八幡と稲荷と前世持ち

 そろそろ薄暗くなる外を窓越しに眺めながら、八幡は手に持った拳銃を弄くっていた。

 八幡の里はその製鉄技術と鍛鉄技術を用い、かなり昔から自里のみで使う銃を生産している。しかし硝石の生産方法がないことから、火薬を用いた銃ではなく、霊気の力を使ったものになっている。

 鉛の生産も盛んではないことから、銃弾は霊気を弾丸の形に具象化させたもの。それを撃ち出すのに、圧縮した霊気を用いる。

 銃の構造は至って単純で、今八幡が弄くっている現在里で一般に使われているタイプの拳銃で言えば、引き金のすぐ上に弾倉があり、その奥に発射薬代わりになる霊気を流し込み溜めておく狭い空間が開いている。撃鉄はなく、引き金を引くと薬室の圧縮された霊気が解放され、その勢いで銃弾の霊気を撃ち出す。

 弾の速度、殺傷力とも火薬を用いた銃には劣るが、霊気さえあれば銃以外に道具を必要としない。

 八幡は物憂げな表情で、手に持った拳銃に霊気を込めてみる。弾丸となる霊気の具象化は、弾倉の形をイメージしてそれをなぞるように霊気を形にしていく。薬室には無理矢理押し込むように霊気を流し込み、さらにそれを次に流し込む霊気で押し潰すイメージだ。

 発砲出来るようになるまで、およそ三十秒。

 やはり、遅い。

 戦闘となれば、当然何度も発砲しなければならなくなる。八幡の里の戦い方で重要なのは、いかに素早く霊気の弾丸と発射薬を装填するかである。

 それが、八幡はあまりにも遅い。

 八幡は里長である。いざという時は里の者達を守る役目を背負い、同時に彼らの上に立って指示を出さなければならない。

 ところが、八幡はてんで弱っちいのである。

 しかし里の者達は八幡に従う。頼りない、使えない長でも、命をかけてその言葉に従うのだ。

 いっそ弱い役立たずだと謀反を起こしてくれた方が気が楽だった。何故稲荷の里のような里長の選び方をしないのだろうと疑問を抱くことも多い。

 八幡は今閻魔宮の一室にいる。一昨日入った愛宕が厭奴に堕ちたという報に、各里の緊張は高まっている。

八幡の里は人口は最も多いが、霊気を扱える者の数はそれ程多くない。そこで八幡は一昨日ここに里長が集まった時、春日に何人かを八幡の里の警護に就けてはくれないかと頼んだ。

 春日は三十人までだと言い、八幡もそれでその場は納得した。しかしよくよく考えてみれば広大な八幡の里の警護のためにも、後少しだけ人員が欲しかった。

 しかしそのことに気付いた時には、春日はもう自分の里に戻っていた。春日のことだから恐らく今から言っても頑として発言を覆さないだろう。

 そこで八幡は里を離れて閻魔宮に向かっている諏訪の里の者達にこの話をもちかけることにした。諏訪の里は三峯の里の次に人口が少ないが、三峯の里と同じく全員が霊気の扱いを修得した強力な戦士である。使いの者を諏訪の里に向かわせ、返事は了承の旨だった。そこで八幡は閻魔宮に残ることにした。諏訪の里とは良好な関係を築いてはいるが、そこはやはりきちんと迎えなければならない。八幡の里と閻魔宮は近く、何かがあればすぐに里に戻ることが出来る。

 しかし、諏訪の者達は未だに閻魔宮に姿を見せない。道中野凶に襲われたのかという考えも頭をよぎったが、彼らならば野凶が何十人束になってかかってきても軽くやりすごすことが出来るはずだ。

最も恐れなければならないのは当然愛宕の襲撃ということになる。八幡は一昨日に話を聞くまで厭奴という名を知らなかったが、説明を聞けば厭でもその恐ろしさがわかる。

 ふと、外を人影が駆けていくのが見えた。この部屋は正面入り口の様子が窺えるようになっている。八幡の者は夜目がまるで利かないが、この程度の暗さならばまだ人影を確認することは出来る。

