後篇

     五


 昼休みになると教室の生徒たちは銘々に弁当を広げたり、あるいは学食や購買へ向かったりした。一郎も尋常であれば龍子が拵えてくれた弁当を広げるのだが、今日はあの一件のために弁当どころではなく、したがって手ぶらである。そこで学食へ行こうと椅子から腰を上げたところで、友坂が一郎の席に近づいてきた。

「よう、穂村。あの鬼姫様が霍乱を起こしたって噂なんだが、なにか知らない?」

 龍子は登校中、今日は一日絶対に喋らないと云っていたが、やはりそんなことは不可能だったようだ。そしてあの龍子が猫のように喋れば、それは大した衝撃であったろう。噂は燎原の火のごとくに広がったに違いない。

「ふふっ」

 一郎が想像を逞しゅうしてにやついていると、友坂が気味悪そうに顔をしかめた。

「なんだよ、一人でにやにやしちゃってさ」

「今、俺はとても楽しいんだ」

 一郎はそう云って、学食へ向かおうと教室の扉の方を向いた。その瞬間に、足がその場で釘付けになった。傍から友坂が云う。

「あっ、噂をすればだ」

 教室の扉から、龍子がこちらを覗き込んでいるのだった。


 一郎は龍子に云われるまま購買でパンと珈琲を買い、二棟の校舎に挟まれた中庭のベンチに二人並んで腰掛けた。中庭の木々の葉はそろそろ黄色く褪せつつあり、風も冷たくなってきたから生徒の姿はまばらである。いつも凜としている龍子は、一郎から食事を受け取ると張り詰めたものの切れたように背中を丸めてため息をついた。

「えらい目に遭ったにゃ。もう明日から学校に行けないにゃあ……」

「はははっ」

 一郎は笑って、紙パックの珈琲を一口飲んだ。龍子は高等部での騒ぎを嫌って中等部に避難してきたそうだが、一郎にはその騒ぎというのがどんなものか目に浮かぶようである。

「でもみんな喜んでたでしょう?」

「そうにゃん! 人が恥のあまり死にそうな目に遭ってるのに酷いやつらにゃん!」

 龍子はスカートに包まれた腿に、悔しそうに拳を打ちつけた。その美しい横顔を、一郎は憧れるようにとっくりと見つめた。

 ――あのお龍さんがこうなったら、そりゃ可愛いよな。ライバル増やしたかもしれないな。

 と、龍子が目だけを動かして、横目で一郎を射抜いてきた。

「なに見てるにゃん」

「いやっ」

 一郎は慌ててそっぽを向いた。そのとき期せずして、木陰に身を隠そうとした眼鏡の男子生徒の姿を目撃してしまった。

「友坂!」

 一目でその正体を見極めた一郎がそう叫ぶと、友坂はばつの悪そうに木陰から出て来て、一郎たちの座っているベンチの前まで歩いてきた。龍子がそんな友坂を胡乱げに一瞥した。

「誰にゃん?」

「どうも初めまして。穂村の友達の友坂です」

 友坂は阿諛の滲む微笑みを浮かべながら、そう丁寧に頭を下げた。その姿をじっと五秒ほども注視していた龍子は、一郎に身を寄せるとそっと耳打ちした。

「付き合う友達は選ぶにゃん」

「いや、そこまで悪い奴じゃないんですけど」

 一郎はそう庇いながらも、友坂にこそこそとなにをしていたのか問い糾した。すると友坂は開き直った様子で龍子に眼差しを据え、単刀直入に斬り込んだ。

「御劔先輩、にゃん語で話すようになったって本当ですか?」

「にゃん語でしか話せなくなったの間違いにゃん!」

 至近距離から龍子に怒罵を浴びせられた友坂は、しかし手を叩いて喜び出した。

「うわあっ、本当だった!」

 無邪気に笑う友坂を、龍子が憎々しげに睨みつけている。一郎は半ば呆れながらもパンの袋の口を開けたが、そこで友坂が手ぶらであるのに気づいて云った。

「おまえの分はないぞ」

「ああ、いい、いい、腹減ってないし。昼飯抜いたら抜いたで、その分の金で漫画でも買うからいいんだよ」

 そう手を振る友坂を、龍子はさも軽蔑したように見たが、やがて腹の虫が鳴ったのか、遅まきながらも昼食を始めた。

 友坂は、一郎とは龍子を挟んだ反対側に腰を下ろすと、食事をする龍子に色々な質問をした。それでいて視線は龍子の大きな胸に釘付けになっている。一郎にはそれが非常に癇に障って、そろそろ追い払ってやろうかと腰を上げかけた矢先、一郎に先んじて龍子が爆発した。

