厭な奴

 走馬灯のように駆け巡るとは、今のようなことを言うのだろうか。

 朦朧とする頭の中、ロウトは記憶の奔流に翻弄されていた。

 しかし、思い出す事柄が生前のものばかりではなく、こちらの世界の――九年前から始まったロウトとしての記憶が主になっているというのは、当初に比べると大きな進歩だ。この世界で、確かにロウトとして生きていられたのだということを感じることが出来た。

 湿った音がする。

 咀嚼する音のような。おかしいな、この世界の人間が物を食うことなどないのに。

 今のロウトの頭は、深い霧がかかったように不鮮明だった。現在と過去の区別がつかない。

 このままではいけない。せめてもっと近辺の過去――今日の記憶を。

 ロウトは再び、想起する。

「ロウト」

 空がわずかに白み始めた時間。河原で寝転がっていると、ロウカの声がした。ロウトはすぐさま身体を起こし、そちらを振り向く。

 笑顔のロウカがこちらに歩いてきていた。

「昔を思い出すよね。ロウト、昔はロウトなんて自分の名前じゃないって言って、呼んでもすぐには振り向かなかった」

 思わずロウトは苦笑する。

「あれから六年か。今でも――いや、あの時からずっと、ロウカには感謝してるよ」

「もう、恥ずかしいよ」

 ロウカは照れるように笑い、ロウトもそれを見て笑った。

「あ、そうそう、三峯が帰ってきたよ。話があるから集まってって」

 二日前、三峯の里に黒眼鏡をした妙な男が訪れた。男は三峯と二人だけで話をすると、すぐに帰っていった。

「閻魔宮に行かなきゃならないみたい」

 三峯はそう言って、里を出て閻魔宮に向かった。

 閻魔宮――。

 ロウトは名前だけを知っている。閻魔と名乗る男が暮らす、巨大な宮殿。そこでは定期的に里長達が集まり、会議が行われる。

 閻魔大王を名乗っているが、その男は里の自治に口を出すことはなく、三峯に言わせれば会議の議長兼閻魔宮の管理人だそうだ。

 三峯が呼ばれたのは、定例会議のためではない。大きな事件が発生した時にも里長達は集められる。恐らく今回はそっちだと、里を出る前に三峯は言った。

懸衣翁けんえおう奪衣婆だつえば――」

 連れ立って歩き出すと、ロウトはふとその名を口にする。

「え? 何?」

「ロウカには、三途の川の話はしたよな」

「うん」

 ロウトが死んだ後、最初に気付いたのはこの世界ではない。

 どこまでも荒涼とした野原が広がり、永遠に暮れなずむ夕陽が空を覆う世界。ロウトはそこを川はないが三途の川と呼ぶことにした。

「そこで会った二人が、懸衣翁と奪衣婆と名乗ったんだ」

 ロウトが目覚めると、若い男が悠然と歩み寄ってきた。意識がはっきりとしだすと、ロウトは死の記憶を思い出し、悶え苦しみ始めた。男はそれを見て慌てたように声を張り上げた。

 ――姉ちゃん! 姉ちゃん! 久しぶりの前世持ちだ!

 男はそれから必死にロウトに呼びかけた。気付くと女の声も加わって、二人で懸命にロウトの意識を保たせようと声をかけ続けた。

 ロウトが一応の安静を取り戻すと、男は名乗った。

 ――俺は懸衣翁。で、こっちが奪衣婆だ。

 女は目も眩むような美しさで、どう見積もっても婆ではない――男も翁とは呼べない――が、自ら奪衣婆だと名乗った。

 それから二人はこれからロウトが向かう――今立っているこの世界について話した。そこでロウトは確かに自分が死んだのだという事実を受け止めていった。

 話があらかた終わると、懸衣翁はロウトに身の上話を聞かせろとせがんだ。なんでも普段は話し相手が奪衣婆しかおらず、退屈なのだという。ロウトは半分訳がわからないまま生前の話を口にした。

「それでどうなったの?」

「それから暫くまたこっちの世界について聞かされて、気付いたら湧生地だった。って言ってもこっちで意識を取り戻した時は記憶が混乱して思い出すのに時間がかかったけどな」

「なんで急にそんな話を?」

「ロウカには全部知っておいてもらいたいから」

 真面目な顔で言ったつもりだったが、ロウカはそれがおかしかったのか吹き出した。

 決まりが悪く、ロウトは眉間に皺を寄せて俯く。

「ごめん、ロウト。そんな顔しないでよもう」

「いや、実を言うと閻魔と聞いて思い出したっていうのが半分入ってる」

 ロウカは首を傾げる。

「懸衣翁と奪衣婆、それに閻魔大王。親戚みたいなものだろ?」

「そうなの?」

「そうなの」

「つまり、その二人と閻魔が何か関係あるのかもしれないってこと?」

「ああ、さっきそう思い付いた」

 三峯に訊いてみるかとも考えたが、ロウトが前世持ちなのはロウカと二人だけの秘密だ。だからロウカだけに話した。

「じゃあ、私もずっと気になってたことがあるんだけど、聞いてくれる?」

 頷く。ロウカは気のせいかもしれないんだけど――と前置きしてから話し始めた。

「湧生地に、私達以外の誰かがいたような気がするの」

「それは――ゲリ達じゃなく?」

「うん。私、まだロウトが気を失ってる時に一度目を覚まして、ここはどこだろうって見回してたの。そしたら、小屋の戸が閉まる音がして、外を誰かが歩いていく足音が聞こえて――気付いたらまた気を失ってた」

