第5話  一球

「監督、来てやったぜ!」


 本当に来たし! 

 ホームルームが終わってすぐに逃げ出そうと思ったのに、相手に先を行かれた。本当にこちらのホームルームが終わると同時に川相が教室に入ってきたのだ。しかも既にジャージ姿で。

 くそっ、早すぎだろ……。そして、声でかすぎだろ。

 そんな親しそうに話してるの見られたら、変な噂流れちゃうかもしれないじゃねえか。


「うん、分かったから、静かにね。後、俺が頼んで来てもらった感じて言うのやめろ。なんなら、お帰りください。それから俺は監督じゃないから」


「ガーン! 監督、それは酷いぜ! 昨日はあんなに私達の体に教えこんでくれたっていうのに」


「おいっ、その悪意ある、言い回しはやめろ」


 って、おい。何だ、その、悪意? って疑問そうな顔は。まさか今の天然か!

 そして周りのクラスメイト達、何があったみたいな顔しちゃってるから! ただでさえ、この人は色々な面で目立つってのに。


「ていうか、川相一人か? 風木はどうしたんだ?」


「佳苗? 佳苗は、咲々を呼びにいったよ」


 一瞬咲々って誰だっと気になったが、思い出す。

 ああ、咲々って昨日言っていた最終メンバー、それからピッチャー候補の子か。そういえば、昨日連れてくるとか言っていたような気がする。あまり覚えてないが。


「風木も言ってたが、その、咲? って人、本当に凄い球投げるのか?」


「うん、凄いよ! 私に目掛けて投げてきた球が浮いたもん!」


 球が浮いた――ノビのある直球が武器ということか。

 その嬉々と話す川相の様子と風木の発言からも、本当にピッチャーとして良い球を投げるのだろう。それを聞いてどんな球を投げるか、少し興味が出る。そして、ピッチャーとしてのその子だけではなく、野球選手としてのその子にも少し気になることがある。


「監督も見てみてよ。あの球があれば、私達絶対勝てるよ!」


 とりあえず見てみるだけなら、別に問題はない。


「分かった。とりあえず、見るだけ見てみるよ。ちょっと気になるしな。ただし、今日は野球を教える気はないぞ。っていうか、もう教える気はない」


「はいはい、分かった、分かった。うん、じゃあとりあえず見てみようよ」


 何その軽くあしらわれてる感じ。何か凄え腹立つんだけど。


「ってことで行くよ。レッツゴーだぜ!」


 そう言うと、急に川相が俺の手を掴んで引っ張ってきた。それに逆らうことが出来ずに鞄を急いで掴んで、引かれるままに川相に付いていく。

 ていうか、おい、だからそういうのを人前でやられると見せ付けカップルみたいに見えるからやめろ。


「悪いけど、離してくれないか?大丈夫だって。ちゃんと付いていくから」


「嫌だ!」


 そうか、嫌なのか。俺はそれ以上どうすることも出来ず結局引かれたまま連れて行かれた。


   ☆★☆★☆★☆


「こんなところでやってたのか……」


「だって、場所無いんだもん。しょうがないじゃん!」


「いや、しょうがないって言われても」


 俺が連れてこられたのは、校舎裏にある裏庭のような場所。そのスペースは下はコンクリートが広がっていて、グラウンドへ続く道以外は校舎とフェンスに囲まれている。そのフェンスに沿って木々がずらりと並び、ベンチも二つあるが、それは正直野球をやる上においては邪魔でしかないだろう。広さは狭いという訳ではないが、野球をやるとなるととても充分な広さとは言えず、精々出来るとしてもキャッチボールと軽いバッティング、ノックくらいだろうか。いや、バッティングをしたら下手したら校舎に当たってしまう。正直練習場所としてはあまり良い条件では無い。ただ、ここを通って第一グラウンドに行くことも出来るが別段近道という訳では無いことと、校門もわざわざここを通らなくても行くことは出来るということもあって、ここは人通りは少なく、その点では良いかもしれない。とはいっても、人影は皆無という訳ではなく、度々通る人もいるが。