「だから、好きでやってるわけじゃないにゃん! これはなにかの呪いにゃん!」

「呪い?」

 友坂は眼鏡の奥の目を大きく瞠った。そんな友坂に対し、乳房を下から持ち上げるようにして腕を組んだ龍子は傲然と云った。

「よく考えるにゃ。この私が自分の意志でこんな風に喋ると思うかにゃ? ありえんことにゃ。これは超常的な力が働いているに違いないにゃあ」

 友坂はしかし、盛り上がった乳房を見るのに夢中で返事をしなかった。それが龍子に頭を鷲掴みにされて「聞いてるかにゃん?」と問われると、たちまち小鳥のように喋り出した。

「はい、聞いてます! 犯人はきっと穂村ですよ!」

「げっ!」

 一郎は図星を指されてうろたえながら、信じがたそうに友坂を睨んだ。

「な、なぜ俺だと思うんだ……?」

「だって御劔先輩に一番恨み持ってるのおまえだろ? 小遣い制限されたりしてさ」

「いやっ、それは……」

 一郎が抗弁しようとしたそのとき、友坂の頭から手を離した龍子が一郎を振り返り、一郎の顔の上に冷たい眼差しを据えた。たちまち凍りついた一郎に、龍子が底冷えのする声で云う。

「一郎……そうにゃん? おまえの仕業だったにゃん?」

「ち、が……」

 そう咄嗟に否定しようとした一郎の舌が、急にもつれた。嘘は吐くな。幼少のころよりそう叩き込まれてきたがゆえに、一郎のなかで育まれていたなにかが虚言に自制をかけたのだ。龍子の目が細められる。

「正直に云うにゃん」

 一郎は三斗の冷汗を流した末に、結局はありのままを白状した。すなわち母を荼毘に付したときの青猫との出会いから、昨夜の再会に至るまでのすべてをである。


 話を聞き終えた龍子は、すっくりと立ち上がって一郎の前に立ったかと思うと、ベンチに腰掛ける一郎の胸倉を掴み上げ、力ずくで立ち上がらせるや顔と顔を接して絶叫した。

「おまえのせいにゃん!」

「厳密に云うとやらかしたのは青猫ですよ」

 一郎は目を逸らしながら責任の所在をよそへ移そうとしたが、それは却って火に油を注ぐ結果となった。

「云い訳するにゃん! 今すぐその青猫というのをここに呼んで、この呪いをなんとかさせるにゃん!」

「ていうか、信じるんですか? 猫が喋って呪いをかけた、なんて」

「実際に私がこんな風になってるんだから信じるしかないにゃん!」

 このように追い詰められている一郎の傍らでは、友坂がのどかに顎を撫でている。

「もし本当に喋る猫がいるっていうなら、俺も見てみたいなあ」

「さあ!」

 龍子が一郎の胸倉を解放した。一郎は弾みでまたベンチに座り込んでしまってから、龍子に怖々と目顔で問いかけた。

「さあ、って?」

「その青い猫を呼ぶにゃん。昼休みが終わるまでに片をつけるにゃん」

「呼べって云われても、そう都合良く出て来てくれるかどうか……」

 一郎はその点においてはまったく確信を持てなかったが、龍子の瞳に燃ゆる瞋恚しんいの焔に背中を押されるようにして中庭を数歩歩き、青空へ向かって抑えた声で呼びかけてみた。

「おおい、青猫。いるか? いたら出て来てくれ――」

「声が小さいにゃ!」

 背後で龍子がそう声を張り上げた。この中庭に居合わせた他の生徒たちを憚って無意識に声を抑えていた一郎であるが、もはやこれまでであろう。一つ咳払いをして自分に弾みをつけると、まなじりを決し、今度は男らしい朗々たる声で呼びかけた。

「青猫! 用があるんだ、出て来てくれ!」

 突如そう声を張り上げた一郎に、中庭のそこここから生徒たちの視線が集まった。秋の太陽もまた一郎をよく照らしている。背後から龍子と友坂の眼差しが注がれていることは云うまでもない。が、しかし青猫は姿を現さなかった。猫の鳴き声一つしない。

