夜: 夜へ [リーゼリッヒ・ヴォルフハルト]

 静けさが礼拝堂を支配している。

 灯された蝋燭の放つ淡い光がこの神聖な空間に満ちている。

 この国の夏は日の落ちる時間が遅いと言うが、もう完全に日は落ちている。窓の向こうには夜の闇が広がり町の景色を楽しむことができない。

 両膝をついて目を瞑り、私しかいない礼拝堂で一人夜の祈りを捧げる。

 思えば——礼拝堂で祈りを捧げるのも、いや私が一人っきりになるのすら、祖国を出てから初めてだったかも知れない。

 その意味では、この異国の地で、遥か遠くに離れた祖国の日常を取り戻すのもおかしな話だ。

 私の属する騎士修道会の名前を冠する聖人を讃える聖堂がこのような極東に、しかも誰も信徒のいない町に建てられているのもおかしな話ではある。

 聖コンスタンス——バチカン教皇庁が正式に聖人と認めた数少ない御人であり、恩寵が一般化した後の世界で初めて列聖された人物だ。

 剣の聖女、弱き者の護り手、御国の戦乙女、怪異と戦う者達の守護聖人——彼女の異名、伝説は幾らでもある。

『千を越える戦場を駆け、一度も敗北することはなかった』

『どんな劣勢であっても彼女が加勢すれば必ず怪異を退けた』

『心臓を貫かれてなお三日三晩戦い抜いた』

『死後数百年経っていても幾度となく怪異との戦場に現れ、我々を導いた』

『怪異に喰われた人々を蘇らせた』、等々、枚挙にいとまがない。

 教皇庁が正式に聖人と認定するには少なくとも死後二つの奇跡を起こしていることが条件ではあるが、彼女のそれは片手では数え切れない。

 彼女は戦士としての顔の他に、恩寵を用いた武具や道具の発明者としての側面も持っている。

<治癒>や<水質浄化クリーンウォーター>などに代表される様々な効果の持つ単一目的恩寵具<ロザリオ>の開発、武器と防具を併せ持つ恩寵兵装の練成方法の確立、その練成法を建築物へと適用し怪異から身を守るための教会や都市を築き上げたなど、その功績を挙げ始めたらきりがない。

 故に、彼女の名を冠する都市や聖堂、そして修道院や騎士団が出来上がったのはある意味当然と言える。

 鳥上島にこうして彼女を奉る聖堂があるとは、この地にも何らかの伝説が残っているのかも知れない。私も聖コンスタンスの名を冠する騎士修道会に属する者の端くれ、知らずにいるのは不敬か。折を見て管区長殿にお聞きするのも良いかも知れない。

 思案に耽る私の背後から、入口の扉がゆっくりと開く音が聞こえた。祈りを捧げる体勢から、傍に置いていた両手大剣ツヴァイハンダーの鞘のベルトを手に立ち上がり、剣を背負いつつ礼拝堂への来客を確認する。

 一人の男性がいた。

 年の頃は壮年に差し掛かっているのだろう。顔に深く刻まれた皺と白髪混じりの黒髪が、この人物の歩いて来た道が平坦ではなかったことを物語る。

 黒い背広スーツの上下に、腰のベルトから片刃の剣——『日本刀にほんとう』を吊っている。ヨーロッパに住んでいた私には見慣れた格好だが、この島では異質な服装であると知ったのは昨日からだ。

「すみませんね、お祈りを中断させてしまいましたか?」

「いえ、大丈夫です。須佐すさ政務官、如何しましたか?」

 須佐すさ政一郎せいいちろう——私やシャルロッテ達がこの島を訪れてからずっとお世話になっている人だ。この島の行政府に政務官として務めており、今回の私達の留学にあたり、随分動き回って下さったそうだ。

「シャルロッテさんからお話のあった例の件ですが、先方から回答が頂けましたので、今日中にお知らせしようかと思いまして」

 こちらにいますか、と尋ねられた。

「彼女でしたら奥の自室にいるはずです。呼んで参ります」

 彼に一礼をし、奥の通路へと歩く。

 廊下を抜けて中庭に出ると、私を呼び止める声がした。

 “何だ?”

 鋭い声だ。

 声の主は、短く切られた焦げ茶色の髪をしており、須佐政務官と同様に黒の背広を着ているが、こちらは黒いネクタイを締めている。この島に来るまでに数ヶ月かかったと言うのに、洋服は汚れを感じられない上品な黒だ。

 私を射抜く眼差しは、好意ではなく殺意にも似た敵意が感じられる。その証拠に、右手にある巨大なハルバード——槍と斧と鉤爪を組み合わせた長柄武器——の刃はむき出しになっており、刃を覆っていたはずの布袋は足元に落ちている。

 胸部の大きな膨らみがなければ、この人物が女性であるとは誰も思わないだろう。

 “テレジア殿、須佐政務官が来ています。剣の返還の件で先方から回答が得られたそうです。シャルロッテにこちらへ来るよう伝えて貰えますか?”

