夜: 終焉の日 [須佐政一郎]

 私は静さんの手を引きながら、懸命に駆けていた。

「静さん、もう少しで中央広場です! 頑張って下さい!」

 彼女へと向けたはずの言葉は、その実、足がもつれて立ち止まってしまいそうな自分自身へ向けたものだった。

 政庁の早鐘が鳴り続いている。

 規則正しい間隔で島にいる者全員に急を知らせている。その音のせいで私は思っていたよりも大きな声で喋ってしまったくらいだ。

 雨も、降り出してきた。

 日も暮れた曇天の空は、灰色ではなく黒みがかった色に変色し始めていた。

 足が、知らぬ内にできていた水溜りを強く踏む。

「キシャァァァァーーー!!」

 後方から追いかけてくるヒトガタの声がまた一段と近づいてくる。

「シズちゃん、頑張って下さいね!」

 静さんのもう片方の手はシャルロッテ嬢が握りしめている。

 私と彼女、二人で静さんを引っ張ぱりながら、前へ、前へと足を動かし続ける。

 止まらない、いや元より止まれない道を駆け出しているのだ。

 私が、この手の中にある温もりを何よりも優先すると誓い、行動したせいで何人もの命が失われていった。これまでも、そしてこれからも。

 彼ら彼女らに対し詫びる言葉をかけられるはずもない。そんなことをして心の重しを放り投げるつもりもない。

 角を曲がるその時、背後を振り返ってしまった。

「キィジャァァァァアアアーーッ!!」

 体躯をくねらせながら四肢と尾を使い、口を大きく開きよだれと唾を撒き散らし、狂った声をわめき散らしながら怪異達は進撃していた。

 灰色の塊達が奇怪にうごめきつつ私達を喰おうと殺意を垂れ流す。

 全身の毛が逆立つのを感じた。

 “前を見ろ”

 灰色の壁を幾重もの銀色の光が切り裂く。

 降り注ぐ雨つぶは切られたことすら気付かずに落下しただろう。

 それは、私達を追いかける怪異より、はるかに美しく気高く、そして寒気を感じさせるものだった。

 白き騎士——兵装を展開したテレジア嬢がハルバードを振り回し、殿しんがりの足止め役を買って出る。

 彼女はヒトガタをあらかた斬り終わると、気配も音もなく主人に付き従う影のように私達のすぐ後ろの位置へと走る。

 緋呂金の屋敷から中央広場までは距離がある。

 日が沈み、悪天候にもなり、昨日以上に大量発生したヒトガタに喰われずにいられているのは彼女のお陰だ。

 彼女とその主人ならば怪異の群れに襲われたとて余裕で切り抜けるだろうが、私と静さんはそうはいかない。だから走る、全力で。

 見えた——! 中央広場の北の入り口の篝火が! しかしその門は固く閉ざされている。

「おぉい! 政務官の須佐だ! 開けてくれ!」

 声を投げかけてから気付いたが、どうやら私達にかまっている状態ではないらしい。

「政務官!? くっ!? 北方から敵襲来! 数多数により確認できず! 門を、誰か門を操作できる者は残っていないか!?」

 振り返り、首を左右に傾ければ、道と言う道がヒトガタに埋め尽くされているのが見てとれた。大量発生しているのは緋呂金からだけではない、間違いなく遠呂智の八本の封印全てが壊されているのだ。ヒトガタが自らの主であり母たる<八岐大蛇>を戒めから解放せんと最後の一本目を目指して中央広場へ殺到している。

 “<概念付与>”

 テレジア嬢が一言呟き、私達の前に跳躍する。

 右手一本でハルバードを逆手に持って投擲せんとする姿は、戦士と呼ぶほか相応しい言葉があるだろうか?

 “——<穿砕せし超大型弩砲>——!”

 放たれた戦斧槍は、一直線に木造の門へと吸い込まれるように疾走する!

 ハルバードがかき鳴らす大気の振動は、刹那の内に破壊の衝突によって大音量の轟音、爆音と化す!

 私はとっさの出来事に、静さんの手を強く握ることしかできなかった。

 “行け”

 テレジア嬢の手が、私を強く前へと押す。

「何だ!? 敵の強襲か!?」

「まさか、破られたのか!? 何処だ!? 北門か!?」

 変わらないのは政庁の早鐘だけだ。急を告げるはずのそれは同じペースで鳴り続けており、この変化する状況に対応しきれていないのが何故だか間の抜けた印象を与える。

「せ、政務官の連れてきたバカ女が門を壊しやがったぞ!」

「何ィー!?」

 もうもうと上がる土煙を割って、私達は要塞化されている中央広場へと走りこむ。

 “お嬢様、私はここに残ります。彼女をどうか外へ”

 クレーターと化した地面よりハルバードを抜き取り、白き騎士は鎧を翻し、私達に背を向けてヒトガタの群れと対峙する。

 その手には銀に輝く刃が握られている。黒い曇天の下、そのまばゆい光は、迫り来る灰色の狂気を討たんとしていた。

「はい! あのあの、後でお迎えに戻りますね!」

 “…………”

 白き騎士は主人たる少女の言葉には何も答えず、手にした武器を振りかぶる。

「ジャァァアァァーー、?」

「ギィィジャァァァァァ、?」

 私達を追いかけてきた間、途絶えることのなかった絶叫が、銀の刃の閃光によって終焉を迎える。

 その後ろ姿は、正しく、騎士と呼ぶに相応しい荘厳さと勇壮さがあった。

「ここは、ここは彼女に任せて私達は行きましょう」

 答えを聞かずに静さんの手を握り前へ走る。

 目指すはこの広場を抜けた先の先、島の南端にある政庁の先、外町へと続く石橋だ。

「須佐政務官、彼女は一体? それに緋呂金に行かれたのではなかったのでは!? ヒトガタを連れて戻ってくるとは一体何事ですか! それにその血は!? 何処をお怪我されたのですか!?」

 陣内を走ると一人の中年の男が駆け寄ってきた。この場を指揮しているのか。弐係に所属する人間だったと思い出す。

「緋呂金は落ちた」

「な、何ですと!?」

 どうやら私達のしたことはここまで伝わってきていないらしい。

 それも当然か。正門にいた守備隊は十秒と持たずに死に、緋狐は全滅、私が封印刀を叩き割った直後に出現したヒトガタが全てを埋め尽くしたのだから。

「ほら、見給え」

 私は足を止めて後方を振り返る。走り続け乱れた息を整える時間が欲しかったのが本音だ。

「ずっと立ち上っていた緋呂金の煙がもう無くなっているだろう? ヒトガタが緋呂金の鍛冶場を飲み込んだ証拠だよ。だから早鐘が鳴っているんだ。これの意味するところは君も知っているだろう?」

「それは……」

 それは警戒レベル伍への引き上げ——『全員すみやかに島外へ退去せよ。これは訓練ではない。自分の命を最優先にこの島から一秒でも早く逃げ出せ』、だ。

「ここも何時までも持たないぞ。奴らは無尽蔵だ。第一、壱係の連中は何処に行った?」

「壱係は各地で出現したヒトガタへの退治に出かけています。ここを守っているのは留守を任された者達です」

 この広場へ押し寄せる大量のヒトガタから察するに、壱係の者達の命運は芳しくない。

「須佐政務官、そちらの二人を連れて外へお逃げ下さい」

「君達も早く脱出しろ。例えこの島が怪異に奪われようとも我々は必ず取り戻す。その時には君達のような優秀な人員が必ず必要になる」

「それは——。自分達は、この島で生まれ育ちましたから」

 つまり決死の覚悟はもう固めているのか。

<八岐大蛇>が復活しようとも、教会の連中の張った仕掛け陣で対抗できるはず——少なくとも私はそう見ている。

 何人犠牲が出るか、出ているのか、考えるだけで頭の痛くなる話だが、知ったことか。

 私は彼女を、彼女から託された静さん一人を何よりも優先すると誓ったのだ。

<八岐大蛇>の再封印後、町を立て直すのには人員がいる。

 中央からの圧力や横槍もあるだろう。

 だからこの島のために命を投げ出せるこの者達こそ、再建には必要なのであるが……。

「すまない、武運を祈る」

「はっ、政務官こそ」

 私は再び駆け出した。

 今度こそ、守り抜くために。


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 雨が、降ってきた。

 私は一人神社への道を走る。

 前に来た道だ。間違えも迷いもしない。

「ん、何だ?」

 急に、鐘が打ち鳴らされた。

 時間を知らせる鐘の音のはずだが、まだその時ではない。

 と思っていると、連続で途切れることなく鳴らされる。

「まさか……!?」

 この島へ入るにあたり須佐政務官殿から二つの注意点を聞かされた。

 一つ、夜十時以降は外出禁止であると言うこと。それはヒトガタと呼ばれる怪異が現れるからに他ならない。

 そしてもう一つが、もし鐘の音が連続して鳴り出したら、すぐさまこの島から逃げ出すように、と。それはもしもの時の緊急措置の合図だそうだ。

『全島民はすみやかに島の外へ逃げ出せ、と言う命令の合図です。ははっ、そんな事態になる訳もありませんが、この島で生活する以上覚えておいて下さい』

 嫌な予感がする。

 幾つもの推測が頭をよぎる。指し示すものは一つしかない。

 まさかと湧き上がる疑問を、やはりと言う思いが打ち消す。

「……ん、爆発音?」

 大きな鐘の音に爆音が混じっている。

 鐘の音は島への入り口の政庁から、爆発音は上方から、か。

 頭を上へと固定しながら、神社へとつながる階段へと足を運ぶ。

 整然としていた階段は見るも無残な状態であった。

 巨大な刃物で斬り付けられたような亀裂が至る所に走っており、大きく穿たれた跡まである。

 所々に人が倒れている。守備隊の衛士達か。

 私はロザリオを取り出し、最も近くに倒れている者の所へと駆け寄る。

「お前は……!」

 胸を鎧ごと斬られている。

 私は一つ深呼吸をする。心を乱した状態でのヒーリング効果など高が知れている。

 これは体をあるべき姿へと戻すため、肉体の再生力を活性化するものだ。祈りの力を恩寵具<ロザリオ>を通し、再生力へと変化させる。

 正しい祈りでなくば、あるべき健康体へ戻せるはずもない。

 その時、頭上からの轟音が私の耳に襲い掛かった。

 あまりの大音量に、耳がその機能を一時的に失う。

 しかし、私は一度始めた祈りを中断する訳にはいかなかった。

 己の言葉や降り始めた雨音、鳴り続ける鐘の音すらもキーンと言う高周波音が上書きする。


「あー、ほんと、うっとーしーっての!!」


 音が聞こえるようになる寸前、私は確かに彼女の声を聞いた。

 火炎の射手、日鉢燈殿の凛とした怒声を。

 祈りを終え、傷がふさがっていくのを確認し、私は階段を見上げる。

 遠い。私はすぐさま眼鏡を外す。

 目をこらす。私には見えるはずだ。いや、見なければならない。日鉢殿が戦っているとしたら相手は誰なのかを!

