One cat  早朝、円卓公園にて


 ――箱庭第02地区、トウキョウ。

 早朝。

 春風が、本島の東へと吹いていく。

 風は凪いだ首都湾にさざなみをたて、本島から東に位置する常若島にたどり着く。常若島についた風は勢いを増し、湾岸に広がる常若町を駆け抜けた。

 常若町は、島の中央に聳える猫丘に沿って築かれている。

 なだらかな島の斜面には、混み合うように漆喰で固められた白い建物と、入り組んだ坂道が混在しているのだ。島の沖合から眺めた町の風景は、かつて地中海に築かれていた島々の街並みを彷彿とさせる。

 常若島の直径は約数キロ。人口は1500人前後と比較的多い。

 旧文明時代、ウイルス感染者の隔離地区として設けられたこの人工島には、キャットイヤーウイルス研究を目的とする組織、マブの主要施設が集まっている。

 マブは各地にある箱庭地区を統括しており、統治機構の役割も担っている。常若島はその統治機構の中核とも言える場所だ。

 旧文明時代、常若島には13人の子供たちが収容され、治療を受けていた。

 その1人である少年の特殊なウイルスからワクチンと特効薬がつくられ、人類は滅亡を免れたのだ。生き残った人々は少年を称え、救世主として祭りあげた。

 人々は少年を灰猫と呼び、彼を信仰の対象とした。そして少年の要望に応え、死んでしまった12人の子供たちを慰霊する公園を常若島の頂きにつくったのだ。

 そうしてつくられた円卓公園に、春風はたどり着く。

 円形になっている公園のすみには、12本の桜が植えられている。桜は12人の子供たちを追悼するために植えられたものだ。

 風はその桜の梢を順番にゆらして、中央に植えられた桜に向かう。

 中央の桜は他の桜よりも1回り小さい。この桜は灰猫の死後、彼のために植えられた。

 人々はこの桜を『灰猫の桜』と呼び、親しんでいる。

 灰猫の桜の下では、1人の少女が歌を奏でていた。

 少女の歌は鎮魂歌だった。歌は白猫と死別した灰猫の想いを綴った曲だ。

 白いネコミミを持つ彼女は、桜色に煌く瞳を伏せ、灰猫の想いを歌い上げていく。

 春風は桜下で歌う少女ハルの歌声を拾い、島中に響かせていく。

 ハルの側には涙を流す、少年ソウタの姿もあった。




 








 One cat  早朝、円卓公園にて





 蕾をつけた灰猫の桜の下で、ハルは歌を奏でていた。

 春風が薄紅色の桜の蕾をゆらし、ハルの銀髪を撫でていく。風は歌を拾って、ハルの側にいるソウタのネコミミに歌声を届けてくれる。

 歌は鎮魂歌だった。恋人である白猫を亡くし、嘆き悲しむ灰猫の歌だ。

 灰猫の悲しみを、ハルは切々と歌いあげる。灰猫の嘆きを歌に乗せて周囲に響かせていく。歌を聴いて、ソウタは瞳を潤ませていた。義母であるサツキを亡くした悲しみが、歌を通じて鮮明に蘇ってくるのだ。

 脳裏に過るのは、亡くなる前に見たサツキの笑顔。亡くなる前日、サツキは見舞いに来たソウタを笑顔で見送ってくれた。

 胸が苦しくなる。瞳から涙が溢れてしまう。

 ソウタの心臓が悲しみに絶えかね、切ない音をたてた。

 不意に歌がやむ。

「ソウタくん、心臓の音……」

 ハルに呼ばれ、ソウタは我に返る。

 涙で潤んだ視界に、輪郭のぼやけたハルが映り込む。ソウタはネコミミをプルプルと振り、瞳を擦った。

 ハルを見返す。彼女は困ったように伏せたネコミミを動かしていた。心配そうに彼女は瞳をゆらし、ソウタを見つめている。

「ごめん……」

 申し訳なくなって、ハルに謝る。

 ハルの鎮魂歌を聴くと、死んだサツキのことを思い出してしまう。そのせいで、心臓が悲しい音をたてるのだ。その音が気になると、ハルはいつも歌うことをやめてしまう。

 ハルは、周囲の音から即興で歌を奏でることができるケットシーだ。通常の人間には聞こえない他者の小さな心音ですら、彼女は聞くことができる。

 ハルがネコミミをゆらしながら、ソウタに歩み寄ってきた。

「大丈夫?」

 そっとソウタの頬に触れ、顔を覗き込んでくる。彼女の顔を見ることが出来ず、ソウタはうつむいてしまう。また、ハルに迷惑をかけてしまった。そんな思いが、ハルを見ることをためらわせるのだ。