 “了解した”

 必要な言葉だけで短く回答し、ハルバードの刃はそのままに、後ろにある居住棟に割り当てられたシャルロッテの私室へと消えて行く。

 せめて敷地内では刃を見せないで欲しいのだが、頼んだとて無理な注文だろう。

 テレジア殿はシャルロッテの家——ルツェルブルグ家に雇われている女性執事レディバトラーだ。一介の修道女である私の意見など歯牙にもかけないことは、長い旅を共にして重々承知している。

 ……のだが、その主にしてルツェルブルグ家の中でも特に選ばれた者にしか名乗ることを許されない『アイギス』の名を持つシャルロッテと異国の言葉で対等に話し合う一介の修道女がいるのもまた事実だ。

 不思議な巡り合わせではある。

 礼拝堂へと戻ると、須佐政務官がベンチに腰掛けていた。

「テレジア殿にお伝えしました。少しお待ち下さい」

「これはどうも」

 ベンチから立ち上がった政務官の顔に笑みが浮かぶ。何処となく影があるように感じてしまうのは、その顔の作りの険しさ故だろう。

「ああ、そうそう思い出しましたよ。今日は随分とご活躍なさったとか?」

「な、何故それを?」

「はは、仕事柄島で起こる出来事は全て耳に入ってきますから。私がお聞きしたのは——窓から人を投げ捨てて教室のドアを破壊し、決闘に勝ったかと思えば、幾つもの部活に乱入し道場破りをなさったとか」

「……」

 思わず絶句した。脚色が多少入っているものの、事実ではないと言い切れない私自身が情けない。

「どうやら文化交流はうまくいっているみたいですね。どうですか、日本このくにの武術は?」

「剣術に関してのみですが……、私の学んできたものと似ている部分が多くあるよう感じます」

 しかし、違いもある。まだその違いを明確にできる程、私はこの国の剣術を学び取れていない。

「やや、それは結構結構。鳥上学園は全国的に見てもやや特殊な武術推進校ですからね。ヴォルフハルトさんの入学は学園生にとっても良い刺激となるでしょう」

 良い刺激、そうなってくれれば良いのだが……。

 放課後に訪れた部活は、見学を許してくれた部も即刻立ち退きを強制された部もあった。

 見学を認めてくれた部からは一つの例外もなく立ち合いを申し込まれた。友好的とはとても言えない雰囲気だった。歓迎されてはいなかった。

 これが逆の立場なら、透子や静や萌が私の教義圏に来たと仮定するなら、これでも非常に友好的な扱いだったと断言できる。

 教会の洗礼を受けていない人間に対する非人道的かつ独善的な暴力性は、我々の恥ずべき文化のはずなのだが……。

 私の思案を妨げるように、パタパタパタと誰かが廊下から小走りにやってくる音がする。

「こんばんは、スサさん。お待たせして」

 息を少し切らせながらシャルロッテが扉から駆けてくる。学園の制服はもう脱いでおり、日本までの道中で着ていた何の飾りも無い淡い茶色の質素なイブニングドレスを着ている。

 だが、まるでこの場所で舞踏会でも始まりそうな気配だ。何より彼女の笑顔が、まるで光り輝くシャンデリアのようにキラキラと礼拝堂を照らしている。

「これはこれはシャルロッテさん」

 その影に従うように、音もなくテレジア殿が聖堂へ入ってくる。無論、その手にはこの場所に不釣り合いな無骨な兵装が握られている。

「お疲れのところ突然お邪魔して申し訳ありません。刀の返還の件、緋呂金ひろかね宗家から回答を頂きましたのでお早めにお知らせすべきかと思いまして」

「まぁまぁ、わざわざありがとうございます」

「残念なことをお伝えせねばならないのですよ」

「えっ?」

 私の耳に微かにだが、テレジア殿の手がハルバードを握り締める音が聞こえた。

「実は……宗家の当主代行からこの件についてはこちらに話を回すな、と言われまして」

「まぁまぁ」

「分家筋に当たる家へ対応を一任する、と……」

 テレジア殿が音もなくハルバードを肩へと担ぎ、一呼吸で振り下ろせる体勢になる。

 二人に気付かれないようテレジア殿と須佐政務官の間に立ち、背負う両手大剣ツヴァイハンダーをすぐにでも展開できるよう呼吸を整える。

 神聖なこの場を血で汚すことは許されない。だが、テレジア殿にとっては主が恥をかかされることのほうが許されざる事態だ。

 もっとも、私一人でどうにかなる御人ではない。

 両手に嫌な汗が浮かぶ。

「むしろ、私としては宗家ではなく分家の方に対応して貰いたいと思っていたのですよ」

「えっえっ? あのあの、それって……?」

「実は、この分家筋に当たる家が、宗家が以前の遠呂智おろち家の代から練成された全ての刀の記録をつけてましてね。シャルロッテさんが持ってきて下さった刀についてもきっと記録があるはずなんですよ」

「まぁまぁ、本当ですか!」

「ええ。あちらのお宅には明日の夜にでも行こうかと思いますが……?」

「はい! 是非お願いします! では私とテレジアさんの二人でお伺いしますね。テレジアさんもそれで良いですか?」

 “……”

「テレジアさん?」

 “……”

 “あのあの、テレジアさん? 明日の夜、お出かけしようと思うのですけど……?”

 “左様ですか”

 “まぁまぁ、ありがとうございますね!”

「あのあの、テレジアさんも大丈夫みたいですので明日はお願いしますね!」

 シャルロッテがテレジア殿に須佐政務官との会話をドイツ語で通訳する。

 本来は女性執事であるテレジア殿の役割だと思わなくもない。そしてシャルロッテの会話の訳し方が省略しすぎな気がしないでもない。

 テレジア殿はハルバードを既に肩から降ろしているが、政務官への殺気はそのままだ。

「やや、それは良かった。では明日のこの時間にこちらへまた参りますので」

 失礼します、と一礼し後ろの扉へと歩き出す。テレジア殿の敵意など気付いてないのか、それとも気にしてないだけなのか、この場から去っていった。

「怪我の功名ですね、シャルロッテ」

「ケガの、コウミョウ?」

「予期していない不本意な変化が、結果として良い状態になること、です。日本の諺の一つですよ」

「クスッ、リズさんってば本当に物知りですね。ね、テレジアさんもそう思いません?」

 “……”

 主からの問いだが、テレジア殿は無言を貫く。不必要な会話に割く時間など彼女にはないのか、ただ単に日本語の会話を理解していないのか、どちらだろうか?