「くっ! ヒトガタか!」

「な、何……!?」

 が見えた。動物のものではない。人の命を狙う狂った生命体特有のものだ。

 どうする?

 今すぐ加勢に行くべきか? それともこの階段で倒れている人達を手当てすべきか?

 ここは、

 上へ進むしかない! 上にいるヒトガタを迎え撃たなければ、階段になだれ込まれ全ては無に帰す。

 一刻も早く階段の上にいる日鉢殿のところへ行かなければ!!

「日鉢殿! 今そちらに向かいます!」

「おい、お前……!?」

「ぅぇえ!? 何でリーゼちゃんがそこにいんのよ!?」

 上から湧いてくる怪異を押し止めることができれば、階段に倒れている人達が体を休め避難する時間を稼げるはずだ!

「私は奴らを食い止めに上に行きます! 早くこの人達を連れて避難を!」

「ま、待て……ぐっ!」

 お互いの声はまだ遠い。

 私は全速力で石の段を蹴り、体を上へ上へと持ち上げていく。

「シャァァァァーーー!!」

「うるさいっての!!」

 轟音が先ほどより大きく聞こえた。

 鳴り続ける鐘の音の内に響くその音は、萌と過ごした夜に聞きなれた音だった。

 “私はここに、剣に誓う”

 走りながら<氷の貴婦人>を真正面に構え、『解放』の言葉を紡ぐ。

 “狂った暴威に光を示し、悪しき獣達から人々を守る刃となることを”

 だが、蒼き刃には何の変化も

 何が違う?

 いや、それは分かっている。

 私がこの剣に捧げられた想いに相応な身かどうか、分からない。だが、鍛冶師が願った誓いの重さは——……

 違う!

 私が、かの剣匠が想ったのは唯一つ、

 そう、気高きあの人に、相応しい剣を、と。

 そうだ、どうしようもない愚かな彼に、笑われはすまい、と。


 “幾千の戦場を歩き、幾万の戦火を浴びようと——ただ正義のための剣となろう”


 私は階段を駆け上がりながら、剣の刃に埋没していく。

 私は、彼のことを全て知っている訳ではない。

 私が知るのは、あの人の横顔でしかありません。


 私は想う——どうしようもなく自分に無頓着で、死にたがりで、それでいて無謀とは違う不思議な勇気を持つ彼のことを。


 “全ての怪異を滅ぼすために——”


 だから私は願うのだ、彼を害する辛苦を全て断ち切らんとする刃を。

 だから私は願うのです、あの人に相応しい刃をと。


 “我、ここに誓う——”


 最後の段を強く踏み、空へと跳躍する。

<氷の貴婦人>を逆手に持ち替え、大地に、その蒼刃を突き立てる!


 “<終生ただ一振りの剣とならん>!”


 蒼い刀身は細かく砕け、私の願いが剣をあるべき形へと導く。

 灰色の怪異がひしめき合う広場で、六本の刃が雨降りしきる空へとはばたいた。


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 暗い。

 真っ暗で何も見えない。何時の間にか、僕は暗闇の中にいた。

 試しに目を瞑ってみる。

 あ、目を開けてても閉じてても同じだ。

 体を動かそうとすると、中の臓器を尖った爪で鷲掴みにされたような激痛が腹部に走った。

 ——痛っ!

 頭の奥にまで痛いのが伝わってきた。

 ——うぅ、気持ち悪くなってきちゃった。

 手で痛むところを触って確かめてみると、

 ——あれ? 穴かな?

 甲冑を着てるはずなのに、亀裂って言うか、穴が空いているのが分かった。

 うぅ、国司さんからの借り物なのにどうしよう、とほほ……。

 感応型の恩寵兵装は、そりゃあ展開できるようなものとは値段が落ちるけど、高いものはすっごく高い。弁償なんてできそうもないぞ、うん。どうしよ、うぅぅ……。

 そもそも、ここは何処だろう? 何で僕はここにいるんだろう?

 僕は、椅子に座らされている。木製かな? 触ったこの感じ。

 体を傾けて手を伸ばしてみる。

 お腹がすっごく痛いけど、そこは我慢しなきゃ。

 あっ、届いた。指先に硬い感触が伝わる。広い空間にいる訳じゃない。狭い部屋だ。個室って言うのが正しいかな?

 手探りであたりを確認していると、しわがれた女性の明るい声が右隣から聞こえてきた。

(ハロハロハー! 萌ちゃんお元気〜!?)

 ——エリザベートさん?

 何時か語りかけられたのと同じだけど、この部屋の隣にいるってのが、声から伝わってくる。

 ——ここ、何処なんですか? 僕、どうしてここにいるんでしょう?

 外に出て、やらなきゃいけないことが、たくさんあるのに。

(うぅ〜ん、残念。それは違うわよ)

 ——え?

(ここはね、罪を悔いて懺悔する場所なの。ちゃんと話さなきゃ、ね?)

 ——え、え、え?

 まるで意味が分からない。

(は〜い、お婆ちゃんと言いましょう、父と子と聖霊の御名において私の罪を告白します。はい!)

 ——え、言うんですか?

(もっちろんそ〜よ! はい!)

 ——ええと、父と子と聖霊の御名において、僕の罪を告白します……?

 僕、聖教の信徒さんじゃないし、そもそもこの言葉の意味を良く分かってないんだけど、いいのかな?

(前回の告白より——て萌ちゃん初めてだわよね。ほほほ、あらやだお婆ちゃんたら、はい!)

 何を言えばいいんだろう? 状況が掴めてない。

 ——うぅ、私は初めて罪を告白します……? かな?

(うん、いい感じよ、いい感じ〜! はいじゃあ次は——)

 ——あの、僕、死んじゃったんですか?

 込み上げる吐き気と激痛が、そんな考えを僕に思い起こさせる。

(うふふ、ナイショ! さ、全知全能の神と修道院、そして聖コンスタンスに萌ちゃんの罪を告白しちゃいなさい。うん、さ、お婆ちゃん全部受け止めてあげちゃうから、どーんと来てね、萌ちゃん!)

 ——うぅ、頭がこんがらんがっちゃってますけど……。全知全能の神と修道院と聖コンスタンスに僕の罪を告白します。僕は、僕は——

 何を言うべきなのか、詰まったけれど、言葉が口から続いた。

 ——人を、斬ろうとしました。

(ま! 物騒ですこと!)

 ——他にも、大切な人との約束を果たせませんでした。

『負けんなよ、萌』

 ——リズさんを……大切な人を、悲しませちゃいました。

 リズさんに迷惑ばっかりかけてました。

『バカ、みたいじゃないか……』

(う〜ん、どうして人を斬ろうとしたのかしら?)

 ——それは……。

 刀の、この人のせい?

 違う、刀を振るったのはあくまで僕の意志、僕の決定だ。他の誰のせいでもない。僕の——

(燃やせ燃やせ燃やせ燃やせ燃やせ燃やせ)

 声を上げ出した刀を、左手で必死に押さえつける。

 左手が熱い。火が、燃え上がろうとしている。

 ——僕の、自分勝手でどうしようもない、意地を通すためです……。

 左手に力を込めて、痛みと熱を押し殺す。

(ふ〜ん。まっ、リーゼリッヒちゃんはああ言ってたけど、萌ちゃんてば男の子さんね〜?)

(——燃やせ——燃やせ——燃やせ——)

 エリザベートさんの声に、この人の声が重なって聞こえる。

(ところでね、萌ちゃん、お婆ちゃん聞きたいのよ)

 ——何をですか?


(人体から錬成した武器を使う罪って、知ってる?)


 その言葉への動揺に付け入るかのように、

(燃やせ燃やせ燃やせ燃やせ燃やせ!!)

 この人の声が、強く響く。

(この国の法律じゃどうだか知らないけどね。お婆ちゃんのお国じゃ来世まで魂は地獄に繋がれるほどの大罪だって言われてるわ。ほほほ、怖いわよね)

 知っているんだ、この人は。僕の左手にある刀が、元々は人間だったことに。

 多分、僕とは違う流を習っていたことも。

(ぜ〜んぶお見通しよー。お婆ちゃんはね、とお話したことあるんだから。萌ちゃんも知っているわよね?)

 ——はい。

(なのにどうして、貴方は、彼女を使おうとするの?)

