第39話 交われば言の葉


 幽玄の世界を視る見鬼にとって、悩ましい問題というものは無数に存在する。

 見鬼は数が極めて少ない。よって見鬼によるコミュニティというものはほぼ生まれることなく、また時に生まれた場合は迫害の対象となるのが常であった。

 このため、見鬼の間では共通認識というものがそもそも存在しないのが当然のことであった。

 用いる単語や専門知識といったものの多くは、過去の文献や、あるいは昭和のオカルトブームの中で作られた用語をそのまま引っ張ってくることが主だった。

 見鬼にとっても、情報源は普通の人間と変わらない。「見える」からといって、特別な言葉や知識が宙に浮かび上がるわけではないのだ。

 なのでもし、まったく異なる環境で育ってきた見鬼がふたり――いるとしたら。

 ふたりの間で交わされる言葉はまるで違うものになるはずだ。

「じゃあ、そもそもの『見鬼』という言葉から聞きたいんですけど……」

 九鬼瑞葉が借りているマンションの一室。

 勝手知ったるとばかりにクッションに座っている川島麻子の顔を見て、瑞葉はすぐに目を逸らした。その行為がかえって不審に思われるのではないかと考えて、身体の芯がぐっと熱を持つ。

 川島麻子は先日、この部屋の清掃をひとり――正確には頭の上に乗せている式も用いて――でやり終えた一件以降、あろうことか時折瑞葉の住処に顔を出すようになっていた。

 またゴミ屋敷になると管理人さんが困るから――というのが麻子の言である。麻子はこのマンションの管理人とどういうわけか接点を持っており、以前の清掃も管理人が迷惑を被っていると聞き、話を聞いているうちに瑞葉が部屋の借主だと気づいた、というのがきっかけだったと聞かされた。

 拠点を移そうかと考えたこともある。瑞葉の正体を知っている人間に在所を知られているというのは、危機管理の面からも芳しくない。

 だが、瑞葉は行動に移すことはしなかった。麻子が顔を出す度に絶対に引き払ってやると決意を新たにするのだが、麻子が帰っていくとその決意はいつの間にやら立ち消えになっている。

 今日も今日とて瑞葉の部屋に上がり込んだ麻子は掃除をすませると勝手に茶を淹れてひと息吐いている、という有様であった。

 瑞葉は麻子の淹れた茶を飲みながら、片付けられたテーブルで麻子と向かい合ったまま、無言を貫いていた。

 何か話せと沈黙が瑞葉にプレッシャーをかけてくる。麻子は持っている湯呑みの中の茶を飲み終えればさっさと帰っていく。なんとかそれを引き留める方策を考えろ。

 そこで瑞葉が口にしたのが、互いの認識を確認し合うという提案であった。

 見鬼と見鬼。生きてきた環境のまったく異なる瑞葉と麻子が、それぞれ持っている言葉を提示し確認を行う。

「『見鬼』というのは『』を『見る』――この場合の『』とは霊的存在全般を表す原義に近いものですが――者という意味合いです。同じ『』を『視る』で『視鬼しき』と呼ぶ場合もありますが、これは『式』と同じ音なので我々はあまり用いません。またその見る能力自体を眼に典拠するものと考え、『浄眼』や『正眼』と呼ぶこともあります」

「私も『見鬼』と呼ばれることは多くて、知らず知らずのうちに自分のような人のことを指す言葉だとは理解してました。私自身は、あんまりそうした相手との付き合いがないので、きちんと教えてもらったことはないんですけど」

「では次は『妖怪』と呼ぶ存在についてですが――これは定義を行うよりも、どういった言葉で呼ぶかを考えたほうがいいでしょう。我々は定義のできないものを相手にしているのですから、外堀を埋めることに注力すべきです」

「えーっと、『妖怪』、『ばけもの』、『もののけ』、『あやかし』、『妖魔』、『妖物』、『魑魅魍魎』……あっ、これは全体を指して言う言葉ですね」

「そうですね。『怪異』、『霊』といった言葉も当てはまるでしょう。たとえばある地方で用いられている『呪詛』の意味を解体していくと『妖怪』と同義となった、というようなこともあります。術者の間で符牒のように用いられる言葉も多くあります。『クダ』、『ハヤガミ』、『式姫』、『ナマクビ』、『異霊』――多くの場合は術者自身の用いる霊的存在を指しますが、彼らは彼らの認識として、妖怪をそう呼称することもあります」

