昼: 執事と主人 [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]
生徒会長達と互いの情報交換をした後、私は生徒会室の扉を閉め、皆と一緒に部屋を後にする。
昼休みの時間は、私達が教室に戻る時間を入れてもまだ十分残されている。
「じゃあじゃあ行きましょう、シズちゃん! ほらほらリズさんもハジメさんも!」
「……ん……」
シャルロッテが軽やかなステップを踏みながら前を行く——のだが、彼女は目的地が分からないらしく、静に手を引かれながら歩き、私と萌はそれに続く。
彼女がこの島に来た目的を果たすためだ。
先程、生徒会室にて渡されたのは彼女がこの島へと持ち込んだ日本刀の一振りに他ならない。
<赤き馬に乗った騎士>を討伐する際に倒れた日本兵のご遺品をご遺族に返す——そのためにシャルロッテは海を渡り山を越えこの国へ、この鳥上島へやって来たのだ。
彼女が無事この島へたどり着けるようにと聖コンスタンス騎士修道会が派遣した護衛がこの私だ。
彼女とテレジア殿に私のような者が護衛足り得るのか、と言う問題はさておいて、だが。
「ふーふふーふふーん」
シャルロッテの弾むような鼻歌が、ざわついた廊下の中で乾いた真昼の砂漠で飲む冷水のような癒しを私達に与える。
私達四人は、シャルロッテの優しい歌声を耳に、静の先導に従い、目的の人物がいるであろう教室を目指す。
私達とすれ違う学生が、好奇と敵意と侮蔑の入り混じった如何とも形容しがたい眼差しを送ってくる。
耳を澄ませば私達を罵倒するささやき声も聞こえてくる。
ふぅ。この国に来る前に数々の異国を旅し訪れ、こうした眼差しや囁きには慣れっ子になってしまった。今日で三日目だ。私とシャルロッテが学園の一風景として慣れるまでまだまだ時間がかかるだろう。
かと言って、私達のクラスのように全力百パーセントで歓迎して貰うのもむずかゆいものではあるのだが……。
生徒会室と同じ第一校舎を四階から二階へと降りる。
教室が空いている。空き教室では椅子を机の上に乗せ後方へと寄せてある。
この教室——いや、この建物は、私達がいる弐年参組のそれより立派だ。同じ木製ではあるが、所々に恩寵建造物と思わしき装具が置かれている。
何処も清掃が行き届いている。磨き抜かれた木板と朽ち果てそうな老木の違いくらいは、私の目を使わずとも分かるものだ。
空いている、この教室もか。私達のクラスが入っても別に問題はなかろうに。
「ふぅ」
なるほど、私達のクラスが隔離されているのか。
「……あそこ……」
静が無表情に前方横の教室を指差す。黒い木札には『弐年壱組』と白く彫り込まれていた。私達参組の手製の木札とは格調が違うと言わざるを得ない。
「うげ、青江」
「げ、青江だ」
「え——青江さん?」
「何しに来てんの? まさか、仕返し?」
「参組の奴らも来てんぜ」
静に連れられてきた私達を、廊下にいた学生達が指をさして囁き合う。
私が睨みを入れると、
「うわっ! 目つき悪!」
「お〜、こわこわ」
口角を歪めながらせせら笑う。
「何か用でも——おい、萌!?」
「——!」
萌が私の両肩を後ろから押し、有無を言わせず私を前進させる。
「……ん、いた……」
「あのあの、失礼しますね。ん〜ん〜」
私がもたつく間に二人は件の教室のドアを開け、中に入ってしまう。
萌に押されながらシャルロッテと静に続いて、弐年壱組の教室へと足を踏み入れる。
ふむ、ここが我々弐年参組より二つも優秀とされている者達のクラスか……。
「あのあの、あの人ですか、シズちゃん?」
「……ううん、あっち……」
「あ、あ! あの窓際の人ですね」
シャルロッテに追いついたと思ったのも束の間、彼女は教室内の学生のざわめきを全く気にすることなく、教室の隅の窓際で校庭を一人眺めている男子学生に近づいていく。
静が間を空けながらシャルロッテと同じようにその学生に近づく。
こうなっては仕方ない。私は萌に押されるのではなく、己の意思で静の隣へと立つ。
急な乱入者に騒ついていた教室はシャルロッテが口を開くと静まり返る。
「あのあの、カザマさん、ですね? どうぞ、こちら、お返しします!」
ちょっと待って欲しい、シャルロッテ。幾ら何でもそれは言葉を端折りすぎだろう。
遠い異国の地で倒れたこの国の戦士への謝意と敬意、そのご遺品をルツェルブルグ家が回収した経緯、私達三人がこの国を訪れるまでの苦難——話し始めれば三十分では収まりきらないものをものの数十秒で収めてしまうとは……!
