ホットココア

ささなみ

ホットココア

 午後五時。


 学校から帰ると、マンションの部屋はひんやりと静まり返っていた。

 食卓の上を見ると、”遼へ”と書かれたメモが残されている。入院中の祖母を見舞いに出かけた母親は、まだ帰って来ていないようだ。”頂き物のマシュマロがあるから、美咲ちゃんと食べなさい”と走り書きされている。


 手を洗うよりも先に、ダイニングに置かれたガスストーブの電源を入れた。部屋を暖めておかないと、寒がりの美咲に怒られてしまう。

 案の定、すぐにインターホンの音が鳴った。美咲だ。

 ただ、この日は新しい来客もいた。


「りょーうー……」

 ドアを開けた先に、情けなさそうな顔で佇む美咲。その両手に包まれた、驚くほど小さい、小刻みに震えている茶色の子猫が。


「マンションの前にいたの」

 遼が持ってきたバスタオルの上にそっと寝かされたのは、まだ目も開いていない子猫だった。少し灰色がかった濃い茶色の毛並みには艶がなく、少しすすけている。 遼がそっとひざ掛け毛布に包んでやると、応えるように弱々しく口を開けた。

まだ冬本番ではないけれど、夜の冷え込みの中に放っておくなんてとても出来なかった、と美咲は少し涙目になりながら訴えた。

「どうしよう……。遼の家、飼える?」

 美咲がおずおずと尋ねてくる。

「ずっと飼えるかは分からないけど……。飼い主募集のポスターとか作って、飼ってくれる人見つけようよ。取り敢えずそれまでの間なら飼えると思う」

 遼の提案に、美咲の顔がほっと綻んだ。

「そっか、そうだね。そうしよう」

 安心したように息をつく。美咲が来てからずっと張りつめていた部屋の空気が、ふっと緩んだ。


「じゃあポスターはまた明日作ろうか。ココア飲む?」

 言いながら腰を浮かせると、美咲の目がぱあっと輝いた。

「飲む!ココア飲むために毎日来てるようなものですよー」

 無邪気に喜びながら微妙に引っかかることを言う美咲に、何それ、と苦笑しながら台所へ立つ。

「ココアにもミルク飲ませてあげないといけないよね。飲めるかな……?」

「ココア?」

「この子の名前。決めたの」

 ふーん、と相槌を打ちながら、牛乳の入った鍋を二つ、火にかける。片方の鍋には、大さじ一杯の砂糖。

「今日は、お母さんは……?」

「んー。七時は過ぎると思う。だから七時に帰れば大丈夫」

 少し遠慮がちに尋ねた問いに、美咲のくぐもった声が返ってきた。立てた膝に顎を乗せて、子猫、もといココアを覗き込んでいる。遼はそれを横目で見ながら、子猫に飲ませる牛乳が入った鍋を火から下ろした。もう片方の、ふつふつと泡を出し始めた牛乳にココアパウダーを大さじ二杯加え、泡立て器を手に取ってかき混ぜる。


 美咲の母親は、美咲が遼の家に遊びに行くことを快く思っていない。美咲はそんな母親の目を盗んで、遼が私立の中学校へ進学してからも、毎日変わらずやって来る。


――女の子が男の子の家に遊びに行くのは不純なんだってさ。

 いつだったか、美咲が投げ遣りにそう言っていた。

――何されるか分かんないからだって。同い年で幼馴染みのお隣さんにそんな失礼なこと思いつく方が不純だよね。

 そう言って鼻で笑った美咲の、暗く濁った目が忘れられない。


 美咲の母親は厳しい。それはもう異常なまでに。世間ではそれを虐待だとか毒親だとか言うのだと思う。家の外で会った時には、とても愛想が良い。優しそうな人に見える。隣に住んでる僕にはどうせバレバレなのに、馬鹿じゃないの、と思う。

 ほとんど毎日のように、死ね、という絶叫、美咲が怯える声とともに、床や壁を何かで殴りつけるような音が聞こえる。それが始まると遼は、嫌悪感と怖さと悔しさと、その他色んなものがないまぜになったような感情とで耳を塞ぎたくなる。

