第4話 険道3
いやな勘とはいやなふうに当たるものだった。
いっそ嘘であればいいと思う。現実は残酷すぎて声にならない。
子どもは誤飲による窒息死で、不慮の事故と見做された。
乳幼児の事故でもっとも多いと言われているのは誤飲で、この事例だって、さしてめずらしいことではないとのことだった。
物があふれたこの彼女の部屋では、誤飲してしまいそうな物だらけだった。
それでもなんだか釈然としないものを感じる。
呆気ない生物の死、人間の死、子どもの死。
しかし、彼女とはいまだにまともな会話が出来ていない。
彼女の目には、わたしが映らない。
彼女の焦点の定まらない目は、なにを映しているというのか。
「なにかあった?」
「……なにもないよ」
まるで壊れたテープレコーダーのような会話しか出来ない。
彼女の頭をそっと撫でれば、彼女はぽろぽろと涙を流し出した。
それを見て、わたしはまたなんとも言えない気持ちになる。
彼女は母親になるにはまだ、早かったのだろうか。
年齢よりもはるかにちいさく見えてしまう彼女になにがあったというのだろうか。
それからの彼女はいっしょにいると、ときどきヒステリックを引き起こした。
しずかに黙っていたかと思えば、突然わたしに感情的になって怒鳴りつけてくる。
嵐の前のしずけさという表現がしっくり来る、発作の前兆である。
わたしは、彼女の感情がとても不安定だというのがよく分かっていたため、聞き流したり、受け止めたりしていた。
言い返すことはない。
「あんたってなんでいつもそうやって全部わかったような顔してんのよ!」
「いっつもいっつも時間が解決するって!」
「時間が経てばわかることもあるって言うけど、あんたは頭がいいからわかるんでしょ?いいよね、そういう頭がある輩は!」
「あたしはいつまで経ったってわかんないんだよ!わかんないことだらけでいやになる!ぜんぶいやになる!」
「あんたの顔を見てるとイライラする」
こんな顔でごめん、と思う。
わたしに対する人の不満というのは、大方おなじだ。
悪口や陰口もパターンと化している。
彼女だって、例に漏れずそんな感じだ。
言っていることは、わたしが生まれてこの方、だれかに言われて来たことと、なにも変わらない。
きっと、この先もだれかにそのようなことを言われつづけて生きていくのだろうと思うと、言われている内容よりも、そのことに幻滅する自分に気付いた。
「間違っていたなんて思いたくない。わかんないわかんない、もうわかんないよ」
間違いなんてないんだろう。
間違ったからなんだというのだろう。
彼女はなにを焦っているのだろう。
さんざん喚き散らしたあと、彼女はさめざめと泣く。
内に籠ってしまうより、おもてに出てくるのならまだ良いのかもしれない。
ただ、わたしはそばにいて彼女のその激情を受け止めることしか出来ない。
彼女を家で預かって面倒を見ている。
預かる、という表現もおかしな話だけれど。
以前までは彼女の色の鮮やかなポーチの中には、化粧品があふれていたはずだった。
いまはPTP包装紙に包まれたくすりが詰まっている。
包装に書かれた名称を見て、医者が診断したであろう彼女の様態を知る。
睡眠薬を飲んで寝ても、目のしたには隈がひろがり、肌は荒れてゆく。
食事も摂っているのか摂っていないのか、わからないときがある。
人にはそれぞれ自尊心というものがあって、自己管理能力というものがある。
彼女は自立心も、美容意識も、向上心も、人並みもしくはそれ以上にあったはずなのに。
わたしは、彼女のことが
わたしが彼女にしてあげられることはなんだろう。
どこまで、彼女にしてあげられるだろう。
そっと彼女のポーチのなかにハイチオールCを入れておいた。
そうしたら、ひさしぶりに彼女が笑っていて、「おかしいなあ、さいきん肌の調子がなんだか良いんだよね」なんて言ってきた。
わたしは、その彼女が見せる笑顔がたまらなく愛しかった。