 ——それは……。

 日本皇国でも、人の体を用いる恩寵錬成は固く禁じられている。

 倫理的に問題があるからだけじゃない。からだ。

 人の体は、モノに変化できるようにできていない。それをあえて恩寵具とする——何故か? それは恩寵を物体として固定化するため……そう教わった。

 例えば、どんな人でも意のままに操れるなんて恩寵を持つ人がいたとしよう。それは上の階級にいる人や権力者にとってやっかいな者でしかない。自分達が何時操り人形になるか分からないからだ。

 でも、その力を恩寵具として物とすることができたとしたら? 人が使うことのできる恩寵兵装としてこの上ない名器となるだろう。

 でも、そう簡単に上手く人を物に変えられるはずもない。

 ならばどうするか?

 簡単だ。すればいい。それも、死んでも構わないようなを使って。

 そうやって多くの人が、実際に死んでいったと言う。

 それが人体による恩寵兵装の錬成——人の禁忌、外法の理だ。

 でも僕は、そうと知りながらさして抵抗もなく、この人を何度も抜いている。

 この人で怪異を斬った。あの人を斬ろうとした。

 決して侵してはならない領域に踏み込んでいる物を振る理由、それは……


『それは、全ての怪異を討つためです』


 突然、リズさんならそうやってかっこよく答えるのかな、なんて訳分からないことが頭に浮かんだ。


 ——この人のを、僕ならほんの少しでも分かってあげられるかも知れないって、そう思うからです。


 この人は言う、ただ一言だけ、燃やせ、と。

 僕には想像もできない。自分が物となることなんて。その重み、その覚悟を、想像することすら許されないと思う。

 けど、僕には聞こえる、『燃やせ』と言う哀しい絶叫が。

 意地を、燃やせと。

 自分の内にある、譲ってはいけないもの、絶対に通さなきゃ自分が自分で無くなるもの——その意地を燃やせと。

 例え自分が、燃え尽きてしまうとしても。

(それをリーゼリッヒちゃんが知ったら、どーしちゃうのかしら、ね?)

 ——う……とんでもなく怒られると思います。

 そしてすっごく嫌われちゃうと思います。そうなったら寂しくて泣いちゃうかも知れないけれど……。

 ——それでも僕は、この人を抜きます。

(抜かないで過ごせる、優しい世界があるとしても?)

 ——どうしても、です。

 振り返ると、散々な結果ばっかりだけど、

 ——僕は、何回やり直せるとしても、何回でも抜きます。

 このちっぽけな意地だけは譲れないから。

(うん、そう……。ほほほ、永劫回帰を肯定しちゃうなんて。お婆ちゃんの見たところ、七割以上虚勢でしょうけど、男の子だったら頑張らなきゃね!)

 ——ぅ……。

 見透かされている。

(でもそれこそが、実質的にになってしまい本質的には愚かなのままの今の私達には何よりも必要なことなのかしら)

 エリザベートさんの嘘みたいな真剣な囁きが僕の耳に届いた。

(告白しなきゃいけないのはお婆ちゃんの方ね。東雲萌ちゃん。だって、お婆ちゃんは、貴方に生贄になって下さいってお願いしに来たんだから)

 ——え?

(この地に敷かれた仕掛け陣はね、『<八岐大蛇>がいる状態』で『八人の人間』を一緒に閉じ込めちゃう、って代物なの)

 ——それって……?

(そう。そして、『全員死ぬ』まで『どれだけ時間を稼げたか』で、『喚び出す岩石の量』が変化するの。つまり、生贄君が生き残れば生き残るほど、)

 ——もし<八岐大蛇>が復活しても、再び封じられるかも知れないってことですか?

(そう。その生贄にはね、


 貴方が最適なの、東雲萌ちゃん。

 貴方に生贄になって貰わないと、お婆ちゃん達とっても困っちゃうのよ)


 ——どうして、ですか?

 その理由は、もう僕自身分かっている気がした。

(貴方が怪異に狙われやすい体質って言うのはもう知ってるわよね?)

 ——はい。

 僕は一人、暗闇の中で頷く。

(貴方は、間違えなくここ千数百年で一番旧人類に近い人間なの、萌ちゃん。だからね、怪異は貴方を狙わなきゃいけないの)

 ——狙わなきゃ、いけない?

(そう創られているからよ。怪異達が進化する時、親から子へ特性が遺伝することがあるけど、未だにそんなものを受け継いでいるなんて創造主の強い意志のせいね)

 ——怪異って、誰かが創ったものなんですか?

 そんな陰謀説は志水君が話してくれたけど。

(私達にはそう伝えられているわ。昔、ね。昔も昔、遠い昔に、一人の女の子がね、とても心を痛めていたの。力に目覚めた新人類とそうでない旧人類との対立、国家間の戦争、民族間・宗教間の争いに。力に目覚めたが故に、加速するばかりの争いにね。どうして皆もっと仲良くできないの、って。私達は同じ地球と言う星の一員のはずなのに、って)

 エリザベートさんの話が続く。

(彼女は、『自分以外の世界』に干渉する力を授かっていたと言うわ。何時までも続く、決して終わるともしれない争いを終えるには、皆の共通の敵がいればいい、って思いついて、十体の怪物を創り上げたの)

 ——えっ?

 十体の、怪物?

(それらはね、旧人類を優先的に襲うようプログラミングされていたの。しかも旧人類の火器は決して効かないように、ともね。そうやって、を創って、新人類が進化の遅れた旧人類を助けて導いてあげることがこの世界から人間同士の争いをなくすことなんだって信じちゃったの)

 僕は一人、エリザベートさんの告白を聞いていた。

(おかしな話でしょう? 人間同士の争いを止めさせるために、人間以外のものとの争いを創り出すなんて。でもね、その女の子には、それをするだけの力が授けられていたの、恩寵と言う力が)

 エリザベートさんの告白に、左手にいるこの人も聞き入っているかのように、刀は静かになっていた。

(彼女は調べに調べたわ。世界各地の伝承やおとぎ話に登場する化物のことを。そうして、それらに世界の人々が力を合わせないと倒せないような力を持たせるようにしたの)

 でもね、とエリザベートさんは続ける。

(彼女の創り出した怪物は彼女の望んだように世界を変えてしまったわ。多くの命が失われ、大勢の国や民族が滅んでしまった。彼女はその散りゆく命を見て何を思ったのか、それは分からないわ。女の子自身も死んでしまったのだから)

 ——亡くなったんですか?

(ええ、自分の創り出した十の怪物の一つと戦ってね。三つの宗教が聖地とする地へ解き放たれたものとね。三つの宗教の賢人達の力を借りて、たった一人で戦い続け、そして死んでいったの。きっとこう思ったでしょうね、これできっと皆争わなくて済む、って)

 僕の知っている話の中で、似ているものが一つだけある。三つの宗教を国教とする聖地を守護する国の建国物語だ。聖地を蹂躙していた怪異<三ツ首の狂犬>と、三賢人から授かりし英知によりその怪異を滅ぼした一人の女性剣士の逸話だ。

 その女性の名は——……。

 ——……。どうして僕にそんな話をしてくれるんですか?

(私達の罪の重さと覚悟を知って貰いたかったの。ううん、貴方には教えておかないといけない気がしたのよ、お婆ちゃん)

 リーゼリッヒちゃんには内緒よ、とエリザベートさんは付け加える。

 ——覚悟って、それは……?

(とてつもないを背負った私達は、その罪を拭い去るためにどんな罪を背負うことになろうともためらわないと言う覚悟よ。その覚悟を、リーゼリッヒちゃんにも持って欲しかったけど、お婆ちゃんの見るところ、萌ちゃんの方が正解かしら? だってリーゼリッヒちゃん真面目過ぎるんですもの)

 ふぅ、とエリザベートさんのため息が聞こえてきた。

(全ての怪異を滅ぼすため、我ら剣に誓う——ってね。年端もいかないリーゼリッヒちゃんや萌ちゃんを危険な闘争の場へ送り込んでも、後悔も悩みもしない。そんなひどい人なの、お婆ちゃんは)

 ——それは、嘘です。

(えっ?)

 ——だって、なら何でそんなに泣きそうな顔をしているんですか?

(……。あてずっぽで変なこと言ってお婆ちゃんをビックリさせないでね。これでも人生いっぱい生きてるんだから)

 ——あの人は、

(ん?)

 ——黒騎士、さんは、知っているんですか?

(さぁねぇ、どうかしら。あんなことをしでかした人をわざわざ列聖するぐらいですもの。知ってるんじゃないかしら)

 ——そう、ですか……。

 一つ、合点がいった。

 どうして僕が、あの人を前にすると心の奥が燃え上がってしまうのかが。

 知っていて、それを笑うからだ。

 リズさんなら、お師匠様なら、エリザベートさんなら、そんなことはしない。怒り、嘆き、悲しむ。

 それをあの人は笑う。

 クソくらえだ、と。

 だからリズさんはそれを許さない。戦って、負けて、傷ついてしまう。

 僕にはそれが何よりも怖い。

 僕が、どうなってしまっても。

 ——僕が、

(……。なぁに?)

 ——僕が、終わらせます。

(……)


 ——僕が、<八岐大蛇>を斬ります。


 決意を口にする。

 それが真実となるように——いや、真実にするために。


 もう誰も、

『ごめんね……はじめちゃん、ごめんね……』

『ははは、バカみたい、じゃないか……』

『……私、時間ないから……』

『そんなひどい人なの、お婆ちゃんは』

 悲しませないために。


(————……燃やせ……————)


 刀のささやきに、僕は今までで一番力強く頷く。

 焔が、僕の中と刀で燃え上がろうとしていた。


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「もー無理! 無理無理無理! 逃げちゃいなさいって、リーゼちゃんてば!」

「まだです! ここで時間を稼げればそれだけ他の地が優位になるはずです!」

 火蜂達の作り出す灯りの中、私達は戦い続けていた。

「だって——あ〜! 来てる来てる! もう来ちゃってるじゃない階段の下!!」

「ならば、階下にいた人達は無事逃げ出せたはずですね」

「違うし! 安心するところじゃないでしょぉー!!」

 日鉢殿の言葉通り、階段の下から灰色にうごめく物体が這い出してきている。

 ここまでか……。

 神社へと至る階段の上の広場にて、私達はたった二人でこの地から湧き出したヒトガタと戦っていた。

「キシャァァァァァァァァァーー!!」

 私達を取り巻くヒトガタは、こちらの事情、感情など知りはすまい。ただ人を喰らい、殺すだけだ。

 私の目が、奴らの動きを捉える。

 “——斬り裂け!”