「では、私はそろそろ出かけてきます」

「あ! なら私、エリザベートさんを呼んできますね」

「いえ、大丈夫です。エリザベート管区長殿には既に報告しています。恐らくもう就寝されているでしょうから、起こさない方が良いでしょう」

 エリザベート管区長——聖コンスタンス騎士修道会の上級騎士にして極東管区を統べる管区長、つまり現在の私の上官だ。ご高齢で足腰が悪いのだが、ずっと一人でこの修道院を何十年も切り盛りしていると聞く。

『若い頃はブイブイ言わせてたのよ、ほほほ』とはご本人の談だ。

「気をつけて下さいね、リズさん」

「ええ、お気遣いありがとうございます。行って参ります」

「あ! ダイゴウジさんやガッキュウチョウさんやシノノメさんにも、気をつけてとお伝え願えますか?」

「承知しました。ですが……東雲萌、彼は萌と呼ばなければいけないようです」

「え? 名字で呼んでは失礼に当たるのですか?」

「そんなことは——ないと思いますが……。学級長の弁ですが、『彼は東雲と呼ばず萌と呼ぶのが正しい』、だそうです」

 シャルロッテが首を傾げる。やはり彼女にも分からないようだ。

「透子に聞けば教えてくれるとも聞きましたが……」

「う〜ん……どうしてなんでしょう? テレジアさん、分かります?」

 “……”

 彼女は再び黙殺する。が、どうやら自分の主が異性のことを話していると知り、ただでさえ鋭利な目つきがその鋭さを増す。

「じゃ、私も明日シズちゃんに聞いてみます。ではお気をつけて、リズさん」

 その言葉に深い礼を返し、私は夜の町へと歩き出した。


 夜の町へと繰り出す。

 身に纏うのは学園の制服ではなく、この地に来るまでに着ていた戦闘用の黒い巡礼服だ。

 身に帯びているのは腰を締める荒縄、首から下げたロザリオに、肩に背負う両手大剣とそれを吊るすベルトと、眼鏡だ。

 日の落ちた町並みには、所々に石でできた蝋燭台——石灯籠いしどうろうと呼ぶそうだ——から明りが洩れている。夜の闇に包まれているとはいえ、人が行き来するだけの明るさは残っている。

 私は学園へ通る道を歩き出す。今朝と同じ、一度中央広場に出てから行く道にしよう。透子の話では近道があるそうだが、朝と夜での違いを目に留めておいた方が良い。

 この島には、<怪異かいい>が出る。

 そう聞いたのは、初めてこの島に着いた時だ。

 伝えてくれたのは、私達を案内してくれた須佐政務官だ。

『夜十時以降は外に出ないようにして下さい』

『出るんですよ……アイツらが』

 三年程前から、島の外周部で確認され始めたと言う。夜間にしか出現しないし、環境や人工物への侵蝕も見られないというが——

『これがまた人を襲うものでして……。ここ数年は夜間外出禁止例を出しているのですよ。やや、お恥ずかしい』

 一口で怪異と言っても様々な形を取る。

 動物の形を取るもの、古くからの伝承に登場する妖精や怪物の姿を取るもの、それに酷似したもの——場所や時代により様々に変化する。

 怪異とする上で大切なのは、敵がどんな特性を持っているか、と言うことだ。

 奴らの中には我々が持つ恩寵と似た異能力を持っている個体がいる。全てが持っている訳ではないが、少なくともその力があるかないかは戦う上では知っておきたい。

 そして怪異とする上で気をつけなければならないのが、奴らは進化すると言うことだ。

 適応、と言う方が正しいのかも知れない。周囲の環境により適応した個体を生み出す能力がある。

 生み出すだけならまだしも、<巣>のような大量生産機能を力として持つ個体すら確認されている。

 周囲の環境とは、我々人間との交戦状態を指す。つまり、対人間用の力を持った個体を新たに生み出す力があるのだ。この適応力と繁殖力が、恩寵に目覚めた我々が未だにこの世界から怪異を除去できない理由の一つだ。

『ちょっと、ちょっと、リーゼリッヒちゃん!』

 考え事をし始めた私の耳へ直接、しわがれた明るい女性の声が届いた。周りを見渡すまでもなく、私の他には誰もいない。

「どうかしましたか、管区長殿?」

『もー、須佐しゃんがさっき来てくれたんですって! 私を呼んでくれなきゃ困るじゃない!』

「困る、とはどのようにでしょうか?」

『お化粧して、おめかしして、とっておきの葡萄酒をお出ししないといけないのよ?』

「管、区、長、殿」

『だってだってぇ! 須佐しゃんってばもう五十歳を越えてるのに、どなたともお付き合いしてないんですって! 公務員だから経済的にも問題ないし、ちょっと強面だけどイケメンじゃない! そこが、こう、母性本能をこちょこちょってくすぐるのよねぇ〜』

「はぁ……。管区長殿、失礼ながらご年齢が二倍程違うかと思いますが」

『んまっ! リーゼリッヒちゃんてば! 恋に年の差は関係ないのよ! ぷんぷん!』

「管区長殿、お戯れもほどほどに」

『あのね、リーゼリッヒちゃん? そんなお堅いことばっかり言ってると私みたいに寂し〜い老後を一人で過ごす意地悪お婆ちゃんになっちゃうわよ?』

「管区長殿……。我ら、聖コンスタンス騎士修道院の清貧・純潔・従順の誓いはどうしたのですか?」

『あのね、お婆ちゃん、最近物忘れが激しくなっちゃってね〜』

 いけない、何時の間にか拳をギリギリと握りしめていた。

「いい加減になさらないと、本部へ報告しますよ?」

『も〜、こんな極東からの連絡なんて握りつぶされるに決まってるでしょ?』

「管区長殿……宜しいですか。ご自身の神聖な恩寵をこのようなことに使わないで頂きたい」

『まっ、このようなことだなんて! もー! とっても大事なことなのよ! リーゼリッヒちゃん、お婆ちゃん怒っちゃうわよ!』

 管区長殿の恩寵は、教会が持つ七つの聖跡の一つ、『告解の秘跡』と同じものであると聞く。

『告解の秘跡』とは、自らの罪を聖職者へ告白し、聖職者が授かっている秘跡を通じて主からの赦しを得る儀式のことを指す。このため、教会は告解室を設け、信徒による罪の告白と司祭による赦しの儀式を行っている。

