PARTⅡの2(10) おとうさんは1号だった

 謡の父の高志は学生時代、アルバイトで稼いだお金で国の内外を貧乏旅行しながら紀行文を書くことが生き甲斐だった。


 大学を卒業してからもそういう売れないもの書きとしての人生を歩み続けていた。


 高志が学生時代の貧乏旅行でアンデスやアマゾン川流域に行った時、


 パスポートや現金やカードなどの入ったバッグをひったくられて途方にくれていた日本人のツアー客の女子学生を助けたことがあった。


 彼女はいかにもお金を持っていそうな服装をしていて、旅なれた高志から見たら狙われる日本人の典型のようなタイプだった。


 美人だったし、とにかく放っておけずに助けて上げた。それが謡の母となる女性で、名は銀金レイ子と言った。


 レイ子には、高志のような男はそれまで出会ったことのなかったタイプだった。


 二人は同い年で同学年だったが、あっという間に恋愛関係に陥ってしまい、そのうちレイ子が妊娠して、大学4年の十一月にいわゆるできちゃった婚をし、翌年の二月には謡が生まれた。


 レイ子の母、銀金トミは当時すでにカリスマ的な株屋・投資コンサルタントとして名をなしていた。


 レイ子も卒業後は母の会社で仕事をすることになっていた。


 彼女は出産後しばらくは子育てに専念したが、母乳が出なくなってからは子育ては粟乃にお願いして、当初の予定通り母の会社で仕事をしはじめた。


 高志とレイ子はお互いの世界と職業を尊重し合おうという気持ちを共有していた。


 外で仕事をしたい願望を持ちながら果たせずに専業主婦の道を選んだ粟乃は、


 株屋などという仕事には抵抗感をいだきつつも、その時はレイ子に一応の理解を示した。


 高志の収入が低いこともあり、レイ子の稼ぎが一家の生計の維持には必要だと考え、子育てを引き受けた。


 トミがレイ子に話したところによれば。


 レイ子の父親銀金兆児しろがねちょうじは、トミよりも二十歳年長、戦後の経済復興けいざいふっこうと高度成長の中で大きな仕手戦してせんを次々と仕掛けて大きな財をなした、


 怪物と呼ばれた株屋だった。


 豪胆ごうたんだが自信過剰で慎重さに若干かけるところがあり、


 結婚したトミとの間に生まれたレイ子が七歳の時、いわゆるM資金詐欺エムしきんさぎに引っ掛かって自殺した。


 兆児はある人間から世界を相手に仕手戦を仕掛けられる位の超巨額の資金運用しきんうんようを任せてもらえる条件として多額の保証金を要求された。


 その額は彼とトミの個人資産を合わせてやっとまかなえる額だったので、彼女に全財産を貸して欲しいと頼んだ。


「危ない」と直感したトミは別れるぞと殴られても脅されても泣かれてもすがられても兆児の頼みを頑なに拒否し、「絶対にやめなさい」と言い続けた。


 しかし自分に絶対の自信を持ち、また唯一のライバルとみなしていたトミに対して意地にもなっていた兆児は、


 こうなったら独りででもやるしかないと決心し、


 全財産をはたき、足りない分は銀行から借り入れて保証金を作って納めた。


 が、やはり詐欺で、兆児は全財産を失って自殺した。


 トミの資産は無傷で残った。


 兆児がトミに遺した遺書にはこう書いてあった。


「殴ったり脅したりして本当に申し訳なかった。正しいのはお前の方だった。


 お前はもう俺にすっかり愛想を尽かしてしまったかもしれない。


 でも、少しでも俺に対する情が残ってるのなら、どうか俺の衣鉢いはつをついで、


 世間の奴らを見返し、アッと驚かせ、ひと泡吹かせ、やっつけ、ひっくり返すようなことをやって、かたきを取ってくれ。


 お前は俺よりも才能があるんだから」

 

