夜: 獄焔茶釜 [東雲萌]
それに初めに気付いたのは国司さんだった。
「おい、ヴォルフハルト、ありゃ何だ?」
夜の巡回は、昨日みたいな物騒なことは今のところない。他の警備の人の目付きが怖いことと、シャルロッテさん達とすれ違った時にとんでもなく怖いお姉さんがいたことを除けば、いたって順調だった。
僕達は、島の北東部、鍛冶屋通りの外れを歩いていた。
「火の球、のようですが——」
「んん? お姉サンじゃないわよ」
「んなこと分かってるから聞いてんだよ」
「ムッカ、東雲クン、そこの髪の毛薄い人、叩いちゃっていいわよ」
「うるせぇなぁ、畜生、髪は関係ねぇだろうが! 髪は!」
大きな赤い火の球が、空をぷかぷかと浮かんでいた。ゆっくりゆっくりと辺りを照らしながら移動している。
賑やかになってきた国司さんと日鉢さんのやりとりをよそに、リズさんが眼鏡を外す。
「あれは、砲撃のようで——、砲撃!?」
ほほほ、砲撃ぃ!?
「敵さんか。にしちゃ随分ゆっくりしてるな。着弾は何処だ?」
「着弾は——」
リズさんが宙を漂う巨大な火の玉を睨む。
「この先の、丘の上にある屋敷——いえ、屋敷の門です!」
「あそこが狙いか。行くぞ!」
「あそこの丘の屋敷って、まさか青江の家じゃ!?」
——青江? もしかして、ウチのクラスの青江さんの家!?
僕達は走り出す。
「日鉢殿、もしや静の家ですか!?」
「うん。それにさっき会ったお姫様とか須佐サンもまだいるはずよ!」
走りながら会話をしているのに、僕以外は誰も息を切らしていない。
「んぁ? 今頃戻ってるはずだろ」
「ちぃがーいますって! 私たちと会った時は帰りじゃなくて行きだったんですよ! 何時間押してたんだと思ってんですか!?」
「あ〜ー、そりゃそうか。おい、ヴォルフハルト! 他に、」
ピィィィィと、甲高く鳴る笛が、国司さんの言葉を遮る。
その音は目の前の丘の上にある屋敷の方から聞こえてきた。
「出たぞーー!」
「黒騎士だぁーーっ!!」
——黒騎士!?
その声に、心臓が大きな鼓動をたてる。
火の球が照らし出す明かりで、遠く離れた丘のお屋敷が昼間のようになる。
白い塀、二つの篝火、刀や槍を構える衛士の人達、そこへ真っ黒な人影が駆け寄る——!!
閃光が瞬き、爆音が周囲に轟いた。
僕はその衝撃に思わず腕で顔を覆い、頭を低くする。
爆発の生んだ烈風が、僕の全身を後ろに飛ばそうとする。
——わわっ!
「くっ!」
足腰にしっかりと力を入れ、飛ばされないように立つ。
光と音と、風と臭いが終わると、砲撃された地点には、
もくもくと上がる埃と煙の中に——
二つの人影があった。
遠くだし、煙ではっきりとは見えないけど、リズさんみたいな服を着てフードを被った小柄な人と、大きな鎌を手に持った真っ黒な甲冑を着た人がいた。
あれが、黒騎士……!?
「出やがったか! 仕事だ、お前ら!」
国司さんが僕達の返事を待たずに走り出す。
「リーゼちゃん! もしかして撃ってきた敵の場所とか分かっちゃったりする!?」
日鉢さんは何時の間にか兵装の展開を終えていた。左手に黒弓を携え、右手には矢の種となる炎がくすぶっている。
国司さん達は道なりに屋敷へと急ぐ。遅れちゃダメだ!
「はい、高温の物質が通過した軌跡が空に残っています! 砲撃は二種類です! 先程のは照明弾で、本命が高速で飛来し爆発しました! 発射地点はそれぞれ異なります! 場所は、まず、方位角百六十七度! 仰角二十七度! 距離は、」
「ごめん! お姉サン、おおざっぱな方が好きだったりする性格かも!」
「最初の照明弾はここからほぼ真南にある山の中腹ほどからで、本命は西南西にある学園裏山の山頂付近からです!」
「オッケー!」
日鉢さんの右手が宙を撫でるように二度円を描き、ひゅっと大きく一払いすると二匹の火鉢が生まれていた。
「燈、無理して撃つなよ! 山火事になったら借金地獄突入だ! 一射一殺で行け!」
「分かってますってーば! 燃やしますって! 巌サンの借金まとめて私が大炎上させちゃいますって!」
「おい、日本語通じてるか!?」
二匹の火蜂は、日鉢さんの怒り声に同調するようにちょっと上下に羽ばたいた後、火の粉を空に残して屋敷とは逆の——リズさんの言っていた場所へ羽ばたいていく。
——はぁ、はぁ、はぁ!
速い! 国司さんも日鉢さんも、足が速い! もっと太ももを高く上げて、強く足で地面を蹴るんだ! 僕は、自分ができることに集中するんだ!
小高い丘をぐるっと回るように作られている坂道を、皆に遅れないように走る、走る、走る!
「そろそろ屋敷の正面方向に出るぞ! 燈、射撃の用意をしとけ!」
「任せときなさいって!」
「俺達が増援第一号らしいな。ヴォルフハルト! 着替えはさっさと済ませとけ!」
「し、失礼いたしました!」
国司さんに指摘されて、慌ててリスさんが背負った大剣の柄に手を添える。
「それと、東雲!」
——は、はい!
先頭を走る国司さんが、僕の方を振り返る。
「絶対ぇ無茶するんじゃねえぞ」
どうしてだが、リズさんや日鉢さんにかけた言葉とは違い、僕に向けられた言葉はこの場には不釣り合いなほど冷静な声だった。
——はい!
リズさんが、走りながら詠唱を終える。
“—————<—————>—!”
ふわっと果物みたいな甘い香りが鼻をくすぐり、氷みたいな冷気が肌を刺す。
——……うわぁ……、かっこいい……。
「東雲ェェェ!!」
——ははは、はいぃ!
リズさんに見惚れちゃった僕に、国司さんから激が飛ぶ。
「これからカチコミかけようってのに、何惚けてやがる! あれか、先輩の指導力のなせる業か、なぁ燈!?」
「あ〜ら、どこかの手拭い巻いてる人生の先輩のことですか?」
「いい加減人の頭を気にするのをやめたらどうだ!?」
「嫌味な上司が誠実なナイスミドルに変わったら言われなくても止めますー!」
お姫様みたいなドレスと戦士の装甲を合わせたリズさんの格好がすっごく決まっている。
これが、『恩寵兵装』なんだ——!
スカートとショールが、ひらひらと後方へなびき、金属の擦れる音が土を蹴る音に混じる。
国司さんの防具はコートに隠れちゃってるから良く分からないけど、日鉢さんの黒光りする左腕全体を覆う防具は渋くてかっこいい。けど、リズさんのは別格だ。
僕達と文化の違う人が鍛えたからとかじゃなくて、あの大剣を扱える人を綺麗に見せようとしている。まるで、
「東雲ェェェェ! 減点二点だ! ど阿呆!」
——ひぃぃぃ、すいませぇぇん!
何で国司さん僕のこと見もしないのに考えていることが分かるのー!?
「東雲クン、寂しくなったらお姉サンが慰めてあげてもいいわよ!」
「ほっとけ! ヴォルフハルト、上はどうなってるか見えるか!?」
「上は——、敵が、五名——誰かと戦っていま……——す!?」
走りながら上のお屋敷を見上げているリズさんが言葉に詰まる。
「おい、燈ィ! 前からもっぱつ来るぞ!」
「了ー解でっす! リーゼちゃん、あの大きなのって標的を照らすための明かりで良いのよね?」
再度、向こう側から大っきな火の球がやってくる。ゆっくり、ゆっくりと、着実に近づいている。
震え出しそうになる全身を奮い立たせる。
僕はこれからあそこに行く——行くんだ!
「はい。あれも砲撃ですが、威力はかなり減衰しています! 主目的は照明です! 本命はあれの着弾とほぼ同時に一直線に来ます!」
「オッケーイ!」
もうすぐ坂を上り切ろうかというところで、屋敷の内側から鋼と鋼の打ち合う音が聞こえてくる。
日鉢さんが両足を止め、ブレーキをかけながら腰を落とし射撃の態勢を整える。
「ヴォルフハルト! お前さんは燈の的当てに付き合ってやれ! 東雲は俺について来い!」
「はい!」
リズさんが足を止め、日鉢さんの隣で大剣を下に構える。その一方で国司さんはぐんとスピードを上げる。
遅れちゃダメだ! 両手でしっかりと鉄棒を握りしめる。
僕は走り続ける。
「南無八幡大菩薩、願わくば——!」
日鉢さんが詔を捧げ、黒い和弓を左腕の防具と一体化させ、巨大な『弓』の下部を地面に突き立てて、右手で火矢を装填する。
その傍らでリズさんは蒼い大剣を下段に構える。
前から迫る大っきな火球がもっともっと大きくなる。でも本命はこれに照らされ出された地点へ打ち込まれる高速の砲撃!
リズさんの目は瞬き一つせず険しい表情のまま、照明弾と、本命の砲弾が射出される地点を見ている。
こつんと、リズさんの左手の握り拳と、鉄棒を脇に構えながら走る僕の右手がぶつかった。
『武運を祈る』
——……はい!
言葉も視線も交わさないけれど、気持ちが確かに伝わってきた。
上空を漂う火の球を一度強く目に焼き付けて、
僕は丘の側面に沿った坂道を登りきる!
戦いは、既に始まっていた。
坂を上りきった真正面にあるお屋敷の正門は無残にも破壊されている。土埃と砂埃は収まっているけど、火のついた木材が辺りに散らばり黒煙が細く立ち昇っている。
その広場は、僕が稽古で使わせて貰っている境内より少し狭いぐらいだった。
「ぐぅ……」
地面に倒れている人達のうめき声と、
「疾っ!」
国司さんの短槍が敵の長剣を弾く音とが、重なった。
壊れた門の残骸と、沢山の倒れている人を地面に残し、
心臓の鼓動が、高鳴る。
時間が、ゆっくりと流れ出した。
お師匠様が言ってたっけ、『アドレナリン』って言う物質が脳で大量発生すると、まれに時間の流れを遅く感じることがあるって。相手の刃が自分の首を斬ろうとする瞬間、そんな僅かな間が、まるで何倍の長さを持つかのように感じられる、と。
『そーいうすげー恩寵を持ってる奴もいるんだよなぁ、これが』
体がそう感じたのは、見たからだ。国司さんが立っているのを、いや、戦っているのを。
ヒトガタじゃない、怪異でもない——五人の騎士に、国司さんは囲まれている。
騎士はどれもが全身に輝く甲冑に身を包み、鎧の隙間からは銀色の鎖帷子が見える。黒い上着を鎧の上に着ているけど、さっき見た黒騎士とは違う。
五人の騎士は、それぞれが剣を持っていた。
心臓が、鼓動を、立てようと、している。
僕はそのことを考えないようにしていたのかも知れない。
怪異がいるんだから。そいつらを斬るために、剣術の稽古をする——そう言い聞かせようとしていたのかも知れない。
僕には、人を斬る必要なんかないって。
今日の巡回中に、国司さんが教えてくれた。襲撃犯は二名、一人が中学生ぐらいの小柄な少年で、もう一人は長身の欧州人だって。
この五人の騎士は、小柄な少年が召喚したカラクリ兵装の一種だ。
だから斬ってもいい、なんて言い訳だ。
刃を振るう、刀を抜くってことの意味の重圧が——真鋭ジゲンの剣士にとっては違う。この騎士達に刀を抜くってことは、持ち主を斬るって言うのと同義だ。つまり、人を、他人を、誰かを、自分のせいで死に至らしめるってことだ。
それは、絶対に、どんなことがあっても越えちゃいけない一線——!
でも、僕がただ見てるだけじゃ、国司さんが、日鉢さんが、それにリズさんが、僕の代わりに戦わなきゃいけないことになる。僕が負わなきゃいけない重荷を、他の誰かに預けるってことだ。
現にこの向こう側では、この騎士達の主と、衛士の人達が束になっても叶わない黒騎士がいる。
そこには、青江さんやシャルロッテさんがいるかも知れないんだ!
——僕、は……
傷ついてしまう、僕の知っている人達が。僕のことを呼んでくれる人達が僕のせいで悲しんだら、僕は自分を許せるの?