 それを模した恩寵であるそうだが——

『転校初日から夜間警備への協力だなんて、頑張りすぎよ。聖コンスタンスは自戒せよと説いたけど、無理をしろとは一言も言ってないわ。お婆ちゃん心配なのよ』

 こうして離れている場所であっても二人で会話ができる。勿論、管区長殿と私の声は他の誰にも聞こえはしない。

「でしたら管区長、そう仰って下されば宜しいではありませんか」

『んもぉ〜リーゼリッヒちゃんってば! 乙女心が分からないんだからぁ〜』

 おかしい。同じ信仰を持ち、同じ団体に属し、同じ信念を共にしているはずが、この違和感は何なのだ?

 透子や静、参組の皆とは国、人種、宗教の違いを越え、言葉をやりとりし、出会って一日も立っていないが友になれたと思う。

 それが何故管区長とはできないのだろうか? 原因は……五倍近くある年齢差だろうか?

『リーゼリッヒちゃん、今何かお婆ちゃんが怒っちゃいそうなこと思ったでしょ?』

「管区長殿、一つ、宜しいでしょうか?」

 嘘をつくことは許されない。ここは話題を逸らそう。

『ん〜、なぁに?』

「恩寵のことなのですが、『我々全ての人間に、等しく一つ、恩寵は授けられる』とは真でしょうか?」

『どうしたの、いきなり?』

「いえ、その……もし、の話なのですが……恩寵を何も持たない人間は、いるのでしょうか?」

『ふ〜ん、旧人類さんのことかしら?』

「ええ、そう捉えて頂いて構いません」

 旧人類とは恩寵に目覚める前の人類のことだ。

 恩寵に目覚めている人間と目覚めていない人間が混じっていた時代では差別用語として使われていたとされているが、全ての人間が恩寵を持つ今となっては、現在とは比べ物にならない高度な科学技術を構築した我々の祖先を指す一般的な言葉になっている。

「その、今の時代に旧人類が生まれた、もしくは復活したとはお聞きになったことはありますか?」

『ん〜ん〜、ないわねぇ。旧時代の遺跡から旧人類さんが見つかったなんて聞かないし……。そもそも遺跡が見つかっても私達には使えないし』

 そうなのだ。遺跡のほとんどは怪異により破壊され、侵蝕された形で見つかっている。完璧な状態の遺跡が見つかったとしても、我々に使いこなせるかどうか怪しいものではある。

「では……恩寵が無い人間と言うのはありえませんか?」

『あら、ありえるんじゃないかしら』

 意外な答えが返ってきた。

『もし、恩寵が無い人なんて人がいるとしても恩寵はちゃんと持ってるわよ』

「それは……?」

『それはもっちろん! <恩寵を何も持たない>って恩寵を持ってるじゃない!』

「……」

『……』

 ……。

「学園に着きました。それでは」

『あ〜! もぉ〜! 年寄りの話はちゃんと聞くものよ〜』

「はい、その折には是非。では失礼します」

『はぁ〜ぃ、気をつけてねぇ〜。おーばー』

 ふうと一息つき、修道院がある方角に体を向け、一礼をする。

 聖コンスタンス騎士修道会は地域毎に管区を分け、その長が管区内を統括している。ヨーロッパに三つ、西アジアに一つ、そしてこの極東に一つの全部で五つだ。

 管区内での長の権限は絶大だ。人事任命権、軍隊招集権、財務管理権、兵装管理権、全ての物事が各管区長によって決定・遂行されていく。総勢三千名とも言われる修道騎士を統括する五人の最高幹部、それが管区長である。のだが……。

 不思議な人だ、と思う。直接お会いしたのは今日で二日目だが、言葉にはうまくできない包容力と暖かさがある。

 地位に奢ることもなければ、自らの恩寵をひけらかすこともない(少しはご自重して頂きたいものではあるが)。

 ただ戒律のみに従って生きている訳ではなく、堕落しているのかと考えれば決してそうではない。

 頭を軽く振り雑念を追い払う。

 そうだ、私みたいな小娘がたった二日で人を分かった気になるとは。己の傲慢な態度を戒めなければ。

 学園の正門の前には、もう三人が到着していた。

 門に取り付けられた石灯籠からの明るい光が三人の姿を照らす。遠くから、掛け声が聞こえてきた。まだ校庭で稽古をしている部があるのだろう。

「どうやらやって来たのはリズ君のようだ」

 そう言う学級長は戦支度を整えている。

 彼は白と黒の二種類の法衣を着ていた。その隙間から黒い金属が灯籠の灯火を鈍い色で反射している。恐らく、全身に甲冑を着て、その上から白と黒の法衣と順々に重ねて着込んでいるのだろう。頭には金属の板を巻いていた。鉢金と呼ばれるものと記憶している。

