に効率化されているのだ。身分証明標準としてもテロリズム対策の一環としても、国家や市井は既にこれ等一連の完全自動入国審査システムへ全幅の信頼を置いていた。

 しかし、現況では未曾有のテロ犯罪がエスの一派に由って頻発している。空港内の自動化された工程だけでは不備があると判断され、警備体制の徹底を余儀無くされた。武装した屈強な警備員を増員し全域を巡回させる、自動人相認識以外の高性能X線スキャンによる貨物検査や身体検査の他、原始的な係官自身の手によるボディタッチ、口頭審問、手荷物検査と……。時代性の為に、職員全体が自動入国審査システム以外の作業経験に乏しい事は無理もない。彼等は不慣れな接客や手作業にと多忙を迫られ、疲労や重圧の気色を色濃く覗かせていた。

……本来であれば一連の自動生体認証すら、現代では語義通りの『通過儀礼』に過ぎなかった筈なのだ。現代社会に於いてヘッドギアが犯罪抑止の中枢で在る事は論を待たない。

 例えば路傍で暴漢に強襲されたとしても、被害者はヘッドギア自体から任意で防犯ブザーを鳴動させる事も可能な上、現場映像は内部で保存されながら警察へも送信出来る。当局はその通知された受信記録を基に、映像やヘッドギアGPS測位から現場と当事者を瞬時に特定する。両者の主観映像が総じて確実な証拠記録となる為、偽証を謀られる事は有り得ない。

 この様にヘッドギアは多角的な防犯性が備わっている為、不文律として犯罪発生率は極端に僅少なのだ。国際空港内でもその治安性は磐石なもので、社会構造上現在では万人に於いて身分詐称は不可能。仮に反体制思想者が潜入を目論んでいたとしても、搭乗前のヘッドギア検査から本人の犯罪者予備率は機械的に考察されるのだ。

 搭乗客が自動人相認識を通過する工程では、必然的に無人の個室で自身のヘッドギアを着脱する運びとなる。その際は一時的に空港側がヘッドギアを預かり、被験者が人相認識を受けている合間を利用して内部の生活記録等を専用端末装置が精査して行く。

 被験者の生活風景から不穏な動向、思想、会話等の危険要素が自動的に高速で検索される為、犯罪者予備軍の事前摘発も可能なのだ。この様にヘッドギアの内部記録は各方面へ流用可能な為、あらゆる観点から犯罪抑止対策の要と成り得る。故に、一連の査証は形式的な通過儀礼に過ぎない筈、だったのだ……。

 しかし現在物情騒然とさせているエスを分析するに連れ、便宜的な個人情報や社会的地位等は所詮上辺の記号に過ぎず、犯罪者予備軍を特定する事は極めて微妙な問題だと認識させられる。

 知能や精神面に於いて正常と判断され搭乗を許可された者が、機内で突如錯乱しないと誰が断言出来ようか? 一介の常人と看過されていた者が突如発狂し、未来を鑑みずに犯行へ走る……。自暴自棄に陥った犯罪者の出現は警戒しても万全と言う事はなく、未然に阻止し切れるものでは無かったのだ……。

 ヘッドギアの個人情報や各種映像機能こそが人間の行動を監視し、抑止する効力を有すると誰もが盲信し切っていた。しかしエスと言う通り魔の出現に由って電脳情報や記録映像もそれ単体のみでは只のデジタル情報に過ぎず、事件現場そのものを収束させる実行力を持つ訳では無い、と言う冷厳な現実を認識させられたのだ。

 ヘッドギア本体の存在目的や各種映像機能に於いて、最早人間は記号化されていたと言って良い。

 しかしエスと言う存在は、最もアナログ且つ動物的な『感情』と言う不確定的要素を以って、既成概念や社会的論理へ反抗する事も可能だと実証した。自暴自棄に陥った狂人であれ、何らかの確固たる信念を持った英雄であれ、末路を鑑みない者に取ってヘッドギアの防犯機構も絶対的拘束には成り得ないと……。



…………。


 休憩時間終了間際を通知するヘッドギア内部の時刻アラームが鳴動した。休憩室で思索に耽っていた一介の係官は、途端に多忙な現実へと引き戻される。

 当初は激務を極める職務状況の為に、物思いを廻らせる暇も無い生活が続くかと青年係官は当て込んでいた。 しかし警備体制の強化を指示され環境が変動している事を肌で実感し、何か言い知れない程の強烈な触発を感じさせられている。

目まぐるしい現況だからこそ、寧ろ日頃以上に内省的な思索を要求される様な焦燥感……。

(―思えば自身の毎日も、凡庸で退屈極まりない、事務的で作業的な仕事をこなすだけの日々だった……。

 空港内に於ける職務工程の殆どは自動入国審査システムへ委譲されている為、職員の存在も便宜的な書き割りの一つに過ぎない。事故や犯罪の発生率も絶無に近い為、誰もが安寧を永久不変なものと盲信していた。

 しかしこうして現在エスやその狂信者は基より、万人が自発的意志から犯行を起こす事も可能だと再認識させられている。意思に由って加害者に廻る事も可能であれば、不本意でも何らかの被害に巻き込まれる可能性も有る。人生は状況の変異に左右される事も有り得る為、自身の安危も一寸先は闇。政府が謳う恒久の安全や平和等は、神話に過ぎなかったのだ―)

 端緒は、凡庸な一学生からの発作的な反抗に過ぎなかった。しかし一人の青年が巻き起こした暴挙は、社会が貞淑に覆っていた真理へのベールを剥ぎ取ってしまったかの様に想える。青年の行為は社会的影響力を生み、肥大して行く激動の潮流はそれ自体が一個の生命を獲得したかの様だ。その初期衝動をぶち撒けたが如き苛烈な激流は、市井一人一人の暗部迄へと懸命に語り掛けて来る気がして止まない。

 (―特に自分は空港職員と言う職業柄、エスの出現以降から何か無言の示唆を受け取っている様な気さえする……。

 空港へは毎日膨大な利用客が押し寄せるものだが、自動入国審査システムの操作を担当し溢れ返る長蛇の列を処理する時、不意に一抹の疑念が脳裏を差す瞬間があるのだ。

 搭乗客本人は、検閲を通過する為にまずは通信圏外の個室へと案内され、室内で自動人相認識システムを受ける。その前後にもヘッドギア本体から本人の国籍番号、住所、連絡先、出身地、生年月日、血液型、家族形態、職業等、あらゆる個人情報が正確に照合されるのだ。

 しかし電子鑑札は絶対的正確性を有しながらも、矢張り表面的な記号以上でも以下でも無い。政府から付与された学業、職業、住宅等の社会的立場……。もし、何等かの災害等に遭遇し、ヘッドギアの様な身分照明を失った時……。全てを剥ぎ取られた際には、何を以って自己を証明するのだろうか……? 親しい隣人でさえ、相手が素顔ならば判別すら出来ないかも知れない。

 翻って自分自身も、一個の人間として全ての社会情報や虚飾を剥ぎ取られ裸に晒された時、何か自分を自分自身と根拠を持って宣言するだけの手立てが有るだろうか? 仕事柄、日々大勢の人間と貴重な一期一会を繰り返している筈だが、俺は、誰の、何を見知ったと言うのだろうか……? そして、俺自身も何者かの心や記憶に留まる事は一切無い、通り過ぎて行く書き割りの一部……。

 エスの脅威に怯える情勢の中、自分自身も一部の信奉者達の様に奴の毒気へ中てられ始めているのだろうか?

 自分自身がヘッドギアを棄て去る様な覚悟を持ち切れはしない。しかしエスの主張に共感の一端を感じ、奴が次にどの様な犯行を繰り出すかと、内心ではその動向へ期待を膨らませ始めてもいる……)

 気が漫ろになりつつも、彼は休憩を切り上げ職務へ戻ろうと立ち上がる。

……しかしその矢先、不意に物思いを掻き消す様な騒音が鼓膜を突き刺した。

 青年係官は何事か、と項垂れていた頭を反射的に擡げる。すると、空港内の中心部に設置されている超大型テレビジョンへ搭乗客達が群がっている様子だった。そして居合わせた空港利用客達から発せられた怒号が施設内全体を劈いた、と察知するのに青年係官は数瞬を要する。大型テレビジョンの下へ結集した群集が口々に吃驚の声を挙げ、或る者はディスプレイを呆然と指差し、或る者は隣人と顔を見合わせつつも言葉を失い立ち尽くす……。

 大音声の騒乱から各人の会話の逐一迄は聴き取り切れない。未だ事態を把握出来ない青年係官は暫しの間、茫然と眼前の光景を見遣っていた。しかしその刹那、自身の職務と使命をはたと思い直し、突如発生した異常事態の現場へと性急に疾駆し始めた。

「お客様方、落ち着いて下さい! 調査致しますので道をお空け頂けますか!!」

 係官は慇懃さを失しない様に意識しながらも、どよめく喧騒を掻き消す為にと叫声を張り上げた。そして立錐の余地も無い人垣を半ば乱雑に通過する中で、ふとした瞬間に眼前が開かれた。勢い余り、係官は前方へ倒れ込みそうになる。最前列に位置する群集を突き抜けたと気付き、彼は反射的に両手と片膝で床面を突き体勢を立て直した。

……しかし何事かと傍観する集団の最前へ踊り出ながらも、結局は係官自身も呆然自失と立ち尽くす他は無かった……。

 問題の大型テレビジョンを見上げると、巨大ディスプレイから次々と大写しにされるものは一般市民と思わしき者達の顔、顔、顔……。そう、本来政府直轄の基で厳重に管理保護されている一般市民の個人情報、素顔の撮影写真が次々と映写されて行くのだ……!それも個人情報の他、現在チェックゲート内の個室で素顔の撮影を受けている一般利用客達の光景迄もがメインロビーの大型ディスプレイへ漏洩し始めている……。

 呆気に取られつつも、係官の脳裏では不測の事態を引き起こした張本人が誰か、既に確信していた。機械の不具合で、この様にメインロビー内の巨大ディスプレイへ個人情報の流出が起こると言う事はまず考え難い……。

(―エスだ! 奴とその一派は現在施設内のどこかへ潜伏しているのか、もしくは遠方からのハッキングに拠る妨害攻撃をして来ているのか……。実際は量り兼ねるが、奴等が厳重に管理されている筈のシステムデータベースへと介入し、個人情報を流布していると言う事だけは間違い無い……!)

 その瞬間、居合わせた者達の緊張を益々煽り立てるかの様な、冷厳とした調子のアナウンスが施設内へ鳴り響いた。

『―不穏なガスが検知されました。空気濃度を低下させ、後に施設内に於ける酸素の供給を停止致します。施設内をご利用のお客様は職員の指示の下、速やかな避難をお願い致します……。繰り返します。不穏なガスが検知されました……、空気濃度を低下させ……』

 巨大ディスプレイへ個人情報が流出されている現状だけでも当事者達は混乱しているのだが、更なる追い撃ちを掛けるかの様な不穏なアナウンスに誰もが当惑する様相を見せた。

……そして次の瞬間、居合わせた者達誰もが我が目を疑った。

 日中の燦々たる陽射しを四方から取り込む様に設計されている空港内部だが、透明な窓ガラスの内外両面へ、灰色の防火シャッターが一斉に降り始めたのだ。

 遥か見晴るかせていた管制塔や滑走路の景観が、突如硬質なシャッターで遮断される。

 瞬き程の速度で、施設内は一転して夜の帳が降りたかの様に一面の薄闇と化してしまったのだった……。

 重厚な防火用隔壁もほぼ同時に作動し始め、間近に居た空港利用客達は泡を食った面持ちで脱出を試みる。しかし、遂には厳重に閉鎖されてしまった鉄扉を前にして虚空を仰ぎ、腹立ちを紛らわし切れず拳を叩き付けるのみだった。



             *



……。非常用電源により施設内の各照明は程無く復旧したものの、通信装置の類は一切が使用不能だと判明。居合わせた被害者達の動揺は、最早歯止めの効く所ではなくなってしまった。係官は騒乱を鎮める為に施設内を奔走するが、大所帯を宥めるにも最早限界を来たしている。

「一体どう言う事なんだっ!」

「早くここから出してくれ、あんた等はこの空港の人間なんだろっ!!」

 空港利用客達が掴み掛からんばかりの気勢で口々に詰め寄って来る。係官も流石にその迫力には気圧されたが、内心では叉別の思索を廻らせてもいた。

(現状、これ等がエスの仕業と判断している者は極く少数の様子だ……。ここでその推測を伝えた所で皆は益々戸惑うばかりだろうが……。どうする……?)。

 そして先程のアナウンスを受け通風孔の状態を確認する為に立ち働いていた職員と物見高い客達が、驚嘆の声を次々と挙げた。彼等の声は、換気が停止された無風の施設内から更に酸素自体が除去され始めた事実を明らかにしていた。施設内全体が無酸素状態へ陥った後の惨状を想像し、被災者達の動揺は極点へと達する。

「嫌だ! 死にたくない!!」

「誰かここから出してくれっ!!」

 不安と悲鳴が木霊する叫喚の中で、係官は唯一平静を保った侭状況を推察していた。

(エスは今迄の犯行上では、信念の為か一般市民へ暴力的な危害を加えた事は無い。例えテロ行為としても、反体制を唱えその声明を市井へと伝える為に、象徴性を感じさせる様な犯行ばかりを仕掛けて来た筈だ……。本当に火災や毒ガスが散布されたのなら、既に被害を受け昏倒する者が確認されても可笑しくはない……。矢張りそのガスの検知情報自体が何かの細工で、サイバーアタックの一環に過ぎない筈だ。彼の狙いは、何か他に在る……)

 係官は群集の騒乱を制止する様に鶴の一声を挙げた。

「私は空港内職員です! 皆さん落ち着いて下さい!! 良いですか? ガスが感知されたと言う情報は機械の誤報かと思われます!我々が異状の原因を究明し、必ず短時間の内に空港内の全機能を復旧させますのでご安心を!! 空港内が自動的に封鎖され防災処理の為に酸素が段々と薄くなって行っている様ですが、この場合は取り乱す程悪戯に酸素を速く消費してしまいます!

酸素の消耗をなるべく最小限に抑え肉体上の機能を損なわない為にも、皆さん床に突っ伏して下さい!! 慌てず落ち着いて! ここからは我々職員や警備員の指示へ従う様にお願いします!!」

 超然とした彼の案内から、半ば狂乱し掛けていた利用客達は若干の安堵を覚えた様子だった。喧騒が鳴りを潜めると、程無くして施設内の全員が従順にその指示へ沿う様に動き始め、漸く一旦の規律を見せ始める……。騒動に多少の沈静化が図られた事で一部の職員達も漸く平静を取り戻し始めたが、今度は叉逆に、騒乱を一喝した係官の急変振りに圧倒されてもいる様だった。

 控え目で、どちらかと言えば主体性を持たず職務に従事する男、と言う印象を職員達は抱いていた。だが、窮地に陥った現場で突然人間が変わったかの様な変貌振りは一体どう言う事なのだろうか、と怪訝な様子を露わにしている……。

係官自身は職務としての崇高な使命や義務感へ衝き動かされる以上に、内心ではエスの犯行を全貌迄見届けたい好奇心にも駆られていたのだが。

寧ろ先頭を切って群衆を庇護しようとする姿勢は擬態の様にすら感じられ、エスの次手が如何なるものかを想像し、期待感すら押し隠していた……。

(エスの意図は何だ……? 我々を閉じ込めて、その後何を謀る? この侭居合わせた人間達を無差別に窒息死させるのか。それとも監禁した状態を利用し、我々を人質として政府への交渉材料に用いる気か。もしくは外界の警備や一般市民の存在が手薄になった事を利用し、パイロット達を脅迫する形でハイジャックし海外へでも逃亡するか……。エスよ、何を、何を狙ってる……!?)。

 係官は推理小説に於けるトリックの解明を読み急ぐ様に、固唾を呑んでエスの動向を待ち望んでいる……。

(空港管理下の制御システムにも無論厳重なセキュリティが敷かれている。防御プログラムも乗り越え環境装置を操作するとは、並みの手練れではない。アクセスの痕跡を消してはいるのだろうが、何かの形でエスの現状や足跡を辿る事は出来ないだろうか? そして、エス自身はここに潜伏しているのかどうか……)

 係官が思索を紡ぐ刹那、施設内の一角から吃驚の声が挙がった。彼は思考を中断され、反射的に声の方角へと頭を振る。緊張下に耐え切れずヒステリックを起こした者の叫声かと思いきや、その大声の主は予想だにしない呼び掛けをし始めた。

 その男性は遠方からでも人目を惹く程に派手な服装で、無数の安全ピンや刺々しい鋲が留められたライダースジャケット、タータンチェックのボンテージパンツで全身を包んでいる。その見るからにパンクスと言った風体の男は大勢の耳目が惹けた手応えを得ると、眼前に置かれた大型の貨物を頻りに指し示した。そして、窮地を脱する一助を発見したかの様な嬉々とした面持ちで彼は必死に訴え始めた。

「皆、見てくれ! この段ボール箱の中に大量の酸素スプレー缶が入れられているぞ! 空調が効かない様だが、暫くはこれを使えば凌げる!!」

 その指摘を端緒として、堰を切った様に利用客達の意気が沸き上がった。彼等は餌を求める蟻の行列の如く現場へと群がり、叉も施設内は騒乱に満ち始める。

「これは人数分有るのか!?」

「俺に、俺に寄越せ!!」

「子供を先にして! 私の子供を助けてよ!!」

 我先へと急ぐ様に、居合わせた利用客達は一斉に酸素スプレー缶へ手を伸ばす。

―そして、遂には骨肉相食む様な争奪が始まった……。

係官は暴動を制止するべき職務も失念し、遠巻きからその光景を茫然と眺め立ち尽くすばかりだった。緊急事態への対応策にしても、空港側が酸素缶を常備している等と言う話しは寡聞にして知らない。あれが防災用の代物では無かったとしても、運搬される筈の貨物が経緯も不明な侭、只一個のみロビー内で放置されているものだろうか?

保安態勢の一部として、空港内には数十台に及ぶ防犯カメラも設置されている。その各個防犯カメラには所有者不明の荷物が一定時間放置されていると認識した場合、セキュリティセンターへと自動的に通知すると言う探知・警報機能が導入されてもいる筈なのだ……。

 狂乱し、経緯不明な酸素スプレー缶を奪い合う者達の醜悪な光景……。その混沌の渦中で、こんな遣り取りの一部始終が耳目へと入って来る。

「おい、幾ら酸素が無くなるからって勝手にヘッドギアを外して良いのかよ!? これじゃ最近のエスの事件と同じで捕まっちまうぜ!?」

「お前こんな時に何言ってるんだ!? 死んじまったら元も子も無いだろうが! 例え後で捕まるとしても俺は死ぬ位ならヘッドギアを外すぜっ!! この状態がいつ迄続くか、スプレーが人数分に足りるかも判らないんだから、要らない奴はどいてろよっ!!」

 係官はその喧々諤々とした会話を見聞きした瞬間、はっと天啓の如き閃きを得た。

(これだ……! エスは矢張り一般市民迄に暴力的な危害を加える気は無いんだ。監禁した人間達を政府と渡り合う為の盾にする訳でも、逃亡を謀る訳でも無い……!

俺達自身を試し、そしてその結果を広く世間から政府へと伝える為に……!!)