「少し、休もうか?」

 気遣うように、ハルが優しく語りかけてくれる。顔をあげると、微笑むハルの顔が目の前にあった。

「うん」

 瞳を擦り、ソウタは頷く。ハルは嬉しそうに笑みを深めた。

「ほら、早く」

 ハルがソウタの手を握る。その手の柔らかさに、思わずソウタは息を呑んだ。

 心臓が高鳴る。ハルの手の温もりが心地いい。ソウタの鼓動は、否応なしに早くなっていった。

「ソウタくん、心臓の音……」

 ハルが頬を桜色に染め、恥ずかしそうに潤んだ瞳を向けてきた。

「ごめん……」

「謝ってばっかりだね、ソウタくん」

 ハルが瞳を綻ばせる。桜色に煌く瞳にソウタは魅入ってしまう。

 また心臓が高鳴り、ソウタはハルから顔を逸していた。ハルも頬を染め、ソウタから視線を離してしまう。

「休もっか……」

「うん……」

 顔を見合わせることなく、2人は灰猫の桜下と歩んでいく。桜の前には、白いレース柄のシートが引かれていた。

 シートの上にはバスケットと、乳白色をしたボーンチャイナのティーカップが2客置かれていた。ティーカップは薔薇の蕾を想わせる上品な形をしている。カップは、波状の凹凸が施されたソーサーの上に置かれていた。

「わぁっ」

 ネコミミを嬉しそうにたて、ハルは瞳を輝かせながらティーカップを見つめていた。そんなハルを見て、ソウタは口元に笑みを浮かべる。

 女の子は可愛いものが好きという、義姉ミミコのアドバイスを覚えていてよかった。

 レース柄のシートも、ボーンチャイナのティーカップも、ハルの喜ぶ顔が見たくてソウタが家から持ってきたものだ。

「座ろっか」

 ソウタは弾んだ声をハルにかける。ハルは嬉しそうにネコミミをゆらし、ソウタに振り返った。

「ありがとうっ。ソウタくん」

 ハルが笑う。

 どきりと、また心臓が音をたててしまう。その音を聞きつけたのか、ハルが怪訝そうにネコミミをたらしてきた。

「なんか、飲む? 紅茶、持ってきたんだ」

「あ、ソウタくんっ」

 ソウタは慌ててシートへとあがる。ソウタを追いかけ、ハルもシートの側へと駆け寄ってくる。

 ハルを見ないようにしながら、ソウタはシートに置いてあるバスケットを引き寄せた。

 ソウタはバスケットから桃色と青色の魔法瓶を取り出し、バスケットの横に置く。ソウタはシートに座り、カップの乗ったソーサーを引き寄せる。青い魔法瓶を手に持つ。蓋を開け、中に入ったお湯を2客のカップに注いでいく。

