黄昏のホウコウ

久佐馬野景

第一部 薄暮のカイコウ

ロウトという名

 まさに死の世界と呼ぶのが相応しい。

 その頃のロウトは、そんなことを考えていた。

 流れる川の音を聞きながら砂礫の上に寝転がっている。身体は重く、意識してしまうと心なしか息も苦しい。

 この川は、ただ水が湧き、流れているだけだ。中に命は存在しない、死の川。ロウトが寝転がっている大地の上にも、生命は存在しない。風に葉を揺らして寒々しい音を立てている木々や河原に生えている雑草も、見てくれだけの存在で生物ではないのだ。

 生きているのはただ、人間だけだ。胸の上に手を置くと、一度失ったはずの心臓の鼓動が伝わってくる。生きているな、畜生。

 人間以外に、何の生命も存在しない世界。死の世界。それはある意味で当然とも言える。

 ここは死後の世界。一度死んだ者の魂が再び肉体を得て生きている。全く以ておかしい世界なのである。

 この世界は間違っている。そう言う者もいる。

 ただ、そんなことを気にして生活する者など殆どいない。現に今ここにこうして生きているという事実は変わらないのだし、それを間違いだと糾弾するのは生きている者達にとってはお門違いもいいところなのである。

 この時のロウトも、そのことはわかっていた。ロウトは誰よりもこの世界の異常性に気付く存在で、実際大いに苦悩していたのだが、それを自分の内の問題として一人で勝手に苦しんでいたのだ。だからそのことを周囲に喧伝して回るなどという行動は起こさなかった。周囲の人間は皆疑問を持たずにこの世界で生きている。それを今更啓蒙するなど馬鹿馬鹿しくて出来はしない。勿論ロウトにそんな勇気がないというのも大きな理由の一つである。

 疑問を持たずに暮らせる理由は、この世界に生きる者が生前の記憶を持たないからだろう。全てをなくす訳ではなく、「自分は誰か」という部分の記憶だけが綺麗になくなる。それで最初は誰もが戸惑い、混乱する。しかし時間と共に慣れていき、疑問も抱かなくなっていく。

 ロウトは違う。生まれて三年が経つが、ロウトは全くこの世界に慣れることが出来ていない。

 この世界では一定の周期――湧生ゆうせい期と呼ばれている――で、湧生地と呼ばれる決まった場所に一斉にどこからともなく人間が現れる。それがこの世界での湧生で、ロウトはロウカと一緒に三峯みつみねの里の湧生地に生まれた。

 生まれたとは言っても、身体は既に成長した姿だった。

 湧生地の近くには共同体である里が出来ており、この島国には全部で七つの里、稲荷いなり八幡やはた愛宕あたご春日かすが住吉すみよし諏訪すわ、そして三峯がある。

 湧生地で目覚めたロウトとロウカは、既に服――経帷子を着て、左右反対だったが草履も履いていた。そしてそこに現れたゲリとフレキによって里に導かれたのだ。この時二人が帯刀していたので大層警戒したものだった。

 湧生地は森と闇に覆われた山の中にぽつんと立つ簡素な荒家で、里に向かうのにも緩やかな山道を歩いた。森が深かったので熊でも出るのではないかと冷や汗をかいたが、今思えば全くの杞憂だ。

 三峯の里は藁葺きの家が数軒建つだけの小さな里だった。地面は土が露出しており、舗装は一切されていない。二人はその一軒の中で、里の長である三峯――里長は名前を捨てて里の名を名乗ることになっている――によって熱烈な歓迎を受けた後、ここが死後の世界であることを教えられ、名前を与えられた。

 フレキ曰く、ロウトとロウカという名は三峯にしてはかなりまともな方だという。後で三峯に教えられたのは、ロウトというのは漢字で狼刀と書くということだった。ロウカは狼花と書き、どちらにも狼という字が入っている。三峯の里は伝統的に狼を意味する名前を付けることになっているのだという。ゲリとフレキも異国の神話の狼の名らしい。他の里もそれぞれ動物を意味する名前を付けるらしく、いい加減に見える三峯も一応は考えているのだと感心させられたものだった。