 しかし、こんなところでしか練習出来ないっていうのは、本当に結構悲惨だな。


「こんな場所でしか練習出来ないっていうのは、きついな」


 ただでさえ勝ちが難しいのに、という言外な言葉も込めて言う。こりゃ、まともな練習が出来ないじゃねえか。


「うーん、ここだけって訳ではないよ。ここも他の部活が使う時あるからそういう時は近くのちょっと広い公園でやったりするからね。ただ今日は使ってる部活なし、通行人なしの最高の日だね!」


「そうか、それは良かったな」


 普段が知らないから最高なのかどうかは知らないが。

 にしても、今のところはこの場には俺達しかいない。その咲という人どころか、風木も他の部員も姿が見えない。


「で、その咲とかいう人や他の部員はまだ来てないみたいだが」


「咲々は佳苗、ちょっと苦労してるのかもね。後の部員は何かしらやってるんじゃない。着替えてる子もいると思うし」


「お前は着替えるの早かったよな。俺迎えに来た時には既に着替えてたし」


 寧ろいつ着替えたんだ。


「いやー」


「いや、別に褒めてないから」


「えー! ぶー!」


 何故か口を尖らせて、不服の意志を見せている。

 何でそんな不満そうな顔してるんだ。


「まあ、早いとかじゃなくて、私達のクラス六時間目体育だったから、そのまま来ただけだけどね!」


「ああ、そういうことね」


 自分で言っといてなんだが、特に興味もない為、無愛想な返事になってしまった。

 だがそんな俺の態度にも特に気にする様子はなく、川相は「さて、準備準備!」とフェンスの前にある木の方に移動し、その陰にあった箱を出して、その中からホームベースとグローブを数個取り出した。


「それ、何だ?」


「んっ? ホームベース?」


「何で疑問系? てか、そっちじゃなくて箱の方だよ」


「ああ、こっちか。これ前の女子野球部の残し物。グローブとか入ってるぜ! 普段は更衣室に置いてるけど、今日は体育の最中にあらかじめ置いといたんだよね」


 へえ、準備良いな。でも、最中って何だ? まさかサボり?

 そんな俺が向ける疑惑の目を一瞥することも無く、川相は取り出したホームベースをそのままこのスペースの最奥に移動し、フェンス前の木から五メートル程離して置く。そしてポケットからチョークを取り出し、そのホームベースの両隣にバッターボックスを描き出した。本当に準備良いな。ていうか、どこから調達した、そのチョーク。


「よしっ、じゃあ先にキャッチボールしよう、監督」


「えっ、あっ、ああ、キャッチボールね。って、いやでも、俺に合うグローブ無いからな。あと、俺は監督じゃないっての」


 ドクンと跳ねる鼓動。ちっ、キャッチボール誘われた程度で動揺しちまうのかよ。俺も弱くなってしまったものだ。


「大丈夫、今日休むって言っていた男子野球部の人に、今日だけグローブ借りれたから!」


 どんだけ準備良いんだ!


