花魁上等!

彩崎わたる

短編

 僕はその日、張見世の中にいる彼女を見つけた。

 朱色に塗られた格子の向こう――まるで檻の中に閉じこめられた猛獣のように、数人の女たちが艶やかな着物に包まれて行儀良く座っていた。中には若干体勢を崩してこちらを誘うような目つきを送ってくる女もいたが、それでも下品な卑しさはない。


 ここは吉原の遊郭。男が女を買う場所だ。他のどの見世でも女たちがこれでもかと、ありったけの色気を使って男たちの興味を引こうと躍起になっているというのに、この見世の女たちは誰一人しどけなさを見せたりしない。

 まるでどこかの大名の奥方たちが一同に会しているかのような、気位の高さと、凛とした気高さが満ちている。


 と、横で極楽でも味わったかのようなため息が聞こえた。

「たまらんなあ……。ただ座っているだけでこれだけの色香が漂ってくるのは、この明石屋くらいのもんだ」

 ため息をついた男がこれまたうわごとのように呟く。

「明石屋? この見世は明石屋というのですか?」

 僕は思わずその男に話し掛けていた。

 男は驚いた顔をして振り向いたが、僕を一瞥するなり何かを納得したような顔つきをした。

「ははーん。おまえさん、今日が初登楼かい?」

「いや、何回かは来たことがあるのですが」

 この見世を見たのは今日が初めてで。そう言うより早く、男が口を挟む。

「この明石屋はな、他の見世とは格が違うのさ」

「格というと、大見世とか中見世とか」

 妓楼には格がある。その格によって客が支払う揚げ代が違ったり、女たちの器量が違ったりする。高級な妓楼には好い女がいるが、その分料金も高いというわけだ。

 郭遊びを何も知らない奴とバカにされた気がしてそう聞き返した僕に、男がにやりと笑った。

「違う違う。遊女が売るのはなんだ? 体だろ。けどな、ここの女たちが売るのは体じゃねえ。――心だ」

 男は秘め事でも話すかのように、そっと言った。

「心……」

 聞かされた僕までもが何故か聞いてはいけないことを聞いてしまったような、妙なやましさを覚え、男から目をそらした。


 そして再び吸い寄せられるように、大見世を表す全面が朱塗りの惣籬の中にいる彼女を見た。

 彼女は美貌を誇る数人の女たちの中でも一際鮮烈な存在感を放っている。それはただ美しいというものではない。すーっときれいに筋の通った鼻梁だとか、真紅に彩られた形の良い唇だとか、どこか物憂げな瞳だとか、そんなものは彼女を表す一部にしか過ぎない。彼女には他の女にはない、もっと独特な雰囲気があった。

 鶴のような気高さを身に纏い、郭の中にいながらも少女の持つ純粋さを失わず、それでいてどこか獣のような激しさを身の内に秘めたような危うさがあった。遊郭の遊女たちが持つ荒んだ獰猛さではなく、言うなればお伽噺にでも出てくる天馬のような神々しいものだ。