 三峯は目を見張るような美しさの女であるが、適当というかいい加減というか、とにかくその美貌を忘れさせてしまうようなおおらかさの持ち主である。ロウト達に話をした時も、ゲリが注釈を入れたり訂正をしたりと大忙しで、情報は殆どゲリから与えられたようなものだった。その性格から里の者達に呆れられ、半ば本気で心配されているが、本質的には慕われ信頼されている。

 ちなみに里長は男女関係なく就くことが可能である。というよりもこの世界での性差は外見以外に全くなく、地位も力も男女間に違いはない。

 三峯は名前を付けた後で、「前世持ち」という存在についてを二人に教えた。前世持ちとはその名の示す通り、前世――即ち生前の記憶を持つ者のことである。前世持ちは里から隔離され、自由な行動を制限される。前世からの因縁や危険な思想を持ち込まれると厄介であるから、というのが表向きの理由となっている――が、ロウトには容易にその裏に潜む思惑が読み取れた。

 湧生地でロウトとロウカを見たゲリとフレキは、まず最初に二人に名前を訊いた。ロウトとロウカは揃って「わからない」と答え、ゲリとフレキはそれを聞くと安心したように表情を緩めたのだった。

 ロウトはゲリに名前を訊かれた時、迷いに迷って「わからない」と答えた。対するロウカはフレキに訊ねられると即座に首を横に振った。

 前世持ちかどうかを確かめるために里では湧生地で生まれた者全員に必ず名前を訊く。自分の名前の記憶があるのなら、名前を聞かれて「わからない」と答えるはずがない。これが一番簡単で確実な前世の検め方であり、名前を答えた者は前世持ちとして隔離される。

 確かに、ロウトには記憶がなかった。ただ、それは名前に関するものだけである。

 つまり、ロウトには前世の記憶があった。

 そう、これがロウトと他の者達を隔てる決定的な違い。そしてこの世界を否定する最大の理由。

 だが、ロウトは自分に前世の記憶があるとは明かさなかった。前世持ちがどのような扱いを受けるのかという大きな不安があったからである。この世界の者達から見ればロウトは異常であり、どんな仕打ちをされるかわかったものではない。里から隔離されるという話も、聞きようによっては恐ろしい想像を掻き立てる。

 そのため、ロウトは三峯の里で生活することになった。

 ロウト――前世の名前は忘れてしまったのでわからない――は、貧しい家に生まれた。ロウトは長男で、上に年の離れた姉が一人、下に弟が二人いた。ただ、ロウトは生まれた時から心臓を患っていて、治療費が家計を圧迫し、親からは内心疎まれていたのは確かである。唯一姉だけはロウトのことを常に気にかけていてくれたが、十八で嫁に行った。その後子供を産んだが、産後の肥立ちが悪くて呆気なく死んだ。幸いだったのは嫁ぎ先がロウトの家に比べれば金持ちで、立派な葬式を上げてもらえたことだろう。

 ロウトは尋常小学校を出てすぐに働き始め、家にわずかながらも金を入れるようになった。安定した生活が出来そうだと希望を抱き始めた頃、戦争が始まった。手始めに次男と三男に赤紙が届き、家にはロウトと両親だけが残った。

 それから三年が経ち、戦地の弟達から何の連絡もないままに日本本土への空襲が始まった。ロウトの暮らしていた土地は海軍工廠を初めとする工場が多かったせいか、本格的な爆撃を受けた。最初の空襲で両親が共に死に、家にはロウトだけが残った。

 そして何度目かの空襲の夜、ロウトは防空壕へと逃げる最中に炎に包まれ、焼死した。

 その時のことをわずかでも思い出すだけで、ロウトは常軌を逸した苦痛に身体中が震える。それはあらゆる苦痛を超越していた。死は、どんな苦しみよりもどんな痛みよりも酷い、絶対の地獄である。自分が正気を保っているのが悔やまれる程に、そのおぞましい感覚はロウトを責め立てる。克服は疎か、慣れることさえ不可能だった。脳裏に蘇る度、死の記憶は一切風化することなく鮮明にロウトを苦しめる。