「それは――もう一人同じ湧生期に生まれた奴がいたかもしれないってことか?」

「うーん、気のせいかもしれないんだけど、でも、そう考えることも出来るよね。誰にも話してなかったんだけど、ロウトには全部知っておいてもらいたいから――って思って」

 ロウトは深く頷く。

「もう、そこは笑ってよ」

 家が見えてくると、二人は自然と黙って歩を進めた。

 二人一緒に里の家に戻り、いつもの座敷に入る。既に他の者達は揃い、三峯から円形を描くように座っていた。空いていた場所にロウトとロウカが腰を下ろすと、三峯が口を開いた。

「色々面倒なことになってね。じゃあまず――三日前、愛宕の里が壊滅した」

 皆が耳を疑った。重大な話だろうとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった。

 愛宕の里は、ロウトとロウカも五年前に訪れている。人口は春日の里より少し多く、霊気の扱いを修得した者はそれ程多くない。

 当時の里長の愛宕は穏やかな女性だった。わざわざ二人の前に姿を見せてくれたことに驚いたことを覚えている。

しかしその愛宕は三年前に突如行方知れずになり、里を混乱が襲ったという。結局死んだものとされ、次の愛宕は里の者達から最も信頼されている男が選ばれることになった。

「里には厭気えんきが蔓延して、近付くことは出来ないみたい」

「厭気? なんだそれは?」

 全員が同じ疑問で声を上げそうになったが、ゲリが代表して口を開いたことで踏み止まった。

「ああもう、そこから説明しなきゃならないのね。霊気と精神が密接に関わってることは勿論知ってるわね。例えば感情が昂れば、霊気はいつもよりも多く溢れ出る。厭気っていうのは、感情自体が外に溢れ出したものなの」

「それがあると、どうして近付けないんだ?」

「厭気は、言ってみれば毒なのよ。考えてもみなさい。他人の感情を取り込んで平気なはずがないでしょう?」

 ゲリは一度納得しかけたが、すぐにロウトがちょっと待て――と疑問を口にした。

「近付けないなら、何故壊滅したとわかるんだ?」

「そうね、じゃあ厭気を生み出すのに、一番効率がいい方法はなんだと思う?」

 ロウトは暫く考え込む。すると三峯がすぐに助け舟を出した。

「言い方を変えましょうか。厭気はね、残留思念なの」

 はっと顔を上げ、ロウトは悪魔的な手段を思い付く。

「殺すのか? 人を」

「その通り。まあ一人二人から発生する厭気なんてたかが知れてるだろうけど、愛宕の里は千人を軽く超えてるからね」

 ロウトは想像して全身が粟立つのを止められなかった。千人以上の人間の恨み、悲しみ、憎しみ。そんなものが渦巻いている中で、果たして正気を保っていられるのか。

「そして愛宕の里を壊滅させたのは、愛宕その人らしいの」

「愛宕が?」

 ロウカが驚いて訊く。今の愛宕の人柄は噂程度にしか知らないが、それでも人格者だと聞いている。それ以前に里長が自分の里を滅ぼすという異常性には耳を疑うしかなかった。

「そうよ。そして愛宕は恐らく、厭奴えんどに堕ちたはず」

「厭奴とは何だ?」

 また全員が同じ疑問を口にしそうになったが、先程と同じくゲリが真っ先に口を開いた。三峯はまた説明しなければならないことに不満げな声を漏らしたが、すぐさま答える。

「厭気を取り込んだ者のことよ」

 今度はフレキがちょっと待てと口を挟む。

「厭気ってのは毒なんだろ? それを取り込むってのはどういうことだよ?」

 三峯は面倒臭そうに両手を身体の後ろに着ける。昔の話などは淀みなく話す三峯だが、こういった相手に知識を教えるというような話は苦手なのだ。いつもはゲリが注釈や訂正をしてくれるのだが、今回ばかりはゲリも知らない事柄であった。

 身体を後ろに傾けていた三峯だったが、皆からの無言の圧力を感じて居住まいを正し、気合いを入れるように短く息を吐き出した。

「厭気は確かに毒だけど、それで直接死ぬってことはないの。勿論ただではすまないけどね。まず最初に眩暈が起こり、次に意識が混濁、最終的には人格が崩壊するわ。厭奴っていうのは厭気を一度に大量に取り込み、それよりも酷い段階に一気に到達した者のこと。まず正気は失うけど、厭気を霊気のように扱うことが出来、自分の感情を厭気に変換出来るようになるから、実質無限の霊気を得ることになるわね」