 そして穂先が十字の形をしている槍を脇に抱えている。これは十字槍、もしくは十字鎌槍と呼ばれるものだ。無論、刃は鞘で覆われている。

「遅ぇぜ、転校生」

 大豪寺と学級長の防具はある意味対照的だ。学級長とは真逆なのだ。法衣の下に鎧を着ているのではなく、法衣の上に鎧を着ている。形状は板金鎧プレートメイル薄片鎧ラメラーアーマーを組み合わせたもののようだ。胴体や腕、足などの重要な箇所は板金で覆い、肩や腰回りや膝などの稼働箇所は薄片板ラームを繋げ合わせたもので防御力と稼働力を両立させている。

 それと、深みのある茶色の巨大な玉が連なったものを首から巻いている。数珠と呼ばれるものであろうか。玉一つ一つの大きさが私の拳大ぐらいある。

 武器は背中に背負っている大型の日本刀だろう。黄金色の鍔が明りを反射し、長い柄が弧を描きながら左肩から覗かせている。彼の巨大な体格に見合うような巨大な日本刀だ。

「皆、早いな」

「学級長たるもの五分前行動が基本だ」

「はっ、俺は面倒くせぇから仕度終えてずっとここで坐禅組んでたけどな」

「貴様は何故そう振れ幅が極端なのだ、大豪寺よ」

「ほっとけ。ナヨナヨするよか百倍マシだろうが。なぁ萌?」

 彼に視線を向けると……驚いた。

 いや、彼を見て驚くのは今日数回あったのだが、今回も驚いた。それは……彼の服装だ。

 私の記憶が間違っていなければ、彼は学園指定の体操着を着ていた。ちゃんと上着の裾もズボンに入れている。

 手には、木刀を持っていた。いや、木刀と呼ぶよりも、木の棒と呼ぶ方が正しいだろう。ただ枝を払っただけの形状だ。長さと太さは木刀と呼ぶに申し分ないが、やや曲がっており、日本刀のような反りがあるとは言えず、かと言って真っ直ぐであるとも言えない。

 思わず、彼を見る。

 表情は真面目そのものだ。ふざけているのではなさそうだ。だが、大豪寺と学級長は生徒会の指示通りきちんと武装して来ている。

 はっ、そうか! 彼には連絡が行き渡っていなかったのか! それなら彼のこの格好も納得がいく。

「萌のことなら心配は不要だ。武具については警備局から借りることになっている」

 つまり、彼はまともな武器も防具も持っていない、のか……。

 その割には、暗い表情を見せないが何故だろうか。

「そうだ、忘れる前に伝えておこう。シャルロッテからの伝言だ。くれぐれも気をつけるように、と」

「ほう。シャルロッテ君にそう言われれば頑張らねばなるまい」

「て、てて、てめぇはどうしようもねえ軟派野郎だな」

「シャルロッテ君の名が出た瞬間に頬を赤らめたお前が言うと抜群の説得力だな。そうは思わないか、萌?」

「う、うう、うっせーぞ、おい! やや、やんのかこの眼鏡!?」

「待て待て二人とも。立ち合いは今日の警備が終わってからでも良いだろう?」

 大豪寺の声と肩が震えている。ふーむ、シャルロッテのことが苦手なのだろうか?

「うむ、そうだな。どうやら来たみたいだ」

 学級長の視線の先には、学園の塀に沿ってやってくる二人の衛士の姿があった。

 この国に来てから所々で見た姿だ。和風の黒い甲冑を着て、腰には大小二本の日本刀を挿し、白い外套を羽織っている。

 二人とも脇に直槍を抱えており、逆の手に照明具を持っていた。提灯と呼ばれるものだ。

 金属同士が擦れる微かな音がこちらへ近づいてくる。

「警備局の羽々斬はばきり衆だ。大豪寺と宝影院はいるか?」

 無愛想な口調で挨拶も無く私達に問いかける。

「はい。私が宝影院で、彼が大豪寺です」

「そうか。ではついて来い。詳細は歩きながら話す」

 それだけ言うと二人は来た方向へ歩き出す。

「待って下さい。彼ら二人はどうするのですか?」

「チッ、それは我々の任務とは関係ない。貴様ら二人は我々と共に警備を開始する。それだけだ。無駄口を叩く暇はない。さっさと来い」

 この雑魚が——。もう一人の者は声には出さなかったが、唇は確かにそう動いた。

「これは大変失礼致しました」

 殴り掛かりそうになった大豪寺の前に学級長が進み出て、彼を押し止める。

 羽々斬衆と名乗った二人は、私達のことなど眼中にないように、既に元来た道を歩き出している。

 私は大豪寺と学級長に黙礼し、心の中で彼らの任務が無事に終わるよう祈りを捧げる。

 彼らに遅れまいと、二人が私達から離れていった。大豪寺は憤まんやるせない、といきり立った様子で。学級長は君らも頑張りたまえ、とあくまで冷静な様子で。

 二人が去った後、私と彼が正門に取り残された。

 遠くから聞こえていた部活の声が止んでいる。夜も遅い。夜まで部活をやっている者の多くは学園の隣にある学生寮に住んでいる、と透子が喋っていたのを思い出す。部活を止め寮へと帰ったのだろう。

 沈黙が、訪れた。

 虫の鳴声も、風の音もしない。

 気まずい。そう感じるのは、隣に立っている彼に負い目があるからだろう。

 それは昼休みの大豪寺との喧嘩に巻き込み怪我をさせた上、本来ならば無関係の彼へこの夜間警備に巻き込んでしまったからだ。

 いや、違うか。私が彼の隣にいるだけで気まずくなっているのは、彼を私の恩寵で<見て>しまったからだろう。

 私の恩寵は<強制視ゲツェゲン アウゲン>——文字通り強制的にを見る恩寵だ。そう強制的に、私の意志とは全く関係なく、他人わたしが見るべきでない余計なもの、人の秘密まで覗き見する代物だ。