 ふいに、その彼女がこちらへと視線を向けてきた。気怠げな仕草とは裏腹に、その瞳は真っ直ぐ、どこまで貫き通しそうなほど真っ直ぐにこちらを見た。

 心臓の跳ね上がる音が耳元で聞こえた。本当に視線で射殺された気がした。

 僕は息をするのも忘れて彼女を見つめ返した。一瞬だけ絡まったかのように感じた視線はしかし、彼女によって断ち切られた。僕の淡い期待もろとも。

 彼女は何ごともなかったかのように視線を別の場所へと彷徨わせ、再び天馬となった。

「やめとけって。相手にされるわけがねえ。彼女は明石屋で一番の花魁だ。どっかの大名が指名しても断ったくらいだ。俺たちみてえな男の手に負える女じゃねえのさ」

 僕の視線の先を追ったらしく、男が自嘲めいた声で言った。

「彼女の……彼女の名前を知っていますか?」

「ああ。緋里だ」

「緋里花魁……」

 口の中でその名を転がしてみる。彼女の名を呼んでみたいと思った。彼女と話してみたいと思った。あの瞳に見つめられ、あの唇から紡がれる言葉を聞いてみたいと思った。

「僕、彼女を指名してみます」

 宣言するようにそう言うと、男は心底面食らったように目をむいた。信じられないといった顔つきがやがて、小馬鹿にするようなものに変わった。

「どうやら俺の話を聞いてなかったみてえだな。それとも聞こえないほど入れ込んじまったのか。ま、いいさ。緋里を見た男はみんな惚れちまうのさ。そんで身の程ってもんを知るのさ」

 男はそう言うと、ひらひらと手を振って人混みの中に消えていった。


 僕は早速彼女を指名するため、茶屋に行こうとして足を止めた。

 彼女は張見世をしている。ということは呼び出しをする必要もないということだ。

通常大見世の花魁ともなれば、引手茶屋で豪勢に遊び多額の金を落としてからでないと、取り次いでもらうことすらできないのだ。それなのに、彼女はこうして張見世をしている。

これはどういうことか。何も知らないのかとバカにされるのを承知で、僕は近くにいた男に声を掛けた。その男は先ほどの男と違い、いかにも人の良さそうな笑みを浮かべて、明石屋のしきたりというものについて教えてくれた。

その男によると明石屋は吉原の中でもとことん変わっており、明石屋の花魁は全員が張見世を行い、客が気に入った花魁をその場で選び直接登楼することができる。ただし、指名された花魁が断れば登楼は許されない。それだけではなく、明石屋の遊女たちが売るのは体ではなく心。花魁によっては常に一人にしか心を売らない者もいるという。二人同時に心を売るのは二股とされ、花魁同士ではしたないと考えられているというのだ。

張見世で見せるだけ見せておいて、そこから先はとにかく花魁次第という、まさに見られるだけ幸せなのか、目の前に釣られた餌にありつけず不幸なのか。なんとも微妙な仕組みであった。


「じゃあ、明石屋の花魁が花魁道中する姿は……?」

 何となく答えを予想しつつそう尋ねると、男は残念そうに首を横に振った。

「まあ、伝説みたいなもんだな。毎日通っていたって、一生に一度見られるかどうか」

「じゃ、じゃあ身請けもなし、とか?」

 もし身請け制度が明石屋にないとすれば、彼女たちは年季明けを待つしか平和的には郭を出られないということになる。

「いや、身請けはあるさ。だが途方もない額だ。明石屋ってのは一つ一つの値を高くすることでやっているんだ。つまり吉原の中でも特別中の特別ってことだな。まあ俺みたいな職人風情にとっちゃ見られるだけで十分満足だ」

 幸せそうなため息をついて花魁に見とれる男から離れ、僕は緋里花魁のいる格子のそばに寄った。だが、彼女は一向にこちらを見ようともしない。

 そのとき僕が出た行動は後になって考えてみれば、おそらく顔から火が出るようなものだったのだろう。

 あろうことか、僕は両手で格子を掴むと顔を格子ぎりぎりまで近づけて、こう言った。

「緋里花魁、どうかあなたの心を僕にください! 僕があげられるものならなんでも」

 勢い込んでまくし立てた僕の大声に、一瞬にして辺りが静まりかえった。水を打ったような沈黙の中、僕だけは本気だった。自分が花魁の心を〝買いたい〟と言ったのではなく、〝ください〟と言ったことにも気づいていなかった。くださいとはつまり、タダでくれということだ。

 周囲に失笑が漏れ始める。格子の中でも他の花魁たちが袖を口元に押し当てて嗤っている中、緋里花魁はちらりと僕に視線を寄こした。

 たったそれだけのことなのに、僕の心臓は飛び上がりそうなほど暴れ出す。

 緋里花魁はきれいに紅を差した口を開くと、

「ならば、ぬしがわっちに指切りしておくんなんし」

 そう言った。

 一時、思考が停止した。指切り? 彼女は指切りと言ったのか?

