* 46 *

 4時限目の授業が終わっても、名本さんは教室に姿を見せなかった。

 名本さんらしくないその行動が、ひどく気になる。


 食堂に隣接する売店でパンとコーラを買って、食堂出入り口近くの席でたいらげてから美術室を目指す。

 美術教師の坂上先生なら何か知っているんじゃないか、と思ったから。

 にぎやかな校舎を横切って、第1校舎の東階段を上がっていく。気持ちがく自分自身に不審を感じながらも、追い立てられるみたいに足早に歩く。

 息を切らせ気味で4階に到着し、廊下を左に曲がる。

「――そろそろ引っ越しだろ」

 半分開いたままの美術準備室から聞こえてきた男性教師のシリアスな声で、オレは足を止めた。坂上先生らしくない声音が、このまま聞くことをためらわせる。

「はい。そうですねぇ」

 のんびりとした語調。

 出直そうかと考えていたオレの思考がぴたりと止まる。


 ――名本さん?


「転校か……淋しくなるな」

「先生にそう言ってもらえて嬉しいですぅ。お世話になりました」

 残念そうに告げる坂上先生に、あっさりと言い返したのは名本さんの声。どうやっても聞き間違えられない、独特なしゃべり方。


 ――転校。


 その単語に愕然がくぜんとした。

 引っ越し? 誰が?

 心の中で、自分自身に聞き返す。

 どくどくと早鐘を打つ自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえる。


 ドアが開く音で我に返って、そちらを向くと、準備室から出てきた名本さんと目が合った。

「森井くん、どうしたのですかぁ?」

 驚いた名本さんは、すぐさま屈託のない笑みに変えて、美術準備室のドアを閉めながら問いかけてきた。

「転校って……」

「聞かれてしまいましたねぇ」

 オレの独り言のような呟きにあっけらかんと答えると、名本さんは美術室へ足を向ける。

「廊下に出たら真横に森井くんがいて、寿命が縮みましたぁ」

 部屋の中に入ると、笑みを含んだ声で名本さんが軽口を叩く。


 ――それは、こっちの台詞。


「オレも、驚いたよ」

 部屋の中頃なかごろで立ち止まり、胸に広がる思いを言葉に乗せる。

「そうですよねぇ。…誰にも話していなかったのですが、ばれてしまいました」

 不本意そうな語調は楽しげにも聞こえた。

 窓際まで進んだ名本さんは机の上に広げた紙を片づけ始める。

「どうして?」

 口をついて出た台詞。

「家の都合です」

「いつ、転校するの?」

「準備ができ次第です。早ければ、来週には」

 矢継やつばやに質問するオレに、名本さんもよどみなく答える。


 そんなに急に……。


「…どこに、引っ越すの?」

「長野です」

「………そう」

 いつもと変わらない調子で話す名本さんに、何も言えなくなる。

「すごく久しぶりに感じますねぇ。ここで、森井くんとお話をするの」

 オレの方を振り返って、名本さんが嬉しそうに笑う。

「うん、そうだね」

 同意すると、名本さんは顔を窓へと移す。

 それにあわせて長い髪がふわりと揺れる。

「…雨ですねぇ」

「うん」


 数日前まで、よく見ていた光景。

 もうすぐ見れなくなる。


「名本のことが好きだって、言ってくれましたよね」

 窓の外の景色を眺めたまま、名本さんが呟く。


 言った。2回。

 その時には、引っ越すことが決まっていたのだろうか。


「例えば数年後、偶然再会して、」

 一旦言葉を区切った名本さんがオレの方に向き直って満面の笑みを咲かせる。

「お互い独り同士だったら、名本が森井くんを貰ってあげますね」

 いたずらを思いついたように、嬉々として宣言した。


 ――数年後偶然再会して……。


「そんな偶然ってあるのかな」

 楽観的な彼女の口つきに、胡乱うろんな感情が湧く。

 やっぱり、からかってるんじゃないだろうか。

「袖振り合うも多生たしょうえんと言いますし。こうやって知り合ったのも、何かの縁ですよ」


 ――そんなことが本当にあるのか。

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