 彼が、前方に人差し指を伸ばす。

 その指先に視線を移すと——

 ゆらり、ゆらり、と紅い火の玉が飛んでいた。

 火の玉の明りが、その後ろに歩く人物をぼんやりと照らす。

 先ほど来た二人と同じような兵装だ。黒い鎧に白い外套を羽織っている。違いは、腰には短刀を一本しか指していないことと、頭部の兵装が頭全体を覆う兜ではなく鉢金であることがまず挙げられるか。黒い大きな弓を持っており、何かを詰めた大きな袋を鉄の棒で担いでいる。

 和弓——ヨーロッパで用いられる弓は上下対象の形状だが、この国の弓は上部が膨らんだ優美な形だ。

 だんだんと明りが近づき、その人物が女性であることが分かった。

 ぼんやりとした明りでも艶のある綺麗な黒髪を、頭の上に巻いて留めている。大きな黒い瞳と、二重の瞼、丸みの帯びた愛嬌のある幼い顔立ちはこの国の女性に良く見られる特徴だと記憶している。

 彼女は私達の前まで来ると、周りを見渡す。それに合わせて紅い火の玉がゆらゆらと漂いながら辺りを照らす。まるでまだ来ていない誰かを探しているようだが、ここには私達と彼女の三人しかいない。

 フッと、火の玉が宙に消えた。

「まだ来てない……か。まぁた道に迷ってんのかしら、あの人は。子供じゃないんだからしっかり時間に来てもらわないとねぇ」

 アナタ達もそう思うでしょ、と同意を求められた。

「おっと、自己紹介がまだだったわね。日鉢ひばちあかり、一応ここの卒業生だからキミ達の先輩にあたるかな」

 宜しく、と言いながら、彼女は背に負った袋と、それを吊るしていた棒を床へ降ろす。重たい金属の地面に落ちる音が響く。

 そこで気付いた。彼女は弓を持っているのだが、矢と矢筒が無い。欧州では背中に、この国では腰に矢筒を携えるのが一般的だと記憶しているが……。

「さ、て、と。東雲萌クンは……キミか。持って来たわよ、ウチの備品。ちょい古くさいのは勘弁してよね」

 袋の口を緩めながら、付け方はわかるわよね、と萌に尋ねると、彼は無言で頷いた。

「それで、っと。こっちが噂の美人剣士サンか。色々聞いてるわよ、アナタのこと」

 何故だろう、嫌な予感がした。

「転校初日に教室のドアを振り回して、クラスメイトを机と椅子ごと窓からぶっ飛ばしたんだって? しかもその後、部活に乗り込んではバッサバッサと斬って斬ってを繰り返し、学園中を血の海に染めたあげく、その後片付けの掃除費用のために夜回りに参加しなくちゃいけないんでしょ? 騎士サマって言うからお堅い人だと思ってたけど、相当やんちゃするのね、アナタ」