 八幡は部屋を出て、広大な板張りの廊下を歩いていく。閻魔宮は恐ろしく広く、何度もここを訪れている八幡も全体像が全く掴めていない。建築様式も混在しており、今歩いている廊下は板張りになっているが石造りだったり絨毯が敷かれている場所もあり、部屋の内装も種々様々だ。

 家が一つ建つのではないかと思われる程広い玄関ホールに出る。ここは木で出来た壁と床一面を覆う大理石が特徴的な、日本旅館の玄関のような雰囲気の空間である。ただあまりの広大さから情緒らしさはあまり感じられない。

 右肩を押さえた背の高い男が八幡を見ると駆け寄ってきた。八幡が最も信頼を寄せる側近、キュウシである。里で一番の使い手で、里周辺の警備を任せてある。

「八幡、まずいことになった」

 見れば押さえている肩からは血が溢れている。

「肩、どうした」

「いや、これは今はいい。すぐに塞がる」

「見せてみろ」

 無理矢理手をどかし、傷口を見る。鋭利な爪で切り裂かれたように狭い間隔で三本の傷が見える。

「待っていろ。すぐに治療する」

 八幡は傷の上に手を置き、そこから霊気を流し込む。手をどけると、既に傷口は完全に塞がっていた。

「やっぱり、あんたこそ八幡だよ」

 キュウシはそう言ってわずかに笑う。

 八幡の霊気は、別の人間の体内に入ると相手と同じ波長になるという特殊なものだった。これにより相手に霊気を流し込み、傷を急速に回復させることが出来る。この力のため八幡に選ばれたのだが、呪いをかけることは出来ず、霊気の具象化が緩めば相手に霊気を分け与えてしまうためあまり攻撃にも向かない。

 なのでその言葉に対する思いは外に出すことなく、冷静にキュウシに訊く。

「それより、何があった」

「ああ。俺が里の外を見回っていると、血塗れの服を着た男――見た目はかなり若かったな――が『愛宕はどこだ』と訊ねてきた。腰に刀を下げていたから春日からの野凶だと思って、俺はすぐにここから立ち去れと忠告した。するとそいつは、いきなり斬りかかってきた」

「それでその傷か――。しかし刀傷には見えなかったが」

「そいつは刀ではなく、手の先に爪のように具象化させた霊気で攻撃してきたんだ。俺は霊気による攻撃は何度も受けてきたが、その時の感覚は全く別物だった。恐らくあれは、厭気だ」

「厭奴か!」

 場違いな溌剌とした声が響く。声のした方を見ると、にんまりと笑みを浮かべた少年がこちらに歩いてきていた。

「コ――」

「稲荷だ!」

 憤慨したように鼻息荒く訂正する。

 一昨日、先代の稲荷が急逝した。閻魔宮での会議を終え里に戻り、全員で閻魔宮に向かおうとしていた矢先の出来事だったという。里は大いに混乱したが、既に後任にはこの少年が決まっており、即座に稲荷の名を継いだ。そして全員がここ閻魔宮に避難し、現在ではその無数にある部屋を使って生活している。

「すまない。まだ慣れていなくてな」

「まあ、オレもそうだけどよ」

 言ってから破顔し、即座にその頭を何者かに引っ叩かれた。

「全くもう、もうちょっと稲荷としての自覚を持ちなさいよ。ごめんね八幡、こいつアホだから」

「ってえなサコ! テメーは里長を敬うっつう気持ちがねえのか!」

「あんたみたいなアホが里長じゃそんな気は微塵も起きないわ。ホント、コギョウの苦労が痛ましい。それで、厭奴って聞いて飛び出したってことは――」

 サコが溜め息を吐いて稲荷を横目で睨むと、当の稲荷は胸を張った。

「わかってんじゃねえか。その厭奴、オレがぶちのめす!」

 八幡が怪訝な顔をする中、キュウシが咳払いをして口を開く。

「確かにその厭奴らしき者は取り逃がした。だが、奴は本当に厭奴なのか? 聞けば厭奴は周囲に厭気を撒き散らすというじゃないか。奴の具象化した武器は恐らく厭気だろうが、それ以外は――」

「うふふふふ、それはなりかけだねー」

 八幡のすぐ後ろで声がし、驚いて振り向くと身体が触れるぎりぎりの近さにサングラスをした男が不気味な笑みを浮かべて立っていた。すらりと背は高く痩せ型だが、明らかに無駄なくねくねとした動きを見せている。