「それは――」

 もはや化け物ではないか。

ロウトだけではなく、他の者達も同様のことを思ったはずだ。霊気の消費と運用は戦闘における最重要事項である。ロウトも己の霊気が尽き、修行の途中に昏倒したことが何度もある。それが、感情の赴くままにいくらでも霊気を使えるというのは、あまりに強大すぎる。

「比較的愛宕の里に近い稲荷ちゃんのとこと諏訪のとこは閻魔宮に避難するみたい。勿論数名を愛宕捜索と討伐に送り出してるけどね。で、問題はあたし達」

 どうしよっか、と三峯は皆に訊いた。

「どうしよっかって……三峯、あんたがしっかりしてくれないと困るんだが」

 ゲリが苦言を呈するも、三峯は笑ってそれを無視する。

「僕は三峯に従うよぉ」

 スコルが眠そうな声で言う。

「あたしも。こういうことは里長が決めないと」

 ハティが続いて言うと、ロウトとロウカもそれに同調する。

「まあいいんじゃね? 三峯が決めれば」

 フレキもそう言って体勢を崩す。

「最終決定権は三峯にある。俺も三峯に従うよ」

 残ったゲリは一度溜め息を吐いてから言った。

 全員の視線が三峯に注がれる。三峯は大きくを息を吸い込み、恐ろしく気の抜けた笑顔を見せた。

「じゃあ、今日はもう寝ましょ。そろそろ夜も明けるし」

 全員が、著しく脱力した。

「はい! じゃあ解散」

 それぞれが愚痴を言ったり欠伸をしたりしながら立ち上がる中、無言で立ち上がったロウトは身体を持ち上げた瞬間頭の中が真っ白に染まった。身体が浮き上がるような妙な感覚の後、立っていることが出来なくなり崩れ落ちる。

「ロウト!」

 床に完全に倒れる前に、ロウカが慌ててロウトの身体を支える。

「どうしたの急に?」

「立ち眩み――だと思う」

 まだ頭の中の大部分が白く染まったままだったが、ロウカの問いかけに答えたことでゆっくりとだがこちら側に戻ってくることが出来始めていた。

「三峯、ロウトが……」

 ロウカが三峯に助けを求めると、三峯は蒼白な顔をして目を閉じ、意識を集中させた。

「みんな、今すぐ里から逃げなさい! とにかく遠くへ、後のことは考えなくていいから!」

「おいどうしたってんだよ三峯? ロウトが倒れたのと里から逃げんのと、何の関係が――」

「ロウトはかなり厭気に敏感みたいね。気付かない程わずかな量の厭気でも症状が出始めてる」

「厭気? なんで厭気が――」

 言い忘れてたわね――三峯がぎこちなく笑いながら言う。目は全く笑っていない。

「厭奴はね、自分の周囲に厭気を撒き散らすのよ」

「おいそれって――」

 玄関の開く音がした。

 続いて重い足音。それがゆっくりとだが、確実にこちらに近付いて来ている。

「あなた達、早く逃げなさい」

「逃げろっつってもよ、この部屋から外に出たら確実に鉢合わせだぜ?」

 鯉口を切りながら、おどけたようにフレキが言う。

「それに、あんたを置いて逃げる訳にもいかんだろ」

 冷静に、ゲリが言って三峯を守るように前に立つ。

「そうだよ、僕達も――」

 スコルが言い、ハティが前に出ようとするが、ゲリがそれを制した。

「お前達は駄目だ。俺達が退路を作るから、ロウトを連れて逃げろ」

 そんな、と二人が異口同音に異を唱えるが、ロウトはそれに異を唱えたかった。

 ロウトは死にたくなかった。絶対にそれだけは避けなければならなかった。だから誰でもいいからすぐにでもロウトを連れて逃げて欲しかった。

 死の記憶は、どれだけ時が経っても消えることはない。今でも思い出して苦痛に悶え苦しむことなどしょっちゅうだった。

 そしてロウトは、己を激しく嫌悪した。今まで一緒に暮らしてきた者達も、死を前にすれば簡単に見捨ててしまう。もしも今この激しい眩暈がなく、普通に動くことが出来たのなら、ロウトは彼らを見捨てて真っ先に逃げ出す。だが今のロウトは立つことすらままならない。今の己の身体を呪い、その考えを嫌悪し、近付く死に恐怖する。