 唖然とした。今日二番の驚きだ。

 待て、萌。その表情は一体何なのだ。驚き過ぎじゃないか。驚きたいのは私の方なのだぞ。

「ええと……まず何から申し上げれば良いのか……」

「んー、とりあえずまずは簡単な自己紹介をお願いできる? あ、コラコラ。東雲クン。そんな面白い顔してないで用意なさい。用、意」

 慌てた様子で萌が袋の中に手を入れる。

「名はリーゼリッヒ・ヴォルフハルトです。聖コンスタンス騎士修道会に属しておりますが、正式な騎士ではありません」

「ふーん。下級従士、だっけ? 後さ、騎士修道会ってことは、アナタ修道士って奴なの?」

「はい。修道士ではなく修道女、ではありますが」

 こりゃーお堅いわねぇ、と日鉢殿の呟きが聞こえてきた。

 どうやら私に関する基本的な情報は把握されているようだ。

 萌は厚手の下着と上着を体操着の上から着ている最中だ。所々、板金片が鋲打ちされている。この上から更に甲冑をつけるのだろう。

「ヨーロッパからこの島までって相当あるけど、海路で来たのかしら?」

「はい。船で移動中、数回怪異と戦いました」

「ふぅ〜ん。日本に来てからは?」

「いえ、一度も遭遇しておりません」

「なるほどねぇ。船上での戦闘経験あり、か」

 うんうん、と日鉢殿が頷く。

 私と会話しつつも彼女の視線は時々萌の方に流れている。彼がきちんと着れているかどうかさり気なくチェックしているようだ。

「私から、一つ宜しいでしょうか?」

「ん? 何かな?」

「その……日鉢殿が私達を連れに来た警備の方なのでしょうか?」

「ええ、そうよ。後もう一人オジサマが来てくれるはずなんだけど、ちょい遅れるかもね」

「そう、ですか」

「なーに? あ、こんな綺麗なお姉さんが来るなんて予想外だったかしら?」

「いえ……その……警備には色々な方がいらっしゃるのだな、と」

「あー! あの人達ね。ビックリしたでしょ?」

「それは……その……」

 私にはむしろあの二人の態度の方が衛士として良く接しているものではあったのだが……。

「あっはっは! ふー〜ーん。なるほどなるほど。もしかして修道騎士サマは他人の悪口を言っちゃいけないのかしら?」

「他人を悪しく言う報いは、必ずや己に帰ってきます」

「ひゅーぅ。やっぱりお堅いわね、アナタ。あ〜、コラコラ東雲クン。腰に木刀指す気なら、先に剣帯巻いて挿しちゃってから鎧をつけなさい」

 萌を見ると、脚部、腕部が黒光する板金で覆われていた。

「あの二人はね——って言ってもウチの人間じゃなくてキミ達の方だけどね、大豪寺と宝影院って言う奈良と京にあるそこそこ有名なお寺の跡取り息子さんなのよ」

「二人の名字はこの国の寺院に起因するものだったのですか」

「そ。そこから随分な額の寄付が政庁に鍛冶組合、それにここの学園にもあってね。傷つけちゃいけない大事なお客様って訳」

 だからエスコート役のウチの二人は腕が立つから安心しなさい、と彼女は言う。

「まっ、お酒を一緒に飲んで楽しい連中と、戦場で自分を狙う敵を倒せる人は必ずしもイコールじゃないってことよ」

 学級長なら大丈夫だろうが大豪寺は苦労するだろう。

「おっと! さっ、東雲クン、お姉サンに見せてご覧なさい」

 明るい声で彼女が萌に声を掛ける。

 先程とは見違えるような姿の萌がそこに立っていた。

 飾り気のない質素な胴鎧、着衣と一体化した腕当て、喉元を守る首輪、小さい板金片を何枚も重ねて作られた肩当てと腰当て、そして板金作りの脛当てに加えて頭には三枚の金属の板を打ち付けた布を巻いている。

 これぞ、当世具足——当世、即ち現在の、具足、即ち頭胴手足各部を守る装備だ。怪異が現れるより遥か昔、日本が幾つもの国に分かれ覇を競っていた頃に作り上げられた戦闘用歩兵の甲冑であり、怪異と戦う現在においては、幻想鉱石を用いた恩寵鍛冶により練成される日本製のボディ・アーマーだ。

 欧州圏では甲冑に練成可能な幻想鉱石の採掘量が多いためか、全身をくまなく覆う全身板金鎧プレートメイルが一般的なのに対し、この国では防御力と機動力を両立させたこの当世具足が一般的だ。

 しかし……萌が着ている具足の色は何処かくすんだ黒であり、目を凝らせば板金に走る傷やヒビが所々に確認できる。日鉢殿の言う『古い備品』とは確かなのだろう。

 萌が持って来た木の棒は腰に挿してあり、その手には日鉢殿が運んで来た鉄の棒が握られている。

「ヒュゥー! 中々良い感じじゃないの。ほれほれほれ〜」

 日鉢殿が萌のことを甲冑の上から突つくと、萌が頬を朱色に染めながら身をよじって逃げようとする。

 いや、突いているように見えるが具足の装着具合を確かめているようだ。やはり須佐政務官の言う通り、夜間になると怪異が出現するのは間違いない。そして私達が奴らと戦わなければならないのだと実感が湧いて来た。この国の人達のためにも——

「あっはっは! もー東雲クンさ〜! そんな面白いリアクションされちゃうとお姉サン虐めちゃうわよ〜! うりうり〜」

「〜〜!!」

「……」

 受けた恩を……少しでも……。

「日鉢殿」

「はいはい、そんな怖い顔しないこと。あのさ東雲クンさ、その鈴なんだけど」

 鈴——?

 先程は気付かなかったが、萌の具足の腰に巻いている帯に、金色の鈴が取り付けられていた。

 とても綺麗な鈴だ。萌が着ている甲冑とは放つ輝きが違う。石灯籠の淡い光に照らされて控えめで上品な黄金の色が、黒ずくめの姿の中で夜空に浮かぶ星のような鮮やかな色合いを放つ。

「音、鳴ってないみたいだけど、大丈夫なの?」

 その問いに、萌はニッコリと頷いた。

 思い返せば、日鉢殿に突かれてかなり鈴が揺れていたにもかかわらず、何の音色も聞こえなかった。

 失態だ。日鉢殿との問答に熱くなり、周囲の警戒を怠っていたようだ。不甲斐ない。

「あのさ、リーゼちゃん? 一応、防具が無いと夜間警備には連れていけない規則なんだけど」

「それは、」

 私の声を遮って、鐘の音が聞こえてきた。

 この島には時刻を知らせる鐘がある。島の出入り口に建つ鳥上島政庁に取り付けられた大きな鐘がそれだ。

 鳴ったのは一度だけ、長い長い余韻を漂わせながらゆっくりと音が小さくなっていく。

 つまり、今の時刻は集合時刻の二十時三十分だ。

 鐘の音が段々と聞こえなくなるにつれ、日鉢殿が来た道から一人の大柄な男性がやってきた。

 所々汚れの目立つ茶褐色の裾のよれた外套を纏い、外套と同じ色のタオルを水兵のように頭に巻いている。

 身長は大豪寺よりもやや小さいか同等だが、隆々とした全身の筋肉が外套を大きく外に膨らませている。その右手には、無造作に槍がぶら下げられている。

 この国では短槍と呼ばれる、文字通りの短い槍だ。学級長を連れて行った二人や学級長が持っていた槍は、石突きから穂先までの全長が、身長より長い二メートル半程だったのに対し、この人物が持っている槍はその三分の二程の長さしかなく、自分の身長よりも明らかに短い。大柄な人物が持っているだけに、その短さがやや不自然で、何故だか分からないけど、何処か懐かしい印象を受けた。