「ロキ――驚かすな」

「だって八幡ちゃんのびっくりした顔可愛いんだもーん」

 軽口を叩くのはいつものことだったが、脅しのつもりで銃を抜こうとする。しかし腰に差していたはずの銃が見当たらない。

「ばーん」

 額に冷たい鉄の感触があった。見ればロキが手に銃を持ち、銃口を八幡の額に押し当てている。この男は武器の類は何も持っていなかった。つまりこれは八幡の物だということになる。

 ロキはけらけらと笑いながら謝り、銃を八幡に投げて渡した。八幡は本気で怒ろうかとも思ったが、この男には何を言っても無駄だということは知っていたので大人しく銃を腰に差した。

「ねえコ――稲荷、誰? あいつ」

 サコに訊かれ、稲荷は言い間違えそうになったことを叱責してから説明する。

「閻魔宮で暮らしてるロキっていう前世持ちだ。確か三峯の里の出身らしいが、とにかく変な奴。前世持ちってのはみんなああなのか?」

「それは違うよ」

 耳聡く二人の会話を聞き取り、相変わらず緊張感のない声で言う。

「今の言葉、三笠(みかさ)や優香(ゆうか)ちゃんが聞いたら悲しむよ。僕がたまたまこういう性格をしてるだけで、前世持ちは記憶があること以外は君達と変わらない人間だっていうことは覚えておいて欲しいな」

「――悪かった」

 稲荷が謝ると、ロキは声を上げて笑う。

「まあそれも、僕がこんな態度なのが悪いんだけどねー」

 稲荷が一気に脱力する。サコは乾いた笑みをこぼすと共に、稲荷を完全に手玉に取るこの男の底の知れなさに目を丸くした。

「それで、そのなりかけというのはなんだ?」

 キュウシが訊くと、ロキは相変わらず笑みを浮かべたまま口を開く。

「厭奴になるには、段階があるの。その相手は多分まだ厭気を取り込んで間もないんじゃないかなー? その段階ではまだ自分の感情を厭気に変換することが出来ないから、厭気を撒き散らすこともない訳。まあでも厭気を扱えるから霊気としての総量は僕らの比じゃないけどねー」

「放っておくとどうなる」

「体内の厭気により深く侵食されて、完全な厭奴になっちゃうだろうねー」

「決まりだな」

 キュウシは踵を返し、入ってきた開け放たれた玄関から外に向かおうとする。

「キュウシ、どうするつもりだ」

 八幡が心中の不安を出さないように気を付けながら訊ねると、キュウシは立ち止まって八幡の方を向いた。

「そいつが完全な厭奴になる前に始末する。愛宕以外にも厭奴が現れたら今以上に混乱するぞ」

「まあまあ待ってよ」

 八幡が引き止める前にロキがキュウシを制した。

「厭気で覆われた愛宕の里の周りは各里の見張りがついてるから、中に入ることは不可能だよね。つまりこの状況で厭奴になるには、厭気を撒き散らしてる愛宕とよっぽど密接に接触しなくちゃならない。その相手、愛宕の情報を持ってるんじゃなーい?」