 一郎は諦めて龍子を振り返ると、すまなそうに口を切った。

「やっぱり来ないみたいです」

「なぜにゃ!」

 鋭い声とともに龍子の右腕が伸びてきて、またしても一郎の胸倉を掴み上げた。一郎はつんのめるようにして龍子の顔に顔を接した。その美しい瞳に、自分の顔が映っている。

「なんでって……そうだ、思い出した。あいつはこう云ってました。君が私を必要とするとき、私は君の前に現れるって」

「じゃあ今、おまえは青猫を必要としてないにゃん?」

「そういうことかもしれません」

「ということは、本心では私を元に戻したいと思ってないにゃん?」

「そう、かも」

「そうかもじゃないにゃん!」

 龍子は激しながら一郎の体をこれでもかと揺さぶり、ひとつひとつの音を伸ばして云う。

「なんとかするにゃん!」

 それに一郎はときめいてしまって、ほうと幸せそうなため息をついた。まるで仔猫が一所懸命に親猫を揺さぶっているようではないか。

「ああ、こんな可愛いお龍さんは初めて。もう一生このままでいいよ」

「ふざけるにゃん!」

 夢に酔っていた一郎の足を、龍子が容赦なく踏み抜いた。友坂が腕時計を見ながら卒然と立ち上がったのはそのときだ。

「昼休み終わるぞ」

 その言葉の直後、まさしく昼休みの終わりを告げる鐘が鳴り渡った。


     六


 小学校卒業とともに剣道を投げ出した一郎と違い、龍子は幼少のころからずっと剣道をやっていた。だけあって主将の座こそ器でないとして固辞したが、今夏の大会でも素晴らしい成績を残し、剣道部のエースとして自他ともに認められているのである。その龍子が剣道部の稽古を休むと云い出したのは、一郎の知る限りこれが初めてのことであった。

「剣道の掛け声も『にゃー!』になりそうで怖いにゃん」というのがその理由である。

 そうした次第で一郎と龍子はまた腕を組んで学校からの帰途を辿っていたのだが、一郎の胸に朝方のときめきはもう無かった。

 ――やっぱりまずいかもしれないな。

 一郎は初めてそう思った。龍子の剣道を邪魔するつもりはなかったのだ。横目を遣って龍子の顔を盗み見れば、彼女もまた浮かぬ顔をしている。左肩にかけた剣道の鞘袋が空しい。

 二人は大して会話も弾まないまま、電車を乗り継いで地元の駅まで戻ってきた。秋の日は釣瓶落としで、駅舎を出たとき、辺りはもうすっかり宵の口であった。駅前の街路樹の葉叢はむらでは、雀が今夜の寝床を争って騒がしく囀っている。交差点で信号待ちをしていると、右折しようとした車のヘッドライトの光りがまともに目に飛び込んできて、一郎は眩しげに顔を背けた。そのとき後ろから友坂が声をかけてきた。

「よお、穂村。奇遇だな」

「ああ、おまえも今帰りか」

 肩越しに振り返って友坂にそう挨拶をした一郎の横で、龍子が怪訝そうに眉をひそめた。

「どうしておまえがここにいるにゃん?」

 それには友坂ではなく一郎が答えた。

「いや、こいつもこのまちに住んでるんですよ。たしか……」

「K小学校出身です」

 友坂が一郎の後を引き取ってそう答えると、一郎は「そうそう」と肯んじた。

 一方、一郎と腕を組んでいた龍子は思い出したように云った。

「K小学校ということは、M神社の近くにゃん?」

「はい」と友坂。

 すると龍子は一郎を仰ぎ見て、か細い声を発した。

「神社で思いついたにゃん。一郎、お祓いに行くにゃん」

「いや、この時間では、お祓いはやってないのでは……?」

「じゃあせめてお参りするにゃん。御利益があるかもしれないにゃあ」

 その元気のない声に、一郎は胸がつきんと痛むのを感じた。

「じゃ、俺も着いていこうかな」

 M神社の近くに住んでいるという友坂がそう声をかけてきた。拒否する理由はなかった。


 かくして三人はM神社の辺りまでやってきた。M神社はこの市の顔ともいうべき由緒ある神社で、塀のなかに広大な境内を有している。また神社の裏手には緑のある公園がある。一郎たちはその神社の南西の角のあたりを歩いていた。