「じゃあ、『式』についてですけど、九鬼さんの言うところの『式』は、『式神』ということでいいんですよね?」

「ええ。私が使役する妖怪を『式』と呼称しています。この場合の妖怪はより広範の意味を持つ呼称です。『式神』、『護法童子』などと呼ばれるものですが、これらは必ずしも使役される妖怪を指すものではありません」

「そういえば、三条さんには妖怪の気配はないですよね」

「川島さんの考える妖怪の――ですね」

 見鬼でありながら何不自由なく育った麻子にとって、妖怪とは己の目で見ることのできる存在である。そこを確認すると、麻子は驚いたように頷いた。

「先に挙げた『怪異』や『霊』は一般的な感覚からすると妖怪に含めないとすることが多いんです。妖怪というと、かたちを持った存在だという認識が根底にある人は多いんです」

「実際、私が見ている妖怪は、みんな形のあるものですし……」

「像を持っていない妖怪は多く存在します。画として描かれていないもの。伝承のみが伝わるもの。その伝承の中でも、現象としてしか語られていないもの。名前がないものもいくらでもいます」

「それは――ハナシの中で、ですよね?」

「ええ。見鬼が視認すれば、妖怪は活かされます。あなたがなんの疑問も抱かずに今日まで妖怪を妖怪として認識してきたのなら、そこに手は入れるべきではないでしょう。ですが、『式』を使う者の中には、その認識では太刀打ちできない相手もいるということを覚えておいたほうがいい」

「『式』――九鬼さんはタマのことを『式』と呼びましたけど、私はあまりしっくりきてないんですよ。タマのことを使役してる――なんて言ったら」

 麻子の頭の上の蜘蛛が前髪を足でぐしゃぐしゃにする。

「こんなふうに絶対怒りますから」

 麻子と彼女の式については不可解なことも多い。前髪を撫でつける麻子を見ながら、瑞葉はひとまず三条の用いる式についての説明を行う。

「三条さんは見鬼ではありませんが、『式』を用いることができます。彼は直接妖怪に触れるわけではなく、文字通りの『式』――解を導くための法を用いていると考えられます。システム、プログラム、コードと呼ぶこともできるでしょう。私も詳しくは理解できていませんが、彼の式は私のものよりもよく組まれていることは確かです」

「ああ、私たちは感覚で、三条さんのような人は理論で――みたいな感じですか」

「大雑把な表現ですが、それが的確ですね」

 瑞葉はすっかり冷めた茶をすすり、次に切り込む話題を探る。麻子は新しく茶を淹れるためにキッチンに向かった。

 陰陽寮の機密を麻子に教えることはできない。知ってしまえば、彼女を余計な政争に巻き込むことになりかねないからだ。

 現行の陰陽寮の認識では、妖怪という存在は見鬼による認識によって像をなすとされている。ある種不確かな存在である妖怪に、見鬼が視るという行為によって肉付けを行う。麻子が妖怪という存在に疑問を持たずに生きてきたのは、つまり彼女が妖怪を認め、そうであることが当然として生きてきたことにほかならない。

 やはり、瑞葉と麻子はまったく異なる。

 自己否定に自己否定を重ね、矛盾と齟齬に苦しめられ続けてきた瑞葉にとって、麻子はあまりに無垢で眩しいばかりだった。

 許せないとは思う。こうも安穏と生きてきた見鬼に、嫉妬を覚えないほど瑞葉は破綻していない。

 だけど、傷つけるには麻子は無垢にすぎた。見ていると苛立ちばかり覚えるというのに、あまりにまっさらなその自我を目の当たりにすると、どうしてもためらいを覚えて見惚れてしまう。

 いま瑞葉が行っているのは、誰も手をつけていない新雪に自分の足跡を刻みつける行為なのかもしれない。麻子の歪みのない世界観に、自分の世界観で痕をつける。

 世界観――見鬼の有するそれは、見鬼自身を強く定義する。

 いま話していた言葉というものもその中に含まれる。自分の信じる言葉を用いた世界観を構築した者が、まったく異なる言葉で構築された世界観を目の当たりにした時、揺るがないことこそが見鬼の強さを意味する。

 その点、瑞葉は弱い。

 自分を信じられず、かけられる言葉に対して耳を塞ぎ、血を吐き魂を削って自分の世界観を構築した。

 瑞葉の世界観は元来の自分由来のものではない。否定し、唾棄し、抉り、混ぜ、漏出した結果生まれたものだ。下手な言葉をかけられれば容易く崩壊しかねない、あまりに脆弱な自我と世界観。