 お湯がカップに半分ほど注がれたところで、ソウタは2客のカップを手にした。カップを傾かせ、中に入っているお湯をシートの外へと捨てる。

 ネコミミをたて、ハルはその様子を興味深げに見つめていた。彼女に対し、ソウタは得意げに笑ってみせる。

 お湯はカップを温めるために入れたものだ。カップに注いだ飲み物を保温する効果もあるし、カップを手に持っても冷たくない。

 ソウタは静かに、カップをソーサーに置いた。桃色の魔法瓶を手にとり、蓋を開ける。

 ふんわりと、爽やかな花の香りがソウタの鼻腔に広がった。

 魔法瓶に入っているのは、ダージリンだ。3月に採れたばかりのファーストフラッシュ(初摘み)のダージリンは、繊細な味を楽しむことができる。

 きっとハルは、このダージリンを気に入ってくれる。

 嬉しそうに紅茶を飲むハルの姿が目に浮かぶようだ。ハルの喜んでいる姿を想像し、ソウタは笑みを深めていた。

 ソウタは魔法瓶を傾け、カップにダージリンを注いでいく。さわやかなダージリンの香りが、あたりに漂う。

「いい香り……」

 ハルが、うっとりと声をあげた。

 ダージリンの香りが心地よいのだろう。ハルは気持ちよさげにネコミミを伏せ、瞳を閉じている。

「おいでよ、ハル」

 ハルに声をかける。彼女は驚いたようにネコミミを動かし、瞳を開けた。

 ハルは恥ずかしそうに頬を桜色に染め、はにかんでみせる。

 彼女は靴を脱いで、シートの上に遠慮がちに足を乗せる。スカートの裾を纏めながら、ハルはゆったりとした動作でシートに腰かけた。

「いただます」

 ソウタに向き直り、ハルはぺこりと頭をさげる。彼女のネコミミも一緒にたれさがった。

「はい」

 ソウタはカップをハルに差し出す。ハルは嬉しそうに瞳を輝かせ、カップを受けとった。

 彼女はカップを大事そうに両手で包み込み、中を覗き込んだ。カップの中では注がれたダージリンが朝陽を浴びて、オレンジ色に輝いている。

「きれい」

 美しい水色を見つめながら、ハルは瞳を綻ばせた。彼女の顔に笑みが咲き誇る。

 ソウタはまた、心臓を高鳴らせてしまう。

「ソウタくん……」

「ごめん」

 ハルが困ったようにネコミミをゆらす。

 彼女は怯えたように瞳を震わせ、ソウタを見つめてきた。気まずくなってソウタはネコミミを伏せる。

「駄目だね。心臓の音、慣れなきゃいけないのに……」

「鎮魂祭まで、あとちょっとだもんね。でもハル、すごくがんばってるよ」

「変だよね、心臓の音が気になって歌に集中できないなんて。ソウタくんに協力してもらってるのに、ぜんぜんよくならない……」

 ダージリンに視線を落とし、ハルは苦笑した。オレンジの水面に映る彼女の顔は、今にも泣きそうだ。

 とくりと、ソウタの心臓が悲しげな音をたてる。

 初めて会ったとき、ハルは奇妙なお願いをしてきた。鎮魂祭に出るために心臓の音を克服したいと、彼女はソウタに頼んできたのだ。

 鎮魂祭とは、ウイルスにより亡くなった人々を弔うためにおこなわれる祭典のことだ。

 毎年、円卓公園でおこなわれる鎮魂祭では、さまざまな音楽が演奏される。その鎮魂祭で歌を披露するために、ハルは心音を克服したいと言った。

 鎮魂祭で歌いたいが、他人の心音が気になって歌に集中することができない。だから、歌を聴いてほしい。他人の心音を聴きながら歌えば、集中できるようになるかもしれないからと。

 ソウタは、ハルの頼みを断ることができなかった。

 彼女の真剣な瞳差しから、瞳を逸らすことができなかったのだ。

「凄いね、ハルは。俺なんて、ぜんぜん……」

「そんなことないよ。私は、お義母さんのために歌いたいだけだから……」

 ハルが悲しげに瞳を伏せる。ネコミミについた彼女の鈴が小さく音を奏でた。

 そんな彼女から、ソウタは瞳を逸していた。気まずくなって、ハルを見ることができなくなったのだ。同じ悲しみを抱えていても、自分と違いハルはその悲しみに立ち向かおうとしている。