——僕は!
初めて目にしたリズさんの顔と、今日、稽古を最後まで見て手を振ってくれたリズさんの笑顔と、昨日の——僕を抱きかかえるリズさんの顔が、僕の中を駆け巡った。
大切な人の哀しむ顔は、もう見たくないんだ!
ゆっくりとした時の流れが一気に加速し、沸騰した血流が一瞬で身体中に流れ出す。
——チィィエェェェェェェーーーーーーーィィ!!
両手に
「バ、バカヤロウ! 何処の特攻部隊だ、こンのど阿呆がぁ! 人の言うことをいきなり破る奴があるかぁぁ!!」
国司さんを取り囲む、五人の騎士の一角を叩き斬らんと——駆ける!
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
すぐ上の屋敷前から国司殿の叱責の声が聞こえた。
<目>など使わなくても、その声だけで状況は理解できた。何が起こっているのか、起ころうとしているのか。そして、起きてしまうのかが!
「日鉢殿、来ます! 敵陣、五名、一斉に砲撃準備開始! カウントダウン、五!」
隣に侍る射手たる日鉢殿へ、合図を送る。
「四!」
日鉢殿が狙うは一点、
「三!」
その兵装の名に込められた意味を知らねば、笑い飛ばしていただろう。
「二!」
<玄鋼之与一>——旧時代、この国には『三与一』と謳われる弓の名人がいたと言う。
その一人、
「一!」
故に、その名を冠する兵装から解放される矢に、外れなどあろうはずもない!
照明代わりの巨大な火の球が私達を照らし続ける。
刻一刻と、正確な時計の針のように、等間隔で落とされる水滴のように、近づいてくる。
されど、狙うはそこではない。この明かりに照らし出される場所を狙撃せんとする敵の砲弾!
日鉢殿の黒弓から赤い光線が伸びる。
再度、先程とは比較にならない大きな爆炎が、夜空に生じる。
超高速の砲弾を、彼女は確かに射抜いたのだ。
「来て頂戴! 『
日鉢殿の呼びかけに応じるように、爆発で生じた噴煙を内側から喰らうように、四匹の火蜂が夜空に踊り出る。
そうか! 的を射抜く一矢に既に仕込んでいたのか!
四匹の火蜂は主の意を速やかに実行に移し、三方へと散る。
一匹目は後方に——萌達の頭上、今まさに接地せんとする巨大な火の球の中へと!
二匹目は南へ——照明弾を放った敵の一団へと!
そして残り、三匹目と四匹目は西南西へ! 矢が射抜いた高速の砲弾を射出する敵の陣地を喰わんと飛ぶ!
蜂達は己に宿る破壊の炎を、轟音と共に解放する。
萌達に迫っていた火球に飛び込んだ一匹目の蜂は、球体を内部から揺らし波打たせ、熱風と炎の衝撃波を周囲に撒き散らしながら夜空へと消えていった。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
「——こンのど阿呆がぁ!」
国司さんの声と言うより、僕の接近に感づいた二人の騎士が、体の向きを変える。
僕の背後に迫っている大っきな火の球が、騎士達が持つ長剣の刀身をきらりと光らせる。
リズさんの持つ剣と比較すると、長さも重みもない。十字架のような形の剣だ。騎士達は片手で柄を持ち、刃を僕へと向ける!
それが、致命的だった。
「オヤジなめんなぁ!」
騎士達が取り囲んでいたのはたった一人の槍兵——一人の兵士だ。普通ならば一人を三人で相手にできるはずもない。
でも、僕の目の前にいるその兵士は、決してただの槍兵なんかじゃない。
槍をすくい上げるようにして回して敵兵士の刃を弾くと、そこへ身を滑らしながら体を回転させ後方からの切り下ろしの一撃へ石突きを当てて軌道をそらす。
同時、肩越しに突き立てられた短槍の刃は、一人の騎士の鎧の隙間——肩関節部から内部へと突き刺さっていた。
槍を軸に国司さんがくるっと回転し、上空に舞い上がると、足蹴りを別の兵士へ見舞って槍を抜き、着地と同時に腰を一気に下に落としながら槍を突き出し、その刃を喉へと吸い込まさせ先程の兵士の息の根を止める!
——あああぁぁぁぁぁぁぁぁーーー!!
二人の騎士が剣を携え、僕へと向かってくる。後三歩だ!
国司さんはまだ二人の騎士に囲まれている。喉を貫いた騎士から短槍を抜くと、騎士は膝から地面へと崩れ落ちる。が、その膝が地を打つよりも早く、
国司さんの短槍の穂先が、三つの円と二つの直線を描いた。
その円と線が持たらす暴力の結果を見届けることができたのは、ただ一人、短槍の主だけだった。
彼へと向かった三人の騎士は、人外の技量を誇る一人の槍兵に瞬時にして命を奪われていた。
けれど、僕の視界には、二つの物体しか映らない。
僕へと刃を振り上げる二人の騎士だ。僕に刃を向けるもの、僕を殺めようとするもの、僕が斬らなきゃいけないもの、僕の大切な人を傷つけようとするもの、そして——僕が斬ると決めたものだ!
敵は二人、奇しくも昨日の夜のヒトガタと同じ数だ。なのに、僕の頭はどこか冷え切っていた。お腹の底は、ぐつぐつと煮立ち始めているのに。
息は、まだ続く。具足やらなにやらを着ながら全速力で国司さんを追いかけていたけど、僕はまだ走れる、後数歩だけなら全力で!
呼吸を読まれるのは立ち合い、じゃなく死合いでは致命的だ。呼吸は心臓の動きであり、全身の筋肉の動きを示す。つまり自分の動きがつぶさに相手に知られていると言うことだ!
けれど、そんなものは——真鋭ジゲンの剣の前では意味を成さない!
前に立つ騎士の姿が鮮明になる。僕の側面に回り込もうとする騎士を意識の外に追いやる。
刻むは四字、一撃必殺!
——キィィィィェェェエエエエ!!
この身が成すは、ただ敵を斬ったと言う結果だけ!
騎士は、炎に照らし出されて鈍く光る甲冑を纏いながら右手で柄を、左手で刀身を握り、長剣を腰だめに構えたまま突っ込んできた。こちらの攻撃に対応して反撃で僕を仕留める気だ!
騎士は僕の鉄棍を受け止めようと、横に構えた刀剣を頭上へと移動させる。
迷いも、ためらいも、後悔も、今この時だけは何もない。背負わなきゃいけないものも、守りたいものも、全てが無くなる。敵を斬る——ただそれだけの間だけは!!
僕はそこへ減速などせず持ちうる限りの全ての脚力で駆け、蜻蛉に取った鉄棍を、
騎士の構える剣へ、その剣と鎧もろとも、
この一刀で真っ二つにせんと、
僕の全身と全力と全霊で——叩き、つける!!
火花が飛ぶ。鉄と鋼がぶつかり合い、騎士の構えた剣はその半ばから折れ曲がり、鉄棍が騎士の左肩当を破壊し、体内へ喰い込む。
騎士は左肩から鉄棍を体内へと埋め込まれたにもかかわらず、うめき声一つあげず、破壊されたはずの左手を動かし、僕の右上腕を掴む。
沸騰した血液が、瞬時に冷水へと変わる。
——動け、ない……!
敵の長剣は鉄棍の破壊力を受け止めきれずにぐにゃりと曲がっている。それは僕の鉄棍も同じだ。もう棍とも棒とも呼ぶのは難しい。
敵は右手を剣から離し、今後は僕の左腕を掴む。曲がった剣が地面へと落ち、鉄で覆われた五指が昨晩の戦いで装甲を切り取られた上腕部分に食い込んでくる。動かない、動かせない!
痛覚が僕の感覚を引き戻す。敵は僕を組み伏せようとする。そして無防備な僕の側面から、もう一人の剣が剣を振りかぶりながら突進してくる!
自分を呪う暇はない。目の前の騎士を一撃で倒せなかったこと、その敵に腕を掴まれ動けないこと、二人目の騎士の注意を怠ったこと、全部が全部未熟な僕のせいなんだ!
それでも刀を抜いている間は後悔はしない! するのは、敵を斬る——僕の内にある意地を燃やすことだけ!
鉄棍を動かせない、敵の腕を振り払うこともできない! なら、
押し込む! 鉄棍を! 僕の横にいる騎士がその両手に持つ剣で僕を斬るよりも早くこの敵を、
「——なめんなっつったろ!!」
背後の大爆発と、
横に立つ騎士の剣撃が僕の首に届くのと、
短槍による銀光の襲来が、
全て同時に起こり、同時に終わった。
僕の首をはね飛ばそうとした騎士は、槍兵の投擲した槍によって頭を串刺しにされ、爆風に逆らうかのように槍兵が襲来する。
己の分身たる短槍を両手で抜き抜くと同時に右手で左手を後ろに押しやり、左足を軸に回転しながら左手首を返す。
右手を短槍の石突きに添えて槍の回転を助けながら、僕の両手を掴む騎士の顔面にその穂先を突き立てられた。
槍兵の動きは流れる水のように止まることを知らない。引き抜かれたはずの槍は次の瞬間には騎士の体内、心臓部へと突き立てられていた。
——あっ……。
我ながら情けないけれど、そんな言葉しか出せなかった。
何処か遠くの後ろから、二度、今までとはちょっと違う爆発音が聞こえてきた。
「——っと、燈の方も片付いたか。ほれ、ぼさっとすんな。薬瓶を開けて止血帯を用意しろ。怪我人の手当だ、手当」
——は、はい!
「戦闘での緊張の糸つーのは、一度切れると一、二時間は元に戻らねえからな。ぼけっとすんな、この命令違反坊主」
国司さんの落ち着いた静かな声で、ようやく周りが見えるようになってきた。
僕の後ろでは、後ろにある山と、学園の方向にある山から火の手があがっていた。
そして、国司さんに倒された騎士は、何処にもいなくなっていた。良く良く目を凝らすと、騎士達がいた場所に何かの紙が落ちていた。
屈んで一片をつまんでみる。左腕はまだ痛む。騎士は確かに存在していた。でも致命の一撃を喰らうと、ただの紙切れになった——いや、戻ったんだ。
「派手にやられたな」
僕は曲がった鉄の棒を地面に置いて、帯に結び付けてある袋から、薬包みと包帯を取り出す。
「七、八——九、十か。須佐さんらの護衛を入れて、だろうな。東雲、広場から落ちかけてるそこの御手口のオッサンを引っ張りあげろ」
——は、はい! あ、あの、ありがとうございました!
「おう。仕事しろ、仕事」
国司さんに頭を下げてから、丘の上の広場から落ちかけている御手口さんと言う人を探して、引き寄せる。
「ぐ……離せ、誰が、ぐぁっ、貴様なんぞ……に……!」
良かった。意識はあるみたいだ。御手口さんは広場から落ちそうなところを何とか踏ん張っていた。そんなに斜面はきつくないけど、胴鎧がザックリと斬られ、草むらに血がべっとりと付いていた。
「く、くるな……小僧……!」
まずは、御手口さんの体を引き上げるため、一歩足を踏み出し、
——ぅわっ!
突然、身体中に何十キロもの重りがのしかかってきた。
片膝が地面に落ちる。右手をつかないと支えきれない、僕自身も倒れちゃいそうだ。
「どけ……! 自分の面倒は、自分で、ぐ……ッ!」
重い——これが、結界の重り!? 広場の外に出たってことは、結界から『異物』と見なされてるのか!
腕と足に力を入れ、倒れたままの御手口さんの両脇に手を入れて引き起こす。
——ぬぎぎぎぎ!
御手口さんの体と地面が張り付いてるみたいだ。広場に引っ張り起こさないと、傷の手当どころじゃない!
「離、せ……た、ただの擦りき——ぐっ……!」
「ほれ」
「ぐ——が、す、すまん……」
「ほれ、東雲、鎧脱がしてから薬塗って止血帯巻いてやれ。そう簡単にくたばる人じゃねえ、適当でいいぞ」
「く、国、司ィ……! か、か、刀だ……! 刀を、持ってこい……っ!」
「おっと、そうだ。東雲、あの刀は絶対渡すなよ。怪我人はおとなしくしてもらわんとな」
御手口さんと国司さんの手が指し示す先に、豪奢な造りの刀が落ちていた。
柄の縁頭と鍔、そしてはばきの三箇所が強く金色に輝いている。柄には白い鮫皮が菱形を作りながらしっかりと巻かれている。打刀と呼ぶには長すぎる刀身と強い反りは馬上で振り回すのに適している太刀と分類されるのが正しそうだ。
広場には他にも折れた槍や刀が散乱し、何人もの人が倒れ、苦痛の声をあげていた。
「うわっちゃー、こりゃまた」
「国司殿、日鉢殿のお力で敵の砲陣に打撃を与えることができました」
「おう、あれだけ派手にやりゃ残りは他の連中がやってくれんだろ」
リズさんと日鉢さんが広場に到着する。
「しっかしやられちゃってますねぇ」
「いや、手加減されてるな、こりゃ」
「く、国司ィィィィィ……!」
——わぁぁぁ! 動かないで下さい〜、傷が開いちゃいますからぁ〜!