 だからこそ、痕を残したいのか。

 麻子の誰も足を踏み入れていない純白で真っ当な世界観に、この汚れ果てた己の足跡を残したいと願うのか。

 なんとおぞましく、浅ましい願望だろう。

 汚したくない。麻子はあまりに美しいから。だけど自分がその世界観を通っていったという証は、どうにかして刻みつけてやりたい。

 熱い茶を淹れて戻ってきた麻子を、瑞葉は暗く澱んだ目で見ていた。

「あの、妖怪についてなんですけど、妖怪の種類というか、存在を分類する呼び方ってあるんでしょうか」

「俗にですが、『画像妖怪』や『伝承妖怪』という言い方は見かけます。前者は画が残っている中でも特に、伝承部分やそれ自体の説明が欠落しているもの。後者はその妖怪の存在を担保する伝承の残っているものを指します」

「ああいえ、そういうきちんとしたのじゃなくて、なんて言うんでしょう……妖怪たち自身が使う言葉として、です」

 瑞葉は少し苦い顔をする。麻子は想像以上に妖怪の側へと傾いている。

「なにか、聞いたことがあるのですか」

「しっかりとではないんですけど、〝流出〟という呼び方を」

 暫し黙って、瑞葉は麻子の言葉を吟味する。陰陽寮では聞いたことのない呼称。それも麻子によれば、妖怪自身が用いる言葉だという。言葉自体になんらかの式がしかけられていないかと思わず警戒するが、『流出』という言葉そのものは特になんの変哲もない単語ではある。

「――おそらくは、自らの出自を表すものではないでしょうか」

 見鬼によって定義される妖怪。その、定義される前段階。自らの正確な像を持たず、個としての存立もできず、ただ流れ出るだけの魑魅すだま

「あっ、確かにそうかもしれません。自然霊や雑鬼なんかがこれなのかな」

 少し頭が痛くなる。麻子が口にした用語は陰陽寮では用いない。なぜなら、あまりにも俗物的であるからだ。

「自然霊――天然自然の霊ということですね。いわゆる精霊、アニミズム的な山や森や川の霊。雑鬼というのは――」

 瑞葉は自分の目の前を漂うミミズのような霊体を掴む。

「こうしたものの総称で合っていますか」

「そうですけど……えっ、これって使わないんですか?」

「少なくとも我々は」

「じゃあなんて呼ぶんです? これ! これは? ひょっとして名前もあったり?」

 麻子は自分の頭の上に浮かんでいた毛玉のような霊体を掴んで瑞葉に見せてくる。

「名前は特にありません。付けていてはキリがないですからね。そうですね――プランクトンや分子すべてに名前を付けるような時間と知識と経験の蓄積は我々にはないんです。見鬼はそもそもコミュニティを作らない。見鬼の持つ時間と知識と経験は、基本的にひとりだけのものとして墓場まで持っていくことになります。陰陽寮は確かに多くの見鬼が集まる場所ではありますが、誰もが自身の時間と知識と経験は自分だけのものとして他人に触れさせようとはしません。これは言うなれば極めてプライベートな領域でもあるからです」

 言ってから失言に気づく。瑞葉は極めてプライベートな領域と説明した箇所を、今まさに触れているさなかである。無知をいいことに、麻子の大切な場所に土足で上がり込んだという罪状を吐露したのと同義だ。

 麻子は顔を赤らめている。これがいつ殺気に変わるかもわからない。瑞葉が侵犯したのはそれほどまでに危うい領域だ。

「えっと……それじゃあ九鬼さんは……それを私に明かしてくれた――ってことですか?」

 卒倒しそうになるのを歯を食い縛って耐える。

 どこまで愚かで純粋なのだ、この女は。

 犯したのは瑞葉のほう。だというのに、瑞葉のほうが麻子に己の領域を明け渡したと誤解している。

 ある意味では麻子の言うことは正しい。瑞葉は他者に触れさせることのない場所を麻子に確かめさせた。だがそれはそのまま瑞葉が麻子の触れてはならない部分に触れたことを意味する。

 だのに。

「ちょっと、嬉しいです」

 なぜ照れたように笑っている。

 気が狂いそうだった。もしもいま麻子に求められたら、瑞葉はそのまま応じてしまうだろう。国家陰陽師としての矜持も己の世界観も投げ捨てて、ただ麻子を貪るだけの存在へと変じてしまいかねない。