 指切りは遊女が己の想いが真である証しに小指を切り落とし、その指を客に与えることである。遊女ですら実際にそんなことをしているのはごく少数だというのに、この緋里花魁は客にそれを要求したのである。断り文句であることは明白だった。

 僕は格子越しに緋里花魁と見つめ合った。いや、睨み合ったと言った方が正しいのかもしれない。彼女の目は本気だった。それは断り文句であると同時に、相手の思いの深さを測ろうとする者の目であった。

 僕は頷いた。

「わかった」

 ぎょっとする気配が周囲に湧いた。それは彼女も同じだった。この客は思い詰めるあまり本当に切ってしまうつもりか。そんな思いが彼女の瞳をよぎっていくのがわかった。

「でも明日まで待ってほしい」

 僕がそう言うと、周りにいた者たちがほっと息をついた。誰だって目の前で指を切り落とすところなんて見たくない。

 だが緋里花魁だけは違った。彼女は露骨に侮蔑の視線を僕に向けていた。

 一度わかったと言っておきながら。彼女の目がそう言っている。一瞬でも狼狽してしまった自分が腹立だしいというのもあるのだろう。

「では明日までに指に別れを告げるといい。うまく別れられればの話でありんしょうがな」

 そう言うと、僕から顔を背けるように視線を逸らした。



その翌日、僕は再び吉原の大門をくぐった。

 行く先は決まっている。緋里花魁のところだ。昨日は手ぶらだったが今日は違う。手土産持ちである。

 昨日のことで僕のことはすっかり吉原に知れ渡ってしまったみたいだった。何しろ、人の口に戸を立てるという発想自体がない場所だ。じろじろと向けられる不躾な視線を浴びつつ、僕は明石屋の前に着いた。

 今日も緋里花魁は張見世で凛とした雰囲気を醸し出して座っていた。

 僕が来たことに気づいたのに気づかないふりをしているのか、彼女の視線が僕に向けられることはない。そもそも自分から誰かに視線を寄こすということがないのかもしれなかった。


 僕は格子の横を素通りして、妓楼の中に入った。中は生活感で溢れていた。表の華やかさとは裏腹に、妓楼の一階は煮炊きをする台所から湯気が立ちのぼり、食べ物の匂いが溢れる、いわば舞台裏であった。ほとんど仕切りがないため、一階部分のほとんどが見渡せるのだ。土間を抜けた奥に見える場所に、楼主とその女房と思しき年配の男女が入ってくる客に目を光らせていた。


