第4話 険道



赤ちゃんことばとは、たいへん興味深いことばである。


日常ではおよそ使わないような特殊性を持っている。


仮に日常で使っているとしたら、特殊な性癖の人間かと思われるし、わりと他人から引かれるだろう。


自分も、いい大人がいい大人に向かって赤ちゃんことばを使っているのを見ると、少々白い目で見てしまいそうな気がする。


赤ちゃんことばで話しかけられると、いったいこの赤ん坊にはどのようなふうに聞こえるのだろう。



調音器官が未発達なこの子には、どんな音の世界が広がっているのだろう。



赤ちゃんことばを自分が発しているという現実も、またおもしろい。


わたしはむずかしい言葉をよく使ってしまうから、いつも頭のなかで一度考えてから単純化する変換をおこなったりしている。


横文字をきらう人間もいるわけで、そこらへんの案配を考える。



語感を考える。


ことばから得る印象、イメージ、感覚、ニュアンス。


誰もが確信を持ちながらも、普遍的な説明の困難なことばがある。


表現主体はヒトであり、表現対象は物事、そして手段に、ことばを用いる。



ずいぶんと早口で話すのに、話の長い人というものが存在する。


たとえば、「ちょっとその鉛筆を貸してもらえるだろうか?」と尋ねるところを、このようなふうに話しだす。


「今日のわたしはツイていないのか一日の初めから鉛筆の芯を折ってしまって、ほかに予備の鉛筆を持ち合わせておらず、どこかに鉛筆削りはないものかと思い、探してみたのだが、見つからなくてたいへん困っているので、あなたの目の前にある長さ約十五センチメートルほどの鉛筆の周囲が緑色に塗装されている六角柱の形状をした黒い芯の鉛筆で、尚かつその鉛筆があなたの持ちものであり、今すぐに使う予定がないのであれば、わたしにすこしの間だけ、恐縮ではあるのだが、貸していただくことは出来るだろうか?」