 私の意志が、宙に浮かぶ六本の刃を目標へと走らせる。

<氷の貴婦人>から産み出された刃達が、空を踊る。

 降り注ぐ刃達は、ヒトガタ達へ絶対の死となる剣の雨となる。

 蒼い線が、奴らの群れをズタズタに引き裂き、闇へと帰す。だが、

「シギャァァァァァァーーー!!」

 剣をかいくぐり、ヒトガタ達はなおも私達へ襲いかかる。

 刃は六本、有限だ。対するは怪異、封印の失ったこの地では無限に増殖する最悪の厄災だ。

 振り回される腕をかいくぐり、私は<氷の貴婦人>を操り、敵の四肢を次々と斬り飛ばす。

「どっせーぃ!!」

 爆発と爆風が、あたりに降る雨の雫を弾き、ヒトガタを細切れの塊へと変える。

 見事な一射、だが……!

「腕の具合は如何ですか!?」

「まーかせなさい! お姉サンの体はこんな傷へっちゃらだってば!」

 明るい声だが、私の目はその虚勢を見抜く。

 もう二十は撃てまい。『解放』は一射が限界と言うところか。

 くそっ、己の未熟さに腹が立つ。

 黒騎士の剣風でつけられた傷は、かの騎士の本気の一撃であったようだ。祈祷により応急の手当てはしたが、日鉢殿は萌のように私の治癒で治りやすい体質でもなければ、私の信仰心など高が知れている。

 我々の籠城は、もう限界を迎えようとしている。もって後——

「くっ!?」

 煙を割って飛び出してきたヒトガタを、一刀の元に両断する。

 まだ倒れる訳にはいかない。

<八岐大蛇>が目覚めるのはもう時間の問題だろう。夜は刻一刻と深くなっていくのだから。

 この地の仕掛け陣、八人の中に私は残らなければならないのだ。それが、私の責任だ。

<八岐大蛇>は、封印するのに数百年間を越す月日を要した最悪の怪異だ。その怪異と共にこの地に残れば、命はないだろう。

「……ふっ」

 何処か、それがおかしくもある。

 私には恐怖がない。いや、死ぬのが怖くないと言えば嘘になる。今は平静を装っていても、いざその危機に瀕すれば、私は死にたくないと取り乱すだろう。

 けれども、

 私がそうすることで、彼が——萌が無事でいてくれるなら、そう悪いことではないのかも知れない。

 剣が、震える。

 私の意志に共感しているように感じるが、違う。私の目は、いや、目で見ずとも悟れる。

 剣に秘められた想いと私の想い、似ているようで、何処か大事なボタンがかけ違ってしまっている。

 今はそれでいい。敵陣の中で、剣を握る今この時だけは、その違和感すらも私の力となるのだから。

「新手が、来ます!」

「あ〜! あのハゲオヤジィ! 今度会ったらピカピカ頭を思いっきり引っ叩いてやるんだから!!」

 私は、

 “嵐となれ!!”

 六本の刃を周囲に、つむじ風の如く円を描くように動かす。

 蒼き刃達は、ヒトガタの灰色の体躯をやすやすと通り過ぎ夜の雨と共に地面へと落とす。

「キリがないっつーの!」

 火矢一閃、炎の花が夜の闇に咲く。

「ここで諦めて何とするのですか、日鉢殿!」

「もっちろん、休暇よキューカ!! こんな灰色ちっくな辛気臭い島なんておさらばしてやるんだから!」

「それには——セイ! 萌や国司殿も引っ張っていきましょうか? ——ハァァァ!」

「——っ……。何言ってんのよ、リーゼちゃん! あの五十路いそじのおハゲさんなんか無視よ、無視!」

 生と死と刃が交差する中、私達は雨に打たれながら、ただ怪異を滅ぼし合う。

 もう私達の周りにはヒトガタしか存在しない空間となっていた。

「悪魔を呼べば、ではなく、噂をすれば、でしたか。どうやらいらしたようですよ!?」

 私の目がかすかな怒声を捉えていた。

「ウッソ、マジ!? 本当にあの人だったらアタシ見直しちゃうかも!!」

「どけどけどけどけ、どけぇぇーーッ!!」

「はっ? 御手口さん!?」

「貴方は!?」

 階下より、一人のが馬を操りながら、ヒトガタで埋まった石段を猛然と駆け上がってきた。

 騎士、いや、その武者は、鎧に身を包んだ馬の鐙を両の足で踏みしめながら、左手に手綱を、右手に反りの強い太刀を握りしめ、当たるを幸いに階段を埋め尽くすヒトガタの体躯を斬って斬って斬りまくり、己が血路を自ら斬り開く。

 白刃が弾き飛ばす怪異の体躯は、降り落ちる水滴を弾き、物言わぬ塊となって地面へと落ちる。

<人馬一体>——その恩寵の名に恥じぬ一騎の武者が、灰色の海を一文字に切り裂いて到来する!

「乗れ、お前達!」

 駆ける勢いそのままに、私達の周りをぐるりと旋回しながら、ヒトガタを蹴散らす。

「助かりまっす! リーゼちゃん手!」

「はい!」

「退くぞォ!」

 私達二人が馬の背に飛び乗るや否や、馬は矢よりも速く、雨の中を来た道を駆け抜けていく。

「火の煌めきが見えたからまさかと思い来てみればこの樣か! 学園生を引き連れて何様のつもりだ、日鉢ィ!!」

「援軍が誰も来ないから踏ん張ってたんでしょーが! どーなってんですか、一体!?」

「知らん! 知らんがそこら中から奴らが湧き出してきた! 政庁からも出てきやがった!」

「なっ!? ならば皆は? 学園生の皆は!?」

「安心しろ。とうの昔に島外へ全員渡った。奴らが出始めたのはその後だ。今は何とか外町への橋を守っている状態だ」

「巌サンは!?」

「国司か……。あいつは……中央広場から逃げてきた連中の話では殿軍を一人買って出たそうだ。あふれてきた奴らは何故か全部中央を目指している。今頃はもう……」

「そんな……」

 馬はただ駆けていく。

 神社の階段はとうに駆け下りている。首を回して周りを見る。

 流れ行く夜の町の景色に、巨大な灰色の塊が北東の方向、中央広場へとうごめいていく。

 これら全てが怪異、ヒトガタか! 私達は今まさに怪異共の腸の中にいる!

「じゃ私達はどーすんですか!?」

「逃げだ、逃げ! 外町へ退去する! もう逃げるしかないぞ! 外町との石橋を落とす算段をもう始めている」

「はい? ボケるのは頭がおハゲになってからにして下さいよ!」

「俺を国司と一緒にするな、このバカ娘がッ! 政務官の話では、もともとこの島はそう言う設計とのことだ。ヒトガタ共が今晩のようにはびこることを予期していたらしい。この島全体を棺と見立てて封印するそうだ」