 僕は真っ直ぐ彼らの元へと向かった。今日の用事の半分は彼らにあるのだ。

 囲炉裏を挟んだ向こうからじっと睨め付けてくる二人のところに向かう前に、僕は大きく息を吸い込んだ。

 彼らとの用事は想像していたよりもあっさりと済んだ。それでも僕が妓楼に入る前よりは夜がぐっと深まり、遊郭全体にひしめく客の数も増えていた。


 籬の前でうっとりと花魁たちに見とれる男たちの間を分け入るようにして、緋里花魁の前に進み出る。

「緋里花魁」

 呼びかけるが、彼女は反応しない。郭の喧噪に飲まれて聞こえなかったのかと、僕がもう一度呼びかけようと口を開くより先に、彼女がゆったりとした仕草でこちらを見た。

「指を持ってきたのでありんすか?」

 開口一番、彼女は言った。その口調から僕が来たことにとっくに気づいていたことが知れた。おそらく僕が妓楼に入っていくところも見ていたのだろう。

 僕は自分の両手を見せた。どの指も繋がっている。

 彼女は予想していたと言わんばかりに冷めた目つきをした。僕に興味をなくしたらしい彼女が視線を外すより早く、僕は持ってきた包みの中から一枚の葉を取りだした。

 真っ紅に染まった紅葉である。きれいに五つに開いたその形は人の手にそっくりだった。

「さすがに僕の指はあげられないけど、これならあげられる。一本じゃなくて五本全部だ」

 このときの彼女の顔を僕は一生忘れないだろう。

誰もが見惚れる美しい顔が、ただ驚きの色に染まる。衝かれたように目を見開き、次いで僕の顔を見た。真っ正面から、真っ直ぐに。


彼女たち花魁は籠の中の鳥だ。郭の中から出ることは許されない。それはもちろん外の世界の季節の移り変わりを楽しむこともできないということだ。

僕が持ってきた紅葉はそこらに落ちているわけではない。この形の紅葉が落ちているのは、江戸から少し離れた山の中だ。昨日、郭を出たその足で山に向かい、拾ってきたのだ。

おかげで今日は寝不足だが、彼女のこんな顔が見られたのだから、拾ってきた甲斐があるというものだ。

「これをわっちにくれるのでありんすか……?」

 彼女は呟くように言った。

「もちろん」

 僕は大きく頷いた。

 彼女はおずおずと格子越しに手を伸ばし、僕が差し出した紅葉を受け取った。

 周囲がどよめく。

「まさか……。あの緋里花魁が」

「あんな田舎侍風情に……」

 皆が皆、この光景に驚愕し呆然としていた。やがて夢から覚めたように全ての視線が緋里花魁に注がれていく。

 この男に心を売るのか。それがそこにいる者たち最大の関心事だった。


 あちこちから漏れ聞こえる声から察するに、緋里花魁は明石屋の中で唯一まだ誰にも心を売っていない花魁らしい。つまり誰一人としてこの格子越し以外で彼女を見た客はいないのだ。

そして皆の注目を一身に浴びる中、緋里花魁がふっと息をついた。切れ長の目がそっと伏せられ、長いまつげと目尻に引いた紅が彼女の美しさをよりいっそう際立たせた。

「わっちを葉一枚で買えると思ったのでありんすか?」

 彼女は哄笑った。異様なまでの高笑いが辺りに響く。それまで行儀良く座っていた獣が突如として野生の本能を目覚めさせたかのような変化に、他の花魁も、そして明石屋を取り囲んで成り行きを見守っていた男たちも、心底安堵の表情を浮かべた。

 それでこそ明石屋の緋里花魁だ、と。

 悄然とする僕に追い打ちを掛けるように、彼女は流し目で僕を見た。

「不愉快でありんす。ぬしの顔など見たくもない。どうかお帰りおくんなんし」

 当の緋里花魁にそう言われては、その場に残れるわけもなかった。半ば周りの男たちに押し出されるようにして、僕は明石屋の前を離れた。


 花魁に袖にされたことがないわけではない。町娘に熱を上げられたこともある。だがそのどちらも僕にとっては、周りで起きている変化でしかなかったのだ。自分の中で何かが変化することはなかった。僕は僕で在り続けた。

 だが今度ばかりは違う。彼女は確実に僕に変化を与えた。僕の中の何かを動かした。それはつむじ風のように切れ味鋭く、牙で噛みつかれたように僕の心に食い込んでいた。

 断られた花魁を追いかけることが遊郭では無粋とされるのは知っていたが、僕はその翌日も、その次の日も明石屋を訪れた。そしてその度に緋里花魁が喜んでくれそうなものを持参した。簪や着物といった高価なものではない。他の花魁であれば鼻で嗤いそうな、野に咲いている花だとか江戸の町で流行っている浮世絵だったりという具合である。