 美咲。内気なくせに、遼にはすぐに怒る美咲。いつだって遼の隣にくっついてくるくせに、肝心なことはいつでも、一人で抱え込もうとする美咲。

 その悲痛な声を聞いておきながら。助けに行けない自分が、嫌になる。

 行き場のない感情は、何も出来ない自分への、憤り。


「ねえ、何でココアって名前にしたの?茶色いから?」

 また耳を塞ぎたくなって、そんな思考を振り払うように明るい声を出した。

「え?」と美咲が振り返り、「うーん」としばらく悩む仕草をしてから、

「確かにココアって思いついたきっかけはそうだけど……。でもこの子にココアって付けようと思ったのは、遼がいっつも作ってくれるココアが好きだからかなあ」と言った。

「いや、褒めても何も出ないよ?」

 苦笑いを浮かべながら、マグカップにココアを注ぐ。美咲のはこっくりとしたオレンジ、遼のは緑がかった深い青だ。人肌に冷ましておいた子猫用の牛乳は、白いプラスチックのボウルに入れた。引き出しからスポイトを出す。マグカップのココアにマシュマロを浮かべ、お盆にのせてダイニングまで運ぶ。

「何よ、お世辞じゃないよ。ほんとだよ」

 美咲が鼻息を荒くして言い張っている。遼ははいはい、とあしらうと、マグカップとボウルを置いて立ち上がった。

 美咲はそんな遼をじっと見詰めていたが、ついと目線を逸らして、


「救われてるの」

 そう言って、さらりと笑った。


 その笑顔があまりにも素敵で。

 気づけば一瞬、茫然と立ち尽くしていた。

 手に持っていたお盆を落としそうになって、はっと我に返る。


「大丈夫?」

 美咲が怪訝そうにこちらを見ている。それにうん、大丈夫、ともごもごと返し、お盆を片付けに台所へ戻る。

「何よ、どうしたのー」

「何でもない」

 喉の奥、胸の上辺りでばくばくするものを誤魔化すように、少し大きめの声を出した。


「ふーん。私ね、遼のココア飲んでる時がいっちばん幸せだよー」


 ほら、またそんなことを言う。

 いつも救いに行けない僕に、救われていると言う。

 少し涙が滲みそうになって、慌てて目をしばたいた。


 これで君が少しでも救われていると言うのなら。

 救われているのは、僕の方だ。


 ダイニングに戻ると、美咲が子猫に牛乳を飲ませていた。スポイトに入れた牛乳を、少しずつ少しずつ与えている。その背中は驚くほど小さくて細い。

「どっか遠くに行きたいね」

 ぽつりとつむがれた言葉。

「……そうだね」

 言葉が喉の奥に絡まる。遼はそれ以上何も言えず、美咲の隣にそっと腰を下ろした。


 昔、まだ小学生だった頃。

 何だか受験勉強に追われる毎日が苦痛に感じて、遼がちょっとした家出をしたことがあった。

 結局それは、上手くいくはずもなくて。深夜のシャッター街を歩いているところを警察に見つかり、補導されてしまった。

 帰ると親は呆れていた。美咲は半泣きで怒っていた。

――馬鹿じゃないの!

 半分泣き顔、半分怒り顔の不細工な顔で叫ばれて、ちょっと笑ってしまった。そして余計に怒られた。


「ねえ」

 低く掠れた声で、美咲が言う。

「今度は私も、連れてってね」

「……いいよ」

 同じことを、思い出していたみたいだ。

「ココアもね」

「そうだね」

 どちらからともなく顔を見合わせて、ふわりと笑い合った。

 美咲がつ、と手を伸ばして子猫の茶色い毛並みをそっと撫でた。

「ココア、あったかいね」

「どっちの?」

 思わず聞き返すと、美咲が吹き出した。

「どっちも!」

 やっぱりややこしい名前だね、とくすくす笑ってマグカップを手に取る美咲の横顔に、ふっと笑みがこぼれる。


 午後六時前。毛布にくるまれたココアが、みゃ、と小さく鳴いた。

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