 ソウタは、ハルの強さが羨ましい。

 ソウタと同じく、彼女も母親を亡くしている。その事実を受けとめ、ハルは歌うことで前に進もうとしているのだ。

 サツキの死を嘆き、立ちとまっている自分とは違って――

「足音……」

 不意にハルが呟いた。我に返り、ソウタはハルに視線をやる。

 彼女は静かに、カップをソーサーに置いた。

 瞳を見開き、ハルは前方に視線をやる。彼女はネコミミを小刻みに動かし始めた。

 まるで、何かを警戒しているようだ。

「ハル」

 声をかけるが、ハルは前方を見つめたまま動こうとしない。

 彼女はネコミミを膨らませ、瞳を鋭く細める。ハルのネコミミについた鈴が、チリチリと不穏な音をたてた。

「来る……」

 ハルが鋭く言う。

 その言葉を受けて、ソウタもネコミミの毛を膨らませていた。

 ソウタは奥歯を噛み、瞳を鋭く細める。ハルの腕を強引に引っ張り、彼女を自分の胸元へと抱き寄せた。

「わっ、ソウタくん?」

「ごめん、隠れなきゃ」

 ソウタはハルにかまうことなく、彼女を横抱きにした。

 ハルをしっかりと抱きしめ、地面を蹴る。跳躍したソウタは、二手に別れた桜の幹に着地した。梢が密集する場所へと移動し、身を屈める。

 ソウタは腕の中のハルを見た。

 彼女は怯えたようにネコミミを伏せていた。銀の瞳が、縋るようにソウタに向けられている。

「大丈夫、俺がいるよ……」

 彼女のネコミミに優しく語りかける。ハルは安心したように瞳を綻ばせ、ソウタの首に手を回してきた。

 ハルを強く抱きしめ、ソウタは息を殺す。

 ハルが聴いていたと思われる音が、ソウタのネコミミにも聞こえてきた。

 音は足音だ。それも複数。足音は、こちらに近づいてくる。

 足音がとまる。

 ソウタは瞳を眇め、梢の隙間から地面を見おろした。桜下には足音の主であろう、2人の子供がいた。

 子供の1人は、ツインテールが愛らしい、茶トラ柄のネコミミを持つ少女。もう1人は錆トラ柄のネコミミを持つ小柄な少年だ。2人とも萌黄色の学生服に身を包んでいる。

 ソウタは、2人を忌々しげに睨みつけた。

 2人は桜下に広げられたシートを挟み、何やら話し込んでいる。ソウタは2人の会話にネコミミを傾けた。

「ねぇ、ハイ。また、なんにもいないよ。やっぱり、幽霊なんだよ!!」

 少女が大きく手を広げ、大声をあげる。

「姉ちゃん、煩い……」

「あうっ!」

 少年がぼそりと呟き、少女の胸を手刀で叩く。少女は呻き、茶トラ柄のネコミミを痛そうに反らした。

「また、あの子たち……。私たちのこと、噂みたいに、幽霊だと思ってるのかな?」

 腕の中のハルが、ぽつりと言う。

 ハルの言葉を聞いて、ソウタは島で流れている噂について思いを巡らせていた。

 ハルと歌の特訓を始めてから、島で妙な噂が流れ出した。

 噂は、『13人の子供たちの幽霊が、円卓公園で歌をうたっている』というものだ。

 ハルの歌を、島民たちは幽霊がうたっているものと思っているらしい。その噂をたしかめようと、下の2人組はよく公園にやって来るのだ。

「ハイ、この紅茶美味しそうだよ」

 少女がしゃがみ込み、ソーサーに置かれたカップを手にとった。ダージリンの香りが心地よいのか、彼女はうっとりとネコミミを伏せる。そのまま少女は、カップに口をつけた。

「飲むなって……」

 少年が、少女の頭を思いっきり叩いた。ばしりと、小気味良い音があたりに響き渡る。

 少女はカップを落としてしまう。カップはシートの上に落ち、中に入っていたダージリンがシーツを茶色く汚した。

「痛い! 酷いよ、ハイ!」

「よしよし……。痛いの、飛んでげ……」

 少女が涙ぐんだ瞳で少年を睨みつける。少年は眠たそうな三白眼を少女に向け、彼女の頭を撫でた。少女は心地よさげにネコミミをたらし、喉をごろごろと鳴らし始めた。

 ――ハルの紅茶に何してくれるんだ。もう、いい加減にしろ!