 戸になっている障子が勢いよく開いた。凄まじい異臭がなだれ込んでくる。有機物の腐ったような、不快感を直に掻き立てる臭いだ。

 縦はロウトよりも頭二つ程大きく、横はロウトの倍程ある。凄まじい威圧感を放つ巨大な男が立っていた。

「久しぶりだな三峯。話があって来たのだが、歓迎してくれる訳ではなさそうだな」

 低く太い声で、舐めるように言う。

「あら愛宕、厭奴に堕ちてもあたしのことを覚えてくれてるのね。悪いこと言わないからすぐに帰りなさい。今なら腕一本くらいで許してあげるわよ」

 愛宕は大きく鼻を鳴らす。

「貴様らの正気を疑わざるを得ないな」

「狂ってんのは」

 フレキが瞬時に間合いを詰め、抜刀して斬り上げる。愛宕の右腕が、綺麗に落ちた。

「お前だろ」

 愛宕はにやりと笑う。

 切断された断面からは血ではなく、どろりとした灰色の膿のようなものが溢れ出してきた。凄まじい異臭を放ち、ゆっくりと垂れていく。

「な――なんだこいつ」

 愛宕は落ち着いた様子で左手で右腕を拾い上げると、それを元あった場所に押し込んだ。腐肉を潰すような不快な音がする。

「儂は狂ってなどおらんよ」

 数度握ったり開いたりした後、その手で拳を作りフレキの腹に見舞った。

 フレキは息を詰まらせ、大きく後ろに吹き飛ばされる。ロウトとそれを支えるロウカにぶつかり、壁際まで転がった。

「パフォーマンスはこの程度でいいだろう。わざと斬られてやるのも、なかなか難儀だな」

「愛宕――あんた――」

 真っ青な顔で、三峯が何度も躊躇いながら口を開こうとする。

「あんた、まさか黄泉戸喫(よもつへぐい)を――」

「ほう」

 少しばかり驚いたように、愛宕が眉を上げた。

「流石は三峯。博識ではないか。ならば、儂の言葉の意味がわかるだろう」

「みんな逃げなさい! こいつはあたし一人でどうにかする! ゲリとフレキはロウトを――」

 愛宕の拳が三峯の顔面に入る。先程のフレキに放った一撃より加減したものだったが、それでも三峯の意識を飛ばすだけの威力はあった。

「三峯!」

 ゲリが瞬時に抜刀して斬りかかるが、愛宕はその斬撃を肉が裂けるのも構わずに手で受け止めた。動きが止まったゲリの腹に強烈な蹴りを入れる。刀を手放し、ゲリが吹き飛ぶ。愛宕は鼻を鳴らすと、ゲリの刀を放り投げた。

 膝を着く三峯を蹴り飛ばし、愛宕が厭らしい目で順々に皆を見ていく。

「ああ、腹が減って敵わん。やはり最初は子供からか」

 愛宕の目がスコルとハティで止まり、口元が吊り上がる。

 一歩踏み出すと、スコルが刀を抜いて切っ先を愛宕に向ける。

「そ、それ以上近付くな!」

「なかなか生きがいいではないか。やはり死肉ばかりでは飽きてくるのでな。新鮮な内にいただくとしよう」

「な、何言ってんのこいつ――」

 刀を抜きくつろげながら、ハティが自分の耳を疑う。

 愛宕がその太い腕をスコルに向かって伸ばす。スコルはその掌を斬り上げるが、勢いは弱まることなく愛宕の右手がスコルの頭を掴んだ。

「スコル!」

 ハティが刀を振り上げてそれを助けようと横から迫るが、愛宕は横に足を突き出すだけでハティの胸を撃ち抜き、吹き飛ばす。

「さあ、子供の肉はどんな味がするか」

 スコルはもがき続け、脱出が不可能と悟ると意識を集中させ、自分の隣に影朧を出現させる。その影朧で愛宕の右腕を狙って刀を突き出した。

 右腕を貫かれたのは流石に応えたのか愛宕は手の力を緩め、その隙にスコルは抜け出す。

 さらに追撃を行おうと迫る影朧を拳の一撃で霧散させた愛宕は、何かを思い出したかのように息を漏らした。

「そうだ。当初の目的をすっかりと忘れていた」

 斬りかかるスコルを蹴り飛ばした後で、愛宕は倒れている三峯を無理矢理立ち上がらせ、意識が曖昧だと見るとその頬に拳を放った。小さく呻き声を上げ、三峯は相手をきっと睨む。

 何かを話している様子を見て、ロウトは朦朧とする意識の中、隣に倒れているフレキに声をかけた。

「フレキ、今の内に――」

 フレキはそれを聞くと頷いて身体を起こし、ロウカを助け起こした。

「ロウカ、逃げるぜ」

 違う! ロウトは叫びたかった。助けて欲しいのはロウト自身だ。すぐにでもロウトを連れて逃げて欲しい。だが、今までのロウトのロウカに対する態度を鑑みれば、フレキにこの状況でロウトが自分の身よりもロウカの安全を優先すると思われても仕方がなかった。

 ――こんなことなら。

 こんなことならロウカなど気にしなければよかった。もっともっと自分勝手に行動してくればよかった。

 ――最低だ。

 なんと心根の腐りきった思考をしているのだろう。ロウカがいなければ、ロウトはこの世界を認めることが出来なかったというのに。この世界で生きていくことが出来なかったというのに。

