013

 晴れわたる青空。白い雲の衣を脱ぎ捨てて、太陽はそのまばゆく輝く肌を惜しげもなくさらしている。見る者が目を背け、頬を赤く染めるさまは、さながら羞恥心に襲われているかのよう。

 けれども実際には、もっと切実な――地獄だ。

 どこまでも続く灼熱の荒野。砂と岩と、まばらな草と、サボテンと、タンブルウィードと。

 サソリが、ガラガラヘビが、今か今かと美しき獲物たちを待ちかまえている。

「なァ、今どのあたりにいるんだ? テキサス?」

「アリゾナ」

 そう、ここはアリゾナ砂漠。メキシコとの国境にほど近い、アメリカ合衆国のはてのはて。無法地帯。

 ここには何もない。あるのは死だけだ。生き延びた者はみなここを脱出する。出られなければ死ぬ。死体になるか、力尽き倒れて生きたまま、どちらにせよハゲタカに食われる。それがここのルール。弱肉強食がすべてを支配する世界。

 その無慈悲な大自然のなかを、ローラ・リーは汗だくで歩いている。それも棺桶を引きずりながら。本来の持ち主であるモリスは、棺桶の上に寝そべっていた。さしずめ犬小屋の屋根の上で寝るスヌーピー。「もう一歩も動けん」などと駄々をこねて動こうとしなかったので、しかたなくこうして運んでいるのだ。まったく、バンパイアの怪力がなければどうなっていたことか。

 そもそも、こんなことになったのもモリスが原因だった。キンスキーがアグアカリエンテにいるらしいという情報をつかんだ彼らは、移動手段に自動車を選んだ。というのも、モリスが飛行機は嫌だとワガママを言い出したからだ。何でも過去に四回、乗っている飛行機が墜落したのだそうだ。

 それでしかたなく、中古車ショップから適当な車を手に入れた。「いいねえ。この車」「さすがお客さん、お目が高い。72年型フォード・トリノ――グラン・トリノですよ。ファストバック。コブラエンジン」「〝オージー・ポージー、フォードは愉快〟きっとイイ声で鳴くんだろうな」「もちろんですとも。試しに聞いてみませんか。これがキーです」「どれどれ――ああ、確かにこいつは素敵だ」「そうでしょう。イイ音でしょう? 余裕の音だ。馬力が違いますよ」「だが一番気に入ってるのは」「何です?」「値段だ」「――あぁ、ちょっとお客さん! ダメですここで動かしちゃ! 降りてください! 待って! 止まって! ドロボー!」

 ところが、神は不正を許さなかった。なんとこのグラン・トリノがひどいポンコツで、ほんの数マイルも走らないうちに故障してしまったのだ。コブラエンジンが聞いてあきれる。砂漠の真ん中で立ち往生するハメになった。工具を積んでいなかったので、修理のしようもない。ほかに車が通らないのでヒッチハイクもできず、結局歩くしかなくなり――現在に至る。

 一応、翼で飛べば歩くより早いことは早いが、その代わり体力がもたない。旅客機から飛び降りたときのように滑空するだけならともかく、この陽射しを浴びながら長時間飛び続けるのは現実的ではない。それならマラソンでもしたほうがまだマシだろう。人体には本来ありえない翼と、もともと生えていた二本脚とでは、酷使した際の疲労は比べるべくもない。

 人魚姫は王子に愛してもらうため、薬で人間の姿に変身した。美しい声と引き換えに、鱗のびっしり生えた尾ひれを捨てて、二本脚を手に入れた。けれどもその脚は歩きまわるたび、激痛に襲われたのだという。バンパイアも同じだ。何もかも都合よくというわけにはいかない。

「ああ、暑い……。のどが渇いてしかたがないわ。死にそうなくらい」

「少しくらいなら、おれの血を分けてやってもいいぜ」

「けっこうよ。男の血なんて飲みたくもない。そんなことより頼むから、いいかげん自分の脚で歩いてくれないかしら」

「ことわる。こんなクソ暑いなかを歩くなんて冗談じゃアない」

「ぐぬぬ……キンスキーを倒したら憶えていなさい」

 いや、しかし、こんなことをさせられてまで維持しなければならないほど、ふたりの同盟には価値があるだろうか。ローラはわりと本気で考え直しそうになった。

「何を言ってやがる。懸賞金を独り占めしたいばっかりに、おれをだまして裏切ったことを、海のように広い心で水に流してやったんだぜ。このくらいはむしろ喜んでやるのが筋ってもんだろ」