ふと思い出す。私達二人は転入する際の自己紹介の練習をお互い相手に何度したのだと。暇さえあればそればかりをし、お互いにあれが足りない、これを足すべきと言い合っていた。
それを考えれば、今回の返還は突然なことなはず。このような究極なまでに端的な言葉に要約されるのもある意味道理ではあるか。
シャルロッテが刀袋から一振りの刀を取り出し、『かざま』と呼んだ学生へ差し出す。
「な——!?」
「あのあの、どうぞお返しします」
私達を取り巻く壱組の学生も、一目にして目を奪われた。先程生徒会室で見ていたが、何回見ても見ずにはいられないだろう。
光り輝く黒塗りの鞘、三匹の蛇が踊り合う奇妙にして壮麗な鍔——刀身を見ずとも分かる、名刀だ。それも間違えなく一級品だ。
「これ……何で……お前が……」
「えっ?」
「何でお前が、父さんの刀を持ってるんだよ……!?」
「え、え? あのあの?」
窓の外をぼんやりと見ていたその男子学生は、シャルロッテに憎悪のこもった眼差しを送る。
「だから、黒騎士に喰われたはずの父さんの刀を、何でお前なんかが持ってるんだって聞いてるんだよ!?」
「きゃ!」
「シャルロッテ!」
「——!?」
風間と言う無礼者がシャルロッテの差し出す手を払い、彼女が運んできた刀が鞘に収められたまま床に落ち、ごつんと鈍い音がした。
何を勘違いしているのだ、この男は?
「やっぱり、お前らが黒騎士の一味だってのは本当なんだな……!!」
「え、え? え、え?」
私達を取り巻く学生からの視線に、殺意めいたものが混じる。
「風間、やっちまえ!」
「おい、ドア閉めろ! ドア!」
突如、教室の前と後ろの木製のドアが音を立てて閉じ、太い腕のような幹が何本も生えて私達を締め出す。同時に、同様な荊棘の蔦が窓ガラスを覆う。
風間と呼ばれた男子学生が、傍に立てかけてあった一振りの刀を左手に取り、右手で柄を握り腰だめに構える。
まずい——!
時同じくして、私達四人の周りにあった机と椅子が、前触れも何一つなく、糸で引かれるように天井へと持ち上がる!
このクラスの学生からの敵意は既に殺意へと変貌し、恩寵と兵装を持って私達へと襲いかかる!
「やれ風間!」
風間が左の腰だめの構えから右手一本で刀を一気に鞘から抜き、シャルロッテを斬ろうとする!
居合——抜刀術とも呼ばれるその斬撃は、鞘の内で加速され筆舌に尽くしがたい速度を持つとされる!