 しかしあの日以来、僕が渡そうとしたものを彼女が受け取ってくれたことはない。仕方がないので後で彼女に渡してほしいと頼み、見世番の若い者に渡した。

 そうして僕がすっかり吉原の名物になる頃には、季節は秋から冬へと変じていた。



 その日は灰雪のちらつく、冬真っ盛りの寒い日だった。

 緋里は妓楼の二階にある張り出しからぼんやりと外を眺めていた。外気に晒された肌に時折雪が舞い落ちては体温に溶かされ、儚く消えていく。

 昼見世が行われている八ツ時だが、昼見世をしない明石屋の周りは閑散としたものである。

 緋里はひっそりとため息をついた。その視線の先には江戸の町が広がっている。

「わっちたちには関係のない場所さ」

 突如、背後から声を掛けられ、緋里は弾かれたように振り返った。

「なんだ、朝ちゃんか。驚かさないで」

 朝霧は緋里より一つ年上の花魁だったが、売られた時期も同じなら花魁になったのも同じ時期だったため、緋里にとっては姉妹みたいなものである。

 それにしても、と朝霧はわざとらしく前置きをすると、緋里の隣に立った。

「あんたもつりんせん女だねえ。あれだけ熱心に執心してくれる男に目もくれてやりんせん。普通でありんしたら嫌な気がするどころか、惚れ込んじまうもんなのにさ」

「それを言うなら朝ちゃんの方がよっぽど男を袖にしてるじゃないか」

 痛いところを突いてくる朝霧に少しムキになってそう言い返すと、朝霧は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「そりゃそうさ。わっちのところに言い寄ってくるのは、ほんにクズな男ばっかりなんでありんすえ。……でも、あの男はそういう奴らと違うでありんしょう?」

 朝霧には敵わない。明石屋の遊女は心を売るだけあって相手選びにはかなり慎重になるものだが、それでも失敗する者も多い。朝霧はその点において天性の才能を持っているらしい。人を見抜く力が尋常ではないのだ。

 それ以上言い返す言葉が見つからず、黙り込む緋里の思いを知ってか知らずか、朝霧は言葉を重ねる。

「いいことを教えてやろうか。実はあの男、良いところの出らしいよ」

「まさか」

 緋里は即座に切り返した。そこら辺に咲いている花や、安価な浮世絵を手土産に持ってくる男が良いところ生まれなはずがない。どうせ参勤交代で江戸に出てきた下級武士か、その程度だろう。

「確かな筋から仕入れた情報だえ。人は見かけによらねえのさ。高級なものばっかりを貢ぐ男が実は奉公人階級でありんした、なんて話もあったでありんしょ」

 あーあ、もったいねえ。朝霧はそう言うと、くるりと背を向け部屋の中に戻ってしまった。

「言いたいことだけいいやがって」

 思わず悪態が口をつく。朝霧は言ってほしくないときに、言ってほしくないことを言う。昔からそうだった。本当にいい性格だと思う。けれどそんな朝霧にも心を売った相手がいるのだ。確か見た目こそは冴えないが、どこかの豪商だという話だ。そのうち身請け話でも出るんじゃないかというのが、最近の明石屋の二番目のネタ話であった。

 一番目は他でもない緋里とあの男の話題だ。


 冬に入ってすぐあの男はぴたりと来なくなった。それまで欠かすことなく、まるで日課のように通い詰めていたというのに、ある日を境に姿を見なくなった。

 緋里は来なくなった日の前日をよく覚えていない。何か特別なことをした覚えもなければ、邪険に追い払ったわけでもない。ただ、いつものように無視を決め込んでいただけだ。

 だが、あの男は――名前も知らないあの男は来なくなった。

 来なくなってからというもの緋里は自分がどれほどあの男の存在を探っていたかを思い知らされることになった。いつか来る、また来ると日を数えて幾日が過ぎたのだろう。

 緋里は体が冷え切っていることにようやく思い至り、のろのろとした動作で部屋の中に入った。

緋里の部屋にはあの男の手から直接受け取った紅葉を始め、これまでもらったものが全て置いてある。いらないと言っても、若い者が押しつけてきたのだ。

押し花にした紅葉を手に取り、緋里は深々とため息をついた。


 この形の紅葉がある場所にしかないことを緋里は知っている。なにしろこの形の紅葉が散る場所が故郷なのだ。だからあの男がそこいらに落ちている葉を拾ってきたのではなく、おそらくはこの紅葉が落ちているところまで拾いに行ったのは想像がついた。