 それでも、いくら自分を嫌っても、死の恐怖から逃れることは出来ない。

「待ってよフレキ! 私も戦える!」

「ああ! ごちゃごちゃ言うな!」

 フレキはロウカの身体に手を触れ、意識を集中させる。

「フレキ、まさか――」

「そのまさかだ馬鹿野郎」

 それまでフレキの手を払い除けようともがいていたロウカの身体が、ぴたりと動きを止める。

「首から下に身縛しんばくの呪をかけたからな」

 身縛の呪とは相手の身体の動きを封じる呪いだ。フレキはロウカを背中に担ぐと、一気に駆け出す。

「人の話中にこそこそと」

 愛宕がそれに気付き、フレキを仕留めようと三峯を放り投げてそちらに向かう。

 しかしその間にゲリが瞬時に刀を拾って割って入り、愛宕を斬り付ける。やはり傷口から溢れるのは灰色の膿ばかりだが、足止めには成功した。

「行け、フレキ!」

「ああ!」

 フレキは部屋を抜け、そのまま外へと駆けていった。

「ふん。一人や二人いなくなったところで構わん」

「お前は影朧について知りたいんだろう?」

 愛宕から距離を取ったゲリが意識を集中させながら言う。

「なんだ、聞いておったのか。だがもう興味は失せたわ。修得に何年も要するような、くだらんまやかしの術などいらん」

「くだらんまやかしかどうかは、その身で確かめてみるんだな」

 愛宕を囲うように、三つの影朧が現れる。

「ほう、一人で複数出せるのか」

 しかしこの量の影朧を別々の動きで制御するのは不可能だ。恐らくゲリは全てに自分と同じ動きをさせるつもりだろう。それを計算し、愛宕から全て同じ距離の四方に出現させている。

 ゲリが駆け出すと、影朧も一斉に愛宕に迫る。前後左右からゲリが横薙ぎを放つ。

 愛宕は前後に手を出し、前と後ろの影朧の斬撃だけを手で受け止めた。左右からの刃は身体を裂くが、そこから溢れるのは灰色の膿ばかり。愛宕はまるで動じることなく、前後のゲリの手首を掴み、それをあらん限りの力で振り回した。

 凄まじい勢いでゲリと影朧がぶつかり、全てが霧散する。影朧が全て消えたことを確かめると、愛宕はゲリを床に叩き付けた。起き上がろうとするところを蹴り飛ばし、下卑た笑みを見せる。

「やはり同じ動きしか出来んか。くだらんな」

 ゲリはふらつきながらも立ち上がる。

「ゲリ、無茶だ」

「黙っていろロウト」

 だがゲリが限界だということは明らかだった。影朧を三つも出したことで霊気を著しく消耗し、受けた傷も大きい。

 愛宕が嘲るように口角を吊り上げる。

「まず一人」

 その時、愛宕の背中を強烈な袈裟懸けが襲った。これは利いたのか、愛宕は前によろける。

「よう、死にそうじゃねえかゲリ」

 おどけた笑みを浮かべたフレキが、愛宕の反撃をかわしながら言う。

「お前――ロウカはどうした?」

「影朧に運ばせてる。つってももうすぐ霊気が切れるけどな。まあ里の遠くには逃げられんだろ」

「霊気が殆ど残っていないのに戻ってきたのか? 死にに来たようなものだぞ」

「俺とお前は一蓮托生、だろ?」

 にっと笑い、フレキはゲリの隣に並ぶ。

「全く、お前には付き合い切れないな」

「それはお互い様だぜ」

 二人は刀を構え、呼吸を合わせて同時に愛宕に斬りかかる。

 両肩に刀が入り、そのまま斬り伏せようとするがぴくりとも動かない。愛宕は肩に刃が入ったまま両手を伸ばし、ゲリとフレキの頭を掴む。そしてそのまま手を内側に曲げると、二人の首は横に折れ曲がった。

 事切れた二人が床に崩れるのを見下ろし、愛宕は鼻を鳴らす。

 文字通り、一捻り。

「残るは四人か」

 愛宕の目がロウトを捉える。ロウトはその目に戦き、最も忌むべき記憶の再燃に晒される。声も出せずに震え、愛宕が薄ら笑いを浮かべて一歩近付く。

 殺される訳にはいかない。

 ならば、今起こすべき行動は一つ。

 ――立て。

 頭が重い。まるで自分の身体ではないように、肉体に意思が届かない。無理矢理身体を起こすが、足元がまるで覚束ない。

「立て!」

 絶叫し、自らを鼓舞する。未だに頭はあちこちが白く染まったままだが、それでも勢いに任せて立ち上がる。

 腰に差した刀の柄に震える手を伸ばす。何度も空を切り、漸くしっかりと掴む。

 ロウトが他の里の者達と違うのは、刃に霊気を極限まで集め、鋭利さを何倍にも高めていることだった。霊気の消費が激しく、それならば力を高める方がはるかに効率がいいため、まず誰もしない。