 傍らを歩く友坂が、鬱蒼と生い茂る鎮守の森を見て薄気味悪そうに云う。

「しかしあれだよな。今まで気にも留めなかったが、喋る青い猫なんてものが実在するなら、幽霊とかも出るのかな」

「おい、やめろ」

 そう云われては、一郎もまた夜の神社が不気味に思えてきてしまう。龍子もそうであるのか、繋いだ手にぎゅっと力が込められた。

「お龍さん?」

 一郎は龍子の顔を心配そうに覗き込んだ。龍子は、白皙の顔を常よりもいっそう青ざめさせていた。それだけではない、額には脂汗が浮かび、眉間には苦悶の皺が寄っている。一郎はたちまち尋常でないと心づき、張りを増した声で訊いた。

「どうかしましたか?」

「んっ」

 龍子はなにか嘔吐をこらえるような様子で、一郎の方へと寄りかかってきた。一郎は思わず組んでいた腕をほどき、龍子をその胸に抱きとめる。

「なんだなんだ?」と友坂も騒ぎ始めた。

「い、一郎……」

「はい」

 龍子は一郎の胸に顔を埋めたまま、本当に苦しそうに囁いた。

「なんか、おかしいにゃ。お尻が、むずむずするにゃあ」

「お尻……?」

「お尻だって?」

 友坂がやに下がりながら龍子の後ろへ回り込もうとしたのだが、一郎はすかさずその背中を蹴りつけて転ばせておいた。しかしここは神社の南西の角であり、つまりは往来である。通行人はいつ通りかかるか判らないし、縁石の向こうにはヘッドライトを点けた車も走っていた。こんなところでお尻に異変が起きたと云われては非常に困る。

 それで一郎はやむなく龍子を抱き寄せると、首を伸ばして肩越しに龍子のスカートのあたりに目を凝らした。

「お尻が、どうかしましたか?」

 一郎がそう尋ねた直後、龍子が鞄をその場に落とした。彼女は両腕を一郎の背中に回して爪を立て、喉の奥で叫び声をあげた。

 同時に、龍子のスカートが内側から大きく動いた。スカートのなかに動物が入り込んでいるような感じだった。

「えっ? えっ?」

 一郎がうろたえて目を瞠った直後、内側からスカートをめくって、黒く長いものが現れた。

「尻尾!」

 転ばされて立ち上がった友坂がそれを見て叫ぶ。そんな馬鹿なことがあるものか、と一郎は思ったが、それは見れば見るほど尻尾である。龍子に猫の尻尾が生えてきた!