 そう、叫びたいのをこらえ、ソウタは2人を睨みつける。

 見つかるわけにはいかない。歌の練習を邪魔されるかもしれないからだ。

 特異な存在であるケットシーを差別する人間もいる。早朝に練習をおこなっているのも、そういった人間からの嫌がらせを避けるためだ。

「あの子たち、いつも制服着てる」

 ハルが、ぽつりと呟いた。

 驚いて、ソウタはハルを見つめる。ネコミミをゆらし、彼女は興味深そうに2人を見ていた。

 2人は島の学園の制服を着ている。円卓公園を散策してから、港の側にある学園へ行くつもりなのだろう。瞳を綻ばせ、ハルは2人のやりとりを観察していた。

 ハルはいつも、2人の様子を楽しそうに眺めているのだ。嬉しそうなハルを見て、悲しくなったソウタはネコミミを伏せる。

 早朝練習を行う理由が、もう1つある。

 同年代の子供たちに、ソウタとハルは会いたくないのだ。

 同い年の子供、それも学園へ通えるような普通の子たちに会いたくない。彼らにいじめられるかもしれないから。

 ハルが不安がって口にした言葉だ。

 ソウタも常若島に越してくるまで、本島の学園でケットシーであることを理由にいじめられていた。

 子供ほど純粋に、自分たちが怯えているものを差別するものはない。彼らはソウタの能力を恐がり、ソウタを化物と罵ることすらあった。

 だからこそソウタは、ハルの気持ちが痛いほどわかる。

 それなのに、ハルは学園に通っている彼らに強い関心を示す。自分を裏切るようなハルの気持ちが、ソウタにはわかない。

 ハルは学園に行ったことがないという。代わりに、住み込みの家庭教師が色々と教えてくれると話していた。それで正解だ。学園になんて、自分たちは行かないほうがいい。

 本島の学園で、ソウタはいじめっ子たちとトラブルを起こしては、義姉のミミコに迷惑をかけていた。そんなミミコのことも、彼らは侮辱したのだ。

 化物の家族と。

 それが嫌で、学園には行かなくなった。

「もう、いっちゃうのかな……?」

 ハルが寂しげに呟く。その声を聞いて、ソウタは回顧をやめた。

 腕の中のハルは、相変わらず2人を見つめている。

 ソウタも、2人の様子が気になって地面へと視線をやった。少年が嫌がる少女の手を引っ張っている。

「ほら、遅れちゃうからいくよ……」

「やだー! 幽霊探すの!」

「てぃっ」

「ぐふっ!」

 少年は少女の腹部に思いっきり手刀を叩き込む。少女は大きく呻き、がくりと地面に膝をついた。少年はぐったりとした少女を背中に担ぐ。ずるずると少女の足を引きずりながら、彼は灰猫の桜から遠ざかっていった。