 しかし愛宕の身体は分厚い肉の壁のようなものである。ならば力で押し通すよりも、ロウトのような変則型の方が有効かもしれない。

 問題は現在のロウトの身体である。まるで力が入らず、まともな集中も出来ない。

 それでも、戦わなければ。殺さなければ。そうしなければ、殺されるのは目に見えているのだから。

 刃先に霊気を集めようとするが、集中が保てない。

「何もしていないのに死にそうとは、滑稽な奴だ」

 笑いながら言い、愛宕はロウトとの距離を詰める。

 この部屋は狭いが、愛宕の脇に抜けるだけの空間はある。ロウトは足に霊気を集中させ、一気に駆け抜けようとする。

 しかし結果は、ロウトが自分の斜め前に崩れそうになるだけだった。

 予想以上にロウトの身体は重体だった。愛宕の高笑いが聞こえる。意識が飛びそうになる瞬間、何者かがロウトの身体を蹴っ飛ばした。

 ロウトは床を転がり、部屋の隅に倒れる。

「全くだらしない。無茶なんかするからそうなるのよ」

 ハティが突き出した足を引っ込めながら言う。

 愛宕が舌打ちをし、ハティを吹き飛ばそうと蹴りを放つが、その一撃がハティに届く前にスコルが割って入り、愛宕の足を掴んでそのまま巨体を投げ飛ばした。

「三峯は逃げろって言ったけど」

「あたし達、聞き分けが悪い方なのよね」

 身体を起こす愛宕は、全く余裕の体で笑った。

「三峯の里の者達がこれ程まで愚かだとは! これでは儂の里の者共といい勝負だ!」

「笑ってんじゃないわよ!」

 ハティが刀を構えたまま一気に駆け出す。一瞬で距離は縮まり、ハティは愛宕の視覚が完全に自分を捉える前に斬り上げる。

 肉を裂くが、やはり血は出ずに愛宕は笑みを浮かべたまま。遅れて灰色の膿が垂れる。

 ハティは素早く離脱し、そこにスコルが代わって刺突を放つ。

 愛宕はその切っ先に手を突き出し、スコルの刀は深く愛宕の掌を貫いた。

「まだ痛むな」

 愛宕は指を閉じ、その刀をしっかりと掴む。スコルは抜こうと力を込めるが、ぴくりとも動かない。

「スコル!」

 その声と気配だけで全てを察し、スコルは刀を手放し右に跳ぶ。愛宕の右側からハティが刺突で愛宕の脇腹を狙う。

 愛宕は手の甲から突き出た刃を振り下ろし、ハティの刀を叩き落とす。

 しかしそのすぐ後ろに、ハティの影朧が同じく刀を構えながら駆けてきていた。動きの止まったハティを跳び越え、刀を思い切り上から振り下ろす。刃が肩に入り、止まる。先程のゲリとフレキから受けた傷は膿に覆われ既に塞がっていた。刀を手放し床に落ちた影朧を蹴りで霧散させ、既に第三の攻撃に転じようとしていたハティに向き合う。

 左手をハティの頭頂部にぶつけ、床に打ち付けたその顔を頭を掴むことで無理矢理起こす。

「ハティ!」

 スコルの声も愛宕には興味がないらしかった。スコルは刀を失いながらも見様見真似の徒手空拳で愛宕に攻撃を加えていく。だがそれも、愛宕にとっては蚊が刺したようなものだった。

「ハティを! 放せ!」

 正面から飛び蹴りを放つが、愛宕は全く動じることがない。ハティを掴んだ手も、そのままだ。

「スコル! ロウトを連れて逃げて! あたしはいいから!」

「そんなこと出来ないよ」

 愛宕から離れ、スコルは小さいが意志のこもった声でハティに逆らう。

「いいとも。放してやろう」

 下卑た笑みを浮かべ、愛宕が刀が刺さったままの右手でハティの肩を掴んだ。そのまま、頭を掴んでいる左手を思い切り捻る。

 ハティの顔が、完全に真後ろを向いた。その目には、もはや何も映していない。

「お前えええ!」

 言葉通りゴミでも捨てるようにハティを解放した愛宕に対し、スコルが激昂の声を上げる。

 拳を握り締め迫るスコルに、愛宕はその場から動くことをせずに拳の一撃を身体で受ける。スコルは何度も拳を叩き込むが、愛宕はまるで平気な様子でその左腕を掴む。

「鬱陶しいだけだ」

 腕を掴んでその身体を持ち上げ、手を放すことなく床に叩き付ける。息を詰まらせるスコルの胸の辺りを踏み付け、スコルの腕を掴む手に力を込める。

 スコルが声にならない声を上げるも、愛宕はその顔を卑しく歪めるだけだった。

 異様な音がした。その音と共にスコルの左腕が肩から千切れ、夥しい量の血を噴き出す。

 愛宕は手に持ったスコルの左腕を笑みを浮かべながら見遣り、小さく痙攣するスコルを強く踏み付けた。飽きたのか腕を放り投げると、右手に刺さったままの刀を左手で掴み、一気に引き抜く。それを消え入りそうな喘ぎを漏らすスコルの首に突き立て、満足げに鼻を鳴らした。スコルの喘ぎは完全に消える。

 ロウトの不確かな思考は、これ現実を認識することを拒否し、記憶の海に溺れることを選択した。最初は随分前の記憶ばかりだったが、わずかに覚醒したロウトの意思によって、寸前の記憶が呼び戻された。そしてロウトは相変わらず朦朧とする頭のまま、何とか意識を回復させた。