また前みたいに彼女と馬鹿なことをして、笑い合いたい。
それがいまのわたしのささやかな願いだった。
晴れた日には、彼女といっしょに公園に散歩に行く。
休日の昼下がりの大型の公園は優雅だ。
人があふれているのに、どこかおだやかであたたかい。
イヌの散歩をしている人とか、ジョギング、ウォーキングしている人、デートの人、家族連れの人……。
わたしたちの目の前を、幼い兄弟が騒ぎながら駆けて行った。
その後ろを仲睦まじそうな夫婦が、ゆっくりした歩調でベビーカーを押しながら歩いて行く。
わたしは横にいる彼女の顔色を窺う。
彼女の目は別段、子どもを追わない。
よくある子どもを亡くした人に訪れる感傷が、彼女にはないのだろうか。
夫婦に羨望の視線を送るでもなく、彼女の目はなにも映さない。
彼女は機械のように左、右と足を動かして歩く。
草原の部分にありふれた特徴のさしてないストリートミュージシャンが居て、足を止めた。
数人が集まっている。
ストリートミュージシャンの発する音が、空に透けるように散っていく。
野外の音響ってそんな感じだ。
「いい曲ね」
彼女のことばにわたしは無表情にうなずいたけれど、わたしは気付いてしまった。
その曲は、浅沼くんの楽曲のコピーだった。
ちらっと目に入った貼ってあるステッカーなどを見ても、浅沼くんが好きなキャラクターのものだ。
ここでも、もしかしてと思うことがあるとは、と唖然とした。
このストリートミュージシャンは浅沼くんではないけれど、浅沼くんにあこがれ、影響を受けただれかなのである。
「ねえ」
「ん?」
「あたし、嘘と呪詛のようなことばしかかけてこなかったの」
「え?」
「口先で死にたいって言ったところで、おなかはすくね。どっか寄っていく?」
そのまま広場へ向かい、出店でジャンクフードを買って食べ歩きながら、休日に催されているフリーマーケットなどを覗いて、帰り道の方面で行われる大道芸を横目に見て、帰ってきた。
彼女はときどき、朝帰りだった。
そしてときどき、家に帰って来なかった。
その理由を尋ねたことはない。
なんとなく、分かってしまっていたから。
わたしの生活習慣と、彼女の生活習慣はまるでちがっている。
正反対と言って良いくらい。
言うなれば、わたしは朝方で、彼女は夜型の生活。
それでもわたしが朝、彼女に向かって「行ってきます」と言うと、「行ってらっしゃい」を返す。
それは、ほぼ毎日の日課である。
その時間は、起きていてくれる。
気付いたときには、居ないか寝ている。
ゆっくり話をする時間もなく、徐々にずれを感じていた。
それでもわたしと彼女は一緒に居た。ふかい話をしないままで。
なにかに触れれば、確実に終わりが来ることを知っているからだ。
わたしが彼女の寝顔を見ていることが多くて、彼女の寝顔を見るたびに、せつなくなる。
わたしは彼女がなにかを言い出すのを、ずっと待っている。
その彼女からの告白の日が訪れるのはいつなんだろう。
ほんとうに、時間は解決してくれるのだろうか。
ある夜の深夜帯に、難ありの彼氏がわたしの家に乗り込んできた。
うちのマンションはオートロックのはずだけれど、実に形だけの簡易的なものである。
彼氏は叫んで喚き、チャイムを連打し、ドアを素手で叩く。
それは夜のしずけさに大袈裟なまでに響いた。
わたしはといえば、携帯電話を片手に警察へ一報をいれ、ご近所さんへの迷惑と今後の噂をぼんやりと考えていた。
管理人への連絡をするために、契約当初の資料を引き出しから出してきて書面の字を追う。
いっそセキュリティ上の問題も提言しようか。
セ○ム、入ってますか。
予想することが出来ていたこの状況は、さながらドラマや映画のワンシーンのようで笑うしかなかった。
彼女のほうに目をやれば、顔面蒼白で玄関から極力距離を取ったところで身を縮めている。
彼氏の声を辿れば、彼女の名を呼んでいる。