 確かに愛宕は完全に行方知れずになっている。危険であり、すぐにでも排除しなければならない存在なのだから、少しでも情報が得られるに越したことはない。しかし――

「厭奴に堕ちたような奴とまともに話が出来るのか?」

 キュウシが八幡の考えを代弁する。ロキはあっさりと「無理だろうねー」などと言う。しかしすぐに恐ろしく不気味な笑みを浮かべ、「でもね」と舌なめずりをする。

「その段階ならまだ、体内の厭気を全部外に出せば元に戻れるはずだよ」

「そんなことが可能なのか?」

「普通に考えれば無理だねー。いくら厭奴でも自分の霊気を全部使うなんて馬鹿なことはしないだろうし。だ、け、どっ」

 ロキのサングラスに隠された目が、はっきりと八幡を捉えた。八幡は思わず全身が粟立つのを感じた。

「外から許容量を超える霊気を流し込めば、厭気は自然に外に出てく――はずだよ」

 キュウシとサコの目が八幡に向き、暫く遅れて稲荷が納得の声を上げた。

「ああそうか! 八幡がそいつに無理矢理霊気を流し込んで正気に戻せばいいのか! 浄化だな。ジョーカ」

 稲荷は外を見て殆ど闇に覆われていることに気付く。これでは夜目の利かないキュウシは捜索に出ることが出来ない。

「よしサコ、霊気の扱える奴を何人か集めてくれ。その厭奴を捜し出して、ここに引っ張ってこい。オレがそいつをぶちのめして、八幡が浄化する。我ながら完璧な作戦!」

「全く、また勝手にそんなこと言って。あんたはいいとして、八幡の同意は? ある意味八幡が一番危険じゃない」

 二人がこちらを向き、八幡は危うくたじろぐ素振りを見せるところだった。しかしすんでのところで表面だけは平静を保ち、声が震えないように無理に腹に力を入れる。

「愛宕の情報を引き出せるのなら協力しよう」

 ロキがほくそ笑むのが見えた。この男の言う愛宕の情報云々はただの建前にすぎない。実際のところは自分の仮説が正しいのかどうかを確かめたいだけなのである。

「っしゃあ! ならいいか、お前らは手を出すなよ。オレが一人でぶちのめすんだからな」

「ホント、あんたが里長で先が不安だわ」

 サコは大きく溜め息を吐き、稲荷の者達が暮らしている区画の方に走っていった。

 程なくしてサコを含めて六人の精鋭が集められた。しかしその中の一人を見て、稲荷の表情が一気に歪む。

「稲荷――どういうつもりかきちんと説明してもらおうか?」

 先代の稲荷の側近として共に閻魔宮に来ていたので、八幡はこの男をよく知っていた。

「おいサコ! なんでこんな面倒くさい奴に声をかけたんだよ!」

「たまたまよたまたま。ま、精々絞られなさい」

 額を合わせて言い合う二人を睨み、コギョウが咳払いをする。稲荷はサコに強い視線を送ってからコギョウと向き合う。サコは密かに稲荷に向かって舌を出していた。

「コギョウ――テメー里長の命令に逆らうのかよ……?」

 強気を全面に押し出すことはなく言う稲荷を見て、コギョウは鼻を鳴らす。

「いいか、閻魔宮に厭奴をおびき出すということは、ここに暮らす者達を危険に晒すことになるんだぞ。わかってるのかこの阿呆が」

「わかってんよ。だけどコギョウ、テメーは一つ重大なことを忘れてるぜ」

 眉を顰めるコギョウに対し、漸くいつもの調子に戻った稲荷が大きく胸を張る。

「オレは、強い」

 これは利いたようだった。コギョウは力を抜くように息を吐き出し、稲荷の頭の上に手を置いた。

「ああ、お前は強い。だから考えろ。どうすれば里の者を守れるか」

「いててててて!」

 どうやらコギョウは稲荷の頭を指で強く締め付けているらしい。よく見れば稲荷の足は地面から浮いている。

「ってえんだよ――この!」

 稲荷は思い切り拳を放とうとするが、その前にコギョウは稲荷を放り投げた。稲荷は瞬時に受け身をとり、忌々しげな目でコギョウを見上げる。

「言っただろう。お前の愚行を止めるのは俺の役目だ。少しは頭を使ってみろ」

「――わあったよ。じゃあ閻魔宮から離れた場所に野営を張る。お前らはそこに厭奴を連れてこい。オレがぶちのめす」

「いいだろう。まずは野営地を決める。火の用意を忘れるな」

 コギョウは素早く他の五人に指示を出し、十分も経たない内に用意が完了した。

「八幡ちゃん、夜道は危ないから気を付けるんだよー」

 手に持った松明を左右に振りながらロキが言う。野営地を見つけるために夜道を歩いているのだが、稲荷の者は三峯の者程ではないが夜目が利くため、松明は持っていない。ロキは三峯の里出身なので松明など全く必要ないのだろうが、夜目の利かない八幡と、それにつき従うキュウシのためだと言って自分から持ってくれていた。しかし八幡はどうしてもその裏に何かあるのではないかと勘繰りたくなってしまう。