「えっ、えええ!」

 一郎は驚愕して龍子の肩を掴むと、自分にもたれかかるその体を引き剥がし、これがどういうことか問い糾そうと龍子の顔を覗き込んだ。そこで二つ目の大異変に気がついた。

「お龍さん、耳が……」

「にゃあ?」

 龍子は不思議そうに自分の耳を触り、そして凍りついた。龍子の耳は、猫の耳に形を変えていたからだ。


 数分後、落ち着きを取り戻した三人は、神社の南西の角に立ち、街灯の明かりの下で額を集めて話し込んでいた。

「これは、どういうことにゃ?」

「どうと云われても……」

 一郎は口のなかがからからに渇いていて、それ以上なにも云えない。龍子に猫の耳と尻尾が生じた。これは端倪すべからざる怪事である。

「にゃん語で喋るだけじゃないんだ」

 友坂が眼鏡を中指で押し上げながら、驚きに満ちた声をあげた。一郎と龍子が目顔で続きを求めると、友坂は興奮した様子で喋り出した。

「つまりあの喋り方は第一段階だったんじゃないかな?」

「第一段階……?」

 眉をひそめた一郎に、友坂は一つ頷いて続けた。

「まずにゃん語で喋るようになるだろ? これが第一段階。で、耳が猫のそれに変わって尻尾が生えてくる。これが第二段階」

 一郎はさっと青ざめた。話の先が見えてきて、息せき切って訊ねた。

「じゃあ第三段階は?」

「それはなんとも云えないけど、やっぱり爪が鋭くなったり、目が猫の瞳になったりするんじゃないかな」

「そのうち毛むくじゃらになったりして?」

「最終的には――」

「猫になっちゃう?」

 一郎と友坂は互いの目のなかを覗き込みながら、そんな未来を予測し合っていた。その傍で龍子が両手で頬を押さえて絶叫する。

「まずいにゃー!」

 月の夜空に響き渡ったその可愛い悲鳴の通り、本当にまずいことになった。

「そうだ、そうだった。あいつはお龍さんのことを『私みたいに可愛くするにゃん』と云っていた。それはお龍さんを猫にするってことだったんだ!」

 愕然と青ざめる一郎の肩を、龍子が勢いよく揺さぶってくる。

「一郎、今度という今度は本当に本気でなんとかするにゃん!」

「俺もなんとかしたいのは山々ですが、いったいどうすれば……」

 一郎は答えを求めるように、あてもなく視線を彷徨わせた。その視線が、道を北上していく一匹の猫の上で止まる。ただの猫ではない。毛皮がサファイアのように青かった。

「おっ?」

 友坂もそれに気づいて目を瞠る。最後に龍子が、一郎を押しのけるようにしてその青い猫を食い入るように見つめ、指差した。

「青い猫にゃん!」

 すると青猫はつと足を止めて、一郎の方を振り仰いでにゃあと鳴いた。

「君が私を必要とするとき、私は君の前に現れるにゃん」

「すげえ! ほんとに猫が喋った!」

 そう快哉を叫ぶ友坂の横で、龍子が青猫に向かって飛び掛かった。それを青猫はさすがの身のこなしで躱す。

「捕まえるにゃん!」

 その号令に打たれて一郎と友坂も青猫を捕えにかかったが、そうした六本の腕を青猫は軽々とかいくぐり、北へ北への遁走を始めた。それを追っていくと、青猫は途中で右に折れて、神社の敷地のなかへと飛び込んでいくではないか。