といったふうである。


おそろしく、長い。


くわしく述べるのが丁寧だと思い込んでおり、余計なことばかり並び立てている。


ふつう、想像力というものを、一般人は持ち合わせているわけで、およそ上記のように並べ立てる必要はない。


話にまるで省略がないのである。


それは、しばしば難解な一語文で話しかけて人を悩ます人類である。


日常での言葉は、意思伝達のために用いられるから、理解されない場合は、会話の中であの手この手で表現を変えなければならない。


しかしながら、かならずしも詳細に語る必要もないのである。


”必要な分”だけでいいはずである。


省略をし過ぎれば、相手には正確に伝えられなくなってしまうが、馬鹿丁寧に一から説明していれば、話の長い人、と話の半分も聞き入れてもらえなくなってしまう。


相手にどのようにすれば上手に伝達することができるか。


それは自らが試されている気がして、ひどく緊張する。


赤子に対しては、これがない。


気の置けない友人との会話も同様である。


いい歳をした大人が幼児語というのは、客観的にNGである。


しかしながら究極的には、年齢の問題などではなく、話し手の緊張度がいちばん問題なのだ。


毎日が学習の一環だから、使ってはいけない言葉だとかもあるのだろうけれど、なにより真っ先に気持ちのコミュニケーションのほうが優っている。



あやすと笑ってくれる。抱っこすると喜ぶ。触れると安心する。


不安や不快な気持ちになれば、泣く。


わたしが寄り添える限りでこの子に寄り添ってあげたいと思うのは、きっとこれはわたしの母性というものなんだろう。


喃語を発しているだけで、わたしは微笑ましくなってしまうのだった。


そして相手が真になにを伝えようとしているのか探る。現状でわたしが理解し得る範囲内で。



いつの日か、もっと年を取ったら分かる日が来るのだろうか。


ほんとうにこれで良かったのかと思うこともあるんだろうか。


でも、そんなことは敢えて言わないでおこう。




日に日に、友人に子どもを預けられることが多くなってきていた。


保育所からわたしの家へ。


彼女が夜も働きに出るからだ。


他人様のご家庭の金銭事情にとやかくは言えない。


けれど、難ありの彼のことだからいろいろあるんだろう。



わたしは難ありの彼のことを言及したことはあまりない。


それでもふたりのあいだに生まれた子どもは、まだ幼い。


ふたりの問題の話のはずだろうに。


そのことにわたしも違和感を抱きつつあった。



「ほんっと、ごめん!迷惑かけてごめん!」


「うん、いいよ。困ってる時はおたがい様だから。でも、今回だけだよ」


「ほんとうにごめんね」



彼女の言う「今回だけ」が、何度も何度もくり返されている。


「今回だけ」


この意味のない言葉をわたしも何度か、口にしている。



「それより最近またお酒飲んでる?顔、浮腫んでるよ」


「あ……、そうね、あまり寝れてなくて……」



適量なら良いんだけど、と彼女の顔を見ながら思う。



「痩せた?」


「あ、そうなの……ちょっとだけね。ダイエットしていて」



分かりきった嘘を言う彼女の顔を見ながら思う。


思うけれど、何もことばは口からは出てこない。



「大丈夫?」は、明らかに見て分かるように大丈夫なわけないし、「がんばりすぎなくていいよ」は、あまりに無責任だ。


彼女はなにかに対してがんばっている。



自分の能力以上に責務を負う人間を目の前にして、なんと声を掛ければいいのだろう。


わたしは誰かを助けられるほど、自立しているわけでもない。



頼られても、助けてあげられない、なんの力にもなってあげられない自分に、ただただ嫌悪感を抱くことになるんだろう。



きっと、彼女は欲張りなんだ。


あれもこれも何もかもこなそうとするから、たいへんになってしまう。



決断が下手くそ。優柔不断で選択を先延ばしにしている。



「そんな彼と別れちゃいなよ」と言ったとしても、彼女は別れないだろう。


別れられるのなら、とっくに別れていたはずである。


下手をすれば彼女は子どもよりも、彼を愛している。残酷なことに。


彼女が彼を愛していることは昔から分かりきっていたことだった。


そしてわたしはそれをずっと貫いている彼女を、どこか尊敬しているのかもしれない。


だれかはそれを「執着」と名付けるかも知れない。



それでも、自分ではない他人のだれかを愛せるということは、わたしの価値観からすれば素晴らしいことのように思う。



だから、どうかその難ありの彼といっしょに闇へは堕ちていかないでほしい。



彼女が彼女でありますように。






夜、コンビニへ行こうと外に出たら、家の前の道端に寝転がっている人を見つけた。



なんとなくいやな予感がして顔を覗きこめば、やっぱりそれはわたしの唯一の友人でもある彼女で、慌ててわたしの家に引き摺って連れ帰る。


身体は冷えてしまっている。


皮膚の冷たさに鳥肌が立ちながらも、思うようにならない相手の身体を担ぐようにして運ぶ。



いったいどうしてしまったんだろう、なにがあったのだろうと頭を痛める。


服で隠れていた皮膚に、黒ずんだ痣の色が見えた。



物事はわたしが思っているより、はるかに深刻になってしまっているのかもしれない。



彼女が酔い潰れて家に辿り着かないということが、何度か続いた。



もう、子どもを預けられて困っているというレベルの話じゃなくなっている。


泥酔状態で家にやって来るというレベルでもない。


そもそもで家に辿り着かない。