「棺!? 初耳ですけど!」

「耳元で怒鳴るな! 文句は全部政務官に言えッ!」

「私は、行けません」

「何だぁ!?」

「リーゼちゃん、何言ってんの!?」

「私は、残らねば……!」

「山ノ手の教会のことか? 諦めろ! あそこは早々に奴らの手に落ちた」

 私は唇を強く噛み、

「失礼します!」

「うえぇ!?」

「おいィ!?」

 体を丸めて、馬の背から外へと身を投げ出す。

 装甲を通して伝わる衝撃を、ぬかるんだ地面に転がりながら噛みしめる。

「んじゃ私も!」

「おいィ!? 日鉢ィ!?」

「なっ——!?」

 その光景に絶句する。

「つぉ〜っと。タタタタ……。んじゃ後は宜しく頼みまーっす!」

「何をしとるか、貴様らぁ!!」

 騎士は馬主を返そうとするが、

「ぽいちょ」

「日鉢ィ!? 貴様ァ!?」

 日鉢殿の右手から産み出された蜂達が、馬の臀部をつつき、本来あるべき経路へと走らせる。

「どうして——?」

 鎧についた泥を何気ない顔で落とす彼女へ問わずにはいられない。

「それはこっちの台詞。一人で残ろうとするなんて水臭いじゃない」

「それは——……」

 次の言葉が口から出てこない。

『それはこの騒乱を招いた者の部下として、私にはこの地に残る責任があるのです』——と。

「ほーら、そんな顔しないの。はいそーですか、何て下を向くのはアタシは嫌よ」

 日鉢殿が、私へパチリとウインクを一つくれる。

 私が異性だったなら、その輝きに間違えなく見惚れていただろう。

「さっ、行きましょ。どーせあの人のことだからくたばっちゃいないでしょ?」

 歩き出すこの道は、確実な死へと至る道だとは彼女は思ってはいまい。

 真実を告げられない我が身の勝手さに腹が立ちつつも、この人のくれた気遣いに、私は頭を下げる他なかった。

「行ける、訳がないではありませんか……」

「ん?」

「何を考えておいでなのですか!? 今からでも遅くはありません! 急いでこの島からお逃げ下さい!」

「てーい」

「痛っ」

 日鉢殿の右手の中指が、私の鼻を弾く。

「お姉サンに話してみなさい。今何がどうしているのか、リーゼちゃん知ってるの?」

「それは……」

 奥歯を噛む。

 雨は無情にも降り続け、怪異共の狂声が近くから聞こえる。

 鐘の音が、止まった。

 もはや島外へ全員退去するしか道は無く、その時間ももはや少ない。

 冷たい雨に打たれる。骨まで冷やされそうだ。

「この島に残れば……待っているのは死だけです」

「もー、バッカね〜。だったら尚更リーゼちゃん一人残せる訳ないでしょ?」

「……」

 私は何も答えられず、ただ黙って雨に打たれることしかできなかった。

 宙を漂っていた六本の刃が、私の意志を感じ取ったのか、一斉に地面に突き刺さる。

 話すしか、ないのか。

 私は淡々と、端的に日鉢殿に要点だけを話す。

 管区長殿が関与していることを告げるのが恥ずかしいのではない。この場に残る選択を、彼女に強いてしまいそうになる自分が嫌だった。

 日鉢殿は、不思議にも私の話を何処か当然のように受け止めていたが、

「でも、すっきりこないのよねぇ〜……。そんなに上手いことウチらの監視網をぬって八ヶ所も襲撃できるもんなのかなぁ……」

 と呟き、

「じゃ、行こっか」

 と、まるで何時もの夜警に赴くかの口調で私の肩を叩く。

「はっ——? 何を?」

「沢庵先生って、リーゼちゃんの担任よね?」

「え、ええ、はい」

「私が学園生だった頃、よく言われたものよ」

 日鉢殿は咳払いを一ついれ、

「『できぬとは決して考えるな』——ってね」

 似ている訳ではないが、似ていない訳でもなかった。

「私達が『できない』って考えるのはね、過去の事実や経験を基に未来を判断して、『できない』って考えちゃうからなのよ」

「は、はぁ……」

 それはそうかも知れないが、刻一刻と死が迫るこの場には相応しくない話題だ。

「でもね、『私』って人間は過去に誰一人として存在していないはずでしょ? だって『私』は、過去、現在、未来を見渡してたった一人だけの存在じゃない」

「あの、論点が見えてこないのですが……?」

「だーかーらぁ、『できない』って『私』が言うのは矛盾してるってこと。過去のあらゆる出来事から判断して『できない』って言うのに、肝心要の『私』自身が入ってないってこと」

 頷けるような、頷けないような。失礼だがこじつけレベルの暴論のような気もする。

「うーん、お姉サン的にこういう話、苦手なのよね。そうだ、こう考えてみてよ、リーゼちゃん愛しの東雲クンなら何て言うのかな、って」

「む」

 愛しの、とはどう言う意味だろうか? 第一、萌が『言う』のも無理がなかろうか?

 そう思ってみたものの、日鉢殿の無法な態度に押され、私は目を閉じて考える。

 この島の暗部を知り、彼はどうするのか、と。

 逃げる? いや、そんな物分かりのいいことを彼がするはずもない。

 あるとすれば、私を抱えて私ごと島から逃げ出す、か。残念ながらそれは通らない。剣を『解放』できた今の私の方が力量は上のはずだ。

 萌なら、

 あの人なら、

 あのどうしようもない萌なら、

 あのどうしようもないあの人なら、

 きっとこう答えるはず——

 きっとこう答えて下さるでしょう——

「まさか——」

「そう、そのまさかよ」

 日鉢殿は笑う、この島でたった一人。

「要は、倒しちゃえばいいんでしょ? その<八岐大蛇>を」

 大胆不敵なその発言に、<氷の貴婦人>の放つ蒼い輝きが一層強さを増して答えたような気がした。


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 静さんを下に残し、私は一人政庁の階段を昇る。

 先程までは鐘の振動を体全体で感じられ動きにくかったが、もう鳴らすのを止めさせている。

 早鐘の突然の終わり——それは、この島が敵対勢力の手に完全に落ちたことを意味する。

 この政庁からもヒトガタが湧いてきている。

 それもそうだ、この地には首を抑えるための祠があったのだから。

 もう残る封印はない。体を繋ぎ止める封印もどきが一本あるだけだ。

 ならばその楔を解き放つためにあらん限りの力を尽くすのは必定と言えよう。

 悪くない。

 息を切らし、膝に手をかけて力を入れる。階段を上へ上へと進む。

 それを見越して布陣を敷いていたのだから。もっとも、ヒトガタ達の発現速度は私の予想を遥かに上回るものであったのだが。

 最後の二本、緋呂金と志水神社の封印が近い時刻に壊れたせいだろう。

 エリザベートさんと離れていながらに連絡が取れるのは、黒騎士達が『部屋』を使っていない時だけだ。黒騎士達がこの島に来てからは三度しか話していない。

 私は私の思惑で行動し、あちらはあちらで勝手に行動する。利害など一致する訳もない。途中まで歩く道がたまたま同じだっただけだ。

 目的の階へとようやくたどり着く。

 上がってしまった息を整える暇もなく、目当ての扉を押し開く。

 途端、強い香が鼻の奥を刺激する。

 何時来ても慣れない、反吐が出そうな香りだ。

「はぁ〜い、弟さん、いらっしゃ〜い」

 はだけた着物の艶かしい女性達が品を作りながら私を出迎える。

「お邪魔するよ」

「なぁ〜んか下が騒々しいけどぉ、どぉしたのぉ?」

「きゃははは、どんどーん」

「すまないね、立て込んでいたせいで遅くなってしまって」

 私の声を遮り、上座から簾越しに私へと罵倒が飛ぶ。

 やれやれ、今日も長官殿はお冠か。

 あの簾の奥に存在する肉の塊こそ、我が弟にして須佐一族の長、この鳥上地方政庁の長官、須佐考二郎だ。

「あ〜ん、考二様怒っちゃ〜だぁ〜」

「いい子いい子してあげないぞぉ〜?」

 もはや私とは似ても似つかない代物に成り果てている。

 フヒヒ、と癪にさわるくぐもった笑い声が耳に届く。

『存在強化』の結界は、この肉塊の流すによって発動する。須佐の血が、この地に築かれた遠呂智初代兼智の建造物を介して反応することで、結界が形成されるのだ。

 遠呂智の結界が破壊された今この時においては『存在強化』により得られるものの天秤は、我々人類側ではなく、怪異側へと傾いている。

 私はかいつまんで手短に現在の状況を説明する。八つの封印が破られたこと、ヒトガタが各地で大量に発生していること、島の者には警備局の者も含めて全員撤退の命を出したことなどだ。

 当然の如く、反論、叱責の声が私へと飛ぶ。

 お前は一体何をしていたのかと。お前の役割はこの最悪の状況を防ぐことのはずだろうと。

 やれやれ、頭が痛いな。

「長官、お怒りごもっともですが、今は時間がありません。急ぎ退避しなくては」

 長々と続く愚痴を強い口調で遮る。

 時間が無いのだ。

 今こうしている間にも聖コンスタンスの仕掛け陣が発動するかもしれないのだ。

 この島にいる人間が八人になった時、外界と隔絶するが湧き上がると言う。そしてその内の全員が死滅した時、彼らが稼いだ時間に比例した大きさのが降るとされる。

 数百年前の記録の文言を鵜呑みにするほど私はお人好しではない。だが、この島にいる人間は段々と減ってきているのだ。

 ヒトガタとの戦いで倒れる者、島を出る者——この島の人口は減る一方だ。最後の八人に静さんを残すことだけは避けなければならない、絶対に。

「ああ、失礼いたしました、長官。少し心配ごとがありましたので……」

 それだけでこの肉塊は烈火の如き怒りを更に炸裂させる。

 私は拳を握りしめ、己の決意を確かなものにする。

「きゃははは、心配、しんぱーい」

「うぅ〜ん、お疲れに効くスッゴイ薬あるけどぉ、弟さんも試してみるぅ?」

 側女の彼女達はこんな状況にも関わらず相変わらずだ。

 いや、違うな。<思い出す>、どんな事態にあろうとも、ありとあらゆる命令に絶対的に服従できる女性達を集めたのだ。彼女達は今も『長官を悦ばす』と言う命令を実に真面目に行っているではないか。これぞプロ意識、と呼ぶのだろうか?

 その荷を早く軽くしてあげなければ。

「君達、ご苦労様だったね。島外へ避難してくれ、可及的速やかにだ」

「えぇ〜」

「あらぁ」

 抗議の声が簾の向こう側から挙がる。

 それもそうだ。長官殿はあそこから動けない。移動はおろか、食事、排泄、沐浴、その他ありとあらゆる人間的活動をあの場から一歩も動かないでしているのだから。

 側女の彼女達はそんな長官の生活の手助けとなる恩寵を持っている——はずもない。

「素晴らしい、流石は長官です。この須佐政一郎、感服いたしました。皆、長官は最後までこの島に残る決意をされた。私達がその心意気を無駄にすることはできない。早く支度を済ませるんだ」

 お前は何を言っているんだと、怒声がこちらへ飛ぶ。

「まぁ〜、考二様ったら素敵ィ〜」

「キャハハ、カックイイ〜」

 彼女達は相変わらずだ。

 私は全ての雑音を無視する。

「君達、長官の不退転の決意を助けるために、両手両足の腱を切って差し上げ給え。そうそう、手頃な血管もついでに頼むよ。血を流し続けないと結界は発動しないからね」

「はぁ〜い」

「う〜ん、チョッキンチョッキン、チョッキンチョ!」

 抗議の悲鳴が上がるが、優先されるのは私の方の命令だ。

 この地には三つの結界がそれぞれ独立に、だが相互に助け合う形で敷かれている。聖コンスタンスの仕掛け陣、遠呂智の八門禁刃、そして須佐の鳥上結界だ。

 遠呂智の結界が壊れたとて、聖コンスタンスと須佐の陣は残っている。<八岐大蛇>を圧し潰す効果を強化して貰わねば困るのだ。

 長官殿が仕掛け陣の生け贄となる八人の内の一人となるかは分からない。が、もはやどうでも良い。

 思い出すほどの感傷も何もない。一族の後継者たる弟と、力を持ち得ないの兄などに絆を見出せという方が無理なものだ。

 されど、

 私は両手の震えが止まらない。

 あの枯れた老人を刺殺したおどろおどろしい感触が未だ我が身を貫いている。

 胃の中のものを全て吐き出せと、体が内側から命令を出す。

 そうか、私は今、またしても人の命を奪い取ろうとしているのか。

 憎しみしか感じなかった緋呂金真行、軽蔑しか覚えていない我が弟、そんな私の人生において最も下劣な人間を、幾度となく殺意を抱いた者達を、実際に手にかけることがこんなにも吐き気を催すものだったとは!