「例の二人組はまだ中だな。東雲はここに残って怪我人の手当だ。燈とヴォルフハルトは俺について来い」
「えっ!? リーゼちゃんもここに残さないんですか?」
「お、おい……! そこの外人も、置いていけ……!」
「すんませんね、こいつに見て貰う方が大事なもんで。ヴォルフハルト、敵さんが残したもんだが、何が見える?」
国司さんが千切れた絵札をリズさんへ見せる。
「残骸ですね——……恩寵兵装……絵札を具現化、するものの、ようですが——……」
リズさんが、歯切れ悪く国司さんに答える。
「うーん、予想通りね。他に面白いものでも見えた?」
「見えるには、見えているのですが……、その、見えている言語が……。日本語にすれば『カードの兵隊』と言うところでしょうか……。いや、しかし……まさか……?」
屋敷から聞こえていた剣撃の音が、段々と強いものに変わってきた。
「話は後だ、いくぞ二人とも。それと東雲」
——は、はい?
「例の二人組が出てきて、絶対手を出すな。俺の読みが正しけりゃ——てどうでもいいか。絶対戦うなよ」
「そいじゃーね、東雲クン。お姫様達の救出はお姉サンに任せて!」
——は、はい! お願いします!
リズさんとは言葉ではなく視線のみを交わす。二人のことは任せろ、そうリズさんの紅の目が語っていた。
「ま、待て、国司ィィ……!」
「成仏して下さいや、御手口さん。線香ぐらいはあげますんで」
——く、国司さん!
「あん?」
——さ、さっきはありがとうございました!
「礼を言うくらいなら人の言うこと聞いとけ。ここはお前に任せたぞ」
国司さんと日鉢さんとリズさんは、潜り抜けられるほどの形を留めていない程に壊れた門を通り抜けて、瓦礫を飛び越えながら、中へ、屋敷へと走って行った。
広場には、僕と、この御手口さんと、倒れている人達だけが取り残された。
——よいしょっと、しみますよ。
「——! ぐ、ぐぐぐぐぐ……!」
——これで、良し、っと。
止血帯をきつく巻き終えると、
「どけ、小僧! 刀——刀を……!」
御手口さんは僕を押しのけ、地面に腹ばいになりながらも、僕がそばに置いた胴鎧ではなく太刀へと手を伸ばす。
抜き身の太刀が主を求めるかのようにその刃を輝かせる。
御手口さんの体を守っている金に縁取られた華麗な甲冑は、あの太刀とお揃いだ。きっとこの太刀こそが御手口さんの持つ恩寵兵装なんだ。
——あっ! ダメです! 国司さんが刀は持っちゃダメだって!
「ぐっ! どけ! 離せ小僧! ——うっ!」
——ほらぁ、傷が広がっちゃってるじゃないですかぁ。
「ぐがが、ぬぐぐご」
あれ……太刀が、微かにだけど揺れている、いやこっちへ動いている?
あ、そうか! 思い出した!
刀には、いろいろな分類がある。一般的には、長さや反り具合で打刀、太刀、脇差、野太刀って分類されるけど、恩寵兵装刀の場合は、その出来具合で『真打』か『雑打』(数打とも)に大きく分けられる。
『真打』にはその名の通り、その刀を鍛えた人の真なる想いが練り込められている。刀の担い手はその想念を実現する一部になるんだ。
『あらゆる敵を倒す武者』、『古今無双の絶対強者』——そんな実現不可能な絵空事を実現するために真打の刀は鍛えられている。
故に、生まれ持った恩寵と同等の異能力を発現させたり、基礎的な身体能力の圧倒的な向上を担い手にもたらす。その一端が治癒能力だ。
純粋な願いだからこそ真が宿る。そこには傷だらけの戦士や怪我を負った武人は存在しない。真打の刀は己の願い通りの純粋で完璧な姿を担い手に求める。
そこで原因と結果、因果律の逆転が生じる。治癒能力を特別に備えているからでも、薬が仕込まれているからでもない、担い手は『完全無欠な戦士』であるが故に『傷を負っている』状態でいることは許されないんだ。完璧な姿と言う結果がそこにあるからこそ、負った傷が治ると言う過程が作られてしまうんだ。
——あぅ、どうしよう?
つまりは、あの太刀を御手口さんに渡せば傷が治るという治癒の力が強まるはず。けど、国司さんからは渡すなって止められてるし……。
「は、離せ! 止めるな、小僧ォ!」
——あっ! 無茶はダメですよぉー!
「ここまで——ぐっ! ここまで、コケにされて、黙ってなど、いられるかッ……!」
——だだだ、ダメですって!
そうやって押し問答をしていると、屋敷の方から聞こえてきていた剣撃の音が、聞こえなくなっていた。
——あれ……ってあっ!
「ぐおおおお!」
気の緩んだ僕を御手口さんが振りほどき、太刀を取り戻すべく、僕を押しのけて地面を這いながら手を伸ばす。
——あ〜も〜! えいっ!
「なっ、こ、小僧! う、腸が……!」
先に走って、僕がこの太刀を持っちゃう。
「返せ、今、すぐに、だ!」
——戦うには無茶な傷ですよ! 僕がお預かりします!
落とさないようにずっしり重いその太刀を両手で持ち、御手口さんに捕まらないように広場中央に移動する。
「不覚……! 不覚……! なんたる——げふぅ!」
憤怒の形相の御手口さん(ああ、涙目になっちゃってる)に、お返ししませんよと言う視線を送る。
広場にはまだ怪我をしている人が沢山いる。手当をしてあげないと!
屋敷の方が静かなのが気になるけど、今僕がすべきことをきちんとしないと!
——あれれ?
肌がピリピリと僕に何かを訴えかけている。それに、ほんの少し地面が揺れている、ような?
——あの、揺れてます?
「か、刀だ! そんなことより刀をよごせぇぇぇ!」
あわわわわ。どうしてだろう、広場から落ちかけていた頃よりずっと元気になっちゃってる気がする。それはそれで良いことなんだけど、これはダメな気がする。
御手口さんの迫力に呑まれながら、次に手当すべき人を探していると、建物の壊れるような大きな音がした。
地面の揺れと、屋敷から聞こえてきた大きな音——異質な事柄が戦場にいる感覚を呼び戻す。
浮き足立ちそうな気持ちを抑え、自分がすべきことを再認識する。
壊れた門の先に、黒騎士がいる。刃を振るっている相手はリズさんかも知れない。
僕は、僕にできる——……ってあれ? 思わず、目が点になった。
トコトコと、一人の少年が屋敷から走って出てきたからだ。
金髪の外人さんだ。服装はリズさんと同じ巡礼服を着ている。
だ、誰だろう? 外国の人?
少年は戸惑う僕をそのままに、広場の真ん中に突っ立っている僕を迂回して走り去ろうとする。
——あ、ねぇ君! 今、危ないよ!
あわわ、えっとね、抜き身の立派な太刀を持っているけど、僕が危ないんじゃなくてね! ええと、ええと……! 何て説明すれば良いんだろう?
「バ、バカ者がァー! その小僧は黒騎士の相棒だァ!!」
——えっ……!?
少年は、足を止めて僕を見る。その表情からは、敵意の欠片も感じられない。
「こんばんワ」
——えっ!? あ、はい、こんばんは。
突然の挨拶に、つられてお辞儀をしちゃう。
「ババ、バカ者が! 前だ、前を見ろー!」
前——!?
「く、くく、黒、騎士ィィィィー!!」
黒い騎士が、立っていた。御手口さんの怨嗟の声には何も答えずに、壊れた門を通り抜け、ゆったりとした歩みで広場を通り抜けようとする。
「それデハ、さようナラ」
少年の片言の日本語にも、何の反応も示さない。
黒い兜に、黒い鎧、刺々しい外装と、それとは裏腹な飾り気のない漆黒の大鎌——篝火の残り火すらもこの騎士の持つ黒の前には姿を隠してしまう。
甲冑の作りは欧州風だ。リズさんの鎧部分みたいだけど、受ける印象は真逆だ!
僕なんかでも分かる、間違えなく一級品の恩寵兵装だ! それも超がつくぐらいとびっきりの!
「こ、小僧ォ、刀だ刀だァ!」
黒騎士は、その歩みを止めない。
‘——————? —————?’
少年の呼びかけも、お構いなし。
僕は、どうするんだ?
広場の中央に、僕はいる。それはつまり、黒騎士の歩く線上に、僕はいるんだ。
戦う? 退く?
戦う? 勝ち負けは、目に見えている。僕の持つ、こんな立派な恩寵兵装の太刀を持つ武人でさえ、戦闘不能に追い込まれたんだ。
退く? それが、正解だ。僕なんかでは、勝負にならない。でも……
『三つだ。まず三つだけ約束しろ』
この人は、リズさんと戦っていないのかも知れない。リズさんもシャルロッテさんも、無事なのかも知れない。
『一つ、弱いもんをいじめるな』
国司さんは、僕なんかよりもずっと強い国司さんは言ってたじゃないか、絶対に手を出すな、って。
『い、いやな。僕より弱い人なんているんですか——って、言われてもなぁ。おう。いるんじゃねえの? 世界は広いしな』
戦ったら負ける。斬られる。死んじゃうかも知れない。
怖い、やっぱり怖い。生と死をやり取りする場にいる怖さに、決して僕は慣れることはないと思う。慣れちゃいけないのかも知れないけど。
黒騎士の兜からは、何も感じられない。何の光もそこからは覗かせていない。
敵意も、殺意も無い。
『チョップだ、ちょっぷ。てーい。…………。あ、あのな、ひぇー痛いですー、とか言うもんだぞ。————。お、おう……。ま、まぁ、そのでけえ傷と比べられちゃぁな。次、行くか、次。それとな、今度やられたら、横暴ですお師匠様〜って言うんだぞ、な?』
黒騎士からすれば、僕なんて道端の石ころ以下の存在だ。踏み潰す、蹴っ飛ばす、いや、そもそも気にも留めない存在だ。
『お師匠様……お師匠様か。くぅ〜ーいいねぇこの響き。口に出してみると良いもんだな。よし、これだ、これで行くぞ。今度から俺のことはお師匠様って呼ぶんだぞ。んじゃ次だな、次』
僕が余計なことをすれば、また誰かに迷惑がかかる。
『二つ、嘘をつくな』
戦っちゃ、だめだ。一方的に斬られるだけだ。そもそもそんなこと考えることすらいけないんだ。
逃げる、逃げるんだ。何もおかしくはない、恥ずかしいことじゃない。
『三つ、負けるな』
で——でも……!
『何があろうと絶対に、だ』
退くか退かないか、抜くか抜かないか——そんな僕の戸惑いと決意をあざ笑うかのように、戦況は変化する。
『負けんなよ、萌』
「く、黒騎士ィィィィィ!!」
——あっ!
地面に伏せっていたはずの御手口さんが、僕のところまで猛然と駆け寄ると、僕が手に持っていた太刀を奪い取る。
——ダメですよ!
「覚悟ォォォォォーー!!」
御手口さんは大声を張り上げながら両手で太刀を振りかぶり、お腹に負った傷をものともせず黒騎士へ斬りかかる!
夜空に残像すら残し銀光が煌めく。が、
「——ちィィ!?」
‘———’
ものを斬るはずの武士の太刀は、それを防ぐための騎士の鎧によりあっさりと阻まれる。味気ない衝突音だけが勝敗の行方を如実に物語っていた。
黒騎士の左膝が跳ね上がり、
「がほォ!?」
御手口さんのお腹に突き刺さる。
崩れ落ちる御手口さんの首元へ、黒騎士の持つ大鎌の刃が移動して
僕の中で、何かが弾け、燃え上がった。
腰に差してある
——キィィィィィェェェェェェーー!!