 そこは神社の駐車場である。その駐車場を横断したところで、一郎たちはたたらを踏んだ。

「どっちへ行った?」

 神社の西側から入ったので、夜の本殿を横から見た格好になっている。右へ行けば境内へ、左へ行けば神社裏の公園に出るはずだ。

「二手に分かれるにゃん!」

 決断すること疾風のごとし、龍子はあっという間に公園の方へ駆けていった。

「俺もこっち!」と友坂が龍子のあとを追っていく。

 一郎は出し抜かれたように思って歯噛みをしたが、今はなにをおいてもあの青猫を捕まえることが先決だ。それで右へ曲がり、神社の境内の方へと走り出した。


 人気のない夜の境内を、一郎は玉砂利を蹴散らしながら、動くものの姿を探して馳駆した。だがなにも見出せない。やがて途方に暮れると、自然と足も止まってしまった。

「いない」

「ここにいるにゃん」

 独り言に思いがけない返事があり、一郎は驚いて振り返った。果たして視線の先には、青猫が玉砂利の上に前足を揃えて行儀良く座っていた。にゃあ、と一声鳴く。


     七


 一郎は青猫に眼差しを据えると、一も二もなく切り出していた。

「頼む、お龍さんを元に戻してくれ」

「どうしてにゃ? 気に入らなかったかにゃ?」

「にゃん語で喋るだけなら可愛いなって思ったけど、本物の猫になるのはまずいだろう」

「じゃあ、にゃん語で喋るだけにするにゃ?」

 思いがけなく物わかりのよい提案が出て来たが、一郎はそれに飛びつきたい気持ちを思い切り、かぶりを振って晴れやかに云う。

「いや、全部を元通りにしてくれ。喋り方も含めて全部だ」

 風が吹いて境内の梢をさわさわと揺らす。宵闇のなか、青猫の瞳が金色に光っている。

「どうしてにゃん? 彼女が元に戻ったら、これから先、厳しい人生が待ってるにゃ?」

「でもお龍さんが困ってるんだよ。今日、剣道の部活を休んだんだ。こんなの初めてのことだ。俺は可愛いと思うけど、本人が厭なら、やっぱり元に戻さないとな」

 青猫は小首を傾げた。

「君はそれでいいにゃ? 明日からまたしごかれるにゃ」

「いいんだ。それが自然なんだから」

 すると青猫の尻尾がぴんと立った。機嫌のよいときのしるしである。

「話はわかったにゃ。それなら……」

「おおい!」

 そのとき、青猫の言葉を遮って遠くから友坂の声がした。それがなにか切迫している。顔を振り向けた一郎は、境内に転がり込んでくる友坂と、その友坂を追う龍子を見た。

「た、た、助けてくれえっ!」

「なんだ! どうした!」

「御劔先輩が、やべえっ!」

 そう声を振り絞った友坂が小石に蹴躓いて転んだ。その友坂の背中を踏み、龍子が高々と跳躍する。

「シャアッ!」

 一郎は龍子の喉からそんな叫びが放たれたのが信じられなかった。それに龍子の跳んだ高さもまた、人間のそれを越えていた。その踏み台にされた友坂は蛙の潰れたような声をあげて沈黙する。そして龍子は、玉砂利を蹴散らして一郎の前に着地を決めると、一郎をまさしく猫の瞳で睨みつけてきた。

「うっ、まさか……」

 第三段階に進んだ、ということなのであろうか。龍子は右手に竹刀を持っている。それはよいとして、猫の耳は憶えているよりも一回り大きくなり、尻尾もまた長くなって不機嫌そうに動いている。瞳は夜の闇のなかにあって炯々と金色に光り、口は、あろうことか耳まで裂けていた。面貌たるや人の情緒が失われて獣らしく荒ぶっている。

「なんかやばいもんに憑かれた巫女さんみたいになってやがる」

 一郎は戦慄に打たれながらそう呟き、足元でやはり龍子の様子を窺っている青猫に早口で声をかけた。

「おい、はやいところ元に戻してくれよ」

「それならさっさとキスするにゃん」

 一瞬、時間の歯車が軋みをあげて止まった。それほどのことを云われたと思った。

「はっ?」

 要領を得ない一郎を振り仰いで、青猫がなおも云う。

「呪いを解くのは接吻と昔から相場が決まってるにゃん。君が口づけしないとあれは元に戻らないにゃん」

「なんだと!」

 一郎のその絶叫が、龍子のなかでなにかの引き金を引いたらしい。

「シャアアアッ!」

 龍子は竹刀を振り翳して一郎に襲いかかってきた。それが剣道もなにもない、片手一本の袈裟斬りである。一郎はとっさに避けたが、龍子は今度は竹刀を持たぬ左手を振りかぶった。その五指の爪が鋭く研ぎ澄まされているのを、一郎は一瞬のうちに見て取った。

「うわっ!」

 一郎は咄嗟に右腕で顔をかばった。そこを龍子の爪が引き裂いていく。すると見よ、制服の袖ごと一郎の腕が切り裂かれていったではないか。そのひりつくような痛みに、一郎は背中に冷たい汗を掻いた。

「本当にやばい。なんとかしないと……」

 ――キスか。

「やってやる!」

 一郎はそう自分に号令を降すと、勇を鼓して龍子に躍り掛かった。だが龍子を抱きしめようとした腕が空を切る。龍子の身のこなしが凄くて捕まえられない。

「ぬっ! くっ! はっ!」

 三度目の手が空振りをしたとき、龍子が逆襲に出た。避けようとした一郎は、しかし左肩に竹刀を突き込まれて尻餅をついてしまう。そこへ龍子がのし掛かってきた。左手の鋭い爪が殺意を持って、一郎の首を掻こうとする。

 死ぬのか?

 そう思ったとき、一郎は破れかぶれに叫んでいた。

「お龍!」

 初めて、そう呼び捨てにした。すると龍子の手がぴたりと止まる。さりとて龍子が正気に返ったのかどうか、判断を絶して瞠然とするしかない一郎の前で、龍子は陰々滅々と語り出した。

「嫌われているのはわかっていたにゃん」

 一郎ははっとして龍子の言葉に耳を澄ました。

「でも一郎の将来を思えばこそ鬼になったにゃん? それなのにこれはひどいにゃー」

 一郎は胸を掻き毟りたい気持ちをこらえ、急いで云った。

「お龍さん、俺が悪かった。そして今から元に戻してあげます。だから――」

 そこでふたたび龍子は猫の呪いに呑み込まれてしまった。月を仰いでにゃあと鳴き、組み付している一郎を見下ろして猫の目を細めた。今度こそは万事休す、あの鋭い爪によって殺されてしまう。そう思った。