 事態を静観する係官の視線を余所に、醜悪に満ちた酸素缶の争奪戦は益々の激化を見せていた。その阿鼻叫喚を挙げた地獄絵図を前に、係官は更なる冷静な分析を巡らせる。

(―そう、自分達は試されている。生命が極限の状態に置かれた中で、その本人がどんな行動を選択するか……。助かりたい者は後先を捨て、まず酸素スプレー缶を手に入れる為に自身のヘッドギアを脱ぎ去るだろう……。その時、ヘッドギアを外す事に躊躇する者も、問い掛けめいた何かを受け取る筈だ。

―これは『自我』を捨てる事なのか、寧ろ『自我』を得る為の行為だろうか? 社会的生命を喪ったとしてもまずこの危機を乗り越え生き延びようとする希求は、尤も人間らしい生物的本能に満ちた足掻きとも言える。この場合、生物としてどちらを選択する事が正しいのか? 自分はどちらを選ぶのか? 問われている……)

 係官が騒擾を傍観している折、不意に一抹の違和感を覚えたのは、酸素スプレー缶の存在を周囲へ伝えたパンクスの動向だった。大量の酸素スプレー缶は十中八九エス一派の用意だろう。更に、先程切迫した調子で大勢を扇動した張本人の姿は影を潜め見当たらない……。

(あのパンクスはどこへ消えたのだろうか? もしや奴は……)

ともあれ係官に取って、最早事態の収拾や犯人の特定等は想念の外にあった。仮面の内奥では秘匿していた期待に見事応えてくれたエスへと、賞賛の破顔を湛えてすらいたのだ……。

彼は、自衛と言う大義名分を以って仮面を剥がす機会を与えてくれたエスへ感謝や畏敬の念すら感じ、綻んだ口許を直せない侭でいる。

そしてそんな笑い声を悟られない様に必死で押し殺しながら、他の者達へ倣う様に見せ掛けヘッドギアを外すその手を頭部へと掛けた。




           *




・第七章・『眩惑の照明の下で真実の告白を』


【―真実のチェックゲート―ウィングフィールズ空港全面封鎖事件】―デカート通信―

 近日、繁華街ヒルサイドで発生した俗に言う『デジタルマスカレード通り魔事件』から彗星の如く出現した重犯罪者・エス。彼の存在が絶大な影響力を放ち、連日に及ぶ犯行が世情を騒擾とさせている事は最早論を待たない。そして昨日、叉も彼の累犯と推測される大規模な事件が発生した。

 事件発生地は、国際的拠点として日夜多数の航空便が行き交うウィングフィールズ空港。この国際空港内部で、厳重に保護されるべき搭乗客達の個人情報が詳らかに露出され、遂には空港内全体が突如として閉鎖されたと言う。

 居合わせた空港利用客達や各関係者達からの証言を収集すると、事の顛末は以下の様だ。まず、本来政府管理下の基で厳重に秘匿されて然るべき個人情報の逐一が、どうした事か空港中心部のロビーに設置されている巨大ディスプレイから次々と映写され始めた。個人情報は、電子鑑札上記録されている本人の国籍番号、住所、連絡先、出身地、生年月日、血液型、家族形態、職業等多岐に渡るが、何より個々の素顔迄が大胆に露出されてしまった為に一様の騒動へ発展したと言う事だ。

 メインロビーの巨大ディスプレイに検閲用の個人情報が流出する事等は接続システム上有り得ない為、空港職員の一部は直感的にエス一派の犯行に由るものと察知していた。しかしその周知を促そうかと職員が逡巡する内、空港内部の環境装置迄もが誤作動を引き起こし、場内の酸素を除去し始めた事で混乱は極点に達したと言う。

そして群集が無酸素状態からの窒息死を恐怖する中、一人の男性客が貨物から大量の酸素スプレー缶を発見。その男性からの呼び掛けを引鉄に誰もが我を忘れ、酸素スプレー缶を強奪し合う惨状が呈された。

 環境装置が正常に復旧した後、空港内全体の封鎖も自動的に解除され事態は数時間後に収拾を見せた。しかし間も無くして被害者達からウィングフィールズ空港本部への抗議が殺到し、関係者達は対応に東奔西走しているとの事だ。そして専門技術者達の検査後、映像流出や環境装置の誤作動は機械類の不具合、操作ミスでは無いと

判断された。痕跡は見事に消されているが、一連の事件は矢張り外部犯に由るサイバーテロの線が濃厚の様である。個人情報の漏洩に関する不始末、一時的な機能麻痺に由るダイヤの混乱等から、空港側が被害者各位へ賠償する総計は巨額に昇ると言う。

 空港内各所に設置されている監視カメラの映像から事件の一部始終を視聴した犯罪心理研究家シャイア・ハワードは、今回に於ける事件の本質をこの様に考察して述べた。


『―犯人達は空港を巨大な実験場へと変化せしめた。エスと思わしき一派に由る一連の犯行は、そのどれもが象徴的で示唆に富んでいる。エス一個人に於ける初犯は通り魔として発作的、衝動的な傾向を帯びているが、その動機は社会全体へ問題提起する反体制思想が根底に脈付いているのだ。

次にヘッドギアの充電端末ネットワークをシステムダウンさせる、ヘッドギア生産工場を爆破する、と累犯されて行くが、これ等の犯行は効率的にヘッドギアの機能性、生産性を阻害しつつ、何よりも民衆を丸裸にしようと仕向ける意図こそが伺える。

彼等は警察の捜査活動を撹乱するのみの目的では無く、ヘッドギアを一種の支配的象徴と捉え反目しているのだ。彼等がヘッドギアと言う社会性の中枢を唾棄し執拗に破壊工作を仕掛け続ける行動原理は、政府や市井へ警世を齎そうとする価値観に基づいていると定義付けて良いだろう。彼等の主張とは言わずもがな、市民が匿名性に覆われた社会構造から脱却し、本人が自己責任を背負い生きるべきと言う個人主義思想―。彼等は政府直轄に由る個人性の保護や防犯を、過剰な拘束と解釈し叛意を唱える。故にエス一派の犯行は基本的にヘッドギアと言う機構の一点に収束され、何者かへの直接的危害は加えていない。そして、これ等の考察を顕著に表象しているのが今回の空港襲撃事件では無いだろうか。

空港と言う現場自体は、無論ヘッドギアの機能性や生産性に関わる機構では無い。しかし、入国審査や税関等の検閲システム……。これ等のチェックゲートは<自己証明>を披瀝する、或る種では最も個人性に依拠する現場なのだ。

―ヘッドギアを着脱し個人認証を受ける際に、重視されるのは個人の素顔だろうか、ヘッドギア内部のデジタル情報だろうか……?

エス一派は、チェックゲート時に個人の素顔を晒す通過工程へ着目し、機構上の弱点として犯行に利用した。叉、上記の様なアイデンティティクライシスと言うべき命題にも内省的思索を廻らせ、犯行へ象徴的な意味合いを内包させたに違いない。更に個人情報を不特定多数へ流布する事で、情報保護は政府ですら万全を確約出来るものでは無いと言う事も犯人達は立証せしめた。

そして極め付けは施設内全体を封鎖し無酸素状態へ仕立て上げる事で、利用客達の反応を観察し、誘導した事にある……。出所不明の酸素スプレー缶は大量に用意されていたと言う。尚且つ環境装置の誤作動も一定時間後にはあっさりと解除された為、矢張り犯人達には他者へ肉体的な危害を与える意図は無かったと判断出来るのだが……。

死が迫り来る緊急事態を前に、人々はどの様な反応を示すのか。ヘッドギアを打ち棄てれば生き延びられる可能性もある特異な状況で、各人はどの様な選択を取るか……? 事件現場では当然居合わせた利用客達が血相を変え酸素スプレー缶の争奪を繰り広げた訳だが、

注目すべきは、躊躇無くヘッドギアを脱却した者と逡巡し続けた者達とで二分されたと言う事実だろう。

エス自身も各様の観察と誘導を果たしたかったのだろうが、その空港内を巨大な<実験場>に変えた目論見はまんまと成功したと言わざるを得ない。極限下でも受動的な反応しか出来ず、後手に廻り続けた者達は少数では無かった。

―そう、ここで各人の反応と行動とが試され、導かれていたのだ……。

緊急事態ならば法律的にも自衛として認められて然るべき行為すら、既成観念に縛られ身動きが取れない……。利用客達が無事だった事実に政府は胸を撫で下ろすだろうが、その反面、禁忌を破った者達への法的処置を公的に議論する必要性に迫られている。現状、彼等は二律背反とも言えるこの問題に苦慮している事だろう。そして、ヘッドギアを脱却する事に最後まで躊躇していた者達は精神の奥深くへ問い掛けられ、自問自答の只中を彷徨っているのではないだろうか? 万能と盲信し切っていたヘッドギア及び政府の社会的庇護も、緊急下では寧ろ障害に過ぎなかったと言う厳然たる事実に衝撃を受けて……。

―果たして、ヘッドギアの存在とは自身の根本へ迄支配的に根付いた肉付きの仮面なのか? エスの表立った一連の犯行はこの様に一面的で単純な仕業では無く、どこか象徴的で教唆的な意味合いが内包されているのだ。

エスは我々一般市民の既成観念や帰属意識に異議を唱え続ける。例え近日中に主犯である彼の逮捕が成功したとしても、その影響力の余波は若年層を中心に波及し続ける事は想像に難くない。何の疑念も無く政府の恩恵を享受していた我々も、各人が社会の成立を見直し自身の回答を提示する、そんな必要性を要求されているのだ……』




―…………―。


 麗らかな陽射しが降り注ぐ日和……。人工的に整備された植樹の中で息を潜めつつ、僕はこの社説の切り抜きを読み終えると丁寧に折り畳み胸ポケットへと仕舞った。

現在、僕とシドは二人、テレビ局『ボーステラング』の裏口付近で人目を忍ぶ様にひっそりと潜伏している。高層中心部の展望室が印象的な球体のオブジェとしても設えられている硬質な建造の下。一帯は広大な海浜の間近で開発された地域だけに開放感で満ちており、時折吹き付ける清爽な潮風が心地良く鼻腔を擽る……。

この放送局は一般視聴者とのコミュニケーションを活発にする為に施設内の見学が可能となっていて、各放送番組のグッズショップ、カフェテリア、スタンプラリー、視聴者観覧等のイベントが随時展開されていた。ここでは日夜膨大な観光客達が大挙する様に押し寄せ、無論警備体制も敷かれている。そんな衆目に付き易い名所へと、何故僕達は態々赴いたのか……?

……僕達の目的は、アポイントメント無しに番組へ生出演する事……。そう、謂わばスタジオジャックを敢行する為に危険を承知でここ迄赴いたのだ……。以前クラブの地下で潜伏していた際に、政府管理下の裏サイトへと侵入し入手した機密情報。その枢密を、テレビ放送を利用し大々的に世間へと発信する為に……。

 僕自身の犯行の数々に象徴的且つ風刺的な意味合いが内包されている事を、鋭敏な感性を持つ一部の者達は感じ取り言及して始めている。僕の存在、行為、そしてヘッドギアの存在意義その物に迄、是非曲直の論争が活発化した現状……。状勢が変移し時代が緊迫の極点に達し始めた今こそ、愈々市井へと問題提起の最たる材料を提示する瞬間なのだ……!

 通り魔事件以降、既に僕の外貌はネット上で知れ渡っている事だろう。しかし正規のメディアを通じて主体的に自身を露出し様とする試みは、矢張り未体験故えの緊張感が走る。何由り生放送の番組をスタジオジャックすると言う事は、市井から警察全体へ自身の居場所を高らかに宣伝する事と同義なのだから……。


 茂みの中で息衝きながらカード式ホログラフィ映像装置を取り出し電源を入れると、ボーステラングの建築構造全体図が立体化された。テレビ局等の公的放送機関はテロリストの占拠を想定し、敢えて迷路の様な複雑な内部構造で建造されている物だ。しかしシドがハッキングし入手したテレビ局内構造全体図を基にすれば、施設内への侵入経路を事前に計画立てられる……。

武器数点を全身に携帯し準備の整った事が確認された所で、僕とシドは自然と視線を交錯させ合図を取った。無言の内にどちらから共無く頷き合いながら、決然とした調子でシドは意気を挙げる。

「さあ、いよいよ革命の瞬間だぜ―!」




              *




 鈍重な車輪の音、地面を走る際の不規則な振動……。僕は現在、大型な掃除用具箱の底で息を潜め、揺られる様に運搬されている……。運び手は制服を調達し掃除人に擬態したシドだ。

矢張り侵入の際、第一の難関は検問所の通行規制だろう。門前の個人認証端末装置の他に不測の事態を想定して立ちはだかる警備員や、隣接される事務所に常駐している職員達……。

これ等の個人認証や監視を如何にして潜り抜けるか……? 僕達には有無を言わさぬ強行突破を謀る覚悟もあるが、無益な流血を極力回避したいと言う良心も人並みには持ち合わせている。

何由り、各種武器は調達して来たものの局内の人間達を威嚇し目的地で在るスタジオ迄を目指すには、内在する関係者達の人口、建築規模等が余りに巨大過ぎた。なるべくならば、スタジオジャックを決行する迄は人目を凌ぐ様に侵入するべきなのだ。

 潜入に際して、シドは事前に掃除人としての偽造IDを取得している。ヘッドギア自体を有しない僕は現状の様に、貨物の中にでも潜伏する他は手段が無かった。

何とか個人認証や監視の眼を欺く事が可能だとは思うのだが……。

 僕は数々の掃除用具の山下に埋もれ、閉所の暗闇と加重とに押し潰されそうな息苦しさを堪えていた。際限無く脈打つ鼓動が検問に立つ警備員達へ迄漏れ聴こえはしないか、と愚にも付かぬ想念に囚われつつ、計画が端緒から頓挫する事が無い様にと僕は懸命に祈り続ける。

 愈々通用門の入り口に近付くと、立ちはだかる警備員の応対と個人認証端末の作動音が微かに耳朶へ忍び込んで来た……。

「クリーニング会社の方ですね……。ご苦労様です、どうぞお通りを」

 当初の危惧は杞憂に過ぎなかったか偽造IDは警備員や自動認証を見事に騙し果せ、無事に通過する事が出来た……! 台車の中、貨物へ紛れ込んだ僕にもテレビ局内部への潜入に成功した事が肌で実感され、一旦胸を撫で下ろす心持ちになる。頭上からも、一先ずの安心感と達成感の為か一息を吐くシドの仕草が感じ取れた。

その後の足取りは、無難に局内の通路を進行している様子だった。業界関係者達が行き交う人波は流れているものの、一介の掃除人に注視する者も居ないのだろう。

 この侭首尾良く目的地のスタジオ内部へと辿り着いてくれ……。早鐘の様に鳴る鼓動を抑えながら、僕は渇きを癒す様にゆっくりと唾を飲み込み唇を舐めた。局内を行く潜入は丸で終焉の無い行進の様で、永遠かの様な曖昧な時間感覚に捕らわれる。ささやかに輻輳し耳朶を打つものは業界関係者達の忙しない足音、番組制作や放映時に関する仕事上での会話。切迫した状況下で落ち着く筈も無いのだが、何故か不可思議にも穏やかな昼間の電車内でまどろむ様な、そんな緩やかな午後のひと時に似ている気がした……。

 どれだけの距離を進行したのだろうか、不意に台車の進行が停止する。……そして、業務用エレベーターの前に着いた、と思わしき一時の静寂が感じ取れた。

……もう直ぐ。もう直ぐで無事に辿り着ける筈だ……。昇降するエレベータが微細な駆動音を立て当階へ到着した際には、現場と不似合いに軽快なチャイム音を立て停止した。重厚な鉄扉が自動的に開かれ行く音が漏れ聴こえ、僕が潜伏した台車を何事も無いかの様に振る舞い運搬するシドの気配を感じる。

台車内からも密室の様な閉塞感のある空気に一変した事が肌で感じ取られ、漸くエレベーターへ乗り込めた事を実感出来た。ここ迄来れば、最早目的地で在る生放送スタジオへと邁進するのみだ……!

 束の間、第三者の存在しない密室空間に入り込めた事で、僕達はどちらから共無く安堵の一息を搗こうとした……。

……だが、その刹那だった。

『ビーッ!!』

 安堵し掛けた瞬間、僕は我が耳を疑った。しかしこの生理的に切迫を煽られる様な機械音は、紛れもなく周囲への警告を示している。丁度エレベーター内へと乗り上げた僕達を見咎めるかの様に、頭上から物々しい警報が鳴り響いたのだ! 爛れた色の警告ランプが回転し始めたのだろう、真っ赤に室内を照射する光が台車内迄へも射し込まれて来る。途端に僕の脳内は真っ白な思考停止状態に陥り、手足が萎縮する様な驚愕に貫かれた。

 何等かの防犯システムに引っ掛かってしまったのか!? 冷厳な警告音は際限無くその音量を高め続け已む事が無い。不意に、警告ランプに染め上げられる自身の地肌が恰も鮮血に塗れている様な錯覚を覚えた……。

 積載荷重の警告ブザーか? 偽装目的として籠へ放り込んだ掃除用具の他、搭乗者は僕とシドのたった二人分にも関わらず……!?

シドも明らかに凍り付き考えあぐねている様子だ。これは単なる機械の誤作動なのか? それとも、僕達の様な不法侵入者を感知した為の警告音なのか? もしも前者の様に機械の誤報であれば、この現場から離脱する事で却って周囲から懐疑的な視線を向けられるかもしれない。寧ろ一般の掃除夫ならば自分自身に何の後ろ暗さも持ち合わせる事は無い。誤作動と思われる警報を一刻も早く停止させようと、率先して関係者を呼び寄せる様にすら働き掛けるのが自然な反応ではないか。

 偽造IDと制服で正面門の警備員や自動認証装置は通過出来たのだ。単なる機械上の不具合ならば、敢えてここに留まる事で駆け付けた警備員達の確認を受け、あくまで善良で誠実な一般掃除夫と言う擬態で押し通す事も可能な筈だ。但し後者の様に何等かの理由で防犯システムから察知されている場合、エレベーターの様な密室で退路を塞がれる事は致命的な失策にも成り得る……!

 事前に確認したホログラフィ地図に由れば、局内の構造からして目的地は未だ遠距離に位置しているらしい。この現場からエレベーターで上昇せず階段を使用するならば、それだけで手間が掛かり時間を消耗してしまう。加えて現状では道行く先々で脱兎の如く逃走に必死な姿、掃除夫に取って無関係なフロアで場違いな格好を晒す等、不審さを助長させる結果にも繋がりかねない。新たな人的視線、不確定要素は増すばかりだ。無論、エレベーターと言う密室で取り囲まれれば元も子も無いのは確かだが……。

 僕達は進退窮まっていた。躊躇せずこの現場を離脱するべきか否か……? 往くか、退くか、決断は瞬時に下さなければならない。僕は潜伏している事を気取られない様に、慎重にそっと籠の隙間から外界を伺い見る。幸いにも行き交う業界関係者達は、訝しげにこちらを一瞥しながらも無言で通り過ぎて行く様子だ。彼等からすれば、矢張り機械の誤作動や何等かの手違いで一介の掃除夫が困惑し、立ち往生させられている様に見受けられるのだろう。誰にでも起こり得る些細な不運、雑談の端に上ったとしても翌日には忘れ去られる様な他愛も無い出来事、と……。天井から大音量で警報が鳴らされたとしても、日常的光景の範疇に収まる。彼等はシドを見て、些細な恥を掻く現場に偶然突き当たってしまった凡庸な掃除夫と思い込んでいるだろう。

 しかし思案する内に、鳶色の制服に身を包んだ如何にも頑強そうな体格をした一団が通路を小走りで駆け寄って来た。

彼等が警備員である事は一目瞭然だ。僕はその様子を受け咄嗟に

籠の奥深くへと頭を引っ込め潜り直す。途端、心拍数が上昇したかの様に僕達の内心へ緊張の一糸が走る。潜伏する台車の中で僕は全身に脂汗を掻きながら意識を必死に研ぎ澄まし、周囲の動向を敏感に感じ取る事へ集中し始めていた。 

 相手に気取られてはならないと肝を据えたのか、乗場側で佇みながらシドは平静を装い機先を制した。声音は、寧ろ平生以上に快活な調子ですらある。

「クリーニング会社の者なんだが……、積載過重の判断で警報が鳴っているのかい?」

 しかしシドの明朗さとは裏腹に、警備員の声調は冷静沈着そのものだった。

「いえ、設備異常が発生した場合に私達が出動する事になっているのですが……。これはおそらく、荷重検知システムの作動に拠るものではありませんね。考えられる要因としては、当社独自の赤外線透過装置、温度監視システムに拠る物です。エレベーター内の監視カメラネットワークで実映像の他、不審な動向を検知する画像解析技術とサーモグラフィ装置を複合させ稼動していまして……。解析・検知技術を用い監視映像の動的な変化を検出しています。 不審な動きがエレベーター内で発生した場合、動的状態の判定値が高くなり警告アナウンスを発する仕組みなのです」

 シドは芝居掛ける事も無く、反射的に怪訝な声を挙げた。

「そんな馬鹿な、俺がエレベーターへ乗り込んで直ぐに警報が鳴り出したんだぜ? 機械に特定される様な異質な身動きなんてする暇も無い」

 その通りだった。只単に台車を乗り込ませたシド、籠の中で些細な身動ぎも抑える様に息を潜めていた僕に、解析へ引っ掛かる様な所作が見受けられた筈は無いのだが……。

気色ばむシドを前に、警備員達は平静を崩さない。

「であれば、同社のサーモグラフィ画像解析に拠って不穏な熱源や何等かの形状を感知したと言う可能性が高いですね……。

こちらは当社エレベーター内に於ける人物の有無を判定する技術でして……。基準となる無人状態の内部映像に何等かの形状が出現した場合、データベースが前後の輝度値分布を一旦比較します。そこで抽出された変化領域の面積が一定値以上であり、形状が人型に近ければ監視システムが自動的に人物が存在している、と見做す仕組みになっているのです。

このサーモグラフィには人間に近い体温、人型と思わしき熱源の形態を成す物は鞄や箱等も通過し、自動的に検知する技術を導入しています。以前、番組放映に使用された動物が紛れ込み騒ぎを起こした事もあったので、勿論万能な技術と言う訳では無いのですが……。

そして、当局は内部で従事する人口や建築規模が巨大なものです。その為、これ等の機構の他に入退室時に於ける記録管理システムも連携させていまして、出入り口で記録された入局者数は常時正確に監視データベースで数値化し記録しているのです。                                                    

 何かの手違いか誤作動だとは思うのですが、現在入退室管理データベースの情報では定員以上の人間がテレビ局内部に存在している可能性が提示され、サーモグラフィからは貴方以外の何等かの熱源が透過されています……」

 関係者以外の侵入や所有物を規制する為のシステム……! 局内の構造は事前に解析していたが、防犯システムはエレベーター内に迄徹底されている程厳戒だったのか……!!

手持ちの通信端末が指し示す時刻は12時10分。当然生放送は既に開始されている。本来ならば1時と言う番組終了時刻の10数分前には到着する手筈だった。ここで仮に警備員達と格闘を起こせば更に大幅な遅れを取る事にも成り得る。その上、防犯技術の高度なエレベーターならば震動が強度へ至った場合、現場がオートロックされるか昇降中に最も近い階で緊急停止してしまうだろう。

 彼等を扉から排斥するか拘束するかにしても、何等かの形で計画が頓挫させられる可能性が高い……。ここ迄来れば、最早手練手管を弄するよりも単純で愚直な前進……、強行突破しか方法が無い。警備員達から疑念を向けられ硬直してしまう程の焦燥を覚えたが、今ではそれ等の恐怖を通り越し、超然とした決意すら湧き上がって来た。


 コツ……。

 シドが合図する様に、台車の下部をそっと弾く様に蹴り付けた事を背後で感じ取った。ここからは対話を介さない以心伝心の行動だ。

 1……。

「おいおい心配性だな。別に掃除用具以外に物騒な物なんて何も入っていない筈なんだが……」

 2……。

「不審人物が爆発物を設置しないとも限りませんからね。クリーニング会社の方に身に覚えが無くても、例えば知らぬ内に何者かから危険物を忍び込まされていた、と言う可能性も有り得ない事では無いので……」

 3……!