だからこそ心底驚き、つい受け取ってしまったのだ。

「どうして来てくれんのでありんすか……」

 会いたかった。もう会いたく会いたくてたまらなかった。なにしろこちらから探しに行くことはできないのだ。遊女は郭の外には出られない。それに緋里はあの男の名前すら知らないのだ。探したくても探しようがなかった。

 そうして緋里が以前にも増して誰も寄せ付けない様子で見世の中に座っている間に、季節は春を迎えようとしていた。

 空から舞い散るものが雪から桜へと変わった頃、朝霧が一つの報を知らせてきた。


「これから言う話は全部まことのことでありんす。でも、これをあんたに伝えていいのか、わっちにはわかりんせん……」

 それだけで朝霧が何を指しているのかわかった。そして何に対して迷っているのかも。

「わっちは聞きたいでありんす。……もう覚悟はできていんす」

 緋里は真っ直ぐな視線を朝霧に向けた。

 朝霧は一つ諦めたような息をつくと、ゆっくりと緋里を落ち着かせるように話し始めた。

「あの男の名は中沖誠二。あんたは知らないでありんしょうけど、中沖家と言えば古くからの幕臣でありんす。旗本だえ。あの男はその中沖家の次男坊さ」

「中沖誠二……。旗本、幕臣……」

 全てがあまりにも遠かった。遠すぎて目眩がするほどだ。遊郭が客とするには十分あり得る身分ではある。だが、個人としての存在ではあまりにも身分に差がありすぎた。

「冬の頃から来なくなりんしたのは、なんでも京都見廻組っていう京の町を浪士連中から守る役目を果たすためらしいね」

「それって浪士たちと斬り合いをするってこと……?」

 朝霧が気の毒そうに頷く。

 すーっと血の気が引いていくようだった。浪士と斬り合うということは、己が死ぬ可能性もあるということだ。なんだって、あんな刀とは無縁そうな男が……。

 あの男の優しそうな面と、血を浴びる姿はどうあっても結びつかない。

 けれどあの男、否、中沖誠二が京にいるというならば――。


「朝ちゃん、京にはどうやって行ったらいいの?」

「ふう、やっぱりそうなるか」

 朝霧はそう言いつつも、京への道順を教えてくれた。何もかも見通したような朝霧をじっと見つめ、緋里は言った。

「朝ちゃん、色々ありがとう。……それから行ってきんす」

 緋里はそう言うと駆け出した。もう止まらなかった。

これから自分がするのは足抜けである。もし見つかればただでは済まない。郭のしきたりだ。これまでにも酷いせっかんを受けた遊女たちを嫌というほど見てきた。

でももう止まらないのだ。今日にも死んでしまうかもしれない中沖誠二のことを考えれば自分がすることも同じ、死の隣に座るということだ。そう考えると怖さなどなかった。


 少しでも見つからないようにと、緋里は見世の裏口へと回った。

「どこに行く気だい、緋里」

 だが、そこには先客がいた。楼主とその女房である。

 自分でも肩が跳ね上がるほど飛び上がったのがわかった。

「ちょ、ちょっとそこまで」

 我ながら情けないほどの言い訳だ。

 女房が呆れた顔をした。楼主に至っては嗤っている。

「あんたは本当に嘘が下手な子だねえ。その器量があってもよその見世じゃ、絶対に花魁にはなれないよ。遊女最大の武器は器量と手練手管だ」

 それはどういう意味だろうか。緋里は首を傾げた。今ならまだ未遂で済ますから見世の中に戻れと言っているのだろうか。

「こっちの言葉の意味もわかんねえか」

 楼主が言った。

「まあ、これはわからなくても無理ないさ。なんたってこんなことは吉原始まって以来の珍事だ」

 もはや緋里にはこの二人が何を言っているのか、全くわからなかった。

「あ、あの……」

「いいかい、よくお聞き。あんたが今からしようとしていることは足抜けだろ」