わたしが知っている彼女の名とそれはおなじはずなのに、どこかちがう響きを持っている。
声を大にして叫びたいのはぶっちゃけわたしのほうで、ここはわたしの家だ。
相手が理性を欠いたこの状況でそんなことを言っても、なんの意味もなさず、むしろ逆効果なため、なにも言わずに居た。
正味長くとも数十分の出来事なのに、数時間続いているようだった。
彼氏の声だけが、ずっと残響しているような錯覚。
物事の劣化と腐食の進行速度は、はやい。
いつが始まりかだなんてわからないけれど、終わりだけは、はっきりしている。
難ありの彼氏がうちに乗り込んできてから一ヶ月ほど、彼女はどこにも出掛けることなく、家に籠っていた。
そうなってしまう気持ちがわからないでもないわたしは、彼女を一人で家に残しておくのが心配でありつつも、朝出かけては夜戻ってくる生活を続けていた。
そんな彼女がある日、忽然とわたしの家から姿を消していた。
懸念していたことが次々に現実になってゆくのを、どこか褪めた目で眺めている自分が居た。
わたしは、こうなることをすべて予測していたように思う。
それでも、自分ではどうすることもできなくて、どうすることもできないと思い込んで、なにもしてこなかった。
どこか、現実から目を背けていたように思う。
ほどなくして、携帯に見知らぬ番号から連絡が入る。
彼女は、自殺した。
「自死」という言い方のほうが正しいのだろうか。
わたしにはわからない。死因は
場所は、わたしの家ではなく、彼氏の家だった。
わたしは、帰宅して彼女の冷たくなった死体を発見するという最悪の状況を逃れた。
逃れたところで、晴れやしないこのこころ。
たとえば、彼女の死から逃れることが出来たのか。
きっと出来ない。
出来たのだろうか?
仮に彼女から自殺を防ぐために自由を奪ったとして。
そこまでして生きている意味はあるのだろうか?
彼女は、死を自ら選択した。
それが彼女の出した答えだった。彼女は途中からすでに生きた屍のようだったではないか。
もしかしたら彼女のことをずっと引き止めていたのはわたしのほうだったのかもしれない。
葬儀はしめやかに執り行われた。
そこには、彼女の家族や彼女の友人が参列していた。
彼女の家族とはひさしぶりに顔を合わせたが、相変わらずだった。
あちこちで「わかりきっていたのに、どうしてなにもしなかったの」と言われて咎められる気がしていたが、実際にはなにも言われなかった。
みんな、それぞれに彼女の死を受け止めていた。
なかにはわたしを見て、なにかを言いたそうにする人がいた。
それがことばになることはなく、その言いたかったであろうことばは、非難なのか励ましのことばなのか、結局わからないままだった。
難ありの彼氏も、もちろん参列していた。
彼は取り乱すこともなく、かと言って呆然としているわけでもなく、至って冷静だった。
受付や焼香、出棺、火葬場。専門業者によって流れるように進んでいく。
かつてはヒトだったモノが骨になり、骨壷に収められる。
「なあ」
すべてが終わったころに、彼氏がわたしに声をかけてきた。
それは、すごく自然なながれだった。
「あんた、あいつからなにか聞いてるか」
「……なにも」
「ほんとうに?」
「ほんとうに」
「あんた、なにか知ってんだろ」
「……なにも知らないよ。知っていれば、変わっていたかもしれないでしょうね」
彼氏に目を向ければ、一度合った目を彼氏はすっと横にずらして逸らした。
彼女に関してなにかを知っているとしたら、彼氏のほうだろう。
わたしはなにも聞いていない。聞けなかった。
わたしがなにかを知っていたことがあるのだろうか。
ただ、いつもありのままの事実を受け入れてきただけだった。
消え去るときは、こうも呆気なく消えゆく。
現実は裏切るもの。判断さえ誤る。
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