「“蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし、大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した”――おお、天にまします神よ! 今すぐこの悪魔を、火と硫黄の池に投げ落としてください!」

「お望みとあらば、今すぐ妊娠させてやろうか? 救世主を孕めば、神様もきっと優しくしてくれるだろうぜ」

 ローラはどちらかというと聖母マリアより、この瞬間は聖クリストファーに親近感を覚えていた。しかし、ドラキュラをイエス・キリストに重ねるのは不敬だと気づき、すぐにその考えを追いやった。

「……陽射しが嫌なら、棺桶のなかに入っていれば? そしたら涼しくて冷たい土の下に埋めてあげるけれど」

「空飛ぶ棺桶よりマシなのは確かだな。もっとも、そうしたいのはヤマヤマだが、あいにく先客がいる」

 その言葉に、ローラは思わず飛び上がりそうになった。「ウソでしょ? カラッポじゃなかったの?」

「カラの棺桶なんて、金の入っていない財布並みに無価値だと思わないか? そんなものを肌身離さず持ち歩いて、いったい何の意味がある」

「……わたしに言わせれば、そもそも棺桶なんて持ち歩くこと自体どうかと思うけれど……」

 ローラは中身が気になったが、別に知ったところでこの気分がよくなるとは思えなかった。というか、知りたくもない。心臓に悪い。何も聞かなかったことにする。

 もし死体が入っていたら、当然この暑さで腐って――

「……善きサマリア人の話を知っているかしら」

「アタリマエだ。『ダイ・ハード3』のサミュエル・L・ジャクソンのことだろ。サイモンは言った」

「そっちじゃなくて、元ネタのほう。新約聖書に出てくるイエスの例え話。厳密にはルカによる福音書10章25節から37節。追いはぎに襲われて半殺しになった人がいた。祭司もレビ人も見捨てたけれど、サマリア人だけが彼を見て憐れに思い助けた。この例えは、隣人愛とはどのようなものかを示しているわ。隣人愛とは、見知らぬ他人を誰彼構わず助けることじゃない。困っている人と出くわして憐れに感じたなら、そのときは相手が誰であろうと手を差し伸べるべきだと、イエスは言っているの」

「なるほど。だったらおれこそ善きサマリア人だな」

「なぜ?」

「キンスキーに苦戦しているおまえさんを助けたんだから」棺桶に乗って運んでもらいながら、モリスは得意げに言った。

「あなたがわたしの隣人だったら、現在進行形で困っているわたしを助けてほしいんだけれど……」

「ところで、その話とおれの棺桶の中身に何の関係が?」

「モーゼの海を割る奇跡があるじゃない。かなり有名な伝説だけど、具体的にどうやったか知っているかしら。出エジプト記によると、神が強風を起こして海水を退かせたそうよ。すさまじい話よね」

「そうだな。おれが風を起こしたって、棺桶のフタも開けられねえ」

「ブタの大群に取りついた悪霊レギオンの話を知ってい――」

 棺桶のなかを死んでも見たくないローラは、必死に話を逸らそうと努力し続けた。心臓に悪いことは苦手なのだ。なにしろバンパイアだから。大丈夫、仮にもシスターを装っているのだ。聖書ネタならひと晩じゅうでも語る自信がある。

 もっとも、そこまでする必要はなかった。小一時間ほど経ったころ、信仰心篤いローラへの思し召しか、海を割るようにそれは現れた。

「ギリシャ神話のメデューサは、目を合わせた相手を石化させる能力があると言われているけれど、本来はそのあまりに醜い顔を見た相手が、勝手に恐怖で石のように硬直してしまうというだけで、実際に身体が石になるわけじゃア――」