 まだだ、私が奪った命はそれだけではない。現に今もこうしている内に私の命を受けて警備の任についている者達はヒトガタと戦い、傷つき、死んでいっているではないか。

 思い出せ、自分の罪の大きさを。忘れるな、自分がしでかしたことの重大さを。

『あの子のこと、お願いね、政一郎君』

 そう言って儚げに微笑みながら去っていった彼女との約束を! 私が守ると誓った静さんの温もりを!

 私は進む。後ろを振り返る暇などありはしない。ただ前へと。

 どれほど血に濡れていようとも、そんなことなど知ったことか。


 私が一階に戻ると、別れた時と同じ場所、同じ姿勢で静さんは一人ぽつんと通路の隅に立ち尽くしていた。

「政務官! 中央はもう駄目です、私達も撤退しなくては!」

「高木翁が最後の殿軍の指揮をかって下さるそうです! 須佐政務官は他の者達を連れて一刻も早く脱出を!」

 私の姿を見つけると、赤く汚れた包帯を巻いた者達がどっと近寄ってくる。

 彼らの目には静さんの姿は映ってはいない。それどころではないからだ。

 どいてくれ、私はこんなことをしている時間は無い。

 彼らに対して何と話したか、覚えていないし、思い出すこともないだろう。適当な相槌と何時もの作り笑いで彼らを追い払う。

「静さん、お待たせしました。さあ、早く島から逃げましょう」

「…………」

 私の手を、拒絶するかのように彼女は力無く振り払おうとする。

 私は力を入れて無理やり彼女を促す。

「シャルロッテさんは中央に残ったテレジアさんを迎えに行きました。まだ帰ってくるまで時間があるでしょう。さぁ、私達だけでも早く行かなくては」

「…………」

「さぁ!」

 彼女の手を握り、私は走り出す。

 シャルロッテ嬢のことだ、彼女の『盾』の恩寵はいかな大量のヒトガタと言えどものともしまい。たった一人で中央に行き、テレジア嬢を(彼女が生きていればの話だが)連れ帰ることも可能なはずだ。

 だからこそ、彼女には残って貰わなければならないのだ。

<八岐大蛇>に討ち勝つ力は無いにしても、にはなってくれるはずだ。

 欧州の中でも比類無きその力、存分に発揮してこの島の、いや、静さんの新しい生活の礎になって貰わなくては。

 そのためには早く、一刻も早く私達はこの島から撤退し、誰だかわからないが、八人には犠牲になって貰わなければならない。

 全てはそう——彼女との約束とこの手の温もりを守り抜くために。

 人の犠牲の上に成り立つ腐った島など、この世から永遠に消えてなくなってしまえ。


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 その場にいたのは三人の騎士——己が刃を手に、この場に立つべきは自分一人であると証明するかのように、激しく、猛々しく、相手の全てを否定するべく、持ちうる技量全てをぶつけ合っていました。

 降りしきる雨も、押し寄せるヒトガタなる敵対者達もその間隙に入ることは許されません。

 在るとするのならば、彼らと並び立つに相応しい技量と経験、打ち合うに足る刃、そして何よりも御主より授かりし珠玉な恩寵——それら三つを全て兼ね備えた人物でなければならないでしょう。

 そんな人物が、もし他にいれば、ですが。

 ‘ハーーハッハッハッハ! あァ? どうしたコラァ! 俺の心臓はまだ止まってねェぞォ!?’

 狩り取るべき罪を体現する黒き甲冑を纏う騎士は、高笑いをしながら黒刃の大鎌を振るいます。

 巻き起こる旋風は、その刃と同じく漆黒の色を帯び、可視なる無数の刃となりて、一輪だけ咲き誇る花の如く、他を圧倒し、超越します。その暴威はただ破壊のみをもたらし、塵一つ後には残さんとします。

「あぁ? うるせーぞ、この犯罪者! ここは日本だ、日本語喋れやこの野郎!」

 こちらも口数だけならば負けてはいないでしょうか。薄汚れたコートの下にはこの国の戦士達が着る黒の装甲があります。あの男の黒い甲冑が畏怖を与えるならば、この男のそれは年季を感じさせます。幾度をもくぐり抜けてきたであろう戦の残り火が、幾層もの汚れとなって表れています。

 手にするショートスピアを、三本目の手のように自由自在に操っています。

 踊っているかのように映るその姿は、その実、一分の隙も無い究極なまでに合理化された動きに他なりません。

 執行官の中での指折のあの男が、ただの一本の槍に翻弄されている姿など、遠く離れた祖国の者が見たら卒倒するでしょう。

 思想、信条は違えども、怪異に対する武をここまで練り上げている者をこの目にすることができるとは!

 試練を御与え下さった御主の見えざる御導きに心が洗われる思いです。

 “<概念付与、拷問官の打擲鞭パイチェ アウス フォルチュア>!!”

 残る一騎は、白銀に輝く鎧兜を身につける白き女執事です。

 残る二人とは異なり、自らの恩寵のみしか口からは発しません。

 寡黙にして華麗、勇敢にして苛烈——吟遊詩人が見れば十の歌を即興で吟じ、画匠ならば命尽きるまでこの騎士の戦いぶりを描き続けるに違いありません。

 黒騎士と一度対峙したあの夜よりも勝る鬼気迫る怒気、殺気、剣気——ですが、足りないのです。

 言い方が悪いのを覚悟しましょう、所詮はルツェルブルグに仕える執事と言うべきでしょうか。

 求められるものがそもそもの前提として異なっているのです。

 あの男は全ての罪を狩り取るに足る、槍の騎士は、恐らくはそう、——それらを実現した闘法が、私の目の前で繰り広げられている戦いなのでしょう。

 それに対し、ルツェルブルグの執事に求められるのは、極限に突き詰めたです。それを主人へと突き立てることによって無限の破壊がばら撒かれるのです。

 主人のいない戦場では、放つべき方向を見失ったクロスボウのようなものです。つまり、足りていないのです。

 しかしそれでも——この場に立つに足る実力を備えているのは流石と呼ぶべきでしょうか。

 白き騎士のハルバードが硬度を失い、宙を舞う鞭となって周囲に存在するもの全てを打ちます。

 音速を超えた証左の風切り音が、怪異共の最後の悲鳴に混じりながらも耳に良く届きます。

 その破滅の軌跡は、上から下へと流れ落ちるはずの雨つぶや穿たれた地面、そして哀れにも消し飛んだ怪異の残骸から僅かに推測できるぐらいです、それ程の速さです!

 目標は怪異だけではありません、この場に立つ残る二人の騎士にもその鞭は飛んでいます!

「おい、ネーちゃん! 過去は水に流すつー日本の諺があってだなあ!」

 槍兵は顔色一つ変えずに避け、ショートスピアを身体中で踊らすように動かして、さばきます。

 ありえません。ありえてはいけないはずです。その武術の域、人外のさらに上へと届いています!

 ‘カッ! まだまだ足らねェなァ! もっとだ、もっとよこしやがれェ!!’

 こちらは正しい意味で人外です。鞭と化したハルバードの刃、槍と斧と爪を合わせたそれに斬られ突かれ引っ掻かれ、身体中を鎧ごと削られ続けてなお、その声はさらなる闘争を求めて叫び続けているのです。

 体を半分ほど失ったのに、あの男は鎌を振るい、槍の騎士と白き騎士との打ち合いに興じています。

 私はと言えば、最後に残った一本の『刀』の前に<カードの兵隊>を展開し、怪異共を退けながら、あの嵐がこちらにこないよう祈るばかりです。

 怪異共はと言えば、

「シギャァァァァァーー、ア?」

 三騎士の闘争の余波であっけなく死んでは、現れていきます。それを繰り返すだけです。

 無論ただ押し寄せているだけではありません。混じり合い、変異し合い、異形の巨兵となって腕を振るうも数秒後にはただの灰色の塵となって消え失せてしまっているのです。

 無い頭を存分に使っているようですが、この三騎士の戦いに入るなど、怪異では到底あり得ないでしょう。

「う〜ン、どうしますカ」

 けばけばしい見るに堪えないこの『刀』を打ち壊せば私達の使命は最終段階に進むのですが……。果たして私が壊していいものか。それに破壊すべき機は今なのか、分かりかねますね。

 放っておいても誰かの攻撃が流れて当たれば、まぁ間違えなくあの男のものでしょうが、簡単に折れるでしょう。

 そうなれば<第八の蛇>は蘇ります。

 タイミング、それが肝心なのですが、私にはそれを知る術を持ち合わせておりません。

(アロハオエ〜、ルキウスちゃんお元気〜?)