「念の為なんですがボディチェックの他、台車の中を検めさせて欲しいのですが、宜しいですか……?」

 僕は跳び上がる様に台車の覆いを撥ね上げ上半身を露出させた。その刹那、現場の中心に立つ警備員の虚を突き彼の鼻面をヘッドギア越しに拳で掠め上げる。

不意の襲撃を受けた事で、見るからに精悍な警備員も背後へ仰け反る様に倒れ掛け、反射的に後方の一団は彼の背中を受け止めようと両手を差し出す。警備員達も警戒意識を鋭敏にさせてはいたのだろうが、僕の唐突な出現と一撃に面食らい一瞬の硬直を見せた様子だった。

 その間隙を狙い、僕は懐に忍ばせていた筒状の武骨な金属物へ抜かりなく手を掛ける。掃除用具が山積する台車の中で足元は不安定な侭だった。しかし全身のバランスを崩しながらも僕は一切意に介さず、その筒状をした固形物の安全ピンを取り出し様に引き抜く。極度の興奮状態故か、時間の経過がコマ送りの様に緩慢に過ぎ、途切れ途切れに瞬いているかの様な錯覚を覚える光景の中……。掌に収まりつつもずっしりと重量を持ち無味乾燥な配色がされたそれを、僕は内心の叫びを吐き出す様な衝動と重ね合わせ横手で放擲した。

 そして次の瞬間、エレベーターホール周辺一帯が轟音と閃光で眩く包まれた。後方へ凭れ掛けた中心格の警備員を始めとして、当意即妙に閃光を防御したシド以外の全員が想像外の衝撃を受けがっくりと地面へ膝を突く。僕自身も閃光と音響の余波を回避する様に身を屈め防御していたが、徐々に周囲の余韻も鎮まり細めていた視界が開かれ出した。

鼓膜で反響していた轟音や眩めく視界が通常時へ馴染む様に回復し始めると、周囲一帯では既に気絶し倒れ臥した者達が散見される。叉、声無き悲鳴を挙げながら、眩んだ眼窩を押さえ付けたいばかりに両目の部位をヘッドギア上から宛がって煩悶している者達も……。

……雷光と轟音の正体は、シドお得意の閃光弾だ。頽れる警備員達を余所目に、台車を置き捨てて僕達は俄かに走り出した。ボーステラング内中央アトリウム一帯が眩さに包まれた事で、警備員以外に居合わせた者達も漸く異状を察知し色めき立つ。呆然と立ち尽くす通行人を縫う様に、時に突き飛ばす様にして僕達は猛然と疾駆した。

 全速で流れ行く視界の片隅にはテレビ内で見掛ける有名人も入り混じっている様子だったが、緊急事態であると言う理由以前に、僕には何の感慨も湧かなかった。前方の別路に設置された『民間人立入り禁止区域』と表示されるロープ標識をハードル跳び競技の如く盛大に乗り越え、僕達は目的地である生放送スタジオへと直走る。

 そうだ、枢密を世界へと発信する機運は正しく今、今この瞬間を於いて他に無い……!




              *




 そして僕達は鋼鉄の扉を蹴破る様に突貫した。場内の人間達は、テレビスタッフ、出演者、観覧客共に未だ僕達の存在を感知していない。舞台横手の暗幕や極彩色をした書き割りの下、僕達は一旦周囲全体を見渡した。天井で複雑な格子状に入り組んだ機器類から点在するスポットライト。その眩い照明の下、四辺から多角的に舞台上を映写する複数のカメラマン達。和気藹々と笑劇を繰り広げる国民的人気タレント達と、そしてその滑稽なやり取りに一人余さず魅了されている観覧客達……。先程逃走する中で一部の芸能人達を見掛けた際には別段興味も湧かなかったものだが、広大なスタジオ内は生放送特有の緊張感と熱気を孕み、闖入者である僕達をたじろがせる程の風格に満ちていた。

 長年に渡り昼間のチャンネルを席捲して来た国民的生放送番組、『ラフィン?』……。当時から通俗に馴染めず浮世離れしていた僕でさえ、日常生活の中でこの娯楽番組を横目に入れた事ぐらいは有る。この番組の知名度と信望は絶大なもので、レギュラー出演を獲得した芸能人達は不動の地位が約束されていると評しても過言では無い。つい先日迄一介の学生に過ぎなかった自分が、華美に彩られた看板番組の前へ躍り出る事には為るとは、想像だにしていなかった……。極く短期間の内に激変して行った出来事の記憶達が、綯交ぜに脳裏と内奥を去来する。僕が今から発表する事実と声明は、巨万の視聴者へどの様に受け取られるのだろうか……?

 僕が自己を獲得しようと決起した後の犯行の数々は、賛否両論を伴いながら様々な影響を及ぼした。無色から有色の存在へ成り変わる為の自己表現と、社会への問題提起……。テレビ放送を利用する今、これ等一連の告白は愈々以って最終段階に迫っている。

そこで僕が不安に囚われるとすれば、警察の追跡等では無い。仮に検挙されたとしても、その後の刑罰等は既に覚悟の上の事だ。

 真の恐怖とは、抱いた大志を半ばで挫かれる事……。問題は、民意へと問い掛ける前に妨害されてしまう事そのものなのだ。描いた目的を達せられたら僕は逮捕も獄死も厭いはしない。

自身の実存を賭けた生死の戦いは、声明は、果たして人々の心に迄届くだろうか……? 一息を搗くと、僕とシドはどちらから共無く視線を交わし志気を高揚させた。そして旺然と踏み出すと、進行を憮然と見遣っていた裏方や業界関係者達を押し退ける様に行進し始めた。背後から強引に突付かれた者達は反射的に振り返るが、僕の容貌を視界へ入れた途端、誰もが一様に声無き悲鳴を挙げ硬直するばかりだ。シドは機先を制する様に周辺の警備員へ銃口を向け、最も警戒すべき敵の動向を封じた。僕達は番組内のセットを裏手からも廻らず、無遠慮に壇上へ侵入して行こうとする。

 和気藹々とした雰囲気に満ちた番組の進行中、突如眼前を横切った人影に会話を遮られ、舞台上の出演者達は呆気に取られた。何者かの闖入は番組内で意図されたハプニングでは無い。不慮の事態に、出演者のみならず会場全体が声を喪った。

そして次の瞬間、頭部にヘッドギアを装着せず素顔を露出した侭の僕を見て取り、堰を切った様に場内は狂騒に包まれる。

 ―ヘッドギアを着脱している者、即ち世情を騒擾とさせている張本人、エス……! 耳を劈く様な叫声が反響し始める中、間近に迫られた出演者達は身の危険を悟ったのか全員が申し合わせた様に反射的な後退りを見せた。複数のカメラマン達は思わずファインダーから視線を外し、壇上の光景を呆然と立ち尽くしながら見遣っている。

恐怖感に駆られ座席から身を翻した観覧客達も散見されるが、場内から脱しようと一斉に通用口へ大挙して行く為に、却って門前は一際の混雑を呈していた。出演者達は動揺の気色を隠せず押し黙った侭だ。僕は舞台中央へ毅然と立ち、周囲の混乱を鎮静させる為に最大限の大声で一喝した。

「諸君! 御静聴願おうっ!!」 

 すると、丸で時間が静止した錯覚を覚えるかの様に先程迄の狂騒が止み、場内は静寂に包まれた……。そして僕は、誰とも無い中継カメラへと事前の牽制を掛ける。この突然の闖入者を前にして、中継スタジオ側も困惑の渦中にいる事だろう。

 現在のテレビ局とは不測の事態が起こった際、即座に編集対応可能な様にと数秒から数分間遅れで生放送を放映するディレイシステムを導入しているのが一般的だ。しかし今現在、場内でシドの銃口は四方へ慎重に向けられ威嚇が怠われる事は無い。一触即発の事態だと言う事は現場に立ち会っていない者達でも明白。僕達の声明を事前に放送中断する事は人身にも関わる、と危険性は十分に印象付けられた筈だ……。

「局内のスタッフ達に告ぐ。現在、ご覧の様に業界関係者、一般観客共に人質として我々が確保した。これから我々の政見放送へと番組内容を変更させて頂くが、程度の多少に関わらず妨害行為を働いた場合には断固として処置を行う。もし何等かの方法で我々の進行を阻害した場合、この現場に居合わせる人質達の安全は保障しない……。くれぐれも、ディレイシステムを作動させ放送中断や編集作業を行わない様に……!」

 粛然とした場内で中継カメラ及び場内全員の関心が一身に集中され始めた事を肌で実感し、頃合いと見計らった僕は訥々と告白の口火を切り始めた。

「ご存知の通り、僕は現在世間を騒然とさせている逃亡犯、エスだ……!

この素顔を見れば解る通り、現在の状況は番組内で仕込まれた演出等では無い。この局内、番組は僕達がジャックした。

……脅迫する様で恐縮だが、この隣に立つ仲間は銃器も所持している。もしこれからの演説を妨害する者が現れれば、容赦無くその銃口が向けられるので事前にご了承を。勿論、進行を阻害さえしなければこちらから積極的に危害を加える事はしないと約束しよう……。

だから皆、心して聴いて欲しい。今回、何故僕は敢えて素顔や所在を晒し、捕獲される危険迄も犯して生放送を妨害するのかっ!?

僕は逃亡生活の中で、政府が隠蔽している或る陰謀の一端を垣間見たからなんだよ……。

しかし、もし政府が極秘管理している機密情報をネット上から個人的に発信しても、個人の妄言や捏造として一般読者や政府からも処理されてしまうのがオチだろう……。現在の言論統制が敷かれている政治状況下では、暴露文書を公開した所で政府監視サーバー側から即座に削除されてしまう事態も充分想定出来る……。だからこそ僕は、自身の素顔を敢えて再度世間へ晒し真実を告白しようと、生放送のテレビ番組と言う媒体を利用するに思い至った。

さて、今、君達一人一人が頭部に被っている国家からの庇護……。この政府管掌のヘッドギアは、現在では欠くべからざる必需品として万民が恩恵に与っている……。更にGPS測位とヘッドギア装着者の主観映像は連携され、多角的な社会監察は既に前提的な現実と化している訳だ……。

報道されている様に、僕はそんな何もかもをヘッドギアへ依存し個人性が剥奪された社会へ著しい疑問や不満を覚えていた。そして、その鬱積していた憤懣は或る日爆発し、独りで叛意を起こすに至ったのだ……。僕は単純に、たった一人ではどこ迄出来るかは解らないが最後まで世間へのアジテーションを行おうと、信念を持ち立ち回っていた。

 しかし、市民や警察の眼から逃れようと某所へ潜伏している時期の事だ……。只ヘッドギアと言う支配的象徴や社会構造へ反抗するだけでは終わらない、世間一般へ隠蔽されていた真実へ突き当たってしまったのさ。

逃亡生活を送り社会機構を調べ上げる内に直面した、何より僕が告発すべきだと戦慄した事実はここからなんだ……! いいか? 心して聴いてくれ…!


―政府は、市民へ電子監察以上の洗脳統治を謀ろうとしている……!!


 僕がインダーウェルトセインで衝動的に通り魔へと走った事件があるが……。その犯行当時の僕の主観映像はネット上で可及的に氾濫した。そこで事件の過熱から興味を持ち犯行映像を反復する様に

視聴していた者達の中から、一種の催眠状態に陥り、自分自身が行為を犯したと錯覚した者達が続出したらしい……。追体験の果てに遂には僕と言う重罪者と同一化し始め、自分自身がエスと云う存在だと妄信し始めたんだ……。

 僕の犯行を端緒とした今回の事例は偶発的な結果だが、政府はこの様な催眠現象の軍事利用を潜行させている。

 奴等は平穏に生活を営んでいる市民一人一人のヘッドギア電脳へと意図的に介入し、映像等を利用して情報操作からマインドコントロール迄を実現しようとしているのだ……!

 政府は対人恐怖症、引篭もりを救済する名目の下、ヘッドギアを普及させ万民を24時間体制の監視、管理下へ置く事に成功した。このヘッドギア電脳の機能を電子監察以外に悪用し、例えばヘッドギア内部の電極から装着者の脳波を測定させ、常時心身の変化を数値化し記録する事で個人の動向や心理状態を更に把握する。そこでサブリミナルメッセージ的に政府の意向に則った情報を本人の生活の中へ定期的に挿入し、暗示効果を働き掛ける。叉、虚偽の映像音声を重ねるか、もしくは逆に不都合な情報や事象のみ主観視点から削除し、不可視、不可聴状態を造り上げる……。

 日夜、実生活の中で無意識の内に潜在意識や深層心理に干渉され、誘導されているとしたら……。時に個人の主観すら歪曲されているとすれば、僕達は架空の非現実世界へ住まわされているのと同じ事になる……。

 この様に政府は一連の機能と高度技術を融合させる事で民意を把握するのみならず、人々の思考や情動迄も共有化し均質化させ、遂には支配しようとしているんだ……!!

 想い出して欲しい。君達の昨日迄の過去の体験や記憶……。それは本当に実感を伴う実体験か? 昨日と云う平凡な一日も人生の大いなる節目も、自恣に由るものか、真に実在した時間と断言出来るか如何か? ヘッドギアの恩恵を享受する限り、記憶とは記録であり、電脳へと蓄積されて行く……。唯一無二の人生を、自身の胸へ刻み込む事無くデジタルデータに全て委ねてしまう、それで本当に満足なのか!?

 自我や体験は客観的事実で構成される物でも、何者かに記録管理され共有化される物でも無い。この政府に由る一連の統治計画は、既に実用段階迄間近に迫っているのだ……。

 今、ここに居る観客達よ、テレビカメラの向こう側に居る不特定多数の視聴者よ、君達は政府の独善的支配に屈従し続けるのかっ!?

 立て! 今こそ蜂起する時なのだ!! 仮面を脱ぎ捨て、自己を獲得する為にっ……!!」



              *



「これは人心を撹乱する為の捏造された情報だと公的見解を発表するんだっ!!」

 ロイトフは腹立ち紛れに、署内の調度品を手当たり次第壁へ叩き付け喚き散らし続けていた。その狂乱振りに圧倒され、直轄の部下達も一様に彼の粗暴な振る舞いを傍観し続ける。

(エスが政府最高機密迄をも入手し、テレビジャックを敢行するとは……!!)

 一連のテロ犯罪でも極め付けの所業に、政府及び上層幹部達の立場は愈々以って崖際へ追い込まれた。テレビジャックの一件で既に質疑や抗議の連絡は署内へ殺到し回線はパンク寸前だ。本来当然の事ながら、エスが暴露した洗脳統治計画と言う陰謀は緘口令が徹底されていた。何より実質的にはマスコミも政府の支配下に在り、メディアを通して誘導的に政府の正当化を図る事も可能な筈だった。

 しかし、稀世の英雄と声価を受けるエスの中でも、最も大胆な犯行と声明……。仮にそれがプロパガンダだったとしても、彼の熱狂的支持者達は直ちに盲信した事だろう……。

 今後、一貫してテレビジャック時の告発内容はテロリスト・エスの妄言であり、事実無根と断言する事は容易い。但し、だからこそ反論する側も一般大衆への隠蔽工作では無いと言う確固たる証拠を提示しなければならない。『在る』物を証憑として提示する事は最上の説得力を有するが、元来無形の事象を証明する事は困難だ……。現状では最早釈明も通るまい……。

 市民に由る政府への反感、不審感は上昇する一方だ。人権保護と社会管理を名目に政府機関が実効していたものは、市民の自意志や感情迄も制御する様な抑圧支配であり、失策であると……。今や安全神話が崩壊し、最早国家は転覆し掛けている。体制や役員の一新を迫られる程の革命時期が到来し始めたのだ。一介の繊細な学生が

起こしたヒステリーは、短期間の内に情報戦をも巧みに織り込んで社会を激動の中に引き込んでいる。

―ロイトフは未だ対面し得ないエスへ、宿怨と呼べる因縁すら感じ激昂に駆られていた。自身の権威や社会的信用は失墜し、最早挽回の余地も無い。今後騒乱が収束したとしても更迭は免れないだろう。

(それならば、それならばせめて……。諸悪の根源であるエスだけでも道連れにしたい……!)

 ロイトフは決然と肩をいからせ、衆目の中心へと躍り出た。

「……この侭私の将来が潰されるとしても、エスの首だけは殺って身を退きたい……! それが、長年世界に冠たる電脳都市インダーウェルトセインの治世を司って来た私の最後の矜持だ……! 既に見通しの無い戦いだが、皆、協力してくれるか……!?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                     

 一同は神妙な様相で頷いた。政府統治計画はロイトフの独断によるものでは無く、彼も叉組織構造に絡め取られた被害者の一人に過ぎないと言う一面もある。何より頭目たるロイトフの器量、手腕は本物であり、誰もが全幅の信頼と憧憬とを抱いていたものだった。最早首脳達の退陣は予期される結果だろうが、曲がりなりにも警察へ身を置く者達として、エスにだけは一矢報いたい……。介する一同の気概は全員一致していた。

 ふとその時、元ハッカー犯罪者であるサニーが全員の中心へと躍起な調子で歩み出る。

「僕に任せて欲しい。先程の一件でも、奴等は自身のIDを病院内で保育されていた新生児のID番号に紐付けてGPS捕捉を混乱させた。人員は割かれ、その際のタイムロスにも付け込まれ現状の様なテレビジャックや逃走を許している……。

 奴等がヘッドギアの機能を逆手に取ってテロを実行するのなら、こちらは更にその上手を行き逆利用する迄さ。僕も出し抜かれてばかりで、これ以上黙ってられないからね」




             *




 切り裂かれた風が背後へ流れて行く。生番組をジャックし政府の陰謀を世間へ告発すると言う目的を果たした僕達は、テレビ局から首尾良く脱出し用意して置いた大型バイクで目下逃走中だ―。

……疾走する中で視界が狭まり、風景が塗り重ねられた絵具の様に、曖昧に暈けて行く……。それ程の高速運転中、僕は振り落とされない様にシドの背中へ必死でしがみ付いていた。

 しかし恐怖感よりも、車体から身体へと伝わり来る振動が本能的な高揚を募らせ鼓動を際限無く高鳴らせて行く……。そしてシドへ腕を廻し密着する事で、長年感じ取る事の無かった他人の体温を感じ取る。他者への関心や、自他と言う実在の希薄さ……。生きながら実存が不確か、と言う虚無性が根底に淀んだこの現代社会で、閉塞を打ち破る手段は只こんな風に他人の脈打つ生命を直に体感する事ではないか? 難解な理屈も哲学も要らない、仲間との肌での触れ合い……。たったそれだけの事なのかも知れない、と僕の胸中で

ふっと雑感が湧いた。

 たった今、僕が世界へと向けて吐き出した衝動と相俟って二輪の加速とシドの脈動が、過去から纏わり付いていた自己嫌悪や虚無感、社会への不信感等……。そんなあらゆる鬱屈を全て洗い流してくれる様な気がした。

……僕達のテロ計画も愈々最終局面へと到達し始めた。市井へ政府の枢要を暴露した事で社会はどの様な変動を提示するか? 僕達の行為や主張にどれだけの意義が在るか、どれだけの共感者を生むか……。ふと、一過性の自家中毒に潰えるか、と内心の不安が渦巻く。

 僕の声は街へ届くのか?

 僕の声は街へ届くのか……?

 様々な切なる想いが去来する中、不意に黙々と運転していたシドが言葉に為らない叫声を挙げた。逃走経路を進行するだけでも精一杯の為に運転中は終始無言だったのだが、彼は突如として独りでに慌しくハンドルを切ろうとした。

―僕は何事かと眼を剥く。その刹那、急停止に由る怒声の様な機械の駆動音と、路面を走るタイヤが挙げる悲鳴の様な擦過音とが身を震わす程に鼓膜を劈いた。瞬間、慣性を失い僕達二人は車体から前方へと放り出される。

 アドレナリンの分泌からか、時間の感覚が一瞬の様にも永遠の様にも感じられた。先程迄の自分自身の視界や感性等とは遊離した様な、前後不覚の不可思議な浮遊感……。

別人の視界を通す様な、素人の簡素なビデオ撮影画面を通す様なコマ送りの主観映像。火花の瞬きの様な一瞬と、走馬燈が廻る様な永遠との同居の中で、周囲の風景が反転する。

そこで自身が放物線を描く様に宙を舞っていると把握したのも束の間、僕達の全身は舗装されたコンクリートの路面へと強かに叩き付けられた。



             *



……激痛が火を帯びた蛇の様に全身を這いずり始め、思わず苦悶に呻き意識が覚醒させられる。瞼が開かれると、視界全体が藹々と棚引く茜雲の夕焼けで覆われている事へ気付き不意に驚いた。丸で目覚めた瞬間、夢と現実の居場所や状況を混同してしまったかの様な違和感。しかし、次第に僕は記憶の糸口を掴み、論理的思索を紡ぎだして行く……。

―そうだ、僕達はバイクから転倒したんだ……。咄嗟の受身を取る余裕も無かった刹那の中、路面で全身を強打し暫くの間呼吸や意識すら奪われた。しかし性急な状況だったとは言え、前方に障害も無い状態でシドが不注意を引き起こすだろうか……? シドや、バイクはどうなってしまったんだ……?

 倒れ臥す中、横目で状況を確認すると視界には矢張り僕と同様に路上で突っ伏し意識を失っているシドの姿、そして横倒しになったバイクとが見て取れた。シドは丸で眠り就いたかの様に失神している。特に目立った外傷は見当たらない様だが、早く近寄って容態を確認したい……。その目と鼻の先には路面を擦過し横臥した車体が、エンジンを空吹かせ当て所も無く車輪を廻し続けている……。

 僕は苦痛で呻きつつも、一足早く徐々に立ち上がり始めた。事故に陥った事で追跡の手が速まる、と言った懸念は希薄だった。何由りもシドの安否こそが最優先だ。そして僕は恐る恐る彼に近寄り、横たわった身体を軽く揺すりながら悄然と呼び掛ける。

 事故現場はまだ無人の状況だった。バイクが復旧出来るかは兎も角、逃げ果せる事は充分に可能な筈だ。シドの意識が直ぐに回復しないのなら、それこそ引き摺ってでもこの現場から離脱すれば……。

 そんな思案の合間、か弱い途絶え掛けた呻き声が漏れ聴こえて来た……。

「シド! 大丈夫か!?」

 彼が息を吹き返し始めた事に思わず僕は驚喜の声を挙げる。彼も暫くの間、昏倒から現実の意識へと帰還する為に彷徨っているかの様だった。

「うう……。そうか、いや、大丈夫だ。皮肉な話しだが、これに守られたらしい……」

 息も絶え絶えの様子だが、気丈にもシドは自身の頭部を指差す。そうか、確かに皮肉な話しだが、装着していたヘッドギアの強度で頭部は保護されていたのか……。

僕達に取ってヘッドギアから恩恵を浴する事は一種屈辱的な事柄でもあり、単純に無事を喜べない複雑な胸中から来る沈黙が流れた。しかし、そもそも先程に於ける事故の具体的原因は何だったのか?        最も当然な質問を失念していた僕へ、シドは歯噛みする様な調子で説明し始めた。

「クソッタレ……! さっきは済まなかったが、ハンドルを制御出来なかったのは訳があるんだ……!!

