第10話 naissant

…もしここで私が、「貴方は過去の人ですよ」と告げたら、どうだろうか。


仮定が、その女性の短絡的な考えを一旦制御した。


――私がもし、彼の立場にいたとして、急に訪れた世界の人に、「貴方はもう今は居ないのですよ」、と、言われてしまったら。

人は必ず何処かで死を迎えて、史を終えるもので…、けれど、いざ改まってそんなことを言われたら、…私は死んだ身なのだ、この人がここに居る時には、私はもうこの世には居ない、…と考え込んでしまうかもしれない。

少なくとも、良い気はしないだろう。


そんな結論に至ったので、その女性は、――きっと彼との別れが来るだろう日まで、いや、一生、女性がこの世を去るまでずっと、彼が「過去の人」だという言葉は生涯仕舞い込んで口にすることはしないだろう。…いや、しない。女性は、思考に呑まれいつの間にか耳に届きづらくなっていた彼のピアノの音に意識を次第に持っていきながら、密かに小さく決心をした。



「…ねぇ、」


と小さく声が聴こえた。それは他でもなく彼のものだと女性は瞬時に判断した。しかし彼はまだそのままピアノに身を任せたままであった。もしかしたらさっきの声はピアノに紛れていたし私の聞き間違いかもしれない、と女性が思いだしたその時に、彼はふとピアノの手を止めた。


ままに永久にでも続いてゆけそうな旋律が急に止まった。流れていた優美な空間はそれと共にすぅと消えてゆく。女性にはそれが少し惜しかった。


彼は鍵盤の上にそっと手を添えながら椅子に横向きに座り直して女性の方に意識を向けた。目線はやや床の方に向いているので表情がよく分からない、が、その空気からして彼女は緊張して耳を傾けるほか無かった。


「ねぇ君はさ、僕が来て、…」


と言い掛けて、彼はまた別の文を紡ぎ始めた。


「…僕は、ここに来たけど、僕は、 …僕は此処でも音を描くんだろうな」


 それは案外独り言に近かった。何かを問われるかという予想からくる緊張は解け、自然と女性の肩の力が抜ける。


「だからね、君にも僕の詩を聴いてほしい」


 微笑みを浮かべつつ彼は顔を上げた。はっきりと彼は笑っていた。女性はどうしてよいか分からず、ただ戸惑ってしまった。言葉が出なかった。あのなだらかなピアノの音と、その次に訪れた彼の声色はまるで今までの女性の世界で聴く音とは違った感触、彩り、を持っていたので、女性はその空間に声を出して踏み入れてしまうことを無意識に懼れていた。

 だから、ただよく笑えていたかは疑問だけれどひとつ、なるべく彼に応える様に精一杯の笑みを浮かべ、これもまた彼にちゃんと伝わるようにしっかりと頷いた。


 この動作を見届けてくれた彼は、もともと浮かべていた笑みとは比べられない程に、ぱあと顔を晴れさせた。目を細めて、「ありがとう」、と言う。


 これは女性にとっても酷く嬉しいことで、本当にその彼の様子にほっとして、微笑ましく思っていたのだが、それと同時に悲嘆にも似た物苦しさを感じていた。そしてそれは、笑みを浮かべた自分の表情を歪めて絡め取ってしまう事を容易にするほど大きかったのだが、女性はわざと、目の前の一人の音楽家としての男性を安心させるために一度浮かべた笑みを絶やさないことに必死になって、その哀しさか愛惜か哀惜の念だかに近い塊から目を背けてその目を細めた。



そうだ、ココアを持ってきます、と女性は立ち上がる。我ながら驚くほどに無意識に出た行動だった。


―…もしかしたら、私はこの罪の意識から逃れたいのかもしれない。しかし…何が罪なのだろう?―


ただ、逃げたいような負の蟠りが自身に発生したのを女性はなんとなく認識できていた。


「そう?ありがとう。僕、ここのココア好きだよ」


音楽家の彼はピアノがよく似合った。その様子は、むしろ楽器まで含めて彼なのだろうかと錯覚してしまうのに易かった。きっと距離はそんなに遠くないだろうに、彼の笑みとピアノがあまりに自分とは遠い存在に思え、最早空間自体にも、私たちの間にはひどく隔たりがあるのではないか、とも女性は感じた。そう思える一番の要因は、あまりに男性が邪気のない清浄な笑みを浮かべて綺麗だったからだ。 

 あまりにごたごたと考え事をする己に対し、ピアノと一心に向かい合う彼の精神はきっと美しい。それは、女性にとって、雑多な自分の魂からは、あまりに純粋な、何千年前の異国の彫刻のような世俗離れしたものだった。


 ココアをいれつつ、女性は思った。

 あの音を聴けてしまうことはなんて幸せなものなのかと。私はその彼に何が出来ているのかと。もしかしたら他の人の許へ行ったら彼はさらに幸せになるのではないかと。


 その考えは、あまりに彼女にとって悲痛なものであった。それゆえ今は無理に明るい思考を作って、ただ前者の幸せだけを考えて満たされたような気持ちになっていた。その辛うじて前向きな気持ちの持ち様が現在の生活を支える条件なのだから、彼女にはそれだけで一杯一杯だった。

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Poème du compositeur yura @yula

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