 周囲を木々に囲まれた少し開けた場所を野営地に決め、まずは周囲から枯れ木を集めて火打石で火を熾す。

 火が安定したところで、稲荷の里の六人が二人一組になって散開する。

 八幡、キュウシ、ロキ、稲荷は彼らが厭奴を見つけるのをひたすらに待つことになる。茣蓙は持ってきていたが、そこに腰かけるのはロキ一人だけだった。

 八幡は動悸を覚えながら、必死に自分を落ち着けようと努めていた。

 稲荷はいい。里で一番強いのだから、他の者達に対する説得力も最も強い。現に稲荷を止めると言っていたコギョウでさえ結局稲荷の言葉に従っている。やはり強いということはそのまま信頼に繋がっていく。八幡は駄目だ。所詮ロキの実験体にしかなりえない。

 篝火の前に立ち、揺れる炎をぼんやりと見つめる。

「八幡、霊気は大丈夫か?」

 キュウシが静かに隣で訊く。自分の傷を治すために八幡が霊気を使ったことが気にかかっているのだろう。

「平気だ。ただ――」

「不安か?」

 周りに聞かれないよう、声を潜めてキュウシが言う。八幡は小さく頷いた。いつも隣にいるキュウシにだけはどうしても弱音を吐いてしまう。

「大丈夫だよ。あんたは八幡なんだから」

 キュウシの言葉に、八幡は一層肩が重くなるのを感じた。キュウシも他の者達も、八幡が里長であることに疑問を持つことはない。それがむしろ八幡の苦悩を増大させているのだということを彼らは知らないし、八幡から明かすことも出来ない。

 二時間程経った頃、サコが野営地に戻ってきた。

「遠くからだから人相まではわからなかったけど、まず間違いないと思う。コギョウが接近してこっちに誘い出すからって」

「よし、じゃあテメーは他の奴らに連絡してくれ。まだ走れるか?」

「当たり前でしょ」

 一発稲荷の頭を引っ叩いてから、サコは再び闇の中へ駆けていった。

「いよいよだねー。八幡ちゃん、準備は出来てる?」

 不意に後ろから声をかけられ、八幡は思わず前に飛び退きながら声の方を振り向く。ロキが口元をにんまりと歪めていた。

「――ああ」

 この様子だとキュウシとのやり取りも聞かれていたのではないかと不安になる。

「ん? 来たみたいだね」

 ロキは視軸を篝火の反対側に傾ける。いくら篝火が焚かれているとはいえ、八幡の目ではこの闇の奥まで見通すことは出来ない。

「コギョウ!」

 稲荷が声を上げ、闇の中に駆けていきそうになるのをロキが制す。するとロキは一瞬で前に駆け出し、全身に傷を負ったコギョウを背負って戻ってきた。

「すまん稲荷――後は頼む」

 ロキがコギョウを茣蓙の上に寝かせると、八幡はすぐに治療しようとそちらに向かおうとする。しかしいつのまにか前に立っていたロキに遮られてしまった。

「八幡ちゃん、自分の役目わかってる? 霊気を大量に使うことになるんだから、他のことに使おうなんて考えないの。あの程度なら死にはしないから大丈夫。それに、もう来たみたいだしね」

 ロキがコギョウの来た方を指し示す。

「嘘だろ――」

 未だ八幡には姿が見えないが、稲荷とロキにはもう見えているらしかった。奇妙なのは、稲荷が激しく動揺していることと、ロキが今まで一度も見せたことのない表情をしていることだった。

 稲荷は動かず、厭奴は篝火の範囲内に足を踏み入れた。真っ白だったはずの経帷子は血で赤黒く染まり、その華奢な身体を覆っている。身長は八幡よりも低く、顔も若い。しかしその目からは凄まじい憎悪を滲ませている。八幡はその目を見た途端、腰が抜けそうになった程だ。