 まさに生き地獄である。記憶に潜む地獄に苦しめられ続け、死に逃げることは絶対に出来ない。再びあの苦しみを味わうのならばどんな手を使ってでも生き延びることを考える。

 その記憶と、生前の生活の記憶が、ロウトに里の者達との距離を感じさせていた。死ぬ前に暮らしていたことを忘れ、新しく里の者達と生活しろというのは無理な相談だった。

 重い溜め息を吐く。もう三年が経つ。ロウトは里の者達と一応の会話こそするものの今のように一人でいることが多く、実際顔を合わすのも面倒だった。

 沈んでいく陽に、空は赤く染まっている。ついさっき目を覚まし、顔を洗うためにこの川まで来たのだが、あまりの身体の重さにこうして寝転がってしまったのだ。

 三峯の里の人間は異様に夜目が利く。湧生地によってそうした身体的差異が現れるのもこの世界の特徴だった。なので活動の中心は主に夜で、昼間は寝ていることが多い。今起きたのも他の者達より少し早いくらいだった。

 胸の上に置いていた右手を顔の前に翳す。生前は骨ばってばかりいた手は、今では小さくふっくらとなっている。修練の結果出来た肉刺や擦り傷こそあれ、以前よりははるかに幼く可愛らしい手だ。

 自分の目で自分の全体像を見ることが出来なくてよかったと思う。生前のロウトはぼろぼろに窶れた二十七の男だった。それが今は十歳以上は若い少年の姿をしている。

 この肉体は実に奇妙で、生まれた時から成長した姿で、以降は爪や髪は伸びるが肉体は全く成長しない。そして何故か、この世界の者は皆若い姿をしている。人口からして死者全てがこの世界に来るとは考えにくいので、この世界自体が若くして死んだ者ばかりが集まる世界なのではないかという説があるらしいが、皆生前の記憶がないのだからそれを確かめる術はない。

 さらにこの肉体には消化器と生殖器が存在しない。故にこの世界の人間には食欲と性欲が存在せず、ロウトも空腹や劣情を感じたことはない。

 そんなことを頭ではわかっていても、生前の自分の姿という記憶がある以上、どうしても今の自分の姿が自分でないような気がしてならない。

 今、ロウトは影朧かげろうと呼ばれる三峯の里の秘術の修行に入っている。

 霊気れいきを用いた戦い方は生まれてすぐから学んできた。この島国には七つの里の土地以外に広大な面積が広がっており人口も少ないので領土の争いが起こることはまずなく、食料を巡る争いも絶対に起こることがないのだが、里を離れた野凶やきょうと呼ばれるならず者達が少なからず存在するため、どの里も戦力を保持している。

 三峯の里は深刻な人口減少に頭を悩ませていた。ロウトとロウカを入れても、総勢七人。これは他の里と比べても明らかに少ない人数だった。

 そのため、ロウトとロウカは霊気の扱い方を学ぶように言われた。数の多い里ならば霊気の扱いを修得するのは一部の者だけだが、三峯の里のようにごく少ない数の場合は全員が霊気の扱いを修得し、充分に戦える戦士とならねばならない。

 自分の身は自分で守らねばならない。ロウトは生き延びるために必死で霊気の扱いを学んだ。

 影朧は体内の霊気を大気中に流出させ、自分と同じ姿に具象化させる。昔から他の里よりも人口の少ない三峯の里の者達が少しでも数で張り合えるようにと編み出した、他に類を見ない特殊な術だ。

 この術は鏡を見ながら修行を行う。最初は鏡に映った自分の姿をなぞるように霊気を具象化させていき、慣れれば頭の中で自分の姿を思い描いてそれを具象化させる。

 ロウトは、この修行が嫌いだった。この世界の肉体は魂を元に形作られるが、生前と同じ姿にはならない。この自分の姿に慣れることが出来ず、鏡を見る度に困惑に襲われた。影朧は自分の姿を正確に認識しなければ修得は出来ない。だがロウトは鏡に映る姿を自分と認めることが出来ない。修行は一向に進まず、指導するゲリは首を傾げた。ロウトは霊気を使った歩法の修得が早く、足だけに関して言えば里の誰よりも上手に霊気を扱えたからである。