「まっ、まあそれなら問題ない、か……」


「ということで、ほいっ!」


「あっ、おいっ! おっとっと」


 ひょいっと、持っていたグローブの内の一個をこちらに投げてきた川相。不意だった為驚いたが、問題なくそれを拾う。


「おいっ、他人のなんだからもうちょっと丁重に扱えよ」


「いやあ、監督なら絶対捕ってくれると思ったから」


「何だ、それ……」


 何で昨日会ったばっかの奴が、熟練バッテリーみたいなこと言っているんだ。まあ、ナイススローイングだったけど

 填めてみると、案外ぴったりだ。

 あの頃からの自分の手の成長に少し喜びを感じる。


「じゃあ、行くよー、監督ー!」


「……はいはい」


 川相は俺と少し距離を取って、そう言うと俺にボールを投げ込んできた。昨日俺が教えた甲斐あってか、ボールはしっかり俺の胸辺りに届いた。


「今のはナイスボールだ、川相」


「あざーす!」


 その後も何球か球が行き来する。

 その度に鳴るバシバシという音は、見て聞いていただけの昨日とは違い、過去の記憶を揺さぶるように耳に響き渡る。

 そうして十球目程の球が俺の所に届いた時点で、あちゃーとかほちゃーとか無駄な効果音を付けていた、川相が急にそれをやめた。


「あのさ、監督。監督はさ、私達は今のまま勝てると思う?」


 不意な質問。その言葉は普段と同じく明るい声で発せられた為、疑念というよりかは単純に俺の意見を聞きたいだけといった感じか。

 どう言うか迷ったが、ここははっきり言うべきだと判断する。


「まあ、今のままじゃまず無理だろうな。相手の実力は知らんが、強豪と呼ばれる程なら間違いなく勝てるレベルでは無いだろう」


「うーん……皆そう言うよね。でもやってみなきゃ分からないじゃん!」


「いや、無理だ」


 今度は言い切った。

 それはそうだ。

 向こうには実力的知名度、練習設備、経験、どれも負けている。どころかこちらはそのどれもが無い。普通にやったら勝てる見込みなんかゼロだ。

 特に経験というのは勝つ上においてかなり大きなウエイトを占める。それが無いというのはかなり痛い。


「なっ、何でさ」


 俺のはっきりした意思表示に少したじぐ様子の川相。

 あっ、ボール落としかけた。分かりやすい動揺だ。


「一番の理由は経験の差か。そもそも強豪と素人の集まりを比べること自体間違いだ。だから普通は勝てない。それでもその経験の差をひっくり返し、ここの野球部が勝てる見込みがあるとすれば二つだ」


「二つ……?」


 何故かゴクリと音を鳴らして唾を飲み込み、緊張した面持ちになる川相。


「まずは単純だ。経験が無いなら経験を積んでから勝負すれば良い。ただしその間、勿論相手も練習して強くなっていく。だから、それ以上の経験値を積んでいかなきゃいけないが」


「えっ……」


 一転、今度は呆けたような顔をする川相。

 どうやら言っていることがよく分かっていないらしい。


「だから、簡単な話だよ。現時点ではまだ相手より弱いなら、相手より強くなってから勝負すれば良いだけだ。昨日の話聞いてれば、チャンスは一回だけかもしれないが、別に試合する時期は早くなければいけないって訳では無いんだろ? だったら――」


「いや、そうも行かなくてさ」


 俺の言葉を遮ってそう言った川相の目は、真っ直ぐとこちらを見据えている。俺はその言葉の意味を視線で問い、それに川相が答える。


「相手も練習試合やらで中々予定が空いてないらしくてね。それに地区大会が六月から始まるんだよね。だから、時間が取れるとしたら今頃の時期か、大会後しかないってさ」


「なら、大会後で良いんじゃないか?」


 普通ならそちらの方が賢明だ。でも、そんなの普通に考えればこの川相でも分かる。なら何か理由がある筈だ。

 それを俺は問うた。


「いやー、限られた高校生活で出られる大会には限りがあるんだから、それに私達も早く出たいんだ。甲子園を目指したいんだ! って感じだからさ。だから、それに間に合うように今勝つしかないって訳。あと、さっさとちゃんとした練習場所でも練習したいしね」


 自分の夢のシーンを想像しているのだろうか。空を数秒眺めた後、俺におどけた笑顔を向ける川相。

 しかし、これまた意外だな。


「甲子園を目指したいか……。既に目標なんてあったんだな」


「うん、まあね。凄いでしょ」


「ああ、確かに凄いな」


「あれっ、なんか珍しいな。監督今まで否定ばっかだったから、何も言ってこないとしっくり来ないじゃん」


 素直に凄いと思ったから褒めてみたんだが、何でそんな訝しげな目を向けられなきゃいけないんだ。ていうか、出会って間もない人にそう思われるって、俺そんなに否定しかしてないか?