 今迄自分自身のID番号を逆用して、映像や他人のID、居場所を摩り替えて敵を撹乱したりして来たよな? 悔しいが、そのお株を奪われたらしい……。

 運転中、視界が突然ブラックアウトしたんだ。前方の主観映像が真っ暗に陥って、車体の操作を誤ってしまった……。そこで停まり切れず俺達は派手にバイクから吹っ飛ばされちまったって訳だ……。

とうとう俺のIDや現在位置が政府にGPS捕捉され介入されてしまったらしいな。ここから先は、ヘッドギアを逆手に取った戦法も難しい様だ。まあどちらにせよ、もうこいつは使い物にもならない様子だけどな……」

 シドが指差す通り、彼の頭部を包むヘッドギアは転倒に由る強烈な衝撃で片側が半壊していた。コーティングされていた表層部が所々破損し、機械内部が剥き出しに露出され痛々しい様相を呈している程だ。最早機能を使用する事も儘ならないのは一目瞭然だった。

「しかしな、これで丁度良かったのかも知れない、ここが潮時なのかも知れないぜ……。矢張り、主張や覚悟を貫き通して世界へ表現するには、もうこいつの存在は邪魔だしな。ヘッドギアの機能を利用する事も、もうここで金輪際封印するんだ……」

 どこか達観しかたの様に、シドは逡巡無く頭部に手を掛けると、あっさりとヘッドギアを脱ぎ捨てた。その一連の仕草は丸で起き抜けに衣服を取り替えるかの様な自然さを伴う、呆気無い程の軽快さだった。

 余りの気易さに呆然としている僕へ、初めてその素顔を晒した彼は人懐っこい笑みを浮かべる。そして、敢えておどける様な調子で恭しく口を開いた。

「……初めまして。そう、やっと出逢えたな」

 彼は自嘲気味に挨拶を述べた。僕は自身以外に、敢えてヘッドギアを脱ぎ捨て素顔を露出した人間と初めて対峙した。どこか未体験に近い不思議な感慨が湧く。

美醜の観念が培われていない現代人の僕達だが、シドの外貌は想像以上に端正なものと感じられた。そして、言い知れない万感が込み上げて、僕達はどちらから共無く二人で破顔し、顎を外す様に大笑をし始めた。夕闇から覗く光に、シドの笑顔が茜色に差し染まる……。


―ふとその時、一頻り笑い挙げた僕達の背後からひっそりと接近する第三者の影が視界を覆った。瞬時に振り返る。

 すると、如何にも精悍な体躯の男が一人毅然と立ち尽くしている……!

 その折り目正しい制服や背筋の通った佇まいからして、明らかに政府直属の人間である事が見て取れた。

 咄嗟に僕達は後退して身構える。転倒の影響で手負いの身だが、シドは警戒する視線を一定させた侭で自身の全身をさり気無く弄っていた。所持している武器類が周囲へ吹き飛んでいないか、携帯された状態の侭であれば故障が無く使用可能かどうか、抜かりなく確認しているのだろう。

……しかし油断を怠らず対峙した僕達を前に、何故か相手は両手を中空に掲げ立ち止まった。

 ふと、相互の動静が停止する……。この何者かは、武装及び敵意が無い事を意思表示して来たのか? ……僕達は攻撃意識と言うよりも、訝しむ顔色で彼を見据えた。

「御覧の様に俺は政府の者だが、この通りあんた達と事を構えるつもりは無い……」

 僕達は横目で相互に目配せし、警戒意識を保ちながら彼が継ぐ二の句を待った。何かの罠かも知れないが、眼前の相手からは一本気な気骨が伝わり、心根の卑しさの様なものが雰囲気として漂わない事を僕達二人が共に感じ取っていた。

……暫しの間周囲が静寂に包まれ、僕達が攻撃態勢へ入らない事を確認した彼は、訥々とその口火を切り始める。

「ヘッドギア生産工場や病院では世話になったな……。病室でやっと出会えるかと思ったが、まさか自分達のIDを新生児の番号に摩り替えるとは想像もしなかったよ。散々あんた達を探し回り、漸くここでご対面出来たと言う訳だ。本来なら、俺は職務上あんた達を拘束する為に今直ぐにでも飛び掛るべきなんだろうが……。

 しかし正直に告白すると、心が狭間で揺らいでいるんだ。あんた達の声明や行動を見聞きする事で、果たして体制側に属する自分が正しいのかどうかを、な……」

 叉も肩透かしを喰った様な心持ちで僕達は目配せし合う。生産工場や病院での犯行を現段階で見知っていると言う事は、矢張り彼は警察の人間と言う事に相違無い筈なのだが……。

 眼前に対峙する仇敵は、何を言わんとしているのか。

「……俺は正直、世間の一部勢力の様にあんた達へ心情が傾き掛けているんだ。今迄何の疑問も抱かず政府役人である事を聖職として誇りに想い、忠実に職務を遂行して来たつもりだったが……。

この世界が虚飾に覆われた悪平等を生み、我々は仮初めの平和の中で圧政を受けているのか、如何か……。

 だから、答えを見極めさせて欲しいんだ。あんた達の抵抗を最後迄見届ける事で……」

 暫しの無言の後、シドは放心した面持ちでこう問い掛けた。

「つまり、取り敢えずこの場は見逃してくれるってのか……?」

 青年役人は黙して語らない。ここで僕達へ寝返らない迄も、電網監視下に置かれている以上、既に彼の立場も危険へ陥りつつある筈だ。シドの様な共感者の先例は在るものの、僕達は体制側に属する人間の内面に迄影響を与える事が出来たと言って良いのだろうか……。どこか誇らしい気持ちを得た僕達は、ふっと敵意を喪失し肩の力を抜いて微笑を交わす。

 青年役人は僕達と意志の疎通が図れ信用を得られたと悟り、一旦の安堵を見せた様子だった。

……しかしだからこそ本題に入れると踏んだのか、次の合間には一際に不安気な気色を浮かべ、切迫した忠告を挙げ始めた。

「今では、市街の各所であんた達の声明に触発された者達が暴動を起こし始めている……! 政府は事態の収拾を付ける為に、今夜から機動隊を総動員して武力鎮圧へ乗り出すだろう……。そして、何より完全な解決を果たす為にあらゆる手段を駆使し、草の根を分けてでもあんた達を捜索しようと躍起になっている筈だ。

 そう、さっきバイクで転倒したんだろうが、あんた達の運転を妨害した者は明らかにうちの班に所属する元ハッカーの仕業だ……。今ではGPS測位からも逃れられるだろうが、事故を起こし信号が消失した情報を受け、この地点を目指し警察が急行して来ているだろう。

 ここからが正念場だぜ、生命の危険も覚悟しなければならない様な、な……」

 青年役人は、僕達の行く末を案じるかの様に気遣いを露わにしている。精悍で武骨な印象を受ける男だが、対称的なその繊細な優しさにはどこか好感が抱けた。

「まあ、危険と言うなら、今僕達と会話している君自身も既に含まれているんだろうがね……」

 僕は彼が何も不服を言わず、僕達の趨勢のみを心配している事に厚意を覚え敢えて軽口めいた言い方をする。そう、彼はまだヘッドギアを常備している。僕達の今後を邪魔しない為にも自身への糾弾から逃れる為にも、彼は直ぐにこの現場から去り追手から目を眩ませる必要がある……。彼は未だ完全な反体制側へ宗旨替えし切っていなくとも、既に自己責任を背負う様な状況へは片足を突っ込んでいるのだ……。


―ああ。恐怖と昂揚の入り混じる身震いが止まらない。僕達は革命の最終段階へ突入する間近なのだ……。

そして僕は去り際に、気骨ある反体制予備軍の士へ或る言伝を申し出た。

「答えを見極めたいと言うのなら、一つ手紙を政府へ届けてくれないか? 仮面舞踏会の終幕を飾る為に記した、僕達からの招待状をね……」




              *

・ 第八章・『終演の円舞曲』


『仮面舞踏会最終夜への案内状』

 御壮健で祝着に存じます……。例年催される大舞踏会に貴下を来賓として招待致したく、筆を執った次第です。

 場所/セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー内部シティビュー

 開演時刻/19:00~

 当日は是非御来席下さい―。今宵を以って、友情にも似た我々の纏綿たる闘争の舞踏に終止符を打ちましょう。月光と電飾で彩られた屋上庭園の下、奴隷達の真実と自由を希求する哀哭を歌曲に、どうぞ麗しの仮面を御付けになった侭夜明け迄踊り明かして下さいませ……」


 ロイトフはどこか達観した境地で巨塔の前へと赴いた。電脳文化都市インダーウェルトセインを象徴する様に巍然と聳え立つ、『セブンスプラスティックトゥリーヒルズ・ゲートタワー』……。電脳都市内でも有数の偉容を誇る巨大施設は宵闇の中で無数の眩い電光を放ち、益々の近未来的景観を強めている。

 しかしゲートタワーの基に電飾で燦然と輝く街は、既に阿鼻叫喚の暴動で犇めいている光景が現状だった……。

 元来の信者達は基より一般市民達迄もがエスの扇動を受け、既に市街全体は大規模な抵抗運動の熱気で包まれていたのだ。交通要衝に検問を敷き、インダーウェルトセイン都市一帯は全面封鎖された。一般人の外出や通行に緊急規制が加えられたものの、現状ではこの様に大勢の人間が街区へと乗り出し、人波が抗議を声高に叫ぶ有様なのだ。広場や街頭では機動隊が暴徒鎮圧に出動し、物々しい警棒や盾を振り翳して群集との衝突を繰り返している。店頭では路地での対立に怯えた店主達が厳重に鍵を掛け、観光客達はホテル内で遣り過ごす以外には無い。

「賢明なる市民の皆様、政府は現在夜半の外出、通行規制の周知をしております。これ以上の違法集会に対しては、公権力を投入して強制解散を働き掛けます。繰り返します、これ以上の違法集会に対しては……!」

 都市機能は既に麻痺し、無秩序な暴行は今や最高潮へ達していた。各所で火炎瓶が投擲され火災が点在し始めた事で、消火活動のみならず群集へ弾圧攻勢を掛ける為にも放水車が稼動し始めた様子が見受けられる。水浸しの路地に催涙ガスの煙が濛々と立ち込め咽返る者達、機動隊員達に容赦無く殴り倒され昏倒し、引き摺られる様に護送車へ連行される者達等……。

 この様な相互間の衝突が散見される中、エスはゲートタワーの最上階に在るシティビューで待ち構えて居るらしい。

……『今宵を以って、友情にも似た我々の纏綿たる闘争の舞踏に終止符を打ちましょう。月光と電飾で彩られた屋上庭園の下、奴隷達の真実と自由を希求する哀哭を歌曲に、どうぞ麗しの仮面を御付けになった侭夜明け迄踊り明かして下さいませ……』

 エスから直接この手紙を預かり届け出た青年役人は、反体制側に感化されたらしくその後消息を絶っていると言う……。そして、ロイトフは警察へ送り届けられたその犯人直筆の案内状を再読していた。今、正に現状を予見していたかの様な文章に苛立ちを重ねながら……。

市内が暴力的な混沌で充満する中、最後の決着を前にロイトフは恐々とした内心を御し切れない。本人直筆の案内状から来る文面や覚悟の程からしても、エスが最上階に篭城している事は真実と断定して良いだろう。

「只今より、屋上を不法占拠する暴徒エス達への鎮圧作戦を開始する」

 ロイトフは後方で幾何学的に隊列を組んだ、完全武装の群栄を見せる機動隊へ指示を始める。そして不意に彼は四方を見渡し、収拾の付かない市街全体の光景を見遣った後で嘲る様に吐き捨てた。

「留置場は既に満杯かもしれないな……。まあ、しかし構わないさ。俺が自分自身の手で、奴だけは直ぐに死刑台へと送り込んでやるんだからな……」




             *




 平常時には電脳都市内でも屈指の集客力を誇るゲートタワーだが、施設内部は既に夜間閉鎖したかの様な森閑さを湛えていた……。工業的な意匠と質感を基調とした内部は、既にテロ集団から武力占拠され人払いが為されている。街区の暴動へ参加する信者、野次馬的根性で物見遊山に出掛けた傍観者、叉、エスの不法侵入に畏怖しほうほうの体で逃走した塔内関係者達と……。塔の最上階を占拠したと予測されるエスは、手練手管を弄し機動隊への罠を張り巡らせているに相違無い。

 しかし待ち構えた関門を前にするも、ロイトフの精神は十全に統一されていた。機動隊を背後で引き連れ、彼は躊躇せず行進の歩を刻む。踏み締める軍靴の足音は超然とした音程を保ち、決然たる意志を感じさせるかの様に塔内で反響し続けた。

 エス一味は敢えて占拠している屋上で鎮座し続け、中途の階上で機動隊を襲撃して来ると言った可能性は極めて低いだろう。彼はその理念上、この封鎖された都市で極限迄死力を尽くすだろうし、最早自決の覚悟を固め始めている可能性すらある……。仮に彼が自害すれば騒乱も収束を迎えるかもしれないが、そうなったが最後、エスと言う重大犯罪者は永遠に一般市民からカリスマとしての声価を受け、歴史に永劫の足跡を残す事だろう……。

 夭折の英雄、革命の士……。そんな声価を浴び彼が後世迄語り継がれる存在となれば、警察への不審感は払拭されず権威は貶められた侭……。人心は離反し、体制側が政治上の悪影響を延々と引き摺り続ける未来すら懸念されるのだ。

 何としても、警察の威信に賭けて自害する以前にエスを捕獲し処刑したい。そして、その為には逮捕時の正当防衛としてエスを射殺出来れば最も理想的なシナリオではある。しかしその一線が叶わずとも、逮捕後の処刑映像等を大々的に公開放送する予定を思い描く程、ロイトフは躍起だった。

 交通管制等が無意味と堕した現状、最早法的措置や手順を踏まえる事も無い。塔の周囲全体へ数十台のパトカーを待機させ、逮捕時の包囲網は既に構築させている。更に地上だけでは無く高空からの攻防を想定し、無人戦闘型ヘリ数台が最上階を目指し飛行を開始し始めていた。

 そして最終決戦を前に、機動隊のヘッドギア機能や武装は今迄以上に充実されている。まず音響攻撃へ対する防御として、以前の様な集音能力を逆手に取った鼓膜を劈く様な轟音、人間の生理に不快な雑音等も事前に減音、消音される様に性能は向上された。叉、ヘッドギア内部の音声機構は盗聴を完全遮断する仕組みを導入させている。周波数を絶えず変調させ続け、更に音声情報を随時暗号化させ受信側で復号化する機構を設ける事で、情報漏洩や侵入電磁波に関する防御を磐石なのものとしているのだ。

 視覚に纏わる防御へ関しては、無光状態でも赤外線視覚で視界を確保出来ると言う暗視ゴーグル機能を逆用され、閃光弾で幾度か撹乱されて来た。しかし光学暗視機能や赤外線暗視機能の他に今回の作戦上では超音波ソナーも付加され、三次元立体映像をも実現させる事で各種状況へ適切な自動切り換えが為される機構を備えている。

 催眠ガスや毒ガス類を防備する為の防臭マスクには小型酸素ボンベも付加され、空港設備で発生した様な空調制御に拠る無酸素状態等にも一定時間耐久出来るだけの追加装備が果たされた。あらゆる最先端技術を複合化させたヘッドギアの万全さに死角は存在しない。

(これだけの重装備と多勢を前にはエス一派の抵抗も敢無く限界に至り、屈服せざるを得ない筈だ。奴等がどれだけ武器類や食糧の備蓄を貯えていようとも、最上階で篭城する以上いずれは枯渇してしまう事等自明の理……。最早奴等に退路は無い。捕獲と言う結末はあくまで時間の問題に過ぎず、我々は必ずや大罪人が不様な末期を迎えると言う、台本通りの終幕を遂げられる。

名も無い端役が増長しおって……! 歯車の様に整然と進行する舞踏会を破壊した大罪は死を以って購えっ……!! 今夜、この世界は闖入者を排除して筋書き通りに戻る。私達が役割から引き摺り下ろされたとしても、少なくとも舞台は収まるのだ……)



             *



 張り詰めた緊張感に貫かれた厳戒態勢の進軍中、最後尾に付く隊員は反射的に後方へ振り返った。……不意に、人影が視界を掠めた気がしたのだ。

 この緊張下、人払いが為された筈の塔内で一般人が残留している可能性はまず有り得ない。錯覚でなければ、エスかその同胞達がこの周辺で潜伏し襲撃の隙を窺っているかもしれない……。我々を出迎える罠を張り巡らせ最上階を占拠していると言うブリーフィングも受けたが、無論全ての事柄に絶対は無いのだ。況や、重犯罪者の思考や行動等は読み切れる筈も無い……。

―そんな疑念が去来する瞬間、間近で物々しい炸裂音が鳴り響き、各人の背中が跳ねる様に伸び上がった。

(……今のは、明らかに銃声だ!) 

その銃声に呼応して、後列を行く部隊は一様に臨戦態勢を整える。一定の人数が隊列を為して身構えると通路上には何者の影も見えず、壁面や床面に被弾した形跡は見当たらない。

 だが誰一人警戒は緩めない侭、各人が恐る恐る周辺を探り出す。ヘッドギア機能が自動的に銃声の発生源を解析、探知し始める中、一部の隊員達は目敏く四方を巡る通路の一角で違和感ある光景を発見する。

 硬質な鉄扉が等間隔上に設えられている通路上で、ある一室の鉄扉だけが収まる場所を喪ったかの様に、無造作に開け放たれているのだ……。

 電子制御された鋼鉄製のドアが自然に戸を開く筈も無く、隊員達はその一室へ向けて俄然凝視をし始める。無論これが機動隊を誘き寄せる罠と言う可能性も高いのだが、異質な状況下を察知した以上は探索を怠れない……。反響する銃声から実際の発生源を特定しつつ周辺に人間が存在するかを熱源探知機能で精査しているものの、具体的な結果は未だ解析中とヘッドギア内で表示された。

 本隊は遥か先を進行中だ。彼等の援護や指示を待つ間にもこちらは襲撃を受けるか、遠距離への逃走を許してしまうかもしれない……!

(―今、この瞬間を逃さず踏み込むしかない………!) 

一種の強迫観念に駆られた隊員達は、慎重を期しながらも瞬発的に突入を開始した。


……。


 しかし意を決して踏み込んだものの、隊員達は拍子抜けするかの様に軽く眼を丸くした。中空へ銃口を向け備え続けている態勢も滑稽に思える程、眼前に広がる光景は何の変哲も無い商談室だった。都市中枢を担うゲートタワー内部の一室だけあり調度品の類は洗練されているものの、犯罪者が潜伏や戦闘の場として選ぶには凡そ似つかわしくも無く、利点が感じられる要素も皆無と言える部屋だったのだ。

 室内は商談を執り行う部屋の性質上、盗撮や盗聴、外部からの侵入を防止する様に厳重なセキュリティで設計されている様子だ。出入口は重厚な鉄扉が施され、横手に設置されたICカード式電子ロックは関係者以外の通過を認証しない仕組み……。現在開け放たれていた鉄扉からすれば、エスは関係者達のICカードを何等かの手段で不正入手したと言った所だろうか。

 そこで各人が、怖々とヘッドギア内部の生体センサーから解析を試みる。

―しかし、隊員達を除く第三者の生体情報が捕捉されない……。エスは今迄警察の捜査を撹乱し、延々と逃亡し続けて来た犯罪者だ。何等かの狡知を用い潜伏している可能性は有り得るが、それにしても根本的に人間の臭いや気配らしきものが漂って来ない気がするのだ……。

(……誰も居ない筈は無いのだが……、どう言う事だ……)

 状況が判然とせず誰もが訝り出した矢先、室内の後方に立つ者達が突如として驚愕の声を挙げた。

 全員が何事かと一様に振り返ると、先程迄中空で収まる場所を喪っていた筈の鉄扉が、丸で自意識を取り戻したかの様に閉じ掛けようとし始めたのだ。戸外へ立つ隊員達が咄嗟に鉄扉を引っ掴み、その動作を停止させようと必死に引き戻す。内部へ入室していた隊員達も動揺しつつ肩に全体重を掛け、重厚な鉄扉が完全に閉鎖されてしまうのを防ごうと試みる。しかし数十キロは有るだろう自動制御式の鉄扉を停止させる事は叶わず、戸外にいる隊員達の指は引き剥がされ、内部の隊員達も重大な圧力の前に押し戻される形で遂には室内で尻餅を突かされた。大勢の隊員達は、内外で共に立ち尽くし暫し呆然とする他は無かった。そして、誰もが言葉を廻らす以前に直感したのだ。

(この商談室には、敵等誰一人存在しない……。我々はまんまと罠に誘引され、檻へ閉じ込められた動物と同じなのだ……!)


 鋼鉄の扉は最早物言わず、頑として開錠される事は無かった。



             *



 相当数の隊員がICカード式の電子ロック室内に閉じ込められたと言う速報がヘッドギア内部から通達され、ロイトフは若干の失意に囚われ立ち止まった。

(何等かの妨害工作は想定していたが、序盤で既に戦力の減少と言う痛手を蒙った様だ……)

 別働隊の報告を分析するに、奴等の手口は以前の様に集音機能を逆用し轟音で相手の身動きを防ぐ様な単純な手段とも違う。奴等は人間の錯覚を最大限に活用し、我々を眩惑しようとしているのだ……。一次被害を受けた隊員達は人工的に偽造された物音や気配に誘導され、敵の目論見通りセキュリティ機能が高度な部屋へと閉じ込められたのだ。

これで当面の間、彼等の脱出は不可能。自動認証を通過する為の鍵情報を塔内関係者へ打診し転送させるか、内部に閉じ込められた隊員達が機転を利かせ何等かの技術手段で開錠させるか、叉は火器を用い鉄扉を破壊する様な強硬手段に頼るか……。いずれにせよ相当な時間の足止めを喰らう事は間違い無かった。

「どうしてあいつ等は無関係な部屋に閉じ込められたんだ?」

「もう嵌められた奴等が出てきたって言う事か……?」

 早速の敵襲とその被害を見知った隊員達全体へ動揺が走り出した事をロイトフは敏感に察知する。士気を低下させない為に、ロイトフは動揺の気色を露わにする一隊へ向け空かさず恫喝の声を挙げた。

「皆、騙されるな! エス達の所在は屋上で間違いない!! 奴等は塔内の照明や立体音響を操作し、巧妙に人間の気配を演出しているんだ!! 銃声や奴の呼び声も現場で発せられた肉声ではない筈だ。あれは予め録音された音響で踊らされたに過ぎない。全ては我々を撹乱させ、分散させる為の罠だ」

 言うが速いかロイトフは懐から小銃を抜き出す。そして射的競技の如く、等間隔で天井に設置されている室内スピーカー、及び監視カメラを的確に撃ち抜いて行った。幻覚を生み出す元凶を根本から断絶したのだ。

 ロイトフの正確な判断と速決に見惚れ、後方の隊員達は直ぐに冷静さを取り戻す。

(特に監視カメラ映像を利用し、エス達は我々の動向を窺っている事は間違いあるまい。塔内にあるセキュリティシステムの主体的機能を麻痺させながら進軍すれば、自軍が相当な有利性を獲得出来る筈だ……!)