 ゲリは背の高い眉目秀麗と呼ぶのが相応しい男で、ことあるごとに三峯に注意をする気苦労の絶えない役割を担っている。怒ることはないが、滅多に笑うこともない。

 ゲリはロウトが全く進歩しないのは自分の指導が悪いのではないかと頭を悩ませ始めた。ロウトはそれを見ていたたまれなくなり、何度も悪いのは自分だからと謝った。これならば進捗が芳しくないことを聞いて冗談交じりにからかうフレキ、心配するスコル、だらしないと罵るハティ達の方がましだった。

 フレキはゲリと同じ湧生期に生まれた男で、ゲリとは対照的に明るくよく笑う。スコルとハティはゲリとフレキが生まれてから二年後の湧生期に生まれた。外見年齢は七歳くらいの活発な子供で、スコルが男でハティが女である。このスコルとハティというのも異国の神話の狼の名だということをロウトは三峯から聞いた。

 同時期に別の場所でフレキの指導で修行を始めたロウカは、既に輪郭まで出来ていた。ロウトはゲリに対して申し訳なく感じながらも、鏡の中の少年を自分と認めることが出来ずにいた。いつしかロウトは生前の自分の姿を想起するようになっていた。

 使える霊気が尽き、強烈な睡魔に襲われて修行は一旦終わるが、何度繰り返しても先には進まない。

 三峯がロウトの影朧修得は無理だと判断し、修行を打ち切ってはくれないだろうかと、ロウトは鬱々と考えた。この頃のロウトの精神は疲弊し切っており、現在でも少ない体力や腕力が著しく減退していた。立ち上がることさえ億劫に感じてしまう程に身体から力が抜け、精神もどん底だった。

 ロウトの方に向かって足音が近付いてくる。足音はゆっくりとしたものだったので火急の用ではあるまいとロウトは身体を起こさずにいた。

「ロウト」

 名前を呼ばれたが、それが自分の名前だと理解するまでに時間を要した。生前の自分の名前は忘れたが、未だにその忘れた名前が自分の名前だという認識があった。

 明るい笑顔が夕空とロウトの間に割って入った。声でわかっていたが、やはりロウカだった。

 ロウカはまだあどけなさが残る――この世界では永遠に消えない――が美しい顔を綻ばせている。初めに見た時は外見年齢が明らかに年下だと思っていたが、ロウトも少年の姿になっているので、傍から見れば兄と妹――というより身長が殆ど変わらないので年の近い姉と弟で通用する。生まれたばかりの頃は記憶がないことと慣れない世界に戸惑っていたようだが、今は里の者達とも打ち解け、毎日楽しそうに暮らしている。

 ロウトは漸く身体を起こし、川を眺めるように座る。ロウカは黙って隣に腰を下ろした。

「何か用?」

 川面に視線を送りながらそう訊く。

「スコルとハティと遊んでたら疲れちゃって。ちょっと休憩」

 笑いながら言って、ロウカはロウトの横顔に目をやる。ロウトはその視線を感じながらも依然川面を見つめたままだった。

「ねえ、ロウトも一緒に遊んであげてよ。私一人じゃ大変で」

「あいつらは、俺のことなんて何とも思ってないだろ」

 ロウカはそれを聞くと吹き出した。

「そんなことないよ。二人共ロウトとも遊びたいっていつも言ってる」

「そう――なのか」

 スコルとハティからそう思われているということは嬉しかったが、生前の記憶がその思いの邪魔をする。この世界の生活など嘘っぱちだと、記憶が言っている。どうしてもこの世界に嘘臭さを感じてしまい、慣れることが出来ないのである。