「きゃあ!」
「疾ッ!」
「……あっ……!」
しかし、如何な攻撃とてシャルロッテの——
「——は?」
思わず、間の抜けた目の前の光景に相応しい、間の抜けた声が出た。
萌だ。萌である。
私達の一番後方にいた彼がシャルロッテが斬られようとしているのを見て、全速で、シャルロッテと風間の間に体を割り込ませたのだ。
それ自体は難しいことではない。本来ならば目的地への障害物と成りうる机や椅子は天井付近に釣りあがっているのだから。走り出せば、数歩足を踏み出せれば済むこと。
問題は格好だ。萌の格好なのだ。
大、である。彼の立つ姿が両手両足を大きく広げた大なのだ。いや、犬、か。先程生徒会室で受け取った刀を右手で握りしめているのだから。構えなどあろうはずもない。
その勇気、見事と言いたいところではある。が、勇気などではない、捨て身の無謀だ。
第一、相手が腰だめに刀を構え、鞘から抜きざまに斬りつけようとしているのだ。刀の攻撃線は、恩寵の蔓延するこの時代こうだと決めつけられるものではないが、自ずと決まってくる。胴、首、頭部への斬撃が、対峙する相手の左腰側から、すなわちこちらの右側から来る。
なのに、大、である。しかも、犬、なのだ。萌よ、せめてその手に持つ刀で胴を守るぐらいはしないのか。まさかと思うが目を瞑っているのではあるまいな?
全く、君と言う人は本当に——!
間があった。
突然の乱入者が割り込んだその時、
誰かが割り込むことぐらいは予想していたのだろう。だが、その者が手にある刀をただの棒切れを持つが如く無防備で立ちはだかるとは誰が予想できようか。
故に、間が生じる。
剣士は
無抵抗かつ無防備な者に剣を振るうなど、剣に生きる者としてためらわざるを得ない。ましてやそれが名高い武士達の学び舎にいる者ならなおさらのこと!
生じた間は僅かなこと、瞬き一つぐらいだ。
剣士は己の内にある怒りに火をつける。止まった時計の針が動くように再動する。
しかし、間があったのだ。
剣士が
そう! 級友を庇おうとする萌に伸びる剣線を防ぐべく、私が背負う
萌ェーー!
剣撃の打ち鳴らされる音が教室に鳴り響き、
「——は?」
再度、この場にそぐわない、何とも間の抜けた声が私の口から再び漏れた。
夏の日の教室に、冬の風が吹いた。
「こいつ、抜いた、抜きやがったぞ!」
「しかも『展開』してんじゃねーか!」
「構わねえ! 袋にしちまえ!」
萌を守るためにただ剣を伸ばしただけなのだ。
なのに何故、兵装が展開しているのだ?
何故、同調すらもせず、<氷の貴婦人>の名を心にはおろか口にすら出していないのに、兵装の展開が済んでいるのだ!?
何故、私は<氷の貴婦人>を纏う戦装束になっている!?
「くっ! シャルロッテ、静を頼みます!」
私が剣を抜いてしまった以上、もはや話し合いでの説得や解決など期待すべきではない。
前にいる萌を床に左手で押し倒し、静を守るようにとシャルロッテに伝え、私は眼鏡を外して、この異常な状況を見る。
一つ、<硬糸結界>——天井に張り付いている机と椅子は召喚された糸により吊り上げられている。それが矢のように私達へと降って来ようとしている!
二つ、<植物異常深緑>——木の床が轟音と共にせり上がり、巨木の根が波打つかの如く私達へと迫る! それは巨大な手の形を作り、私達を捕まえ握り潰そうとする!
三つ、<不可視力場>——点のように小さく、先端の尖った不可視の物体が私に投げつけられている! 狙われているは、人体の急所! 眉間! 人中! 喉元!
四つ、<烈風操士>——! 抜きの初撃を弾かれた眼前の剣士が手首を返し、激しい風を刀に宿らせ、両手に持ち替えて私へと斬りかかる!
思わず呪いの言葉を心の中で吐く。どれもが戦闘用で、練度も段違いではないか! 私達参組の皆が持つ恩寵とは!