 真っ向から問われ、緋里は言葉を失った。まさか、はいそうですと言って通してもらえるとは思えない。

「普通なら足抜けだ。そして足抜けは御法度だ。おまえをせっかんする必要がある。だが、緋里。おまえがここを出て行くのは足抜けにはならねえのさ」

 楼主はにたりと笑った。ますます不気味だった。

「それはどういう……」

「あの男だよ。中沖様さ。あの御仁はな、二回目にこの見世に来たときにおまえを身請けしてるのさ」

 言葉の意味を理解するまでに少し時間が掛かった。必死に記憶を遡る。


 二回目に中沖誠二が見世に来た日――。

 そう、確か彼は緋里のいる見世を通り過ぎ、妓楼の中に入っていった。それから間もなく出てきて、緋里に紅葉をくれたのだ。あのときに身請け金を払ったというのだろうか。

前日にたった一回言葉を交わした、それも指切りをしろなどと言った自分を身請けしてくれたというのか。俄には信じられない話だった。

 驚く緋里の反応を楽しむかのように、楼主がにやにやと薄笑いを浮かべながら言った。

「それだけじゃねえ。中沖様はこう言ったんだ。『この金で緋里花魁を身請けしたい。ただ、いますぐじゃなくていい。僕は自分の力で彼女に振り向いてもらいたいんだ。だからこれは緋里花魁の身請け預け金だ。彼女が自らの意志で僕の元に来てくれるときに使う。でも、もし彼女が僕に振り向いてくれなかった時は、その金で彼女を自由の身にしてやってほしい』とな」

 ますます信じられない話だ。あの人は頭のどこかがおかしいのではないか。そうまで思った。花魁を、それも明石屋の花魁を身請けするとなれば、それは目の飛び出すような大金のはずだ。それを自分の元に来なくてもいいからなど。そんな身請けは聞いたことがない。

「あんたほど幸運な花魁はいないよ。後にも先にもね。ほれ、何をぼーっと突っ立っているんだい。さっさとお行き。あんたは女の幸せを掴むんだろ」

 女房はまるで犬か猫でも追い払うかのように手を振った。しかしその仕草とは裏腹に、その顔は今まで鬼婆だと思っていた女房が初めて見せた柔らかな表情だった。

 緋里は深々と頭を下げると、楼主たちの横をすり抜け、大門へと続く仲の町を走った。

 自分たちが儲けるためとはいえ、売られた自分が今日まで生きて、そして彼に出会えたのは他ならぬ彼らのおかげであった。二度と会うことはないだろう彼らに、心の中で礼を言って、緋里は勢いよく大門を走り抜けた。




 京都見廻組の担当は御所周辺や二条城の警備だ。

 普段の様子からは想像もつかないのだろう。僕が京都見廻組に加入した時は誰もが、こんな奴が剣術などできるのかとバカにしていた。

 だが実際に京に来て、斬り合いを経験してみればなんていうことはない。それまで散々バカにしてきた彼らの方がよっぽど剣術とはかけ離れた腕前だった。平和な江戸の、ぬるま湯のような家格の中で安穏としてきた彼らの大半が実戦では役立たずで、まともに浪士と渡り合っているのは実質一部の者だけだった。

 その一部の中に自分が入るとは思っていなかったが、現実はそうなった。


 一日の見回りを終え、夜になって思い出すのは彼女、緋里花魁のことばかりだった。

 彼女は今日もあの見世の中で凛とした佇まいで座っているのだろうか。それとも、もう自由の身になった頃だろうか。そんなことに思いを馳せる。

 京での血生臭い暮らしの中にあっては、そんなことくらいしか楽しみがないのだ。京にもあるという花街、島原にはとても行く気にはなれなかった。京の女はどうにも好かない。

 そんな殺伐とした日々を送っていた、ある日のことだった。

 複数の不逞浪士と久しぶりに鉢合いになり、斬り合った末、一人を捕縛して屯所に戻ってくるとやけに辺りが騒がしい。何ごとかと、捕縛した浪士を他の連中に任せて騒ぎの方に首を突っ込んだ僕は、その場に固まった。