 ハルは瞳をゆらし、名残惜しそうに去っていく2人を視線で追う。彼らがいなくなると、ぺたんと寂しそうにネコミミを伏せる。

 だが、彼女は思い直したようにネコミミをぷるぷると振った。よしっと気合を入れて、ハルはソウタを見あげてくる。

「ソウタくん、私、重くない?」

「えっ?」

 ハルは心配そうに瞳をゆらしてくる。ソウタは、彼女が何を言っているのかよく分からなかった。

 言葉をかけられ、改めて腕の中のハルを意識する。

 ハルがこくりと首を動かした。彼女の銀髪が首筋を流れ、白いうなじが顕になる。

 ハルのうなじからは、桜の香りがほんのりとした。その香りがソウタの鼻腔をくすぐる。甘い香りに、酔ってしまいそうだ。

 腕に広がるハルの温もりが心地よい。ずっとハルを、抱きしめていたい。

「あっ……」

 かぁっと顔を紅潮させ、ソウタは声を発していた。

 仕方がないとはいえ、無自覚にハルを抱きしめていた自分が恥ずかしかった。

 心臓が煩い。その音を聞かれたくなくて、ソウタはハルを自分の隣に降ろしていた。

 ハルがよろめき、梢がゆれる。

 ソウタはとっさにハルの手を握っていた。そのまま彼女をひっぱり、胸元へと引き寄せる。

「危ないよ、ハル……」

 また、ハルの香りが鼻腔をくすぐってくる。心臓がばくばくと音をたててしまう。それなのに、ハルは無邪気に瞳を綻ばせ、自分を見あげてきた。

 喜びに煌く瞳を見て、また心臓が高鳴ってしまう。

「凄いね。ソウタくん」

「えっ?」

「だって、こんな高いところまで、ぽーんて、跳んじゃうんだもん。それで、いつも見つからないで助かってるし」

「そう……かな」

 ハルの言葉に、心臓がざわついた音をたてた。

 ハルの笑顔を見たくない。

 ソウタは彼女から顔を逸らす。ネコミミについた鈴が苛立ったよう鳴った。その音を聞いて、ハルは怯えたようにうつむいてしまう。

「ごめん……なさい」

 上擦った声でハルは謝ってくる。彼女はネコミミを震わせ、うつむいたまま顔をあげようとしない。悪気がないことは分かっているが、ソウタはハルと視線を合わせることができなかった。

 この能力ほど、忌まわしいものはない。

 ケットシーとして、ソウタは異常なほど発達した脚力を手に入れた。

 ウイルス感染者は強い願望を抱くことで、ケットシーになるという。義母であるサツキの死に立ち会えなかった後悔が、ソウタをケットシーにした。

 けれど、こんな能力を手に入れて何の役に立つだろう。

 ソウタにとって自分の能力は、後悔を思い起こすものでしかない。

 海風が西から吹きつけてくる。ハルが顔をあげて、風の吹く方向を見つめた。

 公園のすみに植えられた桜たち。それが蕾のついた枝を大きくゆらしている。

 枝の背後には、白い常若町並みが島の斜面に沿って広がっていた。町の背後には、海が広がり、その彼方に巨大な壁が聳そびえ立っている。

 霞がかった壁の向こう側には、崩れかかった高層ビルの群れと巨大な鉄塔が建っていた。

 鉄塔は昔トウキョウタワーと呼ばれ、ニホン国の首都であったトウキョウのシンボルだったそうだ。

 ここから見える巨大な壁は、本島に聳えるものだ。

 壁は、箱庭地区全体を取り囲んでいる。箱庭はウイルス感染者を隔離し、治療するためにつくられた場所だ。壁は、そんな感染者を外へ逃がさないためにつくられた。

 壁の外では、ネコミミを持たない人間たちが今なお暮らしている。

 かつては箱庭にいる感染者の子孫以外、人類は絶滅したと考えられていた。

 だが、生き残っている人々が外の世界にいた。

 驚くべきことに外の世界の人間は、ウイルスに対する抵抗性を生まれつき持っている。ウイルスに抵抗力を持つ個体が人類の中に一定数存在し、その人々が生き残ることに成功したのだ。

 ミミコの夫である、ユウタがそう教えてくれた。

 マブに勤める義兄の仕事は箱庭の外を探索し、そこに生きる人々を調べることだ。彼はよく外の世界のことを話してくれる。その話の中に奇妙ものがあったことを思い出し、ソウタは口を開いていた。

「ねぇハル、『300人委員会』って知ってる?」

「旧文明時代にあった秘密結社……だよね。あんまりよく知らないけど、箱庭01地区ロンドンに本拠地があったんだっけ?」

「外の世界の人たちの中には、こう考えている人たちもいるんだって。キャットイヤーウイルスは、その秘密結社が造ったナノマシンで、ナノマシンは人類を次の段階に進化させるためのものだって。箱庭は、ナノマシンに選ばれた人間だけが住める理想郷なんだって」