 巨体の愛宕がうずくまっている。そしてそこから何やら湿った音がするのだ。

「美味い。美味い」

 愛宕がそう声を上げ、身体を伸ばす。その隙間から、ロウトは見た。

 こちらを向いた顔に、左目はなかった。くり抜かれている。左の頬の辺りの肉は乱雑に抉られており、あちこちから生々しい肉が顔を覗かせている。

 最初は誰だかわからなかったが、残った部位から見るに、元は可愛らしいスコルの顔だということが理解出来た。

 何故こんな惨い姿になっているのか、それは比較的すぐにわかった。この音の出所を探れば、厭でもわかってしまう。

 愛宕の口の周りは、血で真っ赤に染まっている。その口はくちゃくちゃと音を立てながら動き、中の物を嚥下するとスコルの身体に齧り付く。

 

 スコルだけではなかった。首を横に捻じ曲げられたゲリとフレキ、真後ろを向いたハティの身体にも、あちこちに喰い千切られた痕が見える。

 その強烈な事実が、ロウトの頭を急速に冴え渡らせた。理解は出来ないが、厳然たる事実が目の前にある。

 とにかく、愛宕は人を喰う。喰われているのは息絶えたゲリ、フレキ、スコル、ハティ。

 ――三峯。

 三峯はその中に入っていない。ロウトは地獄絵図と化した部屋の中に目を走らせる。ロウトの倒れている壁側に、意識を失ったままの三峯の姿を見つけた。

 現在のロウトは、まるで役に立たない。身体が全く言うことを聞かず、ろくに集中も出来ない有様だ。

 ならば、三峯に頼るしかない。ロウトは無理矢理身体を這わせ、愛宕に気付かれないように三峯の許に近付いていく。幸い、愛宕は食事に夢中でこちらに気を向けることはない。

 かなりの時間をかけて、ロウトは三峯に触れられるところまで移動した。呼吸していることを確かめ、死んでいないことに安堵する。音を立てて意識を呼び戻そうとすれば愛宕に気付かれると判断したロウトは、その頭に右手を押し当てた。そしてそこから、ありったけの霊気を三峯の体内に流し込む。

 霊気は一人一人波長が違うため、他人に分け与えることは出来ない。相手の体内で異物として扱われることを利用したのが呪いであるが、一度に多量の霊気を流し込めば相手に少なからず衝撃を与えることが出来る。

 ――頼む、起きてくれ。

 ロウトの霊気が底を尽きそうになったその時、三峯の両目が勢いよく開いた。

「ロウト――」

 ロウトの今にも泣き出しそうな顔をしっかりと見た後、三峯の視線は部屋の惨状に向けられる。

「これ――は――」

 立ち上がりながら、三峯はその元凶――愛宕を射殺さんかという目で見る。

「愛宕おおおおお!」

 ロウトに見えたのは、三峯が腰の刀に手を伸ばしたところまでだった。三峯の姿は消え失せ、気付けば愛宕の右腕が地面に落ちている。

「何――」

 身体を切り返す三峯の姿が一瞬見えた気がしたが、次の瞬間には今度は左足が愛宕の身体から斬り落とされていた。

「ロウト」

 ロウトの前に、全身をわなわなと震わせる三峯が立っていた。三峯が本気で怒っているのを、ロウトは初めて見た。いつも笑みを絶やさず、どこか飄々としていた三峯が怒りに身体を震わせている。妙な話だが、ロウトはこの惨状よりもその事実の方がよっぽど非現実的に感じたのだった。

「三峯――」

 不安を口にしたくなったが、三峯はそれよりも早く「大丈夫」と普段ならば考えられない程真剣な声で言った。

「あなたは絶対、あたしが守る。あたしの大切なものを、これ以上あんな奴に傷付けさせなんかしない」

 そして三峯は、多分笑った。

 右腕と左足を失い、立っていることすら出来なくなった愛宕だが、床に這いつくばりながらも左足を傷口に押し込み、すぐに立ち上がった。右腕も最初と同じように突っ込み、すぐに元に戻る。

「儂を怒らせたな、三峯」

「よくもそんな口が利けたもんね」

 三峯が駆け出す。一瞬で愛宕の眼前に迫り、飛び上がって刀を横に薙ぐ。首を狙った一撃だが、愛宕は右手で刃をしっかりと掴んで防御する。

 愛宕の右側から三峯の影朧が現れ、三峯自身は刀を離して愛宕の腹を蹴り、後ろに跳ぶ。影朧は愛宕の右手を思い切り蹴り上げ、刀を弾き飛ばす。影朧はそのまま身体を深く沈めながら回り込み、右足から左肩までを瞬時に斬り上げた。

 三峯は再び愛宕に迫りながら落ちてくる刀を掴み、それを低く持って愛宕の右足を両断しようと駆け抜ける。

 影朧は愛宕が深い創傷を負い仰け反った隙を見逃さず、思い切り袈裟に刀を振るう。

「こんな、ものなど!」

 やはり血は一滴も流れず、膿のようなものが溢れ出すばかり。

 愛宕は迫る三峯に気付き、右足を大きく蹴り出す。

 しかし三峯はその足を跳び越え、空中で身体を翻しながら愛宕の肩に三度刃を走らせる。

「鬱陶しい!」

 大きく吠え、愛宕は腕を思い切り振るう。三峯とその影朧は見事にそれを擦り抜け、一度距離を取る。

 隣に並んだ影朧の首を刎ね――もう一分が経っている――三峯は冷静に相手を分析する。

 愛宕の身体は分厚い肉で覆われ、さらにはそれを斬られても殆ど痛みを感じず、血を流さず、傷口はすぐに塞がってしまう。

 ロウトのように刃の切れ味を極限にまで高めればあの肉をものともせず急所を斬り裂けるのだろうが、今この場でそれだけを突き詰めてきたロウトと同じレベルに到達出来るとは思えない。