 ところがそのとき、思いがけぬ少年の声がしたかと思うと、龍子の乳房を後ろから両手で鷲掴みにする者があった。

「うりゃあ!」

 友坂である。龍子に踏み台にされてへたばっていた友坂が、今こそ息を吹き返して駆けつけてきたのだ。そして一郎にのし掛かる龍子の乳房を手がかりに、一郎から引き剥がそうとしている。

「今助けてやるぞ穂村あ!」

「その手を離せ! ぶち殺すぞ!」

「これくらいは役得だろお! おっぱい最高!」

 友坂は一郎を助けるのにかこつけて龍子の乳房を揉んでいるのだった。一郎ですら触ったことがないのに。

「羽交い締めにするとか、腰を抱きかかえるとか、色々あるだろ! なんでよりによってそこなんだよ!」

「うっせえ! 揉みたかったんじゃ!」

 友坂はそう本心を吐露しながら、背骨も折れよとばかりに胸を反らした。それでさすがの龍子も一郎から引き離されてしまった。彼女は今や竹刀を投げ捨て、四肢をばたつかせているが、完全に背後を取られているため友坂を振り解けない。

 すばやく立ち上がった一郎に向かって友坂が叫ぶ。

「ほら! 今のうちにキスでもなんでもしちまえよ!」

 友坂も青猫の話を聞いていたのであろう、龍子を懸命に抑え込みながらそう促してきた。しかし一郎は龍子に詰め寄ると、まなじりを決して拳を振りあげ、龍子の耳元を掠めるようにしてその背後の友坂を殴りつけていた。

「げふっ!」

 一郎の鉄拳を受けた友坂がひとたまりもなく地面にたたきつけられる。そして自由になった龍子は鳴きながら二人から距離を取った。

 倒れたはずみで眼鏡の位置のずれた友坂が、一郎の足下で悲しげに呻く。

「なぜに……」

「揉んだからだ。それに女性の唇を無理やり奪うのはよくない」

 一郎はそこでなんとか瞋恚しんいを調伏すると、我慢に我慢を重ねて拳をほどいた。

「助けてもらったことに免じて、命は奪わないでおいてやる。ありがたく思え」

 その言葉を最後に、一郎は友坂から目を切って龍子に眼差しを据えた。龍子はもう先ほどのように一郎に飛び掛かってはこない。ただ猫の瞳でこちらの様子を窺っている。

 一郎は深呼吸をすると、そんな龍子に向けてはっきりと云った。

「あなたを愛しています」

 龍子の尻尾がぴんと立った。が、その尻尾はすぐに疑り深そうに右へ左へ揺れた。

「……嘘にゃん」

「嘘ではありません」

「だって一郎は私のこと嫌いにゃん」

「嫌いではありません。それは確かに締め付けが厳しいと疎んじたことはありました。逆らったこともありました。それでもあなたがいなくなってしまえばいいと思ったことはない」

「でも私は可愛くないにゃん」

 その言葉に、一郎はちょっと眉をひそめた。

「お龍さんは、とても美人です」

「顔のことじゃないにゃん! 性格にゃん!」

 言下にそう叫んだ龍子は、たちまち柳眉を逆立てて殺気立つとまた一郎に飛び掛かってきた。一郎はもう逆らわずに、龍子にされるがまま押し倒された。

「私だって自分が可愛げのないことくらい知ってるにゃん! でも私の親はろくでなしにゃん! 強くならなくちゃ生きていけなかったにゃん! こういう性格になるしかなかったにゃん! それがこんな風にしか喋れなくなってしまって……もうおしまいにゃん。全部おしまいにゃん。かくなる上は、おまえを殺して私も死ぬにゃあ」