木の床から生えた巨木の手は、私の下半身を<氷の貴婦人>ごと握り潰す。痛みに耐える暇などないが、動けない!
前屈みになっている前傾姿勢を逆に倒し、体と首を振って不可視の苦無の射線を外す。——が、私の動きを読んでいたかのような四本目が、私の体目掛けて投げられていた。
己の無力さを呪う暇はない。何故ならば抜きの一手を防がれ万全の状態で私を切ろうとする剣士が目の前にいるからだ。
緑色の巨手に握られた下半身に力を入れ、押し倒されまいとする。左手を<氷の貴婦人>の柄から離し、右手で剣を回転させ、左手の甲で四本目の苦無を叩き落とす。
そして右手で柄を持ち上げて——!
「疾ッ!」
来たと感じた時には、彼の剣士の刃を受け止めていた。
思ったほど重い斬撃ではないが、速過ぎる!
風間は刀を引くと同時に『雄牛』から刀をやや上方に傾けた八双の構えを取り、私の喉元へ突きの狙いを定めていく。
まずい!
この剣士の連撃の速度は、私のそれを遥かに凌駕している! 下半身を抑えられ逃げることはできず、上空に浮く机と椅子は今か今かと襲撃のタイミングを狙っている。このままの状況で他の学生達が静を攻撃でもしたら、私には打つ手がない!
救いの手は、誰もが予想しない形で登場した。
「うおっ!」
「きゃ!!」
「うわっ!」
轟音と共に、窓際の壁が室内へ吹き飛ばされる。
舞い上がる煙の中から、一人の人物が姿を現した。
“<概念付与>”
ボソリと聞こえてきたドイツ語には、例えようもない怒りが込められていた。
煙が収まると一人の女性がそこに立っているのが見える。
度々走る青白い電流が、彼女の体を戒めている。この地に敷かれた結界が、侵入者と判断し、重しを課している証拠だ。
可視化できる程の負荷がかけられている。
本来であればいることを許されない学園で、窓際の壁をぶち破る荒技で侵入したのだ。
それでもなお、このお人には障害にすらならないのだろう。
白煙が薄れていく。
彼女は普段と変わらぬ黒いスーツを纏いながら、頭と腕を覆っていた白い包帯をむしり取る。
瞳には、憤怒の炎が燃えている。彼女の本質は従者でも執事でもない。兵士なのだ。
主人に刃を向けるものは何人たろうともこの世から抹殺する。塵一つとて認めたりはしない!
例えそれが異国の年端もいかぬ学生であろうとも! 己の兵装<深遠からの咆哮>が手元になくとも! 主人に刃を向けた瞬間、テレジア殿にとっては破壊すべき物体でしかなくなるのだ!
“<
テレジア殿は唯一言、己の恩寵を発現させる言葉をのみ発し、私達四人を取り巻く生徒達へと飛び掛る!