「……あのね、私が野球始めたのって、今年のWBWC見たからなんだ」


 少し間を空けて再び川相が口を開く。それを聞いて急にどうした、と顔に出てしまったのだろうか。一瞬俺の顔を視認してから、俺が聞くよりも早くその答えを川相は出す。

 それは俺も見た。正直盛り上がった。決勝戦で勝って日本の優勝が決まった時なんか友達と喜びあったぐらいだ。


「今回の大会で私は初めて野球をちゃんと見たんだけど、一つ一つのプレーに感動させられた。ピンチになっても気持ちで投げきるピッチャーや絶対に捕れないと思った球を取るセカンドやセンター。どれもカッコいいと思った。自分もやってみたいと思った。あの選手達みたいに、勝ち負けの掛かった真剣勝負をして、それで勝って、大観衆の待つ大舞台に行ってみたいと思った。魅了してみたいと思った、その人達を」


 そう言う川相の目は輝いていたが、その目は子供のような純粋で無垢な輝きを放つだけの目ではなく、夢見る人間が見せる、未来への希望を宿した目だった。

 それを見た瞬間、不意に脳裏に甦る。

 中学二年の夏の大会。大舞台まであと一歩まで迫ったチーム、期待に満ちた自分。

 そしてそれと共にフラッシュバックする嫌な感情。

 俺は失敗したが、理解してしまった。共感出来てしまった。川相のその気持ちを。

 ただ、それが難しいと理解しているから、早目に野球部を作っておきたかったんだろう。ったく、変なところだけ理解している。


「なるほどな、それで早目に作りたいって訳か。でも、それ以前に今回負ければ終わりなんだぞ。出来なくなってしまうくらいなら、一回分を棒に振ってでも、ほぼ確実な勝利を狙った方が良いんじゃないか」


 まず、ほぼ確実な勝利が存在し得るかは微妙なんだが。それでも、練習を積んでからの方が勝率は高いに決まっている。


「どうせ大会出たら当たる可能性の高いチームなんだから、その二軍にも勝てないようじゃ勝ち上がるなんて無理だよ」


 むすーと少し不機嫌そうに川相は言うが、俺の方が一般的な意見だと思うんだが。でも、そういうギャンブルは嫌いじゃない。寧ろ好きだ。それに、もう意見は固まっているんだろう。今更俺が言ったところで無駄だったと分かっていた。


「そうか、ならもう二つ目しか無いな」


「二つ目……?」


 さっきと同じようにごくりと喉を鳴らす川相。

 時間を掛けないでこのチームが勝つ為の方法。それは――


「ピッチャーに賭けることだ」


「ピッチャー!? ……に賭けるってどういうこと?」


 大きく驚きの声を挙げた後、一転キョトンとする仕草をした川相。首を傾げた仕草がまた絵になっている。

 いや、今はそれはどうでも良い。それより、やっぱり分かってないのかよ。


「あのな、野球ってのは良くも悪くもピッチャーの出来で試合が決まるといっても過言では無いんだよ。だから、ピッチャーが強豪を抑えこむことが出来たら負けはない。あとはこっちが打つか打たないかだけだ」


「つまりどういうこと?」


「つまり、その今連れてくるピッチャー候補の実力次第ってことだ。その対戦校と渡り合える球を持っていなければ、その時点でほぼ百パーセント勝ちは無い。が、逆に言えば、それ程の球を投げられるなら、勝機も出てくる」


「それなら大丈夫だ! 咲の球なら誰も打てないよ」


 その言葉には偽りも迷いも感じない。純粋な信頼がある。一球見せただけでそこまで言わせるとはな。本当に興味が引かれる。

 でも、野球は思った通りに上手くいくスポーツではない。どんなに良いピッチャーでも絶対に勝てるなんて保証は全くない。でも逆に言えば予想外なことがよく起きるのも野球だ。確率が高い方が全てという訳ではない。