 沈黙が始まった。ロウトは頭の中を巡る生前の記憶に翻弄され、絶対に死の記憶だけは思い出さないようにと細心の注意を払っていた。

 長い間沈黙は続いたが、ロウカの声によって破られた。だがその声は、最初とは別人かと思わせるような沈んだ声だった。

「ロウトって、何か暗いよね。いっつも一人でいるし、あんまり喋らないし、里から離れてこんなとこにいるし」

「自覚はしてるよ」

 何の感情も含めずに返す。

 ロウカは逡巡するようにロウトの横顔を何度か見つめ、目線をロウトと同じ川面に移してから口を開いた。

「ロウトは、私のことどう思ってる?」

「どうって――」

 ロウカはロウトと同じ湧生期に生まれ、この世界のことを知り、一緒に霊気の扱い方を学んだ。だが、ロウトは自分とロウカ及びこの世界の者達は決定的に違うと信じて疑わない。ロウカには生前の記憶がない。対してロウトには生前の名前以外の記憶と、考えるだけで発狂してしまいそうな死の記憶がある。記憶がなければ、全くの新しい自分としてこの世界で生きていくことが出来る。この世界への湧生を出発点とすることが可能なのである。ロウトがロウカに抱いていた感情は、記憶がないことへ対する嫉妬と羨望だった。同じ湧生期、同じ湧生地で生まれたことが、さらにその思いを強めていた。だがそのことを伝える訳にもいかず、ロウトは沈黙した。

「私はね、家族だと思ってる」

 家族。そんなものは生前になくしている。そして何もなくなった後で、ロウトは死んだのだ。

「私とロウト、ゲリ、フレキ、スコルとハティに三峯。七人で家族。変かな?」

「確かに、俺とロウカは兄弟みたいなものだけど――」

「だけど?」

 いきなり――と言ってももう三年が経っているのだが――ハイこれが新しい家族ですと言われて、生前の家族の記憶があるというのにそれを認めることが出来るだろうか。

 ロウトは言葉を続けることが出来ずに押し黙る。ロウカは無理に訊こうとはせずに一緒に口を閉ざした。

 再び沈黙。ロウトは隣にロウカがいることを半ば忘れて、水の流れる音を聞いていた。

「ロウトは、何を苦しんでるの?」

「――何のことだ」

「ロウトの身体、おかしいでしょ? 霊気が乱れてるって三峯が言ってるし、どんどん体力が落ちてることにはみんな気付いてる」

 ロウトとロウカは互いに刀――練習用の竹を切り出しただけの無骨な竹刀――を交えることが多い。決まって先に膝を着くのはロウトの方だった。その少ない体力が持つ時間が日増しに減少しているのである。毎日修練は欠かさないので、考えられるのは精神的疲労による霊気の乱れが肉体に悪影響を与えていることだけだった。

「私ね、最初は怖かった。自分が誰だか全然わからなかったし、他にもわからないことばっかりで。でも、だんだん自分はこの里の一員なんだって思えるようになってきたの。里のみんなの、家族の中にいることが安心出来て、楽しくて。だから、ロウトがもし自分のことがわからないなら、きっとみんなが、私が一緒にいて――」

「違う」

 静かだが重みのある声でロウトはロウカの言葉を遮った。ロウカへの嫉妬と羨望が、怒りへと姿を変えてロウトの中で渦巻く。ロウトはもはや我を忘れていた。

「ロウト?」

「違うんだよ。俺は――ロウトなんて名前じゃない!」

 この世界に生まれて、ロウトが声を荒らげたのはこれが初めてであった。

「俺には名前があったんだ。それが――思い出せない」

 魂が世界を移動する際、魂に含まれる記憶は「破壊」される。思い出せなくなるのではなく、完全になくなるのだ。それはロウトの名前に関する記憶にも同じことが言えた。だが、ロウトは決して思い出すことが出来ない名前を思い出そうと記憶の海に溺れる。名前を、忘れた名前を思い出すことが出来れば、自分を強く保つことが出来るのではないかという思いがロウトを支配していた。それが却って己を苦しめるのだということは頭ではわかっていたが、どうしても止められなかった。

「助けてはあげられないかもしれないけど」

 狂い出しそうな頭に、その声は痛い程に優しく響く。

「一緒にいることは出来るよ」

「ロウカ――」

 ロウトはそこで漸くロウカの方へと顔を向けた。ロウカは静かに微笑している。慈愛に満ちた目を見てしまうと、もう言葉を止めることは出来なかった。

「俺の話を聞いてくれるか?」

「うん。話して、全部」

 ロウトは空を仰ぎ見て、重い息を吐いた。今ロウカの顔を見ないのは拒絶ではなく、すぐ近くにいるという安心があったためだった。

「俺には、前世の記憶があるんだ」

 驚く素振りを見せないロウカの言葉を待たず、ロウトは全てを吐き出していく。

「俺は今じゃこんな格好だが、死ぬ前はボロボロに窶れた二十七の男だった。それが火に焼かれて死んだ。ロウカは忘れただろうが、死ぬっていうのは苦痛なんてもんじゃない。地獄だ」