「何も臆する事は無い! 奴等は自ら袋小路に嵌り込んでいるのだっ!! 後は只跳ね回る鼠を追い詰めて駆除するだけ、それだけの事だ、私に付いて来い!!」

 途端に当階全体で、呼応する様に全員からの気勢が挙がった。




              *




 ロイトフの求心力は矢張り並々ならぬものがあり、鼓舞された隊員達は先程迄の萎縮が嘘の様に血気を滾らせ始めている。士気を回復させた複数隊は意気揚々と追随を始めていた。エスが手薬煉を引いて待ち構え各所で戦力が減退させられて行ったとしても、この圧倒的人数差ならばいずれは確実に追い詰められるだろう。


……。


 後方部隊はその矢先、何かの配線が途切れる様な雑音が耳を掠めた様に思い立ち止まった。

ふと最後尾の者が振り返ると、『配電室』と表札が掲げられた扉の隙間から黒煙が漏れ出でている事に気付き、悲鳴にも似た声を挙げた。その切迫した呼び掛けから前列を行く隊員達も足を停め、何事かと首を擡げる。

 そこでは噴出する黒煙が扉前面を覆い始め、その向こう側から火花が散る様な不穏な物音が微かに立ち始めていた。何かが焼け焦げる様な異音、異臭がヘッドギア越しに伝わって来る事を感じ取り、

付近の隊員達が思わずドアノブへと駆け寄る。しかし彼等がノブへと手を掛けるか否かの刹那、瞬く間に火の手が周囲の壁迄をも伝い始めてしまった……!

 隊員達は思わず目を見張り後退った。火災の原因……。しかし、例えば電気系統の故障で出火した偶然の事故、等と解釈する者は当然現場には誰一人として居なかった。エスに由る妨害工作の一環である事を瞬時に直感した一隊は、装備から携帯消火器を取り出し即座に鎮火を試みる。最低限度の防災用具として装備していたガンタイプの消火器を、火の手の脅威を受けない遠方迄へ後退した隊員達が次々と発射して行く。

 この消火器の弾丸には消火薬剤が詰められており、弾を発射して炸裂させる事で内容物を散布させるのだ。この消火器はレーザーシステムで座標を精確に設定可能であり、少量の弾数でも初期段階の火種ならば充分に鎮火可能な筈だった。

 しかし隊員達はヘッドギアの視覚機能と連動させ消火すべき対象位置と射撃範囲を的確に被弾させ続けているものの、燃え盛る火炎は一個の獰猛な野生動物として生命を得たかの様に容赦無い気勢を挙げる一方だった。最低限度の装備では完全消火が不可能だと判断されると、忽ち隊員達の間に戦慄が走った。

(今度こそ、立体映像や立体音響に由る誘導工作では無い……)

『周辺温度の異常をお伝えします……。現在、半径10m内の室内温度が上昇し続けており、事故や人体へ悪影響を及ぼす危険性が感知されています。本ヘッドギア装着者及び周辺の方々は、この侭ヘッドギア内部の避難指示へ従い速やかに行動をお願い致します、繰り返します……』

 ヘッドギアの熱感知機器がその度数をどんどんと上昇させ、人体への危険や周囲での火災等に及ぶ可能性を警告し始めている。警報は冷厳ささえも湛え機械的に反響し続け、隊員達の内心を千々に掻き乱す。何由りも、ヘッドギアや特殊防護服すらも通り越して身体へ伝わり来る猛烈な熱気や煙霧は紛う事無き現実だった。排気が不完全だとしても、一定濃度迄なら煙霧から立ち昇る有毒ガス等もヘッドギア内部の防塵・防毒機能が自動的に作動し微分してくれる……。

 だが、猛烈な熱風に包まれ冷静さを保ち続ける事は訓練された隊員達にも至難の様だった。隊員達は自然と、更に悪化し行く状況を思い描き臆気に晒される……。超高層ビル内部が巨大アトリウムとして設計されていると言う事実も、現場へ居合せた隊員達の恐怖心に拍車を掛けた様子だった。

―超高層ビル建築の際は、洗練された景観を強調する為にアトリウムを導入する事が慣例的だ。だが皮肉な事にその天空を見晴るかせる様な吹き抜けた空間は、火災が発生した際には事態を悪化させる煙突の様な役割を担ってしまう。過去に於ける一連の大規模な火災事故を受け既に原因は究明されているのだが、低階層で火災が発生したとしても、瞬時に火勢や煙霧は建造物全体へ流動、拡散し被害を拡大させてしまうのだ……。ゲートタワー内部は低階層から中階層迄が飲食店やアパレルショップで占められており、目下隊員達が進行している高階層もオフィス区域として様々な精密機器が犇めいている。

そう、爆発的な火種となる要素は幾等でも連想させられるのだ……! 内部で大爆発が発生すれば都市を象徴する巨大ゲートタワーの倒壊どころか、周辺一帯が焦土とすら化すかもしれない……!!消防活動を行う部署は既に市街全体で散発している暴動や火災を鎮圧する為に出動し、手薄となっている筈だ……。

 既に一隊の秩序が乱れ始めていた。人的な消火活動には限界が見え、誰もが当然の如く期待したスプリンクラーや防火シャッター等、防災設備の作動する気配が一向に見られない。これは件の様に、空港がサイバーテロに遭った事例と同様の仕業ではないのだろうか!? 

隊員達が必死に大声を張り上げる。

「ビル内の自動火災報知設備は作動しないのか!?」

「火災検知システム自体の回路や電力を遮断されているのか……?いや、そうでなくとも、今迄の立体映像や立体音響を利用した妨害工作を断ち切る為に、通路上の監視カメラや音響スピーカーを破壊していった事が裏目に出たのかもしれん……!! 防衛上、セキュリティシステムが何重にも張り巡らされ、尚且つ代替システムも常備されている巨大な塔内の自動火災報知設備だ……。今回の様に前例の無い非常事態でも無い限り、本来は警備員や管理技術者達も24時間体制で勤務し常駐している。以前襲撃されたと言うヘッドギア生産工場以上の警備体制下、堅固に構築された中央監視盤を個人が短時間で掌握する事は容易じゃない……。検知システムの動力源が完全停止していなくとも、監視カメラや警報スピーカーの機能を麻痺させる事が出来れば、感知器に拠る火種の発見や対処は遅延させられる!

 あれ等は単純な監視システムだけではなく、塔内の防災機能等とも多岐に渡って連動していたんじゃないか……? 本来であれば火の手が挙がる事前に温度感知機器や火災警報装置、排煙設備なんかの防災装置は自動的に作動し始める筈なんだからな……」

 彼の考察は正鵠を射ていた。実際に塔内の中央監視盤から複雑多岐に連動させた超高層ビル火災避難シュミレーションシステムも、監視カメラが不能状態に陥っている以上は区画内の収容人数や人口密度、避難者達の特性を把握し誘導方法を検出する事が出来ない……。

 豪火は益々の猛威を振るい、煙霧は通常視界、通常嗅覚を遮る程に充満し始めた。通路内の誘導灯すらも見当たらない状態に、隊員達の動揺は否が応にも煽られて行く。塔内に於ける各種消火装置が動作しない事を悟ると、隊員達は一旦の退避を案じ始めた。

「……おい皆! この案内指示は出たか!?」

 隊員の一人が一帯の仲間達へ慌しく呼び掛ける。ヘッドギア内部ナビゲーション機能が塔内の建築設計、設備構造等の地形情報を基に多角的な演算を行い、適切な行動ルートを自動的に検出し指示案内を提示して来たのだ。塔内のカメラネットワークは麻痺しているものの、各所で奮闘する隊員達の主観映像を共有化させ、個々の火災発生現場を特定し俯瞰マッピング化させたらしい。 

 一帯で悪戦苦闘する隊員達のヘッドギア内部ディスプレイに光学表示された地図状の避難経路は、現状各所で散発している火災地点を巧みに躱しつつ、局所的な混雑も避け最終防護区画へと導いてくれる様に計算されていた。

 隊員達が一縷の望みを賭け、固唾を呑んで俯瞰地図や避難誘導指示を凝視する。そして程無くして一部の者達からは、その案内指示に得心が行ったかの様な驚喜の声が挙がった。現場から離脱し一旦の退避を得られる要所……。

―それはゲートタワー中枢に位置する巨大エレベーターシステムだった。ゲートタワー内部では、防災機能の一環としてエレベーターシステムにも避難機構を導入させている。

『火災時管制運転システム』……。

 ゲートタワー内部で稼動するこの火災時管制運転システムは、緊急火災時に於ける大勢の一般客達が引き起こすパニックや延焼等、二次災害を防止する目的で敷設された機構だ。エレベーターに使用される堅牢なドアは遮煙性を持ちつつ、火災時に於ける延焼や爆発等を喰い止める耐火扉の役割をも果たす様に設計されている。高熱を感知すると自動的に閉鎖される防火シャッターが設置されている上に、操作スイッチを『火災状態』と選択すれば即座にエレベーターは管制運転へ切り替わり、シェルター状の避難階へと直行する仕組みだ。

 通路上に点在する高度感知機器類、防災設備等が麻痺させられたとしても、エレベーターシステム内に組み込まれている避難階迄は防御機能を損なわれていない筈だった。初めて扱う操作基盤だとしても電脳ネットワークから関連会社へとアクセスし、概要をダウンロードすれば適切な操作も即妙に行える。

エレベーター内部の防護区画へ活路を見出した隊員達は、言葉を交わさずとも相互に頷き合った。

 そして意思統一が為された後、迫り来る猛火を背後に彼等は一団となって疾駆し始める。……大規模な面積を誇るゲートタワー内部と言えど、普段から訓練され健脚を誇る隊員達が命辛々に全力疾走していた。尚且つ、ヘッドギア内部が検出した最適な避難ルートを遵守し火災現場を縫う様に躱し続けている為、一切その進行を立ち塞がれる事も無い……。

 程無くして最終的なシェルターが目前に現れ、隊員達は歓喜の雄叫びと安堵の溜息とを口々に挙げたのだった。エレベーター周辺に未だ火災の影響は届いておらず、外面的な損傷も見られない。そしてドアの内外で到着した群衆が一塊となって屯し、市街で熱気を溢れさせる雑踏の如く混雑は極まっていた。逸早く目的地へ到着した先頭の者達は、後続者達の興奮を横目に神妙な面持ちで肝心の操作基盤へと対峙していた。

 隊員達の追い縋る様な注視を一身に浴びる中で、先頭者は震える指を抑え付ける様にしながら恐る恐る基盤への操作を試みる。初見となる操作基盤だったが、ヘッドギア内部の電脳情報と連動させている為に基本操作や手順を踏む事は意外と容易かったらしい。内外に於ける光学仕様の照明類や階数表示、操作スイッチ類は平常時と変わらぬ態勢で駆動していた。寧ろこの切迫した災害下で美観を保っている状態こそが周囲と対照的に浮き上がり、違和感を呈している程だ。隊員達はその正対した構図へ大いなる希望の光明を見出し、誰もが申し合わせた様に安堵の喜色を露わにさせる。システムが正常に作動している事も確認された以上は最早何等逡巡する必要は無く、即座に全員で避難階へと急行するのみだった。

 或る一人が率先して機器類を操作すると、ほぼ間断無く蠢く様な震動音がエレベーター内外で微かに鳴り響く……。そして足元が微震しながら、ゴンドラが駆動し上階へと迫り上がり始めた。防火の役割も担う鉄扉が完全に閉じ、力強く上昇し始めたエレベーター内で誰もが自然と天井を見上げた後に、相互の顔を見合わせる。

 そして間髪入れず、自分達の延命を祝福する拍手喝采がエレベーター内を劈いたのだった。

……誰もが一先ずの安心感に胸を撫で下ろし、歓喜にすら酔い痴れている。しかし、無事を祝う彼等の姿は余りに滑稽な痴態でもあった。未だ誰一人、その自身の不様さを顧みる者は居ない……。

 兵士としての気概を喪い、唯一の楽園と充て込んだ避難階と言う名の鋼鉄の檻へ、自ら喜び勇んで踏み入った事……。安全と言う目先の餌に釣られ、脱出不可能なその牢獄へ、責務を放棄し自ら望んで踏み入った事……。

 離脱した彼等が戦線へ復帰を果たす事は、あらゆる意味合いで最早有り得ないのだ―。




             *




 先陣を切るロイトフ一隊の許へ、或る二次報告が受信された。不甲斐無い事に、叉しても後続の隊員達が一個所で拘束を受ける事態が発生した、と言う急報だ……。

大所帯を牽引して来ているものの、標的が占拠している屋上へ到達する際の人数は現状よりも更に減少させられているだろう事をロイトフは予感していた。火災は鎮火させられたものの、又しても隊員達の大勢は巨大エレベーター内で閉じ込められた。件の隊員達は火災からの避難としてエレベーター内へ保護を求めた様子だが、その逃避は安全と引き換えに脱出不可能な檻へ閉じ込められたとも形容出来る。

 緊急下に於ける心理的恐怖からか、彼等は敵の単純な誘導にも容易く乗せられてしまったらしい……。辛うじて本階との通信は可能な様子で、本人達の報告に由れば避難階の内部に何等かの罠迄は仕掛けられていない様だった。

 その報告を受け、ロイトフは胸を撫で下ろす。エスは未だ人心、良識を持ち合わせた力加減を為していると考察出来た。エスがその気になれば、密閉されたシェルター内に殺傷力の高い罠を仕掛ける事も可能だった筈なのだ。容易く姦計に堕ちた隊員達へ対し侮蔑や失意の念も片隅に湧くが、まずは無事を喜ぼうと思い直した。

「ふんっ……。しかし防災設備を遮断し実際に火災迄を起こすとは……」

(巨大な建造物とは言え、エスは最上階に迄火炎が波及しないと高を括っているのだろうか? もしくは、最上階で脱出経路が断たれている事も全て理解し覚悟した上での攻撃なのか……。敵へ退路を残してはいるが、これでは自分自身の首を絞める事にもなり兼ねない捨て身の戦略ではないか……)

 今では非常灯だけが燈る薄闇の通路で、ロイトフは思案気に立ち尽くしていた。エスは自決する以上に、我々と刺し違えようとするだけの決死な覚悟を駆り立てているのだろうか……。

―そんな胸中に捉われた折だった。

 不意に残存していた希少な隊員達迄もが一斉に不穏な台詞を呟き始め、ロイトフを物思いから引き離したのは。

「な、何だ……、物凄い眩暈が……!」

「この耳鳴りは何だ……!」

「も、もう吐いてしまいそうだっ……!!」

 突如として、隊員達全体が口々に体調不良を訴え始めたのだ。

ロイトフはその異状を目の当たりにし、まさか有毒ガス迄をも散布されたのかと危惧した。しかし、ヘッドギアに於ける防塵・防毒機能はまだ有効な筈だった……。何由り、毒性ガスであれば電脳が周囲の空気濃度を測定し、事前に警告音を発している筈なのだ。

 その刹那、ロイトフの眼前迄へも明滅する映像が流れ始め視界全体を覆った。丸で前時代に流行し、その危険性を懸念され検閲対象とされたヴァーチャルドラックビデオの如きその映像は、直ぐ様吐き気を催す様な強烈な不快感を与えて来る。

ロイトフでさえも立ち眩んでしまう中、居合わせた隊員達はその眩惑に耐え切れず、その場で糸の切れた人形の如く昏倒して行った……。ヘッドギアの探知機能を用いなくとも、エスと思わしき第三者の気配は微塵にも感じ取れない。矢張り突如として各人の視界へ流入して来たこのドラッグ映像は、どこかで潜伏しているエスからの間接的な妨害攻撃と解釈するべきなのだろう……!

 肉体へ直接的攻撃を被った訳ではないにも関わらず、余りにも呆気無く一隊が行動不能に陥った……。ロイトフは想定外の急角度な攻撃を受け、灰を嘗める様な屈辱すら全身へ込み上げて来る事を実感し押し黙る……。

(馬鹿な……。この程度の事で我々があっさりと敗北して堪るか……! 我々は世界に冠たる電脳未来都市インダーウェルトセインの中でも精鋭と謳われる法務執行者だぞ……!! エスをこの目で発見する事も叶わず、ここで容易く倒れ臥す事等絶対にあってはならない……!!)

 周囲の隊員達が気息奄々と崩れ落ちて行く中で、ロイトフは独白とも付かない苛立ちを吐き捨てる。

「……この映像の正体は何なのだっ!? 何か対抗策が解る者は居ないのかっ……!?」

―期待を込めた訳では無い、一種自暴自棄な問い掛け……。しかし当て所の無い疑問の投げ掛けは思いの他、同様に現場で苦悶する一介の隊員が挙手し返事の一声を挙げる事で受け止められた。

誰もが不快感に耐え兼ね地面へと這い蹲っていたが、周囲の者達は縋る様な思いで彼へと首を擡げる。

 その注視を受け武器類の知識に長けているらしいこの隊員は、切迫した声調で現在に於ける異状への指摘を為し始めたのだった。

「これは……、おそらく吐き気を催す波長で攻撃する次世代撹乱兵器です! このライトは常時色彩、波長を変化させた光パルスを発射し、標的へと不快感を齎す様に設計されています……! 不快感の発症に個人差はありますが、攻撃効果は見当識障害から眩暈、嘔吐迄へと及ぶものです!」

「成る程……! しかし、何か対処方法は無いのかっ!?」

 ロイトフはその説明を受け慌てて瞑目しながら、打開策を引き出そうと必死に吐き気を抑えつつ意見を仰いだ。この現状で何等かの追い撃ちを掛けられれば、それこそ為す術も無く一網打尽にされてしまい兼ねない。不意に焦燥と恐怖が募り始める。

「光パルスの発射方法ですが、この兵器は距離計を使って標的となる人物の両眼迄の差を測定する必要がある筈です……。もしや小型化や携帯化がされているかもしれませんが、手動にしろ自動にしろ、この周囲のどこかには必ずその発射装置が設置されていなければならない。

 それこそ、大勢を一度で仕留める為に複数台用意されているか、広範囲への攻撃用に特化された物が存在するか……。兎も角通路だけではなく、オフィス内に何者かが潜んでいるかも含めて精査すれば発射源や操作者も特定出来るかと……!!」

 その台詞を受け、前方の通路に何等かの装置が隠匿されているのかと訝った各々が、熱源感知機能等の視界機能を駆使する。

―しかし縋る様な期待を持ち各種視界機能で周辺を透視してもこれと言った異物は発見されず、集音機能で何等かの機械が駆動しているか作動音の解析を働かせたとしても、異状は検出されない……。

 各種機能を並行させ精査したものの、周辺からそれらしき機械物や操作主は捕捉されなかった。距離測定が必要ならば、視界を開放していても全力疾走する事で回避出来ないものだろうか? しかし眩惑に耐え兼ね通路を駆け出した隊員達迄も、将棋倒しの様に列を成して昏倒して行くばかりだった。

 その時ロイトフは瞼の裏の暗闇で、ほんの一瞬見掛けただけである映像の内容を反芻していた。

(距離計や操作者が見当たらない……? パルスから距離間を前後させても全く効果が無い……?)

 ロイトフは瞑目した暗闇の外で叫喚を聴いていた。耐え切れず眩暈を起こし倒れ臥す者、通路の片隅で嘔吐する者達の呻き声を……。

 その時はたと察知した。

(いや、仮にこの撹乱兵器が目を逸らしたり距離間を変化させる事で回避出来る程度の威力だとしても、我々は当然にして常時ヘッドギアを頭部に装着している。

……そうか! 若しや発射装置や距離計、操作者等は現場に存在せず、ヘッドギア内部のディスプレイ自体に光パルスが映写されているのではないかっ!? この肉付きの仮面の庇護が叉も仇と成り代わってしまったのか、ヘッドギア内部のディスプレイ上そのものに妨害映像が侵入されているとすれば防ぎようが無い……)

 ロイトフは思わず一帯へと指示の声を挙げた。

「ここに距離計や敵は居ないっ! 全ての視界機能を切断し、裸眼状態に戻すんだっ!!」

 方々の放送用スピーカーを破壊しながら進行したとしても、自身で装着しているヘッドギアの視覚・音響機能自体を悪用されているとすれば最早処置が無い。周囲一帯の隊員達は自らヘッドギアを取り外し始めたものの一手遅く、全員が次々に倒れ臥して行った……。生命に別状は無いものの、累々と横たわる隊員達の惨状……。

 ほぼ全滅だった。



            *



―僕は最上階で独り篭城し続けていた。最終決戦を目前に控え、身を衝き動かす様な不安と高揚とが入り混じる。落ち着かない面持ちで一人、本来であれば都内の眺望を見晴るかす為に設えられた集団向けのベンチで座していた。

 持参した機器類で塔内の監視カメラ映像を統合させ現場の動向を観賞していたのだが、現在では警察内で主導権を握るロイトフが逐一通路上の監視カメラや音響スピーカーを破壊しこの最上階を目指している様子だった。矢張り一筋縄では行かない相手だ。監視カメラの映像を元に塔内へ設置した妨害工作用機器を要所で発動させて来たのだが、既に遠隔操作での攻撃は呈を為さなくなっている。政府が僕達を巧妙に統治し始めていたヘッドギアに由る主観映像を逆用し行動を常時把握する事で罠を作動させても来たが、その頼みの綱も最早断ち切られた様子だった。

 最もその監視機構が防災システムと連動している事をも逆用し、時限発火装置を各所に設置する事で撹乱作戦は上々の成果を挙げている様でもあるが……。

その矢先、広大なこの展望室でシドからの無線信号が微かな雑音交じりで反響し始めた。

「よう、元気かい?」

 シドは修羅場の只中に居るとは思えない陽気さを湛え、そう挨拶を掛けて来た。不意に自分の口許も綻び、硬直し過ぎた心身が適度に緩むのを感じた。

「……ああ。そちらの首尾はどうだい?」

 立て板に水と言った調子でシドは捲し立てる。

「展望室から夜景が見渡せるだろうが、この都市一帯が既に暴動のお祭りで大賑わいだぜ! デジタルマスカレードをも超える例年以上の集客力と熱気でな!! 警察は各所で発生している暴動を鎮圧する為に精一杯で、この騒乱は朝方迄収拾する気配を見せないだろう。そう、あんたが世界を揺り動かし、変革させ始めているんだ……!」

 その刹那、重層設計の窓ガラスをも貫く様な轟音が鼓膜を劈いた。

 咄嗟に両手で耳朶を覆う様に振り返ると、闇夜を突き刺す様な人工的な複数の光がこちらへ焦点を充てて来ている最中だった。そして、裸眼では正視し切れない程の光量に思わず目を顰める。細まる視界でも、その轟音と眩光を放つ物の正体は瞬時に把握出来た。

 高空を飛翔する軍用と思わしきヘリの一群が、幾何学的な程に整然な隊列を為してこちらの高層ビル最上部を目掛け接近して来ていたのだ。

 僕はその軍用ヘリの巨体から来る威容に圧倒されつつも、轟音に掻き消されまいと無線通信へ大声を張り上げる。

「シド、多分警察のヘリがこちらへ向かって来る……! 偵察なんて生易しいもんじゃあない、明らかに重火器で武装しこの最上階を爆撃するつもりなんだっ……!」

「武装ヘリだと!?」

 驚愕の一声を挙げた後、暫しの沈思が無音となって無線通信を流れ、訥々とシドはその見解を紡ぎ始めた。それはヘリの駆動音に掻き消され掛ける為、僕は自然と無線機器へと近付き耳を欹てる。

「警察も基本的にはあんたを生け捕る事が理想だったんだろうが、最終手段としては矢張り現場での殺害も視野に入れていたんだろうな……。対人戦闘での捕獲や射殺が難しいと判断すれば、最終手段としてゲートタワー内部の損害も覚悟して大掛かりな爆破、爆撃をも強行する気構えなんだ……! テロへの鎮圧、防衛行動となれば正当性は持てるからな……」

 僕は敢えて退路を断ち、背水の陣でこの革命に全てを賭けている……。今更自分自身の生命に保身を望む様な惰弱さは欠片も持ち合わせてはいない。しかし、この世界を一角でも変革せしめた、と納得出来るだけの確たる証を得る前に挫折する事だけは御免だった。

 志し半ばで散って堪るか……! 肝心な問題とは、一般市民を扇動し体制側への打撃を与えられたとしても、その暴動が一過性の破壊で終始してしまうのか否かだ。

この闘争が次代への橋頭堡に成り得るか如何かを、僕は見届け責任をも背負わなければならない。この抵抗運動を民衆に取っての一時的なガス抜きで済まさず、建設的な創生へと向かえる様に……。人々が隷属的な歯車の一部品と堕さず、真の意味で生きる世界を実現させる様に……!