「なら、無理矢理にでも刀を入れるしかないわね」

 愛宕の背後に影朧を出現させる。

 影朧が後ろから愛宕を羽交い絞めにした時には、三峯はもう愛宕に迫っていた。

 愛宕の唇の端が吊り上がる。

「無駄だ」

 愛宕を押さえていた三峯の影朧が霧散した。解放された愛宕は突っ込んでくる三峯を真正面から殴り飛ばす。

 もんどりうちながらも瞬時に体勢を立て直した三峯は、だんだん朦朧としてくる頭を振り、思考を正常に保とうとする。

「何故、影朧が――」

「厭気を身体から大量に放出してやった。霊気で出来た木偶人形など、掻き消えるのが当然だろう? ん?」

 愛宕には無限の厭気がある。戦いが長引けば三峯の霊気は減っていくが、愛宕はそれを気にすることなく戦い続けることが出来る。長期戦は圧倒的に三峯が不利。ならば――

「次で、決める」

 自分の隣に影朧を出現させ、幾度も交差しながら愛宕の両横に広がっていく。まず右側から接近し、愛宕がそちらを向くとすかさず後ろを取った側が先程と同じように愛宕を羽交い絞めにする。

「無駄だと言うのがわからんか!」

 愛宕は全身から厭気を一気に放出する。しかし愛宕を押さえる三峯が消えることはない。

「何だと! どうなっている! さては貴様――」

 眼前から迫る三峯を見て、愛宕は咄嗟に強引に手を出し、首とその上を守れるように構える。

「終わりよ」

 三峯の刀が腹を裂く。深く深く斬り込み、後一歩で愛宕の身体を両断するのではないかというところで止まる。

 刀が抜かれると、愛宕は傷口から大量の膿を流し、膝を着く。口からは先程飲み込んだとものと思われる吐瀉物を撒き散らす。

「ま――さか、三峯とも――あろうものが、ここまで――愚かだった――とは」

 愛宕はふらつきながらも足を踏み出し、忌々しげに部屋の中を見渡す。

「一旦――退くしか――ない――ようだな」

 部屋を出ていき、完全に気配が消えた後、ロウトは理解の及ばない光景を見る。

 愛宕ごと腹を斬り裂かれた、三峯の影朧が消えていない。床に倒れ込んだその身体には無残な傷口が広がり、夥しい量の血を流している。

 暫くの後、ロウトは気付いてしまう。三峯は影朧に愛宕を押さえさせたのではなく、自ら押さえ込んだ――。

「三峯!」

 ロウトは三峯に駆け寄ろうと身体を起こす。しかしその身体はまるで言うことを聞かず、何度も床に倒れ込む。それでもロウトは必死に立ち上がり、三峯の許に向かう。三峯から溢れた血溜まりに崩れ落ち、手を伸ばして助け起こし、何度も名前を呼ぶ。

 口から血を吐きながら、三峯は優しく笑った。

「言ったでしょう――ちゃんと、守ったわよ」

「喋るな! 今治療を――」

 首を横に振り、やはり笑みを浮かべる。

「もう、無駄よ。それに、あたしはもう、充分生きたしね」

「ふ」

 ふざけんなッ――ロウトは叫び、心の内を吐き出していく。

「死ぬっていうのは、地獄だぞ! 忘れている癖に知ったような口を利くな! だからとにかく生きてくれ! それに――俺を、一人にしないでくれ」

 みんな死んだ。ロウトが心を許し、共に生活してきた者達は、もう――。

「まだあなたにはロウカがいるじゃない。いい? あなたがロウカを守ってあげるのよ」

 激しく咳き込み、口から大量の血が溢れる。

「三峯!」

「あたしはもう――ここまでね。だから、今からあなたに、三峯を継承する」

 三峯は震える手でロウトの顔に触る。

「ごめんね、辛い役目を押し付けて。でも、あなたならきっと大丈夫。後は」

 頼んだわよ――最後の方は消え入りそうになりながらも、何とかそう口にして、三峯は息絶えた。

「三――峯――」

 部屋の中を見る。

「ゲリ、フレキ」

 死んでいる。

「スコル、ハティ」

 誰も彼も、死んでいる。

 誰だ。一体誰がこんなことを。

「――愛宕」

 ロウトの中に渦巻くのは、酷く純粋な怒り、憎しみ、悲しみ。

「許さない」

 それに呼応するかのように、何かががロウトの許に集まっていく。

「絶対に」

 頭が割れるように痛む。だが、激しい感情の中ではそれもすぐに忘れられた。

「ぶっ殺してやる」

 三峯の里に、絶叫だけが虚しく木霊した。

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