四章:ロックアップ

第十九話:眞琴奔走

 しかしながら、当日の朝になってもまだ、翔一郞は身の振り方を定めなかった。

 周囲からのハラハラした視線など、まったくもってどこ吹く風。

 主役の片割れが旗色を鮮明にしないまま、虚しく時間だけが経過していく。

 にもかかわらず、巷では、バトルの実施がすでに確定事項として捉えられるようなっていた。

 それは、どこからか情報を聞きつけた連中が手前勝手に話を広げ続けた、その結果によるものであった。

 八神街道下りのタイトルホルダーが幻想の狼ミッドナイトウルブスに挑む!

 SNS等で噂に接した界隈の数寄者どもは、たちまちのうちに色めき立った。

 果たしてどっちが上なんだ?

 現実リアルか!?

 伝説レジェンドか!?

 それはまさしく、降ってわいたような大一番だった。

 片や、八神街道のレコードタイム、四分二十六秒〇三の記録を持つ、地元屈指の「ランエボ使い」

 片や、エリア最速との呼び声も高い、あの芹沢聡を手玉に取った、音に聞こえし「路上の魔術師マジシャン

 下馬評におけるオッズではほぼ互角。

 いや、数字に残る実績がある分、若干ではあるが現役王者が優勢か。

 そんなふたりの走り屋の、持てるすべてが見定められる、問答無用の実力測定。

 その日、その時、その瞬間が刻一刻と近付くにつれ、こんこんと湛えられた期待感は、徐々にその水位を高めつつあった。

 だからこそである。

 この段階に至って勝負のステージを降りるという行為は、彼らからして見ると到底許されるものではなかった。

 もし皆が納得できる理由なしにそんな決断を下したとしたら、その者は一夜にして、「走り屋」としての命脈を絶たれることになるだろう。

 無様な敵前逃亡を笑って見過ごしてくれるほど、夜の峠というものは甘い世界でないからだ。

 もっとも、自身の存在を「走り屋ではない」と言い切るいまの翔一郞にとって、そういった風潮はむしろ歓迎すべきものであった。

 たとえ走り屋として再起不能の立場に追いやられたとしても、その結果はいち社会人としての彼に対して、なんの不利益をももたらさない。

 所詮走り屋などという生き物は、マイナーな空間にひっそりと生息する絶滅危惧種のひとつに過ぎないのだ。

 そんな集団から永久排除されたところで、翔一郞のような一般市民がいったいどれほどのダメージを被るというのか?

 むしろルール違反の暴走行為が発覚した際の法的ペナルティを恐れることこそが、常人としてまっとうな感覚なのではあるまいか?