黒騎士を止めるため、その甲冑ごと、二つに断たんと斬りかかっ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
国司殿に引き連れられて、屋敷の中へと急ぐ。
屋敷と言うより、その残骸とでも呼ぶべきか。斬られている。巨大な剣にではない、風だ。私の目がこれらの残骸がもたらされた原因を伝える。
一直線に吹いた突風だ。砲撃でこじ開けられた門の穴から流れ込んだ風が、門を破壊し、屋敷を裂いたのだ。そこへ照明弾の炎が破裂し、屋敷の残骸へと引火した。
二種類の弾は威力が減衰してぶつかったようだ。『存在強化』の結界を無視した遠隔攻撃を強行した結果だ。それでも黒騎士にとっては十分な破壊力だったのだろう。
微かに開けた空間からその先にある庭の光景が見れる。
「突っ込むぞ! 燈とヴォルフハルトはお嬢さん連中の保護と怪我人の救助を最優先だ!」
「またぁ〜良い格好しようとしてぇ〜」
「承知しました!」
崩れた建物の先へ、一目散に走る。
日本の家屋は土足禁止ではなかったか。くっ、不覚。緊急事態ではあるが、だからこそ原理原則は守られるべきではないか?
残骸をなるべく踏みつけないように足を進めるとそこには——
白い騎士が、戦っていた。
その白銀の輝きは、
「テ、テレジア殿!?」
今や、鮮血の紅でまだらに彩られていた。
片膝を地について、その身に降りかかる鋼鉄の雨から手にしたハルバードでその身を弱々しく守っている。
あり得ない……! あのテレジア殿が、主人を前にして膝を屈するなどと……!
テレジア殿を、四名の敵が囲んでいる。やや豪華すぎるロングソードを持った二名と、三メートル程のロングスピアを持った二人だ。剣兵がドイツで見られる無骨な形式の
襲いかかる剣と槍から、テレジア殿は自身のハルバード、<深遠からの咆哮>で何とかやり過ごしている。重く遅い動きだ。決して本来のテレジア殿のものではない!
そ、そうだ、シャルロッテと静は——!?
庭全体を見渡すと、日本の庭には似合わない土の錐のような塊が五本、地面から突き出していて土の檻を作っている。
そばには
あれは、須佐政務官か! ならば、静とシャルロッテは!?
国司殿がテレジア殿を囲む兵士達へと無言のうちに槍を走らせる。
“テレジア殿! シャルロッテと静は何処ですか!?”
侵入してきた異物を迎え討つべく槍兵がスピアを薙ぎ払うが、国司殿は止まらない。リーチの劣る短槍でスピアを下からかち上げると体当たりを食らわせ、白い騎士——<深遠からの咆哮>を展開しているテレジア殿と背中合わせに立つ。
“あっ! あのあの! ここです! ここです! リズさん、私はここにいます! シズちゃんも一緒ですよ〜!”
彼女の可愛らしい声は、土の錐で出来た檻の合間から聞こえてきた。
「シズちゃん、シズちゃん、大丈夫? 苦しくない?」
「……きゅう……もふもふ……」
「きゃ〜! シズちゃん、シズちゃんしっかりして〜!」
彼女達の声を、私は己が与えられた力で、私にしかできない方法で<見る>。
土の檻は、あの<カードの兵隊>達が作り出したものか! 人力の破壊は不可能でも、テレジア殿の刃はおろか私の<氷の貴婦人>でも斬ることは可能だ。いや、ダメだ、崩れれば硬質化した土の破片が中にいる二人へ降り注いでしまう!
そうか、敵ながら感心してしまう仕組みだ。シャルロッテの恩寵を相手にするには唯一と言って良い一手かも知れない。
だが、疑念も湧く。こんな仕組みをどのような速さで考えたのかと。シャルロッテの恩寵を目の当たりにすれば、それを防ぐことなど到底できないと、止める術は無いのだと分かる。ましてテレジア殿がいるのだ! あんな檻を成立させるには有無を言わさぬ奇襲しかないはずだ!
シャルロッテとテレジア殿の恩寵と力を知った上で練られた対策だ。つまり、この檻を作り出した者は最初から……
違う! 今は思索に耽る時ではない!
倒れている須佐政務官を<見る>。
「日鉢殿! 国司殿! あの檻には手を出さないで下さい! 下手に破壊しようとすれば中にいる静達が無事ではすみません! 須佐政務官は頭部を強打されて昏倒していますが、命に別状はありません!」
「それって、重症って言わない?」
「ですから命には問題ありません! 静、シャルロッテ、今暫しお待ち下さい!」
「はい! シズちゃん、ここでじっとしていましょうね!」
「……むにゅぅぅ……やわらかぁ……」
「シズちゃーん、しっかり〜!」
声から<見る>に、閉じ込められてはいるが窒息する類のものではなさそうだ。いや、シャルロッテが静の頭を胸に抱き寄せている。彼女の非常に豊満な胸を考慮すれば別の意味で窒息しかねない。
そうか、あの檻はただ閉じ込めるだけの物なのか。主人が窒息するのならばテレジア殿は迷わず破壊することを選んだだろう。だが、ただ閉じ込めているだけならば、主人の力を知るテレジア殿ならばシャルロッテの救出よりも目の前の敵の殲滅を優先したはず! つまりテレジア殿は黒騎士と戦い、そして——
いや、今は、この兵士達を倒すのみ!
国司殿に遅れるも私もテレジア殿の元へと馳せ参じる!
私の耳元をかすめながら一本の火矢が敵兵へと射出される!
剣兵は身を動かし剣を払って撃ち落とす。紅の炎が爆発する間、敵へ接近し、
「セィ!」
構えを崩した剣兵へ、右肩口に刃を担ぐ『
騎士はロングソードを構え直し私の斬撃を受け止める。——見えているぞ!
剣同士がぶつかり合った箇所を支点に力の向きを変化させながら<氷の貴婦人>を押し込むと、敵剣兵は一歩後退し態勢を立て直す。
左足を一歩踏み込みながら剣を横へと弾き飛ばし、さらに前へ一歩! <氷の貴婦人>の柄頭の宝石を敵の兜にぶち当てる! 装甲を破れなくとも打撃であれば衝撃を内部へ伝えることは可能だ!
ただ、倒れない。兜の側面を大きくへこましながらも、血の一滴も流さないでまだ立っている。
敵は召喚使役型の恩寵兵装、名は<カードの兵隊>! この個体はその中の『
絵札に描かれている兵隊の具現化……それだけではない!? 絵札の出し方によって特性を持たせる、だと!?
二つの異能力を実現する兵装か! くそっ、文句なく一級品ではないか! 超がつくかどうかはその手札を全部見なければならないが、使い勝手は超一級品だ。戦力を逐次投入しているように見えるのが解せないが——
「っ!」
頭部への打撃を耐え抜いた敵兵は、左肩からこちらに体当たりを食らわせてくる。しかし、その道は既に<氷の貴婦人>の通った跡だ!
氷塊が兵士を止める一瞬に、勝負はついた。
右手を剣から離し、左足一本を軸とし右の鉄拳を先程できた凹みへ叩き込む。
同時、剣を持った左手を後ろに引き絞り溜めを作り——解放する! 左手一本に握った<氷の貴婦人>を一気に敵の胴体へと!
硬い鎧と人の柔らかい肉を貫くおぞましい感触が、左手から伝わる。
剣を引き抜く暇すらなく、敵兵士は消え去り、紙切れが地へと舞い落ちた。
状況は——!?
「なっ……」
驚いた、いや、驚くと同時に何処か当然だと納得していた。
私が日鉢殿の援護を得て一人の敵兵を倒した時、国司殿の短槍は、残り一人になっていた兵士に雨あられのような連撃を見舞っていた。四人いたはずの兵士は一分としない内にたった一人となっていたのだ。
その攻撃の華麗さに目を奪われていたのは一秒あったかどうか——既にその技は終わっていた。
私の肉眼が捕らえられたのはたったの四度だけ、だがその実、私の恩寵が見せた七連の突きが、兵士を穴あきチーズへと変え、穴だらけのカードへと戻していた。
「ヴォルフハルト、黒騎士はいたか?」
「い、いえ……」
「白いのを見てやれ。残りの三体を片しとく。燈、警戒を頼む」
戸惑いを隠せいない私などには目もくれず、国司殿は短槍を肩に担ぎ、残っている三体の棍兵へと走り出す。
「いよっと!」
日鉢殿の右手から無数の火の粉が空へ舞い上がる。それは意思を持った蜂達となり屋敷の闇を照らしながら周囲に存在するはずの何かを探し出そうと飛び回る。
私は、テレジア殿を見る。
展開している兵装<深遠からの咆哮>の装甲部にダメージがある。大小様々な亀裂が走り、血が滲み出ている。
私はその先を見なければいけない。それは何故、このお人がここまで無残な姿を晒しているのか、だ。傷のせいではない。彼女の<深遠からの咆哮>とは究極なまでに兵士のあるべき姿を実現するものだ。
何故、傷が癒えていないのか? ここまでテレジア殿を苦しめている理由を私なら見ることができるはずだ。
”テレジア殿、助力します”
“ヴォルフ、ハルト……!”
いや、傷は、癒えている。癒えてはいるのだが……!
彼女の体に黒色の電撃のようなものがまとわりついているのが見える。神経を目に集中させ、視界に映るものの深部へと踏み入れる。
これは、何だ!? 恩寵兵装の、『解放』の一撃だ。その特性が……治癒するはずのテレジア殿の力を阻害し、逆に陥れている。もっと、深く、見るんだ——!
“テレジア殿、これは呪いです。活動の休止を強制させられています。動き続けるのならその量に見合っただけの重しが付加されるという仕掛けです。今すぐ兵装を解いて、戦うことをお止め下さい。一時的で結構です、それでこの呪いは、”
“ふざ、けろ……! お嬢様の前で、醜態を晒しながら休んだいろ、だと……! 奴の前に、貴様の首を、斬り落とすぞ……!!”
だめだ、止められない。このお人の兵装は『兵士としてあるべき姿を追求させられる』ものだ。たった一度でも休めば解除される呪いとは縁遠いものだ。お互いがお互いを高め合い、このままでは永遠に呪縛から逃げられない!
助けるには、シャルロッテを救出するしか他ない!
“そこでお待ち下さい!”
私は左手を<氷の貴婦人>の柄縁に、右手をその棒鍔の先にある
既に一体の兵は国司殿によって元の紙の姿に戻されおり、彼は二体と同時に渡り合っていた。
「助太刀します!」
余計なお節介だとは分かっているが、兵は神速を尊ぶと言う、今は速度をこそ大事にすべきだ。
近づく私を一人の棍兵が迎え撃つ。
まっすぐに走りながら歩幅を小刻みに変え、体を左右に振りフェイントを何度も入れて敵に揺さぶりをかける。
敵の棍を狙う一撃をすくい上がるが、当然弾かれる。私は左半身を前に出し、右手を刀元から柄頭へと滑らせ、左構えに移行する。
「ハァァァァ!」
大振りの一振りは敵の体に触れる直前に軌道を返されるも、同時に左構えの『雄牛』へと移行させ、喉、胸、眉間の三ヶ所へ突きを見舞う。
敵の棍で全てを弾かれるも敵の構えは既に崩れかけている。後三撃——私の目はそう告げている。
両手首を返し、右上段の斬撃を放つ。そして回転し遠心力を加えて再度同じ箇所へ斬撃をもう一度! 棍へ走った亀裂を、私の目は逃さない!
「セイヤッ!」
三度目の正直の一撃は、敵が構える棍ごとその首を宙に跳ね飛ばしていた。
ふうっ……<氷の貴婦人>を己の真正面に移行させ、残心を取る。
これが私の剣術の一端だ。左手で鍔近くの柄縁を持ち、右手で鍔の先にある刀元を握る——これが右利き用の右構えだ。そして右手の位置を柄頭に移行することで左利きの左構えに瞬時に変化させる。
右構えはリーチが短い分小回りが利き速度に優れ、左構えはリーチと破壊力に優れる。
剣を使う上でまずされることが右利きへの矯正だ。だが私はそれを反転させた左利き用の構えでの稽古を一人で続けていた。練習量は単純な二倍以上だ。右構えでできたことを左構えですぐできるほど私は器用ではない。だが、流した汗は無駄ではなかったと思う。
右利き用の構えに矯正させられると言うことは、左利き用の構えは想定の範囲外だ。つまり、立ち合いにおいて有利が取れるのである。
もっとも幼い私はそんなところまで頭が至らず、ただ単純に剣の稽古に没頭できる時間が増えることを喜んでいたのだが。
あの冬の夜に見た騎士の背中は——そうでもしないと追いつけない程遠いものだったと感じたからだ。
「一先ず終わったな。燈、反応はあったか?」
当然の如く、国司殿は残る兵士を片付けていた。
「今感応範囲を広げてる最中ですんで。須佐サーン、おーい、ありゃダメだこりゃ、完璧にのびてますね」
「私は彼女達を助けます。離れていて下さい」
ふう、知らずに上がっていた息を整える。
「シャルロッテ、静、聞こえていますか? 返事をして下さい」
「はいはい! リズさん、私もシズちゃんも大丈夫ですよ!」
「……もふもふ……」
いけない、静が何処か遠いところへ行こうとしている。
私は<見る>、彼女達の声の反響から分かる内部の構造と二人の位置を!