がんサン、遅刻ですよ」

「おう、すまんな」

「遅れてんですから、少しは急いで下さいー」

 日鉢殿から『がんさん』と呼ばれたその人物は、日鉢殿の声も何のその、ゆっくりした歩みを崩さずに私達のところにやってきた。

「よう。警備の国司くにしいわおだ。今日からお前さんら二人のボスになる。俺のことは好きに呼んでくれ」

 落ち着いた渋みのある声だ。顔に刻まれた深い彫りは年齢にはやや不相応のものだ。

 だが何より、この人物からは、私の剣の師やテレジア殿のような独特の『匂い』が感じられる。戦場の匂い……いや、血の匂いとでも言うべきか。

 はためく外套の隙間から、黒い甲冑が見え隠れする。

「揃ってるな。ほんじゃ状況説明ブリーフィングといくか」

「その前に遅刻の謝罪をするのが節度ある大人の態度だと思いますけどー?」

「諦めろ。上役ってのは得てして部下に対して理不尽なもんだ」

「それ、旧時代じゃパワハラって言って処分の対象だったみたいですよ?」

「なら今の時代に感謝、って奴だな」

 国司殿が一旦言葉を区切り、私と萌を見る。

「なぁにお前らのやることは簡単だ。俺らについてくる、それだけでいい。外をふらついている奴がいたら補導し、怪異が出たらぶっつぶす、まぁそんなとこだな」

 国司殿が首をぐるりと一回転させると、関節が鳴った。

「お前らが働いた分の給金は学園の備品の補填に当てるそうだ。つっても元をたどれば税金だ。手ぇ抜くなよ」

 昼間のことを思い出し、再び自分が恥ずかしくなる。

「俺ら警備は軍隊じゃねぇ。上官命令に絶対服従って訳じゃねえが俺の部下になって貰う以上、俺の指示にはできる限り従ってもらう」

「できる限り、ですか?」

 思わず問い返してしまった私に、

「おう。できるだけ、だ」

 国司殿は不敵な笑みを浮かべ意外な答えを返す。

「いきなり反逆オーケーって何言ってんですか、ホント」

「自分で考えて動く習慣つけとけってことだ。いいかあかり、何時までも指示待ちしてたら永久に俺の部下のままだぞ」

「あ〜ら、ご心配なく。良い人みつけて永久就職してやりますから」

 どうやらお二人は普段からコンビを組んでいるようだ。お互いを呼ぶ声に温かみがある。

「ヴォルフハルトに東雲、」

 国司殿が私達二人に先程とは打って変わった真剣な眼差しを向け、

「死ぬな。どんなことがあっても絶対にだ。以上」

 と、非常に単純明快な指示を出した。

 日鉢殿のわざとらしいため息を聞きながら

「はい、承知しました」

 私は頷く。無論萌も。

「よし、結構。物わかりの良い部下は最高だな。なぁ、燈? お前さんもそう思うだろ?」

「ええ。それはもう。髪の毛フサフサな上司の人とか憧れちゃいますねー」

「燈、後で始末書な」

「はぁ!?」

「よし、お前さんがリーゼリッヒ・ヴォルフハルトだな」

 国司殿は日鉢殿の抗議の声を無視し、短槍を脇に抱えながら、外套のポケットから取り出した紙を広げ私に問う。

「はい」

「防具を持ってないと夜間警備には参加させられないが、いけるか?」

「問題ありません。甲冑の『展開』は可能です」

 背中に背負っている両手大剣の柄を軽く触る。凍える程冷たい感覚が指に伝わってくる。

「その剣は近接弐型か?」

「近接……弐型、ですか?」

「壱型がそのまんま、弐型が武具展開、参型がその他のもん、例えば乗物とか機械仕掛けカラクリの召喚使役ができる奴だ」

「でしたら仰る通り弐型に分類されるものです。もう展開すべきでしょうか?」

本気マジになるのは怪異あいつらる時まで取っとけ」

 その言葉に頷いて肯定の意を示す。

 これが日本式の恩寵兵装の分類か。なら日鉢殿の大弓は恐らく壱型、いや矢筒が無いことから察するに弐型かも知れない。国司殿の短槍は壱型だろう。

「恩寵は……<強制視>、か。その眼鏡を外すのがトリガーか?」

「はい、その通りです」

「よし。じゃ次は東雲だな」

「ちょいと巌サン、リーゼちゃんの恩寵のこと、もっと聞かないんですか?」

「学徒に頼ってどうすんだ。俺ら警備失格だぞ?」

「う……」

 不思議だ。今、国司殿から遠回しに私は戦力外だと言われたようなものだが、不快感などまるでない。国司殿の持つ戦士としての風格のせいだろうか?

「よし。お前さんが、東雲萌、だな。具足はきちんとつけられたみたいだな」

 国司殿が萌を鎧の上から叩いたり、紐の結び具合を順々にチェックしていく。

 萌はやや緊張した面持ちで立っていたが、国司殿のチェックが終わると国司殿と日鉢殿へ向かって深く一礼をする。

「っと——何々、失声症? お前さん喋れないのか?」

 紙に書いてある情報を読み上げた国司殿に、萌がゆっくりと頷く。

「なるほど……」

 突如、国司殿が顔を萌の前に突き出し、両手で顔をむにぃ〜と歪ませた。もはや何処にも原型を留めていないおかしな表情である。

 はて、一体何事だろうか?

「あっはっはっは! 巌サン、何ですかその変顔! ちょーうけるんですけど! あっはは!」

 日鉢殿はお腹を抱えて笑い出し、萌も手の甲で口を軽く抑えながら笑っている。が、彼の笑い声は聞こえなかった。

「なるほど、声が出ないってのはマジらしいな。おいヴォルフハルト、今のはニッポン・ジョークだ。笑うところだから覚えておけ」

「し、承知しました。以後は大爆笑するよう気をつけます」

「巌サン、アナタって人はどこまでオヤジなんですか……」

「それで、お前さんの恩寵は——」

 その言葉に、知らずの内に、ゴクリと唾を飲み込んでしまった。

 萌の顔を、表情を、彼には決して気付かれないように視線だけを動かして、さり気なく確認する。

 そう、それは……私が放課後の校庭で恐らく誰にも知られたくない彼の——……


「恩寵は、ん? <何も無し>……? これで、間違いないのか?」


 その問いに——

 彼は少し微笑みながら、はい、と唇を動かし、大きく頷いた。


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