 それに、これは勝てる見込みというよりは一つ目の経験値への付随という形になるし、何となく言いづらかったから言わなかったが、仮にピッチャーが最高だとしても他の野手の能力が低いならそれだけ勝率は下がっていく。つまり勝つ為の条件というよりは、その勝ちの確率を上げることが出来る条件がもう一つある。そしてそれはこの素人が多い野球部ではより必要なことだろう。


「そうか、じゃあ大丈夫だな」


「うん、大丈夫だ」


「頑張れよ」


「えっ。……あっ、ちょっ、急に応援しないでよ! だから否定しない監督は気持ち悪いって!」


 だから何故怒られなきゃいけないんだ。ていうか、気持悪いは言い過ぎじゃないか。


「それと、頑張れよじゃない。頑張るぞ、だって!」


 継続して若干の怒りを感じさせながら、責めるような視線を向けられる。


「いや、だから俺は監督はやる気は無い。俺だって本当は――」


 そこで言葉が止まる。

 本当は……何だ? つい、無意識で出た言葉。自分で言いかけたくせに、先の言葉が出てこない。俺は今、なんて答えようとしたんだ。


「監督……?」


「おーい、連れてきたわよー!」


 俺達の会話を割くように聞こえたその声の方に目をやると見えたのは、急ぎ足でこちらに向かっている風木と風木に引かれているジャージ姿で鞄を引っ提げた子が一人。あの人が咲々……いや、咲か?

 パッと見の第一印象は、女子らしい女子ということ。何というか、可愛い顔立ちというのだろうか。顔だけで言えば、”凄い球”を投げる人には見えない。

 その咲って人と目が合った。しかし、すぐにぷいっと顔を逸らされてしまう。それによく見たらあれ、風木に引かれているというよりは、風木が無理矢理引きずっていないか。咲って人、抵抗しているように見えるんだけど。


「遅いよ、佳苗ー! あと、久しぶり、咲々!」


「あっ、えっと、そうだね。二日ぶりだけど」


「ごめん、ごめん。ちょっと咲を説得してたら時間掛かったわ」


 二人が側まで来ると、三人で会話を展開し出した。いや、説得って今の説得して連れて来たようには微塵も見えなかったんだけど。


「えっ、説得って、最終的には無理矢理風木さんが――」


「ねっ、そうだよね、咲?」


「……うっ、うん」


 怖い、この人怖い。今、風木、否定しようとした咲って人を目と雰囲気だけで制したよな。てか、やっぱり無理矢理だったんじゃねえか。


「えっと、でね、さっきも話したけど、今回咲に来てもらった理由は中学二年まで野球をやってたこの人、『魔術師』こと常田智史君に咲の球を見てみたいと思ったからなの。あっ、そうだ、常田君。この子が凄い球を投げる真田咲ね」