二歩後退し、<氷の貴婦人>を地面と水平に構え、腰を落とす。『雄牛』の構えを取り、両手の薬指と小指に力を入れて荒々しく怒る雄牛の角の如く剣をしっかりと構える。この角を持って二人が捕らわれている土の檻を破壊する!
精神を集中させる——思うのは何時もの光景だ。あの夜、ガラスの向こうで刃を振っていた日本の侍達の姿!
「シャルロッテ! 今からこの檻を破壊します! 用意を!」
「えっ、えっ!? あ、あのあの、はい、分かりました!」
見えた、この土の構造! シャルロッテ達の居場所! そして剣を刺し入れるべき破壊点が!!
「ハッァ——!」
<氷の貴婦人>が吸い込まれるように土柱へと突き刺さり——
壮大な音を立て、土の檻は粉微塵になった土塊となって外側へ吹き飛んだ。
剣を引き抜き、煙が収まるのを待つ。
そこには、シャルロッテと、彼女の胸に顔を埋めながらそのたわわな胸に両手を当てている静がいた。シャルロッテは旅の途中によく見たドレス姿だ。静は青い着物を着衣し、頬を染め心ここにあらずといった表情である。
「ほらほら、シズちゃん、もう大丈夫ですよ」
「……きゅ〜……」
「きゃーきゃー、シズちゃんが、シズちゃんがぐったりしちゃってます!」
静よ、どうして貴女の両手はシャルロッテの胸を触っているのか。尋ねたいのは山々だが、それは今ではない。
「立派な凶器だな、あそこまで来ると」
「巌サン、庭の奥にある蔵の入り口が壊されてますね。あいつらそこっぽいです。今うちの子に中を見てもらってます」
「蔵か。なら、奴らの狙いはお宝か? この家ってすげえんだっけか?」
「はぁ〜……ホントこの人は。この島に町ができたときからある旧家で、鍛冶組合の要職やってる家ですよ。何年この島にいるんですか、も〜。いい加減覚えて下さいよ、だから髪の毛がなくなるんですよ」
「うるせぇなぁ! 髪は関係ねえだろうが! 俺が見てくる。燈は須佐さんを介抱しつつ周囲の警戒だ、ヴォルフハルトは嬢ちゃん達の面倒を頼む」
「あ、あー! テテテ、テレジアさ〜ん! シズちゃんどうしましょう、テレジアさんが!」
「……もきゅ〜……ぅ〜……」
「ね、リーゼちゃん、あれわざとやってるのかしらね?」
「そんな訳ありません。国司殿、黒騎士と戦うのでしたら私も」
「ど阿呆。蔵ってのは物置だぞ。そんなどでかい得物を振り回せる訳が、」
ぐらりと、地が揺れた。
ゆらゆらと、波のように地面がざわめいている。
「きゃ!」
「あら」
「……きゅ〜……」
「これは——」
この揺れは、昨日もあったような……。
けたたましい音が庭の奥から、日鉢殿の飛ばす一匹の蜂が照らす明かりの麓から漏れてくる。
あれが、蔵か。白塗りの壁に、扉があったと思わしき場所に大穴が開いてある。
黒騎士達が侵入したと言うその場所を<見る>。
入り口の扉は斬られている。屋敷を斬り裂いたものと同じ斬り筋だ。縦と横に斬られている。そうして蹴り開けられたのだ。その証左に扉の破片は建物の内部へ散らばっている。
振動している……。破片が、蔵が、地面が。大きくはないが、ゆったりと波のように揺れている。
昨晩あった揺れよりも小さいが、この揺れの後に、ヒトガタの大群がやってきた。
「——ッ!!」
蔵に向かっていた国司殿が、大きく後ろに飛び退いた。日鉢殿が無言で私に目配せをする。
私達がその入り口を覗いていると、
巡礼服を着た少年が、入り口から転がり出てきた。
私の目が、その人物を見る。目が伝えてくる情報はまさしく——!
少年は我々に気づくも、何の反応も示さず立ち上がる。
「おい、って逃げんな。止まれ、そこ」
国司殿の制止の声を無視し、それともただ単に日本語が通じていないのか、屋敷の入り口へ走り出す。
「チッ!」
国司殿が実力行使で止めるべく歩みだそうとした時、
蔵の壁を破壊しながら、矢のように、黒い塊が飛び出してきた。
“黒、騎士……!”
「くっ、黒騎士!?」
見せずとも、見ずにはいられない。
その威圧、その禍々しさ! 漆黒の鎧兜から発する武威は、常人の域を遥かに超えている!
この鎧は、テレジア殿の<深遠からの咆哮>の白銀の全身板金鎧よりも上だ! 先程刃を交えた<カードの兵隊>などとは比べ物にならない! これ程の練度の恩寵兵装は未だかつて見たことがない!
だが何故だ!? 美しい。
こうも圧倒されていると言うのに、私の目には美しく、尊く見えるのだ。
傍で膝をつく、荘厳な白い騎士の姿よりも、外見や機能性など度外視した造形だと言うのに凛としているのだ。
この威風……! 目の当たりにすれば間違いないと確信できる。昨日感じた波動はこの黒騎士のものだと!
「これが敵さんか? おい、犯罪者ども、とりあえず武装解除して大人しく投降しろ」
私達がその姿に息を飲む中、国視殿が普段通りの口調で呼びかける。
黒騎士が、ゆっくりと立ち上がる。
己に短槍を向ける国司殿の姿を一瞥するが、自らが転げ出してきた蔵の内部の暗がりへ振り向く。
‘退きましょう、ゲオルグさん’
先に出てきた少年が、流暢な古式ラテン語で騎士へ語りかける。
背筋を冷たい汗が流れる。嫌な、予感がする。
ありえない、そんなはずはない! 目から得られた情報からの推察と私の知識がせめぎ合う。
古式ラテン語は旧時代に使われていた古い言語だ。現代のラテン語ならば我々の教義を信じる者——特に修道士であるならば読み書きは可能だ。だが古式となると極々一部、バチカン教皇庁に属する者しか使わない!
教皇庁から遠く離れた異国の地に、その土地の者には何の触れも出さずに、わざわざ二人組で乗り込んできているのはどうしてなのか!?
‘あァ? 二種がいるのに退けるかよ、クソガキが’
‘ですから、任せましょう。もたもたしてたら私達を狙う兵達で溢れかえりますよ? ゲオルグさん、任務です’
‘——カッ! ウゼェ!’
「おいこら犯罪者ども。訳分からんこと言ってねえでさっさと武装解除しろ。それとここは日本だ、日本語を喋りやがれ」
国司殿の再度の呼びかけに、
「それデハ、みなサマ、ご機嫌ヨウ」
少年が片言の日本語で返答する。
何故か私達に頭を下げ、屋敷の門へと駆け出す。
黒騎士は私達を威嚇するかのように、その手に大鎌を持ち、立ち尽くしていたが、
‘ケッ、ウゼェな’
呪いの言葉を吐き捨て、少年と同じくこの場を後にする。
頭が、混乱し続ける。
‘待って、待って下さい! 何故、貴方達がこの地に来ているのですか!?’
とっさに、私の口から彼らが語るのと同じ言語が出た。
しかし、少年も、黒騎士も、そんな私の問いには耳を貸さず、ただ走り去っていく。
私達は誰一人として彼らの姿を追えない、
「お前ら、どうやら本命はこっちだな」
国司殿も、
「あっちは壱係のエリートさんに任せちゃいましょ。リーゼちゃん、来るわよ!」
日鉢殿も、
“ぐっ——……!”
テレジア殿も、
「あらあら、あら!? シズちゃんシズちゃん、スサさんが倒れてます。血が出てます!」
「……ぉ、ほんとだ……」
気付いているからだ。
いる——何か、とてつもない存在が、この先、黒騎士達が逃げ出してきた場所に!
日鉢殿の作り出した火鉢ですら近づけずに蔵の闇をわずかに照らす。
黒騎士すら凌駕するモノが、この先にいる……!
冷や汗を抑え、乾ききった唇に舌を動かして湿らす。
どこか懐かしく、例えようもない忌々しいこの感じは! あの冬の夜、私の目の前に出現した<黒禍の祖狼>と同じだ!
それと同じモノが、この先にいる!
そして、それは、黒い闇からぬめりと這いずり出てきた。
蛇だ。巨大な、蛇だ。
緑色の蛇が、蔵に開いた穴から鎌首を出す。
鮮やかな緑色の鱗、夜空へと力強く伸びる首——昨晩、私達が退治したヒトガタとは桁が違う、その色も迫力も存在感も!
何よりも、瞳だ。私を、私達を睨みつける二つの真紅の瞳が、私に思い起こさせる。
それは脆弱な獲物を前にした絶対の捕食者にして人を喰らう全人類の敵のものだ。あの夜に見たのと同じ紅だ。
私の目が告げる、目の前に這いずり出てきたのは<黒禍の祖狼>と同種だと!
手が震え出す。足がすくみ、身体中から汗が噴き出してくる。
『何故』、この一言が私の頭を埋め尽くしていた。
何故、ここに第二種の怪異が存在している!? 何故、黒騎士達はそれを知りながら逃げたのだ!?
この世に存在する全ての怪異は、元をたどれば原種と呼ばれる十種類の怪異から生み出されたものとされる。それらを第一種と呼び、この子が第二種、孫が第三種と定義される。
第四種以降はあまり重要視されない。環境や人間へどう適用するかの方が、親から受け継いだ能力より問題だからだ。
原種——すなわち第一種は人間の敵う相手ではない。記録されているだけでも、人間の持つ恩寵と言う異能力のさらに上を行っているのだ。数百年に一度の天災クラスの化物と称されるが、そんな言葉では言い表せないと言う者もいる。人間一人が一流の恩寵兵装を用いて対処出来得るのはせいぜいが第三種までとされる。
しかし、倒せない訳ではないのだ。人が授かった恩寵とは、まさにその理を覆す代物だのだから。
何故なのだ? 何故第二種の怪異がここに存在している!?
そしてあの二人組——彼らがこの怪異を呼び出したのか? そんなバカな! バチカン教皇庁に属するはずの者が怪異の復活と召喚に力を貸すなどありえない話のはずだ!
私の思考は、時間にすれば十秒にも満たなかったのかもしれない。
私達と<緑の大蛇>の睨み合いは、実に意外な形で終わりを告げた。
私達の後方から、けたたましい音が聞こえてきた。
音が脳で処理され、目に見えずとも、状況を理解させる。何かが、木を折り、紙を破り、屋敷の残骸に高速で突っ込んだのだと。
「ジャァァァァァァァーーーーー!!」
私達が後方の異変に反応する暇すら与えずに、緑色の大蛇が絶叫し、頭を持ち上げて蔵の天井を破壊する。
瓦礫を押しのけて、大蛇の首から二本の腕が生える。
体をうねらせ腕を使いながら、緑の大蛇が身を凍らせる奇声を張り上げこちらに——いや、私達の後方目掛けて突進する!
「シィィィィィヤァァァァァァーーッ!」
私達が変化する現状を認識する時間などない。
大蛇が開けた口から発せられる声が、衝撃となって私を揺さぶる。
「あンのバカ野郎が!」
決壊した貯水壁から溢れ出る奔流のように迫り来る緑の大蛇を前に、
シャルロッテが静を体から引き離し、私や国司殿やテレジア殿の前に静かに歩み出る。
「退いてな、嬢ちゃん!」
「きゃわわぁぁぁ〜ー!」
が、国司殿がそのシャルロッテのドレスの襟首をむんずと捕まえて、左手一本で小柄なその体を放り投げる。
「……ぉー、飛んでる……」
私は、夜空に飛ぶ彼女の落下点を予想し受け止めるべく足を動かす。
三本の火矢が、大蛇の首へと突き刺さる。炎の紅が吸い込まれるように緑の大蛇の体内へと消える。
爆発は三度、されど轟く音は一度きり、大蛇の体躯を内部から爆裂させ、破壊の爪痕を外に残す!