「おや、エリザベートサンではないデスカ。彼はどうしたのデスカ?」

 あの少年を治療後に『告解室』内で安静にして貰っていましたが、私へ声が届くと言うことは彼は部屋にはいないと言うことになりますね。

(ん〜、萌ちゃんならね、さっき出て行ったわ)

「それハ、どちらにデスカ?」

 島の外か内かで大いに問題となります。

 餌が外にいるのならば、怪異共は全てを投げ打ってでも島外への移動を試みる可能性が出てきます。バチカンわれわれが把握している<八岐大蛇ヤマタノオロチ>の特異能力の一つ、『感知』は獲物がどれだけ離れていても見つけ、近づき、喰らうとされているのですから。

 そうなれば被害はこの島だけに留まりません。外の町にまで怪異がなだれ込み多くの血が流れることになってしまいます

 御主の御威光を信じぬ蛮人が何人死のうとどうでも良いと言えば良いのですが、我らの使命は人の命を奪うことにはあらずです。

(元気に出て行ったわよ。政庁近くから部屋を出たみたいだけど、お婆ちゃんの感じではね、島の外に行く気はさらさらないって感じだったわ)

「それハ、良かったデス」

 なれば、

「そろそろ仕上げでショウカ?」

(ええ。貴方達の任務に主のご加護がありますように。ばいびー、ルキウスちゃ〜ん)

 心洗われるエリザベート管区長との会話は始まりと同じく唐突に終わりました。

 胸の前で十字を切り、彼女の協力への謝意とします。

 さて、あの超獣大決戦場からどう引っ張りますか。

 ‘ゲオルグさん、準備は整いました。退きますよ’

 ‘うぜェぞ、クソガキ! 良いところなんだよ、今! 邪魔すっとテメェの腐った脳髄を頭蓋骨ごとぶっこぬくぞ!!’

 これは酷いですね。会話として成立しているのでしょうか?

「これでも投降しねえってんなら仕方ねぇな」

 私達の会話の中身は知るはずもないですが、槍の騎士が右手一本で槍を中腰に構え左手を添えて、

 歌いました。


「心と色、貫く矛を今ここに。刃振るわん、天果つるまで」


 一拍の間を置き、彼の兵士の持つ槍がその真価を発揮します!


「<心色一貫>」


 無造作に喋られた一言は、私の知るどんな解放の文言よりもあっけないものでした。

 ですが、その一言で戦場の様相は一変したのです。

 ‘あ?’

 これまで守勢に回っていた槍の騎士が一転、攻勢に出たのです。

 槍を片手一本で脇に抱えながら、低く、矢のように黒騎士へと迫ります。

 出迎えるのは三条の黒風、大鎌より産み出されし刃と化した風の塊です。

 ‘チッ!’

 穿たれます、その風が。

「ム?」

 目の錯覚か、おかしなものが見えました。

 黒風を迎撃する騎士の槍は三度、私では視認できぬ程の高速で繰り出されました。それは良いのです。しかし、

 三度槍を突き出したのならば、本来あるべきもの、三度の引き戻しが見えませんでした。

 突如攻勢に出た槍兵、不可思議な槍術、そして解放された兵装——ここは引くべきです、万人ならばそう考えましょう。

 白き騎士の操るハルバードは、鞭と化したままあの男の作り出す剣風をことごとく打ち砕いています。

 槍の騎士の不思議な技は、恐らく恩寵に起因するものと推測しますが、未知なる恩寵に加えてあの突進力! 引いてさばくのが常道でしょう。

 が、

 ‘カッ! そうこなきゃなァ!!’

 黒騎士は嗤い、前へと足を踏み出します!

 闘争を求め最強の頂を目指すのがあの男なのです! 己を倒す手段を目の前の騎士が持つのならば、それを味あわんとせずして何とするのでしょう!!

 瞬時に黒い風が吹き荒れます。あの男の発する闘志が形となり外界を切り刻みます!

 雨を払い、怪異を瓦解させ、白き騎士の武器を退けます!

 あの男がこの島に来た初日に口にしたのは、人体錬成を用いた禁忌の恩寵兵装! 思念が最も残る形のそれを内に喰らってもなお振り回されることなく己の武器として使いこなしています! あの男、戦士としての高みの階段を間違いなく昇っています!

「なンと……!」

 槍の騎士は、その暴風を前に、前に進んだのです。

 黒き風の隙間を見切り飛び込むのではなく、ただ己の槍をしごいて突進してきたのです!

 夜の闇に銀閃が瞬き、面として迫っていたはずの剣風が、点であるはずの槍の突き出しによってよそ風へと変えられてしまっているではありませんか!

 一体どうやって!?

 私の戸惑いなどよそに、一級の恩寵兵装同士がぶつかり合う際に生じる高音と火花が辺りに飛び散ります。

 槍の騎士は手にしたショートスピアを愚直なまでに突き出します。黒騎士は大鎌の柄でその腹を叩き、軌道を逸らします。

 単純な打ち合い——一見そう見えますが、おかしいです。

 引き戻しがないのです。

 槍が繰り出され、弾かれます。そして再度突き出されます。

 弾かれてから構え直す——その間がこの騎士には存在していないのです!

 ‘おもしれェ! 時間、いや因果か!? ひょっとすっとテメェ、基定三律全部の恩寵者か!?’

「だから日本語を喋りやがれ! ——悪りぃな、はもう終いだ。地獄で俺を恨んどけ」

 槍の速度は際限を知らずに上がり続けます。

 普通ならば槍が三回突き出されるところで、この騎士は五度突き出してきます。四回ならば七度です!

 ‘テメェ……!’

 黒騎士の鎧が大きな音を立てて穿たれます。

 単純に速い、そして上手いのです。何手先まで予想しているのか分からない程の連撃が黒騎士と槍騎士のわずかな間合いで交わされています!

 ‘チィ!’

 大きな舌打ちと、黒騎士の兜の右側頭部が貫き飛ばされるのが同時に起こりました。

 黒と赤の混じり合った鮮血が、雨の中でぶち撒かれます。

 速い——しかもただ速いだけではありません!

 引き戻しのない突きとフェイントを混ぜているのです。攻撃すると見せかけて、敵の構えを崩し、狙った箇所へと攻撃と滑り込ませます。

 槍の突き出しがブツ切りされた場面を繋ぎ合わせるかのように変化しているではありませんか!

 直線だった槍の軌道が突如として、慣性の法則など全く無視した道筋をなぞりながら黒騎士へ襲い掛かります。

 ‘クソがッ!!’

 事ここに至りあの男も悟ったようですね。この槍の騎士、あの男より対人戦闘能力は遥か上にいる存在なのだと!

 己の防衛力を優に突破する槍を持ち、法外の上を行く体術と槍術をクロスレンジで仕掛けてきます。常に攻めに回り、攻撃の主導権を握り続けます。あの男は守勢に回らざるを得ません!

 変化が加速しました。

 喉を狙って繰り出された槍が何の前触れもなく下腹部へと突き出されます。

 それを防がんと大鎌を移動させる機を見計らって、下へ向かうはずだった槍は一直線に心臓へ伸びてきます。

 間違えないでしょう、この男の恩寵、それは『再帰』によるものでしょう。『ある地点へ戻ってくる』恩寵だと私は推察します。

 槍を突き出したのなら、そこから槍を突き出す前の構えの時点に戻ります。これならばあの連撃に説明がつきます。

 ルツェルブルグの女執事が持つ<概念付与>、あの男が持つ<鉱石喰い>、それらと比べて貴重性が高いことは事実ですが、戦闘向きとは一見言えません。

 ですが、何なのですか、あの槍さばきは!

 あの男が、たった一本の槍の前に防戦一方、いえ槍が防ぎきれていないことを示す大穴が堅牢を誇るはずの鎧に出現しては再生し、また破壊されてを繰り返しています。

 鎌を持つ手を狙う一突きが、急激に角度を変えて右膝へと飛んでいきます。

 初撃を見切り、下段を防御しようものならば、槍は瞬時にして中段の構えから繰り出される地点へと戻り、信じられぬ速度をもってして黒き鎧を貫いていくのです!

 槍を突き、元に戻りまた突くだけではありません。突ききる前に元の構えへと再帰し、細かいフェイントとして攻防の駆け引きを強制するだけでなく、こちらの体勢など完全に見透した上で冷静にして的確な攻撃を放ち続けるのです!

 おお、嵐すらよそ風に感じられる連突に、後退を知らないはずのあの男が物理的に押され始めているではありませんか!!

 受けられる攻撃は一つとしてありません。実際、彼の槍に甲冑は穿たれ、あの男の再生力をもってしても追いついていないのが現状です。

 ‘強ェ、強ェなァ! クソハゲェ!!’

 余人ならば絶望するしかないこの圧倒的な技量差を目の前にして、黒騎士は歓喜の声を上げます!

 己以上の強者と巡り合えたのですから!!

 ‘ああああああーーーーーッ!!’

 黒騎士が咆哮を上げ、鎌を大地に突き立てます。勝負を決する気ですか!?

 しかし、冷徹な声が、その決死の勝負に待ったをかけました!

 “<連続付与>——……<処刑人の断罪斧>——!!”

 白き騎士が到来します!

 真っ向からの打ち合いの最中に、終曲の一撃を横から繰り出します!

 戦士達の思考が瞬時にして交差しました。

 断頭を狙う一撃を防ぐべく、黒騎士は大鎌を構え、

 生じた心臓への隙間へ、槍が複雑怪奇な線を描きながら突き進み、

 白き騎士の手にある宙踊る鞭であり首を断つ刃が、黒騎士の必死の防御をあざ笑うかのように波打って目標へと飛来します。

 槍が黒騎士の鎧を貫いた後、どさりと、首が地に落ちました。

 断頭、そして心臓の破壊——人、いや、生物であるあらば決定的な死を意味します。

 “————<鉄塊アイゼンバレン>————!!”