「あっ、ああ、どうも」


「あっ、はい、初めまして」


 俺の挨拶に対して小さい声で気弱そうに答える真田。人見知りする子なのだろうか。


「じゃあ、早速咲々は監督に球を見せてあげてよ。球は佳苗が取るからさ」


「えっ、監督? あれっ、まだ監督決まってないって――」


「あっ、いや、違うんだ。それは川相が勝手に言ってるだけで。だから川相、俺は監督やるなんて一言も――」


「さあ、始めよう! 二人とも問題ないよね?」


「だから人の話聞けよ!」


 何でこいつは人の話を聞き流すんだ。

 スルースキル高過ぎだろ。


「ていうか、問題ないってそりゃ、」


 俺は見るだけなら問題ないが。


「やっぱり投げなきゃだめ……?」


 やっぱりあっちは難色示してるじゃねえか。

 そりゃ、そうだ。別に良かったなら、こんな大人しそうな子が断ろうとなんてしないだろう。


「お願い! 一球だけでも良いから」


 目を瞑り、顔の前で手を合わせて懇願する風木。


「私からもお願い! あと監督からもだって!」


「あれ、俺そんなこと言った記憶ないけど!」


 覚えのない俺の分も勝手に含めて川相も手を合わせている。

 そんな二人を真田は交互に見渡して、最終的には、はあっと諦念めいた溜息を吐いた。


「分かった。一球だけなら……」


「おおっ、流石、咲だぜ!」


「ここにきてやっとまともに呼んでくれるんだ……」


 川相がパアッとした笑顔で喜びを表現した後、皆移動する。

 ベースのすぐ後ろにキャッチャーとして風木、そのすぐ背後に俺と川相が横並びで立ち、鞄を近くの木に掛けた後箱から取ったグローブを自分のサイズに合うことを確かめると嵌めて、ベースから離れたところで向かい合うように真田が立つ。


「じゃっ、じゃあ投げても良いかな?」


「良いわよ」


 お互いに意思を交換してから、真田が投球モーションに入った。

 いよいよか。


「監督、見てなよ!」


「はいはい、分かってるって――」


 ――放たれた。真田の右手からボールがリリースされた。

 瞬間、美しいと感じた。一瞬だったがその動作に目が奪われた。足から上半身、そして腕、手へ。力が上手く伝わっているのが分かる、流れるようなゆったりとしたフォーム。若干低めのリリースポイントからボールが放たれるまで全く余分な力を込めず、逆に必要な力は全て伝えきろうと言わんばかりの理想的な投げ方だ。

 しかもそれでいて、リリースの瞬間に全ての力を込めたであろう球は、そんなフォームとは対象的、速く、常に力強く進み、一瞬の間に風木の元に接近していた。

 俺達はといえば、川相は尻餅を付いて倒れ、俺は逃げるように後ろに下がっていた。

 何だ、今の球……。


「前に見たけど、改めて見るとやっぱりすげー!」


「ああ、惜しい。ミットを掠ったけど、取れなかった」


 風木のミットに当たり、軌道が逸れたボールが俺の右側を転々としている。

 まだ呆然としている。あんな球、男子野球でも見たことが無い。

 さっきの球、プロ以外の女子野球をちゃんと見たことは無い俺でも、速いというのは分かる。だがいくら早くても、高校に入学したばかりの女子が投げる球。中学の時に対戦した相手にも今の球より数字上では速い球を投げる投手はいくらでもいた。しかしさっきの球は、体感的にはそれらにも引けを取らないどころかそれ以上の球威を持っていた。

 それにそれだけじゃない。今の球で特に凄かったのは、球のノビだ。浮き上がるように見える球だと。あんな球、男子でもそうそう投げれるものじゃない。

 そもそも、運動神経の良い筈の風木が、バッター無しでミットに掠るのがやっとってどういうことだよ。


「ねっ、監督凄いでしょ!」


 自分のことでも無いのに、何故か誇らしげに胸を張る川相。

 だが、ここは認めざるを得ない。


「ああ、本当だな。全く、あんな球見たことねえよ」


 衝撃を受けた。いや、未だに受けている。だがしかし、あれ程ピッチャーをやる上に置いて申し分無い球を投げられるのに、野球をやる気は無いんだ。何故なんだ。それが気になった。