けれど、止まらない!
日鉢殿の射撃の大穴で、その首が半ばもげているにもかかわらず、緑の大蛇は一直線に猛進する!
国司殿がその前へと立ち塞がり、私はシャルロッテを受け止める。
「国司殿!」
その無謀さに、大きな声が出てしまった。
かの昔、風車を槍で倒さんと挑む騎士の英雄譚が記された書があったと聞くが、それを超えている。
私の目が確かに告げる。これは第二種の怪異なのだ。名前までは読み取れないが、第二種を生み出したのは第一種——つまり原種だ。
原種の持つ不条理極まりない異能力を、<黒禍の祖狼>のように、この怪異も持ち合わせているに違いない! この人の鮮やかな戦いぶりをこの目で直に見たが、危険すぎる!
緑の大蛇は自分の前に立つ国司殿など眼中にない。そのままの勢いで己の道に落ちた小石を蹴散らそうとする!
高速に移動する緑の大蛇と、泰然と佇む茶褐色の槍兵が交差する。
その瞬間! 黒天を裂いて流るる彗星の如き一条の銀閃が、大蛇を地面に縫い付けていた。
短槍に貫かれた大蛇の体躯が大きくV字に曲がり、庭に繋ぎとめられている。
このお方は大蛇を止められないと判断し、高く飛んで短槍を投擲したのだ。それに加え、落下する己自身を地に縫い付ける重しとする!
「燈ィ! デカイのぶっ放せ!」
「火傷して下さい! 巌サンの頭に残ってる寂しいのもまとめて燃やしちゃいますからぁ!」
「おい、そこ! からぁ、じゃねえ! からぁ、じゃ!」
「シャルロッテ! 静を頼みます!」
大蛇は身をよじる。背に刺さる障害物を払いのけようと未だ蔵の中に隠れていた尾を振り払う!
完全に破壊された幾重もの破片を飛ばしながら、緑色の塊が国司殿の身へ襲いかかる!
荒ぶる大蛇の息の根を止めんと、日鉢殿が黒弓を構える。番えるは四本の炎の矢! 狙うは一つ! 暗がりより這いずりし、緑の大蛇の頭のみ!
一瞬の攻防が、何分もの長さを持つようでもあった。
私は後ろにいる三人を守るため、<氷の貴婦人>を回転させ氷壁の盾を作り、
国司殿が、外套の上から尾撃をくらい吹き飛ばされ、
日鉢殿の<玄鋼之与一>から放たれた四本の紅の炎跡が、もがれかけた大蛇の頭へと襲い掛かる。
全てが同時に終わり、また始まった。
火矢は大蛇の外皮と衝突すると爆発し、轟音と共に生成された黒煙が大蛇の頭部を覆い隠す。
尾撃をまともにくらった国司殿は、しかしその分身たる短槍を握りしめたまま、庭の彼方へと飛ばされる。
<氷の貴婦人>の生成した氷の盾が日鉢殿の巻き起こした爆炎と衝撃波を防ぐ。
「ぐっ——!?」
<氷の貴婦人>を握り、腕に力を入れ、倒れまいと、この盾を維持する。
怪異の頭部は破壊された、この怪異は撃破されたのだ。
理性はそう判断するも、本能は違うと叫ぶ。
まだ、生きている。こうも容易く倒されるはずがないと!
「おい、ヴォルフハルト。どうなってる? さっさと報告しろ!」
「は、はい!」
あれだけの質量の物体とあれ程の速度で激突し吹き飛ばされたのに、国司殿は何事もなかったかのように立っていた。
「そいとそこんとこの嬢ちゃん達、さっさとこっから逃げ出しとけ!」
「あっ、燃やすのに必死で忘れてた。そういえば須佐さん倒れっぱですけど?」
「き、来ます!」
私の声が終わるよりも早く、
「ジィィィィヤァァァァァーーー!!」
蛇の狂声が、爆発によって生じた煙幕を霧散させる!
現れるは先程の爆発などなかったかのように、無傷な大蛇の姿!
日鉢殿の二度にわたる狙撃での傷はおろか、私の目は国司殿の短槍がつけた傷跡もなくなったと伝えてくる!
再生したのか!? 頭部はほぼ完璧に破壊されていたはずなのに! 流石は第二種の怪異か!
大蛇は再び動き出す! 一直線に! 胴より生えた二つの腕と尾をくねらせながら!!
国司殿は遠く、テレジア殿は未だ戦える状態にない。ならば——!
「いっ!? ちょ、リーゼちゃん!?」
私が時間を稼がねば! せめて国司殿が再びこの蛇の前に立つまでの時間を稼ぐだけでも!
私のすべきことは、見ることだ。いかなる時間、場所、場合であろうとも!
迫り来る大蛇の前に、私は立つ。
あの冬の夜と似ている。この全身が泡立つような感覚と恐怖は! だが、今の私の手には剣がある!
見る——この怪異の強さ、速度、硬度、特性を!
知る——だめだ、やはり私などが敵う怪異ではない!
判断する——すべきはこの突進をいかにして外すか、止めるかと言うこと!
この質量! この圧力! 私の技量ではいなすことなど到底不可能! ならば——!
右手を刀身に携え、
止める!
蛇は私など存在しないかのように、大河の如き濁流となって突っ込んで来る。
横に構えた<氷の貴婦人>を、刃を向けず、口を上下に開けたままの蛇の口角にぶつける。未だかつて経験したことのない圧力に、かかとが土を削りながら体ごと後方に流される!
「ぐっ!!」
上下に空いている蛇の顎が閉じれば、蛇の口が刃で傷つくも、私など一飲みにされよう。だが、私などには目もくれずに、蛇の舌は私とは無関係のあらぬ方向へ伸び、大剣のように鋭く光る牙から大粒の唾が私へと滴り落ちる。
蛇は、止まらない。<氷の貴婦人>が作り出す氷の壁など一瞬で瓦解し水滴となって蒸発する。私はそのままの体勢をなんとか維持しつつも後方へと押し込められる。地面に膝まで埋まった両足に力を入れて踏ん張るも、敵の速度をほんの僅か低下させるのがやっとだ。
「——なっ!?」
私の目が新たな異変を捕らえる。
それは、正面に見える毒々しく二股に分かれる紅の舌でも、口の中に広がる無限の闇でもない。大蛇の後ろ——飛び散ったはずの蛇の血と肉が、渦巻きながら二匹の蛇の形となる!
新たなる怪異、第三種か!?
踵の装甲が庭を削り続け、大音量の調べを奏でる。私のささやかな抵抗も、この怪異の前では無駄でしかない!
己の不覚を呪った瞬間、何故だろうか、私の心に、夕日を浴びながら微笑む彼の姿が浮かんだ。
出会ってからまだ三日と経っていない。だが、どうしてこんな時に彼の姿が思い浮かんでしまうのか。
両手に持つ<氷の貴婦人>がその蒼い輝きを増し、微かに震え出す。
負ける——ものかッ!!
萎えそうになる己に檄を飛ばし、大蛇の圧力に耐える!
彼ならば、己の無力を嘆くだろうか? 自分を呪うだろうか? 分からない、だがこれだけは言えるはずだ。
敵を前にして、剣を手にしておきながら、ごちゃごちゃと思索にふけるようなことなど決していないと!!
「シシャァァァァァァァーーーーー!!」
大蛇の叫びが振動となって甲冑の上から私へと伝わり、破壊しようとする。
大蛇は、止まらず、動き続ける。
まずい! 後方に生まれた二匹の蛇が閉ざされた口を大きく開き、産声を上げる!
「お前の相手は俺だろ!」
短槍を水平に構え猛然と走る国司殿が、横から大蛇に体ごとぶつかりに来る!
「燃えちゃいなさーーい!!」
日鉢殿の放った三匹の蜂達が空を駆ける! 一匹は後方で生まれでた蛇の片割れへ! 残りの二匹は国司殿の槍と一緒に大蛇の中腹へと!
緑の鱗に、槍の銀光と蜂の紅蓮がぶつかり合うのが見えた。
「どぉぅあ!」
「ウッソ、まじ!?」
火蜂の爆発が炎と衝撃の波を大気に作り出すも、緑の大蛇の体躯にはかすり傷一つ与えていない! 逆に攻撃した国司殿がその爆風に吹き飛ばされる!
一層の力が剣を通して私の両腕に伝わってくる。私がなんとか押しとどめている緑の大蛇の双眸が、遂に私を障害であると見なした。
くっ、動かせない!
その時、
“——<
白き騎士が、
“……<
か細い声なれど、揺るぎない戦士の意思を口に出す!
騎士の持つハルバード<深遠からの咆哮>が、怪異の闇に染まろうとしていた庭に白銀の弧を描く!
戦斧槍が緑の大蛇とぶつかる! テレジア殿の恩寵によって刃でありながら硬い鱗の内部へ衝撃を通す戦鎚へと変貌したそれが、大蛇の体躯を打ち返す!
片膝を地につきながらも振り抜いた一撃は、大蛇の体躯を宙に浮かす。首が鞭のようにしなりながら宙を踊り、大蛇は苦悶の悲鳴をあげながら大地にのたうちまわる。
急に開けた視界にいたのは、生み出された二匹のうちの一匹だ。日蜂殿からは大蛇の影となり射撃を逃れたその一匹が頭部を赤く光らせながら口を開ける。
私の目が信じられない情報を伝える。
あれは火矢だ。国司殿の槍の貫く特性と、日鉢殿の蜂となって射抜く特性の両方を併せ持つものだ。
そしてそれは、<氷の貴婦人>の装甲でも、例えテレジア殿の<深遠からの咆哮>が万全な状態であったとしても防げるものではない!
見える、敵怪異が我々人間を破壊しようとする攻撃線が!
私のとるべき手段を考える。
一つ、敵を止める? いや、無理だ。奴は私の間合いの完全な外にいる。走ったところで間に合わない。<氷の貴婦人>を投擲し的中させるなどこの状況ではリスクが大きすぎる相談だ。
二つ、敵の攻撃線上にいるテレジア殿をかばうべきか? 難しい。緑の大蛇の突進を止めていたこの状態からではテレジア殿を動かすだけの力を確保できる時間がない。下手をすれば二人とも撃ち抜かれて、死ぬ。
三つ、逸す? 蛇が口から放とうとしているのは火矢にして火蜂だ。大蛇が大きく体勢を崩している今なら動ける! 斬り落とすことならば、可能なはず!
とっさに浮かぶ三つの選択肢から一つを選ぶ。
私は力を込める。緑の大蛇に押されて地中まで埋まってしまった両膝に力を入れて、前にうずくまる白い騎士の後ろを直視する。
目の奥がズキンと鈍く痛む。その痛みを無視し、体を投げ出すように敵射線上に転がり出でて、テレジア殿に伸びる赤い炎に<氷の貴婦人>の蒼い切っ先を合わせる!
「——っ!」
赤と蒼が激突し、爆発する。爆風に目を閉じる際、左のこめかみに鋭い痛みが走った。
「シギィィィィヤァァァァァーーー!」
テレジア殿に吹き飛ばされた緑の大蛇が体勢を立て直す。尾をしならせ、大地を打つ。大きな音とともに地面が揺れる。さらにもう一度、先程よりも遥かに大きく体をうねらせ、
「なっ——!?」
「ちょ!?」
己が生み出したはずの蛇を、自らの尾で叩き潰す!
「シィィィィ…………」
大蛇が、その瞳をようやく動かし、私達を順々に睨む。
濁った紅の瞳からは、例えようもない狂気と全てを砕く殺意しか感じられない。
左の頬を伝う血の雫さえ、この眼力の前では重力に逆らい逃げ出そうとするだろう。
誰も動かない、いや、動けない。先程までは一転、ただ大蛇の口から漏れる不快な吐息だけが聞こえて来る。
その静寂は、
「おぅらぁ!!」
大気を凍らせるような蛇の邪眼すらものともしない槍兵の雄叫びにより破られる。国司殿が短槍を上段から大きく振りかぶり、大蛇の体へと叩きつける。
金属同士が擦れるような不快音が鳴るが、蛇は微動だにしない。
かすり傷一つ与えてすらいないというのはこの人も想定内! 国司殿は腰を落とし、荒々しく叩きつけたはずの短槍を、左手を前にかざしながら右手一本で構える!