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
騒動が、やっと一段落ついた。
「誠、誠、誠に申し訳なく……。亡き大叔父上の遺刀をお探し頂けただけでなく、ぐぬぬ……こうして御自身でお持ち頂けたとは……。この身、我が家への大恩人へ刃を向けるとは……! 誠、誠、誠に申し訳なく……」
「あのあの、私気にしてませんから。そんなに畏まらないで下さい。ね、シズちゃん、リズさん?」
「……ん〜……」
「はぁ、萌が頭を打ったのを除けば、私達は無事だったのですが……」
僕達は生徒会への最短呼び出し記録を打ち立ててしまった。
部屋には僕達の他に壱組の風間君を加え、
「無事と言うには難しかろう。第一校舎の二階部分は半壊だ。幸いにも余っている空き教室で授業をすることは継続できそうだが……」
困り顔で眼鏡をかけ直す会長さんと、
「自業自得です、会長。碌に話も聞きもせずに刀を抜くなんて馬鹿の極みです。勝手に喧嘩を吹っ掛けておきながら、勝手に怪我をしたんですから。彼女達でなく、弐年壱組のおバカさん達を全員この場に呼び出すべきですわ」
副会長の烏丸先輩もいる。
「烏丸君、話をこれ以上ややこしくしないでくれないか」
会長さんが溜息をつきながら眼鏡をくいっと直す。
「ね、ね? テレジアさんもそう思いますよね? こうしてせっかくお友達になれたんですもん!」
お友達? 思わずシャルロッテさんの言葉に首を傾げちゃうものの、
“……”
彼女の傍に侍るテレジアさんは何も答えずただじっと佇むだけ。
バチバチって電撃が時折全身を駆け巡っていく。けれど微動だにしていない。生徒会室の張り紙や書類がその度にばさばさとはためていく。
凄い威圧感だ。
「斯くなる上は、我が身を以って大罪を赦して頂くよう願う所存……。どうか、どうか……」
風間君は椅子の上に正座をして、シャルロッテさんに頭を下げっぱなしだ。
「風間君、君の腹一つでどうにかなる問題でもなかろう。抜刀禁止令違反、恩寵行使による他者への攻撃及びその教唆! 微罪はまだまだあるぞ。君達は——」
会長さんが眼鏡越しに僕達を見る。
「生徒会の許可ない私闘! それに恩寵具の展開は過剰防衛とも取れる。いや、たった四人で弐の壱全員を相手にするのだから過剰とはいくまいか」
「会長、そこは皆さんの勇気を讃えるべきではありませんか?」
「烏丸君……頼むから少し黙っていてくれまいか……」
「まぁまぁ、シズちゃん、私達褒められちゃったみたいです!」
「……ん……」
う〜ん、やっぱり会長さんて大変そうだなぁ。
「それと、テレジア女史、で宜しいか? 救出のためとはいえ、校内への許可無い侵入、建造物の破壊、いや、大破壊だな、うむ。それに二十名以上の当学園生への暴行に、彼ら彼女らの所持する恩寵具に対する回復不能な破損行為! テレジア女史、申し開きはありますか?」
会長さんの静かだけど威圧感のある問いかけに、テレジアさんは沈黙を以って返答する。
テレジアさんが教室に乗り込んできた後、当然のことながら壱組の人達と乱闘になった。
壁を壊し、床を割り、恩寵なんて何のその、刀で斬りかかられたらそれを真っ二つにへし折って、と、大立ち回りを演じた。
生徒会の皆さんも駆けつけた、もちろん武器を持って。会長さんは槍を、烏丸先輩は弓矢を、鷹畑先輩は鉄棍を手に教室にやって来た。
僕? 僕は——そのぉ……。リズさんに床に突き飛ばされてから、降ってきた椅子が頭にごつんと当たって、しかもその上に机や他の椅子が落ちてきたもんだからそのまま埋もれちゃって身動きが取れず、リズさんやテレジアさんが命を張って僕や青江さん達を守ってくれるのを見ていることしかできなかった。
「はぁ……」
——はぁ……。
会長さんと僕のため息が重なる。
修行が足りないなぁ、もっと稽古しなくちゃ!
「テレジア女史、もし?」
会長さんからの催促にも、テレジアさんは答えない。
「あっ、あっ! そうです、そうです!」
そんなテレジアさんを見てか、シャルロッテさんが何かを思い出し、
“——、——。テレジア——? —————————、—————————————、——……?”
わっ、今の独逸語かな? 英吉利英語より硬い感じだ。うん、全然分からない。『テレジア』さんって名前が入ってたのぐらいは聞き取れたけど。第二外国語、独逸語にしようかな?