 僕はその理念の為だけに全てを擲ち、捧げて来た。今こそがその理想を成就させる為に肝要な最終段階なのだ……。

進退窮まり、苛烈な程の焦燥感に内奥を灼かれ始める。生身の人間同士で対峙し戦闘の上で敗北を喫するならば未だしも、人工的な機械の圧倒的武力を前に呆気無く駆逐される……。そんな終幕だけは絶対に認めたくないのだ……!!

……そうして思い詰める中、僕を現実の注意へ引き戻すかの様に、シドの決然とした声音が雑音交じりで響き始めた。

「エスよ……。今からその無人ヘリの……、少なくとも半数の駆動は俺がハックして制御を行ってみようと思う……! 検索を掛けた所、ヘリは軍部の許可を受け正規のID番号を発信した機体のみが電波の干渉を受けず上空を飛行出来るらしい。

 不慣れな操作なんでどこ迄対抗出来るかは解らないが、潰し合わせて戦力を減退させる所迄は何とか持ち込んでみる! 室内の奥まった場所へ避難しておいてくれ!!」

―そうだった、盟友よ。諜報戦、知略戦は最早彼が専任してくれている様なものだ。対人戦闘での決着を目前に出現した最大最後の支障……。軍事ヘリを排除する事が可能とすれば、今や彼の手腕以外頼みの綱はあるまい……。



             *



 ヘリ上部で高速回転する羽根が轟音を立て、数台が空中上を牽制し合おうとする様に行き交う……! 本来軍用機で在る筈の一群が二組に別たれたかの様に対峙し合い、攻撃へ移る為の間隙を相互に窺っているのだ。ヘリ数台の内、シドの宣言通り半数程度は彼が制御の掌中を収めた様子だった。それは恰も、機械的な形態を持つ昆虫同士のヒステリックな喧嘩の様相を想起させられる。

 そして遂に旋回し続けていた複数の無人ヘリが制御を失い、お互いが向かい合うかの様に派手に衝突した……! 爆音の果て、火花を散らしながら星屑の様に地上へ墜落して行く機体達……!

その光景を茫然と眺める僕を横目に、残った一台は重火器から再三の銃撃を繰り出す。堪らず僕は窓ガラスから飛び退き、防備する為に内部へと転がり込んだ。相当な防弾ガラスで施された窓も敢無く銃弾の雨が貫通し叩き割られ、外壁及び内装迄が蜂の巣の如き惨状を呈し始める……!

「シド!!」

 僕は、無線通信機器へと思わず縋り付くような叫びを挙げてしまう。

「待っていろ! この最後の機体を完全に支配し切れなくとも、干渉して何とかぶっ壊すっ!!」

 シドも追い詰められた様子で、精一杯の返答を雄叫びの様に挙げた刹那、ぶっつりと通話音声は途切れた。息を呑んで窓外を見守ると、確かに最後の一機が不安定な挙動を見せ方向を見失った翅類の様に羽根をはためかせている。シドと軍部の人間がヘリ操作の実権を握ろうと凄絶な知略戦を繰り広げている事の証左だった。

止まり木を求め当て所無く彷徨う一匹の昆虫の様に、暫くの間中空を身動ぎする如く漂う最後の一機……。

 先程迄残存していた機体群は高空で衝突させた事に由り粉微塵に大破して行ったが、最後の一機がこのまま機体を残し落下すれば地上へは更なる被害が拡大するだろう。しかし最早手を出す事が叶わず静観するしか無い現状、僕はシドが難敵を出し抜く事に期待を寄せる以外には無い……!

 ふっと巨大な艦影が窓外を嘗める様に横切る。ビルの間際を掠める様に飛行している事で、ヘリから伝達される雷の如き轟音、嵐の様な強風は建物全体から自分自身迄へも劈く様な圧力を伴って、地鳴りの様に響いて来た……! 足元から腹の底に迄貫いた震動。本来それは、極く一瞬の時間経過に過ぎなかった……。が、本能的に危険を察知し、僕は慄然とした想いに駆られ肌が粟立つ事を感じた。

 一筋の光明も射さない暗鬱な深海で、巨大且つ獰猛な生物が間近へ接近して来た様な……。超高層ビルの最上部に位置しながら、そんな生理感覚へと訴え掛ける様な畏怖を憶えたのだ。

不規則に旋回するヘリの挙動は丸でスポットライトの様に明滅し続け、僕はその眩い光跡に視界のやり場を喪い思わず片腕を庇に代える。

 更にその様子を見遣り、瞬間的に僕は察知した。シドはヘリの完全な支配制御が不可能と悟り、苦肉の策として敢えてビル部分の一角へ機体ごと叩き付け破壊させてしまう腹積もりなのだ! たった一機でも戦闘状態へ介入された場合、重火器も用意したとは言えこちらが圧倒的不利に陥る事は明白だ。遠方で機器類を操作するシドは、僕の為にもこの軍事ヘリだけは再起不能へ持ち込みたいと必死で知略戦を展開させているに違いない。

……息を呑んで動静を見守っていると、実権を掌握し切れた訳では無いのか、もしくは軍事ヘリの機能自体が延々と続く異常事態に限界を来したのか、機体が急角度で落下し始める。

刹那、展望室から見遣る視界からすら機体全体が消失し、次の瞬間には硬質な窓ガラスや壁面が粉々に破砕される大音響が鼓膜を劈いた。

 鋭角的な態勢で機体は背面部から高層ビルの外壁へ叩き付けられたのだろう。そう想像する瞬間には天井と足元、上下両面から大地震の如き震動に包まれた。

思わず窓際に駆け寄り外界を食い入る様に見詰めると、軍事ヘリの上体はビルの外面を跡形も無く破損させる様に捻じ込まれている……。反面、機体の下部は生気を喪った昆虫類の尻尾の様に、だらしなく中空へはみ出していた……。呆気に取られる様な衝撃に立ち尽くしていると、惚けている自分を追い立てる様に塔の内外から火の海が立ち昇り始めた事を察知し、僕は思わず後退る。

―シドは最大限の尽力を果たしてくれた。

 だが爆破の中で重火器や攻撃用に改造した機器達も業火に見舞われ、素手で回収する事は最早不可能だ。最低限の護身用具だけでも装備したいかと思ったが、素人が使い慣れない武器を使用し逆に敵から強奪された場合は不利に陥る為、敢えて単身捨て身で在れとシドから厳命されていた。

 唯一の例外、懐に秘匿させた奥の手以外は、だが……。


……程無くして、煤けた室内の門前に人影が立ち現れた。濛々たる煙霧の中で明確に浮かび上がらなかったその曖昧な人影は、徐々にその輪郭を帯び人間としての実在感を呈し始める。

何処か風格を湛え無言で仁王立ちする男は、積年の仇敵をやっと探り当てたかの様な、憤怒を滾らせた面持ちで僕を見据えていた……。

―僕は敵意を剥き出しにして来る相手へ、戦場と化したこの展望室とも丸でそぐわない芝居掛かった快活な調子を見せ付け丁重に出迎えの挨拶を告げる。

「……待ち焦がれたよ……。ようこそ、仮面舞踏会最終夜へ!!」



           *



「貴様がエスか……!」

 怒気を孕ませた声で僕を凝視する男は、傲然とその一歩一歩を踏み締めこちらへとにじり寄る。

「貴様は一体何を仕出かしたのか、事の重大さを理解しているのかっ……!?

 貴様は思春期に掛かった麻疹の様な世迷い言で、永久不変に進行する社会の歯車を、完全無比たる循環を乱したのだっ……!! この世界の秩序を破壊した大罪は死を以ってしても償い切れるものでは無いっ……!! よもや、今更逃げ延びられる等と思ってはいないだろうな?

 貴様は有無を言わさず死刑台と言う舞台上へ送ってやるさ……。

電気椅子へと座り、電流を流し込む為のヘッドギアと言う仮面を着け、末期の舞踏を踊り狂って死ね……!」

 男は僕を世界中で最も醜悪且つ最も害悪な汚毒、とでも言う様に瞋恚を込めそう吐き捨てた。僕はその怨嗟に満ちた呪詛の如き台詞と直情的な視線を物ともせず、戯け口を利いて切り返す。

「初対面の挨拶にしては品格に欠けるものだな、カーマ警察庁長官、ロイトフよ……。今更その程度の脅迫で僕が怖気付くとでも思うのか? 自分の生命ならば、この短期間の中でも何度も賭け、修羅場を潜り抜けてきたさ……。

 虚飾に満ちた舞踏会で仮初めの平穏に安堵し続けるなんて、滑稽劇の極みだよ。僕は装わない、予定調和の演劇等に加わらない。与えられた役割等に満足せず、無色から有色へ変わる……!!」

 僕の反駁を前にロイトフは暫し無言を湛え、不快そうな様相を露わにして僕を見据え続けた。そして彼は閉ざしていた口を訥々と開き始める……。微かに聴き取れるその声音は丸で囁く様でいて、しかし地を這う様な威圧を伴う声音だった。

「吼えたな……。その信念が口先だけで終わらない事を見せてくれるんだろうな? 例え今から拷問じみた責め苦を受けようと、な……」

 ロイトフは両拳を胸元に掲げ半身になった。途端に、ふっ、と周辺の空気が重厚な静謐さに満ち、冷徹さをも孕み始め一変したかの様な感覚を覚える。

 その刹那だった。

 僕の視界がロイトフの半身で覆われ、固められた拳が唸る様にこちらへと繰り出されて来る事に気付いたのは。



 ロイトフは姿勢を崩さぬ侭滑り込む様に一瞬で間合いを詰め、手始めとなる攻撃を仕掛けて来たのだ。相手が遠距離に位置していると言う油断もあり、僕は彼の俊敏な接近に対して丸で反応を示す事が出来無かった。連撃を喰らう中、初めて脳裏で状況を理解し始めている程に……。

 先程ロイトフへ反論した様に僕自身も何度か窮地を経験して来たが、もっと実際的な、肉体的な素手の暴力を受けたのはこれが人生の中でも初の体験と言えるかもしれない……。明らかに格闘技経験者と思わしき者からの苛烈な打撃を顔面に喰らい、頬や口内に灼熱の如き痛みが走る。その時点で一遍に意識が吹き飛ばされそうだったが、ここで立ち堪えなければ呆気無く全てを終結させられてしまう……! 奴はこれ迄の鬱積を晴らそうと、敢えて武器の類を持ち出さず素手で僕を嬲ろうと言う心積もりに違いない。

 これは諜報や機械技術を用いない生身の人間同士に由る最終決戦、正真正銘の肉弾戦なのだ……! 足元が震え出す程の恐怖心……。だが……。

 実力差は歴然としているが機械的な社会へ反旗を翻した僕に取って、現状の様に肉体的で原始的な決着方法は寧ろ何処か好ましさも感じられていた。現代では喧嘩は愚か、体罰すら非人道的で野蛮な悪習と見做される。家庭や学校教育で実際に肉体的苦痛を味わった者すら皆無なのだ……。僕が渇望していた、身を震わす様な、十全な感覚に包まれる様な恍惚、真の感情、真のコミュニケーション……。それはこんな、野生の闘争本能や激情を剥き出にした生身の人間同士による無言の衝突の内にこそ在るのかもしれない……。苛烈な打撃を喰らい窮地に追い込まれながらも、何故か僕は心の何処かでそんな歓喜を歌い始めているらしかった。


 相手へ正対する事も叶わず、僕は踏鞴を踏みながら必死で前方へ両拳を振り回す。しかし不安定な姿勢から相手を見据える事も出来ず繰り出しただけの稚拙な攻撃が、百戦錬磨と思わしきロイトフへ当たる筈も無い。彼はあくまでも冷静沈着に、一連の攻撃を上半身を巧みに翻す事のみで回避し続ける。態勢を立て直そうと奮起し闇雲に突っ込んでも行くが、僕の必死な抵抗も敢無く空を切るばかり……。寧ろ放った攻撃の箇所から間隙を突かれ、的確な追撃を何度と無く浴びる始末だった。

 そして短時間の内に、僕は力及ばず襤褸雑巾の様に砕けた地面へ叩き伏せられた。


 ……。


 叉も遠退く意識……。

 そして沈殿し行く意識下で、シドから事前に指導を受けた記憶が、脳裏の劇場で断片的に映写され始める。それは古惚けたフィルムの様に、曖昧に途切れ途切れに……。

 蜘蛛の巣が張り閑散としたその記憶と言う名の劇場で、近く遠く反響する声……。


(……良いか? 小競り合いの様な喧嘩すら体験した事も無い一般人が、逮捕術としての戦闘訓練を受けた現職の警官と殴り合って勝てる筈も無い……。この短期間で体力や体格を向上させる事も、ましてや格闘技の心得を持つ事等も不可能だ。ここで特に留意して欲しいのは、素人が相手からの打撃を受ける際、必ずと言って良い程反射的に陥ってしまう状況にある……。

 素人ってのは大抵、攻撃を一度でも喰らいそうになると態勢を屈め頭部を覆ってしまうんだ……。それは人間として自然な防衛反応の結果だが、実戦では寧ろ更に無防備な姿を晒してしまう事になり、

敵へ向かってどうぞ好きな様に料理して下さいと歓迎している様なものなのさ。半身になった姿勢を保ち人体の急所を保護する、これが戦闘に於ける基本中の基本で在り鉄則だ。兎に角打撃を喰らっても身を竦めない、硬直せず隙を与えないと言う事だけは絶対に忘れるな。

 そしてもう一つ、これこそ難しいんだが、相手から掴まらない様に一定の距離を計る事だ。打撃以上に厄介なんだが、投げ技や関節を極められたら最後、素人では絶対にそれ等の技術から脱出は出来ない。

……もしも締め技を掛けられ抵抗に限界を感じた時は、最終手段として『あれ』を使え……。俺自身は使って欲しくないが、誇りの為なら止むを得ない、とあんたも考えているんだろう? それに関しては、今更あんたに覚悟を確認する事も無いだろうし、な……)



 ……。


 閉じ掛けた瞼の裏側からでも、ロイトフが勝ち誇った様相で倒れ臥す僕を見下ろしている事は感じ取れた。息も絶え絶えな僕を小石の様に爪先で蹴り上げると、彼は矢張り忌々し気な調子でこう吐き捨てた。

「……貴様だけは簡単には殺さん。私自身の憎悪もこの程度では晴れはしないし、何よりも貴様が不様に逮捕され、裁判から処刑に至る様子迄を世間へと大々的に公開せねばならんのでな。そうでもしなければ、最早この社会情勢は収束を迎えられまい……。

 そう、易々と逃げる様に死ねると思うなよ……。貴様はこの世界の秩序を乱した大罪を購う為に苦しみ抜いて死ねっ……!

 予定されなかった仮面舞踏会への来訪者よ……!! 貴様と言う闖入者を排除して、舞踏会は永遠不変たる平安を取り戻すのだっ……!!」

 ロイトフは心底からの怨嗟を込めて、半死半生の僕を躊躇い無く踏み付けた。途端に胸部や腹部に苛烈な痛苦が電撃の様に走り、圧迫される事で僕の呼気は更に千々と乱される。彼は見付け出した機械の不良品部分を憎々し気に破壊しようとする如く、思う様僕を踏み躙り続けた。容赦の無い責め苦が際限無く続き僕が苦痛に喘ぐ姿を見せる程、寧ろロイトフは愉悦が増すかの様により一層執拗に蹂躙の力を込める。

……僕は非常な悔恨の念を抱き始めていた。

 と言っても、それはこの絶望的な窮地や暴力に由る苦痛、屈辱を感じての意味合いでは無い。政府へ蜂起し暴動の扇動者と成り得た事も、今こうして勝算の無い肉弾戦へ身を投じ被虐され続けている真っ只中だとしても、後悔等は微塵も感じてはいない……!

 僕は只一つ、身動きの取れない状態へ至る前に即断即決しなかった一点のみを反省しているのだ。生き残り勝利を獲得し、その後に於ける社会の趨勢迄へも介入し見守りたいと言う展望が、寧ろ若干の保身に走らせる裏目へと出た。未来への意志が弊害を齎している位なら、直ぐにでも決行するべきだったのだ。

 本来、当初から覚悟は揺るがずに定まっているのだから……。 

―そして飽きる事無く延々と僕を苛み続けるロイトフだが、僕がその痛苦由りも何事かの思索に耽り、眼光は死んでいない事を察知した様子だった。

「貴様、未だ何か抵抗する意志が在ると言うのかっ!?」

 睥睨し勝ち誇っていたロイトフは、未だ観念せず戦意を宿している僕の眼光に気付き一瞬のたじろぎを見せる。そして、奴は僕を踏み躙り続けていた足裏で或る違和を感じ取った様子だった。服の上からも微かに隆起を見せる、僕の腹部にある膨らみ……。

「……貴様、まさかっ!!」

 そう驚愕の声を挙げるが早いかロイトフは一瞬飛び退きつつ、倒れ臥す僕の上着を剥ぎ取ろうと膝を突く様に迫って来た。簡単には奪取されない様にと、僕は駄々を捏ねる子供の様に稚拙ながらも必死の防御を続ける。しかし消耗した体力や態勢の不利からか、抵抗も虚しく直ぐに僕が秘匿していた切り札は剥ぎ取られた。

……そう、僕の後悔の一点とは、この切り札を適切な瞬間に用いられなかった事、只その一点のみなのだ……。

 ロイトフは自身の予想が的中するもその内容に動揺を隠し切れていなかった。しかし逡巡に捉われ続ける暇は無く、ロイトフはそれを掌中に収めると投擲する為に遠方を探し四方へ首を巡らせた。

広大な展望室は本来全面が防護ガラスで覆われている。しかしこの現状に於ける最適な目標は、先程のヘリ戦で砕け散り外界の空気も激しく流入する窓ガラス一面だろう……。

―彼が必死の形相で放擲したそれは、僕が最終手段として腹部に巻き付けていた自爆用のスイッチ式爆発物だった。



             *



 先程のヘリの衝突と同等かそれ以上とも言える爆風が劈き、大震災の只中に包まれたかの様な震動から僕達は敢無く転倒させられた。

 灰色の濛々たる煙霧は展望室全体に立ち込め、何かを燻したかの様な強烈な焦げ臭さは鼻腔から直接脳裏迄も突き刺して来るかの様だ。先鋭的な室内は以前迄の内装が想像出来ない程見るも無残に破壊され、調度品の類は跡形も残っていない。以前地下水路で機動隊に追い詰められ独力では為す術が無かった体験を教訓とし、進退窮まった際の最終手段を自分自身で選択していたものなのだが……。

……そう、勝算が無ければ、周囲の人間全員を道連れにしてでも自爆する心積もりは既に付けていたのだ……。

 時機を見誤ったか……。当初から爆薬をちらつかせれば、仮に多勢で囲まれた窮地だったとしてもこちらが優勢に立つ事は出来た筈だ。素手では最初からロイトフに叶う筈も無かったが、その冷厳な事実を前にも独力で立ち向かってみたいと言う一種の挑戦心に抗う事が出来なかった……。

 横目で見遣ると、爆発の直撃は避けられたものの衝撃の余波で吹き飛ばされたロイトフが瓦礫の只中で横たわっている。

 彼は完全に意識を喪失した訳では無い様子だが、体力を回復し立ち直る迄に一定の時間を要するだろう事は察知出来た。そう情勢を見取った瞬間、はたと或る閃きが天啓の如く射す。

―僕自身も半死半生の状態だが、今こそが勝利を獲得する好機なのかも知れない……!