「あの刀――これは――参ったな」

 ロキが小さく呟く。腰には確かに刀が下がっている。八幡はその形状から、どこの里のものか判別出来た。

「おい、冗談だろ?」

 稲荷が厭奴に向かって声をかける。

「ほら、オレだよ。お前ら前に里に来ただろ? そん時ずっと一緒だったじゃねえか」

 厭奴は何も言わず、ただ瞳に憎悪を滾らせている。

「なんとか言えよ! なんでテメーが厭奴になってんだ! ロウト!」

「うるさいな」

 ぞっとする程冷たい声。

「邪魔だ」

 一歩踏み込むと、既にロウトは稲荷の眼前に迫っていた。腕を振りかぶり、その拳の先から伸びる三本の霊気の爪で稲荷の頭を狙う。

「っぶねえ!」

 すんでのところで後ろに跳んでいた稲荷は先程より幾分落ち着いた目でロウトを見据える。

「そっちがその気なら、こっちもその気でいかせてもらうぜ」

「なるほど、彼がロウトか」

 ロキが抑揚のない声で呟く。いつも大げさにべらべらと喋るだけに、八幡はこの男が動揺しているのだということがわかった。

 あの刀は、三峯の里へ渡しているものだ。

 ロキは三峯の里に生まれた。前世持ちだということが露見し、本来ならすぐに閻魔宮に隔離されるはずだったのだが、当時の里長の意向で十年程里で暮らしたのだという。今の三峯とは同じ湧生期に生まれ、今でも親密な関係が続いている。

 この少年が厭奴となっているということは、まず間違いなく三峯の里に愛宕が訪れていることになる。ロキにそれが意味することがわからないはずはない。

「稲荷」

 この男にしては珍しい、落ち着いた声だ。

「すぐに片付けてねー」

 しかし次の瞬間には、もう普段の緊張感のない調子に戻っていた。

「当ッたり前だ」

 稲荷は右手で拳を作り、一気に駆け出す。

 瞬時にロウトの懐に入り、腹に一発強烈な拳を見舞う。ロウトの身体が僅かに浮く程の一撃だが、攻撃の手を緩めることなく次々に拳を撃ち込んでいく。止めとばかりに回し蹴りで吹き飛ばし、勝ち誇った笑みを浮かべる。

「っしゃあ終わり! 後は頼むぜ八幡」

 そう言って八幡の方を振り向こうとした瞬間、稲荷の目にこちらに迫る影がわずかに映った。

 すぐさまそちらに身体を向けると、ロウトが目の前で両腕を振りかぶっていた。両手を交差させるように振り下ろし、拳の先から伸びる爪が稲荷の胸を斬り裂く。

「ぐ――」

 呻きを上げながらも稲荷は歯を食いしばって蹴りを放ち、ロウトは大きく後ろに跳ぶ。

 稲荷は混乱していた。先程の攻撃を受ければ、稲荷の里の者でも立ち上がることは出来なくなる。さらに言えば稲荷は以前ロウトとの会話で彼が肉体の強化が全く出来ないということを聞かされていた。

「厭気か――」

 血が滴る胸を押さえるのはやめて、真っ直ぐにロウトを見据える。変わり果てている。あの頃のロウトと、顔は同じだが決定的にその目が違う。

「流石に、コギョウにあんだけの傷を負わせただけはあるな」

 ロウトは稲荷から離れたその場で右手を後ろに引く。

 稲荷はこの動きの意味するところ鋭敏に感じ取り、右に走り出そうと身構える。

 その寸前、ロウトは右手を一気に前に突き出し、稲荷の目の前を槍のように伸びた霊気の爪が掠めた。後少し早く駆け出していれば串刺しになっていたはずだ。

 冷や汗が流れるのを感じながら、霊気の爪に沿うように稲荷は前に駆け出した。ロウトは伸びた爪を霧散させ、再び元の大きさの爪を具象化する。

 八幡の目から、ロウトの姿が消えた。稲荷が立ち止まり、大きく目を見開いてこちらを振り向く。その行動が何を意味するか。気付いた時には八幡の目の前にロウトが右手を振り上げて立っていた。

「八幡!」

 キュウシが八幡の盾になろうと間に割って入ろうとするが、少し遅かった。八幡は思わず目を瞑り、自分の身が斬り裂かれることを覚悟した。

 金属がぶつかり合うような音が響く。

 恐る恐る八幡が目を開けると、目の前でロキが霊気を具象化させた刀でロウトの一撃を受け止めていた。

「聞いてたより遅いね。厭気のせいかな?」

 刀で受け止めたまま、ロキは浮ついた笑みを見せる。

「八幡ちゃん、キュウシ、早いとこ離れなさい。君達は近距離には向かないでしょうに。あ、こりゃまずい」

 力で押し切られ、ロキの持っていた霊気の刀は砕け散る。八幡とキュウシはその隙に距離を取る。

「ふうむ、話と違ってすっごく力任せだねー。君は刀に霊気を集めて切れ味を高める変わった子だって聞いてたけど、あれはかなり繊細な霊気の制御が必要だから今は出来ないのかな? 厭気の影響ってのは面白いなー」