 死の記憶が浮き上がってくる。ロウトは頭を抱え必死に記憶に抵抗した。

「思い出す度気が狂うんじゃないかと思う。いや、いっそ気が触れた方が楽なんだろうな」

 全身が痙攣し、指に押さえている頭を砕いてしまうのではないかという程の力が入る。

「俺は――」

 ロウカの顔を絶望で染まった目で見つめ、言葉に詰まる。

「いいよ。全部言って」

「俺は、ロウカが妬ましい。羨ましい。どうして俺にだけこんな記憶がある? 同じ死人なのに、ロウカは全部忘れて、俺には記憶が、名前以外の全ての記憶が、あの死の記憶がある。おかしいだろ。何でなんだよ。俺はロウカが嫌いだ。記憶をなくしたこの世界の奴らが嫌いだ。こんな、俺を除け者にする世界が嫌いだ」

 頭を抱えたままうなだれ、思いをぶちまけてしまった自分への嫌悪感で押し潰されそうになった。

「でも、ロウトはロウトだよ」

「俺はそんな名前じゃない」

「今はロウトでしょ。過去の全てを合わせて、今ロウトはここにいる。今この世界で生きているっていう事実は変わらない」

 世界は広いよね――空を、恐らくはそのさらに先を見上げてロウカが嘆息する。

「三峯に聞いたけど、この川の先の海はやっぱり広がっていて、その先には言葉の違う人達が生きているんだって。この空の先には宇宙があるのかな? はーあ。私達ってこの世界だけで見ても塵みたいなものだよね」

 楽しげに笑い、ロウカは依然うなだれたままのロウトに視線を投げかける。

「だから、世界はロウトを除け者にしたりしない。だってロウトなんて世界から見れば軽ーいものだもん」

「ロウカは、俺を苦しめたいのか?」

 照れるように笑って、ロウカは首を横に振った。

「ううん。ロウトも私も大きな目で見れば軽いってだけ。私にとっては、ロウトは一緒にこの世界に生まれた大切な人だから。今のロウトの悩みも、だから私にとっては大問題」

 ロウトはそこで初めて、本当の意味でロウカを見た。血の繋がりという概念がないこの世界で、ロウカは同じ湧生期というものを心のよりどころにしている。それは湧生期に一人も生まれないということがもはや当たり前となっており、極端に人口の少ない三峯の里という場所に生まれたことが強く影響しているのだろう。そしてロウカはこの世界の人間が殆どそうであるように生前の記憶を持たず、右も左もわからない暗闇の中に放り出されたような不安を覚えたはずだ。里の者達と関わっていくことで光を得たが、完全に打ち解けるまでの間、ロウカにとって一番の光明は同じ境遇だと思われるロウトの存在だった。同じ、世界に怯え、世界に驚き、世界を学んでいく仲間であるロウト。自分は一人ではないと思えることが、何よりもロウカの支えになった。だからこそ、ロウカにとってロウトは大切な存在であり、一歩踏み入って苦悩を聞き出そうとしたのだ。

 そしてロウトも同じである。ロウカに対しての嫉妬と羨望は、同じ湧生期に生まれたということが根底にあり、それは裏を返せばロウカのロウトに対する感情と同じものなのだ。だからロウトは誰にも話すことが出来なかった苦悩を打ち明け、こんな無様な姿を晒している。