“…………”
でもテレジアさんは答えない。ピリピリし、ビリビリしている。
「はぁ、テレジア殿、いい加減日本語を分からないふりをするのを止めたらどうですか?」
リズさんから思いもかけない言葉が出る。
「えっ、えっ!? テレジアさん、ニッポン語、喋れるのですか?」
主人のシャルロッテさんが一番驚いているけど。
“…………”
「さもないと、」
リズさんがチラッと僕を見た。
「萌が昨晩と同じ姿になるそうですよ」
“——!”
「きゃ!」
——ひっ!?
僕が叫び声を上げるよりも速く、テレジアさんは音も無く僕の背後へと回り込んで、首筋へ指を二本埋め込む。頚部にある大事な動脈が、もう風前の灯火だ。
リズさん、リズさん! ななな、なんてこと言うんですか! 訂正して下さぁい!
ひぃぃぃぃ、振り向けない。指一本動かしただけで、首の動脈がちょん切られちゃいそう!
——それと、シャルロッテさん! 手! 手! その指の形じゃ丸見えですよ! 指閉じて下さい、指!
手で目を隠しているつもりなんだろうけど、中指と薬指がかぱっと大きく開いているせいで、大っきくてキラキラ光るつぶらな瞳が見えている。
って、僕から見えてるってことはダメでしょ、シャルロッテさん! 誰か、誰かこの状況にツッコミをー!
「なるほど。ヴォルフハルト君の言う通り、我々の会話は理解しているようですね、テレジア女史」
会長ぉー、そっちですかぁー!?
「改めてもう一度伺いますが、申し開きはありますか?」
“……”
テレジアさんは僕の首に挿している二本の指をひゅっと抜くとシャルロッテさんの後ろに歩く。
そして、
“…………”
やっぱり何も話さない。
「シャルロッテ、貴女からもう一度お願いしてもらえますか?」
「————不要だ。下らん」
テレジアさんは女性としてはハスキーな声で、シャルロッテさんよりも流暢な日本語でリズさんの言葉を遮った。
「私の言い分などない。強いて言えば、下らん、それだけだ」
シャルロッテさんの温かい言葉とは真逆、リズさんの固い言い回しとも違う。学級長や会長さんの言葉遣いとも違う。隠しきれない何か、黒くて刺々しい感情が言葉遣いから感じる。
何だろう——この感じ。あの人と似ている……。けれど、まるで、誰かに憤っていると言うよりは、自分自身に腹を立てているようだと、僕は感じてしまった。
「下る、下らぬで、建物を壊されたり、学生に危害を加えたり、敷地内に無断侵入されては困ります」
——あ、あの〜、人の頚動脈をちょん切ろうとするのも困る、って付け加えてもらうと助かります、はい。
「下らんな。主家はシャルロッテお嬢様のご留学に際し、このみすぼらしい建物が五回は立て直して足りるほどの資金を寄付している」
「まぁまぁ」
「それは本当ですか?」
「大きな額を頂いたことは事実だな、烏丸君」
「ええ。額が大きすぎたせいで鳥上政庁から監査の人が何度もやって来ましたわ」
へぇ〜、やっぱりシャルロッテさんの家ってお金持ちなんだなぁ。
「学生へ危害、だと?」
テレジアさんの言葉は続く。
「四人を二十人以上で取り囲んでおいて、そいつらを暴徒と呼ばずに学生と呼ぶのか? 大した生徒会長とやらだな、貴様は。それにシャルロッテお嬢様相手にたった二十人だと? 昨日、一昨日の犯人扱いと言い貴様ら日本人は何処まで我々を愚弄するつもりだ。お嬢様のお相手をしたければ、軍属の騎士団を一個師団持ってこい」
テレジアさんの怒気を抑えた静かな声がヒリヒリと響く。時折ビリリッと走る電気と相まって、背筋に冷たいものが走る。
「故に、下らん。貴様らの言い分も全てな。お嬢様に害為すものは全て排除する。恩を知らぬ薄汚い野良犬のような貴様や——あそこでのほほんと呑気な面をして我関せずと言った態を装っている破廉恥男とかな……!!」
——ひ、ひぃぃぃ……!