 獣が吼えるようなエグゾースト。次第に大きくなっていく。北の方角から、砂煙を巻き上げながら近づいてくる。

「アレはまさか――やっぱり! 車! 車がきたわ!」

「へえ、ピンクキャデラックか。男の夢だな。……まァ、本音を言えばフォードのほうが好みなんだが、背に腹は代えられん。ガマンしよう」

「それにしても、なんでこんなところに……というか、いったいどこへ向かっているのかしら」

「どうせどこぞの運び屋トランスポーターだろう。おおかたメキシコの国境を越えて、マリファナでも運ぶんじゃないか」

「いや、それならメキシコ側から来るはずでしょ」

「だから、これから仕入れに行くのか、仕事を済ませてメキシコへ帰るところだろうさ。それか、犯罪者をメキシコに逃がすのかもしれん」

「何だっていいわ。これでようやくアシが確保できる」

 ローラは行き倒れのシスターを演じることにした。モリスにはそのまま棺桶の上で寝たフリをしてもらう。

 やがてピンクキャデラック――エルドラド・ビアリッツが近づいてきて、目の前で停車した。

 運転席と助手席、男がふたり乗っている。ひと目見てわかるくらい、いかにもカタギではない雰囲気。これで遠慮する理由はなくなった。

 ひとりが車から降りてきた。「おい、どうかしたかいシスター? 何かお困りのご様子だが」

 ローラはさりげなくロングスカートのすそからフトモモをさらしながら、「実は、そこの彼と一緒にご遺体を運んでいたのですが、ヒッチハイカーのフリをした強盗に、車を脅し取られまして。この炎天下のなか砂漠を歩くしかなく。彼はわたしを気遣って水を優先的に飲ませてくれたのですが、とうとう日射病にかかり……うぅ!」

「おお、それはかわいそうに」男は運転席に呼びかけた。「おい、シスターとそこのダンナに水を分けてやれ」

「おいおい、本気か? そいつら乗せていくつもりかよ」

「後部座席に2人乗れるだろ」

「俺が言ってるのはそういうことじゃない。まだ仕事中だろうが。それと言っておくが、オレの大事な愛車に棺桶なんて載させねえからな」

「まァ落ち着け。シスターを見捨てるなんて、そんな恐ろしいことできるかよ。あとで神様になんて釈明する気だ?」

「……わかったよ。ただし、棺桶は置いて行かせろ。俺の大事なキャデラックに傷がついちまう」

 もうひとりの男が、渋々といった様子で水筒を手に車から降りた。

 ローラは最初のグラン・トリノが故障したことで、かなり神経質になっていた。万が一にも車を壊すわけにはいかない。ゆえにふたりとも車から離れる瞬間を待っていた。今この瞬間を。

 不用心に近づいたふたりに、ローラとモリスはそれぞれ銃口を突きつけた。運び屋たちの顔から血の気が引く。

こンちきしょうジーザス・クライスト! なんだってんだいったい!」

「動かないで。おとなしくしていれば命までは取らないわ」

「ほら、だから言っただろ! 嫌な予感がするって!」

「言ってねえよ!」

「おとといカジノで言った!」

「知るか! だいたいあのときもボロ負けしただろうが!」

「ちょっとうるさい」

 あいにく手ごろなロープを持っていなかったので、銃把の角で頭を殴りつけてふたりとも気絶させた。さっきの言葉どおり命まで奪う気はない。

「このふたり、どうする?」

「そのまま放っておけよ。まァ水くらいは残してやってもいいが」

「冗談でしょ? 長年バンパイアやってると忘れがちだけれど、フツーの人間っていうのはそんな丈夫には出来てないの」

「むしろさっさとラクにしてやったほうが、こいつらのためか」

「やめて。彼らは善きサマリア人なんだから。演技とはいえ、死にかけているところを助けてもらっておきながら、殺すなんてとんでもない。放置して結果的に死なせるのも同じことよ」

 ローラは車のなかを探って、ちょうどいいものを見つけた。「水だけじゃなくて、このチョコレートも残してあげましょう。少しは腹の足しになるわ」

「板チョコ1枚か……。まァないよりはマシだな。……しかしこの車、シートがレザーじゃねえか。安っぽいぜ」

「文句を言わない。レザーなんて見かけだけで、夏は暑いし、よく滑るわ、すぐひび割れるわ、ろくなことはないわ」

 棺桶を後部座席になかばムリヤリ積み込むと、ふたりはようやく出発した。ちなみに運転はモリスだ。手早く加速してトップギアに入れる。いいかげんシャワーで汗と砂を洗い流したい。

 ふとモリスは、助手席前の開いたグローブボックスに、板チョコがまだ数枚残っていることに気づいた。

「なんだ、あいつらに全部残してやらなかったのか?」

「エッ? なぜ? わたしの分がなくなってしまうわ」

 冗談でも誇張でもなく、本気でローラは質問の意味がわからない様子。

「……チョコレート、好きなのか」

「ええ。口のなかで溶けたときの、ネットリして舌にからみつくカンジが、血とよく似ているのよね。だから代わりによく舐めているの。吸血衝動カニバリズムを落ち着かせるには最適よ。――あ、1枚食べる? あなたにも特別に分けてあげるわ」

「いや、遠慮しておく。……ラジオでも聴くか」

 カーステレオのスイッチを入れると、ちょうど景気のイイ音楽が流れていた。ゴリラズの『クリント・イーストウッド』だ。

 曲のテンションに後押しされるように、モリスはアクセルをよりいっそう強く、強く踏み込んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る