 龍子の猫目が細められ、ふたたび殺意のしたたる爪が掲げられた。それを見た一郎は、もう怖いとは思わなかった。

「わかりました。では殺してください」

 すると振り下ろされようとしていた龍子の爪が、動揺もあらわに空中で止まった。一郎は龍子の、猫の相を帯びた顔をじっと見上げて、男らしい声で云う。

「あなたと一緒に死ぬのなら本望です」

 すると振りあげられていた龍子の腕がわななき始めた。その目にみるみる涙が溢れていく。それはついには銀の滴となって一郎の頬にまで落ちてきた。

 一郎はそんな龍子の顔に手を伸ばし、親指で涙を拭ってやった。

「泣かせるつもりじゃ、なかったんですけど」

 するとそれがなにかの引き金になったかのように、龍子が大声で鳴いた。

「にゃあああ!」

 龍子が背中を丸めて一郎に抱きついてくる。頬ずりをされると、その耳があらためて獣のそれになっていることが感じられた。

「わ、わ、わ――」

 龍子はそう何度も繰り返したのちに、喉につかえていたものを吐き出すように云った。

「私も一郎のこと好きにゃん!」

 いったいこのとき一郎の胸を満たしたときめきは、温かい海のようだった。龍子が顔を上げる。その顔はもうだいぶ人間のそれに戻っていた。一郎の愛した顔だ。

 それで一郎は身を起こすや、電光石火にその唇を奪っていた。

 そのまま目を閉じ、龍子の体温と柔らかい肉体を感覚して幸福に浸っていたが、やがて息苦しくなって唇を離すと目を開けた。龍子の耳は、人間の耳に戻っていた。

「……戻りましたか?」

「どうやら、そのようだ」

 いつもの龍子の厳かな口ぶりに、一郎は一抹の寂しさを感じながらも微笑んだ。そのまま二人はいつまでも見つめ合っていられるような気がしたけれど、時間の止まっているわけでないことは、死にかけの虫のような声が教えてくれた。

「おおい、誰か、忘れてないかい……?」

 一郎と龍子ははっと心づいて、相共に赧然と頬を染めながら立ち上がり、友坂を助け起こしてやった。

「殴って悪かったな」

 一郎は先刻の怒りが去ってみるとやはり悪いことをした気がしてそう謝った。ところが龍子は憤然と云う。

「謝る必要はない。場合が場合でなかったら警察沙汰だ」

 一郎がそれに苦笑をしたとき、頭の上の方でにゃあと猫が鳴いた。弾かれたように神社の本殿を仰ぎ見れば、そこの屋根に青猫が行儀良く座っているではないか。一郎がその金の瞳と目を合わせたとき、青猫は云った。

「私は幸せを呼ぶ青い猫にゃん。お幸せに。ばいにゃ」

 一郎がなにを云う暇もなく、青猫はさっと身を翻すと屋根の向こうへ消えてしまった。

 それ以来、一郎がその青い猫の姿を見たことはない。


     八


 その翌日、一郎は剣道部への入部を余儀なくされていた。

「私の夫たるもの、私より強くなってもらわなくては困る。いや、仮に私より弱くても、せめて努力はしてもらわねばな」

 龍子がそう云うので、一郎に選択の余地はなかった。また龍子が昨日おかしな言葉遣いをしていたのは、表向きには一郎がふたたび剣道を始める条件を呑んでいた、ということになった。本当のことを云っても誰も信じないのだから、これは已むを得ない。

 ところで一郎の通っている学校は中高一貫高であり、武道館が一つしかない関係上、部活の練習は中等部と高等部が一緒になって行われる。そして一郎と龍子が正式に付き合い始めたことはその日のうちに知れ渡り、しかも龍子は多くの男子に憧れられていたのだから、畢竟、龍子を射止めた一郎に対する他の男子の風当たりは強烈なものがあった。

「穂村ア! 行くぞ!」

 一郎は今まさに、歓迎会と称して先輩十人に次から次へと稽古をつけてもらっているところだった。しかし彼らは間違いなく、剣道にかこつけて一郎への憂さを晴らそうというのである。

「くそっ! なぜ俺ばかりこんなにも試練が……!」

 一郎が思わず漏らしたその嘆声を聞いて、同じ武道場を使っている女子剣道部員のなかから龍子がこちらを振り返った。

「がんばれ、旦那様」

「穂村ア!」

 先輩のなかでも一等龍子に惚れていたらしい男子がそう悋気に燃ゆる雄叫びをあげた。

 ――まあいい。あの人は俺のものだ。それだけで全部報われる。

 一郎は快闊にわらうと、竹刀を構え、自分に稽古をつけてくれる先輩を睨みつけた。

「押忍!」

 威勢のよい一郎の叫びが、武道場の天井いっぱいに響き渡った。

                                     (了)

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なんとかするにゃん! 太陽ひかる @SunLightNovel

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