 そう頭を冷やして考えてみると、彼の取った態度の裏には、明らかに納得できる理があった。

 走り屋としていかに受け入れがたくとも、そこには間違いなく一般人としての良識があった。

 その現実を否定することは、おそらく誰にもできはしまい。

 だがその一方で、先に二階堂が語ったように、「八神の魔術師」「ミッドナイトウルブスのミブロー」という肩書きは、もはや彼ひとりの所有物とは言えないものとなっていた。

 非日常に半身を突っ込んでいる一部の者たちにとって、その名はある意味、発掘された聖遺物にすら近かった。

 宗教的熱血。

 それが「信者たち」に与えた衝動をあえて別の言葉に例えるのなら、その表現こそが何より相応しいと思われた。

 あたりまえだが、まともな理屈などというものは、そこにひと欠片とて存在しない。

 そしてそれゆえに、彼らの取った行動は迅速にして徹底的だった。

 自らの「信仰」を守らんとする、ちっぽけな箱庭の中のちっぽけな聖戦。

 この時眞琴が受け持っていたのは、そんな聖戦士クルセイダーズとしての立場の、文字どおり最先鋒の役割だった。

 立ち会いに敗れるということは、確かに残念なことではあるけれど、まだ十分に受け入れられる結末だ──彼女はそう思いながら、ここ数日を過ごしていた。

 頑迷な「魔術師」に対する執拗な説得を繰り返しながら、おのれの中でエゴイスティックな理論武装を積み重ねていく。

 敗北というものは、所詮自分の実力不足が招いた結果、そのひとつに過ぎない。

 でもそれは、敗者から勝者へ、そしてこれからあとに続くの者たちへきちんとバトンが受け渡されるという儀礼的な筋道に通じる。

 だからこそ、誰とも戦わずに黙ってベルトを返上するというのは、卑怯な行いに違いない。

 それは、必死に伝説を目指し全力でそれを超えようとあがいてきた者たちに対する密かな侮辱とイコールだ。

 あの日、「弾丸野郎バレットクラブ」が語った内容に、嘘偽りなどどこにもない。

 そう。

 勝者には、戦い続ける義務がある。

 なぜならそれが、おのれがこれまで打ち破ってきた者たちに対する最低限の敬意にほかならないからだ。

 いつものように寝床の中の兄貴分を強襲し、眞琴は、構築されたおのれの主張を自分の言葉で叩き付けた。

 この男を、なんとしてでも闘いのステージへと送り込む。

 断じて、その名声を地に落としたりなどさせはしない。

 あたかも、それこそが我に与えられた責務なのだと言いたげに、少女は身体ごと翔一郞に迫った。

 揺らぐことない情熱が、彼女の瞳にきらきらとした輝きを与えている。

 もしこれが普通の男であったなら、この圧力に耐えきることは、はなはだ難しいことであっただろう。

 年若く見目麗しい娘からの真っ直ぐな要求。

 よほどの事由がない限り、これを拒める唐変木など、さほどの数には及ぶまい。

 しかし残念なことに、翔一郞はそんな少数派に籍を置くひとりだった。

 この日も彼は、眞琴の言葉に耳を貸そうとしなかった。

 起床とともに顔を合わせた、精気あふれる妹分。

 その存在を「おまえは二階堂あいつの代理人か?」というひと言の下に追い出して、面会謝絶を言い渡す。

 眞琴の眼前で、音を立てて扉が閉まった。

 これではまるで「天の岩戸」だ。

 「この、わからず屋~ッ!」と、ポニテの少女が地団駄を踏む。

 だが同時に彼女は、無理強いがこの男にとって反発の材料にしかならないことをもまた、過去の経験から十二分に理解していた。

 基本的に、壬生翔一郞とは頑固で石頭な人物なのだ。

 他人の意向で自分の行動を左右されることを好まない。

 戦略的撤退。

 ここはひとまず、引きの一手だ。

 吹き上がる憤りを数回の深呼吸で鎮め、眞琴はそのまま踵を返した。

 いまはこれが最良の選択なのだと、理性的に判断した結果であった。

 そんな彼女が異変に気付いたのは、午後の四時を少し回ったあたりのことだ。

 あろうことか、自室にこもっていたはずの翔一郞が、忽然とその姿をくらましたのである。

 時間をおいて再訪した「魔術師」の私室。

 眞琴は、その空っぽの室内を現認し、思わずあんぐりと口を開けた。

 まったく予想外だったこの展開に、しばし言葉が出てこない。

「まさか、本気で逃げ出したんじゃ……」