「ロウトに前世の記憶があるって聞いても、私はやっぱりロウトのことをロウトだと思ってる。それでいいじゃない」

「違う――俺は――」

 この世界を、この世界での自分を認めてしまったら、もう二度と戻れない。だからロウトは否定し続ける。目を閉じ、耳を塞ぎ、過去の自分にすがり付いていく。

「認めて。この世界は確かに存在している。『ロウト』も、今ここにちゃんといるよ」

「俺は――」

「あなたは」

 ロウカはそこで初めてロウトのことを名前ではなく『あなた』と呼んだ。

「あなたはあなたでしかない。そしてあなたは今ロウトなの」

 戻ることなど、最初から出来ない。どこに戻ろうとも、今の自分は結局自分そのものでしかない。

 ならば――。

「認めれば、いいのか」

 過去には戻れない。失った記憶は戻らない。生きるしかないのならば、過去の自分を認めた上で、今の自分を認めればいい。それはやはり、自分なのだから。

「ロウカ」

 目を合わせる。ロウカはやはり優しく微笑していた。

「ありがとう」

 そう言うと、急にロウカの目に涙がいっぱいに溜まり、慌てて目を拭った。

「よかったあ……。私なんかで、ロウトの悩みをどうにか出来るのかってずっと不安だった……」

 感極まり声を震わせながら、恥ずかしそうに笑みを見せる。ロウトはしかし、真っ直ぐにロウカの涙が溜まった目を見る。

「すまない。でも、おかげでわかったよ。俺は俺だ。なら、俺は――ロウトだ」

 ロウカは静かにロウトの胸に顔を埋め、ロウトはそれを何も言わずに受け入れた。

「うん。よかった――」

 長い間ロウカはロウトの胸の中で静かに涙を流し、涙が収まると目の周りを拭って顔を上げ、ロウトの顔を見据えた。

「ロウト、約束してくれない? 私にだけは、何でも全部話してくれるって」

 真っ赤な目でそう言われ、ロウトはすぐにそれに応えた。

「わかった。約束する」

 ロウトが小さく笑うと、ロウカも安心したように笑った。

「ロウトぉ、ロウカぁ、どこー?」

 遠くから声がし、小さく駆けてくる足音が聞こえてきた。

 木々の間から、小さな子供が二人現れた。

「ああ、よかったぁ。ここにいたんだぁ」

 男の方、スコルは笑ってロウカの許に駆け寄った。

「ロウト! あんたもうすぐ修行でしょ! 呼ばれなくてもちゃんと来なさいよだらしない。おかげであたし達が呼びに来なくちゃならないじゃない」

 女の方、ハティはロウトに詰め寄りながらまくし立てる。

「もうそんな時間か。悪かったな二人共」

 微笑しながら答えるロウトにハティは面食らう。普段ならばハティが注意するとげんなりと萎んでしまうので、違う反応を示されると調子が狂ってしまう。

「ロウカ、どうしたの? 目が赤いよ」

 スコルの声がたじろいだハティに助け舟を出した。ロウカの方に目を向け、状況を理解する。

「ロウト――あんたロウカを泣かしたの?」

 ハティが怒りを露わにしてロウトを問い詰めると、ロウトは答えに詰まって小さく呻き声を上げた。それを見てハティはいつもの調子を取り戻す。

「最っ低! あんたがそんな酷い男だとは思わなかった!」

「ハティ、これは違うの」

 ロウカが笑いながらハティを制した。

「嘘! その目、明らかに泣いた後じゃない」

「これはね、目にゴミが入ったの」

「両目に?」

「うん。両目に。それで涙が止まらなくて、ロウトに助けてもらってたの」

 ハティは疑わしげに二人の顔を見比べる。ロウカは楽しげに笑い、ロウトはバツが悪そうに目を逸らしているがその顔には笑みが浮かんでいる。

「いいわ。ロウカに免じて許してあげる」

 信じた訳ではないのかとロウカは苦笑した。実際、ロウカが泣いていたのは確かなのだが。

 ロウトは修行に向かうために立ち上がる。身体が先程までと比べると信じられない程軽く、ロウトは驚いた。

 四人で並んで歩いていると、子供二人に挟まれて歩いていたロウカが両隣に向かって話す。

「二人共、これからはロウトも一緒に遊んでくれるって」

「本当?」