 転がった頭部へ、空を裂き、止めの一撃が振り下ろされました!

 地面が割れる衝撃波に、私は顔を腕で覆い、吹き飛ばされるのを必死で堪えます。

 少しは周りを見て頂きたいと考えるのは私の不遜でしょうか?

「シィギャァァァアアアアアーーッ!!」

 ほらご覧なさい、怪異達がなだれを打って飛び込んでくるではありませんか。

 この地点は封印の完全破壊を狙う奴らにとってはグラウンド・ゼロ、彼の<赤き馬に乗った騎士>との決戦の場には及ばないでしょうが、このに人が住み始めて以来の激戦地となっているでしょう。

 それも、<第八の蛇>が目覚めるまでの僅かな間でしかないでしょうが。

 ‘どけや、クソカスがァァァァァッ!!’

 死んだはずの男の雄叫びが、戦場を震わせます。

 強い虚脱感が全身を襲います。全くあの男は。少しは私のことも考えて欲しいのですが、私のことを考えるならばあの男ではないでしょう。

 解放された<暴食>の波、その中心にいるのは健在なる黒き騎士! 大鎌を地面に突き立て、禍々しい兜の内で狂ったように高笑いをし、全てを喰らいます!

「そこは死んどけ、人間ならな」

 “ゴキブリが……”

 己をほどの力量を持つ者達とこうも巡り会えるとは思ってもみない幸運でしょう。それが二人も自分を全力で殺しにきているのですから。

「ギィィィャァァァァァァーーーッ!!」

「ジィヤァァァァァァーーーーッ!!」

「シィィギギギィィィァァァアアア!!」

 怪異達が絶叫し、彼らの闘争の場に加わらんと押し寄せます。

「ったく、こっちもキリがねーなぁ」

 “ゴミが……!”

 ‘もっとだ! もっと俺をブチ殺してみせやがれェッ!!’

 三者三様に好き勝手なことを仰いますね、全く。

 ‘ゲオルグさん? そろそろお暇する時間ですよ?’

 聞かれもしないであろう忠告を、私のできる限りの大声で伝えておきます。

 さて、まだ時間がかかりそうですね。

 私は一人呟き、恩寵<左右等価>を発動させ、左手に新たに現れたカードを展開し、兵士達を召喚します。

 雨に打たれながらに考えます。

 八人、その数字が意味するところは重いです。

 誰が残り、誰が去るのか。私達の授かった使命は最終局面を迎えています。

 空を仰ぎ、夜の闇を見ながら冷たい雨の雫を顔に受け止めます。

 私とて胸の高まりを抑えることはできません。祖国を離れどれだけの歳月を過ごしたことか……。

 その全てが今、報われようとしているのですから。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 僕が降り立ったそこは、雨の降る夜の町だった。

 手で目の上に傘を作り、辺りを見渡すと、そこが政庁近くの小道だと気付く。

 夜の闇を、ヒトガタの灰色が押し潰している。

 歩を進めると、パシャパシャと水溜りに足が入る。


「ギィ?」

「ギギ?」


 僕の存在を察知したヒトガタが、

「ギャァァァァァアアアアーーーッ!!」

 発狂する。

 叫び声は次々に他のヒトガタへと伝染し、声の振動が雨粒を大きく揺らす。

 僕は右手を<獄焔茶釜>の柄にかけ、ふとこれまでのことを思い出していた。

 おぼろげなお母さんの記憶、

 剣術を教えてくれたお師匠様と過ごした日々、

 一人ぼっちで、叩かれたり蹴られたり、刺されたり斬られたり、燃やされたり凍らせられたり、今思い返すと大変だったなぁと思える小中学校時代、

 僕をモルモットにしたいと言った変な人、

 鳥上学園に入って初めてできた友達と呼べることのできる人達、

 そして、リズさんのこと——。

 ——ふふ。

 リズさんのことを想うと、ちょっぴり恥ずかしいけれど、心の奥がほんのりと暖かくなる。

(——燃やせ——)

 僕は鞘から一気に刀を抜き放つ。鍔と鞘を結んでいたはずの針金はプツリと切れ、帯に取り付けたお師匠様から貰った鳴らないはずの鈴が、涼やかな音を奏でる。

 どんなことがあろうとも決して抜かない剣、けれどもその剣が目指すのは一撃必殺、雷よりも早く振り、有り得もしない内に振り下ろす——全てがあべこべな剣術だ。

 お師匠様は言った、だからこそ、この鳴らない鈴を鳴らすのが真鋭ジゲンの剣士なのだと。

 ありえないことを真とする——うん、これから僕のしようとしていることにはぴったりかも。

 僕は<獄焔茶釜>を蜻蛉に取り、

 ——キェェェェェェーーーーッ!!

 決意を声に、天高く吼える。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


「おい、あれを見ろ!」

 その声に、私はのたのたと後ろを振り向く。

 外町へと繋がる石橋を全力疾走したのは生まれて初めてだ。これほどまでに長い距離を走ったのも学園生時代のマラソン以来、数十年ぶりだ。

「島が、揺れている……?」

「何だ……あの影は? 動いているぞ?」

 湖に浮かぶ鳥上島の異変は、遠く離れた対岸からも確認できる。

「ついに始まりましたかのぅ」

「ええ、高木翁、残念ながら」

「ふむ。この老骨、やはり島に埋めるべきでしたか」

「何を仰います。私達はまだ負けた訳ではありません。命さえあれば、戦うことはできます」

「なれば、凡骨の徒花を咲かせるといたしますか、カカッ!」

 高木翁は、島を惚けた表情で島を見ていた群衆に喝を入れ、矢継ぎ早に指示を出す。

 私の左手は未だ静さんの手を離さずにいた。

「大丈夫ですよ、静さん、大丈夫です」

「…………」

 静さんは虚ろな表情で島を眺めている。

 友人であるシャルロッテ嬢のことが心配なのだろう。

 友人を見捨てたことは、静さんにとって心の傷になるだろう。ただ生きている。まずはそこからだ。

 その時、湖の水が、太い唸りを上げながら、空へ、天へと、上へ上へと湧き上がった。

 轟音が周囲にこだまする。

「何だ!?」

「一体どうしたんだ!?」

 島とつなぐ石橋は、その勢いの数秒だけ耐えていたものの崩壊し、その破片は水の流れの中へと消える。

 湖の水、その全てが上へと上がる水柱となっている。高い。幾ら見上げても頂点が見えようにない。

 これは、檻だ。

 鳥上島を水の牢獄が包み込んでいる。

 水しぶきと雨粒に打たれながら、私は万感の思いで静さんの手を強く握りしめた。

 長かった……! 綱渡りをするような危うさだったが、ともかく成ったのだ。

 彼女から託された命、ようやく私は自分に誇れるようなことができたのだ。

 思いこがれた女性に胸の内を開かせぬまま諦め、何度眠れぬ夜を過ごしたことだろう。

 静さんに与えられた傲慢で忌々しい遠呂智と緋呂金の血の呪い、静さんを刀にすると言い放った不快な餓鬼、何十人とその手で殺し、死に追いやったのに何の咎もなくのうのうと暮らす枯れ果てた老人、見るもおぞましい肉塊となった自分自身に何の疑問も持たない我が弟——それらを全て排除して、私は静さんと

「…………」

「静さん?」

「……ごめんね……」

 その言葉は島にいるはずの友ではなく、私に向けられていた。

「え? 何を言って、」

 長い沈黙を守っていた静さんの言葉の真意を確かめようとした私は、その場に凍りついた。

 静さんの右手を握っていたはずの私の左手には、彼女の手ではなく一枚の絵札があったからだ。

 数秒前まであった静さんの姿はそこにはない。

 絵札には、不気味に笑う道化師が描かれていた。

 何だ……? 何が、起こったのだ……?

 固まる私の前に、一人のしわがれた老婆が現れ、手を伸ばして私の左肩に触れる。

 見知った顔だ。だが今はそんなことはどうでも——

「ごめんなしゃいね、須佐しゃん。貴方の考えでは青江静ちゃんを絶対に外へ連れ出さなきゃいけなかったんでしょうけど、お婆ちゃん達としては彼女には島に残って貰わないと困るのよ」

 この女は……何を、言っているんだ?

「安心して頂戴な。だって静ちゃん達が帰ってくる可能性は決してゼロではないんですもの。ほほほ、それにね、お婆ちゃん、もしかしたらリーゼリッヒちゃん達ならもしかしちゃうかも、って思っちゃうのよ、うふふ」

 この女は不快なウインクを私に見え、人込みの中へ消えていった。

 私は……

 両膝が地面に落ちる。

「政務官! こちらでしたか! 急ぎ来て下さい。これより外町駐屯軍の首脳部との会議が始まります!」

 何時だ? 何時……? 私があの醜悪な弟の始末をつけに行った時か?

 何故だ? あの少女が静さんを助けに来たように、静さん自身も助けに行く気になったのか?

 そんなこと、できるはずもないと言うのに……!

「政務官? 須佐政務官! お気を確かに! おい、救護班! こっちだ、早く来てくれ!」

 誰かが私の両肩を揺さぶり、必死な顔で私の名前を呼んでいる。

 もう、全てがどうでもいい。

 私のしたこと、それらは全て無に帰してしまったのだから。

 世界が色を失っていく。

 灰色だ。全てのモノが灰色になる。ヒトガタと同じ色、無価値の色だ。

「政務官! 須佐政務官!?」

 私を揺さぶるこの女の名は何だったか? 弥生? いや、どうでもいいことだ。

 終わったのだ、何もかも……。

 私の人生など、所詮全部が意味の無いものだったのだ。


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