 などと一人で喋りながら、ロキは次々に迫るロウトの攻撃をぬらりくらりとかわしていく。

「その具象化した武器、中までぎっしり詰まってるみたいだねー。僕の霊気の量じゃそんな真似は怖くて出来ないから、ここは、っと」

 ロキは身体を沈め、ロウトの腰に差した刀の柄を掴んだ。そのまま刀を抜き、斬り上げる。ロウトはそれを爪で受け止めるが、ロキが即座に胸に蹴りを放ち、直撃を受けて後退する。

「おいテメー」

 ロキの前に駆け寄り、稲荷がドスの利いた声を上げる。

「あいつはオレがやる。手ェ出してンじゃねえよ」

 ロキが口を開く前にロウトが二人に迫るが、ロキは構わずに稲荷に答える。

「あのね、これは時間との勝負でもある訳。この子が」

 ロウトの斬撃を綺麗に刀で受け流しつつ、ロキは口を動かしている。稲荷も身構えているが、そちらに凶刃が届くことはなかった。

「完全に厭奴になっちゃう前に片付けなけりゃならない。それが君はどうだい? 僕は仕方なく動いているんだよ?」

「何だとッ――」

「怒んない怒んない。しょうがない、僕が隙を作るから、その間に君はあの子の足折っちゃってよ。骨折くらいなら八幡ちゃんに治してもらえるでしょ」

 稲荷は不満げだったが、ロウトを元に戻すという名目がある以上、これに従わない訳にはいかなかった。ロウトを助けることは、稲荷の本心からの望みでもあったからだ。

 ロキが初めて自分から刀を振るい、ロウトを退かせて距離を作る。

「それで動けなくなったところを君がきちんと押さえる。僕は力仕事は苦手だから。納得したね。じゃあ――いくよ!」

 手に持ったロウトの刀を思い切り投げ付け、同時にロキは駆け出す。ロウトは回転しながら飛んでくる刀を霊気の爪で払い除ける。

「もーらいっと」

 ロウトの足下に、ロキが足から滑り込んでいた。両足をロウトの右足に絡ませ、捻り上げる。ロウトは崩れ落ち、その時にはもう稲荷が大きく上に跳んでいた。

 空中で右足を突き出し、そのまま一気に落下する。

「悪い」

 ロキによって伸ばされていたロウトの右足を、稲荷の全体重を乗せた踵落としが襲う。

 耳を塞ぎたくなるような音と、悲痛な絶叫が響く。

 ロウトの右足は完全に折れ、もはや立つことは出来ない。稲荷は苦痛の叫びを上げ続けるロウトを悲痛な面持ちで見遣り、両腕を掴んで後ろに回った。

「八幡ちゃーん、出番だよー」

 八幡は間延びしたロキの声に憤りを覚えながらそちらに向かう。しかしふとロキが冷え切った表情を見せたので、この男の経歴を思い出して自己嫌悪に陥った。先程の反応を見れば、ロキが平然とした態度を見せているのは相当の無理をしてのことだということはわかるはずだ。