「心と色、貫く矛を今ここに。刃振るわん天果つるまで」
槍兵が謳うのは、その槍に込められた誓いの詔!
「——<心色一貫>——」
その呟きとともに解放された一突必貫の槍撃が、大蛇の体躯へと突き刺さる!
が、
絶対不屈を誇る城壁も、不壊を誇示する鉱石も、何ものであろうと貫くと私の目に映る一撃は、大蛇の緑の鱗によって無残にも防がれていた。
「おい、ヴォルフハルト——っと危ねえ! こいつはどういうこった!?」
国司殿が迫り来る大蛇の尾撃を、槍を高跳びの棒のようにして軽業師のように躱す。
私の目には、この攻防のカラクリを捉えていた。
「これがこの緑の大蛇の持つ特性です! 『再生前に受けた如何なる攻撃への耐性を得る』!」
国司殿の短槍を防いだ敵の装甲が、その特性を私の目に雄弁に物語る。
「ですから、国司殿と日鉢殿の攻撃は今後一切何も通用しません!」
「新しいのに俺達の攻撃方法をコピーすんのはそのおまけみたいなもんか! だがな、ヴォルフハルト! お前みたいな若いもんがすぐ諦めてどうすんだ、おい!」
「お姉サンも、不本意だけどここは巌サンに賛成よ!」
二本の太い火矢と、一筋の閃光が、二人の言葉と共に大蛇に向けて放たれる!
しかし、炎は無残に散り散りに消え、銀光は濃緑の鱗にぶつかると小気味良い音を立ててあらぬ方向へと彷徨う。
「シャァァァァァァァァァーーーー!!」
大蛇が天に向かって大きく吠える。
お二人の攻撃など、奴の眼中にはない。奴が目する敵足り得るのはこの場では一人しかいない!
「まっじ!? 巌サン、後は任せました! 後方待機してまっす!」
「切り替え早えな、おい! お前も十分若者だろうが!」
大蛇はとぐろを巻いていた尾を一直線に伸ばし、
“どけ、狙いは私だ”
「——くっ! テレジア殿!」
「テレジアさん!」
ハルバードの石突きで軽く突かれただけと言うのに、私の体は大きく後方へ吹き飛ぶ。
片膝をついたままの白騎士を、大蛇の尾が二重三重に取り囲む。
まずい! あれは蛇が獲物を捕獲するための手段の一つ!
“……<概念付与>……”
しかし、騎士は動けない、いや動かない!
“……<
尾が土煙を上げながら地を削り、その中心にいるテレジア殿に巻きつく!! 例えテレジア殿が万全であったとしても耐えきれるものではない!
彼女の姿は蛇の分厚い尻尾に包まれて見ることはできない。だが崩れない、崩れていない!
彼女の持つ<深遠からの咆哮>の展開する甲冑が、ピシピシと言う亀裂音や、バキバキと言う破砕音を立てている。
けれど、彼女は倒れない! 大蛇が力を込めてテレジア殿を粉々にしようと、全力を持って締め上げる! それでも、彼女は倒れない!
そうか! 黒騎士から受けた呪いを己の力に相乗させているのか!
テレジア殿自身が持つ恩寵兵装<深遠からの咆哮>は『兵士としてあるべき姿を使い手に強制する』ものだ。そこに黒騎士がかけた『怠惰』の呪いが加わっている。呪いは強制する、武器を置け、眠れと。
私の目の情報から判断するに、一瞬でも兵装を解いて休めばその呪いは解除される代物だ。逆に抵抗すればするだけ呪いの力は増す。肉体への苦痛、倦怠感、眠気など、身心共に蝕んでいく。だが、テレジア殿の持つ兵装はそれを許さない。兵士であれば休んではいけない、倒れてはいけない、主人に害なす敵と戦い続けなければならない。何よりも——テレジア殿自身がそれを望んでいる。主人の前に立ち、牙を向けるものは何であれ排除するのだと!
そして呪いの力は兵装を抑え込もうと強くなり、それに抗うべく兵装は更なる力を引き出させ、また呪いが強固になる。
その循環を経て、今のテレジア殿は私がかつて見たことがない程の力を兵装から引き出している!
真に驚嘆すべきは彼女の精神力、心の強さだ! 兵装には亀裂が入り、巨人の腕のような太さの大蛇の尾に巻き上げられているのに苦痛の声を一つも発していない! 内なる呪いや外敵に屈さない真の強さが、テレジア殿にはある!
ここに留まって見ているだけの自分が恨めしい。
大蛇はテレジア殿を握り潰せないとみるや、
「ジャァァァァァァァァァァァーー!!」
尻尾を優に五メートルは持ち上げ、テレジア殿を地面に叩きつける! 一度、二度、三度!
「まじで刃が通らんな! 燈、お前は残りのメンツをまとめて撤収しろ! 黒騎士の対応班が来たら、つぉ、危ねえ!」
「くっ!」
大蛇が尾を旋回させる。私は予期できていたので何とか、国司殿は予期していなかったため紙一重でやり過ごす。
腹部に響く轟音と共に、大蛇はテレジア殿ごとその尾を再度、大地に叩きつける。
「きゃーきゃー! シズちゃん、大変です、大変ですよ! 大丈夫?」
「……ん、ん〜……」
静は先程と同様の体勢で、シャルロッテの胸に頭を埋めていた。
「くぉっほー。お姉サンも後でお願いしたいわね」
「お戯れを!」
「働け、この給料泥棒! 俺達ァ、皆様の税金で飯食ってんだぞ!」
「仕事中でーっす。聞こえませーん」
「てめ、こんの——うぉ! ヴォルフハルト、策は何だ!?」
手はある——あるのだが——……
「もう一度、いえ、後二回、この蛇が再生するところを見ることができればあるいは——」
「おい、何だそのやる気のねえ言い方は!? できるかできないかじゃねえ、やるか、やらねえかだ!」
敵の姿形は蛇だ。生物としての蛇ならば、脳を破壊して体内への運動命令を停止させるか、心臓を破壊して血流を送るポンプを止めれば殺害できる。
怪異と生物を同一視することは危険だ。生物は種の長い進化の過程を経ている。怪異はそれを一足飛びに越えていく。
とは言え(文献で読んだ知識なのだが)、この手の高度な再生能力を有する怪異には——
「やるか、こいつの核を見つけられるのか!?」
再生を統括するもの、核が存在する。
再生と言う行為が核からの指令によって行われているはずならば、再生のプロセスを見られればその源を辿ることができる。
先程は火矢の爆発の余波で完全に見ることができなかったが、だがもう一度、見られれば……
いや、一度だけならば核を見つけるだけの時間があるかどうかが疑わしい。
二度ならば、存在さえすれば核を見つけ出せるが、この大蛇に対し再生させるだけの攻撃を二回、それも別の種類の方法で与えなければならない。
見られたとしても、核の位置や大きさも不明だ。第三者に正確な位置を知らせて攻撃を導けるのか? いや、核の正確な場所を見られる私の剣で破壊すべきだろうが、この大蛇の猛威を前に立ち向かえるのか!?
「寝るのはまだ早えぞ、おい! ヴォルフハルト、この状況で今のお前さんがすることなんか一つしかねえだろ!」
国司殿の叱責の声が飛ぶ。彼は刃が通らないと知って、短槍を棒代わりにして大蛇を押し出そうとささやかな抵抗を諦めない。
無駄な抵抗と私の目には映る。
だが、
「やります、やってみせます! この怪異が再生するところをもう一度だけ見ることができれば、
彼がこの場にいればどうするのだろうか、そんな場違いな疑問が頭に浮かんだ。
「おう、上等だ!」
他の誰でもない、愚直なまでに真っ直ぐな彼ならば、泣き言を言う暇も、できるかどうかなぞ考えないだろう。ただ、やる、それだけだ!
持ちし者である私が、持たざる者である彼を——
急に、頭が凍った。
待て、萌はどうしたんだ?
彼は屋敷の前の広場に残ったはずだ。
黒騎士と少年はこの屋敷に緑の大蛇を残し、この場から去った。
この島には『存在強化』の結界が敷かれている。つまり屋敷を去る者は、門をくぐり抜け広場を通る。
昨晩、島の入り口である関所を襲撃した黒騎士達は忽然と姿を消したと聞く。それならば結界が制約するルートを通らずとも——違う、それは私の希望的な観測にすぎない。
萌は、黒騎士達と出会っていなければおかしい。
氷を冠する装甲をまとっているはずの我が身が、猛烈な悪寒に襲われる。
背が震え、歯を打ち鳴らしてしまう一歩手前だ。
黒騎士達が去り、緑の大蛇が姿を現した時、何かが屋敷の残骸の山へ突っ込んできた。
何かとは、何だ?
そもそも、緑の大蛇はその何かを喰らおうと猛進してきたのではなかったか?
怪異——特に原種には行動にルールがあると、これまでの長い戦いの歴史で分かっている。
一つ、一定の行動範囲があり、それを出ることはない。
一つ、恩寵と似た異能力を多数保持する。
一つ、周囲の環境に適した個体を生み出す。
一つ、まず人間を喰らう。
これは我々人類が怪異との戦争の歴史で得た経験則だ。間違っているものもあるだろうし、適応を何度も繰り返した怪異はこれらのルールに縛られない行動をとる。
だが、奴らはまず、人間を喰らうのだ。
正確には、恩寵を何も持たたい、ただの人間を狙う。
恩寵に目覚めたものとそうでない者がいた混沌の時代、奴らは決まってただの人間の捕食を最優先にしてきた。
つまり——
萌が、もし、この場にいるとしたら? この緑の大蛇は我々には目もくれずに萌を喰いに行くはずだ。
何かが起こった、起こらないはずがない。萌がいる広場へ黒騎士達が向かったのだ。
私の思考が肉体を、<氷の貴婦人>すらも冷やしていく。
萌は、国司殿から絶対に手を出すなと言われていたはずだ。
萌の鉄棍はひしゃげて使い物にならなかったはずだ。倒れている衛士の武器を使えば話は別だが、他者と同調している兵装を使うなどよっぽどのことがない限り不可能だ。
萌の腰には昨晩と同じく木の棒が挿さってあったが、考えるまでもなく論外だ。黒騎士やこの緑の大蛇はおろか、私の装甲にすらダメージを与えられないはずだ。
しかし、
はずだと言う言葉を、しかしが遮る。
私は萌の何を見てきた?
腕力で敵うはずもない大豪寺を躊躇なく止めに入ったではないか。
左肩を断たれていながら、ヒトガタに止めをさしたではないか。
萌の剣を、技を、術を、強さを、私はこの目で見てきたではないか。
万に一つも傷一つ与えられない敵を前にして、私の知る東雲萌と言う人物は何もせずに逃げ出すのか?
萌——萌————萌ッ!!
“<概念付与、
「ギギャァァァァァァァァァーーーー!!」
テレジア殿の恩寵発現の呟きと共に、大蛇が悲鳴をあげて彼女への戒めを解放する。大量の黒い血が雨となって庭に降り注ぐ中、
“見ていろ”
空に投げ出された白き騎士は、受け身すら取れず、地面に倒れ伏す。
日差しを浴びて光り輝く白雪のような甲冑は今や見る影もない。ひびや亀裂が所狭しと走り回り、その黒い隙間から流れる鮮血が、白銀の鎧を汚す。
もはや抗う力など残されていないだろうに、彼女は半身を起こし<深遠からの咆哮>を逆手に持つ。
“<
かすれながらもその声は、決して敗者のそれではない!
右腕を大きく後方に引き、手に持った<深遠からの咆哮>を、
“<
大蛇の頭部へと投擲する!
発射された矢は大気と共に大蛇の頭を引き裂き、この屋敷の壁を轟音と共に破壊する!
それだけではない。ほんの僅かな間をおいて、どこか遠く——この島の外、湖を隔てた遠くの山中に、巨大な爆発音と共に突き刺さる!
「なっ……!」
「ひゅー」
「うっはー〜」
上半身だけで投擲したのにこの威力! この心力! これが欧州名家ルツェルブルグの女性執事の底力か!