「そんな凄い球投げられるのに、野球部入らないのか?」


 だからか、自然とその疑問が口から出てきていた。無意識だった。


「……はい。私は誰かと野球をやる気はないです」


 弱々しくそう言った真田の顔には、陰りのようなものが見える。

 やはり何かあったのは間違いないみたいだ。

 でも、何だ、この気持ちは。この遺憾な気持ちは何だ。羨望の次は遺憾か。不意に過る、さっきの真田の投球フォーム、そして球。


「ごめん、それじゃ私帰るね」


「ちょーっと待ってよ、咲々」


 っと、真田が帰ろうとした途端、その前に出て制止する川相。


「えっ、なに、どうしたの? そしてまた、その呼び方なんだ……」


 本当にすんなりと帰れると思っていたらしく、川相の予想外の行動にたじろぐ真田。

 対して、川相の方はニヤリと不敵な笑みを見せる。


「少しだけ私達と野球していかない?」


「えっ、でも一球投げるだけって……」


「まあまあ、ちょっとぐらい良いでしょ、咲。別に野球部に入ってって訳ではないし、ちょっと野球の練習に付き合ってほしいってだけだから」


「そっ、そんな……」


 こいつら、最初からその気だったんだな。

 なんとういうか、卑怯というか。なかなか悪どいな。


「勿論、監督も!」


 おいおい、監督って奴もかよ。そいつ、可哀想だな。


「……って、俺もかよ!」


 何で俺まで。そもそも監督じゃねえし。


「俺も野球はやる気無いんだけど」


「まあまあ、常田君。ここはお願い」


「いや、そう言われても……」


 普段大人びた雰囲気のある風木に覗き込むように言われてしまうと、言葉に詰まってしまう。

 しかし、またそんな急に言われても。

 こっちにも心の準備ってものが必要なんだよ。


「私も出来れば、やりたくないんだけど……」


「あー、もう監督も咲も前々から何言ってるの! 何があったか知らないけど、二人共野球上手いくせにやりたくないとか、贅沢過ぎ! しかもその割に、ボール触ってる時とか投げる時は生き生きするくせに!」


 俺達の野球拒否に対して、幾分か憤慨も込めた口調で言う川相。

 その川相の言葉がやたら心に引っ掛かった。何か鋭い物に心を傷つけられたような。そんな感じもした。

 生き生きしている……? 俺が? 嘘だろ。そんな自覚全く無かった。

 久しいから感じるものははあった。でも、そんな傍目に見て分かる程に俺は……。


「それに、本当に二人の力が必要なんだよ。皆が何と言おうと私は絶対勝てると思ってる。でも、それは私が思ってるだけで絶対じゃない。そうだよね、監督。――だから、それを絶対にする為に咲の力が必要なんだ。それに私達はまだ、野球を全然知らない。だから、指導者が必要なんだ。だから、監督の力も貸して欲しいんだ」


 川相の真摯な眼差しが俺達を射抜く。その目は勝利への貪欲さの表れでもあり、そして俺達への信頼の表れでもある。こんな少し話して練習付き合っただけのよく知らない奴をこんなに信頼して。ただ、その真っ直ぐさは何故だか羨ましいと思った。これだから、あの人数を集めることが出来た訳だ。

 どうにも最早誤魔化せる雰囲気ではない。いや、俺が誤魔化したくない。


「素直に俺の実力を認めてくれているのは嬉しいよ。でも俺は今野球と関わることを恐れている。自分から拒否してるんだ。だからまだ、こんな気持ちで監督なんてやることは出来ない。だけど、あるかは分からないけど、野球と向き合おうと自分が考えることが出来た時、その時まだ俺を必要としてくれてたならその時は分からない。――まあ、しょうがないから今の練習はちょっとぐらいは付き合ってやるけどさ」


 言いながら、ふと真田の方を見てみると、驚いた表情でこちらを見ていた。


「そっか、うん。ありがとう、監督!」


 一転、満開の笑顔を咲かせる川相。表情バリエーションが豊かな奴だな。

 いや、ていうか、


「おい、聞いてたか。監督は今はやる気無いって」


「じゃあ、未来の監督ってことで」


「それも分からないって言ったんだが……」


「監督ならやるでしょ」


 ニシシっと悪ガキの見せるような笑みを見せられると、どうにも一概に否定しづらい。何故だかこっちまでそんな気になるから不思議だ。


「で、咲はどうなの?」


「えっと、その……」


 今度は風木に問われ、俯いて言い淀む真田。

 だがそのスパンは短く、すぐに顔を上げると再び口を開いた。


「――私も練習付き合うよ」

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