 かろうじて口が利けるようになるまで、たっぷり数秒の時間がかかった。

 されど、ひとたび我を取り戻した眞琴の動きは、まさに電光石火に等しかった。

 スカートのポケットからスマホを取り出し、すかさず個人リストを検索する。

 画面に呼び出されたのは言うまでもなく、彼女の兄貴分、壬生翔一郞の情報だ。

 彼女は、「翔兄ぃ」の名前で登録されたそのデータを迷うことなく選択し、間を置くことなく一気に通話を試みた。

 しかし、煙のごとく消え去った魔術師からの応答は、彼女の元へ一向にもたらされることがなかった。

 二度ふたたび三度みたびとかけ直そうとも、結果は同じことだった。

 メールに対する返信も、まったくもって梨のつぶてだ。

 この現実を前に、さすがの眞琴も顔を青冷めさせるよりほか道はなかった。

「まずいよ……」

 ぼそっと短く少女は呟く。

「まずいよ、まずい! これ、まずいなんてもんじゃないよ!」

 そして、大きくひと呼吸置いてのち、真っ赤になって絶叫した。

「あッの、莫迦兄貴ィーッ!」

 渾身の力で握りしめられた彼女のスマホが、みしりと不穏な音を立てる。

 その直後、脱兎のごとく階段を駆け下りた眞琴は、脇目も振らず自宅のガレージへと飛び込んだ。

 銀色のヘルメットを被りつつ、通学用のロードバイクに素早くまたがる。

 「ロスヴァイセ」の面々には、メールでもって現状を伝えた。

 細々とした折り合いは付けられなかったけれど、これであちらもあちらなりの行動を始めてくれるはずだ。

 彼女は瞬時にそう確信し、続いて自分自身の選択に取りかかった。

 時を経ずして、少女を乗せたトマトの赤ポモドロッソのロードバイクが、矢のような勢いで市道の上に飛び出していく。

 電話で連絡が取れない以上、あの男翔一郞を捕まえるには直接心当たりを巡るしかない。

 いささか短絡的ではあるが、それが眞琴の下した結論だった。

 カモシカのような両足でペダルを漕ぎ、ポニーテールを槍先の騎士旗バナレットのごとくなびかせて、彼女は市街の各所をしらみつぶしに走って回った。

 本屋。

 スポーツジム。

 車両用品店。

 壬生翔一郞の立ち寄りそうな近隣の場所。

 その思い当たるをことごとく、眞琴のロードバイクが疾風のごとくに奔走する。

 されど、成果はまったく得られなかった。

 息を切らせた彼女がようやくのことで自宅前に戻ってきた時、時計の針は、間もなく午後十時を指し示そうとしていた。

 街灯が光を注ぐアスファルトの上から、眞琴はおもむろに翔一郞の部屋を見上げる。

 もしかしたら、自分が外出している間にあの男がこっそり舞い戻っているかも知れない──そんな期待が、その胸中に湧き上がってきたからだ。

 だが、室内の灯りはまったく点されていなかった。

 もちろん、暗闇を隔てるガラス窓の向こうに人のいる気配などさらさらない。

 猫の入れられた箱のふたは、この時、見事に開け放たれた。

 やはり翔一郞は、いまだ帰宅を果たしていないのだ。

 例えようのない疲労感が、そのことを知った少女の背中を押し潰した。

「も~、何やってんだろ、あのひと……」

 深々としたため息に続き、恨み口調で眞琴はぼやく。

 実のところ、月極駐車場に「レガシィ」の姿がなかったことから、それ自体はすでに予測された事実以外の何物でもなかった。

 にもかかわらず彼女がそんな感覚に襲われたのは、打つ手なしを悟ったゆえの本能的な無力感からだった。

 状況が若干の変化を見せたのは、それから一分も経たないうちのことだ。

 緑色の「スターレット・グランツァ」が、少女の目の前でおもむろにその足を止めたのである。

 「見付かった?」という確認の言葉とともに、運転席から黒髪ロングの女性が降り立つ。

 それは、チーム「ロスヴァイセ」のメンバー、長瀬純そのひとであった。

「全然です」

 ヘッドライトの中の眞琴が、諦めたようにそう応じた。

「どこに行ってもまるで手掛かりなし。このままじゃあ、今夜のバトルになんてとても間に合いっこないですよ」

「なんか本気でバトル嫌がってる感じだったしね、あのひと」

 腕組みしながら純は言った。

 あからさまな呆れ顔が、その相好を支配する。

「普通さ、あれだけのテク持ってたりなんかしたら、それを誇らないなんてありえないわよねェ。眞琴ちゃん、壬生さんのあの態度に何か思い当たる理由ってあったりする?」