 トミも兆児も極貧ごくひんの生まれで、差別され暴力や不条理ふじょうりさらされながら育ち、世間に対する大きな恨みをバネにのし上がってきたタイプだった。


トミを「磨けば光る超有望株だ。よし、買いだ!」と見抜いた兆児は「俺と一緒に世界一の金持ちになろう」とプロポーズして結婚し、


 彼女を自分の公私にわたるパートナーとして育て、共に経済的強者としてのしあがる道を切り拓いていった。


 トミも兆児に必死についていき、ついには並び立つほどの株屋に成長していった。


 二人は夫婦であり、同志でありライバルだった。


 兆児の遺書を読んだトミは心から泣いて、兆児をしのぐ怪物となって彼の意志を継ぐことを誓い、


 カリスマ的な株屋・投資コンサルタントとして名をなすに至った。


 レイ子はそういう金持ちの両親の娘として生まれた。


 成り金の娘と噂されるようなことがあったら可哀そうだというトミの意向もあり、


 また彼女は仕事で忙しかったこともあって、


 レイ子はお譲さまとして雇われの優しい婆やに育てられ、高志と巡り合って妊娠し、結婚した。


 この結婚にはトミは反対しなかった。娘から「この人と結婚したい」と紹介された高志のまったりした笑顔を見て、


「『アマゾンで出会った、ちょっとハンサムなナマケモノみたいな人よ』ってレイ子は言ってたけど、本当にそうなのね。


 亡くなった兆児さんやあたしなんかとはおよそ正反対のタイプだけど、こういう人がそばにいたらレイ子は癒されるかも ・・・」


 と思ったからだった。


 両親の血を引くレイ子が子育てよりも株の仕事に魅かれるのはまあ当然かもしれなかった。


 しかし、レイ子が仕事にき、面白くなって没頭ぼっとうするにつれ、二人は「すれちがい夫婦」化していった。


 実を言えば高志は本当はレイ子にはいつも一緒にそばにいて欲しいと、そしてできればいつも一緒に旅したいと思っていた。


 でも、そんなことはさすがに言えないと思って、自分の本音を抑圧してレイ子を仕事に送りだした。


 が、何か心に隙間ができたような感じがして、その隙間を埋めるためにますます旅に逃避するようになっていった。


 レイ子にしてみれば、心のどこかに、


「仕事なんかしないで俺と一緒に世界中旅してまわろう。子供も一緒に連れて ・・・」と言って欲しい気持ちはあった。


 そう言われたら後先考えずに高志に従ってみたい気持ちもあった。


 でも、そうは言ってくれなかったのが本当のところ悲しかったし、高志が本音を抑圧して自分に接しているのも感じていた。


――なんで言ってくれないの?


 レイ子の中には高志に対する恨みがましい気持が生じ、しかしその恨みを高志にぶつけることもできず、


 できない分だけますます仕事に没頭するようになった。


 かくして密度の薄い同居と時折の夫婦関係はかろうじて続いていったものの、二人の溝は広がって行った。


 好きな旅を続けている高志は一応心のバランスを保つことができた。


 仕事で大きなストレスを日々抱えるレイ子はそうはいかなかった。


 彼女はもともとナマケモノみたいな癒し系の高志に魅かれて結婚した。


 日常的にストレスを抱えている今こそ、高志にそばにいて欲しかったのに、それは叶わなかった。


 そういう状態の続くうちに、


『高志がそばにいないなら彼に代わって自分を癒してくれる存在を求めるしかないのかしら?』


 という気持ちも強まってきた。


 それは、


『彼を裏切ってやりたい。そばにいてくれない彼が悪いんだ』


 という恨みの気持でもあった。


 しかしレイ子はいい意味で潔癖けっぺきたちの女性で、それらの気持ちは「浮気」という行動には発展せず、


「最後に一度話して、それでだめなら離婚して、きちんとフリーになって、その上で、あらたに自分を癒してくれて、自分もまた相手を癒してあげられるような、そういう相手を探そう」