 当初は政府の軍勢へ対峙する姿勢を大々的に見せ付ける事で、一般市民を扇動する事が第一義の目的だった。しかしそれ以上に現在こうして衰弱している警察庁長官ロイトフを人質として確保したとすれば……! 世間への扇動だけではない、政府に対等以上な駆け引きさえ持ち込めるかも知れないのだ……!! 全てが目論み通りでは無く想像以上の痛手も負ったが、代償を払っただけの対価は得られるかも知れなかった。

 そして、丁度同様にロイトフもそんな後手に廻る展開を想像し危惧したのだろう。瓦礫の山から段々と這い上がろうとしつつも、寧ろ僕からは一定の距離を置こうとする様に初めて後退する姿勢を見せた。彼がこの場から逃走する事は有り得ないが、体力を回復し体勢を立て直そうとしている事は一目瞭然だ。

時間稼ぎを計らせまいと、反射的に僕は距離を縮めようと前方へ這い出る。ロイトフは僕の緩慢な匍匐前進にも警戒心を露わにし、先程迄の気品や威厳を金繰り捨て必死の撤退を見せ始めた。

 静寂が戻りつつある空間で羽根を喪った昆虫の様に身じろぐ二人の荒い気息だけが、只淡々と反響し続ける……。それは両者共に余りにも鈍足で、何処かでは滑稽ささえも漂わせる追走劇だった。

……そして牛歩の追いかけっこをする内に、爆風の余波を喰らったロイトフは想像以上に消耗していたと言う事実が感じ取れる。

 徐々にだが、僕はロイトフへ距離を縮めている確実な手応えを得られていた。僕が段々と詰め寄る事で、ロイトフが焦燥を募らせ更なる逃避を計ろうとしている事は物言わずとも背中で語られている。


 出来る……、あのロイトフを後一歩で追い詰められる……!!

 僕は思わぬ僥倖から来る勝利を目前に、湧き上がる笑みを抑えられなかった。

……しかし。その時だった。

 相互が虫の息で地面を蠢く中、僕はロイトフ以外の第三者の人影を垣間見た気がし、不意に頭を擡げた……。

意識は朦朧としているが決して錯覚では無い。益々困惑は募る。数々の工作で足留めさせて置いた後続の兵士達が駆け付けて来たのだろうか? 脳裏で自然な推論が巡ったが、微かに視界の片隅を掠めたその人影は、一連の戦闘から廃墟と化してしまったこの場内とは丸でそぐわない。

 煤けた戦場からは浮かび上がってしまう様な小奇麗な衣服、武骨な兵士の体格とは対照的な程に柔和さを帯びた輪郭……。

その人影が女性で在る事は明白だった。

「私よ、私が解る? 貴方……。ねえ……、何故こんな過ちを犯してしまったの……?」

 遥か天空からこの舞踏を無言で観賞し続けていた満月が、僕へと誰何する声の主を足元から仄々と差し染める……。月下で照り映え出す彼女は、この骨肉相食む闘争劇とは全く場違いな程に華奢な肢体だった。機動隊の一員とも思えない彼女の細身とその洗練された衣装は、見遣る中で僕の驚愕を更に加速させる。

 眼前の彼女は、まさか、僕の恋人、……!?




             *




 若しや政府が僕を懐柔しようと、説得役として彼女を抜擢し同行させていたと言うのか……。思考停止する僕の脳内へ、直接語り掛けるかの様に母性的な声音が反響して来る……。

「逢いたかったわ、貴方……! 私は貴方がこんな風に犯罪へ走る程、独りで思い悩んでいた事を何も知らず気付きもしなかった……。

一番身近に居た筈の私が……。そう、御免なさいと、それだけは言いたくて……」

 普段は理知的な彼女だが、暴力が渦巻く現場に直面している為か冷静に徹し切れていない様子だった。俯きながら振り絞る様に吐露される台詞は所々でぎこちなく痞え、末尾迄は聴き取れないかの様に幾度と無く言い淀む。

「ねえ、今ならまだ間に合うわ……。警察の人も、ここで自首するならまだ温情を掛けてあげられる余地はあるとも仰っていたの……。

……投降しましょう、大人しく。

 貴方はここ迄良くやったわ。只、気持ちを訴える方法が間違っていただけ……。

 貴方の声はもう充分人々の許へと届いたのだから……。もう、ここでゆっくり休みましょう……、ねえ……」

 その優美な声音はさながら深遠な眠りの糸口へ導く子守唄の様で……、休息と言う既に放擲した筈の甘美な誘惑で僕をあやし宥め付けようと語り掛けて来る……。

殴打された痛苦や心身の消耗、そして彼女から発せられる眩惑の催眠に由って、意識は段々と遠退いて行ってしまう……。

(……僕、僕は果たして目的を成し遂げたのだろうか……? 社会を紛擾させたとしても、この暴動が収束した後にはどれだけの人々が僕の理念に共感してくれるのだろうか?

 社会に変革を齎す事は出来たのか? 街中で振り向かれたとしても次の瞬間には向き直られ、何事も無かったかの様に誰もが思い思いに散って行く様な……、そんな個人の一過性な叫びで終わっては丸で意味が無い……、意味が無い筈なんだ……)

 双眸の瞼は、鈍重な緞帳が終幕を伝える様に気怠く降りて行く……。もう、ここで満足してしまっても良いのか……?

 ああ、もう単純な言葉さえ思い浮かばず、何も考えられない、考えたくない……。


………………。


…………。


……。



……しかし、緩やかに閉じ掛け霞んだ視界の中で、僕は或る些細な違和感を覚えた。途絶えそうな意識は最後の一糸を以って繋がれ、限界寸前の領域で辛うじて保たれる。

 彼女の白魚の様に繊細な左手の薬指には、僕が犯行を起こす以前に贈った交際一周年記念の指輪が律儀にも嵌められていた。女性へ更なる魅惑を与え彩ろうと、虹を想起させる様に七色の光沢を輝かせるその装飾……。

……実はその指輪の材質として使用されている天然鉱石には、見栄えだけでは無い特殊な機能性が秘められていた。僕は美的造形と言った外観的な理由だけでは無く、或る内意も込めてこの指輪を彼女へと贈っていたのだった。

……たった今、彼女の薬指に宿る宝石の色味は淹れ立ての紅茶の様に濃厚な紅褐色を放っている。

―僕がボタンを掛け違えたかの様な違和感を覚えた理由は、その一点に在った。

この現状で、『何故指輪の材質が茶色を主体に色付き始めているのか?』。当然、指輪の仕掛けに関して無知な彼女はその些細な変化へ気取られる事が無い。ヘッドギア内の電網上でも詳細に調べ上げなければ知り得ない専門的知識で在る為に、何の疑念も持たず自身の指へ装着させているだけなのだろう。

 僕に取っては、その些細な変化の一点のみでも目を醒ますには充分な理由だった。靄掛かった暗雲の様な疑念は、一瞬にして圧縮され強固な確信へと変わる。

『……彼女は、僕の恋人では無い!』

 容貌は瓜二つだが全くの別人だ!! この女は政府が僕を撹乱する為に用意した偽者に違いない。僕が予想以上の抵抗を見せて処理し切れなかった際、捕獲の為に彼女を出現させれば動揺を誘う事が出来る。あわよくば、巧言を弄し懐柔すら可能かも知れない……。そんな二重三重の計算を張り巡らせた上での投入なのだろう。

 危うく篭絡させられる寸前だった事に恐怖心と憎悪が掻き立てられ、僕は憤った猛犬が牙を剥くかの様に堪らず吼え立てた。

「貴様は、誰だっ……!!」

 途切れ掛けた意識の中で振り絞った台詞に、彼女本人ばかりか横手で片膝を突くロイトフにすら動揺が走った様に見受けられた。

「誰って、何を言ってるの。私よ……、わたし……」

―最早返答を聴く迄も無く、僕は眼前の女性へと向かい突進を掛けていた。今更この極限下に於ける修羅場でフェミニズムも何も在るまい、僕は躊躇せず右肩へ全体重を掛け、彼女を後方の剥き出されたコンクリート壁へと叩き付けた。

 生理的に不快感を催させる様な、『ゴッ』!、と言う鈍重な衝突音が瞬間的に反響して途絶える。

 ……そして替玉の女性は、呻き声も無く気絶し重厚な壁を緩やかに伝い落ちて行った……。

奄々たる呼吸が収まるのを待ちつつ、僕は彼女の頭部から、外れ掛けたヘッドギアへ無遠慮に手を掛ける。嘗ての恋人だった女性の素顔は、僕自身も勿論見知ったものでは無い。しかしヘッドギア内部を操作すれば簡単に表示される個人情報からして、矢張り彼女は僕を撹乱させる為に用意された全くの偽者で在る事は明白だった。

 息も絶え絶えながら徐々に自力で床から這い上がるロイトフは、おどける様な調子で賛辞の声を挙げた。

「よく見破ったものだな……。衣服や装飾品は貴様の恋人本人から拝借し、身長や体型、雰囲気迄も貴様の恋人と酷似した女性警官を起用したんだが……。その上に声紋変換機器を通す事で、本人と全く同様の発声、発音迄も再現していた筈なんだがね……」

「仮面を外してからと言うもの、五感が効く様になってね」

 僕は機知を利かせた返答を為し、悪戯っぽく微笑んだ。

 最終的には自身の直感を信じたのだが、僕がまず彼女を偽者ではないかと言う疑惑を持った根拠は、その嵌められていた指輪の特質に在った。

「彼女へ贈った指輪の名称は『ブラックシリカ・リング』……、別名『トゥルー・リング/フィー・リング』とも言ってね。只単に七色に輝き美しいと言うだけの装飾品じゃない。

 その鉱石の中に含有されている液状化水晶は装着者の体温や汗腺から発せられる微細なエネルギーを感知し、その感情の起伏に由って主体となる色味を変化させると言う自然的特性を持っているんだ。この指輪は高齢者が体調管理の為に購入したり、精神科では心理鑑定として実験的に使用されると言った特殊な事例も在る。

 そして『ブラックシリカ・リング』が茶色へと変化した場合、その色彩は『不安』、『緊張』、『嘘』と言った疑心の体系を象徴しているのさ。

 彼女も僕を必死に騙そうとする事で内心では相当焦りが生じたんだろう、薬指の指輪は一際濃厚に茶褐色を示していたよ……。

 上手く僕の元恋人に似た偽者を用意したんだろうが、指輪に込められた僕の意図迄は気付かなかった様だな。ヘッドギアの名称・詳細表示機能でも『ブラックシリカ』に於ける情報は工業生産品、と言った外面的な知識しか表示されないだろうしね。

―そう、つまりこれは僕が仕込んだ天然の嘘発見器だったと言う訳さ……。残念だったね、ロイトフ……!」

 ロイトフが平静を装い切れず、出し抜かれた事への不愉快さを全身から漂わせている事がこちら迄伝わり来る。

 しかし全く以って謀られる寸前だった、まさか偽者迄も作戦に投入して来るとは……。

 仮に僕がこの女性が本物かどうか疑念を感じ何等かの質問を重ねた所で、会話の内容そのものだけでは真実を見極める事は困難だったろう。

 姓名、誕生日、血液型、住所等、外面的な基本情報等全て把握している事は当然として、更なる私事から来る個人情報さえヘッドギアの電脳に全ては保存されている。もし僕から当事者にしか知り得ない筈の記憶や体験から多角的に質問したとしても、この政府の手先は電網上の検索エンジンから該当する情報を抽出し、恰も全てを見知っている張本人かの様に的確な返答を為していた事だろう。

―しかし目論みは看破した。

 予てから自身の内奥で付き纏っていた懸念……。別人を装える事も可能なのでは、個人を記号化させてしまうのでは、と言うヘッドギアへの疑念が正にここで実現した事を悟り、恐怖感が具体性を帯びて段々と背筋から四肢へと伝わり行く。と同時に、自分自身の社会へ対する疑念や主張の正当性……、何由り自分自身の価値観に於ける過去の行為も基にして敵の正体を看破出来た事に、僕は後押しの様な確信も得始めていた。

 矢張り、僕は間違っていなかった……。

 例えばヘッドギア機能が更なる発展を遂げれば、他者との対話すら全自動的に図られる時代が到来するかもしれない……。そんな風に、僕は未来に於ける社会的コミュニケーションへも相当の危惧を抱いていた。

 誰もがヘッドギアに覆われ表情一つ読み取れない以上、他者の心情を推し量ろうとすればどうなるか。結局は会話の内容そのものや、本人の声音から感情の機微を感じ取ると言った感受性的な解釈に委ねる他は方法が在るまい。

 しかし今回の様に声紋変換機器を利用した上で、もしも先鋭的な人工知能技術が実装され流暢な発声、対話迄が機械的に、他律的に為されるとしたらどうだろうか?

 例えば或る話題が上った瞬間、即座に電脳内の人工意識が認知し内容を判定、電網上に於ける情報の大海から関連する知識を走査し抽出させ、適切な返答の台詞迄も自動生成し、今後に及ぶ会話の方向性迄をも決定付けて行く……。尚且つ人工知能へ搭載された擬似感情表現システムに由って、本人の口頭にすら頼らず自動的にヘッドギアが喋り続けるとすれば……?

 日常会話すら自意識に拠らず、人工的に形成された模範人格が代理人として取って代わる……。精妙な人工知能技術を高度なコミュニケーションツールとして機能させ、今迄の社会生活以上に益々主観を奪われて行く民衆。そんな保身に満ちた処世術が社会的に実現される事迄も想像し、僕は独り畏怖を抱いていた。

 そんな強迫観念に囚われていた僕は常時相手の本音こそを感じ取りたいが為に、最愛である筈の恋人へ敢えて意図的に『ブラックシリカ・リング』をプレゼント用に選択したのだ。

 内面の起伏を示す指輪を彼女へと贈る事で実直な反応を観察したいと言う、一種では邪な実験的願望だったかもしれないが……。ともあれ、矢張り政府の実効力は僕個人の妄想や疑念の範疇で終始せず、現実化可能な前段階迄至っていたのだ。

 僕は、僕は矢張り何も間違っていなかった……!

 無常の喜びを噛み締め、暫し恍惚に包まれていたい心境すら込み上げて来る……。……但し、無論の事ながら僕自身の劣勢は完全に覆された訳では無い。僕は気を引き締め直し実直な目でロイトフを見据え直した。

闖入者を排除する事は出来たものの、手練たるロイトフとの対峙は今からこそが本題と言える。用意した替玉も土壇場では通用せず、都市の象徴とも言えるゲートタワーは一連の抗争に由る被害で壊滅的な惨状を呈しているのだ。思い描いていた一方的な私的制裁や逮捕の構図すら描き換えられ、彼の憤怒は最高潮へ達しているに違いない……。


―そんな考察が巡る矢先ロイトフは間髪入れず、殆ど自我を喪失した猛獣かの様に憤然と僕目掛けて襲い掛かって来た。先程の洗練された駿足の駆り方とは対照的な野性的獰猛さを前に、僕の身は竦み上がって仕舞う。

……そして、痛烈な打撃を受け、眼前の視界が白い闇に包まれる。数瞬の間コマ送りになった様な視界の中、意識が前後不覚へと陥る。

 自分は何者なのか、ここは何処なのか、何をして居るのか……。殴打された衝撃や熱味を帯びた痛みが迸る前に、途切れ掛けた精神の侭地面へと倒れ臥す。

 息も絶え絶えに成りながら天井を仰ぎ見る。揺らぐ視界。

 もう、ここ迄なのか……!? 立ち上がる余力を奪われ遠退く意識の中、観念しない迄も自分の意志や反抗が挫かれた事に言い知れぬ敗北感と挫折が脳裏に漂った。

 全ては無駄な悪足掻きだったと言うのか、無意味だったと言うのか、今度こそもう終焉なのか……?

 打ち砕かれ放心状態の侭で倒れ臥す中、暫くすると何かを諭す様な、静穏で柔和なロイトフの声が室内を反響し、鼓膜へと忍び込んで来る。

―何だ?

 彼は僕に止めを刺す訳でも無く、拘束しようと敏速に立ち働く訳でも無い。

 僕の疑念を他所に、ロイトフは訥々と、しかし一語一語を噛み締める様に語り始めた……。


「……聴こえるか、エスよ……。何故貴様は世界を破壊してしまったんだ……。この世界は、人類の理想を体現していたのにも関わらず……。

 その昔、人心は疲弊し、社会はコミュニーション不全に陥り閉塞していた。貴様も知っての通り、旧時代に救世を成し得たものは人間の個性を隠蔽しあらゆる最先端技術の恩恵を授ける宝具、ヘッドギアだ……。

『万全たる教育制度、政治制度、社会福祉制度。最高水準を更新し続ける就学率、就職率、経済力。犯罪発生率も極少たる治安、最先端を推進する高度科学技術、環境保護も考慮しながら洗練され利便性に富んだ都市空間……。世界の理想を体現する電脳未来都市、インダーウェルトセイン……』。

 何等かの精神障害や身体的障害を被り底辺で冷遇されている者達に取って、全てを画一化し平等性を齎せてくれる機構の到来は願ってもいない幸運であり広益だったのだ。恒久の安全と平和が実現された事で、漸く太陽の下へ歩み出る好機を得た、そんな日陰者達も居るのだよ……。

……そうさ、この俺の顔も……。……見ろ……」

―ロイトフは意を決した様に、自身のヘッドギアに手を掛け素顔を披瀝した。

……横臥した状態の侭、僕は絶句した。

他者の外貌を見慣れていない為に自然と関心を惹かれ注視する事も当然なのだが、僕が息を呑んで彼の容姿を凝視し続けた事にはもう一つの理由が在った……。

 ロイトフの顔面は、全体が挫傷で覆われていたのだ。

「俺は生来この顔で生まれ落ちた……。最先端の医学技術でも完全な整形は不可能だと見放され、電脳仮面制度の基、素顔が社会生活上の欠陥に成る事は無いと判断されこうして今迄生きて来たのだ……。

 俺は一人鏡を覗く時、余りの劣等感と絶望感に打ちのめされそうになり、心底から自殺を考える。そして同時に、素顔を秘匿させてくれる現代社会の成り立ちへ心底から感謝の念も抱くのだ……!

 もし素顔で社会生活を送る事が余儀無くされていたとしたら、矢張り俺自身も前時代の病者達と同様に家へ引篭もり、絶望に打ちひしがれた侭ひっそりと一生を終えていたに違いない。

コンプレックスの塊だった俺は必死で自分自身を取り繕う様に、世間からも付け込まれない様に、誇れる物を得る様に、あらゆる努力を払い続けた。そして、ここ迄の地位へと登り詰めたのだ……。

―只、輝かしい程の業績や地位を得た今でも、時折不意に言い知れない程の不安や恐怖に襲われる。

 もし、いつか自分の素顔を覗かれる日が来たら……、只管に隠して来た過去やコンプレックスへ光が充てられる日が来たら……。そんな風に、皆が俺を指差し嘲笑する悪夢に怯えてどうしようもなく震えるんだ。

 俺は顔を晒す世界が怖い。美醜で人間を評価する社会が、人間の心が怖い……。只、只々怖い、怖いんだ……! 何もかもが怖いんだ……!!

 解るか、エスよ。俺の様な病弊や障害を持つ大勢の者達は、ヘッドギアの存在に由って救われたんだ。

 コミュニケーション不全や差別問題のみでは無い。

 ヘッドギアの高機能性を活用すれば、例えば目の不自由な者達への視力補助、聾唖者へ対応した音声化ソフト、外国人と会話する際の自動同時通訳と、あらゆる社会問題や医療福祉に迄援用出来るのだ……。

 このヘッドギアの恩恵を受け差別や犯罪は社会から一掃され、世界は磐石な平和を形成した。

 過去、人類は常に相争い、差別や紛争は必ずどこかの地域で発生し片時も止んだ事は無かった……。現代の我々は、歴代の敏腕政治家や独裁者の手腕、あらゆる主義、制度、運動でも成し遂げられなかった平和的な統治を実現している。

―我々は、具現化された理想郷の中に住んでいるんだよ……。

 解るか、エスよ。万人が平等の下で、平和を享受していたのだ……。お前はその完全な秩序を崩壊させた、旧時代的な逆行した価値観へ民衆を引き摺り込もうとし混乱させた。この罪は差別主義の再来として、筆舌に尽くし難い程に重い……」

 ロイトフの声が鼓膜で反響し続け、僕は二の句が継げずに横臥し続けていた。彼の様な高名な指導者にも、葛藤し喘ぐ程のコンプレックスを抱えていたとは……。彼の唐突で切実な自己告白に僕は面食らっていた。

……しかし。

 一指も動かせない程に疲弊し、今にも深遠な眠りへと堕ちそうな途切れ掛けた意識の中で、言い知れない反感の芽が僕の胸中で息衝き始めていた。

彼が苛烈な劣等感を抱かざるを得なかった先天的な傷、生い立ちには惻隠の情も湧く。そして、そんな宿命へも諦念を以って受け入れず、直向きな研鑽を重ね立身出世を体現して来た彼のこれ迄の人生を想像し、一定の敬服さえも憶える点はある。

 だが……。深奥の何処かで、全てを承服し兼ねる反論の種は芽生え、潰える事は無かった。

(……何故だ? 何故虚心に耳を傾けられない? 自分でも、理解し切れない……。ロイトフの不遇な生い立ちには同情の念も湧く。彼と同様に何等かの不幸で喘ぐ者達の為にも、その主張は非の打ち所の無い言論に想えるのだが……。それでも手放しでは賛同出来ない、この胸が疼く理由とは一体……?)

 極限の状況下や心身の消耗、突発的な告白に動揺しているせいもあるのか、如何にも思索が纏まらない。低下している思考力の中で、僕は必死に言の葉を紡ごうとする。自分自身でも把握し切れないその反駁の根源とは、一体何なのか……?

 その違和感が原動力と成り得たのか、僕は漸く朦朧とした意識の中で這いずる虫の様に身動ぎをし始める。一連の戦闘に由って靡く煙霧が錆の様な苦味を伴って鼻腔を擽り、半壊した窓外から吹き付ける強風は衣服を軽くはためかせていた。既に全体が煤けた床面へ片膝を突き、僕は何事かを発しようと必死だった。気息奄々たる状態で、咽喉を振り絞る様に心底からの衝動を吐き出そうと……。

 それは途切れ途切れで、自分自身でも判然としない侭紡ぎ出される言葉だった。

「……違う。この社会の現状は、差別を隠蔽しただけだ。差別心が無くなった訳じゃない。人々は安易に同化し、均質化して行ってるだけなんだ……。個々の個性は無く、共同体と言うよりも、癒着した一塊に成り果てている。

 体制に組み込まれれば、誰でも自己は埋没して行くんだろう……。

 しかし、現代の人間は自我そのものが希薄に貶められて行っている。記号に陥り歯車に堕する事で自他の区別も曖昧な今の僕達には、生の実感が丸で無い。自分が何者なのか、その根拠や自信を得る為の過去の蓄積も無い。愛憎のどちらも強く味わう事が無い、何かに懸命に成る事も無く、夢も生き甲斐も持てない、充実を知らない虚無的な生……。温室で生育される植物の様なこの静穏さは……、本当は死人と変わらない。

―僕は取り戻したい、喪失していた、人間としての感情と言うものを……!