頭部を完全に消失させられた大蛇は、黒い血液を撒き散らし、大きな地響きと共に大地に倒れる。
だが、まだ終わってはいない。
「次は、あれを出すのが出てくる訳か。燈! そこいらの嬢ちゃん達を早く避難させろ!」
「そりゃー分かってますけど、リーゼちゃんはどうすんですかって!」
消滅した頭部、無数の針で刺された尾部——それぞれの負傷箇所の断面から何本もの細い線が互いに練り合いながら元の部位を復元するかのように伸びる。
同時に、大蛇の撒き散らした血液が、渦を巻きながら五本の柱となり立ち上がる。
「ちちちょっ! 五匹もいんの!? 聞いてないわよ!」
「誰も言ってねえだろ! 何処だヴォルフハルト! 何処にある!?」
萌の無事を思う感情と、核を見なければならない理性とがせめぎ合う。
決して同じ天秤の皿には乗らないそれらが、自分を優先させろと私に呼びかける。
天秤は即座に敗者と勝者を決定する。
私が選択するのは、しなければいけないのは、理性——すなわち再生の様子を<強制視>することで、再生を統括する核の位置を見つけ出すことだ。
私は両眼に全神経を集中させる。
だけれども、雑念を振り払うことがどうしてもできなかった。
それは今この瞬間には不要なはずのもののはずなのに、どうしても、どうしても私は捨てきれない。
私に不器用に微笑みかける彼の笑顔を、
朦朧とした意識の中で私に語りかけようとする彼の温もりを、
一見単純な反復稽古を全力で取り組む彼の真摯な姿を、
どうして私は捨てられるというのか?
寒い。
心臓が一度だけ高く脈打ち、
私は、まるで布一枚で吹雪の中に立ち尽くしているかのような寒さを、髪の先からつま先まで全身で感じていた。
とても、寒い。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
真っ黒な中、痛みで意識が覚醒した。
痛い。左腕と左の脇腹が、ジンジンズンズン、すっごく痛い。
息をするのもできないぐらい、痛い。
痛くて、目も開けられない。
——ぅ、ぁ……。
口から息が漏れると、痛みがもっと増す。
『人間様の邪魔してんじゃねえぞ、カス猿』
そうだ、僕——負けたんだ。
黒騎士、さん、と戦って、あれれ、戦いになってたっけ?
雑木が折れて、それから——……蹴られちゃったんだ。
世界がぐるぐるーって回転して、気付いたら真っ暗な中にいたんだ。
戦いになんか、なるはずがない。僕よりもっと強い人達でも、止められなかったんだ。
そう思ったら、右の瞼が開いた。
痛い、苦しい。ここが何処かも分からない。倒れて、左腕と左のあばらが多分、じゃなくてきっと折れちゃってる。
折れちゃってるなって思ったら、痛みがもっとはっきりしてきた。
——いぎぎぎ。
でも、
右手は、動く。指も手首も肘も肩も、右なら動かせる。
ちりちりと、お腹の中、臍下丹田の何処かで火の粉がくすぶるのを感じた。
右手で体を支えて立とうと、
——ッ!!
僕自身の体重を支えきれなくて、どさりと元の体勢に戻る。地面に倒れた時、左腕と左の脇腹に激痛が走る。
——リズ、さんだ……。
右目は半開きの状態だし、ぼやけてるから僕が何処で倒れてるのかすら曖昧だけど、畳や障子の残骸みたいなものの向こう側にリズさんがいる。
僕に分かるのは、後ろにまとめあげた白い金色の髪と、蒼い刀身の大剣だけだけど、そんな人はリズさんしか知らない。
——あれ?
疑問が浮かんだ。僕は、何をやっているんだろう、って。
負けた、倒れてる、怪我をした、起き上がれない……頭にぐるぐると考えが浮かぶ。
——違う! ち、違う!
僕は、刀を抜いた。
戦うって、斬るって、決めたんだ。
その責務を、誰かに押し付けないで、自分で持つんだって!
リズさんがいる。大剣を持った、戦っているリズさんが僕の前にいるんだ!
痛い、痛い、痛い痛い痛い!
でも! 泣き言を言っている暇も、のんびり寝てる暇も、全然ない! あっちゃいけないんだ!
僕を助けてくれた人が、僕を励ましてくれた人が、戦っているんだから!
右腕が瓦礫の中を這うように進む。
立ち上がれなくても前へ!
どんなにちょっとでもいい、今できる全ての力を使って前へ前へ!
——う……ぐぁ……。
苦悶の入った気合が口から漏れ出た時、良く見えない目の代わりに周囲を手探りしていた右手が、何か硬いものを掴んだ。
僕の中にある、誰にも譲れない、ちっぽけなで大バカな意地を燃やすんだ!
(…………燃ヤセ…………)
ある、僕にはまだ。燃やせるだけの火の粉が!
右手に掴んだそれを握りしめ、前に進むための杖代わりにする。
(燃ヤセ)
そうだ、そうだよ! 燃やして燃やして、燃やし尽くして——
あれ?
(燃ヤセ、燃ヤセ、燃ヤセ!)
僕、誰と話してるんだろう?
(燃ヤセ! 燃ヤセ! 燃ヤセ!!)
この声って、何だろう?
(——燃ヤセ!)
でも、そんなことは、どうだっていい。
そんな疑問は、炎にくべられた薪になる。
(————燃ヤセェェェェーーーー!)
全てを燃やし尽くして
(————燃ヤセェェェェーーーー!)
涼やかな鈴の音が、聞こえたような気がした。
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
この場には全く相応しくないとても懐かしい鈴の音に、私は振り向かざるを得なかった。
彼が、いた。
「萌……?」
残骸と、くすぶり続ける火に照らされて、一人、そこに立っていた。
左腕はあらぬ方向へと曲がっており、胴鎧も左腹部が大きくひしゃげている。うつむいたその顔からは表情を読み取ることはできない。
「あン?」
右手に、一振りの抜き身の日本刀を握っている。
「東雲、クン——?」
「ハジメさん?」
「……っ……!」
その刀身は赤——いや、この色味は緋だ。緋に発光している刀をゆっくりと地面と垂直に構える。
刀だけではない。刀の放つ輝きに同調するように、彼の肌が、髪が、緋色に燃え上がっていく。
何だ……萌? 刀と、いや刀に同調しているのか? それとも、刀が萌に同調しているのか?
「こっち忘れんな! 来るぞ!」
緑の大蛇は、失った頭部の修復をほぼ終えている! 付近には大蛇より生み出た五匹の蛇が形を成し、顎を開け体内から白光を——テレジア殿の一投を再現したものを——私達へと打ち出そうとする!
目の奥に強烈な痛みが走る。
仕留めなければならない、今ここで!
視界がもやがかかったように暗くなる。
私にその資格があるか分からない。
色が消え、白と黒だけの世界になる。
そんな力を持っているかも知らない。
ものの輪郭すら消え失せる。
でも——!
私は見なければ、見つけなければいけない。
<氷の貴婦人>を握る両手が、熱い。
ここで、今、この大蛇を止めなければ、
展開した甲冑に触れている皮膚が、熱い。
この大蛇と五匹の蛇を止めなければ、
私の全身を痛みと言う痛みが覆っている。
萌はきっと——
目の奥の痛みと、全身を包む熱さが、がちりと音を立てて体内でぶつかり合う。まるで剣を鍛え上げる鎚と鉄のように、甲高い音で、熱い火の粉を飛ばしながら。
目の痛みと言う鎚と、彼を想う熱さがぶつかり合ったその瞬間——コンマ一秒にも満たない短さだけれど——見えた。
確かに、そこにあった。
再生する大蛇が織り成す黒い糸——その大元の黒い箱が。
色も輪郭も消え失せた世界で、ただそれだけを見ることができた。
「ハァァァァーーーーーッ!!」
ばらばらにちぎれ飛びそうな全身に鞭を打ち、私は駆ける。
「ジャァァァァァァァーーー!」
「シャァァーーーーー!」
「シャァァーーーーー!」
「シャァァーーーーー!」
「シャァァーーーーー!」
「シャァァーーーーー!」
再生を終えた緑の大蛇と、五匹の蛇が、金切り声を上げる。
私の瞳に大蛇達が繰り出そうとする攻撃線が映る。
己を傷つけた敵に復讐せんと憤怒の炎を燃やす大蛇は、自らが生み出した蛇の五本の矢と共に、その巨大な尾撃でテレジア殿を叩き潰そうとしている。
テレジア殿に向かうのは五本の鋭い線と、上空から圧し潰す巨大な線だ。テレジア殿が万全な状態ならばいざ知らず、満身創痍の今ならば、どれもが必殺の一撃! しかもテレジア殿には六本の攻撃を一本たりともかわす余力は残っていない!
抵抗するは、唸りながら突き進む銀光の螺旋と、弧を描く紅の四本線!
数秒も経たぬ内に線をなぞった攻撃が実施され、敗者は地にひれ伏すだろう。その敗者の中に、テレジア殿は確実に入っている!
だが、もう一本、尋常ではない攻撃線が私の横を走っている。否、この線に沿うように私は緑の大蛇の再生核を破壊すべく走っている!
もう大蛇には国司殿の短槍も日鉢殿の火矢も通用しない。私の持つ<氷の貴婦人>の刃と彼の持つ日本刀しか打つ手はない!
核が存在するのは大蛇の中腹の体内だ。このまま突っ込めば、顎の牙で噛み砕かれるか、
私は白騎士の横を駆け抜ける。
バカで無謀な突進だ、私なら、いや、東雲萌と言う人物と出会っていない私ならそう断言する。
だが——彼は、斬る。
そう私の本能が告げている。
——キィィィェェェェェェーーー!!
もはや言葉にすらなっていない彼の奇声が発火する。
緋炎の嵐となった彼が、周囲に焔を撒き散らし突貫する。
当然、これを迎撃すべく、大蛇は頭を振り下ろし、尾をうならせ、
刹那の間すらなく、彼の振り下ろした緋の一撃が、緑の大蛇を両断した。
頭、首、体躯全て——いや、大地までをも巻き込んで、彼は敵怪異を一刀に斬り捨てた。
その威力に驚いている暇はない! この怪異は再生する! 私が核を破壊しない限り!
彼に遅れること僅かの間——両足で地を蹴り、<氷の貴婦人>を大蛇の核である黒い箱へと伸ばす!
萌によって真っ二つにされたとはいえ、彼の斬り筋から箱は外れたところにある。萌の作ってくれた傷口から、黒き箱までの道筋をこの目は映している!
硬い鱗と肉が刃を拒もうとするも、左手と右手と全身を柄に添えて、<氷の貴婦人>の蒼き刃を突き立てる!
確かな手応えと共に、どす黒い殺意の塊のような何かに剣先が食い込むのを感じた。
「ギャァァァァァァァァ————ッ!!」
もんどりをうちながら、光に照らされた影のように大蛇は消え去り断末魔の叫び声を上げる。
五匹の蛇達が放つ白光と、火蜂達の遊び粉が私と彼の周りを縦横無尽に飛び回る。
攻撃の嵐は一瞬にして去り、敗者となった蛇達は塵へと消え、庭には静寂が訪れる。
「————」
右の横腹に鈍痛が走った。蛇の放った一矢を食らってしまったらしい。
庭にいた合計六匹の怪異達はもういない。槍兵が、弓兵が、火蜂達が、そして彼が——奴らを打ち滅ぼした。
東雲萌——彼の放った尋常ならざる一刀が、私達に勝利を持たらしたのだ。
「……萌……?」
彼が全身に纏っていた緋色の煌めきと焔が、段々と色を失い散っていく。
むせ返るような彼の威圧感も同時に消えていく。
庭にいた誰もが萌の突然の登場と変貌と、そして何より彼の一撃に声を出せないでいる。
私は、静けさに身を任しながら、彼を見ることしかできなかった。
「東雲、おい東雲」
ただ一人、この人だけは普段通りに彼へと声をかける。
「コラ、おい東雲、寝ぼけてんのか」
何時もの調子でぶらりと萌へ近づいた国司殿は、短槍を持っていない左手で萌の頬を数発叩く。
——……あれ、国司、さん?
彼が声にならない声を出す。
ようやく見られた彼の表情は、彼に授けられた恩寵のように空っぽで虚ろだった。
「悪いな、逮捕だ」
——たい、ほ?
「逮捕?」
「たいほ?」
「タイホ?」
「…………?」
「いや、お前丸出しだから」
国司殿が萌の下半身を指差す。
刀と激しく同調したせいか萌は甲冑はおろか服すらも燃え尽きていて、
そこには下着すらもつけていない生まれたままの姿の萌が立って————い…………る……。
皆の視線が集中する。国司殿の指が示す、萌の下半身——下半身へと……。
そこには——…………。
——キ、キャァァァァーーーー!
先刻まで命を削り取られる緊迫した空気が嘘のように、怪異のいなくなった夜空に萌の黄色い大声が(私にしか見えないのだが)響いた。
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