 という選択をする方向に発展した。


 そしてレイ子は一カ月ぶりに旅から帰ってきた高志と対峙たいじした。


 シンプル・イズ・ベストという言葉がある。


 いつも人間にとってのシンプルなコミュニケーションは本当の感情の交流やぶつけ合いだ。


 もしもその晩二人がまず本当の感情のぶつけ合いから始め、ちゃんと喧嘩をして、そののちに冷静になって話しあっていたら、


 あるいは違う結論になっていたかもしれない。


 しかし、レイ子は最初から冷静に切り出した。


「あなた、私と旅とどっちを選ぶかって聞いたら、どう答える?」


 それは高志にとっては遅かれ早かれ尋ねられる質問だとわかっていた。二人の間の溝は彼も感じていた。


 高志も冷静に返した。


「君は、ぼくと仕事とどっちを選ぶかって聞いたら、どう答える?」


 二人は笑いだしてしまった。その笑いは心からのそれではなく、どちらも自分自身を突き放したようなむなしい笑いだった。


「私達、もうだめね」

「ああ ・・・」


 二人はまた同じように笑った。どちらの目も悲しげをしていたが、お互い、それに気付くことなく ・・・。


 次の日二人は離婚届けを役所に出し、レイ子は謡を粟乃の手に委ねて実家に戻った。


 高志は以上のようなことを謡に話し、そして次のようにしめくくった。


「今だから言えることも交えて話したけど、成熟とはシンプルにかえることであるとしたら、俺たちは二人とも大人ではあっても成熟にはまだ全然足りなかったんだと思う」


 謡は尋ねた。

「で、おかあさん、その後結婚したりしてるの?」


「さあ ・・・ どうなんだろう? 彼女、俺と別れて仕事と結婚したんじゃないのかな? てことは、案外、独身のままかも ・・・」


 それまで黙っていた粟乃が、


「高志、あんただってあれ以来独身で、恋人だっていたためしがないし、最近じゃ仕事一筋じゃあないか」


 と突っ込んできた。高志は頭を掻きながら答えた。


「あはは、確かに。まあ、金に対する考え方は一八〇度違うように思うけどね」


 謡は更に尋ねた。

「今だったらわかりあえるかな、おとうさんとおかあさん?」


「あのころよりは、わかりあえるかもな、そういう機会があればな ・・・


 俺、今にして思えば、仕事してるレイ子って、やってることはともかく、輝いてるなって、そんな風に感じてたと思う。


だからこそ、仕事をやめて俺と世界中を旅行しよう、謡も連れて、って、言えなかったんだよな」


「おかあさん、ナマケモノみたいなところのあるおとうさんにかれたんでしょ?」

「多分な」


「でも今のおとうさんは、世界一いそがしいナマケモノでしょ?」

「ああ、まあね」


「じゃあ、もしもおかあさんが、単にいそがしいだけの女じゃなくて、おとうさん同様にナマケモノ的いそがし女になっちゃったら、復縁もありかもね ・・・」


 謡は冗談っぽく軽い口調で言ってみた。


「なんじゃ、そりゃ? ははは! まあ、彼女にも座敷わらしが見えたんだったら、そういう可能性もちょっとはあるかもな」


 高志が「まあ」以下はマジな表情で答えたのを謡は見逃がさなかった。


 粟乃は懐かしそうに言った。


「あのころ、あなたとレイ子さん、仲良かったからね。


 謡は覚えてないかもしれないけど、新婚旅行で南米に行ったあと、


 二人で本物のナマケモノを飼ってたんだから」 

 

「ほんと、おとうさん?」


「ああ。ほんとさ。旅行がちな俺の身代わりに癒してもらうために飼おうって彼女が最初に言いだして、俺も『いいね』って答えた。


 そしたら、あのころ既に輸入規制種になってたかどうかはわからないけど、


 あいつったら本当にどこからか連れて来て、お前が生まれたころには立派な同居人になってた。


 あいつが2号って名付けたから、何で? って聞いたら、高志さん2号って意味よって言われた」


 【彼女】と言っていたのがいつの間にか【あいつ】になっているのを、謡は聞き逃さなかった。


「覚えてないな、ナマケモノを飼ってたなんて」

「そりゃ、お前は赤ちゃんだったからな」


「で、どうなったの、2号は?」


「離婚した時、あいつが連れてった。実家で飼うって言って。


 俺も旅が多くて面倒みられなかったし、おばあちゃんが『あたしが面倒みようか?』って言ったら、


『いいえ、この子だけはそばにおいておきたいんです』って答えたから、


  俺は『じゃ、頼んだよ』って任せたんだ」


「ふ~ん」


 謡は『やっぱり、本当は2号じゃなくて1号と一緒に居たかったんじゃないかな?』と思ったが、口には出さなかった。


「ねえ、さっき聞きかけたことなんだけど、本当におかあさんがその後別の人と結婚したかどうかとかは聞いてないの?」


「ああ。本当にわからないんだ」

「わからないって、元奥さんのそういう情報が全く入ってこなかったの?」


「ああ」

「そんなの信じられないよ。普通、共通の友人とかから、そういう情報が入ったりするんじゃないの?」


「それが、離婚してあらためて思わないわけにいかなかったんだ。俺とあいつって、本当に別の世界の人間だったんだって。


 共通の友人もいないわけじゃなかったけど、


 俺の友人と彼女の友人とはこれまたやっぱり全く別の世界の人間で、


 別れてからは、俺があいつの友人と会うことはなかったし、


 あいつが俺の友人と会うことも全くなかったようで ・・・。


 あいつは社交的で友人も多かったけど、俺は本当に気の合うごく少数の人間以外は付き合わなかったし、


 そのごく少数の友人達と来たら、貧乏探検家だの、貧乏音楽家だの、貧乏有機農業家だので、俺自身も含めて、本来あいつとその友人達とは縁のないような連中ばかりだったんだよ」


「・・・」

 謡は絶句した。


 黙って聞いていた粟乃はつぶやくように言った。


「全く、高志とレイ子さんが結婚してたなんてありえないことだったようにあたしも思ってるよ。


その間に生まれた謡は結構奇跡的な人間じゃないかって、今話を聞いていて、あたしはつくづく思ったわ。


全く、神様の悪戯なのか、それともよほど深い意味でもあるのか ・・・」

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