 理性を保てていられるのは単に、川島麻子という女がまだ何も知らないままでそこにいるからだった。もし麻子が瑞葉の動揺を見抜き、己の存在を見せびらかして誘うような真似ができるようになっていたら――危なかった。そこまでの手管を身につけていない状態の麻子を相手にしているおかげで、瑞葉はまだ踏みとどまることができている。

 怖い。怖くてたまらない。この女を前にして、果たして今後も瑞葉は理性を保てるのだろうか。

 傷をつけるのなら今のうちだぞ――と囁く声がする。この無垢であるがゆえに魔性である麻子を犯すことができるのは、今しかないのかもしれない。甘い囁き声を理性でねじ伏せ、瑞葉はなんとか目の前の麻子を見た。

「あの、あと〝名付〟という呼び方も聞いたんですけど、知りませんか?」

 なぜ話を続ける。

 いま瑞葉が口を滑らせたばかりではないか。

 こうして互いの言葉と認識を擦り合わせることの意味を。

 ああそうか。

 逆なのだ。

 瑞葉はとっくに、麻子に犯し尽くされていた。





「陰陽師――ねえ」

 火の海であった。

 ごうごうと燃えさかる炎であった。

 巻き上がり続ける火炎は地脈を焼き、風脈を焦がし、龍脈を燃やす。

 この街に〝流出〟は湧き立たない。

 ただ無為な熱だけが吐き出され続ける。

 では、ここに立つ己は何者ぞ。

〝流出〟に非ず。名前を持てど〝名付〟にも非ず。

 人ではなし。

 妖でもなし。

 現世にも在らず。

 幽世にも在らず。

 己を定義せぬまま、百と九十年あまり。

 寅吉。寅吉よ。

 否。否である。

 その名は当代に意味をなさぬ。

 ならば。ならば名は。

「高山嘉津間」

 嘉津間。嘉津間よ。

 杉山僧正の門弟。平田篤胤大人うしの門下。

 嘉津間。お前には見えないのか。

 この火が。炎が。焔が。

「はあ」

 

 嘉津間は宙に寝転がりながら、青川市からぐんぐんと離れていく。天狗に等しい彼にとってこの程度の飛行はこの通りだらけきったままでも容易い。

 ここ数年、嘉津間は青川市に顔を出すようになっていた。

 きっかけは川島麻子だ。あいつとの勝負に負けてからというもの、どうにも納得がいかずに幾度となく再戦を申し込みに向かう。ただ大抵は軽くあしらわれてしまうだけだったが、久方ぶりにできた生きた人間の友人との関係はそれなりに気に入っていた。

 ただ、青川市に向かうと、今のような有象無象の声が始終聞こえてくる。

 地霊。もともと青川市に根ざしていた信仰と畏怖。それらが呻き声を上げ続ける。

 人間も妖怪もこの声を聞くことはできないだろう。そのせいか声は嘉津間に必死に訴えてくる。

 というより、最近はそれが行き過ぎて鬱陶しい絡みにようになってきている。

 嘉津間にとって、青川市の抱える問題などはっきり言ってどうでもいい。

 嘉津間は飛べる。

 あくびをしながら都市と都市を行き来することなどしょっちゅうであったし、仙界と俗界も彼にとっては用意に飛び越すことのできる範囲だ。

 青川市は所詮、数多ある街の一つでしかない。問題を抱えた街などいくらでも存在し、それらにいちいち首を突っ込んでいたら身体がいくつあっても足りない。

 鬱陶しいと思ったら飛び去る。嘉津間はそのように存在している。

 しかし街を覆う炎は日ごとに火勢を増し続けているように思う。前に訪れた時に聞こえた声にはまだ理性があった。

 さっきのは駄目だ。まるで妄執でしかない。そんなものに関われば寿命を縮めるだけ。

 麻子は――知っているのか。

 知らんだろうなと嘉津間は苦笑する。あの娘はそうでなければ面白くない。

 伝えるべきかは迷ったが、やはりやめておくことにする。

 しかるべき時に、しかるべき相手から、麻子はすべてを聞くことになるはずだ。そしてそれは今ではないし自分でもない。

 嘉津間は結局のところはぐれ者だ。『仙境異聞』が世に出てしまった以上、この身はもはや表舞台に出ることを許されていない。

 だから、今は麻子に近づくべきではない。

 宮内庁陰陽寮の国家陰陽師が麻子の近くにいる以上、嘉津間の存在は秘されなければならない。

 高山嘉津間が未だに存在する――その事実は陰陽寮を少しは揺るがす。

 大人しくしておくか。

 山嶺を眼下に、嘉津間は大きく伸びをした。

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