 スコルは目を輝かせて喜んだが、ハティは鼻を鳴らした。

「ロウト、あんた身体は大丈夫なの?」

 ハティがすぐ隣で歩いているロウトを見上げてぶっきらぼうに訊く。

「なんだ、心配してくれてたのか」

「違ーう! あんたみたいな貧弱な奴があたし達に付き合えるのかって訊いてんの!」

 ロウトはそれを見て声を上げて笑う。ハティは明らかに普段と違うロウトに戸惑いと幼稚な怒りを覚えながらも、これが決して悪い変化ではないということに気付いていた。

「今はもう大丈夫だ」

 そこで目線を上げ、ロウトはロウカと目を合わせた。ロウカはにっこりと笑いロウトも小さく笑い返す。

 その様子を見たスコルは首を傾げ、ハティは訳がわからず声を上げた。

「一体何があったのよ?」

 二人がそれに曖昧に答えている内に、四人は里に着いた。家のある辺りから離れた、木の生えていない開けた場所に姿見が置かれ、ゲリとフレキが立っていた。

「あれ? フレキ、何でここに?」

 ロウカが訊ねる。影朧の修行ではロウトとロウカはそれぞれゲリとフレキが別々に離れた場所で指導する。

「ゲリにロウトの様子を見てくれって泣きつかれちまってな」

「泣いてはいない」

 ロウトはそれを聞いて、ゲリが本当に追い詰められていたのだということを痛感した。そしてゲリはフレキに頼み込んでまでロウトの影朧を完成させようとしてくれている。影朧の修行が中断してくれればいいと思っていた自分が、酷く恥ずかしくなった。

「ゲリ、すまなかった」

 ロウトはそう言って頭を下げる。

「どうしたっていうんだ」

 ゲリは驚いてロウトに頭を上げさせた。フレキも、先程から変化を感じていたスコルとハティもやはり驚いていた。

「ゲリの指導は間違ってなんかいない。悪いのは全部俺なんだ。だから、いつも通り修行を始めてくれ」

 ゲリは少し考えるように唸ったが、ロウトの真剣な眼差しを見て言われた通りに自分が指導することに決めた。

「一応確認だ。影朧において最も重要なのは、自分の姿をしっかりとイメージすること。そのための鏡だからな。前に立て」

 ゲリとフレキは帯刀している。これは影朧が出来た場合、存在し続ける限り術者の霊気を奪っていくからだ。影朧は自在に動かせるようになるためには、作り出すことよりも長い修行を必要とする。影朧はある程度の傷を受ければ消滅するので、影朧を消すために指導する者が刀を振るうのである。しかし今までゲリが刀を振るったことはない。

 ロウトは深く息をして鏡の前に立った。ゲリのためにも、そして自分のためにも絶対にこの場で結果を残すという固い決意があった。

 ――俺は俺だ。

 ならば、今鏡に映る少年こそ自分である。

 ロウトは真っ直ぐに鏡に映った姿を見据えた。迷いはもうなかった。以前に鏡に映った姿を見た時に湧き上がる戸惑いや嫌悪感も今はない。

 霊気を体外に流し、鏡に映る己を頭の中で形作る。

「な――」

 ゲリが驚愕の声を上げる。

 ロウトの前には、全く同じ姿をした影朧が立っていた。

「出来――た――」

 身体から凄まじい早さで霊気が抜けていく。ロウトは思わず膝を着き、地面に崩れ落ちる。

 ゲリが素早く抜刀し、ロウトの影朧の首を刎ねる。あっという間に影朧は霧散し、霊気の流出が止まった。

「まだまだ未熟だな。霊気の量を上手くコントロール出来ていない。だが、今までの結果からすれば充分だ」

 やれば出来るじゃないかこの野郎――ゲリは満面の笑みでロウトを称えた。

 ロウトは滅多に見せないゲリの笑顔に驚きながら、重い頭を持ち上げて笑みで返す。ゲリを笑いながら小突くフレキ。手を取り合って喜ぶスコルとハティ。そして、ロウトを見つめながら笑うロウカ。

 その顔をいつまでも見ていたいと思った。全てロウカのおかげだ。どれだけ感謝しても足りない。

「ありがとう」

 霊気を失い朦朧としている意識の中、何とかそれだけを口にして、ロウトは目を閉じた。

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