「く……、誠、誠に申し訳なく……」
風間君がさらにかしこまる。
「耳に痛いな。学生の安全を保障できなかったのは我々生徒会の落ち度だ」
「会長、ではヴォルフハルトさんの兵装展開の件は不問になさるのですか?」
「緊急避難だろう。が、そうだな……夜警の期間をもう一週間延長するのが妥当と言ったところか。弐年壱組の皆も全員夜警に参加して貰おう。構わないか、ヴォルフハルト君?」
「私は問題ありません」
——あ、あの、なら僕も!
「ん……? ああ、東雲君、君か。君については昨晩の件をどう落着させるかまだ決めかねている」
「まぁまぁ!」
——あう、そこ喜ぶところなんですか、シャルロッテさん!?
「ふふ、でもでも、テレジアさんともニッポン語でお話できるんですね! しかもハレンチなんて難しいニッポン語を知ってるなんて凄いです! ん〜ん〜……。ねぇねぇ、シズちゃん、ハレンチって何のこと?」
「……ん〜、東雲君……?」
——ひぃ、青江さん!?
「まぁ〜!」
ですからそんな瞳で見るのは止めて下さい〜!
「さて、残るは、風間君と我々生徒会の処遇か……」
会長さんがふむと考え込む。
「私達生徒会は、現在襲撃犯二名の捕縛への協力を、」
「おい、貴様らの下らん話し合いにこれ以上お嬢様を煩わせるな」
テレジアさんの怒声が会長さんの話を遮る。
それに続いて全く無駄なく淀みない動きで会長さんに近づいたかと思うと、腰に吊ってある大小二刀の内、脇差を抜き取る。
「む?」
それをカツンと、風間君の前にある机に突き立てる。
「おい、その無意味な目を抉れ。貴様の下らん眼球にこれ以上お嬢様のお姿を映すことなど許されん」
テレジアさんの立ち振る舞いは言葉以上に物語っていた。自分で抉るのか、私に抉られるのか、どちらかを選べ、と。
「テレジア女史、待って頂きたい。生徒への処分は我々生徒会が決定します」
「それに、血を流すのはどんな理由であれ許しませんわ」
「そうです、テレジア殿。元は誤解なのですから。目などと言う取り返しのつかぬことを——」
「分かり、ました……」
——えっ!?
皆の制止の声をよそに、風間君が会長さんの脇差を抜き取る。
「我が両眼を以って、この身の大罪が赦されることを願う!」
風間君が大声を張り上げ、両手に握った脇差を己の目に——!?
——あー!
「君ィ!?」
「あら?」
「おい!」
僕達の誰もが驚きのあまりその光景に息を呑んでしまった時、
「もーもー、ダメですよ、カザマさん。危ないことしちゃ。せっかくお友達になれたんですから」
シャルロッテさんが風間君の腕を掴んで、刃の切っ先が眼球に触れるのを止める。
掴むと言うより、人差し指、中指、親指の三本で摘んでいると言う方が正しい。
だけど、動かない。
風間君の両腕はプルプルと震えていて本気で自分の目に刃を突き立てようとしている。それをシャルロッテさんは軽々と、楽々と抑えている——それもたったの指三本で。
シャルロッテさんは笑う、ニコニコと。百人いたら百人が心奪われるような可愛い笑顔で。
「ふふ、ふふ」
異様な光景だ。シャルロッテさんが見かけによらず実は超怪力の持ち主だったとしても、何かがおかしい。
「ね、ね! お友達ですよね?」
会長さんも副会長さんも、僕と同じような違和感があるのか言葉を失いこの光景を見つめている。
リズさんとテレジアさんだけは冷静に——どこか冷めた目のように僕には見えるけど——シャルロッテさんを見守っている。
でも僕には、この場に全くそぐわない彼女の笑顔が、まるで張り付いているようだと感じてしまった。
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