 ユウタは、こんなことも教えてくれた。

 外の世界にいる人たちは箱庭の住人をネコミミと呼び、人間とは思っていないと。ソウタたち箱庭の住人も、外の世界の人間たちを違う人種とみなしている。

 箱庭の住人は母体にいる時点で、キャットイヤーウイルスのワクチンを摂取させられる。そうしなければ胎児はウイルスへの抵抗を持てず、生まれた時点で死んでしまうからだ。

 ワクチンにより弱いウイルスに感染して抵抗力を持った赤ん坊には、その証としてネコミミが生える。

 だが、外の人間たちはウイルスへの抵抗力を生まれつき持っている。ワクチンを接種する必要がない彼らは、ネコミミも持っていない。

 そんな人々が、自分たちと同じ人間だとソウタは思えない。

 考えてしまう。ウイルスに殺されない彼らこそ、本当の意味での選民ではないかと。

 だって彼らはウイルスに殺されることも、ケットシーになって差別されることもないのだ。

「ここって、理想郷なのかな? でも私、壁を見てるとね、ここが牢獄みたいに思えるの。閉じ込められてるみたいで、気持ちが悪くなる……」

 ハルの言葉で我に返る。ソウタは彼女に視線をやった。

 ハルは海に聳える壁を見つめていた。壁を見つめたまま、彼女は言葉を続ける。

「あのね、ソウタくん。私の義母さんは、壁の向こう側から来たんだって。あのトウキョウタワーに住んでたって、小さい頃、義母さんが教えてくれた」

 暗い気持ちを振り切るように、ハルは声を弾ませる。彼女は瞳を綻ばせ、壁の向こうに聳えるトウキョウタワーを指差した。

「ハルのお母さんが?」

 ハルの言葉にソウタは声をあげていた。

 トウキョウタワーに人が住んでいることは、ユウタから聞いて知っている。

 だが、ハルの母親がそうであるという事実に、ソウタは驚きを隠せなかった。

 外の世界ではまれに、ウイルスに抵抗を持たない人間が生まれることがあるという。

 大抵の場合は生まれてすぐに死んでしまうが、箱庭の支援により生き延びる子供もいる。

 ハルの母親も、そんな子供の1人だったのだ。

 ハルはソウタに向き直り、嬉しそうに笑ってみせる。視線をトウキョウタワーに戻し、彼女は言葉を続けた。

「塔にはね、たくさんの小さなお家が括りつけられてるんだって。塔を形作ってる鉄筋を道がわりに利用してて、手動のエレベーターとか、ロープで移動する場所もあるんだって。

塔のてっぺんに登ると、壁の向こう側にある箱庭地区が見えて、お義母はずっと箱庭地区に来るのが夢だったんだって。

だから、ここに私はいるんだよって……笑いながら話してくれた。行ってみたいな、お義母さんの故郷……。でも、無理だよね。私、ケットシーだもん……ここに一生閉じ込められたまま。ずっと、ずっと……ここで生きて、ここで死ぬの」

 ちりんと鈴を鳴らし、彼女はネコミミを伏せる。ハルの瞳は悲しげな影を落としていた。

 その瞳を見て、ソウタの心臓が高鳴る。ハルが、自分と同じことを考えていたからだ。

 ケットシーが壁外に行くことは生涯ない。ケットシーのウイルスは変異しており、それを抑える薬を処方しなければ、生きることさえできないからだ。

 理由を知っていても、壁を見ていると奇妙な閉塞感を覚えてしまう。まるで閉じ込められているような、そんな気がしてしまうのだ。

 学園に行ったことがないと、ハルは寂しげに話してくれたことがある。

 彼女は、悲しげな瞳で遠くにある壁を見つめていた。

 学園に行くことさえ出来ない自分の境涯を、壁の閉塞感と重ねるように。

 噂をたしかめにくる2人組を、ハルはいつも羨ましそうに見つめている。

 そんなハルの瞳は、どこか寂しそうで苦しげなのだ。

 悲しげなハルを見ていると、心臓が苦しく鼓動するのはなぜだろう。そんなハルを見つめていると、サツキを喪った悲しみがありありと蘇ってくる。

 サツキが死んだときのように、何もできないのはもう嫌だ。

 せめて、ハルにはいつも笑っていて欲しい。

「ねぇ、ハル。あの2人に会ってみたい?」

 気がつくと、ハルに問いかけていた。

 ハルは瞳を大きく見開いて、ソウタをじっと見つめてくる。

 彼女のネコミミについた鈴が、可憐な音をたてた。


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