「それがさっぱり」

 眞琴は首を横に振った。

「でも、もともと頑固で保守的な性格のひとだから、そういうのの絡みかなって思ってます」

「そっかァ。よく考えれば、あたしらとはまるっきりひと世代違うひとだもんね。あれっくらい頭固いのも仕方ないことかァ」

「翔兄ぃって、根っこの部分でホント面倒臭がりのオジサンなんですよ」

「わかる。特に役場の公務員ってさ、ひとり残らずそんな感じだもんね」

 ロードバイクをガレージに収めた眞琴が「スターレット」の助手席に転がり込んだのは、それから間もなくのことである。

 さすがにもうこんな時間だ。

 これ以上捜索活動を続けるのなら、女子高生の単独行動は防犯上もよろしくない。

 どうしてもやりたいのなら、最後まで付き合ってあげるから自分のクルマに乗りなさい。

 そんな純からの申し出を、彼女が素直に受け入れたゆえである。

「リンさんは?」

先輩加奈子とふたりで八神街道のほうに行ってる」

 眞琴の問いに純は答えた。

「結構大きな話になってるみたいよ、今夜のバトル。二階堂本人はまだ来てないけど、ギャラリーみたいな連中がもうそこかしこに陣取ってるって」

「そうですか」

 しゅんと肩を落として眞琴が言った。

「これで翔兄ぃが現れなかったら、きっと非難轟々でしょうね」

「でも、眞琴ちゃんはそうさせたくないんでしょ」

 純の口調はどこか叱責に近かった。

「正直言って、眞琴ちゃんがなんであのひと翔一郞にそこまでこだわるのかはわかんないけどさ。いったんそれにこだわるって決めたのなら、最後までポジティブを貫かなくっちゃ駄目だよ」

「純さん……」

「あたしみたいに脳天気なレベルなのは論外だけどさ。眞琴ちゃんの場合、エブリデイエブリタイム明るく前向きっていう性格は自信持っていいセールスポイントなんだから、いまみたいにネガティブな顔見せちゃ絶対に駄目。悪い予感が当たりそうになった時こそね、うまくいった未来だけ見て行動するの。わかった?」

「ありがとうございます」

 少女の声音に精気が戻る。

「ボク、いまの言葉忘れません」

「こんなのは、看護師としてのエッセンシャルよ。場合によっちゃあ、ひとの生き死にに向き合う立場の職業だもの。わざわざ褒められるほどの台詞じゃないわ」

 予期せぬ敬意を向けられた純が、眞琴の言を突き放した。

 それは、紛うことなき照れ隠しだった。

 少女に顔を向けることなく、咄嗟に話題を切り替える。

「とりあえず、まだ行ってない場所をこれから回ってみましょ」

 ベルトを締めつつ彼女は言った。

「壬生さんがクルマで出かけてるっていうんなら、ひとまずはクルマで行けそうなところってのが優先条件ね」

「そう簡単に言われても、大概の場所はとっくに回ってみたんですよ」

 その進言に眞琴が応える。

「これ以上思い当たる場所なんてボクには……」

「『エム・スポーツ』は回ってみた?」

「『エム・スポーツ』って、リンさんの務めてるお店ですか?」

「そ。ドライビングプレジャー『エム・スポーツ』 どうせリンがいるからって、最初から候補に入れてなかったんでしょ? どう? 違って?」

 畳みかけるような決めつけを、少女は素直に肯定した。

 「思い浮かべてもみませんでした」というその答えに、我が意を得たりと純が頷く。

 とどめを刺すべく彼女は言った。

「だったら行ってみるべきよ。いまなら通報役のリンもいないし、身を隠すとしたらまさにベストな場所じゃない。あのの話だとさ、どうもあそこの店長と壬生さんとはむかし馴染みの間柄らしいし、もしかしたら、いまごろそこでとぐろ巻いてたりするかもよ」

「だけど、もうこんな時間午後十時ですよ。さすがにお店開けてるとはとても……」

「あーもう。うざったいなァ!」

 純が愛車のクラッチをつなげたのは、その瞬間の出来事だった。

「そんなの、行ってみなくちゃわかんないじゃない! デモデモダッテで、いったい何が始まるってのよ!」

 慌ててベルトに手を伸ばすポニテの少女をそのままに、彼女の操る「スターレット・グランツァ」は、タイヤを鳴らし夜の市街地へと飛び出していった。

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