 僕はこれ迄の犯行で自覚したのさ。僕にはこの短期間の内に、今迄の人生の時間を全て凌駕してしまう様な、凝縮された体験や出会いが在った。逮捕される事を覚悟で起こした通り魔から……、世界を敵に廻し底辺を這う様に逃亡生活を続けた事、そして僕の主張に共感してくれた者達の助けと……。

禍福無く過ぎる安穏由りも自身の想いを賭した冒険の方が、未来が無くともずっと素晴らしかった。そして追い詰められる中でも、だからこそ真の充実した生の中に居たと想える。

―僕はその瞬間を疾走する様に生き、瞬間に燃焼していた。自分で疑問を感じ始めた。自分で夢や理想を持った。自分を獲得したいと想った。社会へ問題提起する為に、自分を変える為に、誰もが躊躇する危険を冒した。確かに倫理的には犯罪とされる行為の数々にも手を染めたろう。しかしそこで湧き上がる罪悪感も含めて……、僕はその時から初めて生の実感に満たされ、世界の真実に触れていた気がする。

―そして気付いたんだ、痛みも又生きている証だと言う事に……」

―そう、そうだったんだ。澱の様如く沈殿していた蟠りの正体を看破し、自分自身でも霧が晴れたかの様な明解さを得られた。僕がどうしても納得し切れない何か、と言う反駁の根拠とは、正にたった今吐き出した台詞へ全て凝縮されている。苦痛とは只、忌避する以外に他は無い様な無価値、害悪とは限らない筈なのだ。人間には苦痛を源泉にしてこそ獲得出来る価値も無数に在る。痛みを知る事で生まれる誰かへの思慮や情愛も、何かへ直向きな努力を重ね何時しか得られる自分自身への誇りも……。

……そして。僕は虚心坦懐な眼差しで彼を見据えた。

 思わぬ急角度からの抗弁と疲弊しながらも眼光だけは喪わない僕の一本槍な視線に射抜かれ、ロイトフは狼狽し声を荒げた。

「差別心や闘争心は人間の本能だ! 決して未来永劫消滅したりはしない! 俺の様な生まれ付いての傷物なんて誰も愛してくれるものかっ!! エスよ、昔は両親からの愛さえ受けられず、迫害され虐待され続ける者達も溢れる程存在した。愛さえも選別で在り、差別なんだ……! その真理を悟った時、俺はもう人間は終わりだと理解してしまった。人間はどこ迄もシステマティックに規制し管理しなければならないんだ! 

もう人類は、全てに疲れ果てているんだよ……」

 それはロイトフが発した本心からの叫びだったのだろう、彼は始めて人間らしい表情を露わにし、身を戦慄かせるかの様に激しく慨嘆した。   

……しかし僕は毅然さを崩さずその憤慨へ受け応える。

「異質な物を排除し、全てを平均化させる事が平和なのでは無い。それも叉一つの独裁なんだよ……。

 異質な個性や主義、価値観が在ったとしても、相互が違うと言う事自体を受け入れ認め合える事……。違うと言う事そのものを有りの侭認め合える社会を形成出来た時こそが、差別を克服し人間が真の平等を獲得した時なんだ……!!

 あんた程の手腕を持ち、人間としての痛み、哀しみを知っている人間なら、この意味を理解した上で真の改革が為せる筈だぜ……、ロイトフ……」

「うるさい、黙れ、黙れ、黙れ……!!」

 理知的で風格すら漂わせていた第一印象とは打って変わり、今の彼は丸で駄々を捏ねて喚き散らす子供の様に見受けられた。その異形な様相は、それだけ僕が唱えた異論が彼の核心を突いたと言う事を物語っている……。

 僕の指摘から頭を覆わんばかりに狂乱する彼は、耳障りな反論を挙げる僕の弁舌を止めようと脇目も振らず傲然と直進をし始めた。錯乱状態に陥っている以上、素人の僕では益々手に負えない事は言う迄も無い。

 しかし僕は昂然と胸を張って対峙する。叶わない迄も、最後の一太刀を浴びせ少なくとも前のめりで倒れるだけの気概を見せ付けたいと、何処かでは静穏で達観した心境だった。


―そうして散り行く覚悟を定めたその瞬間、僕は末期に及んで室内の異状を察知した……。

 最早常軌を逸し狂乱するロイトフの背後で、暗闇の中で陽炎の如く揺らめく人影を見て取ったのだ。



             *



 ロイトフの背後で踊る人影は何者なのか? ……シドの救援? いや、彼の現在位置からすれば距離差、時間差としては有り得ない……。叉も背後に出現した、女性の輪郭を帯びた人影……。

先程気絶させた偽者がもう息を吹き返したと言うのか!? それとも、僕自身が既に心身の限界へ至り、朦朧とした意識から幻覚を視ているのか……。しかし視界の片隅では、未だ壁際で偽者の女性は昏倒した侭だった……。だとすればこの人影は……。僕には直感出来た。

 気絶した偽者では無い!

 彼女だ!!

 紛れも無い僕の恋人、だ……!!

 現状を認識し切れず僕は呆気に取られ後方を眺め続けていた。ロイトフは、決着を確信したかの様に毅然と僕へ歩を進める。その一歩一歩は恐ろしく緩慢な速度に感じられ、しかし近付くに連れ恐怖の色合いを増す様に反響する死神の接近を告げる足音だった。僕の放心状態を睥睨し、彼は安堵の喜色を浮かべている様にすら感じ取れた。僕が完全に観念しない迄も最早心身共に限界を来たし、糸の切れ掛けた人形の如く呆然自失としているとでも解釈したのだろう。事実、僕の体力は疾うに底を尽き身動きする気力も失い掛けていた。もう数度でも強烈な打撃を喰らえば意識は刈り取られ、為す術無くその侭敗北の眠りへと就いてしまうだろう……。

 しかし、この期に及んで僕が余所目に気取られているとは、流石のロイトフも未だ気付いていない。背後の人影は気配を殺す様にロイトフへ追随し、不意打ちを掛ける為の間合いを計ろうとしている。

 彼女の華奢な両手には、不似合いな程に武骨な得物が握られていた。きっと先程の爆破騒動で散乱した建築物の一部から拾い上げた物だろう、硬質な鉄パイプ……。彼女は御し切れない重量の為か、両手に携えた鉄パイプを殆ど床面へ舐めさせる様な状態で引き摺らせている。

 彼女の両手は生まれ立ての子犬の様に、畏怖を湛え震えていた。重量に耐え兼ねているだけでは無く、まだ暴力への躊躇が滲んでいる様にも見受けられる……。ともあれロイトフが間近へと迫って来た瞬間、矢張り僕の意識の主眼は彼に移った。破れるにしても、自身の矜持を示す一撃だけでも見舞って倒れる心積もりだった……。しかし予想外の異変へ気取られた事で心身共に準備も出来ず、思いの他ロイトフは打撃の間合い迄接近して来ている。

 この侭ではせめてもの意地を見せる反撃すら出せず仕舞いの侭、こちらが意識を根絶させられる打撃を喰らい雌雄が決してしまう……! 危機感は募るものの、高負荷の重力に支配されたかの様に僕の身体は愚鈍そのものだ。

 不味い、喰らう、全てが終わってしまう……!

 僕の焦燥を他所に、ロイトフは僕の息の根を止める最後の鉄槌を冷徹に振り翳す……。奴の拳がめり込んだ次の瞬間には、僕は苦痛を感じる暇も無く深淵な闇へと堕ちて行く……。

 しかしロイトフが終止符を打とうと拳を振り上げた動作へ呼応するかの様に、背後の彼女は意を決した、と言う様な一種の息みを見せた。

 一閃、彼女は自力で最大限迄振り上げた鉄パイプを、次の瞬間には重力へ任せる様に振り降ろす! 

ゴッ、と生理的に不快さを喚起させる様な鈍い打撃音が鳴り響き、眼前の敵の事ながら思わず僕は顔を顰めた。

 不意の痛烈な衝撃に堪らず両膝を突くロイトフ。そして反射的に後頭部を両手で抑え込む彼を見下ろし、彼女は渾身の力で追撃を加えようと振り被る。しかし鈍器の重量、女性故の非力さ、不慣れな暴力の為にその動作はどうしても遅々としてぎこちなかった。

 状況を理解し切れず苦痛に眼を剥いていたロイトフだが、その間断の中で直ぐに気を取り直す。そして次の瞬間には自身を庇う素振りさえせず、即座に彼女へ両手を伸ばし易々と捻り上げてしまった。

 矢張り奴は並大抵の者とは器量が違う。

しかし彼女の出現に呆然自失としていた僕だが、我へ返った後にはその間隙を見逃しはしなかった。ロイトフを仕留める千載一遇の好機だと分析する以前に、本能的に身体が動き出していた。

 もう形振り構ってはいられない。眼前の強敵を倒し、組み敷かれる彼女をも救わなければ……! 言葉にならない野獣の如き咆哮を挙げ、僕は眼前の標的へと突進していた。

 疾駆する中で狭まって行く視界……。

 叉もコマ送りの様に過ぎ去って行く周囲の風景……。

 その切り裂く風の中で、僕は無我夢中で『何か』を探していた、と思う……。

 思考が纏まり言語化される以前の本能的な衝動、理解の枠外。

 そして、僕は『それ』だと把握した上で掴んだ訳では無いかも知れない。獣としての衝動に支配され突進する僕は、横手で無造作に放置されていたその固形物を、具体的には何なのか判然としない侭、如何するか自分自身でも想像しない侭で拾い上げた気さえする。


 僕は片手で引っ掛け上げたそれを、腕が千切れんばかりに最大限の膂力でロイトフの頭蓋へと叩き付けた……!

 生理的に不快さを催す衝突音が叉も鼓膜を劈く。


……。


……乱れる呼吸の中、僕は放心した状態でその光景を見下ろしていた……。

 床面に両膝を突いた彼女の許へ、しな垂れ掛かるロイトフの肢体……。彼が頭部に負った剥き出しの傷からは、生々しく深紅の鮮血が迸っている。夥しい流血は首から制服へ伝い始め、意図せずして彼を支える格好となった彼女の純白の衣服から床面迄をも染め始めていた。

 僕を圧倒していたロイトフが、このたった一撃で眠り落ちたかの様に失神しているとは……。

 暫しの放心状態からふっと我に返り自分自身の右手をまじまじと見張る。

 そこで初めて自覚したのだが、周辺に転がっている物を無我夢中で拾い上げ僕が兇器に変えた代物とは、ロイトフ自身のヘッドギアだったのだ……。

 彼が信仰し、崇拝し、実存すら依存させたその道具を……、彼の全人生を象徴する庇護と虚飾に満ちた仮面その物を、彼自身への素顔へと叩き付け、僕は勝利を手に入れたのだった……。




             *




 しかしロイトフを倒し余韻に浸るのも束の間の事だった。これ迄の人生で体験した事も無い様な他人の重傷を前にして、僕は再度我に返り始める。後から段々と込み上げる一抹の良心の呵責。

 彼女も、僕へ何事かを語り掛けるよりも先に怪我人への応急処置を施そうと動転していた。先ず素人療法ながら出血を最小限に喰い止める為にと、彼女は躊躇せず自身のスカートの一部を剥ぎ取り、包帯の要領で彼の頭部へと巻き始めた。反旗を翻した体制側の要人でありここ迄の死闘を繰り広げた仇敵と言えど、何も生命迄奪う意思は無い。別状が無ければ良いのだが……。

 そうしてロイトフの容態を案じていた最中、僕は彼の些細な異変を見て取った。意識は喪失した侭なのだろうが、ロイトフの顔から拭い取った流血の下……、一筋の悲痛な涙が染み出る様にゆっくりと頬へ伝わり落ちて行く様を……。

 僕は暫し無言を湛える。そして僕は、彼がこれ迄に於ける人生の中で誰にも告白出来ず抱えて来た葛藤や煩悶を想像し、抱き締めるような気持ちで呟いた。

 永遠に癒えない、生まれながらに背負った彼の痛手の為へと祈りながら―。


「解るかい、ロイトフ……。仮面を被り続ければ、泣き顔を隠し通す事も出来るだろう。しかしこうして、自分以外の誰かがお前の涙を拭ってやる事も出来ないのさ。そして何より、お互いが微笑み合う事もね……」

 今は只、安らかに眠りへと就いていてくれ……。僕はそっとロイトフの両眼に伝う涙の雫を拭う。

……すると彼の乱れた呼吸は徐々に収まりを見せ始め、程なくすると丸であやされた赤子の様に安らかな寝息を立て始めた。それは丸で何かの呪縛から解放され、母親の腕の中で深遠な安堵を得たかの様に……。

 医学に関しては丸で素人である自身の所見だが、この様子からすればもう彼が大事へと至る様な心配迄は要らないだろう。

 僕は漸く胸を撫で下ろした後、きっと噛み締める様に内奥から湧き上がる声へ傾注した。


―きっとそうだ、僕はこう信じたいだけなんだ。

 痛みで眠れない夜もあれば、痛みを伴って初めて何かに目覚める夜もある……。

 痛みは何れ糧にも成れば、導きにも成り得ると……。

 そして何由り、そうして生き抜くしか無い筈なのだと……。



             *



 ランドマークたる高層ビル内が炎上した事故を受け、内部の人間達も大方撤収し始めた様子だった。大勢の関係者達が避難を完了させた事で塔内の人気は希薄に成り行き、何時しか室内は禅寺の如き静謐さに満ち始めていた。

……最高層に位置するシティビューには、僕達二人きりだ。

 砕け散った硬質ガラスの窓際から下界を見遣るに、機動隊と一般市民達に由る戦闘も一旦の終着を見せ始めている……。

(全て、全てをやり終えたのか……? いや、これからが始まりだと信じたいが……)

 何故か、高層から見渡せる眼下の戦闘風景や喧騒も丸で残響の様に遠く感じる……。

 既に甚大な爆破跡で廃墟と化した瓦礫の山中、僕達二人は放心状態で窓際へ座り込んだ。お互いが感慨に耽り続け、無限の如き沈黙の時間が流れ続けている。しかしそれは気不味さだけでは無く、これ迄の万感が募り口火を切る言葉が見付からない故だった……。

 そして僕は何とか永遠の如き無言を断ち切る様にと、やっとの事でか細い声音を挙げ質問を投げ掛ける。

「……どうして、ここが解った? それにどうして、今更僕へ会いに来たんだ……?」

 彼女は嫋やかな調子で受け答え始めた。その様子は彼女の心奥に於ける源泉が何なのか不明な程に、深玄で母性的な雰囲気を湛えているのだった……。僕達の関係は別離の途へ差し掛かっていた程、限界を来たしていた筈なのに……。彼女がこうも柔和な物腰で、情愛に満ちた暖かな匂いすら発露させているのは何故なのだろう?

「警察から、貴方を捜索し逮捕する上で有益な情報は無いか、と私のヘッドギアを精査する事になったの。

 私自身の電脳に貴方を追跡する上で特筆すべき情報価値は見当たらない、と彼等は判断したけれど、その次には私自身と言う存在価値を利用する手段は無いものかと議論し始めた。

 そして遂に私の偽者を用意しようと言う計画が立った時、一旦私のヘッドギアの電脳情報を他のヘッドギアへ転送する時間が設けられたの。その際、貴方がここを最終拠点として篭城している事は警察との遣り取りから自然に情報として入って来た……。

 最初は警察の保護下でずっと自宅で待機させられていたのだけど、ホテルから警察、専門機関と往復移動する乗り換えの隙間を狙って飛び出す様に逃げ出して来た。そして街で身を隠し続け、貴方を助ける機会を探っていたと言う訳……。丁度どこへ行っても街中は暴動の最中だったので、警察の眼に引っ掛かる事も無く潜伏し続ける事が出来たわ……」

 一連の丁寧な説明を受けても、僕の疑念は丸で潰えなかった。事の経緯そのもの由りも、彼女が何故僕を助けたいと思ったか、警察からの逃走を敢行する程の苛烈な動機とは一体何なのか、全く判然としない侭だったからだ。 

 そして僕とロイトフが激闘を繰り広げていた修羅場へと忍び込み、背後から鈍器で一撃を喰らわす等……。その献身的な迄の愛情や大胆な行動力等は、当時の凡庸な彼女からは想像も付かない急変振りなのだ。

「いや、しかし……。僕達は正直言って、ぎこちない状態に陥っていた筈だ。僕がこんな風に世間を混乱させる程の犯罪に走った事で、もう別れは決定的だと個人的には思っていたんだけど……。

そして何由り、僕に助力した以上、君ももう後戻りは出来ない。本当に、それで良いのか……?」

 これが僕の正直な心中の告白だった。僕はあの犯行声明を彼女や政府へと送り付けた時点で、彼女は勿論友人から家族迄、全ての絆に別離を告げた心算だった。社会的地位や人間関係等を代償として全て棄て去り、孤立する事からが世界へ蜂起する為の第一条件の様に捉えて来たからだ。投獄の果てには、獄死や死刑、自刃迄をも覚悟していたものだが……。 

 僕と親交を続けるとすれば薄汚い大罪人の恋人と言うレッテルを貼られ社会的信用も失墜し、彼女自身も嘗ての僕と同様に友人や家族達と決別する必要性にすら迫られる。その後のうらぶれた逃亡生活や抵抗運動を想像すれば、彼女自身の生命すら危ぶまれるだろう……。何故彼女は、自らの危険をも顧みず僕との再会を果たそうと努めたのか……。

だが彼女は、そんな僕の切実な疑念に対して事も無げに答えた。

「あの声明や報道を受けた時、寧ろ初めて貴方と言う人柄や内心を知った気がしたわ……。この社会の機構が虚飾に満ちていると問題提起し、貴方は心も身体も本当の意味で素顔を世界に向かって曝け出した。そして社会に対する疑念や自分の価値観を証明する為に、独り命懸けで戦い始めた……。

 その後、その姿勢に共感した人達が現れ始め、遂には政府が陰謀を張り巡らせている事迄も突き止め世間へと伝えるに至った……。

 今、貴方の御蔭で大勢の人々が初めて曖昧な眠りから目覚めたかの様に、自身の実在を実感している。真の意味で生きている、と言う昂揚を生々しく体感し、社会へも自分自身へも目を逸らさずに真摯な闘争を始めている。そんな貴方の恋人で在ると言う事は、私に取って至上の喜びで有り最大の名誉……。誇りさえすれ、貴方に嫌悪を抱く事等微塵も在りはしない……! そう、只の一片も……」

 その刹那、無線からシドの半ば興奮した呼び掛けが雑音交じりに反響した。

「―エスよ、応答せよ。生きているか! 大勢の人間の許へあんたの声明は届いた様だぜっ!! なあ、そこの屋上から街の光景が見えるかい?」

 僕は涙で朧気に霞む視界を必死で拭い付け、誤魔化す様に笑い声を挙げる。そして独り言を呟く様に、やっとの事で微かな返事をひり付く咽喉の底から絞り出した。

「ああ、見えているさ、仮面を隔てずに、この景色が……」

 容赦無く強風は吹き上がり続け、僕達の衣服を棚引かせる。僕がそうして感慨に耽っている中、彼女は何の前置きも無くヘッドギアへと手を掛け始めた。確かに今なら何者の規制も受けないが、一切の躊躇や逡巡の無いその大胆な手際から、逆に相対している僕の方が若干の戸惑いすら与えられてしまう。

 彼女は思い切り良くヘッドギアを取り外すと、何の未練も執着も無い様に背後へと盛大に投げ捨てた。僕は息を呑んで目を瞠る。

 素顔だ……。今迄2年間交際して来て、初めて間近で認識する恋人の顔。それは丸で、初対面の人間に出会う様な新鮮な違和感と感銘を僕に喚起させた。僕は自然と彼女へと手を伸ばし、強風で靡く彼女の髪を優しく、梳く様に撫で付ける。

「初めてお互いの顔を見るのね……。私の顔は、どう?」

「美人さ、飛びきりの美人に決まっているだろ」

 反射的に突き出された台詞。誰とも比較した事も無く、出来る筈も無い。しかし陳腐なお世辞の類でも無かった。

 比較する必要自体が無い、そう、君は少なくとも僕に取っては一番の―。

 都市下全体から照射され続ける人工的なネオンライトの夜景、天空に座する満月が柔らかく放つ月光とが入り混じり、一際と映える様に彼女の素顔を照らし出す。

 そして相前後する様に狼煙が挙げられたかの様な炸裂音がしたかと思うと、ほぼ同時に軽快で賑々しい音楽が鳴り響き始めた。街下の各所から、それを見上げた市民達の叫声や拍手が挙がりさざめきを立てる。

 何事かと思うと、遠方で巨大な花火が連弾で打ち揚げられる様子が見て取れた。

 僕達二人は一瞬気取られその光景に見入られた。しかし僕は口端を上げ微笑を浮かべると、何事も無かったかの様に直ぐ彼女へと振り向き直す。彼女は未だ遠方の事態を理解し切れず呆気に取られてはいるが、これは間違いなくシドの仕業の一環だろう……。

 近代の花火は製作から点火迄がプログラム制御され、音楽演奏とタイミングを同期させた自動発射や遠隔操作も可能な様に設計されている。彼はパレードの最終日に発射される予定だった花火の機構へハッキングし、革命が成功した暁の祝砲へと代えて勝手ながら打ち揚げ始めたのだ。

 全く以って彼らしい、仮面舞踏会の終幕を飾るに相応しい粋な演出だった。

 遠い残響の様に花火の炸裂音は耳朶を打ち、闇夜の帳を背景に多彩で鮮烈な華を次々に咲かせては儚く散って行く……。


そんな塗り替えられた祝祭の典雅な情景を横目に、僕達は潤んだ眼差しで見詰め合う。

 お互いに優し気な微笑を湛え、無言の侭、徐々に僕達の唇は距離が縮まって行く……。





―そしてその日、僕達は生まれて初めてのキスをした。


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Digital Masquerade OSAMU @osum4141

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