彼女のことを家で待っていて、説教をするという工程を考えていたわたしはどうすればいいんだ。


玄関の前で仁王立ちとかそういうシチュエーションを想像していたのに。


帰宅時間を上回っているのを確認してから彼女を捜して方々に回収に回るって、どういうことだ。



「おはよう」


「……おはよう」


「昨日の記憶はある?」


「ない」


ないんかい!そりゃあそうだろうな!と、突っ込みたい気持ちを抑え、冷静に明らかに泥酔していた旨を伝える。


「ごめんね」と小さく呟く彼女に息が詰まりながらも、用意していた言わなくてはいけないことを口にする。



「ねえ、そろそろ膝を詰めて話すことがあるんじゃない?」


「これからのことを、ちゃんと考えてる?」



水を渡して、飲ませる。なんだか自供を強要する刑事の気分だ。



「いまはまだ、いいの」


「いいの」ともう一度、彼女はくり返した。



とうとう我慢が出来なくなって、「よくねーよ!」と間髪入れずに、彼女の頭を叩いた。


「いたっ!」


「もうひとりじゃないんだよ?悲劇のヒロインごっこも出来ないんだよ」


「よく理解して。子どもを悲しませる真似だけは良くない」



黙り込んでいる彼女に言葉を続ける。



「ねえ、知らないと思うけど、いつもはこの子、とってもいい子なのに、泣き止まないときがあるんだよ」


「そのたびにわたしがどんな気持ちか分かる?」


「きっとこの子もそうなんだろうけど、お母さんを待ってるんだよ」


「わたしとこの子があなた待ってるのに、ひとりで帰って来ることもできない」



ただし、わたしの家はあくまでわたしの家であって、彼女の家ではない。


本来であれば、彼女はこの子を引き取って、自宅まで帰らなければならないはずだ。



彼女にはもう家庭があるというのに。


わたしにもわたしの生活がある。




「ねえ、じつは”裸はいつから恥ずかしくなったか”という本を読んでいたんだけど、これがびっくりなんだ」


「とつぜん、なに?」


彼女が怪訝そうにわたしを見る。


「江戸時代の末期に多くの欧米人が日本にやってきて、とにかく驚いているのは”日本人が裸を恥ずかしがらない”ということなんだって」



「場所によっては「混浴」が普通に行われていたようなんだけど、女性は男性の前で恥ずかしがらずに全裸になっているし、男性もその女性の裸体を別に特別な視線を投げかけている雰囲気もないんだって」


「そして、銭湯の帰りに、まだ身体が熱くて火照っているから、全裸で帰る女性もいたそうなんだ」


すごいよねーとつぶやく。


彼女は聞いているが、口を閉ざしているため、ひとりで話している感覚だ。




「この日本人の「裸を恥ずかしがらない」という習慣は、欧米人はもちろん、当時の中国人や朝鮮人も不思議に感じていたらしいよ。で、わたしが不思議に思うのは”当時の日本人男性は女性の裸体に興奮しなかったのなら、いったい何に興奮していたんだろう?”ということなんだよね。現にいまも、裸体に興奮する男性心理すら理解できてないんだけど」


「男性は残念ながら、女性の色々なパーツを”欲情する記号”として捉えているよね。もちろん文化や歴史や個人によって違うと思うけれど、胸とかお尻とか、スカートからチラりと見える足とか、うなじとか、そういう”記号”を見て興奮するということを、小さい頃から学習させられて、そして、性行為にいたることが可能になるんだと思うんだ」


「これ、良いことか悪いことかわからないんだけど、今のところ世界はそうなっているから、とりあえずは仕方のない事実だろうね」


「それが、江戸時代は”女性が全裸で目の前にいても、男性は何も感じていなかった”そうなんだ」


「江戸時代の男性は、女性の何に興奮していたんだと思う?しぐさ?ことば?それとも…」


「ところで全く話は変わるのですが、最近、モテる女性の”ある共通点”を発見したよ。それはね、”笑顔”。前から”モテる女性”と”モテない女性”の違いって何なんだろうってずっと考えていて、”モテ”には”美醜”はかなずしも関係はないなってわかったんだ」


「それで、やっぱり”笑顔”のような気がするわけ。モテる女性はとにかく、笑顔が良くて、ずっと楽しそうに笑っているんだよね」


「男性は女性の笑顔を見ると、承認されているって感じるんだよ」







松井秀喜は、一度も人前で悪口を言ったことがないそうだ。


彼は中学2年のとき、父親と「人の悪口を言わない」と約束し、それを守り続けているそうだ。


ちょっと驚きである。


そして松井秀喜の座右の銘はこういうものだそうで。


こころが変われば 行動が変わる


行動が変われば 習慣が変わる


習慣が変われば 人格が変わる


人格が変われば 運命が変わる


ちなみにこれ、最後に「運命が変われば 人生が変わる」という一行がつくこともあるそうで、原典は諸説あるけど、もともとヒンドゥー教の言葉だそうだ。


荻原魚雷『閑な読書人』より。


最近、面白かった本で共通しているのが「人類は色々とあったけど、でも少しづつ進歩していて、いずれは明るい未来がやってくるのでは」というテーマのものである。


もちろん世界はまだまだ難題だらけだが、未来は良くなってほしいし、良くしていきたい。


そしてそれは、「ひとりひとりが変われば良いのでは」と思っている。


というわけで、わたしも松井秀喜の真似をして、これから一生、だれかの悪口を言わないと決めてみた。


「心が変わると 人生が変わる」のだから。


それって、本当に簡単なようでとてもむずかしいな。


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