 文字通り、狼の群れに囲まれたウサギの図が広がっていた。

 そこには幻ではなく、本物の緋里花魁が無粋な男たちに囲まれて往生していた。艶やかな着物に身を包まなくても、彼女が放つ魅力は変わらないらしい。見慣れていた花魁姿とは違い、質素な旅衣装にもかかわらず、彼女は十分すぎるほど美しかった。

「だから、人を探していると言っているではありんせんか!」

 ややツリ目がちになった彼女の凛とした声に、僕は我に返った。

 群がる男たちを強引にかき分けて、僕は緋里花魁の元に駆け寄った。

 彼女は僕の姿を見て取ると、小さく悲鳴を上げた。

 しまったと思ったときにはもう遅い。今の僕は斬り合いを終えたばかりなのだ。当然返り血だって浴びている。華やかな世界とはほど遠い格好だ。それは悲鳴も上げるだろう。

 それ以上近づくに近づけなくなってしまった僕に、再び男たちが彼女へと続く道をふさぎ始めようとする。

 だがそれより彼女の動きの方が早かった。彼女は小走りに駆け寄ってくると、蒼白の面で僕を見上げた。

「怪我をしているのでありんすか!?」

 その声はわずかに震えていた。

 ああ、そうか。彼女が悲鳴を上げたのは血塗れの僕が怖かったのではなく、僕が怪我をしていると思ったのだ。つまり僕の身を案じてくれたのだ。そのことがただひたすら嬉しかった。

 彼女がここにいる理由とか、僕を見る目があの頃とは違うとか、気づくことはたくさんあったけれど、考えがそこまで回らない。今は目の前にいる彼女がいることを受け止めるだけで精一杯だった。

 僕と彼女の間に漂う気配で仲を察知したその手のことに敏感な野獣たちは、あっという間に散っていった。手に入らないものに彼らは興味がないのだ。


 二人だけになったところで、僕は彼女に笑いかけた。

「久しぶりだね」

 そのときだった。彼女が僕に抱きついてきたのは。

 今度こそ完全に思考が飛んだ。一瞬、僕は斬り合いで殺されて、ここは天国なのかと疑ったほどだ。

「会いたかった……」

 彼女のくぐもった声が僕の胸の辺りから聞こえてくる。

「血が……。君まで汚れてしまうよ」

 僕は本気で言ったのだが、彼女はさっと顔だけを上げると、切れ長の目をすっと細めた。

「相変わらず無粋な人でありんすね」

「たぶんあの頃より無粋になったかもしれない」

 京で過ごすには江戸にいた頃のような、余裕を持った生き方はできない。京の時の流れは江戸の数倍は早い。

「それは困りんした。……でも丁度いいかもしれんせん。わっちもぬしが思っているような華やかで粋な女ではありんせんから」

「知ってるさ」

 僕はそう言うと、見上げたままの彼女の唇を奪った。戸惑ったように一瞬身を引こうとした彼女だったが、すぐに思いとどまると背伸びをして自分からより強く唇を押し当ててきた。自然、抱きしめる腕に力が入る。

 二人の呼吸が保たなくなったのは同時だった。口づけを交わした後にはどんな会話をするのが粋なんだろう。そんなことをぼんやりと考えながら、彼女の顔を見つめる。

 彼女は頬を上気させ、なんとか呼吸を整えると、紅を差していないほんのりと桜色の唇を開いた。

「わっちの心を買っておくんなんし」

「ああ。君の心は僕が一生分買い占めた」

 京の春風が爽やかに僕たちの周りを吹き抜けていった。

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