 ロウトに触れて霊気を流し込もうと近寄ると、その威圧感に圧倒されてしまう。その目は未だ激しく憎悪に燃え、思わず覗き込んでしまった八幡は本気で命の危機を感じた。

 そしてそれは間違っていなかった。

「邪魔を――」

 少年の声だということはわかるが、今聞こえるその声は憎しみに歪められた聞く者を震え上がらせる異形の声だ。

「するな!」

 ロウトの後ろで両手を掴んでいる稲荷。その背後に、ロウトが現れた。

「稲荷! 後ろだ!」

 八幡が声を上げ稲荷が後ろを振り向くが、一拍遅かった。ロウトの凶刃は稲荷の左肩を抉り、稲荷はロウトから手を離す。

「影朧か! うわっ」

 ロキの背後にもまた別のロウトが現れ、無防備な背中を斬り裂く。

「うん――ちょっと不覚だったね」

 痛みを堪えて瞬時に振り向き、ロウトを迎え撃つ。

「キュウシ」

 八幡を守るために前に銃を構えて立つキュウシに向かい、ロキが間延びした声をかける。背中の傷はそこまで深くはないようだが、血は止まっていない。

「これはただの霊気の塊だから、遠慮なくぶっ放していいよ」

 キュウシは頷き、手に持った銃に霊気を流し込む。キュウシは里で最も強い。それは即ち霊気を凶弾へと変えるのが誰よりも速いということである。

 ロキがロウトと距離を取ると即座に引き金を引き、独特の高い音と共に霊気の弾丸が撃ち出された。

 ロウトの頭を正確に貫き、霧散させる。

「影朧を同時に二つ。驚いたね」

 稲荷の方を見ると、先程傷を受けた左腕が力なく下がっている。ロウトの影朧の攻撃をかわし続けてはいるが、左腕が使い物にならないのが大きく負担になっているようだ。

「稲荷、距離を取れ!」

 キュウシが叫ぶと、稲荷は大きく舌打ちをして後ろに跳ぶ。二人が離れたことで、キュウシは正確に目標を定めることが出来る。

 影朧を同じように頭を撃ち抜き霧散させると、キュウシは鋭くロウトの本体の方を見る。

 八幡もそちらを向くと、ロウトは何度も立ち上がろうともがいていた。右足が完全に折れているにも関わらず、憎悪を滾らせ目の前の者を始末しようといつまでもあがき続けている。

 一体何が彼をここまで突き動かすのか。全身に漲らせた憎悪から窺い知ることは出来るが、それでもロウトの激情は常軌を逸していた。そして何より、厭奴に堕ちたことが彼をここまで狂わせた。

 ――救わなければ。

 厭奴の呪縛をなくし、ロウトの迷妄を破る。それは八幡にしか出来ない。今まで覚えたことのないような使命感が、八幡の中で燃えていた。

 気付いた時には、足がロウトの方へ向かっていた。キュウシが止めるのも聞こえず、一人でロウトの前に立ち、その身体に触れようと手を伸ばす。

 ロウトは射るような目で八幡を見た後、右手を大きく払った。咄嗟に身体を庇うために出した腕を霊気の爪が斬り裂き、血を噴き上げながら八幡は後ろに倒れた。

「馬鹿野郎! あいつにはまだ両腕があるんだぞ! あんた一人じゃ無理だ!」

 キュウシがすぐさま八幡に駆け寄り助け起こしながら叱責する。

「八幡……?」

 いつもと様子が違うことに気付き、キュウシは八幡の顔を覗き込んだ。そこにはキュウシにもはっきりとわかる程の強い意志が滲み出ていた。

「彼は、私が救う」

「なら、押さえんのは任せろ」

 荒い息で、稲荷がロウトの後ろにつく。両腕を押さえようとするが、稲荷の左腕は今動かすことが出来ない。

「もう、しょうがないなー」

 稲荷の横にロキが立ち、ロウトの左腕をしっかりと掴む。

「テメー、力仕事は苦手だったんじゃなかったのかよ」

「ああ、正確には『嫌い』って言った方が正しいね。ということで八幡ちゃん、早くしてよー」

 八幡は頷き、膝を着いてロウトと真正面から向き合う。ロウトは依然燃え盛る憎悪を瞳に湛えていた。

「もう、大丈夫だ」

 ロウトの両肩に、そっと手を乗せる。

「お前は、私が救う」

 一気に、ありったけの霊気を流し込む。

「う――あああああああああッ!」

 ロウトは絶叫した。悶え苦しみながら息を吐き出し続け、声が嗄れていくと徐々にその目に涙を浮かべていく。

「俺――は――」

 ロウトの目が、戸惑いを浮かべた無垢とも呼べる目が、八幡を確かに捉えた。

 涙が一筋頬を伝うと、ロウトは目を閉じて頭を倒した。

 それと八幡が気を失うのは、ほぼ同時であった。

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